BearLog PART2

暇な中年の独り言です

能楽事始 その二

 謡本を見ながら、立って腹から声を出す。先生がおっしゃるには、「やや高めの方がよい」とのこと。とくに「かますときには高い音で謡った方がよい」とのことであった。この「かます」という語感がすごく素敵に響く。

 さて、次は「舞」の方である。
「日本舞踊は『踊る』と言いますが、能は『舞う』です。間違えないで下さい」
 とは先生の注釈である。
 なるほど、『踊る』と『舞う』は違うのだということを生まれて初めて認識し、腹の底から、「なるほど〜」というかんじであった。如何に自分が無知であることか。如何に自分が日本固有の文化のことを知らないか。ということを改めて認識する。
 そりゃそうだ。高校のとき、古典は「2」だったしな笑 百人一首をいやいや覚えさせられて辟易したなあ、などと大昔のことをつらつら思い出すが、まさに後の祭。少年老いやすく学成り難し、一寸の光陰かろんずべからず。ということなのだなあと五十になって実感する、阿呆な私、であった。
 それはともかく。
「舞台には左足から入ってください」
 と、先生。そう。日本では、右よりも左、なのだ。右大臣よりも左大臣が偉いし。ということも、この日に知ったのである。本当に不勉強な私。
 足袋を履いた足で、まさに左足から舞台に足を踏み入れる。四方に柱が立っている。何で柱があるんだろうと、常々不思議に思っていたのだが、それはそれでその役割を後で知ることになるので、今はそれを書き記すことはやめておこう。

 まず最初にやったことは「すり足」である。能では、足の動きを「運び」と言う。
 まずはすり足なのだ。
 すり足をするとき、膝と足首を少しだけ曲げ、体を少し落とすかんじ。これが西洋的なものにはない動きのような気がする。すり足のイメージはまさに「ナンバ歩き」。ねじらずひねらず、上下動もなく、すっと歩く。
 上半身を動かさずに、足だけ動かす。足は左右の足袋がこすれるくらいにぴったりと、かつすっと出す。出すときに踵は床につけたままで、軽く爪先を上げる。先生の歩き方は、やはり無駄なく美しい。頭の上下動なんか、まったくない。すっすっと上半身がぶれずに、しっかり前に動いていく。
「足袋が擦れる音だけが聞こえるように」
 と、先生の声が聞こえるが、これがなかなか、簡単なようでいて難しい。
 う〜む。と思った。
 これだよ、これ。と思った。
 自分が目指しているのは、こういうものなんだと思った、というか悟った。
 自分は育ちが悪いので、動きから言葉遣いまで、何でもガサツだ。自分としては、日頃の所作ひとつひとつをしっかり丁寧に美しいものにしたい。という願望だけはあったのだが、その願望を具現化するには、どうしたらいいのかが全くもって分からなかった。しかし、「能楽」という長い長い歴史を持つ動きを会得することによって、ガサツで見苦しい自分の所作が少しでもマシになるような、そんな気がした瞬間だった。
 いやはや、面白い。

 参加者全員で一列になり、前の人の肩に両手をのせて、下を見ないでずっとすり足で歩くという練習もやった。
 後に、この歩行練習はさらに洗練されて、ハンガーや棒を両手でもって、先生に引っ張られていく、というすり足練習に変わっていった。このとき、引っ張られてから、その引っ張られる力を感じてから、足をおもむろにすっと前に出すというところがミソで、この「引っ張られる」感じと両手でハンガーや棒を持っている感じを意識すると、俄然、すり足のときの体の動き方が分かってくる。粟谷先生の教授法も我々初心者が分かりやすいように、日々更新されているのだ。

 いやはや、粟谷先生のご指導で、能楽が取っ付き難いものではないという、よい刷り込みが自分になされた気がする。
 取っ付き難くはない。
 しかし、奥は深いのだ。
 そこが何だか堪らなく面白いのであった。
 とういうことで、「その三」に続きます。