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2016-11-23-水

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万葉集試訳

1176 【承前,九十十六。】

 夏麻引 海上滷乃 奧洲爾 鳥者簀竹跡 君者音文不為

 夏麻引(なつそび)く 海上潟(うなかみがた)の 沖渚(おきつす)に 鳥(とり)は集(すだ)けど 君(きみ)は音(おと)も為(せ)ず

 夏麻根引兮 下總海上潟之間 沖瀛洲渚上 鳥者相集喧鼎沸 君卻杳然無音信

佚名 1176

「夏麻引(なつそび)く」,地名海上」、「宇奈比」與名詞「命」之枕詞。以抽絲織麻為言。

「鳥(とり)は集(すだ)けど」,「集(すだ)く」乃鳥類多集之狀,更有一齊發鳴之喻。於此與末句戀人音信杳然對照。

此與至第三句為止與3348同。


1177 【承前,九十十七。】

 若狹在 三方之海之 濱清美 伊徃變良比 見跡不飽可聞

 若狹(わかさ)なる 三方海(みかたのうみ)の 濱清(はまきよ)み い行歸(ゆきかへ)らひ 見(み)れど飽(あ)かぬかも

 北陸若狹坐 三方五湖之海矣 以彼濱清淨 徃歸再三反復見 觀翫幾度不飽厭

佚名 1177

三方海(みかたのうみ)」,若狹國三方郡三方五湖,或云五湖最南端三方湖,或云若狹灣沿岸

「い行歸(ゆきかへ)らひ」,「い行歸(ゆきかへ)る」之持續形,反復之意。

1178 【承前,九十十八。】

 印南野者 徃過奴良之 天傳 日笠浦 波立見【一云,思賀麻江者,許藝須疑奴良思。】

 印南野(いなみの)は 行過(ゆきす)ぎぬらし 天傳(あまづた)ふ 日笠浦(ひかさのうら)に 波立(なみた)てり見(み)ゆ【一云(またにいふ)、飾磨江(しかまえ)は、漕過(こぎす)ぎぬらし。】

 播磨印南野 既已徃過行去哉 渡空天傳兮 日笠之浦濤駭浪 洶湧之狀眼可見【一云,飾磨之江者,既已榜過漕去哉。】

佚名 1178

「天傳(あまづた)ふ」,用以修飾地名「日笠」中「日」字之枕詞

「日笠浦(ひかさのうら)」,播磨國日笠山南方海岸。較飾磨河口稍東。

本歌乃沿海路陸路西行之曲,而一云乃沿海路東行之作。


1179 【承前,九十十九。】

 家爾之弖 吾者將戀名 印南野乃 淺茅之上爾 照之月夜乎

 家(いへ)にして 我(あれ)は戀(こ)ひむな 印南野(いなみの)の 淺茅(あさぢ)が上(うへ)に 照(て)りし月夜(つくよ)を

 待吾歸故里 吾居家中將戀哉 播磨印南野 照臨淺茅原之上 晶瑩月夜誠難忘

佚名 1179

「淺茅(あさぢ)」,矮茅,稻科多年草

賞月翌朝,歸家之間所作。蓋神龜三年從幸印南所作。按『萬葉集』題詞,九月十五日出發,則到印南野蓋為十八日,月齡與曲有異。而按『續日本紀』則十月七日出發,十日著,十九日還幸難波宮,合於此歌之作。


1180 【承前,九十二十。】

 荒礒超 浪乎恐見 淡路嶋 不見哉將過去 幾許近乎

 荒磯越(ありそこ)す 波(なみ)を畏(かしこ)み 淡路島(あはぢしま) 見(み)ずか過(す)ぎなむ 幾許近(ここだちか)きを

 駭浪越荒磯 以恐其浪震滔天 未見淡路嶋 急趨輙過令人惜 分明相去未幾許

佚名 1180

「見(み)ずか過(す)ぎなむ」,此「見(み)る」非指遙望,而意指渡海至該處觀望。

「幾許近(ここだちか)きを」,此云相去甚近,確無緣翫賞之歎。

1181 【承前,九十廿一。】

 朝霞 不止輕引 龍田山 船出將為日 吾將戀香聞

 朝霞(あさかすみ) 止(や)まず棚引(たなび)く 龍田山(たつたやま) 舟出(ふなで)しなむ日(ひ) 我戀(あれこ)ひむ哉(かも)

 朝霞層湧出 棚引頂上無息日 大和龍田山 待至乘船將出日 吾當眷戀難捨哉

佚名 1181

「舟出(ふなで)しなむ日(ひ)」,原文諸本作「船出將為日者」,此按元曆校本刪者字。

1182 【承前,九十廿二。】

 海人小船 帆毳張流登 見左右荷 鞆之浦迴二 浪立有所見

 海人小舟(あまをぶね) 帆(ほ)かも張(は)れると 見(み)る迄(まで)に 鞆浦迴(とものうらみ)に 波立(なみた)てり見(み)ゆ

 海人白水郎 小舟揚帆之所如 見彼張一面 鞆之浦迴岸濱邊 濤天浪湧今可見

佚名 1182

「帆(ほ)かも張(は)れると」,上代之船雖有如遣唐使船般設有布帆者,然以竹編網代帆者占多數。又當時以船楫划水行進者,遠多於借風行進之帆船

本曲云高浪之形類於船帆。

1183 【承前,九十廿三。】

 好去而 亦還見六 大夫乃 手二卷持在 鞆之浦迴乎

 真幸(まさき)くて 亦還見(またかへりみ)む 大夫(ますらを)の 手(て)に卷持(まきも)てる 鞆浦迴(とものうらみ)を

 好去好來矣 願軍無恙再還見 人云大夫之 壯士之手所纏持 鞆之浦迴景奇勝

佚名 1183

「真幸(まさき)くて」,祈求對方平安無恙,原文「好去」多見於書翰之疇。

大夫(ますらを)の 手(て)に卷持(まきも)てる」,引出地名鞆浦之序。

「鞆(とも)」,射箭之際,纏於左手內側之革製防具,用以避免弦傷皮膚、釧傷於弦等。亦有借其所發之聲響威嚇敵方之效果。


1184 【承前,九十廿四。】

 鳥自物 海二浮居而 奧浪 驂乎聞者 數悲哭

 鳥(とり)じ物(もの) 海(うみ)に浮居(うきゐ)て 沖波(おきつなみ) 騷(さわ)くを聞(き)けば 數多悲(あまたかな)しも

 非鳥而似鳥 浮居海上載浮沉 今聞沖瀛浪 潮騷之聲繞耳樑 傷悲不絕從衷來

佚名 1184

「鳥(とり)じ物(もの)」,明明非鳥,卻貌如鳥般。此鳥乃指鴨等水鳥之類。

「海(うみ)に浮居(うきゐ)て」,乘船泊於水上

1185 【承前,九十廿五。】

 朝菜寸二 真梶榜出而 見乍來之 三津松原 浪越似所見

 朝凪(あさなぎ)に 真楫漕出(まかぢこぎで)て 見(み)つつ來(こ)し 三津松原(みつのまつばら) 波越(なみご)しに見(み)ゆ

 朝凪風靜時 貫以真楫榜出而 望見漕來之 難波御津松原 今越浪上遙可見

佚名 1185

「真楫漕出(まかぢこぎで)て」,使用船身兩側所有船槳全力划船。

「見(み)つつ來(こ)し」,出船之時,水手為與目標直近,將背對目標,選定與目標相反方向之標的,望之而划水。

三津松原(みつのまつばら)」,出發之時以為背向標的之難波三津,現今歸程之際復得越浪而見,難掩無恙歸港之喜。


1186 【承前,九十廿六。】

 朝入為流 海未通女等之 袖通 沾西衣 雖干跡不乾

 漁(あさり)する 海人娘子等(あまをとめら)が 袖通(そでとほ)り 濡(ぬ)れにし衣(ころも) 干(ほ)せど乾(かわ)かず

 討海漁獵之 海人娘子少女等 霑衣通袖濕 所濡衣衫每水漬 縱雖干之總不乾

佚名 1186

「漁(あさり)する」,海人潛水採集貝類

「干(ほ)せど乾(かわ)かず」,「干(ほ)す」表焚火烘烤,欲令衣物乾燥旅人同情海女生活之作。

1187 【承前,九十廿七。】

 網引為 海子哉見 飽浦 清荒礒 見來吾

 網引(あびき)する 海人(あま)とか見(み)らむ 飽浦(あくのうら)の 清荒磯(きよきありそ)を 見(み)に來(こ)し我(われ)を

 他人之所見 蓋思曳網海人哉 所以在此者 來見飽浦清荒磯 翫景駐足吾是也

佚名 1187

 右一首,柿本朝臣人麻呂之歌集出。

「網引(あびき)」,「網引(あみびき)」之略。蓋以拖曳網捕魚之類。

海人(あま)とか見(み)らむ」,看在他人眼中,蓋被視作海人哉。當時以為肉體勞動者較為卑微,而作者寔為公家官人。原文「海子」不見於漢籍,屬和製漢語

1188 【承前,九十廿八。】

 山超而 遠津之濱之 石管自 迄吾來 含而有待

 山越(やまこ)えて 遠津濱(とほつのはま)の 岩躑躅(いはつつじ) 我(わ)が來(く)る迄(まで)に 含(ふふ)みて在待(ありま)て

 翻山越嶺兮 遠津之濱岩躑躅 岩躑躅也者 直至吾來再臨間 願仍含苞待我還

佚名 1188

山越(やまこ)えて」,地名「遠津」之枕詞。採越山遠行之意。

「遠津濱(とほつのはま)」,所在未詳。

「岩躑躅(いはつつじ)」,石躑躅、羊躑躅。自生山野,或植於庭園之長冂稾據2嵜淡紫。

「含(ふふ)みて在待(ありま)て」,「含み」之本意乃含於口中不嚥下,而此作花朵含苞待放解。「在(あり)」表狀態持續。

1189 【承前,九十廿九。】

 大海爾 荒莫吹 四長鳥 居名之湖爾 舟泊左右手

 大海(おほきうみ)に 嵐莫吹(あらしなふ)きそ 息長鳥(しながどり) 豬名湊(ゐなのみなと)に 舟泊(ふねは)つる迄(まで)

 滄溟大海間 還願狂嵐莫拂矣 相率息長鳥 直至船著豬名湊 吾泊此舟駐岸邊

藤原房前 1189

「息長鳥(しながどり)」,修飾地名「豬名」之枕詞

1190 【承前九十三十。】

 舟盡 可志振立而 廬利為 名子江乃濱邊 過不勝鳧

 船泊(ふねは)てて 枷振立(かしふりた)てて 廬為(いほりせ)む 名子江濱邊(なごえのはま)へ 過克(すぎかて)ぬかも

 泊船駐岸留 振立枷杭繫綱停 假廬宿於此 名子之江美濱邊 不得輙過欲流連

藤原房前 1190

「枷振立(かしふりた)てて」,「枷(かし)」乃用以繫留船舶之杭。多用對水有腐蝕耐性之松製成。「振立(ふりた)て」乃為將杭深差土沙之中,搖動振盪之狀。

「廬為(いほりせ)む」,廬自本意權作小屋居之,此為乘船泊於水上

「過克(すぎかて)ぬかも」,無法不顧美景逕自通過不駐足。

1191 【承前,九十卅一。】

 妹門 出入乃河之 鸞見 吾馬爪衝 家思良下

 妹(いも)が門(かど) 出入川(いでいりのかは)の (せ)を速(はや)み 我(あ)が馬躓(うまつまづ)く 家思(いへおも)ふらしも

 親親吾妻門 出入之川湍鶺沺{馬躓不前 蓋是家人念吾歸 掛心不願吾行遠

藤原房前 1191

「妹(いも)が門(かど) 出入川(いでいりのかは)の」,或云「妹が門」為「出入川」之枕詞,或云「妹が門出」為「入川」之枕詞。皆未詳所在

「家思(いへおも)ふらしも」,此「家」指家人,留居家中之妻子。古俗以為,羈旅之間,乘馬躓步者,乃家人擔心己身之兆。

1192 【承前,九十卅二。】

 白栲爾 丹保布信土之 山川爾 吾馬難 家戀良下

 白栲(しろたへ)に 匂(にほ)ふ真土(まつち)の 山川(やまがは)に 我(あ)が馬滯(うまなづ)む 家戀(いへこ)ふらしも

 白栲之所如 含光真土山川間 乘馬滯不前 蓋是家人慕吾歸 掛心不願吾行遠

藤原房前 1192

「白栲(しろたへ)に 匂(にほ)ふ」,「匂(にほ)ふ」乃顏色發散之貌,本指赤色而此處指白光。

「我(あ)が馬滯(うまなづ)む」,「滯(なづ)む」為難涉之意。

1193 【承前,九十卅三。】

 勢能山爾 直向 妹之山 事聽屋毛 打橋渡

 背山(せのやま)に 直(ただ)に向(むか)へる 妹山(いものやま) 事許(ことゆる)せやも 打橋渡(うちはしわた)す

 蓋與勢能山 兄背之山直向之 妻妹之山者 許事聽聞所諾乎 今渡打橋船岡山

藤原房前 1193

「事許(ことゆる)せやも」,許諾、聽聞、皆授對方(兄背山)所言。

「打橋渡(うちはしわた)す」,打橋乃容易拆卸之簡易搭設之橋。古代訪妻制,女方皆受男方求愛,則設打橋方便越渡。

按「紀伊国桛田荘絵図」,妹山、兄山相隔紀伊川,而川中之島船岡山居其間。作者蓋以打橋擬船岡山而作此歌。

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2016-11-15-火

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万葉集試訳

1152 【承前,廿一十三。】

 梶之音曾 髣髴為鳴 海末通女 奧藻苅爾 舟出為等思母【一云,暮去者,梶之音為奈利。】

 楫音(かぢのおと)そ 彷彿(ほのか)にすなる 海人娘子(あまをとめ) 沖藻刈(おきつもか)りに 舟出(ふなで)すらしも【一云(またにいふ)、夕去(ゆふさ)れば、楫音(かぢのおと)す也(なり)。】

 船楫梶音聲 彷彿之間猶可聞 海人娘子矣 為刈沖藻取海幸 榜船出舟入瀛哉【一云,時值夕暮時,船梶之音猶可聞。】

佚名 1152

彷彿(ほのか)にすなる」,「彷彿(ほのか)」乃表迷濛可見、依稀可聞之副詞。原文「髣髴」乃多用於『昭明文選』之漢語。「す」乃さ變動詞終止形,「なり」表傳聞推定


1153 【承前,廿一十四。】

 住吉之 名兒之濱邊爾 馬立而 玉拾之久 常不所忘

 住吉(すみのえ)の 名兒濱邊(なごのはまへ)に 馬立(うまた)てて 玉拾(たまひり)ひしく 常忘(つねわす)らえず

 墨江住吉之 名兒濱邊駐馬停 下馬而拾玉 其事其景常留心 歷久不忘存所念

佚名 1153

「名兒濱邊(なごのはまへ)」,所在未詳。

馬立(うまた)てて」,下馬而令馬駐足。

1154 【承前,廿一十五。】

 雨者零 借廬者作 何暇爾 吾兒之鹽干爾 玉者將拾

 雨(あめ)は降(ふ)る 假廬(かりほ)は作(つく)る 何時間(いつのま)に 吾兒潮干(あごのしほひ)に 玉(たま)は拾(ひり)はむ

 為避雨零者 權設假廬以宿身 何時之間乎 身居吾兒潮干瀉 屈身拾得玉石來

佚名 1154

「假廬(かりほ)」,「假廬(かりいほ)」之略,羈旅之際,權搭用以避雨之小屋

「吾兒潮干(あごのしほひ)」,所在未詳。蓋與1157「吾兒之海」同。

1155 【承前,廿一十六。】

 奈吳乃海之 朝開之奈凝 今日毛鴨 礒之浦迴爾 亂而將有

 名兒海(なごのうみ)の 朝明餘波(あさけのなごり) 今日(けふ)もかも 磯浦迴(いそのうらみ)に 亂(みだ)れてあるらむ

 住吉名兒海 朝明晨曦餘波者 今日亦如斯 散落磯岸浦迴間 漣漪紊亂盪漾哉

佚名 1155

「餘波(なごり)」,退潮之後,干瀉間低處之積水。或云風過之後仍起之漣漪。此為後者

「亂(みだ)れてあるらむ」,推量用法。此概作者不在難波,而推量其景所作

1156 【承前,廿一十七。】

 住吉之 遠里小野之 真榛以 須禮流衣乃 盛過去

 住吉(すみのえ)の 遠里小野(とほさとをの)の 真榛以(まはりも)ち 摺(す)れる衣(ころも)の 盛過徃(さかりすぎゆ)く

 墨江住吉之 遠里小野真榛生 吾以彼榛實 摺染之裳年華去 已然褪色不復華

佚名 1156

「真榛(まはり)」,蒲木科落葉高木

1157 【承前,廿一十八。】

 時風 吹麻久不知 阿胡乃海之 朝明之鹽爾 玉藻苅奈

 時風(ときつかぜ) 吹(ふ)かまく知(し)らず 吾兒海(あごのうみ)の 朝明潮(あさけのしほ)に 玉藻刈(たまもか)りてな

 不知時風者 何時將拂濤浪至 住吉吾兒海 朝明之際潮乾時 去來採集刈玉藻

佚名 1157

「吹(ふ)かまく知(し)らず」,「吹かまく」乃「吹かむ」之く語法。或許即將吹來。

「潮(しほ)」,此云退潮,適合採集貝類時間

「玉藻刈(たまもか)りてな」,て乃完了助動詞つ之未然形。ま表意志或勸誘。

1158 【承前,廿一十九。】

 住吉之 奧津白浪 風吹者 來依留濱乎 見者淨霜

 住吉(すみのえ)の 沖白波(おきつしらなみ) 風吹(かぜふ)けば 來寄(きよ)する濱(はま)を 見(み)れば清(きよ)しも

 墨江住吉之 遠洋瀛津白浪矣 每逢風吹者 來寄緣岸滌濱邊 見之清淨心澄

佚名 1158

「沖白波(おきつしらなみ)」,第四句「來寄(きよ)する濱(はま)を」之主語

「來寄(きよ)する濱(はま)を」,濱多用來他動詞「寄(きよ)す」。


1159 【承前,廿一二十。】

 住吉之 岸之松根 打曝 緣來浪之 音之清羅

 住吉(すみのえ)の 岸松(きしのまつ)が根(ね) 打曝(うちさら)し 寄來(よせく)る波(なみ)の 音清(おとのさや)けさ

 墨江住吉之 邊岸所生松根矣 欲為濯其根 前後緣來所寄浪 其音爽朗響清清

佚名 1159

「音清(おとのさや)けさ」,原文「音之清羅」或可訓作「音清(おとのきよ)らに」,而「羅」者或與「紗」同,故作「清(さや)けさ」。

1160 【承前,廿一廿一。】

 難波方 鹽干丹立而 見渡者 淡路嶋爾 多豆渡所見

 難波潟(なにはがた) 潮干(しほひ)に立(た)ちて 見渡(みわた)せば 淡路島(あはぢのしま)に 鶴渡(たづわた)る見(み)ゆ

 澪標難波潟 立於乾潮水涸處 放眼望四方 穗之狹別淡路島 渡鶴翔空今可見

佚名 1160

「見渡(みわた)せば」,於遼曠場所眺望之狀。

1161 羈旅作 【九十第一。】

 離家 旅西在者 秋風 寒暮丹 鴈喧度

 家離(いへざか)り 旅(たび)にしあれば 秋風(あきかぜ)の 寒夕(さむきゆふへ)に 雁鳴渡(かりなきわた)る

 離家去故鄉 隻身羈旅在外者 秋風吹瑟瑟 寒景淒涼沁骨凍 飛鴈鳴渡道蕭寂

佚名 1161

「羈旅」,行旅在外,限於五畿外之所詠。「羈」與「寄」同,與「旅」相通

「家離(いへざか)り」,遠離故鄉。

「秋風(あきかぜ)の 寒夕(さむきゆふへ)に」,秋風有「涼」、「寒」等表現。描述秋風寒者,多有配偶死去或與戀人久隔、羈旅思鄉等心境孤獨之情狀。


1162 【承前,九十第二。】

 圓方之 湊之渚鳥 浪立也 妻唱立而 邊近著毛

 的形(まとかた)の 湊渚鳥(みなとのすどり) 波立(なみた)てや 妻呼立(つまよびた)てて 邊(へ)に近付(ちかづ)くも

 伊勢的形之 湊間洲渚之鳥者 蓋因浪湧哉 高聲呼妻喚佳偶 飛來近岸緣濱邊

佚名 1162

「湊(みなと)」,此處蓋云潟湖之開口處。

「渚鳥(すどり)」,洲中之鳥。

「波立(なみた)てや」,蓋為遠洋浪湧哉,之疑問條件詞。

「妻呼立(つまよびた)てて」,此「妻」字指配偶,非關性別。「立(た)て」有「立(た)たせ」之意。

1163 【承前,九十第三。】

 年魚市方 鹽干家良思 知多乃浦爾 朝榜舟毛 奧爾依所見

 年魚市潟(あゆちがた) 潮干(しほひ)にけらし 知多浦(したのうら)に 朝漕(あさこ)ぐ舟(ふね)も 沖(おき)に寄(よ)る見(み)ゆ

 年魚市潟矣 其今蓋是退潮時 吾見知多浦 朝榜之舟離岸遠 依於沖瀛狀可見

「潮干(しほひ)にけらし」,見眼前知多浦之景,推量遠方伊勢年魚市潟之狀。兩者相去十二公里。

「朝漕(あさこ)ぐ舟(ふね)も」,此處「漕(こ)ぐ」表過去之事例。

1164 【承前,九十第四。】

 鹽干者 共滷爾出 鳴鶴之 音遠放 礒迴為等霜

 潮干(しほふ)れば 共(とも)に潟(かた)に出(い)で 鳴鶴(なくたづ)の 聲遠放(こゑとほざか)る 磯迴(いそみ)すらしも

 每逢退潮時 一同共自潟飛去 鳴鶴聲漸遠 蓋是翱翔離此處 磯迴濱岸覓漁食

佚名 1164

「潮干(しほふ)れば」,「干/乾」於平安期為上一段動詞,而上代則屬上二段活用詞。此概於遠淺之乾鷄喀卍退至遠洋之語。

「磯迴(いそみ)すらしも」,此云鶴尋求魚貝類而遠至沖邊退潮時方現出之磯邊覓食。


1165 【承前,九十第五。】

 暮名寸爾 求食為鶴 鹽滿者 奧浪高三 己妻喚

 夕凪(ゆふなぎ)に 漁(あさり)する鶴(たづ) 潮滿(しほみ)てば 沖波高(おきなみたか)み 己(おの)が妻呼(つまよ)ぶ

 夕暮風平時 將漁求食之鶴矣 當於滿潮者 以其瀛浪湧駭高 鳴喚己妻啼聲響

佚名 1165

「漁(あさり)」,鳥類求餌之狀。

1166 【承前,九十第六。】

 古爾 有監人之 覓乍 衣丹揩牟 真野榛原

 古(いにしへ)に 在(あり)けむ人(ひと)の 求(もと)めつつ 衣(きぬ)に摺(す)りけむ 真野榛原(まののはりはら)

 回顧曩昔時 太古之人所尋覓 欲取榛實而 摺染衣裳渲杉華 長田真野榛原

佚名 1166

「古(いにしへ)に 在(あり)けむ人(ひと)の」,按第五句「真野榛原(まののはりはら)」,或興感於高市鄂揺徂愍Ч臟袈福(0280/0281)

「衣(きぬ)に摺(す)りけむ」,為衣染色之狀。

1167 【承前,九十第七。】

 朝入為等 礒爾吾見之 莫告藻乎 誰嶋之 白水郎可將苅

 漁(あさり)すと 礒(いそ)に我(わ)が見(み)し 莫告藻(なのりそ)を 何(いづれ)の島(しま)の 海人(あま)か刈(か)りけむ

 吾欲為漁獵 而於礒上之所見 莫告藻者也 其是海人白水郎 苅於何島集在此

佚名 1167

「漁(あさり)すと」,漁獵,此句主語為人

「莫告藻(なのりそ)を」,此云與作者相愛相契,而面命勿告他人女性

「何(いづれ)の島(しま)の 海人(あま)か刈(か)りけむ」,相誓相愛之女,不知何時為他男所擄。本取,雖錄雜歌,類譬喻歌。

1168 【承前,九十第八。】

 今日毛可母 奧津玉藻者 白浪之 八重折之於丹 亂而將有

 今日(けふ)もかも 沖玉藻(おきつたまも)は 白波(しらなみ)の 八重折(やへを)るが上(うへ)に 亂(みだ)れてあるらむ

 今日亦如斯 沖瀛玉藻漂逐流 白浪捲驚濤 八重波折駭天湧 玉藻為之散紊亂

佚名 1168

今日(けふ)もかも 沖玉藻(おきつたまも)は」,上句有か、や等疑問詞時,主語以が、の為通例,而此作は。

八重折(やへを)るが上(うへ)に」,此句或云波浪近岸曲折之貌。


1169 【承前,九十第九。】

 近江之海 湖者八十 何爾加 公之舟泊 草結兼

 近江海(あふみのうみ) 湊(みなと)は八十(やそ)ち 何方(いづく)にか 君(きみ)が舟泊(ふねは)て 草結(くさむす)びけむ

 淡海近江海 湖湊遍在八十沼 以其湊且眾 不知君舟泊何方 結草假廬宿異地

佚名 1169

「湊(みなと)は八十(やそ)ち」,「湊(みなと)」本意河口,原文「湖」按說文解字則「大波」也,指廣大湖沼而言。「八十(やそ)ち」之ち與「はたち」、「みそち」同,數數添助詞。注入琵琶湖河川,其數百餘。

「草結(くさむす)びけむ」,旅外假宿之表現

1170 【承前,九十第十。】

 佐左浪乃 連庫山爾 雲居者 雨曾零智否 反來吾背

 樂浪(ささなみ)の 連庫山(なみくらやま)に 雲居(くもゐ)れば 雨(あめ)そ降(ふ)るちふ 歸來我(かへりこわ)が背(せ)

 碎波樂浪之 近江淡海連庫山 若逢雲居者 人云雨之將零也 還願速歸吾夫矣

佚名 1170

「雨(あめ)そ降(ふ)るちふ」,「ちふ」乃「と云(い)ふ」之略。以往討水者有以山(俗稱日和山。)雲起居,占卜天氣之昔。


1171 【承前,九十十一。】

 大御舟 竟而佐守布 高嶋之 三尾勝野之 奈伎左思所念

 大御船(おほみふね) 泊(は)てて侍(さもら)ふ 高島(たかしま)の 三尾勝野(みをのかつの)の 渚(なぎさ)し思(おも)ほゆ

 乘輿大御船 泊於此地宮人仕 近江高島之 三尾勝野汀渚矣 吾今懷古騁幽思

佚名 1171

「大御船(おほみふね)」,天皇所乘之船。

「泊(は)てて侍(さもら)ふ」,「侍(さもら)ふ」乃奉仕身分高貴者之意。此表恆常事實,故用現在形。然實緬懷近江朝之榮景。

1172 【承前,九十十二。】

 何處可 舟乘為家牟 高嶋之 香取乃浦從 己藝出來船

 何處(いづく)にか 舟乘(ふなの)りしけむ 高島(たかしま)の 香取浦(かとりのうら)ゆ 漕出來(こぎでく)る舟(ふね)

 其自何方湊 乘舟而來榜出哉 近江高島之 香取之浦湖沼間 所榜出來扁舟者

「何處(いづく)にか 舟乘(ふなの)りしけむ」,此云船員自何處乘船,進而划出。

1173 【承前,九十十三。】

 斐太人之 真木流云 爾布乃河 事者雖通 船會不通

 飛驒人(ひだひと)の 真木流(まきなが)すと云(い)ふ 丹生川(にふのかは) 言(こと)は通(かよ)へど 舟(ふね)そ通(かよ)はぬ

 人云飛驒人 巧匠所以流真木 丹生川也者 雖然言語能傳過 無奈舟船不得通

佚名 1173

「飛驒人(ひだひと)」,飛驒國以建築、工藝技術聞名、有飛驒匠之稱。按此曲之文,所述蓋與採伐木材有關。

「言(こと)は通(かよ)へど 舟(ふね)そ通(かよ)はぬ」,此喻雖得借傳言聯絡,實際卻無以晤逢。

本曲以飛驒人之立場,收於羈旅之類,而或為大和丹生地域之民謠。『新千載和歌集』收入戀歌。

1174 【承前,九十十四。】

 霰零 鹿嶋之埼乎 浪高 過而夜將行 戀敷物乎

 霰降(あられふ)り 鹿島崎(かしまのさき)を 波高(なみたか)み 過(す)ぎてや行(ゆ)かむ 戀(こひ)しき物(もの)を

 霰零雹降兮 鹿嶋之崎以浪高 不覺過而行 其觸景勝令人戀 寔欲委細觀翫矣

佚名 1174

「霰降(あられふ)り」,以霰零之音かしまし而為地名鹿島」之枕詞

「過(す)ぎてや行(ゆ)かむ」,「過ぐ」乃通過而不駐足。


1175 【承前,九十十五。】

 足柄乃 筥根飛超 行鶴乃 乏見者 日本之所念

 足柄(あしがら)の 箱根飛越(はこねとびこ)え 行鶴(ゆくたづ)の 羨(とも)しき見(み)れば 大和(やまと)し思(おも)ほゆ

 險路足柄之 箱根嶺上行鶴翔 吾見其姿形 羨彼身輕輙越岑 不覺騁思念大和

佚名 1175

足柄(あしがら)の 箱根飛越(はこねとびこ)え」,鎌倉以前,箱根道以險阻為名,故一般足柄路行之。

「羨(とも)しき」,作者見翔鶴輕越箱根山,感人之所不行而稱羨。

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2016-10-27-木

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万葉集試訳

1116 詠露

 烏玉之 吾鉐爾 落名積 天之露霜 取者消乍

 烏玉(ぬばたま)の 我(わ)が鉐(くろかみ)に 降滯(ふりなづ)む 天露霜(あまのつゆしも) 取(と)れば消(け)につつ

 漆遽╋妄臓仝秧誉偵鉐上 紛紛所降置 斑白天之露霜者 取之乍消融逝矣

佚名 1116

「降滯(ふりなづ)む」,「滯(なづ)む」乃難涉之意,在露霜落地之前遇障礙物而停滯之狀。

「取(と)れば消(け)につつ」,つつ終止形。欲取露霜予親密之人觀看,卻稍縱即逝。

1117 詠花

 嶋迴為等 礒爾見之花 風吹而 波者雖緣 不取不止

 島迴(しまみ)すと 磯(いそ)に見(み)し花(はな) 風吹(かぜふ)きて 波(なみ)は寄(よ)すとも 採(と)らずは止(や)まじ

 嶋迴漁獵時 磯上見花貌姣好 縱雖狂風拂 捲起駭浪波濤來 吾豈堪得不取哉

佚名 1117

「島迴(しまみ)す」,於島嶼周邊獵捕魚貝類

「磯(いそ)に見(み)し花(はな)」,身居磯上所見得之花。蓋指不意見得美人之譬喻。

「採(と)らずは止(や)まじ」,此云為了心儀之女性,不計冒風險而欲將之得手之情。

1118 詠葉

 古爾 有險人母 如吾等架 彌和乃檜原爾 插頭折兼

 古(いにしへ)に 在(あり)けむ人(ひと)も 我(わ)が如(ごと)か 三輪檜原(みわのひはら)に 髻首(かざ)し折(を)りけむ

 遙想過往時 所在故人當何如 蓋如吾等者 身居三輪檜原間 折枝髻首插頭哉

柿本人麻呂 1118

「古(いにしへ)に 在(あり)けむ人(ひと)も」,感懷古時是否有人與自己歷經相同體驗者。

三輪檜原(みわのひはら)」,或云卷向檜原,或云檜原社一帶,則倭笠縫邑之承傳地。

「髻首(かざ)し折(を)りけむ」,「髻首しに折りけむ」之略。

1119 【承前,第二。】

 徃川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之檜原

 行川(ゆくかは)の 過(す)ぎにし人(ひと)の 手折(たを)らねば 衷觸(うらぶ)れ立(た)てり 三輪檜原(みわのひはら)は

 逝水如斯夫 故人以往不復在 無人為手折 故吾孤零佇此地 三輪笠縫檜原

柿本人麻呂 1119

 右二首,柿本朝臣人麻呂之歌集出。

「行川(ゆくかは)の」,「過(す)ぐ」之枕詞。典出『論語』「逝者如斯夫,不捨晝夜。」

「過(す)ぎにし人(ひと)の」,故人。對死者之委婉避忌表現。概云過往曾未己折枝之人。

「衷觸(うらぶ)れ立(た)てり」,心中空虛,了無氣力。因故人不在,惟有孤獨寂寞地佇於此地。

1120 詠蘿

 三芳野之 青根我峯之 蘿席 誰將織 經緯無二

 御吉野(みよしの)の 青根峰(あをねがみね)の 蘿席(こけむしろ) 誰(たれ)か織(お)りけむ 經緯無(たてぬきな)しに

 三芳吉野 青根峰上蘿席茂 苔蘚絨毯者 此是孰人所織乎 既無經緯亦無絲

佚名 1120

「蘿(こけ)」,多指生於椈、栂、樅樹皮上之地衣植物。『萬葉集』多用「苔」、「薜」等字。

「蘿席(こけむしろ)」,以藁、藺草所織之墊。此云山林深處,草木生苔,狀似絨毯。

「經緯無(たてぬきな)しに」,「經緯」別為「縱絲」、「壹」。

1121 詠草

 妹等所 我通路 細竹為酢寸 我通 靡細竹原

 妹等所(いもらがり) 我(わ)が行道(ゆくみち)の 篠芒(しのすすき) 我(われ)し通(かよ)はば 靡(なび)け篠原(しのはら)

 前往吾妻許 我所行道篠原上 細竹芒薄等 當吾路過所通時 還願皆靡此篠原

佚名 1121

「妹等所(いもらがり)」,「所(がり)」乃往某人之許前去之意。「等(ら)」乃接尾詞,非作複數之用。

「我(わ)が行道(ゆくみち)」,「行」字原文作通,『名義抄』有「ゆく」之訓。

「靡(なび)け篠原(しのはら)」靡(なび)乃堙殃辛之意。


1122 詠鳥

 山際爾 渡秋沙乃 行將居 其河鷦ぁ]歌勿湯目

 山際(やまのま)に 渡(わた)る秋沙(あきさ)の 行(ゆ)きて居(ゐ)む 其川(そのかはのせ)に 波立(なみた)つ勿努(なゆめ)

 山際峽會間 越度雁鴨秋沙之 行居所降止 停歇此川麈郡屐ヾ坿衂波切莫起

佚名 1122

「秋沙(あきさ)」,雁鴨科水鳥。

「波立(なみた)つ勿努(なゆめ)」,「勿努(なゆめ)」為伴隨禁止表現之終助詞。本為瞠目威嚇對方,制止其行動之感動詞


1123 【承前,第二。】

 佐保河之 清河原爾 鳴知鳥 河津跡二 忘金都毛

 佐保川(さほがは)の 清川原(きよきかはら)に 鳴千鳥(なくちどり) 蛙(かはづ)と二(ふた)つ 忘兼(わすれか)ねつも

 千鳥齊鳴兮 清佐保川原間 爭啼千鳥與 此起彼落鳴蛙者 雙雙難忘永銘心

佚名 1123

「鳴千鳥(なくちどり)」,千鳥爭鳴乃佐保川代表景色

「蛙(かはづ)」,或書作水雞。

1124 【承前,第三。】

 佐保川爾 小驟千鳥 夜三更而 爾音聞者 宿不難爾

 佐保川(さほがは)に 騷驟(さをど)る千鳥(ちどり) 夜降(よくた)ちて 汝(な)が聲聞(こゑき)けば 寢難(いねかて)なくに

 千鳥齊鳴兮 小驟保川原間 躍步千鳥矣 夜入三更聞汝聲 輾轉難眠不易

佚名 1124

「騷驟(さをど)る」,さ乃接頭語。按『萬象名義』,「驟」乃「疾也、奔野。」形容鳥類雀步奔跑,躍動之狀。

「夜降(よくた)ちて」,夜已過半。原文書作三更。

「寢難(いねかて)なくに」,なくに為文末用法。


1125 思故鄉

 清湍爾 千鳥妻喚 山際爾 霞立良武 甘南備乃里

 清(きよきせ)に 千鳥妻呼(ちどりつまよ)び 山際(やまのま)に 霞立(かすみた)つらむ 神奈備里(かむなびのさと)

 故京清湍間 千鳥喚妻呼鳴啼 吐息化水氣 霞湧彌熳滿山間 飛鳥神奈備之里

佚名 1125

「故鄉」,此云飛鳥舊京。

神奈備里(かむなびのさと)」,此與「神奈備淵」共指飛鳥雷丘周邊之村落。

1126 【承前,第二。】

 年月毛 末經爾 明日香川 湍麝嚇惑掘\仭無

 年月(としつき)も 未經無(いまだへな)くに 明日香川(あすかがは) 齲(せぜ)ゆ渡(わた)しし 石橋(いしばし)も無(な)し

 自遷都以來 未經年月不幾時 明日香川間 用以渡所湍麈掘石橋已逝不復存

佚名 1126

「齲(せぜ)ゆ渡(わた)しし」,於各個湍鷭蠱屐ね儖陛浪惑形石。「ゆ」字表「經由」。

石橋(いしばし)」,至於川間淺麈継檗てО陛浪惑形石。

1127 詠井

 隕田寸津 走井水之 清有者 癈者吾者 去不勝可聞

 落激(おちたぎ)つ 走井水(はしりゐみづ)の 清(きよ)くあれば 置(お)きては我(われ)は 行克(ゆきかて)ぬかも

 落激走水之 激泉湧井洴滂渤 見彼泉清冽 不忍置之擅離去 徒佇此處沉幽思

佚名 1127

「井」,現代井多為人工掘井,而上代山井、走井等則多為圍設湧泉、引堰河水之自然井為主。本文敘述在山中發現自然湧井,難捨離去。

「走井(はしりゐ)」,自山間瀧水、岩間奔出之泉水

「置(お)きては我(われ)は」,「置く」乃放置、無視之意。

1128 【承前,第二。】

 安志妣成 榮之君之 穿之井之 石井之水者 雖飲不飽鴨

 馬醉木成(あしびな)す 榮(さか)えし君(きみ)が 掘(ほ)りし井(ゐ)の 石井水(いしゐのみづ)は 飲(の)めど飽(あ)かぬかも

 馬醉木成兮 榮極一時吾君之 穿鑿所掘井 石井之水味甘美 飲之幾度仍不厭

佚名 1128

「馬醉木成(あしびな)す」,榮之枕詞。春時,馬醉木花咲,成白壺狀花房。比喻人之榮華如其花之盛。

石井水(いしゐのみづ)は」,石砌之掘井。古時一般多為板井,唯富人能築石井

1129 詠倭琴

 琴取者 嘆先立 盖毛 琴之下樋爾 嬬哉匿有

 琴取(ことと)れば 嘆(なげ)き先立(さきだ)つ 蓋(けだ)しくも 琴下樋(ことのしたび)に 妻(つま)や隱(こも)れる

 每取和琴者 嘆息先立總唏噓 蓋是琴下樋 槽板龍背箱庭間 玉殞亡妻隱其間

佚名 1129

「蓋(けだ)しくも」,將副詞「蓋し」更為強調之變則語形。該不會。

「下樋(したび)」,本為埋設於地下之木製土管。此則意指和琴槽板(表板)、龍背間之長方形空洞處。

「妻(つま)や隱(こも)れる」,該是將亡妻藏於此處乎?疑問條件之變則形式。

思念亡妻之曲。按記紀神話,古俗以為琴與神靈交會之祭器。或有戀人隨琴音引導而現形之說。

1130 芳野作 【五首第一。】

 神左振 磐根己凝敷 三芳野之 水分山乎 見者悲毛

 神(かむ)さぶる 岩根凝(いはねこご)しき 御吉野(みよしの)の 水分山(みくまりやま)を 見(み)れば悲(かな)しも

 神氣發震懾 磐根凝敷嚴聳立 三芳吉野 今見吉野水分山 不覺哀悲從衷來

佚名 1130

「凝(こご)しき」,岩壁聳立嶮峻之狀。

「見(み)れば悲(かな)しも」,觸景催生悲哀憐憫之情。

1131 【承前,五首第二。】

 皆人之 戀三芳野 今日見者 諾母戀來 山川清見

 皆人(みなひと)の 戀(こ)ふる御吉野(みよしの) 今日見(けふみ)れば 宜(うべ)も戀(こ)ひけり 山川清(やまかはきよ)み

 眾人無例外 皆戀三芳吉野 今日得見者 理宜誠然慕戀矣 見彼山清水

佚名 1131

「宜(うべ)も戀(こ)ひけり」,「宜(うべ)」乃理宜如此,理所當然。肯定他人行為副詞

1132 【承前,五首第三。】

 夢乃和太 事西在來 寤毛 見而來物乎 念四念者

 夢浀(いめのわだ) 言(こと)にしありけり 現(うつつ)にも 見(み)て來(け)る物(もの)を 思(おも)ひし思(おも)へば

 夢浀十八灣 嚴名雖峻實不然 今覺寤於現 來而見之何難有 只在心思之所至

佚名 1132

「夢浀(いめのわだ)」,「浀(わだ)」表彎曲水面之地形。

「言(こと)にしありけり」,有名無實。然此歌之趣,非用以責難。

「思(おも)ひし思(おも)へば」,只要真心想作,何難之有。

1133 【承前,五首第四。】

 皇祖神之 神宮人 冬薯蕷葛 彌常敷爾 吾反將見

 天皇(すめろき)の 神宮人(かみのみやひと) 冬薯蕷蔓(ところづら) 彌常(いやとこ)しくに 我返見(われかへりみ)む

 皇祖神宗之 累代神之宮人矣 冬薯蕷葛兮 彌常更盛歷永久 吾將返見來再三

佚名 1133

天皇(すめろき)の 神宮人(かみのみやひと)」,奉仕歷代天皇大宮人。此二句與「冬薯蕷蔓(ところづら)」當有關係,未詳而俟後攷。

「冬薯蕷蔓(ところづら)」,山芋多年草。以「とこ」之音引出下句「彌常(いやとこ)」。

1134 【承前,五首第五。】

 能野川 石迹柏等 時齒成 吾者通 萬世左右二

 吉野川(よしのがは) 巖跡柏(いはどかしは)と 常磐成(ときはな)す 我(われ0は通(かよ)はむ 萬代迄(よろづよまで)に

 其猶吉野川 巖跡柏者成常磐 歷久彌不變 吾通此地心不易 直至千世萬代後

佚名 1134

「巖跡柏(いはどかしは)」,未詳。『日葡辭書』云「苔生巖根之上,處處斑白枯涸,於遠處所見之狀。」『八雲御抄』曰「非木石之名。」『節用集』曰「石近,いはとかしは。」

1135 山背作 【五首第一。】

 氏河齒 與杼湍無之 阿自呂人 舟召音 越乞所聞

 宇治川(うぢがは)は 淀麑(よどせな)からし 網代人(あじろひと) 舟呼(ふねよ)ばふ聲(こゑ) 彼此聞(をちこちき)こゆ

 菟道宇治川 淺緩淀麑詰矣 杭簀網代人 漁捕冰魚呼舟聲 此起彼落咸可聞

佚名 1135

「淀(よどせ)」,流速緩慢之淺鵝

「無(な)からし」,「無(な)くあるらし」之略。

網代人(あじろひと)」,冬季為補自琵琶湖往下流游移之冰魚,而於河中設逆八字之杭,令下游端狹窄之漁夫。又以宇治川最為有名。

「舟呼(ふねよ)ばふ聲(こゑ)」,日暮之際,向岸邊召舟之聲。

「彼此聞(をちこちき)こゆ」,彼此乃遠方與此方,處處之意。按『帝王編年記』,鎌倉時代禁斷網代之時,宇治橋一代網代業者約有八百人之譜。

1136 【承前,五首第二。】

 氏河爾 生菅藻乎 河早 不取來爾家里 裹為益緒

 宇治川(うぢがは)に 生(お)ふる菅藻(すがも)を 川速(かははや)み 採(と)らず來(き)にけり 裹(つと)にせ益(まし)を

 菟道宇治川 河中所生菅藻者 以其川水速 無奈不採而來矣 本欲裹之為土毛

佚名 1136

「菅藻(すがも)」,按『仙覺抄』,形似菅之食用川藻。或云生息河川水田之間,似菅之蚊帳吊草科痩果。

「裹(つと)」,贈品、土產。與「つつむ」同源,以藁、菰包裹以贈人。

1137 【承前,五首第三。】

 氏人之 譬乃足白 吾在者 今齒與良瓠〔收冑墅塒

 宇治人(うぢひと)の 喻(たとひ)の網代(あじろ) 我(われ)ならば 今(いま)は寄(よ)らまし 木屑來(こつみこ)ずとも

 宇治八十氏 宮人喻諺網代者 吾若在此處 今頃佳人自寄來 何待柘枝逐流至

佚名 1137

「喻(たとひ)の網代(あじろ)」,「喻」者「諺」也。宇治人或云氏人,宮人之謂也。

「今(いま)は寄(よ)らまし 木屑來(こつみこ)ずとも」,原文「今齒王良曾」,多視作「今齒與良瓠彷結臓L擽蓋指『柘枝傳說』,云吉野川漁夫味稻拾得懸梁之柘枝,柘枝遂化美女,與之結為夫婦。而後昇天


1138 【承前,五首第四。】

 氏河乎 船令渡呼跡 雖喚 不所聞有之 楫音毛不為

 宇治川(うぢがは)を 舟渡(ふねわた)せをと 呼(よ)ばへども 聞(き)こえずあらし 楫音(かぢのおと)も為(せ)ず

 菟道宇治川 欲攬扁舟以船渡 雖喚舟不來 蓋是不聞吾召聲 楫音不為無船寄

佚名 1138

宇治川(うぢがは)を」,蓋用以引出第二句之「渡(わた)せ」。

舟渡(ふねわた)せをと 呼(よ)ばへども」,呼喚對岸之船頭。

1139 【承前,五首第五。】

 千早人 氏川浪乎 清可毛 旅去人之 立難為

 千早人(ちはやひと) 宇治川波(うぢがはなみ)を 清(きよ)みかも 旅行人(たびゆくひと)の 立難(たちかて)にする

 千早逸靈威 宇治川水波澄明 以彼水清遏旅行之人翫水清 流連忘返難相去

佚名 1139

千早人(ちはやひと)」,危險、荒烈之意,宇治枕詞。『仁紀』前紀有「千早人 菟道渡に 棹取りに 速けむ人し 我が仲間に來む」之曲。http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/kikirouei/krr01.htm#11


1140 攝津作 【廿一第一。】

 志長鳥 居名野乎來者 有間山 夕霧立 宿者無而【一本云,豬名乃浦迴乎,榜來者。】

 息長鳥(しながどり) 豬名野(ゐなの)を來(く)れば 有間山(ありまやま) 夕霧立(ゆふぎりた)ちぬ 宿(やどり)は無(な)くて【一本云(またのふみにいふ)、豬名浦(ゐなのうらみ)を、漕來(こぎく)れば。】

 相率息長鳥 鳰鳥所居豬名野 道遠來此者 夕霧瀰漫有間山 遍詢無宿可寄身【一本云,豬名浦迴海濱處,漕船榜來者。】

佚名 1140

「息長鳥(しながどり)」,或云鳰鳥(にほとり),棲息湖沼,擅於潛水,雌雄和睦,常相率而行。以「率(ゐ)」相關後文「豬(ゐ)」字。

有間山(ありまやま)」,概指六甲山

「宿(やどり)」,宿泊地。

「豬名浦(ゐなのうらみ)」,蓋豬名湊附近之海濱。

古今和歌集1119有「息長鳥 豬名野を行けば 有馬山 夕霧立ちぬ 明けぬ此夜は」http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/kokin/kk20.htm#1119


1141 【承前,廿一第二。】

 武庫河 水尾怱 赤駒 足何久激 沾祁流鴨

 武庫川(むこがは)の 水脈(みを)を速(はや)みと 赤駒(あかごま)の 足搔(あが)く激(たぎ)ちに 濡(ぬ)れにけるかも

 以其武庫川 水脈澪流速疾故 栗毛赤駒之 足搔激越水沫濺 沾衣濡兮漬裳溼

佚名 1141

「水脈(みを)を速(はや)みと」,原文「怱」字或本作「急」。當時武庫川蓋為水勢疾速之荒川

「赤駒(あかごま)の」,栗毛之駒。

「激(たぎ)ち」,水沫。將敘述「水勢奔騰」之動詞名詞化而成。


1142 【承前,廿一第三。】

 命 幸久吉 石流 垂水水乎 結飲都

 命(いのち)をし 幸(さき)く良(よ)けむと 石走(いはばし)る 垂水水(たるみのみづ)を 掬(むす)びて飲(の)みつ

 祈命能長久 安幸無恙常健朗 石走迸流水 飛瀧蘊勁垂水兮 合手誠心掬飲矣

佚名 1142

「幸(さき)く良(よ)けむと」,「幸」有「無恙」之意,而「良け」乃「良し」之未然形

「石走(いはばし)る」,垂水枕詞。岩上奔流之意。

垂水(たるみ)」,瀑布之意。本歌歸於「攝津作」者,或詠攝津國垂水之小瀑乎。

「掬(むす)び」,併合手掌以取水之狀。

1143 【承前,廿一第四。】

 作夜深而 穿江水手鳴 松浦船 梶音高之 水尾早見鴨

 小夜更(さよふ)けて 堀江漕(ほりえこ)ぐなる 松浦船(まつらぶね) 梶音高(かぢのおとたか)し 水脈速(みをはや)み哉(かも)

 夜深人靜時 難波堀江榜聲聞 肥前松浦船 梶音高之何所以 蓋是水脈澪速哉

佚名 1143

堀江漕(ほりえこ)ぐなる」,堀江難波堀江。なり為傳聞推定,顯示作者並非眼見,僅聞梶音。「漕(こ)ぐ」原文「水手」乃義訓。

松浦船(まつらぶね)」,肥前松浦所造之船,以特殊構造著名。

「水脈速(みをはや)み哉(かも)」,以其梶音聲高,推測蓋退潮之時,逆流划上所致。

1144 【承前,廿一第五。】

 悔毛 滿奴流鹽鹿 墨江之 岸乃浦迴從 行益物乎

 悔(くや)しくも 滿(み)ちぬる潮(しほ)か 住吉(すみのえ)の 岸浦迴(きしのうらみ)ゆ 行(ゆ)か益物(ましもの)を

 後悔已莫及 漲潮滿來路已沒 當自墨江之 住吉岸崖浦迴處 步其沙州今既晚

佚名 1144

「悔(くや)しくも 滿(み)ちぬる潮(しほ)か」,「か」表詠嘆。

「岸浦迴(きしのうらみ)ゆ 行(ゆ)か益物(ましもの)を」,當時住吉海濱多為段丘,而崖下有退潮時方現之砂州。ゆ表經由,而「益物(ましもの)」乃與事實相反之假定語法,如果當初如何如何就好了。


1145 【承前,廿一第六。】

 為妹 貝乎拾等 陳奴乃海爾 所沾之袖者 雖涼常不干

 妹(いも)が為(ため) 貝(かひ)を拾(ひり)ふと 千沼海(ちぬのうみ)に 濡(ぬ)れにし袖(そで)は 干(ほ)せど乾(かわ)かず

 為贈吾妹妻 遍尋四周揀美貝 和泉千沼海 所沾濡濕吾袖者 雖然涼之常不乾

佚名 1145

「千沼海(ちぬのうみ)」,和泉國沿岸,今大阪東部和泉國在天平寶字元年以前,屬河內國。本歌錄於「攝津作」者,或當時住吉沿岸亦被稱作千沼海矣。

1146 【承前,廿一第七。】

 目頰敷 人乎吾家爾 住吉之 岸乃黃土 將見因毛欲得

 珍(めづ)らしき 人(ひと)を我家(わぎへ)に 住吉(すみのえ)の 岸埴生(きしのはにふ)を 見(み)む緣(よし)もがも

 親親所珍愛 良人今通來吾家 墨江住吉之 岸之黃土埴生者 冀能得見嘆無暇

佚名 1146

「珍(めづ)らしき」,源自動詞「愛(め)づ」之形容詞

「人(ひと)を我家(わぎへ)に」,以上乃借「住(す)む」引出「住吉(すみよし)」之序文。「住む」指男方通訪妻邸之意,此云女方及其家人迎入男子令住。

「見(み)む緣(よし)もがも」,「緣(よし)」乃緣由、機遇。「もがも」表願望,原文書「欲得」。本文蓋云此乃伴隨行幸之公用之旅,無暇前往住吉一覽埴生之景。

1147 【承前,廿一第八。】

 暇有者 拾爾將徃 住吉之 岸因云 戀忘貝

 暇有(いとまあ)らば 拾(ひり)ひに行(ゆ)かむ 住吉(すみのえ)の 岸(きし)に寄(よ)ると云(い)ふ 戀忘貝(こひわすれがひ)

 若得硫房圈ゝ醫堊葦手拾之 墨江住吉之 寄於濱岸戀忘貝 拾來解憂止戀苦

佚名 1147

「暇有(いとまあ)らば」,此云供奉難波行幸之官人,雖欲前往住及卻無此機會、硫法

1148 【承前,廿一第九。】

 馬雙而 今日吾見鶴 住吉之 岸之黃土 於萬世見

 馬並(うまな)めて 今日我(けふわ)が見(み)つる 住吉(すみのえ)の 岸埴生(きしのはに)ふを 萬代(よろづよ)に見(み)む

 列馬出遊行 今日吾所見得者 墨江住吉之 岸之埴生黃土矣 還欲再覽至萬世

佚名 1148

「馬並(うまな)めて」,原文「馬雙而」,古本或作「駒雙而」。駒表成馬,而限於雄馬。馬則無性別限制。然萬葉集除此之外無「駒雙而」之表現

1149 【承前,廿一第十。】

 住吉爾 徃云道爾 昨日見之 戀忘貝 事二四有家

 住吉(すみのえ)に 行(ゆ)くと云(い)ふ道(みち)に 昨日見(きのふみ)し 戀忘貝(こひわすれがひ) 言(こと)にし有(あ)りけり

 人云徃住吉 所行道中昨日見 戀忘貝也者 空有虛有名卻無實 不能解憂緩戀苦

佚名 1149

「言(こと)にし有(あ)りけり」,俗信拾得戀忘貝可以解憂,故欲藉其以卸戀苦,然無效驗,遂而逆恨。

1150 【承前,廿一十一。】

 墨吉之 岸爾家欲得 奧爾邊爾 緣白浪 見乍將思

 住吉(すみのえ)の 岸(きし)に家(いへ)もが 沖(おき)に邊(へ)に 寄(よ)する白波(しらなみ) 見(み)つつ偲(しの)はむ

 冀於住吉之 墨江濱岸有邸者 瀛沖至邊岸 所寄緣來白浪矣 欲得不厭常眺望

佚名 1150

「家(いへ)もが」,家乃與家族共同生活居住地。或解為家人,特指男性羈旅時留居家中之妻子。もが表願望。

此云若得居於住吉之岸,便得時常眺翫自遠洋漂打過來之白浪。或解有家人共覽美景。

1151 【承前,廿一十二。】

 大伴之 三津之濱邊乎 打曝 因來浪之 逝方不知毛

 大伴(おほとも)の 御津濱邊(みつのはまへ)を 打曝(うちさら)し 寄來(よせく)る波(なみ)の 行方知(ゆくへし)らずも

 難波大伴之 三津御濱白砂岸 欲洗曝白而 緣來寄岸白浪者 不知行蹤將何去

佚名 1151

「打曝(うちさら)し」,「打(うち)」乃接頭語,「曝(さら)す」表水洗、漂白、曬乾之意。此云波浪有如欲洗濯大伴三津之白砂而漂打過來云云。

sherrysherry 2016/10/29 15:47 午安呀, 浦木裕 さん
しばらくです
来月四日間日本ヘ出張にゆく予定です、
11月だと寒そう‐>.<‐
日本ヘ行くのは12年ぶりです・・・
ちっとも出掛けたくないのは本音ですけど…

ところで、いつまで日本に駐在するの?

kuonkizunakuonkizuna 2016/10/29 18:35 10/1をもって新竹帰任しました。

sherrysherry 2016/10/29 22:12 そうか、おかえり∧∧

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2016-09-30-金

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万葉集試訳

1099 詠岳

 片岡之 此向峯 椎蒔者 今年夏之 陰爾將化疑

 片岡(かたをか)の 此向峰(このむかつを)に 椎蒔(しひま)かば 今年夏(ことしのなつ)の 蔭(かげ)に化(な)らむか

 葛城片岡之 此向峰者馬見丘 若蒔椎實者 待至今年夏日臨 可化日蔭蔽陽哉

佚名 1099

「向峰(むかつを)」,位於片岡山東奈良北葛城郡上牧町馬見丘陵。同町有向山、向城、小向等地名,蓋昔日之餘韻。

「蔭(かげ)に化(な)らむか」,或本原文作「陰爾將比疑」,而按『萬葉集古義』則「比」字蓋「化」字之訛。時值春日,而有厭夏日炎暑之趣。亦有春日植椎,期待儖之誇張寓意


1100 詠河 【十六第一。】

 卷向之 痛足之川由 徃水之 絕事無 又反將見

 卷向(まきむく)の 穴師川(あなしのかは)ゆ 行水(ゆくみづ)の 絕(た)ゆる事無(ことな)く 復返見(またかへりみ)む

 卷向痛足之 穴師川水流斯夫 不捨晝夜矣 猶彼行水流無絕 吾欲再三復返見

柿本人麻呂 1100

「穴師川(あなしのかは)ゆ 行水(ゆくみづ)の」,「ゆ」表「經由」。以上既為引出「無絕」之序,亦為後文「復見」之對象。

「復返見(またかへりみ)む」,後日再訪以反復觀賞。

1101 【承前,十六第二。】

 邏滅掘〔覽醫埃圈〈妨之 川音高之母 荒足鴨疾

 烏玉(ぬばたま)の 夜去來(よるさりく)れば 卷向(まきむ)くの 川音高(かはおとたか)しも 嵐(あらし)かも疾(と)き

 漆遽╋妄臓每逢闇夜率來者 卷向川音高 湍麑剃甼遡絕 蓋因山嵐疾吹哉

柿本人麻呂 1101

 右二首,柿本朝臣人麻呂之歌集出。

「卷向(まきむ)くの 川音高(かはおと)」,此云穴師川(痛足川)之湍音。

嵐(あらし)かも疾(と)き」,「嵐(あらし)」乃自山頂吹下之風,或書「下風」、「阿下」,與「颪(おろし)」同源。

末句「蓋因山嵐疾吹哉」乃推量造成前四句現象之原因。


1102 【承前,十六第三。】

 大王之 御笠山之 帶爾為流 細谷川之 音乃清也

 大君(おほきみ)の 御笠山(みかさのやま)の 帶(おび)に為(せ)る 細谷川(ほそたにがは)の 音清(おとのさや)けさ

 吾皇大君之 高座御蓋三笠山 所配御帶者 綿延流長細谷川 湍麈音響清清

佚名 1102

「大君(おほきみ)の」,「三笠」之枕詞天皇寶座「高御座」架有天蓋,故與三笠=御蓋相通

「帶(おび)に為(せ)る」,此乃將三笠山擬人之表現。常用以形容流經神格化之山之山麓之川。

細谷川(ほそたにがは)」,狹細之谷川有吉城川、率川、能登川等說,又以能登川說最為所信。

1103 【承前,十六第四。】

 今敷者 見目屋跡念之 三芳野之 大川余杼乎 今日見鶴鴨

 今(いま)しくは 見(み)めやと思(おも)ひし 御吉野(みよしの)の 大川淀(おほかはよど)を 今日見(けふみ)つるかも

 吾度近日間 蓋當無緣能所見 三芳吉野 滔滔大川六田淀 不料今日得復見

佚名 1103

「今(いま)しく」,暫時。或云與宣命「今しき」有關。

「御吉野(みよしの)の 大川淀(おほかはよど)を」,吉野之廣大川淀。當指六田淀。

1104 【承前,十六第五。】

 馬並而 三芳野河乎 欲見 打越來而曾 瀧爾遊鶴

 馬並(うまな)めて 御吉野川(みよしのがは)を 見(み)まく欲(ほ)り 打越來(うちこえき)てそ 瀧(たき)に遊(あそ)びつる

 率馬並連騎 欲見三芳吉野川 翻山復越嶺 來到吉野宮瀧處 以為清遊盡歡娛

佚名 1104

「馬並(うまな)めて」,眾馬連騎成伍,將赴吉野清遊。

「打越來(うちこえき)てそ」,自大和至吉野,隔高取山系。此句蓋述彼等越過今木峠。

「瀧(たき)」,激流。蓋指以吉野宮瀧為中心,但不限於宮瀧之地。

1105 【承前,十六第六。】

 音聞 目者末見 吉野川 六田之與杼乎 今日見鶴鴨

 音(おと)に聞(き)き 目(め)には未見(いまだみ)ぬ 吉野川(よしのがは) 六田淀(むつたのよど)を 今日見(けふみ)つるかも

 久仰其盛名 目雖未見傾心久 芳野吉野 吉野大川六田淀 今日得見償宿願

佚名 1105

「音(おと)に聞(き)き」,久仰吉野宮名勝絕景之名。

1106 【承前,十六第七。】

 川豆鳴 清川原乎 今日見而者 何時可越來而 見乍偲食

 蛙鳴(かはづな)く 清(きよ)き川原(かはら)を 今日見(けふみ)ては 何時(いつ)か越來(こえき)て 見(み)つつ偲(しの)はむ

 水雞川蛙鳴 清冽吉野川原 今日見而者 何時方能復越來 再見觀翫賞之哉

佚名 1106

「清(きよ)き川原(かはら)を」,1103至此當為連作,而本歌所詠亦當為吉野川。如1723等,詠吉野川蛙鳴之歌不在少數。

今日見(けふみ)ては」,「ては」表確定事實。

「何時(いつ)か越來(こえき)て」,「何時か」蘊含期望能早日成就之願情。

「見(み)つつ偲(しの)はむ」,「偲ふ」乃賞翫讚美之意。はむ乃對「食(は)む」之借訓。

1107 【承前,十六第八。】

 泊鸚遏’鯡綿花爾 墮多藝都 鸚鏡廖仝爾來之吾乎

 泊鸚(はつせがは) 白木綿花(しらゆふはな)に 落激(おちたぎ)つ (せ)を清(さや)けみと 見(み)に來(こ)し我(われ)を

 隱國泊鸚遏’鯡綿花之所如 湍急落激甚 川鸚響巍タ跡沺{垳此景吾是矣

佚名 1107

「白木綿花(しらゆふはな)に」,急湍水沫皓白,猶繻木棉。

「(せ)を清(さや)けみと」,「と」表目的意圖。

「見(み)に來(こ)し我(われ)を」,表詠嘆意味之「我を」終止句法。

1108 【承前,十六第九。】

 泊鸚遏[水尾之 湍乎早 井提越浪之 音之清久

 泊鸚(はつせがは) 流(なが)るる水脈(みを)の (せ)を速(はや)み 堰(ゐ)で越(こ)す波(なみ)の 音清(おとのきよ)けく

 隱國泊鸚遏×彩逝水去不止 以彼湍鸞 越堰之波音清遏×ミテ耳曠神怡

佚名 1108

「水脈(みを)」,川水或海中較為深邃之水流。

「堰(ゐ)で」,堰止川水之處。主要乃積石為壩,引水至田之井堰(ゐせき)。「ゐ」字源自「居(ゐ)る」,留水之意。「で」表場所


1109 【承前,十六第十。】

 佐檜乃熊 檜隅川之 鷂蛋瓠〃之手取者 將緣言毳

 佐檜隈(さひのくま) 檜隈川(ひのくまがは)の (せ)を速(はや)み 君(きみ)が手取(てと)らば 言寄(ことよ)せむかも

 佐日隈迴兮 檜隈川流鶻鄲 猶彼逝水急 一旦吾執子手者 不消幾時蜚語傳

佚名 1109

「佐檜隈(さひのくま)」,さ乃接頭語,有「佐日隈迴」之固有名詞,在此則作為檜隈川之枕詞

「言寄(ことよ)せむかも」,「言寄」表男女關係之流言傳開之狀。


1110 【承前,十六十一。】

 湯種蒔 荒木小田矣 求跡 足結出所沾 此水之湍爾

 湯種蒔(ゆだねま)く 新(あら)きの小田(をだ)を 求(もと)めむと 足結出濡(あゆひいでぬ)れぬ 此川(このかはのせ)に

 欲求蒔湯種 開墾新田三世 遍求覓良田 足結出濡盡沾濕 來回步巡此川

佚名 1110

「湯種(ゆだね)」,為促芽發育,播種前先將籾浸於溫水一至二晚之農法。現在施行於寒帶地區。

「新(あら)きの小田(をだ)」,新開墾之田畑養老七年,日本實施三世一身之法,口分田外,開墾私田者可傳至三世。而天平十五年,又搬墾田私財法。

「足結出濡(あゆひいでぬ)れぬ」,足結乃將袴以紐結於膝處以便於活動。此云農民求覓新田,苦尋水口之狀。

1111 【承前,十六十二。】

 古毛 如此聞乍哉 偲兼 此古川之 清麈群獅

 古(いにしへ)も 如此聞(かくき)きつつか 偲(しの)ひけむ 此布留川(このふるがは)の 清鷁(きよきせのおと)を

 曩昔古時人 蓋亦如此聽聞而 馳偲賞翫乎 傾聽此地布留川 清黨音響潺潺

佚名 1111

「古(いにしへ)」,此云古人。

布留川(ふるがは)」,流經石上神宮周邊布留地區之川,音與古(ふる)字同而與首句呼應,有懷古之味。

1112 【承前,十六十三。】

 波禰蘰 今為妹乎 浦若三 去來率去河之 音之清左

 葉根蘰(はねかづら) 今(いま)する妹(いも)を 衷若(うらわか)み 去來率川(いざいざかは)の 音清(おとのさや)けさ

 今織葉根蘰 結環飾首姑娘矣 其年齒方稚 以故去來率川者 湍音清清摧無息

佚名 1112

「波禰蘰」,不詳,蓋以花草編織而成之年輕女性之髮飾。

「衷若(うらわか)み」,表年輕之「衷若(うらわか)し」之み句法。

「去來率川(いざいざかは)」,前句為止乃引出率川之序文。「去來」乃中華俗語催促、招引之意,與率字同音。年幼女郎天真爛熳,少言聽計從,故須多所催促。

1113 【承前,十六十四。】

 此小川 白氣結 瀧至 八信井上爾 事上不為友

 此小川(このをがは) 霧(きり)そ結(むす)べる 激行(たきちゆ)く 走井上(はしりゐのうへ)に 言舉(ことあ)げせねども

 潺潺此小川 白氣露凝漫霧結 瀧水激落兮 激泉八信走井上 吾未揚言何若此

佚名 1113

「霧(きり)そ結(むす)べる」,水氣寧結成霧。自然現象他動詞自動詞者,亦見於置霜、結露等詞。原文白氣者屬義訓。

「激行(たきちゆ)く」,或訓「瀧至(たきちた)る」

「走井(はしりゐ)」,水勢強大噴出之井。或書「激井(はしりゐ)」。「走(り)」有噴發、炸裂之意。

「言舉(ことあ)げせねども」,古俗信言靈,不好輕易揚言。或有俗信以為揚言則吐息化霧云云。

1114 【承前,十六十五。】

 吾紐乎 妹手以而 結八川 又還見 萬代左右荷

 我(わ)が紐(ひも)を 妹(いも)が手以(ても)ちて 結八川(ゆふやがは) 復返見(またかへりみ)む 萬代迄(よろづよまで)に

 逢鹽嗣文紂)綣蟒蠏觚祕疉魁襲名八川 吾欲再三復返見 直至千世萬代後

佚名 1114

「我(わ)が紐(ひも)を 妹(いも)が手以(ても)ちて」,古俗男女相寢之後,互為結紐,直至相逢不解,以期再會。此句乃引出「結八川」之序。

「結八川(ゆふやがは)」,所在未詳。

「復返見(またかへりみ)む」,比喻期待相會之語,無論幾何,決不厭倦。


1115 【承前,十六十六。】

 妹之紐 結八河內乎 古之 并人見等 此乎誰知

 妹(いも)が紐(ひも) 結八河內(ゆふやかふち)を 古(いにしへ)の 皆人見(みなひとみ)きと 此(ここ)を誰知(たれし)る

 與妻相手結 結八之川河內矣 曩古往昔時 殿上宮人皆見歟 此事真偽誰人知

佚名 1115

「妹(いも)が紐(ひも)」,「結八河內」之枕詞

「河內(かふち)」,河川上游谷間平地。

「皆人見(みなひとみ)きと」,人云古代大宮人皆見此景。

「此(ここ)を誰知(たれし)る」,此句反駁上句,作者以為除己之外無人知悉

sherrysherry 2016/11/14 21:01 浦木裕さん、どうも こんばわ
今度こそ、神宮斎宮の写真を借して下さい
出張戻ったら、「斎内親王奉入」を作りたいと思います
よろしくお願いします^へ^

kuonkizunakuonkizuna 2016/11/15 08:59 どうぞご自由に

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2016-09-15-木

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万葉集 卷第六 雜歌

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/manyou/m06.htm

更新


万葉集試訳

1068 詠天

 天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隱所見

 天海(あめのうみ)に 雲波立(くものなみた)ち 月舟(つきのふね) 星林(ほしのはやし)に 漕隱(こぎかく)る見(み)ゆ

 遙遙久方兮 天海雲湧如駭浪 月舟渡大虛 榜入星林沒其間 漕隱之狀今可見

柿本人麻呂 1068

 右一首,柿本朝臣人麻呂之歌集出。

天海(あめのうみ)」,以海比喻天空曠遠蒼藍之狀。常與「月舟」、「雲浪」、「星林」相呼應。

「月舟(つきのふね)」,以舟比喻月之渡空。或以舟表七夕夜月之歌語表現。『懷風藻』文武天皇 五言詠月:「月舟移霧渚 楓楫泛霞濱 臺上澄流耀 酒中沈去輪 水下斜陰碎 樹落秋光新 獨以星間鏡 還浮雲漢津」http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/kaifuu/kaifuu01.htm#monmu『新撰萬葉集』戀歌「瀧河起浪穿月舟 湖浦遄湖折星槍 應謂三冬無熱草 九碧河降氣切苦」http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/sinsen/sm02.htm#215

1069 詠月 【十八第一。】

 常者曾 不念物乎 此月之 過匿卷 惜夕香裳

 常(つね)は曾(かつ)て 思(おも)はぬ物(もの)を 此月(このつき)の 過隱(すぎかく)らまく 惜(をし)き宵(よひ)かも

 日頃恆常者 雖不曾有作此念 然今見此月 過匿雲後隱不見 甚惜今宵此夜矣

佚名 1069

「常(つね)は曾(かつ)て 思(おも)はぬ物(もの)を」,「曾」與「嘗」同。平時未嘗作此思。

「過隱(すぎかく)らまく」,「過」字有漸漸隱而不得見之意。

1070 【承前,十八第二。】

 大夫之 弓上振起 獵高之 野邊副清 照月夜可聞

 大夫(ますらを)の 弓末振起(ゆずゑふりおこ)し 獵高(かりたか)の 野邊(のへ)さへ清(きよ)く 照月夜(てるつくよ)かも

 大夫益荒男 弓末振起箭上絃 將為遊狩之 獵高野邊亦朗照 清冽明晰月夜矣

佚名 1070

大夫(ますらを)の 弓末振起(ゆずゑふりおこ)し」,「弓末(ゆずゑ)」乃「弓末(ゆみずゑ)」之略,弓之上端部。射箭之際,狙擊獵物將放矢之前之準備動作。以上乃引出地名「獵高」之序。

「月夜(つくよ)」,或指有月之夜,或指明月自身。此為後者


1071 【承前,十八第三。】

 山末爾 不知夜歷月乎 將出香登 待乍居爾 夜曾降家類

 山端(やまのは)に 十六夜月(いさよふつき)を 出(い)でむかと 待(ま)ちつつ居(を)るに 夜(よ)そ更(ふ)けにける

 眺望山之端 既望十六夜之月 躊躇月晚出 昂首待月猶豫間 不覺宵闌夜已更

佚名 1071

「山端(やまのは)」,山稜線

十六夜月(いさよふつき)」,既望月。後世訓「いざよふ」,而『古今集』時仍為清音十六夜月遲出,故亦云不知月、猶豫月。作者躊躇當待月與否,不決之間,已然夜深。

1072 【承前,十八第四。】

 明日之夕 將照月夜者 片因爾 今夜爾因而 夜長有

 明日夕(あすのよひ) 照(て)らむ月夜(つくよ)は 片寄(かたよ)りに 今夜(こよひ)に寄(よ)りて 夜長(よなが)からなむ

 明日夕暮後 將照夜月可挪乎 還願其片寄 添於今宵令夜長 只冀今晚莫疾逝

佚名 1072

「片寄(かたよ)りに」,單方面添靠之狀。

「夜長(よなが)からなむ」,與事實相反之未然希求形。雖知無望,仍作此願。

1073 【承前,十八第五。】

 玉垂之 小簾之間通 獨居而 見驗無 暮月夜鴨

 玉垂(たまだ)れの 小簾間通(をすのまとほ)し 獨居(ひとりゐ)て 見(み)る驗無(しるしな)き 夕月夜(ゆふつくよ)かも

 珠麗玉垂兮 小簾隙間目通之 獨居形影孤 隻身獨賞甚無驗 可惜良景暮月夜

佚名 1073

「玉垂(たまだ)れの」,珠簾之雅語。於此修飾同位語之小簾。

「小簾(をす)」,以篠、葦所編成之簾。

「見(み)る驗無(しるしな)き」,無驗於此乃無益之意。此云一人獨觀,美景亦如嚼蠟。作者蓋為女方而枯待男子來訪。

夕月夜(ゆふつくよ)」,高掛夕空之月,蓋十五日以前之月。


1074 【承前,十八第六。】

 春日山 押而照有 此月者 妹之庭母 清有家

 春日山(かすがやま) 押(お)して照(て)らせる 此月(このつき)は 妹(いも)が庭(には)にも 清(さや)けかりけり

 春日山頂上 高空照臨此月者 其光曜無私 吾妻庭亦為所照 幽光清冽曜宿明

佚名 1074

「押(お)して照(て)らせる」,日月於高空照臨之狀。

「清(さや)けかりけり」,けり乃詠嘆眼前之事實。作者到訪戀人之宿,見照臨春日山之明月,亦光曜戀人之庭,故云。


1075 【承前,十八第七。】

 海原之 道遠鴨 月讀 明少 夜者更下乍

 海原(うなはら)の 道遠(みちとほ)みかも 月讀(つくよみ)の 光少(ひかりすく)なき 夜(よ)は更(ふ)けにつつ

 蓋以滄溟之 海遠道遠路遙哉 月讀壯士矣 其光幽微晦不明 難涉之間夜已深

佚名 1075

「海原(うなはら)の 道遠(みちとほ)みかも」,此云明月渡海而來,而或許路途遙遠而未臻。「遠(とほ)みかも」乃み語法之疑問條件語。

「月讀(つくよみ)の 光(ひかり)」,月讀乃擬人化月之名,或云月讀壯士。

類歌980。


1076 【承前,十八第八。】

 百師木之 大宮人之 退出而 遊今夜之 月清左

 百敷(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)の 罷出(まかりで)て 遊(あそ)ぶ今夜(こよひ)の 月清(つきのさや)けさ

 百敷宮闈間 高雅殿上大宮人 罷出興遊宴 所樂今夜月清雅 照臨四方令心清

佚名 1076

「罷出(まかりで)て」,「退(まか)る」乃自貴人之許退下,此云結束當日勤務而退朝。

「遊(あそ)ぶ」,

遊宴。

1077 【承前,十八第九。】

 夜干玉之 夜渡月乎 將留爾 西山邊爾 塞毛有粳毛

 烏玉(ぬばたま)の 夜渡(よわた)る月(つき)を 留(とど)めむに 西山邊(にしのやまへ)に 塞(せき)もあらぬ哉(かも)

 漆遽╋妄臓^婆虛空明月渡 為留此月者 冀於西面山際處 營設關塞止月沉

佚名 1077

「留(とど)めむに」,「むに」接下句命令希求之語,而表示為了達成某目的之意。

「塞(せき)もあらぬ哉(かも)」,「塞(せ)き」乃動詞「塞(せ)く」之名詞形。攔截水流之堰,或限制人物出入之關。此惜月沉,願能留駐,故云。

1078 【承前,十八第十。】

 此月之 此間來者 且今跡香毛 妹之出立 待乍將有

 此月(このつき)の 此間(ここ)に來(きた)れば 今(いま)とかも 妹(いも)が出立(いでた)ち 待(ま)ちつつあるらむ

 皎潔此月之 渡空來至此間者 且今當此時 妹妻蓋思吾將至 出立翹首盼吾臨

佚名 1078

「此月(このつき)の 此間(ここ)に來(きた)れば」,以上為作者推測戀人(妹・妻)內心之語。女方以月之位置,推測男方將至之時。而作者或因事無法成行,或正趕路前往之途中。

1079 【承前,十八十一。】

 真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隱流 天津霧鴨

 真十鏡(まそかがみ) 照(て)るべき月(つき)を 白栲(しろたへ)の 雲(くも)か隱(かく)せる 天霧(あまつきり)かも

 清澄真十鏡 明月當照卻不見 蓋是白栲兮 浮雲蔽月遮太陰 抑或天霧漫空哉

佚名 1079

「真十鏡(まそかがみ)」,「照月」、「清月」之枕詞。以其形象清澄而言。

「白栲(しろたへ)の」,栲木或以其所紡織之絲綢。

「雲(くも)か隱(かく)せる 天霧(あまつきり)かも」,此云抬頭不見明月,蓋是為白栲之雲所遮,或為天霧所蔽。一般並列疑問者,作者主觀以為後者較近事實。

1080 【承前,十八十二。】

 久方乃 天照月者 神代爾加 出反等六 年者經去乍

 久方(ひさかた)の 天照(あまて)る月(つき)は 神代(かみよ)にか 出反(いでかへ)るらむ 年(とし)は經(へ)につつ

 遙遙久方兮 凌空照天明月者 圓闕能復始 蓋是返生歸神代 經年常若永彌新

佚名 1080

「天照(あまて)る月(つき)は」,連體格之天照る之「て」有清濁兩形,此估依前者。

神代(かみよ)にか 出反(いでかへ)るらむ」,此云月缺而復滿,蓋是歸自神代,又復返生乎之推測。

「年(とし)は經(へ)につつ」,明明時代流逝,然而明月卻歷久彌新。


1081 【承前,十八十三。】

 烏玉之 夜渡月乎 可怜 吾居袖爾 露曾置爾雞類

 烏玉(ぬばたま)の 夜渡(よわた)る月(つき)を 可怜(おもしろ)み 我(わ)が居(を)る袖(そで)に 露(つゆ)そ置(お)きにける

 漆遽╋妄臓^婆虛空明月渡 其月甚可怜 吾觀美月久居間 不覺置露沾袖濕

佚名 1081

「可怜(おもしろ)み」,「面白(おもしろ)し」之み句法。本詞意乃見得良景而人心爽朗之狀。而自古用於形容月光之例不少。

1082 【承前,十八十四。】

 水底之 玉障清 可見裳 照月夜鴨 夜之深去者

 水底(みなそこ)の 玉(たま)さへ清(さや)に 見(み)つべくも 照(て)る月夜(つくよ)かも 夜更行(よのふけゆ)けば

 珠玉沉水底 水下寶珠晰可見 如此光照曜 明月懸空清清矣 只消夜之深去者

佚名 1082

「見(み)つべくも」,「つべし」表辦得到之狀態,も乃詠嘆。


1083 【承前,十八十五。】

 霜雲入 為登爾可將有 久堅之 夜渡月乃 不見念者

 霜曇(しもぐも)り すとにかあるらむ 久方(ひさかた)の 夜渡(よわた)る月(つき)の 見(み)え無(な)く思(おも)へば

 蓋入霜曇後 匿其後為所蔽哉 遙遙久方兮 闇夜虛空所渡月 不復得見所以

佚名 1083

「霜曇(しもぐも)り すとにかあるらむ」,霜曇意未詳,或云指霜降寒夜之間,空中陰曇之氣象。と乃とて、というつもり之意。

「見(み)え無(な)く思(おも)へば」,此云昂首不見明月,故推測其原因(當為月入霜曇之後)。

1084 【承前,十八十六。】

 山末爾 不知夜經月乎 何時母 吾待將座 夜者深去乍

 山端(やまのは)に 十六夜月(いさよふつき)を 何時(いつ)とかも 我(あ)が待居(まちを)らむ 夜(よ)は更(ふ)けにつつ

 眺望山之端 十六夜月總遲出 不知何時昇 吾人猶豫待月間 不覺宵闌夜已更

佚名 1084

「何時(いつ)とかも 我(あ)が待居(まちを)らむ」,思量明月何時將出,而持續等待之意。

1085 【承前,十八十七。】

 妹之當 吾袖將振 木間從 出來月爾 雲莫棚引

 妹(いも)が當(あた)り 我(あ)が袖振(そでふ)らむ 木間(このま)より 出來(いでく)る月(つき)に 雲莫棚引(くもなたなび)き

 吾欲指妻方 振袖揮腕示吾情 自林隙木間 所出來兮明月矣 浮雲莫掛勿蔽之

佚名 1085

「妹(いも)が當(あた)り 我(あ)が袖振(そでふ)らむ」,「當り」後省略「に向かって」,朝戀人之方向揮手。

「雲莫棚引(くもなたなび)き」,禁止命令與。此文蓋與戀人纏綿後,步上歸途之男子所詠。


1086 【承前,十八十八。】

 靱懸流 伴雄廣伎 大伴爾 國將榮常 月者照良思

 靫懸(ゆきか)くる 伴男廣(とものをひろ)き 大伴(おほとも)に 國榮(くにさか)えむと 月(つき)は照(て)るらし

 懸靫負箶籙 伴男人眾勢浩大 棟樑大伴氏 大伴之地國彌榮 明月臨照祝常盛

佚名 1086

「靫懸(ゆきか)くる 伴男廣(とものをひろ)き」,引出地名大伴之序文。靫乃納矢背負之具。

大伴氏為守護天皇家之棟樑,地名大伴乃其勢力範圍。


1087 詠雲

 痛足河 河浪立奴 卷目之 由槻我高仁 雲居立有良志

 穴師川(あなしがは) 川波立(かはなみた)ちぬ 卷向(まきむく)の 弓月岳(ゆつきがたけ)に 雲居立(くもゐた)てるらし

 痛足穴師川 川波湧兮河浪立 纏向卷向之 弓月之岳山頂上 想必雲湧叢居哉

柿本人麻呂 1087

「卷向(まきむく)の」,原文「卷目」。應神天皇皇女高目皇女訓「こもくのみこ」。

「雲居立(くもゐた)てるらし」,原文雲居立有良志,而神宮文庫本無「有」字者當訓「雲居立(くもゐた)つらし」。

1088 【承前,第二。】

 足引之 山河之麈掘ゞ蘇勅ぁゝ欸邱癲 ̄昔渡

 足引(あしひき)の 山川(やまがはのせ)の 鳴(なる)なへに 弓月岳(ゆつきがたけ)に 雲立渡(くもたちわた)る

 足引勢險峻 山川壯麗麕枡 伴其湍音響 弓月之岳脊頂上 層雲騰湧渡虛行

柿本人麻呂 1088

 右二首,柿本朝臣人麻呂之歌集出。

山川(やまがはのせ)の」,「」山川(やまがは)麌塾於山中之川(連濁表從屬格),此指前曲穴師川之急鷦言。

「鳴(なる)なへに」,「なへ」表與之一同、伴隨之意。

「雲立渡(くもたちわた)る」,此「渡(わた)る」表滿布之狀。


1089 【承前,第三。】

 大海爾 嶋毛不在爾 海原 絕塔浪爾 立有白雲

 大海(おほきうみ)に 島(しま)も有(あ)ら無(な)くに 海原(うなはら)の 搖盪(たゆた)ふ波(なみ)に 立(た)てる白雲(しらくも)

 綿津見大海 分明海島不有之 滄溟海原間 漂乎搖盪波濤上 所立湧現白雲矣

佚名 1089

 右一首,伊勢從駕作。

大海(おほきうみ)に」,大海或訓「おほうみ」,然有「於保吉宇美」之假名書例,遂訓おほきうみ。

「搖盪(たゆた)ふ」,動搖不安定之狀。

1090 詠雨

 吾妹子之 赤裳裙之 將染埿 今日之霡霂爾 吾共所沾名

 我妹子(わぎもこ)が 赤裳裾(あかものすそ)の 漬(ひづ)ちなむ 今日(けふ)の小雨(こさめ)に 我(われ)さへ濡(ぬ)れな

 愛妻吾妹子 所著赤裳裙裾矣 蓋為漬染埿 今日霡霂小雨下 吾亦共為所沾濡

佚名 1090

「赤裳裾(あかものすそ) 漬(ひづ)ちなむ」,女性拖著赤裳長裾行走,乃官能艶色之表徵。「漬(ひづ)ち」表濡濕。

「我(われ)さへ濡(ぬ)れな」,「な」為願望終助詞。即便與戀人遠隔,仍願能共有體驗而為言。

1091 【承前,第二。】

 可融 雨者莫零 吾妹子之 形見之服 吾下爾著有

 通(とほ)るべく 雨(あめ)は莫降(なふ)りそ 我妹子(わぎもこ)が 形見衣(かたみのころも) 我下(あれした)に著(け)り

 雨矣莫甚零 吾衣濡濕將通透 親親吾妹子 所留信物行見衣 今著服下貼肌身

佚名 1091

形見衣(かたみのころも)」,古俗以為相愛男女離別之時,相互餽贈衣物,將之穿在身上,便能早日相逢。

「下(した)に著(け)り」,以外衣遮蓋,不為他人所見。

1092 詠山 【七首第一。】

 動神之 音耳聞 卷向之 檜原山乎 今日見鶴鴨

 鳴神(なるかみ)の 音(おと)のみ聞(き)きし 卷向(まきむく)の 檜原山(ひはらのやま)を 今日見(けふみ)つるかも

 鳴神雷動兮 唯其聲名音可聞 卷向檜原山 久仰其名未得見 今日終能瞻其容

柿本人麻呂 1092

「音(おと)のみ聞(き)きし」,音於此乃傳聞、名聲之意。「音に聞く」表雖未眼見,但已耳聞。

「卷向(まきむく)の 檜原(ひはら)」,卷向一代之檜原附近亦有泊檜原三輪檜原等。


1093 【承前,七首第二。】

 三毛侶之 其山奈美爾 兒等手乎 卷向山者 繼之宜霜

 三諸(みもろ)の 其山並(そのやまなみ)に 兒等(こら)が手(て)を 卷向山(まきむくやま)は 繼(つ)ぎの宜(よろ)しも

 三諸御室兮 三輪山旁所相並 兒等之手兮 纏向之地卷向山 群峰相繼勢宜哉

柿本人麻呂 1193

「三諸(みもろ)の」,或云みむろ、みもろと。「室(むろ)」乃洞窟之意,轉作神之居所,與神奈備同格。

「兒等(こら)が手(て)を」,以戀人之手為枕﹐「卷向山(まきむくやま)」之枕詞

「繼(つ)ぎの宜(よろ)しも」,山峰相連之勢令人嘆為觀止。

1094 【承前,七首第三。】

 我衣 色取染 味酒 三室山 黃葉為在

 我(あ)が衣(ころも) 色取染(いろどりそ)めむ 味酒(うまさけ) 三室山(みむろのやま)は 黃葉(もみち)しにけり

 吾之所著衣 欲取其色以為染 美酒彌醇矣 三室御諸三輪山 萬葉始渲染紅黃

柿本人麻呂 1194

 右三首,柿本朝臣人麻呂之歌集出。

「味酒(うまさけ)」,三輪山枕詞古語神酒(みき)」或訓「みわ(三輪)」。

「黃葉(もみち)しにけり」,三輪山之木葉開始轉黃。此云賞翫紅葉,欲以之彩染己服。

1095 【承前,七首第四。】

 三諸就 三輪山見者 隱口乃 始麈檜原 所念鴨

 三諸憑(みもろつ)く 三輪山見(みわやまみ)れば 隱國(こもりく)の 泊檜原(はつせのひはら) 思(おも)ほゆるかも

 三諸神所憑 齋三輪山見之者 盆底隱國兮 長谷泊麈檜原 不覺所念更相思

佚名 1095

1096 【承前,七首第五。】

 昔者之 事波不知乎 我見而毛 久成奴 天之香具山

 古(いにしへ)の 事(こと)は知(し)らぬを 我見(われみ)ても 久(ひさ)しく成(なり)ぬ 天香具山(あめのかぐやま)

 太古曩昔時 舊事吾所不知之 然在我所見 其歷已久亙古今 芳來天之香具山

佚名 1096

「古(いにしへ)の 事(こと)は知(し)らぬを」,有關天香山之古事。如伊豫風土記「所名天山由者,倭在天加具山。自天天降時,二分而以片端者,天降於倭國。以片端者,天降於此土。因謂天山,本也。」等。http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/fuudo/itubun/itubun03.htm#iyo


1097 【承前,七首第六。】

 吾勢子乎 乞許世山登 人者雖云 君毛不來益 山之名爾有之

 我(わ)が背子(せこ)を 此方巨勢山(こちこせやま)と 人(ひと)は言(い)へど 君(きみ)も來坐(きま)さず 山名(やまのな)に有(あ)らし

 人云吾兄子 將來此方巨勢山 人雖云如此 君甚薄情不來坐 徒有山名卻無實

佚名 1097

「我(わ)が背子(せこ)を 此方(こち)」,引出地名巨勢(こせ)」之序。「此方(こち)」乃近稱方向指示語。與巨勢同音之「來(こ)せ」乃使來之意。

山名(やまのな)に有(あ)らし」,「あらし」乃「あるらし」之略。責備巨勢山有名無實。

1098 【承前,七首第七。】

 木道爾社 妹山在云 櫛上 二上山母 妹許曾有來

 紀道(きぢ)にこそ 妹山在(いもやまあり)と云(い)へ 櫛上(くしがみ)の 二上山(ふたかみやま)も 妹(いも)こそ有(あり)けれ

 人云紀道間 妹山聳立在途中 然在櫛上之 寧樂御所二上山 亦有妹山居其間

佚名 1098

「櫛上(くしがみ)の」,一般指越中國同明之二上山且多以玉櫛冠之。或與奈良御所市櫛羅之地名有關。

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2016-08-26-金

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お盆放浪まとめ


万葉集試訳

1032 狹殘行宮,大伴宿禰家持作歌二首 【承前。家持二首第一。】

 天皇之 行幸之隨 吾妹子之 手枕不卷 月曾歷去家留

 大君(おほきみ)の 行幸隨(みゆきのまにま) 我妹子(わぎもこ)が 手枕卷(たまくらま)かず 月(つき)そ經(へ)にける

 奉為天皇之 行幸之隨至異鄉 親親吾妹子 不得纏汝手為枕 已然經月歷日久

大伴家持 1032

「狹殘(ささ)行宮」,所在未詳。惑擬多氣郡佐佐夫江神社之地。一說乃「狹淺」之訛,「ささ」則「さあさ」之略。

行幸隨(みゆきのまにま)」,隨(まにま)與隨(まにま)に同。伴隨,附從。


1033 【承前。家持二首第二。】

 御食國 志麻乃海部有之 真熊野之 小船爾乘而 奧部榜所見

 御食國(みけつくに) 志摩海人(しまのあま)ならし 真熊野(まくまのの)の 小船(をぶね)に乘(の)りて 沖邊漕見(おきへこぐみ)ゆ

 海幸御食國 志摩海人白水郎 紀洲真熊野 熊野小船漁人乘 榜於沖邊今可見

大伴家持 1033

「御食國(みけつくに)」,志摩國海產豐富,貢奉鮑、鰹、鯛等於類乾肉與諸多海藻等海幸之類。

「真熊野(まくまのの)の 小船(をぶね)」,熊野以造舟技術聞名。


1034 美濃國多藝行宮大伴宿禰東人作歌一首 【承前。】

 從古 人之言來流 老人之 變若云水曾 名爾負瀧之

 古(いにしへ)ゆ 人言來(ひとのい)ひける 老人(おいひと)の 變若(をつ)と云(い)ふ水(みづ)そ 名(な)に負(お)ふ瀧(たきのせ)

 自古曩昔時 古老口耳相傳來 返老令還童 不老長命變若水 負此名兮瀧黷

伴東人 1034

「老人(おいひと)の 變若(をつ)と云(い)ふ水(みづ)」,按『續日本紀』靈龜三年九月條:「甲寅,(行幸)至美濃國。(中略)丙辰,幸當耆郡,覽多度山美泉。」十一月詔:「朕以今年九月,到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉,自盥手面,皮膚如滑。亦洗痛處,無不除愈。在朕之躬,甚有其驗。又,就而飲浴之者,或白髮反遏ぐ頹髮更生,或闇目如明。自餘痼疾,咸皆平愈。昔聞:『後漢光武時,醴泉出。飲之者,痼疾皆愈。』符瑞書曰:『醴泉者,美泉。可以養老,蓋水之精也。』寔惟,美泉即合大瑞。朕雖庸虛,何違天貺?可大赦天下,改靈龜三年,為養老元年。」http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki07.htm#skk07_05

1035 大伴宿禰家持作歌一首 【承前。】

 田跡河之 瀧乎清美香 從古 官仕兼 多藝乃野之上爾

 田跡川(たどかは)の 瀧(たき)を清(きよ)みか 古(いにしへ)ゆ 宮仕(みやつか)へけむ 多藝野上(たぎのののうへ)に

 美濃田跡河 養老之瀧水清明 故自曩昔時 迎造宮殿在此境 多藝野上醴泉處

大伴家持 1035

「田跡川」,在美濃養老郡養老町,變若瀧之附近。

「多藝」,多藝行宮,今不詳所在。

1036 不破行宮,大伴宿禰家持作歌一首 【承前。】

 關無者 還爾谷藻 打行而 妹之手枕 卷手宿益乎

 關無(せきな)くは 歸(かへ)りにだにも 打行(うちゆ)きて 妹(いも)が手枕(たまくら) 卷(ま)きて寢益(ねまし)を

 天險不破關 若於茲無此關者 蓋難按歸情 縱令打行暫還鄉 欲枕妹腕更復來

大伴家持 1036

「不破」,不破關。不破關與伊勢鈴鹿關、越前愛發關並稱三關。

「關無(せきな)くは」,若無不破關。假定語氣。

「歸(かへ)りにだにも」,「だに」表「至少」。美濃大和相去甚遠,常住大和不可能。然願至少能偶返家中。字不破關去奈良,單成百廿公里,往復需耗六日。

1037 十五年癸未秋八月十六日,內舍人大伴宿禰家持讚久邇京作歌一首

 今造 久邇乃王都者 山河之 清見者 宇倍所知良之

 今造(いまつく)る 久邇都(くにのみやこ)は 山川(やまかは)の 清(さや)けき見(み)れば 宜知(うべし)らすらし

 今之所造營 恭仁新京久邇都 山川誠壯麗 見之清清醋声圈|猟蠹垪》耆宜

大伴家持 1037

「久邇京」,聖武帝於天平二年十二月至十六年閏正月,以恭仁(久邇)京為都。然此其間之內,於近江甲賀郡山中營紫香樂宮而頻幸。此歌所詠八月中旬,當聖武帝七月末至十二月初,長滯紫香樂宮達三月之最中。而左大臣橘諸兄等留守久邇京。

「今造(いまつく)る 久邇都(くにのみやこ)は」,久邇京造營,耗時三月,所費不貲,而於此年十二月廿六日停建。

「宜(うべ)」,理當如此,理所當然。


1038 高丘河內連歌二首

 故鄉者 遠毛不有 一重山 越我可良爾 念曾吾世思

 故鄉(ふるさと)は 遠(とほ)くも非(あら)ず 一重山(ひとへやま) 越(こ)ゆるがからに 思(おも)ひそ我(あ)がせし

 故鄉平城者 去此不遠實非遙 區區一重山 雖知越之即得還 然吾不禁仍慕念

高丘河內 1038

「高丘河內」,高丘連河內,紫香樂宮造宮司之一。

「故鄉(ふるさと)」,此云平城舊都。

「越(こ)ゆるがからに」,新舊兩京僅隔奈良山丘陵,相去十公里。「からに」有原因細微而結果重大之感。

「思(おも)ひそ我(あ)がせし」,一者思鄉,更者思人。欲與久未逢晤之人相會,其情難抑。

1039 【承前。】

 吾背子與 二人之居者 山高 里爾者月波 不曜十方余思

 我(わ)が背子(せこ)と 二人(ふたり)し居(を)らば 山高(やまたか)み 里(さと)には月(つき)は 照(て)らずとも良(よ)し

 若與吾兄子 二人與共相居者 山高圍青垣 里中隱國遮太陰 月雖不曜無所惜

高丘河內 1039

「我(わ)が背子(せこ)」,居於平城舊京之男性友人。或云此歌乃留守舊京之妻女思夫所作。

「二人(ふたり)し居(を)らば」,假定事實表現

「里(さと)」,此云平城舊京。

「照(て)らずとも良(よ)し」,無所缺乏之放任語句。若能與君兩人相共,則即便月光不照亦無所謂。

1040 安積親王宴左少辨藤原八束朝臣家之日,內舍人大伴宿禰家持作歌一首

 久堅乃 雨者零敷 念子之 屋戶爾今夜者 明而將去

 久方(ひさかた)の 雨(あめ)は降頻(ふりし)け 思兒(おもふこ)が 宿(やど)に今夜(こよひ)は 明(あ)かして行(ゆ)かむ

 遙遙久方兮 雨自天零降頻頻 今夜避雨宿 留居思兒屋戶間 待至天明而方去

大伴家持 1040

「久方(ひさかた)の」,「天」、「雨」之枕詞。古人以為天(あめ、あま)在空(そら)上,而雨(あめ)乃自天而零。

「雨(あめ)は降頻(ふりし)け」,雨頻降之狀。

「思兒(おもふこ)が」,此乃男性對所思念之少女之呼稱。

此擬藤原八束留戀之情,藉口雨降,留宿愛人之邸,欲待天明之後方離去。

1041 十六年甲申春正月五日,諸卿大夫集安倍蟲麻呂朝臣家宴歌一首 【作者不審。】

 吾屋戶乃 君松樹爾 零雪乃 行者不去 待西將待

 我(わ)が宿(やど)の 君松木(きみまつのき)に 降雪(ふるゆき)の 行(ゆ)きには行(ゆ)かじ 待(ま)ちにし待(ま)たむ

 吾猶我宿之 君松木之名所如 雪雖零其上 不妄前行擅往去 引領久待盼君來

佚名 1041

「君松木(きみまつのき)に」,此與「君松浦山」同,借同音而為「待君」之喻。

「降雪(ふるゆき)の」,以上乃引出「行き」之序。

按「松」與「待」同音,「雪」與「行」同音,作者選擇持續等待,而非起而行之。

1042 同月十一日,登活道岡,集一株松下飲歌二首

 一松 幾代可歷流 吹風乃 聲之清者 年深香聞

 一松(ひとつまつ) 幾代(いくよ)か經(へ)ぬる 吹風(ふくかぜ)の 聲清(こゑのきよ)きは 年深(としふか)み哉(かも)

 獨樹孤松矣 汝經幾世歷幾代 吹風聲清者 蓋已年深歷時久 古色蒼鬱隨神哉

市原王 1042

 右一首,市原王作。

「聲清(こゑのきよ)きは」,原文「聲之清者」。聲字或可訓作おと,然考慮松樹擬人化表現,故訓こゑ。


1043 【承前。】

 靈剋 壽者不知 松之枝 結情者 長等曾念

 靈剋(たまきは)る 命(いのち)は知(し)らず 松(まつ)が枝(え)を 結(むす)ぶ心(こころ)は 長(なが)くとそ思(おも)ふ

 靈剋魂極矣 命之壽限無由知 然吾結松枝 祈願之情望長青 冀得長壽比松齡

大伴家持 1043

 右一首,大伴宿禰家持作。

「靈剋(たまきは)る」,命之枕詞

「松(まつ)が枝(え)を 結(むす)ぶ心(こころ)は」,古俗結松枝以占驗,或祈求平安、長壽、幸福


1044 傷惜寧樂京荒墟作歌三首 【作者不審。】

 紅爾 深染西 情可母 寧樂乃京師爾 年之歷去倍吉

 紅(くれなゐ)に 深染(ふかくし)みにし 心(こころ)かも 奈良都(ならのみやこ)に 年經(としのへ)ぬべき

 朱料色真赤 深染鮮紅沁赭匂 吾今以此情 身居荒墟寧樂京 傷惜奈良當經年

佚名 1044

「紅(くれなゐ)に 深染(ふかくし)みにし 心(こころ)かも」,如朱色染料浸透深染般,沁至內心深處對於舊都之情感。「紅(くれなゐ)」乃「紅花(べにばな)」,菊科多年草夏日綻開鮮黃之花,而為胭脂之原料。或名末摘花。

1045 【承前。】

 世間乎 常無物跡 今曾知 平城京師之 移徙見者

 世間(よのなか)を 常無(つねな)き物(もの)と 今(いま)そ知(し)る 奈良都(ならのみやこ)の 移(うつろ)ふ見(み)れば

 空蟬憂世間 諸行無常總遷變 吾今悟此理 眼見平城京移徙 往時榮景不復存

佚名 1045

奈良都(ならのみやこ)の 移(うつろ)ふ」,「移ふ」意指都市文化時間經過而衰廢。按『續日本紀天平十六年閏正月詔喚會百官於朝堂問:「恭仁、難波二京、何定為都?各言其志。」官人陳恭仁、難波京便宜者各半。又遣巨勢奈弖麻呂、藤原仲麻呂,就市問定京之事。市人皆願以恭仁京為都,但有願難波者一人,願平城者一人。 http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki15.htm#skk15_04

1046 【承前。】

 石綱乃 又變若反 青丹吉 奈良乃都乎 又將見鴨

 岩綱(いはつな)の 又變若返(またをちかへ)り 青丹良(あをによ)し 奈良都(ならのみやこ)を 又(また)も見(み)む哉(かも)

 石葛岩綱兮 又復返老還盛年 青丹誠良矣 平城寧樂奈良京 榮景可將復見歟

佚名 1046

「岩綱(いはつな)の」,「變若(をつ)」之枕詞。岩綱或書石葛(いはつな),蔓性植物。其蔓廣生蔓延,時時繞回原地。故云。

以上乃『萬葉集』卷六主要部分,原則明記年代。其後廿一首者,自田邊福麻呂歌集中擷取雜歌而成。

1047 悲寧樂故鄉作歌一首 【并短歌。】

 八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國爾之有者 阿禮將座 御子之嗣繼 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春爾之成者 春日山 御笠之野邊爾 櫻花 木晚牢 皃鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去來者 射駒山 飛火賀嵬丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狹男壯鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思煎敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮將徃跡 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事爾之有者 皇之 引乃真爾真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒爾異類香聞

 八隅治(やすみし)し 我(わ)が大君(おほきみ)の 高敷(たかし)かす 大和國(やまとのくに)は 皇祖(すめろき)の 神御代(かみのみよ)より 敷坐(しきま)せる 國(くに)にしあれば 生坐(あれまさ)む 御子繼繼(みこのつぎつ)ぎ 天下(あめのした) 知(し)らし坐(まさ)むと 八百萬(やほよろづ) 千年(ちとせ)を兼(か)ねて 定(さだ)めけむ 奈良都(ならのみやこ)は 陽炎(かぎろひ)の 春(はる)にし成(な)れば 春日山(かすがやま) 御笠野邊(みかさののへ)に 櫻花(さくらばな) 木暗隱(このくれがく)り 貌鳥(かほどり)は 間無(まな)く數鳴(しばな)く 露霜(つゆしも)の 秋去來(あきさりく)れば 生駒山(いこまやま) 飛火(とぶひ)が崗(をか)に 萩枝(はぎのえ)を 柵散(しがらみち)らし 小雄鹿(さをしか)は 妻呼響(つまよびとよ)む 山見(やまみ)れば 山(やま)も見(み)が欲(ほ)し 里見(さとみ)れば 里(さと)も住良(すみよ)し 文武百官(もののふ)の 八十伴男(やそとものを)の 裏這(うちは)へて 思(おも)へりしくは 天地(あめつち)の 寄合(よりあ)ひの極(きは)み 萬代(よろづよ)に 榮(さか)え行(ゆ)かむと 思(おも)へりし 大宮(おほみや)すらを (たの)めりし 奈良都(ならのみやこ)を 新代(あらたよ)の 事(こと)にしあれば 大君(おほきみ)の 引(ひ)きの隨(まにま)に 春花(はるはな)の 移變(うつろひかは)り 群鳥(むらとり)の 朝立行(あさだちゆ)けば 刺竹(さすたけ)の 大宮人(おほみやひと)の 踏平(ふみなら)し 通(かよ)ひし道(みち)は 馬(うま)も行(ゆ)かず 人(ひと)も行(ゆ)かねば 荒(あ)れにけるかも

 八隅治天下 經綸恢弘吾大君 高敷臨御宇 秋津大和之國者 皇祖皇宗之 神武大御代以來 定以為京師 光宅敷座秀國矣 天津日嗣之 所生御子繼綿延 掩天下八紘 以為一宇躬君臨 八百萬無限 兼知未然千年後 定都營京師 平城寧樂奈良京 陽炎絢麗兮 時值佐保春日臨 乃樂春日山 以至御笠野邊間 櫻木花盛咲 隱於木暗樹蔭間 妍麗貌鳥者 數鳴無間報春暖 露霜降置白 龍田之秋去來者 乃樂生駒山 以至飛火崗岳間 蹋散萩枝而 步迴柵散亂落柄 雄牡小壯鹿 呼妻聲響鳴迴盪 見彼寧樂山 山明觀之不厭飽 顧彼平城里 里鄉宜居寔住吉 文武百官之 八十伴緒益荒男 裏這續綿延 古今末長所思者 玄天黃地之 寄合相交遠極處 永久萬代間 繁華榮盛無絕時 吾雖作此思 所念百敷大宮處 吾雖寄憑髻\鎮偉表奈良都 時值新御代 以彼萬象須更新 大君命惶恐 唯諾隨君之所率 一猶春華兮 世事無常早移變 復如群鳥兮 朝日出行別去者 刺竹生茂繁 百敷宮闈大宮人 過去所蹋平 絡繹不絕蟻通道 人事咸已非 馬之不行人不往 寧樂故鄉今荒頹

田邊福麻呂 1047

「高敷(たかし)かす」,營造都城,於高處照覽、統治國家。結合「高知」與「太敷」之語。

「皇祖(すめろき)の 神御代(かみのみよ)より」,「すめろき」或書為天皇,代代皇祖或某一代天皇之稱,此云初代神武天皇

「天下(あめのした) 知(し)らし坐(まさ)むと」,此句之前省略「於此奈良之地」。

「千年(ちとせ)を兼(か)ねて」,「兼(か)む」乃預想之意。『日本書紀』推古紀有云:「兼知未然。」

陽炎(かぎろひ)の」,春季之代表景色,故作為春之枕詞。「露霜(つゆしも)の」,秋季代表景色,秋之枕詞

「木暗(このくれ)」,樹蔭。

「飛火(とぶひ)が崗(をか)」,設有烽火台之山。按『日本書紀』天智記三年是歲條:「是歲,於對馬嶋、壹岐嶋、筑紫國等,置防與烽。」http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki27.htm#sk27_04

「裏這(うちは)へて」,「這(は)ふ」乃長時間對特定對象有所寄情之意。

「天地(あめつち)の 寄合(よりあ)ひの極(きは)み」,為強調食間上之永遠,而徵引此空間上之無限語句以為照應。

大宮(おほみや)すらを」,「すらを」表「明明雖然如此,然而...」之意。

「新代(あらたよ)の」,恭仁京遷都,萬象更新,而橘氏取代藤原朝廷首班之局勢、抱負

「引(ひ)きの隨(まにま)に,順從天皇之引導。按天平十三年詔,五位以上者,不得無斷留住平城京。實質乃強制遷移。

「春花(はるはな)の」,以花謝移落,而為「移變」之枕詞

「群鳥(むらとり)の」,以鳥群早朝飛翔之習,而為「朝立(あさだ)ち」之枕詞

「朝立行(あさだちゆ)けば」,比喻急促搬至新都之狀。

「踏平(ふみなら)し」,形容絡繹不絕,凹凸不平之道路為往來人馬所踏平。


1048 反歌二首 【承前。】

 立易 古京跡 成者 道之志婆草 長生爾異煎

 立變(たちかは)り 古都(ふるきみやこ)と 成(な)りぬれば 道芝草(みちのしばくさ) 長(なが)く生(お)ひにけり

 世易時移矣 寧樂故鄉化舊京 今日以此故 道中芝草生長茂 荒煙廢絕令鼻酸

田邊福麻呂 1048

「立變(たちかは)り」,世易時移,新出現之事物取代舊者。

「道芝草(みちのしばくさ)」,過去大宮人等頻繁往來之平城京路上,因人潮不再而孳生之雜草。


1049 【承前。】

 名付西 奈良乃京之 荒行者 出立每爾 嘆思益

 懷(なつ)きにし 奈良都(ならのみやこ)の 荒行(あれゆ)けば 出立(いでた)つ每(ごと)に 嘆(なげ)きし(ま)さる

 所懷所馴染 奈良故鄉寧樂京 以彼荒廢者 每逢出行佇屋外 見此悲景徒畸

田邊福麻呂 1049

「懷(なつ)きにし」,「懷(なつ)く」乃熟悉之狀。

「出立(いでた)つ」,出於屋外,佇立道中。乃庇於家中之「居坐」之相對詞。


1050 讚久邇新京歌二首 【并短歌。】

 明津神 吾皇之 天下 八嶋之中爾 國者霜 多雖有 里者霜 澤爾雖有 山並之 宜國跡 川次之 立合鄉跡 山代乃 鹿脊山際爾 宮柱 太敷奉 高知為 布當乃宮者 河近見 湍音敘清 山近見 鳥賀鳴慟 秋去者 山裳動響爾 左男鹿者 妻呼令響 春去者 岡邊裳繁爾 巖者 花開乎呼理 痛可怜 布當乃原 甚貴 大宮處 諾己曾 吾大王者 君之隨 所聞賜而 刺竹乃 大宮此跡 定異等霜

 現神(あきつかみ) 我(わ)が大君(おほきみ)の 天下(あめのした) 八島內(やしまのうち)に 國(くに)はしも 澤(さは)に有(あ)れども 里(さと)はしも 澤(さは)に有(あ)れども 山並(やまなみ)の 宜(よろ)しき國(くに)と 川並(かはなみ)の 立合(たちあ)ふ里(さと)と 山背(やましろ)の 鹿脊山際(かせやまのま)に 宮柱(みやばしら) 太敷奉(ふとしきまつ)り 高知(たかし)らす 布當宮(ふたぎのみや)は 川近(かはちか)み 鷁(せのおと)ぞ清(きよ)き 山近(やまちか)み 鳥(とり)が音響(ねとよ)む 秋去(あきさ)れば 山(やま)も轟(とどろ)に 小雄鹿(さをしか)は 妻呼響(つまよびとよ)め 春去(はるさ)れば 岡邊(をかへ)も繁(しじ)に 巖(いはほ)には 花咲撓(はなさきをを)り 痛怜(あなおもしろ) 布當原(ふたぎのはら) 甚貴(いとたふと) 大宮所(おほみやところ) 宜(うべ)しこそ 吾(わ)が大君(おほきみ)は 隨君(きみながら) 聞(き)かし賜(たま)ひて 刺竹(さすたけ)の 大宮此處(おほみやここ)と 定(さだ)めけらしも

 明神現人神 經綸恢弘吾大君 六合天之下 所治大八洲國中 諸國雖多有 無處地靈猶此矣 諸里雖多在 莫有人傑若此矣 山並誠巍峨 山明壯麗宜國矣 川並寔蜿蜒 錯蹤絡合秀里矣 山背山城之 鹿脊山之麓際處 豎立嚴宮柱 太敷奉立營廣厚 建之治高聳 久邇新京布當宮 去川程不遠 鷁止ミダ鏡金磧ゝ郢各刺埀鵝…嗣音響渡繞樑 時值秋日者 山中聲鳴響轟轟 牡雄小壯鹿 戀妻呼鳴題不斷 時值春日者 崗邊寔繁無間斷 磐根巨巖間 百花爭鳴撓亂咲 嗚呼甚憐矣 美不勝收布當原 其尊高貴矣 此其百敷大宮所 宜矣如是哉 英明聖絕吾大君 隨臣之所奏 聞賜諸兄獻策者 定彼刺竹之 榮盛繁茂大宮所 鎮座此地御宇哉

田邊福麻呂 1050

「現神(あきつかみ)」,顯現行姿於現世之神。神多隱身,而天皇則為現人神、顯人神。大化改新之詔,有明神之語。

「八島(やしま)」,日本之別稱,或云大八洲國。按『古事記』,乃淡路、四國、隱岐、九州、壹岐、對馬、佐渡、本洲。

「國(くに)はしも 澤(さは)に有(あ)れども」,讚美國勢之常套語。諸國雖多,以此國最勝。

「山並(やまなみ)」,山脈相連之狀。

「川並(かはなみ)の 立合(たちあ)ふ里(さと)と」,川並乃河道。此云河筋錯蹤交絡之狀。概指和束川、石部川交匯於泉川而為言。

「宮柱(みやばしら) 太敷奉(ふとしきまつ)り」,造營宮殿堅實壯大,以之奉呈獻上。主語概為橘諸兄

「山(やま)も轟(とどろ)に」,連山亦為之震撼。

「繁(しじ)に」,緊密無間斷。

「痛怜(あなおもしろ)」,「怜(おもしろ)」指景色明媚,令觀者心曠神怡。

大宮所(おほみやところ)」,以皇居未完成,遂用此語。此歌雖讚久邇新京,然宮殿造營於十五年中斷,而當於每年元旦舉行之百官朝賀,此十六年亦因太極殿未成而廢朝。

「隨君(きみながら)」,此君指橘諸兄,與意指聖武天皇之大君有別。橘氏別業在相樂之地,諸兄或欲借藤原廣嗣之亂之機,遠離平城,一掃藤原勢力。

「聞(き)かし賜(たま)ひて」,此云聖武帝聽取諸兄之獻策。


1051 反歌二首 【承前,反歌第一。】

 三日原 布當乃野邊 清見社 大宮處【一云,此跡標刺。】 定異等霜

 三香原(みかのはら) 布當野邊(ふたぎののへ)を 清(きよ)みこそ 大宮所(おほみやところ)【一云(またにいふ)、此處(ここ)と標刺(しめさ)し。】 定(さだ)めけらしも

 賀茂三香原 久邇布當野邊處 以其清清故 定為百敷大宮所 【一云,標刺此處為宮闕。】 長治六合永久

田邊福麻呂 1051

「標刺(しめさ)し」,打杭標識占有地域。標乃明示神或己之領地之標記。此云完成造迎新都之計畫,將之實行。


1052 【承前,反歌第二。】

 山高來 川乃湍清石 百世左右 神之味將徃 大宮

 山高(やまたか)く 川鸚(かはのせきよ)し 百代迄(ももよまで) 神(かむ)しみ行(ゆ)かむ 大宮所(おほみやところ)

 山高勢巍峨 水秀川黨收鏡供≦堽疉澗絽紂々更埒誓脂称念辧嗚呼美哉大宮

田邊福麻呂 1052

「山高(やまたか)く」,諸本原文作「弓高來」,概訛。神宮文庫本弓字有註やま之訓。

「神(かむ)しみ行(ゆ)かむ」,「神(かむ)しみ」意同「神(かむ)さぶ」。

1053 【讚久邇新京歌第二。】

 吾皇 神乃命乃 高所知 布當乃宮者 百樹成 山者木高之 落多藝都 湍音毛清之 鸎乃 來鳴春部者 巖者 山下耀 錦成 花咲乎呼里 左壯鹿乃 妻呼秋者 天霧合 之具禮乎疾 狹丹頰歷 黃葉散乍 八千年爾 安禮衝之乍 天下 所知食跡 百代爾母 不可易 大宮

 吾(わ)が大君(おほきみ) 神尊(かみのみこと) 高知(たかし)らす 布當宮(ふたぎのみや)は 百木盛(ももきも)り 山(やま)は木高(こだか)し 落激(おちたぎ)つ 鷁(せのおと)も清(きよ)し 鶯(うぐひす)の 來鳴(きな)く春邊(はるへ)は 巖(いはほ)には 山下光(やましたひか)り 錦為(にしきな)す 花咲撓(はなさきをを)り 小雄鹿(さをしか)の 妻呼(つまよ)ぶ秋(あき)は 天霧(あまぎら)ふ 時雨(しぐれ)を疾(いた)み 小丹面(さにつら)ふ 黃葉散(もみちち)りつつ 八千年(やちとせ)に 生付(あれつ)かしつつ 天下(あめのした) 知(し)らしめさむと 百代(ももよ)にも 變(かは)るましじき 大宮所(おほみやところ)

 吾皇我大君 顯人明神神尊矣 高築治天下 久邇新京布當宮 百木生繁茂 山間樹高盛蒼鬱 水落湍流激 鷁酸串釡鄂反粥黃鶯啼出谷 來鳴報暖春日者 春日巖磐根 縱令山下亦光曜 絢爛猶華錦 百花爭艷撓亂咲 牡雄小壯鹿 呼妻戀啼秋日者 天霧曇蔽空 時雨疾降零不止 染赤小丹面 黃葉舞散降紛紛 永末八千年 生兒八十綿延胤 於此治天下 高知御宇馭國中 縱令百代後 屹立不搖莫可易 偉哉久邇大宮

田邊福麻呂 1053

「百木盛(ももきも)り」,「盛(も)る」乃繁茂之意。與森、冬籠等語亦有所關連。

「木高(こだか)」,樹木高大茂盛。

山下光(やましたひか)り」,山下光明輝耀。一般山下乃日蔭之處,此確光曜。修飾下句「花咲撓(はなさきをを)り」。

「錦為(にしきな)す」,猶如錦織一般。此云花開爭艷,令人將誤以為錦織

「天霧(あまぎら)ふ」,天空一面為雲霧所遮。

「小丹面(さにつら)ふ」,帶著赤色之意。「さ」乃接頭語,而「丹面ふ」表男女面色紅潤,容貌姣好。

「生付(あれつ)かしつつ」,天皇代代子孫生於此地,容景無限之狀。

「變(かは)るましじき」,打消推量語,意與べし相反。此云宮殿美崙美奐,絕不可能俄然衰頹。


1054 反歌五首 【承前,反歌五首第一。】

 泉川 徃麈疑綰掘絕者許曾 大宮地 遷徃目

 泉川(いづみがは) 行鷽(ゆくせのみづ)の 絕(た)えばこそ 大宮所(おほみやところ) 移行(うつろひゆ)かめ

 泉川徃黷磧\多緝堊充鱗賁襦‖郷緻絕時 除非一旦逝水斷 大宮方有衰移時

田邊福麻呂 1054

「絕(た)えばこそ」,以泉川(木津川)水無絕時,預祝久邇京榮華不斷。直譯為若久邇京有衰移之時,除非泉川水斷,否則決無可能。

「移行(うつろひゆ)かめ」,人物離散,宮殿衰廢之狀。

1055 【承前,反歌五首第二。】

 布當山 山並見者 百代爾毛 不可易 大宮

 布當山(ふたぎやま) 山並見(やまなみみ)れば 百代(ももよ)にも 變(かは)るましじき 大宮所(おほみやところ)

 久邇布當山 見比連山峻勢者 可知百代後 巍峨不變永屹立 偉哉久邇大宮

田邊福麻呂 1055

「山並(やまなみ)」,山岳連貫之狀。此概自恭仁京北望海住山寺所居三上山連山所云。

1056 【承前,反歌五首第三。】

 妗嬬等之 續麻繫云 鹿脊之山 時之徃者 京師跡成宿

 娘子等(をとめら)が 績麻懸(うみをか)くと云(い)ふ 鹿脊山(かせのやま) 時9とき)し行(ゆ)ければ 都(みやこ)と成(なり)ぬ

 昔日娘子等 績麻懸兮通桛之 足曳鹿脊山 世易

時移歷運轉 今作京師化都城

田邊福麻呂 1056

「績麻懸(うみをか)くと云(い)ふ」,以同音引「出鹿脊山(かせのやま)」之序。「桛(かせ)」乃紡織所用之木器。

「都(みやこ)と成(なり)ぬ」,成為京師。此表現對於驟然之變化感到訝異。

1057 【承前,反歌五首第四。】

 鹿脊之山 樹立矣繁三 朝不去 寸鳴響為 鸎之音

 鹿脊山(かせのやま) 木立(こだ)ちを繁(しげ)み 朝去(あささ)らず 來鳴響(きなきとよ)もす 鶯聲(うぐひすのこゑ)

 足曳鹿脊山 木立寔繁茂蒼鬱 以彼蒼翠故 每朝不闕來鳴響 鶯聲繞梁音不絕

田邊福麻呂 1057

「朝去(あささ)らず」,每朝。「去(さ)らず」為不闕、不欠之意,故此。


1058 【承前,反歌五首第五。】

 狛山爾 鳴霍公鳥 泉河 渡乎遠見 此間爾不通【一云,渡遠哉,不通有武。】

 狛山(こまやま)に 鳴(な)く霍公鳥(ほととぎす) 泉川(いづみがは) 渡(わた)りを遠(とほ)み 此處(ここ)に通(かよ)はず【一云(またにいふ)、渡遠(わたりとほ)みか、通(かよ)はざるらむ。】

 蒼翠狛山間 所鳴郭公不如歸 以彼泉川之 所渡河幅廣遠故 不通此間不來哉【一云,渡魴河廣遠哉,於是不通吾甚惜。】

田邊福麻呂 1058

「渡(わた)り」,應當渡行之處。北岸狛山,與南岸法華寺野,夾泉川而對,又川幅以此最宰。若鶯欲飛渡此川,當從此地。然卻不來。

「此處(ここ)に通(かよ)はず」,「此處(ここ)」表作者居所。概於泉川南岸鹿脊山側所詠。

「渡遠(わたりとほ)みか、通(かよ)はざるらむ。」,此云鶯之不來,概因川幅廣遠之故乎。

1059 春日悲傷三香原荒墟作歌一首 【并短歌。】

 三香原 久邇乃京師者 山高 河之鸚供〆澣叛廖/夕夊云 在吉跡 吾者雖念 故去之 里爾四有者 國見跡 人毛不通 里見者 家裳荒有 波之異耶 如此在家留可 三諸著 鹿脊山際爾 開花之 色目列敷 百鳥之 音名束敷 在杲石 住吉里乃 荒樂苦惜哭

 三香原(みかのはら) 久邇都(くにのみやこ)は 山高(やまたか)み 川鸚(かはのせきよ)み 住良(すみよ)しと 人(ひと)は言(い)へども 在良(ありよ)しと 我(われ)は思(おも)へど 古(ふ)りにし 里(さと)にしあれば 國見(くにみ)れど 人(ひと)も通(かよ)はず 里見(さとみ)れば 家(いへ)も荒(あ)れたり 愛(は)しけやし 如是(かく)ありけるか 三諸齋(みもろつ)く 鹿脊山際(かせやまのま)に 咲花(さくはな)の 色珍(いろめづ)らしく 百鳥(ももとり)の 聲懷(こゑなつか)しく 在(あり)が欲(ほ)し 住良(すみよ)き里(さと)の 荒(あ)るらく惜(を)しも

 賀茂三香原 恭仁久邇京師者 山高勢巍峨 水秀川黨收鏡供/頼云此地 宜室宜家寔住吉 我雖思此地 宜居宜棲寔在吉 然今為荒墟 化作故里舊都者 迴首顧國中 門可羅雀無人通 迴首顧里間 家亦荒頹蔓草生 嗚呼哀憐哉 世間無常如是乎 神齋三諸岳 鹿脊山際麓陲處 妍花咲爭艷 花色絢爛貴珍奇 百鳥啼爭鳴 鳥囀聲懷誠難捨 吾願得久居 如此宜住良里之 化作荒墟令人惜

田邊福麻呂 1059

「愛(は)しけやし」,此為感慨世間何以如此無常渺然之狀。

「三諸齋(みもろつ)く」,三諸山多為三輪山飛鳥神奈備山之別名,或時不特指固定場所,而表神所憑坐之山。「齋(つ)く」乃「齋(いつ)く」之略,表對鹿脊山之信仰

「色珍(いろめづ)らしく」,「珍(めづ)らしく」於此表內心受其吸引之狀。

「聲懷(こゑなつか)しく」,心受吸引而難以分離之狀。

「在(あり)が欲(ほ)し」,期望永遠如是。


1060 反歌二首 【承前,反歌第一。】

 三香原 久邇乃京者 荒去家里 大宮人乃 遷去禮者

 三香原(みかのはら) 久邇都(くにのみやこ)は 荒(あ)れにけり 大宮人(おほみやひと)の 移(うつろ)ひぬれば

 賀茂三香原 恭仁久邇京師者 荒頹作廢墟 只因百敷大宮人 遷去新京不復還

田邊福麻呂 1060

「移(うつろ)ひぬれば」,此云人物離散,人事全非。



1061 【承前,反歌第二。】

 咲花乃 色者不易 百石城乃 大宮人敘 立易奚流

 咲花(さくはな)の 色(いろ)は變(かは)らず 百敷(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)ぞ 立變(たちかは)りける

 咲花不易 一如昔時無變改 然見百敷之 殿上宮闈大宮人 立易移變不復還

田邊福麻呂 1061

「立變(たちかは)りける」,瞬間轉變,一般只為某物所取代,此則云人去樓空。

1062 難波宮作歌一首 【并短歌。】

 安見知之 吾大王乃 在通 名庭乃宮者 不知魚取 海片就而 玉拾 濱邊乎近見 朝羽振 浪之聲躁 夕薙丹 櫂合之聲所聆 曉之 寐覺爾聞者 海石之 鹽乾乃共 汭渚爾波 千鳥妻呼 葭部爾波 鶴鳴動 視人乃 語丹為者 聞人之 視卷欲為 御食向 味原宮者 雖見不飽香聞

 八隅治(やすみし)し 我(わ)が大君(おほきみ)の 蟻通(ありがよ)ふ 難波宮(なにはのみや)は 鯨魚取(いさなと)り 海片付(うみかたづ)きて 玉拾(たまひり)ふ 濱邊(はまへ)を近(ちか)み 朝羽振(あさはふ)る 波音騷(なみのおとさわ)き 夕凪(ゆふなぎ)に 楫音聞(かぢのおとき)こゆ 曉(あかとき)の 寢覺(ねざ)めに聞(き)けば 海石(いくり)の 潮乾共(しほかれのむた) 浦洲(うらす)には 千鳥妻呼(ちどりつまよ)び 葦邊(あしへ)には 鶴(たづ)が音響(ねとよ)む 見人(みるひと)の 語(かた)りにすれば 聞人(きくひと)の 見(み)まく欲(ほ)りする 御食向(みけむか)ふ 味經宮(あぢふのみや)は 見(み)れど飽(あ)かぬかも

 八隅治天下 經綸恢弘吾大君 蟻通車馬喧 押照樂浪難波宮 鯨魚獵取兮 邊津近海接蒼溟 拾玉獲真珠 近岸濱邊去不遠 朝羽振搏翅 波音騷動浪聲高 夕凪風浪歇 榜船楫音可耳聞 朝日晨曉時 寢覺之間聞音者 海若海石之 潮乾潮涸相與共 其於浦洲間 千鳥高啼喚戀妻 其於葦邊處 群鶴鳴立發音響 此情復此景 見者語之口相傳 聞人聽其言 心神嚮往欲見之 御食所向兮 難波味原味經宮 縱觀千遍亦不倦

田邊福麻呂 1062

難波宮作歌」,蓋田邊福麻呂隨橘諸兄留首難波宮時所作,或云聖武天平十七年幸難波宮時所作。

「蟻通(ありがよ)ふ」,「あり」表狀態持續,意指人馬往來不絕。

「海片付(うみかたづ)きて」,「片付(かたづ)き」指居住空間之部分與山海相接。

「朝羽振(あさはふ)る」,「羽振(はふ)る」乃鳥類搏羽起飛之狀。此云羽風激烈,帶動風浪駭起。

「寢覺(ねざ)め」,眾人沉眠之時,獨自醒寤之狀。

「海石(いくり)」,暗礁之類。或云,海若(わたつみ=海神)之訛乎。

「潮乾共(しほひのむた)」,「潮乾(しほかれ)」乃退潮,『高橋氏文』云:「船遇潮涸(しほかれ)。」「共(むた)」乃「與共」之意。

「御食向(みけむか)ふ」,地名「味經(あぢふ)」之枕詞

「味經宮(あぢふのみや)」,座落味經原之宮殿。按『日本書紀』孝記,近於難波宮,但非同所。然觀此歌前後,又似難波宮別名。未知孰是,唯俟後攷。


1063 反歌二首 【承前,反歌第一。】

 有通 難波乃宮者 海近見 漁童女等之 乘船所見

 蟻通(ありがよ)ふ 難波宮(なにはのみや)は 海近(うみちか)み 海人娘子等(あまをとめら)が 乘(の)れる舟見(ふねみ)ゆ

 蟻通人不絕 押照樂浪難波宮 以其近倉溟 漁獵海人娘子等 所乘之舟今可見

田邊福麻呂 1063

「海人娘子等(あまをとめら)が 乘(の)れる舟見(ふねみ)ゆ」,意境類於930「梶の音聞こゆ」。「海人娘子(あまをとめ)」原文作「海童女」而705、706題詞亦可見童女云云。

1064 【承前,反歌第二。】

 鹽乾者 葦邊爾躁 白鶴乃 妻呼音者 宮毛動響二

 潮乾(しほふ)れば 葦邊(あしへ)に騷(さわ)く 白鶴(しらたづ)の 妻呼聲(つまよぶこゑ)は 宮(みや)も轟(とどろ)に

 潮乾潮涸時 白鶴騷鳴在葦邊 戀妻情難止 鶴喚高啼呼妻聲 傳至宮中亦轟響

田邊福麻呂 1064

「葦邊(あしへ)に騷(さわ)く」,「騷(さわ)く」原文[⻊參],意同「躁」。

「宮(みや)も轟(とどろ)に」,此云白鶴喚妻之鳴傳來,宮中亦隨之鳴響。

1065 過敏馬浦時作歌一首 【并短歌。】

 八千桙之 神乃御世自 百船之 泊停跡 八嶋國 百船純乃 定而師 三犬女乃浦者 朝風爾 浦浪左和寸 夕浪爾 玉藻者來依 白沙 清濱部者 去還 雖見不飽 諾石社 見人每爾 語嗣 偲家良思吉 百世歷而 所偲將徃 清白濱

 八千桙(やちほこ)の 神御代(かみのみよ)より 百船(ももふね)の 泊(は)つる泊(とま)りと 八島國(やしまくに) 百舟人(ももふなびと)の 定(さだ)めてし 敏馬浦(みぬめのうら)は 朝風(あさかぜ)に 浦波騷(うらなみさわ)き 夕波(ゆふなみ)に 玉藻(たまも)は來寄(きよ)る 白真砂(しらまなご) 清濱邊(きよきはまへ)は 行歸(ゆきかへ)り 見(み)れども飽(あ)かず 諾(うべ)しこそ 見(み)る人每(ひとごと)に 語繼(かたりつ)ぎ 偲(しの)ひけらしき 百代經(ももよへ)て 偲(しの)はえ行(ゆ)かむ 清白濱(きよきしらはま)

 顯國八千矛 大國主神大汝命 自彼御世起 百船停泊此湊矣 大八島國中 千舟百船討海人 百慮之所定 刈藻罔象敏馬浦 朝風吹拂者 浦浪騷動隨風湧 夕波盪漾者 玉藻逐流來寄岸 潔白齋真砂 無垢清淨濱邊矣 每逢行歸時 見之百遍不倦厭 諾矣寔理宜 人每見之觸心絃 口耳相語繼 偲之褒之存不忘 縱令經百代 相傳與共讚不絕 如是淨潔清白濱

田邊福麻呂 1065

「八千桙(やちほこ)の 神」,大國主命。此云敏馬浦自古以來即為良港。

「百舟人(ももふなびと)の」,「人」字原文作「純」,1023亦有同表記。而3791有「純裏(ひつら)」云云。

「偲(しの)ひけらしき」,「偲(しの)ふ」於此乃讚美眼前事物之意。「けらしき」乃「けるらし」之略「けらし」之連體形

「偲(しの)はえ行(ゆ)かむ」,「え」乃表受身或自發之注動詞「ゆ」之連用形


1066 反歌二首 【承前,反歌第一。】

 真十鏡 見宿女乃浦者 百船 過而可徃 濱有七國

 真十鏡(まそかがみ) 敏馬浦(みぬめのうら)は 百船(ももふね)の 過(す)ぎて行(ゆ)くべき 濱(はま)なら無(な)くに

 清澄真十鏡 見宿女兮敏馬浦 百船所敬重 每經此浦必手向 不得輙過此濱矣

田邊福麻呂 1066

「真十鏡(まそかがみ)」,「見(み)る」之枕詞。此以「敏馬浦(みぬめのうら)」之音類而相關。

「過(す)ぎて行(ゆ)くべき」,「過(す)ぎ」指單純經過而不駐足。此云敏馬浦景色奇美,無法一瞥而過。

1067 【承前,反歌第二。】

 濱清 浦愛見 神世自 千船湊 大和太乃濱

 濱清(はまきよ)み 浦愛(うらうるは)しみ 神代(かみよ)より 千船泊(ちふねのは)つる 大和太濱(おほわだのはま)

 濱清砂潔白 浦景明媚無限好 早自千早振 神代以來千船泊 大和太之輪田濱

田邊福麻呂 1067

 右廿一首,田邊福麻呂之歌集中出也。

「浦愛(うらうるは)しみ」,「愛(うるは)し」乃讚歎風光美好之詞,與對人之「愛(うつく)し」有別。

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2016-08-20-土

[]お盆放浪京都 お盆放浪、京都を含むブックマーク お盆放浪、京都のブックマークコメント

お盆放浪京都

ついに旅行の最終日、京都

見所が尽きぬこの地がずるいの一言。連日の旅で疲れた身で出来るだけ行って、調整の融通も効く京都は本当に重宝である

以前留学の時は一度あった友人と8年ぶりあう約束があって、ワクワクした。会う前は取り合えず松尾大社小倉山を見て、それから余裕があれば城南宮でも、と考案した。


京都駅で一日フリーパスバス乗り放題切符を買って、酒造の神樣松尾大社へ!と言いながら途中の梅宮大社で先に降りた。同じく酒造の神樣・大山咋神を祀るこの神社は、松尾大社に近く街に位置する。なんと言うと...ネコが多い!早朝いったので神主が居なくて迎えてくれるのが猫、猫、猫!社務所にはお守りなど以外にネコ写真も売ってる!また、集まってる猫が梅宮大社の飼い猫で人に懐くものの勝手に餌を与えないでとの注意書きも。やっぱり時間がまだ早いのでか社務所もまだ開いてなく、一旦松尾大社に出て、戻る際にまたここに戻りご朱印を頂くことにした。


梅宮大社

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梅宮大社を後に松尾橋を越えると松尾大社は目の前。松尾大社神使と言えば龜と鯉、龜の手水社は大嶽山那賀神社以来か...神社の奧に磐座があるが、登拝には申し込みが要る上、写真不可。結局登拝せずに、お酒資料館を参観してから摂社の月讀神社へ。月延石、解穢水など見所も多し。一旦梅宮大社に戻り、再び嵐山へ。


松尾大社

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渡月橋から降りて、目指すは長慶天皇陵の近くにある陰陽博士安倍晴明嵯峨墓所住宅区の中に佇む晴明墓は、晴明神社のように騷ぐことなく、静かなところだった。隣に角倉稲荷神社があるのも人に葛葉狐伝説を思わせる。



渡月橋

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晴明墓を後にして続きの目標小倉山荘跡。調べてみればいろんな候補地があり、そのうち有力な常寂光寺へ行こうとして。途中、また例の竹林を経て、野宮神社にはいり、斎宮旧趾等を偲んでまた進む。途中新敕撰集百人一首テーマに、小倉百人一首文芸苑が立てた歌碑群があるものの、素通る人が多そう。大河内山荘を通過して竹林を抜けると御髮神社がある。祭神藤原采女亮政公で境内に献髮可能の髮塚がある。説明によると「髮は人身の最上位にあって造化の神より賜った美しい自然の冠りであると共に、生前にで殘れ得る唯一の分身として大きな恩恵感謝するなど副神として納祭れ祈拝される。」髮は神に通じる言葉を忘れずに。


野宮神社

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御髮神社

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ようやく、主役の常寂光寺に到着。この『小倉百人一首』を編纂した藤原定家が『明月記』に「其字如鬼」と自嘲した所で字が汚い私には親近感を湧く訳で、かの小倉百人一首を考案したのは小倉山である。常寂光寺を入ると直ぐに定家和歌及び定家山荘跡と書かれる歌碑がある。庭園の緑はヤバいほど自我主張していて上まで登ると京都を一望できる見晴の場所もあり、山を降りて先の歌碑の近くに別の「小倉百人一首編纂之地」と書かれる碑がある。こんな感じでついに小倉山百人一首の地を体験した。


寂光院

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京都駅に戻り、どこでも混んでいるお盆時期けれども、京都在住の友人のおかげで京都センチュリーホテルでTea Timeを過ごし、積もり話を色々した。最後でまたべつの伏見の友人宅で時間を潰しながら夜間バス山梨へもどる。ただし、甲府着はなんと朝四時。歩いて帰ってお風呂入ってからもう泥のように寝込んだ。我ながら長旅の疲れが出るわけ、年だな。

2016-08-19-金

[]お盆放浪出雲二日目 お盆放浪、出雲二日目を含むブックマーク お盆放浪、出雲二日目のブックマークコメント

お盆放浪出雲二日目

出雲二日目、今日目標として、まず意宇六社の中で唯一行ったことのない出雲一宮熊野大社、そして和歌発祥の地須我神社。そして状況をみて佐太神社美保神社も行ってみたいと思った。佐太神社場合バス一本でいけるけど、加賀の潜戸も合わせてみたいだが時間的に無理そうだ。美保神社はそもそもいくつ転乗しないといけなさそう。全部いけるならいいとして、恐らく時間がない。事実バスだと回り効率あんまり良くないのを実感した。

カメラ調子だが、一日置いたら動けるようになった。但し色々不具合があって、電池も電力がほぼ満杯の状態じゃないと何故か使用不可と表示され、4つの電池をいつも持っているけど普段は精精二つまで使うけど今日からはフル運用もあやしい。露光補償も怪しいので今日から写真から見れば分かると思う。

とにかく朝一出雲市から松江へ、そこからバスを利用して回る。と、思ったがかなり遅い時間にならないといろんな神社アクセスできるバスが出ない。須我神社は大東行きを乗るべきが、始発は九時くらいらしい。他も色々。美保はいけそうけどとりあえず熊野大社優先と言うことで。そのあと選択が間違ったということが分かった。熊野大社へは、直行便がなく、まず八雲へ行ってそこから乗換えする。ただし、熊野大社へのバスは9時から..._| ̄|○松江行きのバスはどんどん走ってるのに...

ほぼ一時間待たないといかず、運転手の方が近くに劔神社というのがあるのを教えた。素戔嗚尊八岐大蛇を斬った天十握劔を祭り建築として千木普通祭神によって男千木(外削り)と女千木(内削り)に分かれたものの、この神社は片方男千木で片方女千木という特殊な造りだそうだ。但し、時間的に行って帰ったら熊野大社へのバスはぎりぎりアウトの可能性があって、念のために断念。


熊野大社出雲の国では大社と言われるのは、出雲大社熊野大社の二ヶ所だけである。両方を繋がるのは亀太夫神事という奇拔の行事だ、出雲大社が古傳新嘗祭使用する神器なる燧臼・燧杵は毎年熊野大社より授けるが、出雲大社から神餅を供すもの熊野大社側は直ぐ神餅を受け入れず、まず神餅の出来栄えに関して苦情を言って、出雲大社神職は口答えも出来ず、ただそのクレームを黙って聞くのみ。最後、今まで言われたことを守ると約束し、ようやく燧臼・燧杵が授けられる。

また、『日本書紀』に「是歲,命出雲國造,【闕名。】修嚴神之宮。」、『出雲国風土記』に「熊野山郡家正南一十八里。有檜・檀也。【所謂熊野大神之社坐。】」など記録が残るように、昔熊野大社熊野山(天狗山)に鎮座した。大社から宇川を沿って川上500メートルな所に上宮跡があり、今は下宮(熊野大社)に合祀されたもののそれぞれの社の趾があり、頂を登ると熊野山の奧宮を遥拝する元宮遙拜所がある。途中、明見水があり、洗眼すると眼病に効く、産婦がこの水を服すると母乳が豊かになる御神水という。


熊野大社

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熊野大社 上宮

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熊野大社 上宮 明見水

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熊野大社 上宮 元宮遙拜所

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熊野大社を後に....とても言いたかったけどバスの本数が少なく、かなり待ててからようやく八雲へ、そこで乗換えて松江駅に戻る。幸い、松江駅から大東へのバスはそんなに待たなかった。以前、八重神社へ行ったものの、神詠「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣は」と「我が心清清しい」の舞台なる清地は、須我神社である

からも聞いたが、須我神社の人がかなり親切な方である。かなり相談に乗ってくれるし、奥宮への参拝がお進められて、あと佐太か美保か行きたいため帰りのバス心配で断念しようかと思ったけど、やっぱり奥宮へ行かないと最終的に心残りになり、丁度他に奥宮へ參りたい人がいって、共同行動することに。我々の荷物を見て、須我神社からまさか預けてくれると言い出すのが思わなかった、大変恐縮である

地図を頼りで奥宮へ登る。田園風景の中に八雲登山口と須我神社奧宮夫婦岩への案内が現れ、しかも階段の隣に和歌歌碑があり、八雲文学碑の径といい、和歌を伴う登山。個人的感想だけど、和歌といってもかなり近代的な作品で、自分が主に読んでいる万葉集古今集とは表現が違う。須我神社野方によると登山道がかなりキツイというが、そうでもない。森の中では涼しくて、正に清清しい場所である。途中、禊所として不老長壽の神泉坂根水があり、ここで清めて奧宮夫婦岩へ。夫婦岩磐座はもう素晴らしいの一言だ。ここに来てよかったと思う。奧宮の御祭神は、素戔嗚尊奇稲田姫、そして御子神の清之湯主三名狹漏彦八島野命。


須我神社

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須我神社 奧宮 夫婦岩

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奥宮から須我神社にもどり、次のバスにはまだ時間たっぷりあるので、須我神社の隣の神楽の宿に参観。ここの方も大変親切に色々教えで頂いた。どこまでも優しい心人を出会えるのかと、さすが出雲と云うことか。また、一緒に奧宮を參る方は東京からきて、出雲の後は伊勢へ行く予定で、話によると同僚に「えっ、出雲伊勢兩方行くの?」って聞かれたそうだ。お前は俺かと...ちなみに東京は何でもありなんでもないという点の見解も一致。

松江駅に戻り、今度は佐太神社へ向かう。時間的にもう社務所が閉まってる時間だけど取り合えず居てみる、出雲地方太陽神である猿田彦を拜めないと。本当は加賀の潜戸もう行きたいが無理。バスで行くとそれなり遠くて時間も掛かった。色々修理中らしいけど趣のある社である。今度はご朱印もらいながら加賀の潜戸も行こうかと松江駅に戻る。


佐太神社

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明日は8年ぶりの友人と会う約束もあるので、幸い松江駅の近くにあるジムでは、会員じゃなくでもお風呂が利用できる。お風呂に入って時間を潰して23時30分の夜間バス京都へ。

2016-08-18-木

[]お盆放浪出雲一日目 お盆放浪、出雲一日目を含むブックマーク お盆放浪、出雲一日目のブックマークコメント

お盆放浪出雲一日目

かの地、出雲に再び。

GWの際も二日しか入れなかったので、出雲大社の周辺である日御碕神社、屏風岩、猪目洞窟は行けなかった残念さはいつも心に残る。

朝、夜間バス出雲市で降りて、早速出雲大社経由、日御碕神社へのバスをのり、出雲再挑戦の旅を始まる。

日御碕神社は流石にさすが美しい、出雲地方では珍しく見える権現造りの社殿が華やかに海の傍に佇むのが麗しい。『出雲国風土記』に「美佐伎社」として記され、上宮・神の宮は素戔嗚尊を祀り、下宮・日沈宮は天照大御神を祀る。「日沈の宮」という名の由来は、伊勢神宮が「日本の昼を守る」日登の宮に対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」 との「勅命」を受けた神社という。伊勢で連日雨か曇りの天氣に対して、晴れの日、神社の朱色と対応する群青の空と白雲が相俟って非常に美しい景色を見せてくれた。まだ朝早く神主さんが居なくて朱印をもらえず、周りを散策して又戻ろうと思った。日御碕神社の近くに、日御碕灯塔や経嶋がある。また、行けなかったけど日御碕海底遺跡もあり。経嶋(文島ともいう)では、日沈宮元宮で今はウミネコ繁殖地としても有名、日御碕灯塔への道からはよく見える、途中に「日和碕御神事御旅所」と表記された地が日御碕神社祭祀家祖神天葺根命が神敕を奉じ経嶋の百枝松を天照大御神に奉る承伝地という。後ほど分かったけど、もっと登れば素戔嗚尊の御神陵と言われる「神蹟 隠ケ丘」も有るようだ、失念


日御碕神社

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バスの本数が少ないので、出雲大社の方向へ歩いて、途中には日御碕神社遥望できる場所があるのが来た際分かったのでそこを目指し、また月讀神社という小祠もある。バス稲佐の浜で降りたら、前回行ってなかった屏風岩に參った。稲佐浜は出雲国譲の地として知られるが、大国主神武甕槌神が国譲りの交渉をしたのはこの屏風岩だそうだ。屏風岩からからずに因佐神社があり、祭神武甕槌神のもそのゆかりだと思う。


屏風岩

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因佐神社

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そしてまた弁天嶋へ。前回は曇りだったけど今度は晴、写真撮りながら満喫している最中に...首からぶら下げたカメラカメラが海におちった!!!(死)直ぐバッテリとメモリカードを取り出して干してみたけど、時間を置いてからカメラ作動不審の末に動けなくなった。一日置いたら写真が取れるようになるけど、絞り、露光、とシャッター以外にあんまり正しく動けるボタンが無く、特に露光補正があやしいのと、そのばで写真確認できないのが痛い。あと、沈胴式レンズも手で引かないとちゃんと出なくて困る。

って訳で、最悪の事態を想定しつづ行くべきところを行かないといけない。前回の黄泉比良坂につづいて今度は出雲国風土記にかかれた黄泉穴こと猪目洞窟

宇賀鄉。北海濱有礒,名腦礒。高一丈許。上生松,蕪至礒。邑人之朝夕如往來,又木枝人之如攀引。自礒西方窟戶,高廣各六尺許。窟內在穴。人不得入,不知深淺也。夢至此處礒窟之邊者,必死。故俗人,自古至今,號黃泉之坂、黃泉之穴也。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/fuudo/izumo/izumo05.htm#izu05_02

夢でこの洞窟に入る人は必ず死ぬという物騒な記事だけど。幾つ気になる点がある。猪目のいめは夢(古音いめ=寢目)に通じるのではないか。そして、現在は思うことが夢に出ると違う、古の人は相手自分を思ってるから自分の夢で(生霊として)現れる。ようする、己の霊が夢の中で現世と黄泉境界を越えたのではないか、それなら死ぬのも納得できる。

猪目洞窟青春18切符を使って旅行してきた夫婦出会い台湾に来たいとの話。意外と東エレとか生研をご存知とは驚いた。


猪目洞窟 (黄泉穴)

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そのまま出雲市にもどり、カメラを鮎売りできる場所を探してみたけど、即座修理できるところは無さそう。早めにゲストハウスに行って、行こうと思った須佐神社は諦めた。出雲ゲストハウスにも夕食会があって、なんと出雲で二週間泊まり女性大生が居る。卒論テーマパワースポット関係らしい。隣の人が明らかに「こんな所で二週間も居られるか」って顔してるけど、私の場合むしろ一ヶ月も足りないのでは...人それぞれだなと実感した。ちなみに、私的パワースポットという言葉がなんか軽くてあんまり好きではない。

2016-08-17-水

[]お盆放浪奈良一日目 お盆放浪、奈良一日目を含むブックマーク お盆放浪、奈良一日目のブックマークコメント

お盆放浪奈良一日目

今晩の夜間バス京都より出雲へ。なので夜まで京都に辿りつかないといかない。

山梨伊勢出雲への直行便がないものの、京都との直行がある。特に京都何気に見所が多い、調整も易いため、旧正月からよくこんな感じで京都中間拠点として使う。ただし、今度は二回も京都中継の形になり、また伊勢から奈良経由で京都へ行くため、乗換え点の大和八木中心にならでも行こうかと計画してみた。

場所的に橿原神宮が近いが、以前既に行ったことあるので後回し、『古事記』『日本書紀』に出た場所として墨坂神社は一度行ってみたい。あと丹生川上神社か、宇治上神社とかは機会があれば行きたいと思う。そんな感じで榛原で降りて回る予定になった。電車に乗ればまた伊勢斎宮広告を張った列車と出会った。伊勢中川特急に乗換える予定だったけど間に合えず、プラットフォームから階段下りてまた登ったら丁度発車したのを見送りになった。よく見ると、乗ってきた電車の左右ともドアが開いているでは、こういう乗換えシステムを今更気づいて失敗。仕方無くもとの電車をそのまま乗りて、ゆっくり榛原へ。

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丹生川上神社アクセスページによると、榛原駅からバスが出てるはずだが...バス運転手に聞くと昔は走ってたものの今は既にその路線はもう無さそう。どうしても行くにはタクシーの利用...となると諦めるわ。とりあえず歩いて墨坂神社へ。

墨坂神社は『日本書紀神武天皇東征においで兄猾、弟猾〜兄磯城、弟磯城の段で有名で、頭八咫烏の話も有って近くに八咫烏神社も鎮座する。時間の都合上八咫烏神社には行けなかったが....


 九月甲子朔戊辰,天皇陟彼菟田高倉山之巔,瞻望域中。時國見丘上則有八十梟帥,【梟帥,此云たける。】又於女坂置女軍,男坂置男軍,墨坂置焃炭。其女坂、男坂、墨坂之號,由此而起也。復有兄磯城軍,布滿於磐余邑。【磯,此云し。】賊虜所據,皆是要害之地,故道路絕塞,無處可通。天皇惡之,是夜自祈而寢。夢有天神訓之曰:「宜取天香山社中土,【香山,此云かぐやま。】以造天平瓮八十枚,【平瓮,此云ひらか。】并造嚴瓮,而敬祭天神地祇,【嚴瓮,此云いつへ。】亦為嚴呪詛。如此則虜自平伏。【嚴詛咒,此云いつのしり。】」天皇祇承夢訓,依以將行。


(中略)


 兄磯城等猶守愚謀,不肯承伏。時椎根津彥計之曰:「今者宜先遣我女軍,出自坂道。虜見之,必盡銳而赴。吾則驅馳勁卒,直指墨坂,取菟田川水以灌其炭火,儵忽之間出其不意,則破之必也!」天皇善其策,乃出女軍以臨之。虜謂大兵已至,畢力相待。先是皇軍攻必取,戰必勝。而介胄之士不無疲弊。故聊為御謠,以慰將卒之心焉。謠曰:

楯並めて 伊那瑳山の 木間ゆも い行守らひ 戰へば 我はや飢ぬ 島鳥 鵜飼が伴 今助けに來ね

 果以男軍越墨坂,從後夾擊破之,斬其梟帥兄磯城等。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki03.htm#sk03_03

墨坂神社祭神、墨坂大神は、天御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神 伊邪那岐神 伊邪那美神 大物主神並称である。但し、前掲された件の場所は旧社地で今所は後ほど(文安六年)遷坐されたのである境内竜王宮には波動水という靈水があり、水道水の100倍の五万パワーがあるという。



墨坂神社

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榛原駅に戻ったら「肇國聖跡 墨阪神社、鳥見山中靈畤址、墨阪神社附屬神武講社本部」と書いた石碑がある。確かに「榛原」の地名由来も『日本書紀』で伺える。

 四年,春二月壬戌朔甲申,詔曰:「我皇祖之靈也,自天降鑑,光助朕躬。今諸虜已平,海內無事。可以郊祀天神,用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中,其地號曰上小野榛原、下小野榛原,用祭皇祖天神焉。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki03.htm#sk03_08

折角宇陀市に来たので「菟田(宇陀)血原」や「菟田高城跡」とかも見たいけれども、墨坂神社神主によると遠いらしく、観光案内所に聞いたらやっぱりバスの本数が少なさそうだ。ここでお進められたのは、大宇陀。よく見ると、万葉集公園、人麻呂公園阿紀神社、そして阿騎野の朝の壁画があるのではないか!そう、大宇陀はかの阿騎野である

実は朝から雨が降っていて、あんまり無理はしたくない。観光案内所の人によるとそろぞろ止むし、降るだとしても小雨くらいだろうとのコメントがあったけれども...全然違う。大雨だった。阿紀神社を搜してみたけれども、見つかれず、変わりに最初に行く予定のなかった大龜和尚民芸館に辿りついた。雨宿りもかねて参観してみたらかなりの見所があり、特に吉田初三郎の「大和宇陀郡 神武天皇聖跡御図絵」は、宇陀を中心に御聖跡を描かれた傑作である神武帝のそこのひとも親切で色々勉強になった気分だ。

大龜和尚民芸から坂を下りて、森の中に阿紀神社がある。阿騎野の阿騎に通じ、『皇太神宮儀式帳』では宇太乃阿貴宮と呼ばれ、『倭姫命世記』では宇多秋宮と呼ばれる元伊勢である

 六十年癸未,遷于大和國宇多秋志野宮。積四箇年之間奉齋。于時,倭國造,進采女香刀比賣,地口、御田。

 倭姫命乃御夢爾:「高天之原坐而吾見之國仁,吾乎坐奉。」止悟教給比岐。從此東向,乞宇氣比氐詔久:「我思刺氐徃處。吉有奈良波,未嫁夫童女相逢。」止祈禱幸行。爾時,佐佐波多我門仁,童女參相。則問給久:「汝誰?」答曰:「奴吾波天見通命孫爾八佐加支刀部。一名,伊己呂比命。我兒宇太乃大禰奈。」登白岐。亦詔曰:「御共從仕奉哉?」答曰:「仕奉。」即御共從奉仕

 件童女於大物忌止定給比弖,天磐戶乃鑰預賜利弖,無鄂柑嶐掘ぐ蔽或甘掘だ況薺怎型吉,左物於不移右須,右物不移左志弖,左左,右右,左歸右迴事毛,萬事違事奈久志弖,太神爾奉仕。元元本本故也。又,弟大荒命,同奉仕。從宇多秋志野宮幸行而佐佐波多宮坐焉。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sintou_gobusyo/yamatohime01.htm

人気が無く、清清しい場所である神主普段居なくて、御朱印は残念ながら頂けなかった。


大和宇陀郡 神武天皇聖跡御図絵


元伊勢 阿紀神社

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阿紀神社を後に、万葉公園と人麻呂公園へ向かう。阿騎野人麻呂公園中之庄遺跡掘立柱建物や竪穴式住宅の一部を復元して保存・整備するもの中山氏の壁画「阿騎野の朝」を元に歌聖柿本人麻呂石像を建てたのがその目玉である。「阿騎野の朝」というと、『万葉集』において人麻呂が軽王子に從って阿騎野へ遊狩の際に詠んだ長歌一首、短歌四首の連作の内、短歌第三「東の 野に陽炎の 立つ見えて 顧見すれば 月傾きぬ」をモチーフしたものである

0045 輕皇子宿于安騎野時,柿本朝臣人麻呂作歌

 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隱口乃 泊鷸骸圈/震變 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去來者 三雪落 阿騎乃大野爾 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而

 八隅治し 我が大君 高照らす 日皇子 惟神 神さびせすと 太敷かす 京を置きて 隱國の 泊鷸海蓮/震變つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押並べ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去來れば 御雪降る 安騎大野に 旗芒 篠を押並べ 草枕 旅宿りせす 古思ひて

 八隅治天下 經綸恢弘我大君 空高輝曜照 日嗣輕皇子 惟神隨神性 如神稜威且端莊 太敷雄偉兮 飛鳥倭京今棄置 盆底隱國兮 長谷泊麈兄骸圈/震斂亞醂 雖彼山道路荒嶮 排闢巨岩根 遮路禁樹押並進 坂鳥劃坡兮 朝日曦時既越而 玉極輝耀兮 夕暮黃昏時來者 御雪所飄降 宇陀安騎大野間 幡薄旗芒與 篠竹之疇闢押排 草枕羇旅兮 今日旅宿在此野 慕思曩昔日並尊

柿本人麻呂 0045


0046 短歌 【承前。】

 阿騎乃野爾 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 去部念爾

 安騎野に 宿る旅人 衷靡き 眠も寢らめやも 古思ふに

 宇陀安騎野 假宿此野旅人矣 豈得鄂寄咫_診縮珂続涌怠蝓/看宛寮良自己

柿本人麻呂 0046


0047 【承前。】

 真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曾來師

 真草刈る 荒野にはあれど 黃葉の 過ぎにし君の 形見とぞ來し

 真草薙刈兮 此地漫蕪雖荒野 木葉褪黃變 以此乃先君故地 慕其形見遂來矣

柿本人麻呂 0047


0048 【承前。】

 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

 東の 野に陽炎の 立つ見えて 顧見すれば 月傾きぬ

 望東觀平野 安騎野間陽炎立 陽炎發茜色 驀然回首顧見者 殘月西傾將匿沒

柿本人麻呂 0048


0049 【承前。】

 日雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者來向

 日並の 皇子尊の 馬並めて 御狩立たしし 時は來向かふ

 往昔日並知 故君草壁皇子尊 列馬並諸騎 發向朝野率御狩 此時彷彿昔再來

柿本人麻呂 0049

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/manyou/m01.htm#0045

中山正實氏はこの和歌を元に、有職故実の考証をし、名作壁画阿騎野の朝」を生み出した。今は大宇陀中央公民館に所蔵していて、登録すれば見学可能。私一人のために礼堂を開けて、紹介のラジオを流し、じっくり見学できるなんて恐縮の極まりであった。その絵はすでにネットで公開していて、但しいろんな細節はやっぱり本物を見ないと分からないので機会が有れば是非!


阿騎野 柿本人麻呂像(人麻呂公園、阿騎野の朝)

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大宇陀から榛原駅に戻り、京都へ。目的京都鉄道博物館。前回旧正月来た際はまだ開いていなかったので、連日日晒雨淋をしてきた自分には丁度いい休憇になった。夜は友人ちで夜間バスの発車まで時間を潰してまた出雲へ。


京都鉄道博物館

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2016-08-16-火

[]お盆放浪伊勢三日目 お盆放浪、伊勢三日目を含むブックマーク お盆放浪、伊勢三日目のブックマークコメント

お盆放浪伊勢三日目

ついに伊勢神宮125社巡拝においで最後の地、外城田地域を挑戦する。この地域神社分部も広いし、山中位置するところも少なくない。旧正月では滝原宮の後ここに来ようと思ったけど時間の余裕をみて急に田丸地域を変更した。振り返って見ると正しい選択でした。

朝一ゲストハウスから出発、丁度昨日滝原宮へ行きたい女性時間が被ったので一応途中までは同じ。(滝原宮の場合伊勢市から多気まで行く必要あり。)朝は曇りだったので田丸平野を眼下に收めそうな榛原神社最後に、まず御船神社から始める。ここで気づいたのは、やっぱり地図と実際の地形とは微妙に違うこと、例え河と表示された所にすでに伏流になったりする。手持ちの本も結構古いのでその分變化ありかもしれない。


御船神社は倭姫命が外城田川を遡る際にこの地で船を泊まったのが名称の由来。同座である牟彌乃神社寒川比古命寒川比女命祭り大水上神の御子で川守の神という。特筆すべきなのは、入口に石灯篭の常夜燈があり、伊勢神宮摂社末社にしては華やかな部類だと思う。


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河を越えて田んぼの真ん中に佇む森があり。直感で進んだら朽羅神社に的中。入口から少し進んだら巨大な木の根があり、神宮域内には基本木を伐ることが禁じられるので雷かなにかの原因で倒れて人の手を施したのかと思う。社殿は新しく、近頃建て直したのだと思う。祭神千依比賣命千依比古命、ともに大歳神の御子で田野農耕の神として祀られる。


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これからやや遠いところに回らないと次の津布良神社へは辿れない。途中雨が降り始めて、一旦幸神社で雨宿りをしてから再出発。津布良比古命、津布良比賣命は大水上神の御子で田野の水神として信じられ、小道に入ってから道が分からなくなり、水神性格もあるので一度池のほうに進んだら外れ、同じ丘でも池の反対側に位置する。境内は柔らかい苔に覆われるが、同じく美しい苔生のある宇治山田神社とはまた趣が違う。


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本日最大の難関、鴨神社大水上神の御子にして農耕灌溉の守護神。倭姫命が大日山の中腹に社地を定められたという。地図を見るだけかなり厳しいとは予想したけど実際に登ってみたらはるかに厳しい。「鴨神社参道、これより1100mと書いた石碑」までは良いとして、竹林を越え、伊勢自動車道の下を出るとどこか道なのかを全然からない。いくつ試行錯誤の末にとある山道を見つけ、(但し、あの山道へつなげる道は無さそう、只管草むらを踏み分けるのみ。)とにかくのぼる。雨が止んだはずだけど湿度が高く、正直カメラには湿気があんまり宜しくないのでしんぱいしつづ登る。蜘蛛の巣も多いので適当に枝を拾い杖として使い登り、山の中腹というものの、全然神前神社みたいな階段もなく、迷うだっのかという不安が心の中で拭けなく進む。進めると進むほど道が怪しくなり、最終的に山の頂に登った所で比較的に道らしい道らしいに出た。何所へ進めば辿り付けるのかイマイチ分からず、携帯地図と調べたらかなり遠いところへ行ったとの表示だけど、恐らく現在地場所に精度問題があるのでGPSOnしてみたら...Over HeatでShut down..._| ̄|○ とりあえず右手を歩いてい見て勘でU Turn、殆ど諦めた所でで鴨神社へ降りる道標発見。かなり降りてからようやく足元の崖の麓に神社発見!まさに熊野古道の伏拝王子気持ちとか思う。しかも、神社を修繕している人ががいる!話してみたらここへくる参拝者は結構迷ったそうだ、出会ったとき確率で「ああ、まさか人が居るとは思わなかった!」とか言われそうという。この気持ちが分かるわ...マジで冗談抜きで遭難しそうだから。元道をそのまま引き返すのも微妙なので、的山公園への道に出てから降りる、ここは断然行きやすい。降りる前に、鴨神社の近くにある倭姫命が使ったという氷室の泉へ參って、再び残りの125社參りへ。


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田乃家神社及び同座の田乃家御前神社墓地の隣にある、祭神大神御滄川神大神御滄川御前神農家の守り神として伝えられる。

東外城田神社及び外城田小、永壽寺を過ぎで蚊野神社、同座・蚊野御前神社に参り。祭神大神御蔭川神と大神御蔭川御前神、この地の田野を潤す灌溉用水の神という。125社もついに最後榛原神社だけ残る。


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階段を登り、山や茂みの中に天須婆留女命御魂御前神を祀る榛原神社が鎮座する。御名から分かるように、昂星を祭る神社である日本神話においで星神が極めて少なく、稀少な存在である。ようやら、星の出具合で農耕を占い信仰が由来である。ここから田園風景を一望でき、125社參りはここで幕を引いた。


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伊勢神宮125社全參詣達成

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外宮に戻り、遷宮館の特別解説を参加した。遷宮館の紹介と、1:1 外宮 1/4 模型解説付きで拜める。遷宮館は前回も行ったけど、あんまり時間が無くさらっと見回ったので、今度は丁度解説コースにあわせてゆっくり見ることになった。そこは色々興味深い話を拝聴させていただいた。外宮模型に関して大きさこそ1:1なのだが、側面から1/4だけ原寸大で作られたものには流石に圧巻。凝宝珠ならず居玉は瑪瑙か翡翠かその当たりの造りかと思われがちだけど違う、実は漆で恰も宝珠のように仕上げたのを聞いて驚いた。また、外宮の中唯一つの内宮仕様建築の所があり、天照大神外宮に出向かって食事するという御饌殿である。あと、柱と梁の間わざと隙間を残して、それが20年を初とぴったりと合うことも初耳であった。

解説が終え、個人的解説員に聞いたのは、摂社末社遷宮に関すること。正宮・別宮は20年一度で、定められた順で造替えと遷宮を行うが、鴨神社で聞いた話では摂社末社の造替えは40年一度だそうだ、但しその順はよく分からない。頂いた返事に関して、摂社末社は基本40年一度造替えを行い、造替え後の20年は基本の修理を行う、こんな感じで修理を挟んで40年で生まれ変わる。但し、先後の順は決めておらず、建物の痛み具合を調査の上に調整する。もちろん、場所によって痛みが激しい神社は優先に修理もしく造替えするという。

最後解説コース用のイヤフォン・マークを返却した際に、なんと解説コース申し込みのお礼として遷宮館紹介冊子が頂ける!写真禁止遷宮館だけあって、貴重な写真解説を載せるこの冊子は間違いなく重宝である


ちなみに、外宮の創立は『日本書紀』に記載がなく、社伝の『止由氣儀式帳』によれば雄略天皇の代であることがわかる。

天照坐皇大神、始巻向玉城宮(垂仁)御宇天皇御世、國國處處大宮處求賜時、度會(乃)宇治(乃)伊須須(乃)河上(爾)大宮供奉。爾時、大長谷天皇(雄略)御夢(爾)誨覺賜(久)、吾高天原坐(弖)見(志)眞岐賜(志)處(爾)志都眞利坐(奴)。然吾一所耳坐(波)甚苦。加以大御饌(毛)安不聞食坐故(爾)、丹波國比治(乃)眞奈井(爾)坐我御饌都神、等由氣大神(乎)、我許欲(止)誨覺奉(支)。爾時、天皇驚悟賜(弖)、即従丹波國令行幸(弖)、度會(乃)山田原(乃)下石根(爾)宮柱太知立高天原(爾)比疑高知(弖)、宮定齋仕奉始(支)。是以、御饌殿造奉(弖)天照坐皇大神(乃)朝(乃)大御饌夕(乃)大御饌(乎)日別供奉。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~kokakuro/kodaishi/ise/ise3-1.htm


夜はまた夜食会。125社巡り達成のことも有って、伊勢地酒・おかげさまを買って皆で飮もうかと思う。事実伊勢にいる際は毎日飮んでた...

積極的料理を作るご家族一行は今日居なさそうで、皆合わせて料理を作ったけど速度が遅い、昨日や一昨日に比べたらそんなに盛り上げって無かった...と思った所でおかげ横丁料理人として仕事している人が突然現れ、カレー、燒き伊勢うどん、燒き茄子など、次と次と色んな料理ハイスピードで仕上げてしかも終わりが見えないし、おまけにポテトチープなどお菓子を持参していて、あと私以外もやっぱりお酒を持ってくる人が大勢に居て、また「伊勢の夜に」と乾杯したけど私には正に豐受大神荒魂による祟りしか見えず、皆を暴食の大罪に墜ちさせるOut of Controlな夜が始まった......

2016-08-15-月

[]お盆放浪伊勢二日目 お盆放浪、伊勢二日目を含むブックマーク お盆放浪、伊勢二日目のブックマークコメント

お盆放浪伊勢二日目

昨日の行程がハードだったので、今日自転車を借りて參るスポッドが少ないけど道が長い宮川地方を巡る。

相変わらずお伊勢さんを巡るの地図が分かり難いと言うか、古いからマークされたCheck Point無くなったりするので川原神社を通りすぎで地元の人に聞いたら「パチンコ屋ならあそこに有ったけどが潰れた。そこに神社があったけ?」って感じの返事を頂いた。長年古墳神社を巡る勘が働いて無事月讀尊御魂を祭る川原神社を辿った。伝説によると、月讀尊はここで宮川の上流から来られた倭姫命を迎え、大若子命の船に乗り、宮川をおられたので、宮川守護神として伝えられた。


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そのまま道すがら進んで自動車道の下を越えてから、園作神である曽奈比比古命御前神を祭る園相神社が鎮座する。


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ここまでは何となく順調でしたが、これから道が長くて分かり辛くしかも雨が降り始めた...とほほ。結局結構迷うってからようやく久具都比賣神社を見つかり、大水上神の御子・久具都比女命久具都比古命を祭るお社だった。この路線は、基本交通量の多い県道沿いに在り、特に山を登らないとかいけない場所はなく、但し縦長が長いので自転車を利用するほうが無難だろう。また、夏場だと水分や塩分補給を注意したほうがいい。


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午後からは晴れ、外宮に戻り、北御門でようやく開放された度會國御神社大津神社への道を出会って参拝できた。度會國御神社祭神・彦國見賀岐建與束命は天日別命の御子で度会神主の祖である大津神社の葦原神は五十鈴川河口の守護神という。伊勢神宮外宮の宮域内にも拘らず人数の少ない道が清幽な雰囲気を漂う、大津神社から通行止めの先は上御井神社があり、そこで上御井神社を遥拝できる。

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御井神社神宮御料水として使われ、日別朝夕大御饌からはじめ神宮諸祭には必要不可欠で神聖視された存在である言い伝えによると上御井が涸れたことはないとされるが、『太神宮諸雑事記』によると永承5年に上御井の水が涸れ、土宮の前の下御井の水を汲んだとの記録あり。上御井異変ある際には朝廷から使いを派遣し祈謝するといわれる。

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昨日もハードだけど、翌日もかなりキツイ予定していて、今日比較的に回る点が少なく、省エネな感じでゆっくり伊勢を回ることが出来た。ゲストハウスの方はアメリカ人に続いて(先日通訳された...)、フランス人も入ってなお更グローバル気分になり、また滝原宮へ行きたい女子も居て賑やかである。ちなみに私は別宮の中にも特に遠い滝原宮はお勧め内宮彷彿する宮域で人ごみも無く清清しい雰囲気に包まれるステキ場所である

ユメビトハウス夜食会の二日目、先日から家族一行の方々が積極的料理を作ってるのが恐縮だった。皆で自己紹介をして、私も含めて意外と年がかぶるタメ組みが何人もあり、ヘルパーのN川さんは見た目より年上でよく話している作品リアルタイムで見た世帯だと初めて分かった。こんなメンツなのでまた酒を買出し、伊勢の夜にと乾杯!って秋ならず夏の夜長を過ごした。

2016-08-14-日

[]お盆放浪伊勢一日目 お盆放浪、伊勢一日目を含むブックマーク お盆放浪、伊勢一日目のブックマークコメント

お盆放浪伊勢一日目

伊勢行きのバスですが、松江、津、伊勢市などを経て、二見浦で降りるのは私だけだ。

伊勢神宮の参拝に関して、本当は二見浦で禊をしてから外宮として内宮最後朝熊山というのが順番である


前回は夕方二見浦を見たくて、本当は二見浦の見所は日出だけど、夏場だとここで宿泊でもしないかぎり難しい。それでも朝の二見浦夕方と違う風貌を呈して心地よい所である


二見浦

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前回も続きメインの目的伊勢神宮125社巡りであり、案の定地図を頼っても摂社末社がどれも少々搜し難かった。江神社を目指しながら行きすぎで榮野神社へ至った。幸い、普通無人神社の榮野神社である今日祭りがあって神職から道を聞けて見つかった。五十鈴川の河口で入江近くの位置に鎮坐するのが名前の由来であるが、山の麓にある。また俗に蒔絵明神と云う。江神社の近くに猿田彦岩や大江寺があり、大江寺が元興玉社とも言われる場所で元興玉社の小さい社がある。

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それから神前岬の方向を向けて山を登る。かなり険しい参道であるが、山の麓から神前神社の表示が在り、石段も鋪設され階段終点には神社があることが分かるだけ安心感がある。山の頂には皇大神宮攝社神前神社とそれと同座である許母利神社、荒前神社が坐す。荒前比賣命は國生神の御子である。急な坂道である涼しい林中にあり、そこで山蟹と出遭うのも面白かった。


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それから天照大神素戔嗚尊との誓約によって生まれた女神須佐乃乎命御玉道主命を祭る粟皇子神社へ向かう。別名淡海子神で海岸鎮護の神であり、本当は池ノ浦からアクセスしたほうが便利だけど、一旦『お伊勢さんを歩く』の地図をしたがって、松下社経由で松下駅の反対側の小径に入る。松下社について、蘇民將來を祭る蘇民祠があり、また主殿には祭神三柱で素戔嗚尊菅原道真、また不詳神一座があり、少し珍しい組み合わせである。って、小径に入って海に出ることではなく、山に登る感じになり、道迷ったのかと思うけどそうでもない。登り道の続き下がり、山を越えて海岸を出る路線だそうだ。但し下がり道が終えたら道が無くなり、田ぼんと行って良いかどうかの場所に出て、とりあえず農道とも言え難く、叢や泥の上に細い木板がある所を踏み分けて進む、ようやく海に出た。海岸を沿って海の屋があり、そこでまた道を尋ねて粟皇子神社。やっぱり神社名前を言い出したらあんまり知られなくて、海の屋の人が確かにお社が有った...って感じだった。粟皇子神社を後に、何故かホテル経由でようやく道に戻った。これで二見地方神社は一通り参ったので、池ノ浦のバス停からかんバスにの鳥羽へ。


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鳥羽から電車志摩赤崎におり、志摩国の赤崎神社を参る。鳥羽観光案内所から志摩国一宮伊射波神社の行き方も聞き、歩いて行くつもりだったけど、正直自分のやり方は冬場ならともかく夏場ではかなりキツイバスが進められたので赤崎神社前でバスを乗って安樂嶋へ。ちなみに、安樂嶋行きのかもめバスはかんバスの一日切符適用であることは帰り道でようやく分かった...(汗)

あと、ここで気づいたけど、山登りの道が激しいのと湿度が高いせいかカメラセンサーゴミが入った。(死)台湾に戻ってからCleaningに出そうと思ったけど後ほど出雲で大変羽目になったはこの時にはまだ知る由もない...


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志摩一宮は二ヶ所あり、一つはその前に參った伊雑宮(いざわのみや)、もう一つはこの伊射波(いざわ)神社。原因として伊雑宮官社として一宮にしていいか、という懸念である。同じ発音での社としては瀧原宮多岐原神社連想する。伊射波神社一宮として規模が小さい、変わりにあんまりに人が無く山の中で海を面して靜に佇むよき所である宮司はいつも神社にいるわけではないので、ご朱印を求める場合は先に電話宮司と連絡を取り、おおむね宮司家で頂ける。実際、バスの降り場に伊射波神社へと、伊射波神社宮司家への道標がある。また、宮司からの見渡しも大変ステキ景色である。伊射波神社の奧に領有神の道を通って海上守護神領有神の社へでる。そこのまた、絶景。戻りになるど流石に何本の山も越えたのかかなり疲れが溜まり、水飮んで休んだりする。バス停のどころにお盆踊りの準備をしていて涼しい風景である


志摩一宮 伊射波神社

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鳥羽経由で内宮に参拝。正宮御垣内に位置する興玉神宮比神屋乃波比伎神一般に参拝不可なので、正宮より遥拝する形となる。

また、内宮宇治橋の対面にある饗土橋姫神社の隣にある津長神社は、前回行き損ねたので今度行ってみようと思ったけどなんと道路が封じられた。どうや津長神社大水神社らは修繕中につき、饗土橋姫神社同座になるようだ。ちなみに、正宮、別宮は20年一度式年遷宮を行うけど、攝社・末社・所管社に関しては40年一度に作り変え、また20年毎に修理と云う形となる。この年は作り変えであれば、20年後は基本簡単な修理となるのが基本で、先後次序は特に無く、調查により先後が変わるし、また鎮座地により痛みの具合も違う為それぞれの状態にで修理・遷宮を行う。実際にこの目で津長神社を見えず、125社めぐりとして些か微妙ですが、饗土橋姫神社で参拝する形になった。

おはらい町で赤福氷を頂く、おかげ横丁まで散歩してきた。連続してハード旅路はいリラックスと言えよう。帰り道で斎宮広告を載せたかんバスを見た、近頃かなり意欲的活動している斎宮歴史博物館体験館の姿勢に脱帽である


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かんバス

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時間の余裕がありそうなので直接外宮へではなく寄り道で猿田彦神社を寄った、天鈿女命を祭る佐瑠女神社に参拝。結構佐瑠女神社例祭のポスターが有名だけど今度は張ってなかった。また、帰りから気づいたのは、昔は無かったはず佐瑠女神社にも御朱印が頂けるようだ、失念もっと時間も遅くなって受付時間が過ぎたのかも。

外宮にもどって、大津神社への道は相変わらず開いてなかった。神宮護衛に尋ねたら警備・安全上の理由で朝7~8時くらい開けて午後4時で閉まるらしい。確かに、一般参拝不可の上御井神社に近いし、いつまでも開けるのが宜しくないかもしれない。その後、大宮所の境界を首護する四至神を参拝し、写真を撮り、どうもかなり一般人パワーストーンとして扱われる所が気にするけどね...

猿田彦神社 佐瑠女神

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外宮 四至神

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夜は久しぶりのユメビトハウス、偶然にも旧正月メンツも揃って縁を感じた。かなり美猫のアルーだけど、窓の明けかたら会得して外で喧嘩したりするようで、今はかなり貫禄のある顔つきに。ユメビトハウス夜食会は相変わらず楽しい

2016-08-13-土

[]お盆放浪東京 お盆放浪、東京を含むブックマーク お盆放浪、東京のブックマークコメント

お盆放浪東京

お盆大型連休出雲にするか伊勢にするかを少し惱んでた末、兩方にした。

伊勢ではまず伊勢神宮125社全社参拝を目標にし、また出雲は前回行けなかった日御碕神社熊野大社(意宇六社の中唯一まだ行ってないところ)などが目的

勿論、山梨から直接伊勢へも出雲へも行ける訳無いし、一旦東京名古屋京都経由となる。

本当は東京発で朝一出雲大社着のバスが良いだけど、さすがお盆では予約が満杯になったために断念。

バスの便や取れそうな宿りによって決めたScheduleは以下となる。

若干、東京へ出る便が非常に早いとか、甲府に戻る便は朝四時着とか、それそれしんどい時間であるがそれしか取れないから仕方ない。


実はとても惱んだことが有る東京半年くらい住んだ割りに東京のどこか面白いのは今どこイマイチ分かりません。

便利かつ何でもありの反面、なんでも独自ものあんまりない。

博物館美術館には大変興味深い出し物があれば見に行きますが、そこそこ興味あるであれば一人で行ってもあんまり面白くない。

友人とScheduleを確認した所、ラーメン二郎チャレンジ以外はなかなか決めなかった。(当日、予約コミケだと分かって道理で開かない人が多い...)


東京で私の興味にあいそうな場所で探してみて、奧多摩しかいか...

日原鍾乳洞御岳渓谷候補に挙げたものの、山梨から新宿に出てまたUターンなのが莫迦莫迦しのでボツ

ということで適当都内神社めぐりになる。


まずは以前半年間お世話になった小田急を8年ぶりに乗り、招き猫発祥地といわれた豪徳寺へ。実は昔世田谷八幡宮へ行った際に神主さんに勧めたことがあったけど、すれ違った。というか日本が本当に神仏の間は平和だなと感じた。

豪徳寺の有名なスポットといえば招き猫の山のおる招猫殿、しか仏像に「如是畜牲發菩提心」と書いてある。また、まさか三重塔にも招き猫の浮雕があるとは嶄新といえる。


豪徳寺

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東京メトロの一日切符を買って、山王日枝神社へ。大山咋神を祀る都内神社。この目で山王鳥居を見たのは初めてかもしれない。実は後で京都松尾大社梅宮大社など酒の神として大山咋神を祀るお社を巡って偶然にして莫名な繋がりを感じた。

そのあと新橋烏森神社へ出る。御朱印が有名で行ってみようと思った。烏森神社自体は失礼ながら私的特別思い入れあんまりいかも。


山王日枝神社

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烏森神社

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そして日本橋炎天の下でかなり体力が削れてて、ここでかなり休んだ。日本橋の見所は勿論Patlabor2で爆撃された麒麟の像。前々から見てみたいと思うし、実際に目に入るとかなり感懷深いものであり、東京でこういうのが殘ってよかったと思う。

それから神保町へ、実はうろ覚えで猫の巣となった「柳森神社」が神保町にあるのをカン違って苦労した、御蔭で太田稲荷神社にいったけど。その日の神保町鬼畜だ、写真にも映ったとおりやすくて良い本が多いけど、旅行初日でこういう本を買うなど自殺行為に等しい。

日本橋

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神保町

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太田稲荷神社

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友人と交流最後ラーメン二郎初チャレンジ。野菜増し大蒜で行ってみたら私がまだ全然いける。今度油も追加しようか...と思いながら隣から野菜増し増し大蒜の声が......

歌舞伎町で格好良い猫と出会って、そののち新宿珈琲貴族コーヒーを飲み、池袋へ。ひたすらビックカメラ時間を潰して後輩と交流し、居酒屋で夜間バスが來るまで飮み放題、結局夜間バスで軽く調子が惡くなって些か後悔だった...


ラーメン二郎歌舞伎町

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2016-08-07-日

[]補給物資万葉集試訳 補給物資、万葉集試訳を含むブックマーク 補給物資、万葉集試訳のブックマークコメント

補給物資

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黒髪ロング、ああ黒髪ロング、黒髪ロング


万葉集試訳

1007 市原王悲獨子歌一首

 言不問 木尚妹與兄 有云乎 直獨子爾 有之苦者

 言問(ことと)はぬ 木(き)すら妹(いも)と兄(せ)と 有(あり)と云(い)ふを 唯獨子(ただひとりこ)に あるが苦(くる)しさ

 縱令不言語 草木尚能有兄妹 反顧吾為人 生作獨子無人伴 孤苦寂寞心甚悲

市原王 1007

「木(き)すら妹(いも)と兄(せ)と」,「妹(いも)兄(せ)」常指夫婦,此則意指男女兄弟植物亦有雌雄異株而言。


1008 忌部首酲穗ず友賒來歌一首

 山之葉爾 不知世經月乃 將出香常 我待君之 夜者更降管

 山端(やまのは)に 猶豫(いさよ)ふ月(つき)の 出(いで)むかと 我(わ)が待(ま)つ君(きみ)が 夜(よ)は更(ふ)けにつつ

 其猶山端間 猶豫不決遲出月 今該將出乎 吾所引領苦久待 君尚未至夜已更

忌部酲穗ぁ1008

「猶豫(いさよ)ふ月(つき)の」,名月遲出,似猶豫不決。借實景敘情之表現

1009 冬十一月,左大辨葛城王(橘諸兄)等,賜姓橘氏之時,御製歌一首

 橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝爾霜雖降 益常葉之樹

 橘(たちばな)は 實(み)さへ花(はな)さへ 其葉(そのは)さへ 枝(えだ)に霜置(しもお)けど 彌常葉木(いやとこはのき)

 橘之花與實 經寒暑不彫 其葉復其枝 能凌霜雪而繁茂 彌更常冏鷸樹

聖武天皇 1009

 右,冬十一月九日,從三位葛城王、從四位上佐為王等,辭皇族之高名,賜外家之橘姓已訖。於時,太上(元正)天皇皇后,共在于皇后宮,以為肆宴,而即御製賀橘之歌,并賜御酒宿禰等也。或云:「此歌,一首太上天皇御歌,但天皇皇后御歌各有一首者。其歌遺落,未得探求焉。」今檢案內,八年十一月九日,葛城王等願橘宿禰之姓上表。以十七日,依表乞賜橘宿禰

「橘(たちばな)」,蜜柑科常小高木。當時為高級果食之一。

「外家」,母方之家。諸兄之母縣犬養三千代與美努王產下諸兄後離異,改適藤原不比等,生光明皇后和銅元年天皇譽忠誠,賜浮坏之橘敕曰:「橘者,果子之長上,人之所好。柯凌霜雪而繁茂,葉經寒暑而不彫。與珠玉共競光,交金銀以逾美。是以,汝姓者,賜橘宿禰也。」http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki12.htm#skk12_03

皇后宮」,此或云皇后之父,藤原不比等之故居。飲宴之前,蓋在內裏正殿行賜姓之儀。

「案內」,紀錄先例,保存於御所書籍


1010 橘宿禰奈良麻呂應詔歌一首 【承前。】

 奧山之 真木葉凌 零雪乃 零者雖益 地爾落目八方

 奧山(おくやま)の 真木葉凌(まきのはしの)ぎ 降雪(ふるゆき)の 降(ふ)りは(ま)すとも 地(つち)に落(お)ちめやも

 其猶深山中 降雪雖凌真木葉 時久或化古 然雖零雪更降益 橘實豈有落地時

奈良麻呂 1010

「橘宿禰奈良麻呂」,諸兄之子,當年方十五、六歲。此歌或為諸兄所代作

「真木葉凌(まきのはしの)ぎ」,「真木(まき)」乃得為建材之檜杉之類。「凌(しの)ぎ」乃自上方押下。

「降雪(ふるゆき)の」,以上乃以「降(ふ)り」引出「古(ふ)り」之序。又引天皇所敕「柯凌霜雪而繁茂」之文。

「地(つち)に落(お)ちめやも」,此有不落家名之意。

1011 冬十二月十二日,歌儛所之諸王臣子等,集葛井連廣成家宴歌二首

 比來,古儛盛興,古歲漸晚。理宜共盡古情,同唱古歌。故擬此趣,輙獻古曲二節。風流意氣之士,儻有此集之中,爭發念心,心和古體。

 我屋戶之 梅咲有跡 告遣者 來云似有 散去十方吉

 我(わ)が宿(やど)の 梅咲(うめさ)きたりと 告遣(つげや)らば 來(こ)と言(い)ふに似(に)たり 散(ち)りぬとも良(よ)し

  吾宿庭園間 屋戶苑內梅已咲 欲告與伊人 一似請君來晤逢 不若散去而可也

葛井廣成 1011

「來(こ)と言(い)ふに似(に)たり」,「來(こ)」乃「來(く)」之命令形。告知自家梅花綻開,有似要求對方來訪之意。

「散(ち)りぬとも良(よ)し」,良(よ)し表放任。雖欲對方來訪,但生性謹慎而卻步。


1012 【承前。】

 春去者 乎呼理爾乎呼里 鶯之 鳴吾嶋曾 不息通為

 春去(はるさ)れば 撓(をを)りに撓(をを)り 鶯(うぐひす)の 鳴(な)く我(わ)が山齋(しま)そ 止(や)まず通(かよ)はせ

 每逢春至者 庭梅爭咲華盛撓 黃鶯報春暖 來回啼鳴我山齋 不止為通當罷來

葛井廣成 1012

「撓(をを)りに撓(をを)り」,主與當為梅,而不見於歌中,蓋承前篇而省略為然。

1013 九年丁丑春正月,橘少卿并諸大夫等,集彈正尹門部王家宴歌二首

 豫 公來座武跡 知麻世婆 門爾屋戶爾毛 珠敷益乎

 豫(あらかじ)め 君來坐(きみきま)さむと 知(し)らませば 門(かど)に宿(やど)にも 玉敷(たまし)か益(まし)を

 若得察未然 豫知君將來幸者 奉為與君晤 敷玉門前與宿間 款待迎來則益矣

門部王 1013

 右一首,主人門部王。 【後賜姓大原真人氏也。】

「君來坐(きみきま)さむと」,君指來客,蓋橘佐為

「門(かど)に宿(やど)にも」,「門(かど)」指門外,に後省略も字。

「玉敷(たまし)か益(まし)を」,向客人道歉招待不週時之常套句

1014 【承前。】

 前日毛 昨日毛今日毛 雖見 明日左倍見卷 欲寸君香聞

 一昨日(をとつひ)も 昨日(きのふ)も今日(けふ)も 見(み)つれども 明日(あす)さへ見(み)まく 欲(ほ)しき君(きみ)かも

 雖云會前日 昨日今日亦逢見 怎奈情不抑 相思之情更泉湧 明日仍欲與君晤

橘文成 1014

 右一首,橘宿禰文成。 【即少卿之子也。】

「欲(ほ)しき君(きみ)かも」,此君字乃來客指稱主人。

1015 榎井王後追和歌一首 【志貴親王之子也。承前。】

 玉敷而 待益欲利者 多雞蘇香仁 來有今夜四 樂所念

 玉敷(たまし)きて 待(ま)たましよりは 猛踈(たけそか)に 來(きた)る今夜(こよひ)し 樂(たの)しく思(おも)ほゆ

 相較設玉敷 嚴備以待迎吾至 我亦有所思 不若猛踈今夜來 更樂何有不周處

榎井王 1015

「玉敷(たまし)きて 待(ま)たましよりは」,來客指主人招待無所不足之招呼用語

「猛踈(たけそか)に」,未詳。或為粗暴之意。

1016 春二月,諸大夫等,集左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家宴歌一首

 海原之 遠渡乎 遊士之 遊乎將見登 莫津左比曾來之

 海原(うなはら)の 遠渡(とほきわた)りを 風流士(みやびを)の 遊(あそ)びを見(み)むと 漂(なづさ)ひそ來(こ)し

 遠渡蹈滄溟 欲見風流秀才士 雅興遊宴者 不遠千里破風浪 埀朿じ局差墅

巨勢宿奈麻呂 1016

 右一首,書白紙懸著屋壁也。題云:「蓬莱仙媛所化囊蘰,為風流秀才之士矣。斯凡客不所望見哉。」

「遠渡(とほきわた)りを」,乘船遠渡重洋。

風流士(みやびを)の 遊(あそ)び」,「風流士」乃能解風流男子。「遊び」乃遊宴。

「漂(なづさ)ひそ來(こ)し」,排除水之抵抗而前進

1017 夏四月,大伴坂上郎女,奉拜賀茂神社之時,便超相坂山,望見近江海,而晚頭還來作歌一首

 木綿疊 手向乃山乎 今日越而 何野邊爾 廬將為吾等

 木綿疊(ゆふたた)み 手向山(たむけのやま)を 今日越(けふこ)えて 孰野邊(いづれののへ)に 廬(いほ)りせむ我(われ)

 木綿疊幣帛 手向貢呈逢坂山 今日越彼山 其後當以孰野邊 假廬此身渡今宵

坂上郎女 1017

「木綿疊(ゆふたた)み」,手向之枕詞。以木綿所製之敷物。旅人代以之為幣帛,獻與土地神以求旅路安平

「廬(いほ)りせむ我(われ)」,假居何處。「我(われ)」乃複數,依原文吾等可知不只一人。按題詞,蓋一日之內,自賀茂社,經逢坂山,而至奈良近江淡海。

1018 十年戊寅,元興寺之僧自嘆歌一首

 白珠者 人爾不所知 不知友縱 雖不知 吾之知有者 不知友任意

 白玉(しらたま)は 人(ひと)に知(し)らえず 知(し)らずとも良(よ)し 知(し)らずとも 我(あれ)し知(し)れらば 知(し)らずとも良(よ)し

 白珠美玉矣 不為人知無顯聞 眾諸狎侮無所謂 凡俗雖不知 我獨知之寶珠者 他人不解亦無惜

元興寺僧 1018

 右一首,或云:「元興寺之僧,獨覺多智,未有顯聞,眾諸狎侮。因此僧作此歌,自嘆身才也。」

白玉(しらたま)は 人(ひと)に知(し)らえず」,作者自比珍珠,而他人不知其貴。

「我(あれ)し知(し)れらば 」,以假定表確定事實之用法

「獨覺」,佛語,指為獨自開悟而修行

1019 石上乙麻呂卿,配土左國之時歌三首 【并短歌。】

 石上 振乃尊者 弱女乃 或爾緣而 馬自物 繩取附 肉自物 弓笶圍而 王 命恐 天離 夷部爾退 古衣 又打山從 還來奴香聞

 石上(いそのかみ) 布留尊(ふるのみこと)は 手弱女(たわやめ)の 惑(まど)ひに因(よ)りて 馬(うま)じ物(もの) 繩取付(なはとりつ)け 獸(しし)じ物(もの) 弓矢圍(ゆみやかく)みて 大君(おほきみ)の 命恐(みことかしこ)み 天離(あまざか)る 夷邊(ひなへ)に罷(まか)る 古衣(ふるころも) 真土山(まつちやま)より 歸來(かへりこ)ぬかも

 石上布留尊 物部之裔乙麻呂 因手弱女惑 遭此罪咎配土佐 雖非馬之儔 身受桎梏為繩繫 雖非獸之儔 弓矢所圍倨嚴陣 天皇大君之 咎命可恐無所逆 天離日已遠 罷流夷邊土佐地 古衣復打槌 自於紀堺真土山 何日能許歸來哉

時人 1019

石上乙麻呂」,天平一年三月,以通藤原宇合寡婦久米連若賣之罪,配流土佐。若賣流下總,而獲翌年六月大赦歸京。然乙麻呂不在赦例。

石上(いそのかみ) 布留尊(ふるのみこと)」,此云乙麻呂之敬稱,蓋同情其遭流行所至。石上氏本源物部,以布留為本貫。多胡郡碑亦稱石上乙麻呂石上麻呂為石上尊。

「手弱女(たわやめ)の 惑(まど)ひに因(よ)りて」,因年輕女子之故而遭逢禍亂。

「馬(うま)じ物(もの)」,雖非馬而遭繩所縛。按『獄令』,配送囚犯時須上形具。

「古衣(ふるころも)」,「真土山(まつちやま)」之枕詞。古衣至砧板復打(またうち→まつち)而令柔順,故云。


1020 【承前。】

 王 命恐見 刺並 國爾出座 愛耶 吾背乃公矣

 大君(おほきみ)の 命恐(みことかしこ)み 指並(さしなら)ぶ 國(くに)に出坐(いでま)す 愛(は)しきやし 我(わ)が背君(せのきみ)を

 天皇大君之 咎命可恐無所逆 出坐鄰並之 紀伊隔海土佐國 愛也哀憐哉 吾之兄君乙麻呂

石上乙麻呂妻 1020

「指並(さしなら)ぶ」,鄰並。土佐紀伊同屬南海道而有一海之隔。真土山者,奈良紀伊之境。

此歌與下首,或並為一首,或視為前曲短歌。而本歌與次曲之間,似有脫落。

1021 【承前。】

 繫卷裳 湯湯石恐石 住吉乃 荒人神 船舳爾 牛吐賜 付賜將 嶋之埼前 依賜將 礒乃埼前 荒浪 風爾不令遇 莫管見 身疾不有 急 令變賜根 本國部爾

 掛幕(かけま)くも 忌(ゆゆ)し恐(かしこ)し 住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとがみ) 船舳(ふなのへ)に 領賜(うしはきたま)ひ 著賜(つきたま)はむ 島崎崎(しまのさきざき) 寄賜(よりたま)はむ 磯崎崎(いそのさきざき) 荒波(あらきなみ) 風(かぜ)に遇(あ)はせず 障無(つつみな)く 病有(やまひあ)らせず 速(すむや)けく 歸賜(かへしたま)はね 本國邊(もとのくにへ)に

 僭述掛尊諱 忌懼誠惶復誠恐 墨江住吉之 底中表筒現人神 願於船舳處 鎮坐領賜率船行 此船之所著 島之諸岬眾崎崎 此船之所寄 磯之諸岬眾崎崎 得不遇荒波 不遭狂風駭浪摧 無恙無所障 不罹病痛無所惱 令之速且此〜疇歸賜令還來 再踏歸途本國邊

石上乙麻呂妻 1021

 【右二首,常作一首。其間疑有脫漏。】

「掛幕(かけま)くも 忌(ゆゆ)し恐(かしこ)し」,修飾「住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとがみ)」之同體格。

住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとがみ)」,住吉三神。司掌航海安全海神。神多為隱身,而住吉三神時化人姿顯現,故約現人神

「歸賜(かへしたま)はね」,ね表希求

1022 【承前。】

 父公爾 吾者真名子敘 妣刀自爾 吾者愛兒敘 參昇 八十氏人乃 手向為 恐乃坂爾 幣奉 吾者敘追 遠杵土左道矣

 父君(ちちぎみ)に 我(われ)は愛子(まなご)ぞ 母刀自(ははとじ)に 我(われ)は愛子(まなご)ぞ 參上(まゐのぼ)る 八十氏人(やそうぢひと)の 手向(たむけ)する 恐(かしこ)の坂(さか)に 幣奉(ぬさまつ)り 我(われ)はぞ追(お)へる 遠土佐道(とほきとさぢ)を

 父君觀之者 我為膝下愛子矣 妣母觀之者 吾乃膝下愛子矣 參昇上京兮 八十諸氏百姓人 手向祈安平 窒礙難行恐坂間 奉幣貢物獻於此 吾今一路追行之 驅馳路遙土佐

石上乙麻呂 1022

「父君(ちちぎみ)」,此云石上麻呂。

「母刀自(ははとじ)」,母之敬稱。刀自乃對地位家族中心女性之敬稱。

「參上(まゐのぼ)る」,自地方上京

「八十氏人(やそうぢひと)」,種種姓氏之人。

「恐(かしこ)の坂(さか)に」,所在未詳。當時傳說,諸地山坂、河川有妨礙旅人順利通行之荒神

「幣奉(ぬさまつ)り」,求神所奉之祭品。

「我(われ)はぞ追(お)へる」,「追(お)ふ」表朝目的直行

或曰已上三首,蓋同情乙麻呂之時人、乙麻呂妻、以麻呂自身所詠。實際蓋皆時人所詠乎。


1023 反歌一首 【承前。】

 大埼乃 神之小濱者 雖小 百船純毛 過跡云莫國

 大崎(おほさき)の 神小濱(かみのをばま)は 狹(せば)けども 百船人(ももふなびと)も 過(す)ぐと言(い)は莫(な)くに

 紀伊大埼之 神之加太小濱者 其湊雖小而 百船諸人祈於此 不敢輕忽擅過之

石上乙麻呂 1023

大崎(おほさき)の 神小濱(かみのをばま)は」,紀伊加太、田倉崎船麈戟董E珍匣西北有式內社加太神社,今稱淡島神社

「過(す)ぐと言(い)は莫(な)くに」,莫敢不祈於神而漠然通過。


1024 秋八月廿日,宴右大臣橘家歌四首 【四首第一。】

 長門有 奧津借嶋 奧真經而 吾念君者 千歲爾母我毛

 長門(ながと)なる 沖(おき)つ借島(かりしま) 奧(おく)まへて 我(あ)が思(おも)ふ君(きみ)は 千年(ちとせ)にもがも

 長門沖津處 奧之借島名所如 深邃無極矣 我願己所思慕君 其壽千歲比南山

巨曾倍對馬 1024

 右一首,長門守巨曾倍對馬朝臣

「沖(おき)つ借島(かりしま)」,借「沖(おき)」之音引出「奧(おく)まへ」之序。

「奧(おく)まへ」,內心深處。

「我(あ)が思(おも)ふ君(きみ)は」,此指右大臣橘諸兄

「千年(ちとせ)にもがも」,「に」乃斷定助動詞「也(なり)」之連用形,「もがも」表希求


1025 【承前。四首第二。】

 奧真經而 吾乎念流 吾背子者 千年五百歲 有巨勢奴香聞

 奧(おく)まへて 我(われ)を思(おも)へる 我(わ)が背子(せこ)は 千年五百歲(ちとせほとせ) ありこせぬかも

 深邃無極矣 思慕念我吾兄子 我亦有所願 冀汝長命壽長久 千年長青五百歲

橘諸兄 1025

 右一首,右大臣和歌

「我(わ)が背子(せこ)」,此云巨曾倍對馬。

「在(あり)こせぬかも」,「こせ」為「くれる」之意,而「ぬかも」表希求,而祈求內容多半不易實現。

1026 【承前。四首第三。】

 百礒城乃 大宮人者 今日毛鴨 暇无跡 里爾不出將有

 百敷(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)は 今日(けふ)もかも 暇(いとま)を無(な)みと 里(さと)に出(いで)ざらむ

 百敷宮闈間 高雅殿上大宮人 汝今復如是 蓋因公務繁無暇 不得出里來相會

豐島采女 1026

 右一首,右大臣傳云:「故豐嶋采女歌。」

「里(さと)に出(いで)ざらむ」,此云仕宮之人返家。采女一般無法自由離開後宮,蓋采女詠唱傳誦之歌而被視為自作所然。



1027 【承前。四首第四。】

 橘 本爾道履 八衢爾 物乎曾念 人爾不所知

 橘(たちばな)の 本(もと)に道踏(みちふ)む 八衢(やちまた)に 物(もの)をそ思(おも)ふ 人(ひと)に知(し)らえず

 非時香菓兮 今行橘蔭斑駁道 八衢路分別 吾人不覺沉憂思 只哀不得伊人知

三方沙彌 1027

 右一首,右大辨高橋安麻呂卿語云:「故豐嶋采女之作也。」但或本云:「三方沙彌戀妻苑臣作歌也。」然則,豐嶋采女當時當所口吟此歌歟。

「橘(たちばな)の 本(もと)に道踏(みちふ)む」,多人往來植橘之道,引出「八衢(やちまた)」之序。

「八衢(やちまた)」,道路分歧之處。八為表多數之虛數。立身八衢,不知當由而去,引申為心情迷惘之狀。


1028 十一年己卯,天皇遊獵高圓野之時,小獸泄走都里之中。於是,適值勇士生而見獲。即以此獸,獻上御在所副歌一首 【獸名,俗曰むざさび(牟射佐妣)。】

 大夫之 高圓山爾 迫有者 里爾下來流 牟射佐毗曾此

 大夫(ますらを)の 高圓山(たかまとやま)に 迫(せ)めたれば 里(さと)に下來(おりけ)る 鼯鼠(むざさび)そこれ

 勇士興遊獵 高圓山間獸遁走 為大夫所迫 泄走下來都里中 小獸鼯鼠其是也

坂上郎女 1028

 右一首,大伴坂上郎女作之。但未逕奏而小獸死斃。因此獻歌停之。

大夫(ますらを)」,此概指俄勢子之大宮人而言。

「迫(せ)めたれば」,兩者間距縮短。


1029 十二年庚辰冬十月,依大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍,幸于伊勢國之時,河口行宮,內舍人大伴宿禰家持作歌一首

 河口之 野邊爾廬而 夜乃歷者 妹之手本師 所念鴨

 河口(かはぐち)の 野邊(のへ)に廬(いほ)りて 夜(よ)の經(ふ)れば 妹(いも)が手本(たもと)し 思(おも)ほゆるかも

 河口野邊間 結廬假寢為權宿 歷經幾夜者 吾念愛妻妹手枕 更慕難眠愁相思

大伴家持 1029

藤原廣嗣謀反」,廣嗣糾彈橘諸兄一派之失,欲除玄掘吉備真備勢力而不成,反被指陳謀叛。

「廬(いほ)り」,簡造小屋宿泊

「妹(いも)が手本(たもと)し」,以妻之手腕為枕。

1030 天皇御製歌一首 【承前。】

 妹爾戀 吾乃松原 見渡者 潮干乃滷爾 多頭鳴渡

 妹(いも)に戀(こ)ひ 吾松原(あがのまつばら) 見渡(みわた)せば 潮乾潟(しほひのかた)に 鶴鳴渡(たづなきわた)る

 思慕待妹兮 身居吾之松原間 放眼望去者 退潮時分潮乾潟 葦鶴鳴渡越大虛

聖武天皇 1030

 右一首,今案,吾松原三重郡,相去河口行宮遠矣。若疑御在朝明行宮之時所製御歌,傳者誤之歟。

「妹(いも)に戀(こ)ひ」,思慕妻子欲與之相逢兒等待,遂為「吾松原(あがのまつばら)」之枕詞

「吾松原(あがのまつばら)」,未詳所在。按左注則在三重郡,然去河口行宮甚遠。


1031 丹比屋主真人歌一首 【承前。】

 後爾之 人乎思久 四泥能埼 木綿取之泥而 好住跡其念

 後(おく)れにし 人(ひと)を偲(しの)はく 思泥崎(しでのさき) 木綿取垂(ゆふとりし)でて 幸(さき)くとそ思(おも)ふ

 偲慕留家人 相思之愁情難止 身居思泥崎 手執木綿取垂而 唯願無恙好住矣

丹比屋主 1031

 右案,此歌者,不有此行之作乎。所以然言,敕大夫從河口行宮還京,勿令從駕焉。何有詠思泥埼作歌哉。

「後(おく)れにし 人(ひと)」,留居奈良家人

「思泥崎(しでのさき)」,此句同時表示身在思泥崎,亦以同音雙關下句垂木綿者。

「幸(さき)く」,原文「好住」,乃旅行之中,祈求居家者無恙之語,與「好去」相對。正倉院藏『杜家立成』云「唯願好住好住。」

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