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2016-09-15-木

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万葉集 卷第六 雜歌

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/manyou/m06.htm

更新


万葉集試訳

1068 詠天

 天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隱所見

 天海(あめのうみ)に 雲波立(くものなみた)ち 月舟(つきのふね) 星林(ほしのはやし)に 漕隱(こぎかく)る見(み)ゆ

 遙遙久方兮 天海雲湧如駭浪 月舟渡大虛 榜入星林沒其間 漕隱之狀今可見

柿本人麻呂 1068

 右一首,柿本朝臣人麻呂之歌集出。

天海(あめのうみ)」,以海比喻天空曠遠蒼藍之狀。常與「月舟」、「雲浪」、「星林」相呼應。

「月舟(つきのふね)」,以舟比喻月之渡空。或以舟表七夕夜月之歌語表現。『懷風藻』文武天皇 五言詠月:「月舟移霧渚 楓楫泛霞濱 臺上澄流耀 酒中沈去輪 水下斜陰碎 樹落秋光新 獨以星間鏡 還浮雲漢津」http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/kaifuu/kaifuu01.htm#monmu『新撰萬葉集』戀歌「瀧河起浪穿月舟 湖浦遄湖折星槍 應謂三冬無熱草 九碧河降氣切苦」http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/sinsen/sm02.htm#215

1069 詠月 【十八第一。】

 常者曾 不念物乎 此月之 過匿卷 惜夕香裳

 常(つね)は曾(かつ)て 思(おも)はぬ物(もの)を 此月(このつき)の 過隱(すぎかく)らまく 惜(をし)き宵(よひ)かも

 日頃恆常者 雖不曾有作此念 然今見此月 過匿雲後隱不見 甚惜今宵此夜矣

佚名 1069

「常(つね)は曾(かつ)て 思(おも)はぬ物(もの)を」,「曾」與「嘗」同。平時未嘗作此思。

「過隱(すぎかく)らまく」,「過」字有漸漸隱而不得見之意。

1070 【承前,十八第二。】

 大夫之 弓上振起 獵高之 野邊副清 照月夜可聞

 大夫(ますらを)の 弓末振起(ゆずゑふりおこ)し 獵高(かりたか)の 野邊(のへ)さへ清(きよ)く 照月夜(てるつくよ)かも

 大夫益荒男 弓末振起箭上絃 將為遊狩之 獵高野邊亦朗照 清冽明晰月夜矣

佚名 1070

大夫(ますらを)の 弓末振起(ゆずゑふりおこ)し」,「弓末(ゆずゑ)」乃「弓末(ゆみずゑ)」之略,弓之上端部。射箭之際,狙擊獵物將放矢之前之準備動作。以上乃引出地名「獵高」之序。

「月夜(つくよ)」,或指有月之夜,或指明月自身。此為後者


1071 【承前,十八第三。】

 山末爾 不知夜歷月乎 將出香登 待乍居爾 夜曾降家類

 山端(やまのは)に 十六夜月(いさよふつき)を 出(い)でむかと 待(ま)ちつつ居(を)るに 夜(よ)そ更(ふ)けにける

 眺望山之端 既望十六夜之月 躊躇月晚出 昂首待月猶豫間 不覺宵闌夜已更

佚名 1071

「山端(やまのは)」,山稜線

十六夜月(いさよふつき)」,既望月。後世訓「いざよふ」,而『古今集』時仍為清音十六夜月遲出,故亦云不知月、猶豫月。作者躊躇當待月與否,不決之間,已然夜深。

1072 【承前,十八第四。】

 明日之夕 將照月夜者 片因爾 今夜爾因而 夜長有

 明日夕(あすのよひ) 照(て)らむ月夜(つくよ)は 片寄(かたよ)りに 今夜(こよひ)に寄(よ)りて 夜長(よなが)からなむ

 明日夕暮後 將照夜月可挪乎 還願其片寄 添於今宵令夜長 只冀今晚莫疾逝

佚名 1072

「片寄(かたよ)りに」,單方面添靠之狀。

「夜長(よなが)からなむ」,與事實相反之未然希求形。雖知無望,仍作此願。

1073 【承前,十八第五。】

 玉垂之 小簾之間通 獨居而 見驗無 暮月夜鴨

 玉垂(たまだ)れの 小簾間通(をすのまとほ)し 獨居(ひとりゐ)て 見(み)る驗無(しるしな)き 夕月夜(ゆふつくよ)かも

 珠麗玉垂兮 小簾隙間目通之 獨居形影孤 隻身獨賞甚無驗 可惜良景暮月夜

佚名 1073

「玉垂(たまだ)れの」,珠簾之雅語。於此修飾同位語之小簾。

「小簾(をす)」,以篠、葦所編成之簾。

「見(み)る驗無(しるしな)き」,無驗於此乃無益之意。此云一人獨觀,美景亦如嚼蠟。作者蓋為女方而枯待男子來訪。

夕月夜(ゆふつくよ)」,高掛夕空之月,蓋十五日以前之月。


1074 【承前,十八第六。】

 春日山 押而照有 此月者 妹之庭母 清有家

 春日山(かすがやま) 押(お)して照(て)らせる 此月(このつき)は 妹(いも)が庭(には)にも 清(さや)けかりけり

 春日山頂上 高空照臨此月者 其光曜無私 吾妻庭亦為所照 幽光清冽曜宿明

佚名 1074

「押(お)して照(て)らせる」,日月於高空照臨之狀。

「清(さや)けかりけり」,けり乃詠嘆眼前之事實。作者到訪戀人之宿,見照臨春日山之明月,亦光曜戀人之庭,故云。


1075 【承前,十八第七。】

 海原之 道遠鴨 月讀 明少 夜者更下乍

 海原(うなはら)の 道遠(みちとほ)みかも 月讀(つくよみ)の 光少(ひかりすく)なき 夜(よ)は更(ふ)けにつつ

 蓋以滄溟之 海遠道遠路遙哉 月讀壯士矣 其光幽微晦不明 難涉之間夜已深

佚名 1075

「海原(うなはら)の 道遠(みちとほ)みかも」,此云明月渡海而來,而或許路途遙遠而未臻。「遠(とほ)みかも」乃み語法之疑問條件語。

「月讀(つくよみ)の 光(ひかり)」,月讀乃擬人化月之名,或云月讀壯士。

類歌980。


1076 【承前,十八第八。】

 百師木之 大宮人之 退出而 遊今夜之 月清左

 百敷(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)の 罷出(まかりで)て 遊(あそ)ぶ今夜(こよひ)の 月清(つきのさや)けさ

 百敷宮闈間 高雅殿上大宮人 罷出興遊宴 所樂今夜月清雅 照臨四方令心清

佚名 1076

「罷出(まかりで)て」,「退(まか)る」乃自貴人之許退下,此云結束當日勤務而退朝。

「遊(あそ)ぶ」,

遊宴。

1077 【承前,十八第九。】

 夜干玉之 夜渡月乎 將留爾 西山邊爾 塞毛有粳毛

 烏玉(ぬばたま)の 夜渡(よわた)る月(つき)を 留(とど)めむに 西山邊(にしのやまへ)に 塞(せき)もあらぬ哉(かも)

 漆遽╋妄臓^婆虛空明月渡 為留此月者 冀於西面山際處 營設關塞止月沉

佚名 1077

「留(とど)めむに」,「むに」接下句命令希求之語,而表示為了達成某目的之意。

「塞(せき)もあらぬ哉(かも)」,「塞(せ)き」乃動詞「塞(せ)く」之名詞形。攔截水流之堰,或限制人物出入之關。此惜月沉,願能留駐,故云。

1078 【承前,十八第十。】

 此月之 此間來者 且今跡香毛 妹之出立 待乍將有

 此月(このつき)の 此間(ここ)に來(きた)れば 今(いま)とかも 妹(いも)が出立(いでた)ち 待(ま)ちつつあるらむ

 皎潔此月之 渡空來至此間者 且今當此時 妹妻蓋思吾將至 出立翹首盼吾臨

佚名 1078

「此月(このつき)の 此間(ここ)に來(きた)れば」,以上為作者推測戀人(妹・妻)內心之語。女方以月之位置,推測男方將至之時。而作者或因事無法成行,或正趕路前往之途中。

1079 【承前,十八十一。】

 真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隱流 天津霧鴨

 真十鏡(まそかがみ) 照(て)るべき月(つき)を 白栲(しろたへ)の 雲(くも)か隱(かく)せる 天霧(あまつきり)かも

 清澄真十鏡 明月當照卻不見 蓋是白栲兮 浮雲蔽月遮太陰 抑或天霧漫空哉

佚名 1079

「真十鏡(まそかがみ)」,「照月」、「清月」之枕詞。以其形象清澄而言。

「白栲(しろたへ)の」,栲木或以其所紡織之絲綢。

「雲(くも)か隱(かく)せる 天霧(あまつきり)かも」,此云抬頭不見明月,蓋是為白栲之雲所遮,或為天霧所蔽。一般並列疑問者,作者主觀以為後者較近事實。

1080 【承前,十八十二。】

 久方乃 天照月者 神代爾加 出反等六 年者經去乍

 久方(ひさかた)の 天照(あまて)る月(つき)は 神代(かみよ)にか 出反(いでかへ)るらむ 年(とし)は經(へ)につつ

 遙遙久方兮 凌空照天明月者 圓闕能復始 蓋是返生歸神代 經年常若永彌新

佚名 1080

「天照(あまて)る月(つき)は」,連體格之天照る之「て」有清濁兩形,此估依前者。

神代(かみよ)にか 出反(いでかへ)るらむ」,此云月缺而復滿,蓋是歸自神代,又復返生乎之推測。

「年(とし)は經(へ)につつ」,明明時代流逝,然而明月卻歷久彌新。


1081 【承前,十八十三。】

 烏玉之 夜渡月乎 可怜 吾居袖爾 露曾置爾雞類

 烏玉(ぬばたま)の 夜渡(よわた)る月(つき)を 可怜(おもしろ)み 我(わ)が居(を)る袖(そで)に 露(つゆ)そ置(お)きにける

 漆遽╋妄臓^婆虛空明月渡 其月甚可怜 吾觀美月久居間 不覺置露沾袖濕

佚名 1081

「可怜(おもしろ)み」,「面白(おもしろ)し」之み句法。本詞意乃見得良景而人心爽朗之狀。而自古用於形容月光之例不少。

1082 【承前,十八十四。】

 水底之 玉障清 可見裳 照月夜鴨 夜之深去者

 水底(みなそこ)の 玉(たま)さへ清(さや)に 見(み)つべくも 照(て)る月夜(つくよ)かも 夜更行(よのふけゆ)けば

 珠玉沉水底 水下寶珠晰可見 如此光照曜 明月懸空清清矣 只消夜之深去者

佚名 1082

「見(み)つべくも」,「つべし」表辦得到之狀態,も乃詠嘆。


1083 【承前,十八十五。】

 霜雲入 為登爾可將有 久堅之 夜渡月乃 不見念者

 霜曇(しもぐも)り すとにかあるらむ 久方(ひさかた)の 夜渡(よわた)る月(つき)の 見(み)え無(な)く思(おも)へば

 蓋入霜曇後 匿其後為所蔽哉 遙遙久方兮 闇夜虛空所渡月 不復得見所以

佚名 1083

「霜曇(しもぐも)り すとにかあるらむ」,霜曇意未詳,或云指霜降寒夜之間,空中陰曇之氣象。と乃とて、というつもり之意。

「見(み)え無(な)く思(おも)へば」,此云昂首不見明月,故推測其原因(當為月入霜曇之後)。

1084 【承前,十八十六。】

 山末爾 不知夜經月乎 何時母 吾待將座 夜者深去乍

 山端(やまのは)に 十六夜月(いさよふつき)を 何時(いつ)とかも 我(あ)が待居(まちを)らむ 夜(よ)は更(ふ)けにつつ

 眺望山之端 十六夜月總遲出 不知何時昇 吾人猶豫待月間 不覺宵闌夜已更

佚名 1084

「何時(いつ)とかも 我(あ)が待居(まちを)らむ」,思量明月何時將出,而持續等待之意。

1085 【承前,十八十七。】

 妹之當 吾袖將振 木間從 出來月爾 雲莫棚引

 妹(いも)が當(あた)り 我(あ)が袖振(そでふ)らむ 木間(このま)より 出來(いでく)る月(つき)に 雲莫棚引(くもなたなび)き

 吾欲指妻方 振袖揮腕示吾情 自林隙木間 所出來兮明月矣 浮雲莫掛勿蔽之

佚名 1085

「妹(いも)が當(あた)り 我(あ)が袖振(そでふ)らむ」,「當り」後省略「に向かって」,朝戀人之方向揮手。

「雲莫棚引(くもなたなび)き」,禁止命令與。此文蓋與戀人纏綿後,步上歸途之男子所詠。


1086 【承前,十八十八。】

 靱懸流 伴雄廣伎 大伴爾 國將榮常 月者照良思

 靫懸(ゆきか)くる 伴男廣(とものをひろ)き 大伴(おほとも)に 國榮(くにさか)えむと 月(つき)は照(て)るらし

 懸靫負箶籙 伴男人眾勢浩大 棟樑大伴氏 大伴之地國彌榮 明月臨照祝常盛

佚名 1086

「靫懸(ゆきか)くる 伴男廣(とものをひろ)き」,引出地名大伴之序文。靫乃納矢背負之具。

大伴氏為守護天皇家之棟樑,地名大伴乃其勢力範圍。


1087 詠雲

 痛足河 河浪立奴 卷目之 由槻我高仁 雲居立有良志

 穴師川(あなしがは) 川波立(かはなみた)ちぬ 卷向(まきむく)の 弓月岳(ゆつきがたけ)に 雲居立(くもゐた)てるらし

 痛足穴師川 川波湧兮河浪立 纏向卷向之 弓月之岳山頂上 想必雲湧叢居哉

柿本人麻呂 1087

「卷向(まきむく)の」,原文「卷目」。應神天皇皇女高目皇女訓「こもくのみこ」。

「雲居立(くもゐた)てるらし」,原文雲居立有良志,而神宮文庫本無「有」字者當訓「雲居立(くもゐた)つらし」。

1088 【承前,第二。】

 足引之 山河之麈掘ゞ蘇勅ぁゝ欸邱癲 ̄昔渡

 足引(あしひき)の 山川(やまがはのせ)の 鳴(なる)なへに 弓月岳(ゆつきがたけ)に 雲立渡(くもたちわた)る

 足引勢險峻 山川壯麗麕枡 伴其湍音響 弓月之岳脊頂上 層雲騰湧渡虛行

柿本人麻呂 1088

 右二首,柿本朝臣人麻呂之歌集出。

山川(やまがはのせ)の」,「」山川(やまがは)麌塾於山中之川(連濁表從屬格),此指前曲穴師川之急鷦言。

「鳴(なる)なへに」,「なへ」表與之一同、伴隨之意。

「雲立渡(くもたちわた)る」,此「渡(わた)る」表滿布之狀。


1089 【承前,第三。】

 大海爾 嶋毛不在爾 海原 絕塔浪爾 立有白雲

 大海(おほきうみ)に 島(しま)も有(あ)ら無(な)くに 海原(うなはら)の 搖盪(たゆた)ふ波(なみ)に 立(た)てる白雲(しらくも)

 綿津見大海 分明海島不有之 滄溟海原間 漂乎搖盪波濤上 所立湧現白雲矣

佚名 1089

 右一首,伊勢從駕作。

大海(おほきうみ)に」,大海或訓「おほうみ」,然有「於保吉宇美」之假名書例,遂訓おほきうみ。

「搖盪(たゆた)ふ」,動搖不安定之狀。

1090 詠雨

 吾妹子之 赤裳裙之 將染埿 今日之霡霂爾 吾共所沾名

 我妹子(わぎもこ)が 赤裳裾(あかものすそ)の 漬(ひづ)ちなむ 今日(けふ)の小雨(こさめ)に 我(われ)さへ濡(ぬ)れな

 愛妻吾妹子 所著赤裳裙裾矣 蓋為漬染埿 今日霡霂小雨下 吾亦共為所沾濡

佚名 1090

「赤裳裾(あかものすそ) 漬(ひづ)ちなむ」,女性拖著赤裳長裾行走,乃官能艶色之表徵。「漬(ひづ)ち」表濡濕。

「我(われ)さへ濡(ぬ)れな」,「な」為願望終助詞。即便與戀人遠隔,仍願能共有體驗而為言。

1091 【承前,第二。】

 可融 雨者莫零 吾妹子之 形見之服 吾下爾著有

 通(とほ)るべく 雨(あめ)は莫降(なふ)りそ 我妹子(わぎもこ)が 形見衣(かたみのころも) 我下(あれした)に著(け)り

 雨矣莫甚零 吾衣濡濕將通透 親親吾妹子 所留信物行見衣 今著服下貼肌身

佚名 1091

形見衣(かたみのころも)」,古俗以為相愛男女離別之時,相互餽贈衣物,將之穿在身上,便能早日相逢。

「下(した)に著(け)り」,以外衣遮蓋,不為他人所見。

1092 詠山 【七首第一。】

 動神之 音耳聞 卷向之 檜原山乎 今日見鶴鴨

 鳴神(なるかみ)の 音(おと)のみ聞(き)きし 卷向(まきむく)の 檜原山(ひはらのやま)を 今日見(けふみ)つるかも

 鳴神雷動兮 唯其聲名音可聞 卷向檜原山 久仰其名未得見 今日終能瞻其容

柿本人麻呂 1092

「音(おと)のみ聞(き)きし」,音於此乃傳聞、名聲之意。「音に聞く」表雖未眼見,但已耳聞。

「卷向(まきむく)の 檜原(ひはら)」,卷向一代之檜原附近亦有泊檜原三輪檜原等。


1093 【承前,七首第二。】

 三毛侶之 其山奈美爾 兒等手乎 卷向山者 繼之宜霜

 三諸(みもろ)の 其山並(そのやまなみ)に 兒等(こら)が手(て)を 卷向山(まきむくやま)は 繼(つ)ぎの宜(よろ)しも

 三諸御室兮 三輪山旁所相並 兒等之手兮 纏向之地卷向山 群峰相繼勢宜哉

柿本人麻呂 1193

「三諸(みもろ)の」,或云みむろ、みもろと。「室(むろ)」乃洞窟之意,轉作神之居所,與神奈備同格。

「兒等(こら)が手(て)を」,以戀人之手為枕﹐「卷向山(まきむくやま)」之枕詞

「繼(つ)ぎの宜(よろ)しも」,山峰相連之勢令人嘆為觀止。

1094 【承前,七首第三。】

 我衣 色取染 味酒 三室山 黃葉為在

 我(あ)が衣(ころも) 色取染(いろどりそ)めむ 味酒(うまさけ) 三室山(みむろのやま)は 黃葉(もみち)しにけり

 吾之所著衣 欲取其色以為染 美酒彌醇矣 三室御諸三輪山 萬葉始渲染紅黃

柿本人麻呂 1194

 右三首,柿本朝臣人麻呂之歌集出。

「味酒(うまさけ)」,三輪山枕詞古語神酒(みき)」或訓「みわ(三輪)」。

「黃葉(もみち)しにけり」,三輪山之木葉開始轉黃。此云賞翫紅葉,欲以之彩染己服。

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2016-08-26-金

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お盆放浪まとめ


万葉集試訳

1032 狹殘行宮,大伴宿禰家持作歌二首 【承前。家持二首第一。】

 天皇之 行幸之隨 吾妹子之 手枕不卷 月曾歷去家留

 大君(おほきみ)の 行幸隨(みゆきのまにま) 我妹子(わぎもこ)が 手枕卷(たまくらま)かず 月(つき)そ經(へ)にける

 奉為天皇之 行幸之隨至異鄉 親親吾妹子 不得纏汝手為枕 已然經月歷日久

大伴家持 1032

「狹殘(ささ)行宮」,所在未詳。惑擬多氣郡佐佐夫江神社之地。一說乃「狹淺」之訛,「ささ」則「さあさ」之略。

行幸隨(みゆきのまにま)」,隨(まにま)與隨(まにま)に同。伴隨,附從。


1033 【承前。家持二首第二。】

 御食國 志麻乃海部有之 真熊野之 小船爾乘而 奧部榜所見

 御食國(みけつくに) 志摩海人(しまのあま)ならし 真熊野(まくまのの)の 小船(をぶね)に乘(の)りて 沖邊漕見(おきへこぐみ)ゆ

 海幸御食國 志摩海人白水郎 紀洲真熊野 熊野小船漁人乘 榜於沖邊今可見

大伴家持 1033

「御食國(みけつくに)」,志摩國海產豐富,貢奉鮑、鰹、鯛等於類乾肉與諸多海藻等海幸之類。

「真熊野(まくまのの)の 小船(をぶね)」,熊野以造舟技術聞名。


1034 美濃國多藝行宮大伴宿禰東人作歌一首 【承前。】

 從古 人之言來流 老人之 變若云水曾 名爾負瀧之

 古(いにしへ)ゆ 人言來(ひとのい)ひける 老人(おいひと)の 變若(をつ)と云(い)ふ水(みづ)そ 名(な)に負(お)ふ瀧(たきのせ)

 自古曩昔時 古老口耳相傳來 返老令還童 不老長命變若水 負此名兮瀧黷

伴東人 1034

「老人(おいひと)の 變若(をつ)と云(い)ふ水(みづ)」,按『續日本紀』靈龜三年九月條:「甲寅,(行幸)至美濃國。(中略)丙辰,幸當耆郡,覽多度山美泉。」十一月詔:「朕以今年九月,到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉,自盥手面,皮膚如滑。亦洗痛處,無不除愈。在朕之躬,甚有其驗。又,就而飲浴之者,或白髮反遏ぐ頹髮更生,或闇目如明。自餘痼疾,咸皆平愈。昔聞:『後漢光武時,醴泉出。飲之者,痼疾皆愈。』符瑞書曰:『醴泉者,美泉。可以養老,蓋水之精也。』寔惟,美泉即合大瑞。朕雖庸虛,何違天貺?可大赦天下,改靈龜三年,為養老元年。」http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki07.htm#skk07_05

1035 大伴宿禰家持作歌一首 【承前。】

 田跡河之 瀧乎清美香 從古 官仕兼 多藝乃野之上爾

 田跡川(たどかは)の 瀧(たき)を清(きよ)みか 古(いにしへ)ゆ 宮仕(みやつか)へけむ 多藝野上(たぎのののうへ)に

 美濃田跡河 養老之瀧水清明 故自曩昔時 迎造宮殿在此境 多藝野上醴泉處

大伴家持 1035

「田跡川」,在美濃養老郡養老町,變若瀧之附近。

「多藝」,多藝行宮,今不詳所在。

1036 不破行宮,大伴宿禰家持作歌一首 【承前。】

 關無者 還爾谷藻 打行而 妹之手枕 卷手宿益乎

 關無(せきな)くは 歸(かへ)りにだにも 打行(うちゆ)きて 妹(いも)が手枕(たまくら) 卷(ま)きて寢益(ねまし)を

 天險不破關 若於茲無此關者 蓋難按歸情 縱令打行暫還鄉 欲枕妹腕更復來

大伴家持 1036

「不破」,不破關。不破關與伊勢鈴鹿關、越前愛發關並稱三關。

「關無(せきな)くは」,若無不破關。假定語氣。

「歸(かへ)りにだにも」,「だに」表「至少」。美濃大和相去甚遠,常住大和不可能。然願至少能偶返家中。字不破關去奈良,單成百廿公里,往復需耗六日。

1037 十五年癸未秋八月十六日,內舍人大伴宿禰家持讚久邇京作歌一首

 今造 久邇乃王都者 山河之 清見者 宇倍所知良之

 今造(いまつく)る 久邇都(くにのみやこ)は 山川(やまかは)の 清(さや)けき見(み)れば 宜知(うべし)らすらし

 今之所造營 恭仁新京久邇都 山川誠壯麗 見之清清醋声圈|猟蠹垪》耆宜

大伴家持 1037

「久邇京」,聖武帝於天平二年十二月至十六年閏正月,以恭仁(久邇)京為都。然此其間之內,於近江甲賀郡山中營紫香樂宮而頻幸。此歌所詠八月中旬,當聖武帝七月末至十二月初,長滯紫香樂宮達三月之最中。而左大臣橘諸兄等留守久邇京。

「今造(いまつく)る 久邇都(くにのみやこ)は」,久邇京造營,耗時三月,所費不貲,而於此年十二月廿六日停建。

「宜(うべ)」,理當如此,理所當然。


1038 高丘河內連歌二首

 故鄉者 遠毛不有 一重山 越我可良爾 念曾吾世思

 故鄉(ふるさと)は 遠(とほ)くも非(あら)ず 一重山(ひとへやま) 越(こ)ゆるがからに 思(おも)ひそ我(あ)がせし

 故鄉平城者 去此不遠實非遙 區區一重山 雖知越之即得還 然吾不禁仍慕念

高丘河內 1038

「高丘河內」,高丘連河內,紫香樂宮造宮司之一。

「故鄉(ふるさと)」,此云平城舊都。

「越(こ)ゆるがからに」,新舊兩京僅隔奈良山丘陵,相去十公里。「からに」有原因細微而結果重大之感。

「思(おも)ひそ我(あ)がせし」,一者思鄉,更者思人。欲與久未逢晤之人相會,其情難抑。

1039 【承前。】

 吾背子與 二人之居者 山高 里爾者月波 不曜十方余思

 我(わ)が背子(せこ)と 二人(ふたり)し居(を)らば 山高(やまたか)み 里(さと)には月(つき)は 照(て)らずとも良(よ)し

 若與吾兄子 二人與共相居者 山高圍青垣 里中隱國遮太陰 月雖不曜無所惜

高丘河內 1039

「我(わ)が背子(せこ)」,居於平城舊京之男性友人。或云此歌乃留守舊京之妻女思夫所作。

「二人(ふたり)し居(を)らば」,假定事實表現

「里(さと)」,此云平城舊京。

「照(て)らずとも良(よ)し」,無所缺乏之放任語句。若能與君兩人相共,則即便月光不照亦無所謂。

1040 安積親王宴左少辨藤原八束朝臣家之日,內舍人大伴宿禰家持作歌一首

 久堅乃 雨者零敷 念子之 屋戶爾今夜者 明而將去

 久方(ひさかた)の 雨(あめ)は降頻(ふりし)け 思兒(おもふこ)が 宿(やど)に今夜(こよひ)は 明(あ)かして行(ゆ)かむ

 遙遙久方兮 雨自天零降頻頻 今夜避雨宿 留居思兒屋戶間 待至天明而方去

大伴家持 1040

「久方(ひさかた)の」,「天」、「雨」之枕詞。古人以為天(あめ、あま)在空(そら)上,而雨(あめ)乃自天而零。

「雨(あめ)は降頻(ふりし)け」,雨頻降之狀。

「思兒(おもふこ)が」,此乃男性對所思念之少女之呼稱。

此擬藤原八束留戀之情,藉口雨降,留宿愛人之邸,欲待天明之後方離去。

1041 十六年甲申春正月五日,諸卿大夫集安倍蟲麻呂朝臣家宴歌一首 【作者不審。】

 吾屋戶乃 君松樹爾 零雪乃 行者不去 待西將待

 我(わ)が宿(やど)の 君松木(きみまつのき)に 降雪(ふるゆき)の 行(ゆ)きには行(ゆ)かじ 待(ま)ちにし待(ま)たむ

 吾猶我宿之 君松木之名所如 雪雖零其上 不妄前行擅往去 引領久待盼君來

佚名 1041

「君松木(きみまつのき)に」,此與「君松浦山」同,借同音而為「待君」之喻。

「降雪(ふるゆき)の」,以上乃引出「行き」之序。

按「松」與「待」同音,「雪」與「行」同音,作者選擇持續等待,而非起而行之。

1042 同月十一日,登活道岡,集一株松下飲歌二首

 一松 幾代可歷流 吹風乃 聲之清者 年深香聞

 一松(ひとつまつ) 幾代(いくよ)か經(へ)ぬる 吹風(ふくかぜ)の 聲清(こゑのきよ)きは 年深(としふか)み哉(かも)

 獨樹孤松矣 汝經幾世歷幾代 吹風聲清者 蓋已年深歷時久 古色蒼鬱隨神哉

市原王 1042

 右一首,市原王作。

「聲清(こゑのきよ)きは」,原文「聲之清者」。聲字或可訓作おと,然考慮松樹擬人化表現,故訓こゑ。


1043 【承前。】

 靈剋 壽者不知 松之枝 結情者 長等曾念

 靈剋(たまきは)る 命(いのち)は知(し)らず 松(まつ)が枝(え)を 結(むす)ぶ心(こころ)は 長(なが)くとそ思(おも)ふ

 靈剋魂極矣 命之壽限無由知 然吾結松枝 祈願之情望長青 冀得長壽比松齡

大伴家持 1043

 右一首,大伴宿禰家持作。

「靈剋(たまきは)る」,命之枕詞

「松(まつ)が枝(え)を 結(むす)ぶ心(こころ)は」,古俗結松枝以占驗,或祈求平安、長壽、幸福


1044 傷惜寧樂京荒墟作歌三首 【作者不審。】

 紅爾 深染西 情可母 寧樂乃京師爾 年之歷去倍吉

 紅(くれなゐ)に 深染(ふかくし)みにし 心(こころ)かも 奈良都(ならのみやこ)に 年經(としのへ)ぬべき

 朱料色真赤 深染鮮紅沁赭匂 吾今以此情 身居荒墟寧樂京 傷惜奈良當經年

佚名 1044

「紅(くれなゐ)に 深染(ふかくし)みにし 心(こころ)かも」,如朱色染料浸透深染般,沁至內心深處對於舊都之情感。「紅(くれなゐ)」乃「紅花(べにばな)」,菊科多年草夏日綻開鮮黃之花,而為胭脂之原料。或名末摘花。

1045 【承前。】

 世間乎 常無物跡 今曾知 平城京師之 移徙見者

 世間(よのなか)を 常無(つねな)き物(もの)と 今(いま)そ知(し)る 奈良都(ならのみやこ)の 移(うつろ)ふ見(み)れば

 空蟬憂世間 諸行無常總遷變 吾今悟此理 眼見平城京移徙 往時榮景不復存

佚名 1045

奈良都(ならのみやこ)の 移(うつろ)ふ」,「移ふ」意指都市文化時間經過而衰廢。按『續日本紀天平十六年閏正月詔喚會百官於朝堂問:「恭仁、難波二京、何定為都?各言其志。」官人陳恭仁、難波京便宜者各半。又遣巨勢奈弖麻呂、藤原仲麻呂,就市問定京之事。市人皆願以恭仁京為都,但有願難波者一人,願平城者一人。 http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki15.htm#skk15_04

1046 【承前。】

 石綱乃 又變若反 青丹吉 奈良乃都乎 又將見鴨

 岩綱(いはつな)の 又變若返(またをちかへ)り 青丹良(あをによ)し 奈良都(ならのみやこ)を 又(また)も見(み)む哉(かも)

 石葛岩綱兮 又復返老還盛年 青丹誠良矣 平城寧樂奈良京 榮景可將復見歟

佚名 1046

「岩綱(いはつな)の」,「變若(をつ)」之枕詞。岩綱或書石葛(いはつな),蔓性植物。其蔓廣生蔓延,時時繞回原地。故云。

以上乃『萬葉集』卷六主要部分,原則明記年代。其後廿一首者,自田邊福麻呂歌集中擷取雜歌而成。

1047 悲寧樂故鄉作歌一首 【并短歌。】

 八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國爾之有者 阿禮將座 御子之嗣繼 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春爾之成者 春日山 御笠之野邊爾 櫻花 木晚牢 皃鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去來者 射駒山 飛火賀嵬丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狹男壯鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思煎敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮將徃跡 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事爾之有者 皇之 引乃真爾真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒爾異類香聞

 八隅治(やすみし)し 我(わ)が大君(おほきみ)の 高敷(たかし)かす 大和國(やまとのくに)は 皇祖(すめろき)の 神御代(かみのみよ)より 敷坐(しきま)せる 國(くに)にしあれば 生坐(あれまさ)む 御子繼繼(みこのつぎつ)ぎ 天下(あめのした) 知(し)らし坐(まさ)むと 八百萬(やほよろづ) 千年(ちとせ)を兼(か)ねて 定(さだ)めけむ 奈良都(ならのみやこ)は 陽炎(かぎろひ)の 春(はる)にし成(な)れば 春日山(かすがやま) 御笠野邊(みかさののへ)に 櫻花(さくらばな) 木暗隱(このくれがく)り 貌鳥(かほどり)は 間無(まな)く數鳴(しばな)く 露霜(つゆしも)の 秋去來(あきさりく)れば 生駒山(いこまやま) 飛火(とぶひ)が崗(をか)に 萩枝(はぎのえ)を 柵散(しがらみち)らし 小雄鹿(さをしか)は 妻呼響(つまよびとよ)む 山見(やまみ)れば 山(やま)も見(み)が欲(ほ)し 里見(さとみ)れば 里(さと)も住良(すみよ)し 文武百官(もののふ)の 八十伴男(やそとものを)の 裏這(うちは)へて 思(おも)へりしくは 天地(あめつち)の 寄合(よりあ)ひの極(きは)み 萬代(よろづよ)に 榮(さか)え行(ゆ)かむと 思(おも)へりし 大宮(おほみや)すらを (たの)めりし 奈良都(ならのみやこ)を 新代(あらたよ)の 事(こと)にしあれば 大君(おほきみ)の 引(ひ)きの隨(まにま)に 春花(はるはな)の 移變(うつろひかは)り 群鳥(むらとり)の 朝立行(あさだちゆ)けば 刺竹(さすたけ)の 大宮人(おほみやひと)の 踏平(ふみなら)し 通(かよ)ひし道(みち)は 馬(うま)も行(ゆ)かず 人(ひと)も行(ゆ)かねば 荒(あ)れにけるかも

 八隅治天下 經綸恢弘吾大君 高敷臨御宇 秋津大和之國者 皇祖皇宗之 神武大御代以來 定以為京師 光宅敷座秀國矣 天津日嗣之 所生御子繼綿延 掩天下八紘 以為一宇躬君臨 八百萬無限 兼知未然千年後 定都營京師 平城寧樂奈良京 陽炎絢麗兮 時值佐保春日臨 乃樂春日山 以至御笠野邊間 櫻木花盛咲 隱於木暗樹蔭間 妍麗貌鳥者 數鳴無間報春暖 露霜降置白 龍田之秋去來者 乃樂生駒山 以至飛火崗岳間 蹋散萩枝而 步迴柵散亂落柄 雄牡小壯鹿 呼妻聲響鳴迴盪 見彼寧樂山 山明觀之不厭飽 顧彼平城里 里鄉宜居寔住吉 文武百官之 八十伴緒益荒男 裏這續綿延 古今末長所思者 玄天黃地之 寄合相交遠極處 永久萬代間 繁華榮盛無絕時 吾雖作此思 所念百敷大宮處 吾雖寄憑髻\鎮偉表奈良都 時值新御代 以彼萬象須更新 大君命惶恐 唯諾隨君之所率 一猶春華兮 世事無常早移變 復如群鳥兮 朝日出行別去者 刺竹生茂繁 百敷宮闈大宮人 過去所蹋平 絡繹不絕蟻通道 人事咸已非 馬之不行人不往 寧樂故鄉今荒頹

田邊福麻呂 1047

「高敷(たかし)かす」,營造都城,於高處照覽、統治國家。結合「高知」與「太敷」之語。

「皇祖(すめろき)の 神御代(かみのみよ)より」,「すめろき」或書為天皇,代代皇祖或某一代天皇之稱,此云初代神武天皇

「天下(あめのした) 知(し)らし坐(まさ)むと」,此句之前省略「於此奈良之地」。

「千年(ちとせ)を兼(か)ねて」,「兼(か)む」乃預想之意。『日本書紀』推古紀有云:「兼知未然。」

陽炎(かぎろひ)の」,春季之代表景色,故作為春之枕詞。「露霜(つゆしも)の」,秋季代表景色,秋之枕詞

「木暗(このくれ)」,樹蔭。

「飛火(とぶひ)が崗(をか)」,設有烽火台之山。按『日本書紀』天智記三年是歲條:「是歲,於對馬嶋、壹岐嶋、筑紫國等,置防與烽。」http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki27.htm#sk27_04

「裏這(うちは)へて」,「這(は)ふ」乃長時間對特定對象有所寄情之意。

「天地(あめつち)の 寄合(よりあ)ひの極(きは)み」,為強調食間上之永遠,而徵引此空間上之無限語句以為照應。

大宮(おほみや)すらを」,「すらを」表「明明雖然如此,然而...」之意。

「新代(あらたよ)の」,恭仁京遷都,萬象更新,而橘氏取代藤原朝廷首班之局勢、抱負

「引(ひ)きの隨(まにま)に,順從天皇之引導。按天平十三年詔,五位以上者,不得無斷留住平城京。實質乃強制遷移。

「春花(はるはな)の」,以花謝移落,而為「移變」之枕詞

「群鳥(むらとり)の」,以鳥群早朝飛翔之習,而為「朝立(あさだ)ち」之枕詞

「朝立行(あさだちゆ)けば」,比喻急促搬至新都之狀。

「踏平(ふみなら)し」,形容絡繹不絕,凹凸不平之道路為往來人馬所踏平。


1048 反歌二首 【承前。】

 立易 古京跡 成者 道之志婆草 長生爾異煎

 立變(たちかは)り 古都(ふるきみやこ)と 成(な)りぬれば 道芝草(みちのしばくさ) 長(なが)く生(お)ひにけり

 世易時移矣 寧樂故鄉化舊京 今日以此故 道中芝草生長茂 荒煙廢絕令鼻酸

田邊福麻呂 1048

「立變(たちかは)り」,世易時移,新出現之事物取代舊者。

「道芝草(みちのしばくさ)」,過去大宮人等頻繁往來之平城京路上,因人潮不再而孳生之雜草。


1049 【承前。】

 名付西 奈良乃京之 荒行者 出立每爾 嘆思益

 懷(なつ)きにし 奈良都(ならのみやこ)の 荒行(あれゆ)けば 出立(いでた)つ每(ごと)に 嘆(なげ)きし(ま)さる

 所懷所馴染 奈良故鄉寧樂京 以彼荒廢者 每逢出行佇屋外 見此悲景徒畸

田邊福麻呂 1049

「懷(なつ)きにし」,「懷(なつ)く」乃熟悉之狀。

「出立(いでた)つ」,出於屋外,佇立道中。乃庇於家中之「居坐」之相對詞。


1050 讚久邇新京歌二首 【并短歌。】

 明津神 吾皇之 天下 八嶋之中爾 國者霜 多雖有 里者霜 澤爾雖有 山並之 宜國跡 川次之 立合鄉跡 山代乃 鹿脊山際爾 宮柱 太敷奉 高知為 布當乃宮者 河近見 湍音敘清 山近見 鳥賀鳴慟 秋去者 山裳動響爾 左男鹿者 妻呼令響 春去者 岡邊裳繁爾 巖者 花開乎呼理 痛可怜 布當乃原 甚貴 大宮處 諾己曾 吾大王者 君之隨 所聞賜而 刺竹乃 大宮此跡 定異等霜

 現神(あきつかみ) 我(わ)が大君(おほきみ)の 天下(あめのした) 八島內(やしまのうち)に 國(くに)はしも 澤(さは)に有(あ)れども 里(さと)はしも 澤(さは)に有(あ)れども 山並(やまなみ)の 宜(よろ)しき國(くに)と 川並(かはなみ)の 立合(たちあ)ふ里(さと)と 山背(やましろ)の 鹿脊山際(かせやまのま)に 宮柱(みやばしら) 太敷奉(ふとしきまつ)り 高知(たかし)らす 布當宮(ふたぎのみや)は 川近(かはちか)み 鷁(せのおと)ぞ清(きよ)き 山近(やまちか)み 鳥(とり)が音響(ねとよ)む 秋去(あきさ)れば 山(やま)も轟(とどろ)に 小雄鹿(さをしか)は 妻呼響(つまよびとよ)め 春去(はるさ)れば 岡邊(をかへ)も繁(しじ)に 巖(いはほ)には 花咲撓(はなさきをを)り 痛怜(あなおもしろ) 布當原(ふたぎのはら) 甚貴(いとたふと) 大宮所(おほみやところ) 宜(うべ)しこそ 吾(わ)が大君(おほきみ)は 隨君(きみながら) 聞(き)かし賜(たま)ひて 刺竹(さすたけ)の 大宮此處(おほみやここ)と 定(さだ)めけらしも

 明神現人神 經綸恢弘吾大君 六合天之下 所治大八洲國中 諸國雖多有 無處地靈猶此矣 諸里雖多在 莫有人傑若此矣 山並誠巍峨 山明壯麗宜國矣 川並寔蜿蜒 錯蹤絡合秀里矣 山背山城之 鹿脊山之麓際處 豎立嚴宮柱 太敷奉立營廣厚 建之治高聳 久邇新京布當宮 去川程不遠 鷁止ミダ鏡金磧ゝ郢各刺埀鵝…嗣音響渡繞樑 時值秋日者 山中聲鳴響轟轟 牡雄小壯鹿 戀妻呼鳴題不斷 時值春日者 崗邊寔繁無間斷 磐根巨巖間 百花爭鳴撓亂咲 嗚呼甚憐矣 美不勝收布當原 其尊高貴矣 此其百敷大宮所 宜矣如是哉 英明聖絕吾大君 隨臣之所奏 聞賜諸兄獻策者 定彼刺竹之 榮盛繁茂大宮所 鎮座此地御宇哉

田邊福麻呂 1050

「現神(あきつかみ)」,顯現行姿於現世之神。神多隱身,而天皇則為現人神、顯人神。大化改新之詔,有明神之語。

「八島(やしま)」,日本之別稱,或云大八洲國。按『古事記』,乃淡路、四國、隱岐、九州、壹岐、對馬、佐渡、本洲。

「國(くに)はしも 澤(さは)に有(あ)れども」,讚美國勢之常套語。諸國雖多,以此國最勝。

「山並(やまなみ)」,山脈相連之狀。

「川並(かはなみ)の 立合(たちあ)ふ里(さと)と」,川並乃河道。此云河筋錯蹤交絡之狀。概指和束川、石部川交匯於泉川而為言。

「宮柱(みやばしら) 太敷奉(ふとしきまつ)り」,造營宮殿堅實壯大,以之奉呈獻上。主語概為橘諸兄

「山(やま)も轟(とどろ)に」,連山亦為之震撼。

「繁(しじ)に」,緊密無間斷。

「痛怜(あなおもしろ)」,「怜(おもしろ)」指景色明媚,令觀者心曠神怡。

大宮所(おほみやところ)」,以皇居未完成,遂用此語。此歌雖讚久邇新京,然宮殿造營於十五年中斷,而當於每年元旦舉行之百官朝賀,此十六年亦因太極殿未成而廢朝。

「隨君(きみながら)」,此君指橘諸兄,與意指聖武天皇之大君有別。橘氏別業在相樂之地,諸兄或欲借藤原廣嗣之亂之機,遠離平城,一掃藤原勢力。

「聞(き)かし賜(たま)ひて」,此云聖武帝聽取諸兄之獻策。


1051 反歌二首 【承前,反歌第一。】

 三日原 布當乃野邊 清見社 大宮處【一云,此跡標刺。】 定異等霜

 三香原(みかのはら) 布當野邊(ふたぎののへ)を 清(きよ)みこそ 大宮所(おほみやところ)【一云(またにいふ)、此處(ここ)と標刺(しめさ)し。】 定(さだ)めけらしも

 賀茂三香原 久邇布當野邊處 以其清清故 定為百敷大宮所 【一云,標刺此處為宮闕。】 長治六合永久

田邊福麻呂 1051

「標刺(しめさ)し」,打杭標識占有地域。標乃明示神或己之領地之標記。此云完成造迎新都之計畫,將之實行。


1052 【承前,反歌第二。】

 山高來 川乃湍清石 百世左右 神之味將徃 大宮

 山高(やまたか)く 川鸚(かはのせきよ)し 百代迄(ももよまで) 神(かむ)しみ行(ゆ)かむ 大宮所(おほみやところ)

 山高勢巍峨 水秀川黨收鏡供≦堽疉澗絽紂々更埒誓脂称念辧嗚呼美哉大宮

田邊福麻呂 1052

「山高(やまたか)く」,諸本原文作「弓高來」,概訛。神宮文庫本弓字有註やま之訓。

「神(かむ)しみ行(ゆ)かむ」,「神(かむ)しみ」意同「神(かむ)さぶ」。

1053 【讚久邇新京歌第二。】

 吾皇 神乃命乃 高所知 布當乃宮者 百樹成 山者木高之 落多藝都 湍音毛清之 鸎乃 來鳴春部者 巖者 山下耀 錦成 花咲乎呼里 左壯鹿乃 妻呼秋者 天霧合 之具禮乎疾 狹丹頰歷 黃葉散乍 八千年爾 安禮衝之乍 天下 所知食跡 百代爾母 不可易 大宮

 吾(わ)が大君(おほきみ) 神尊(かみのみこと) 高知(たかし)らす 布當宮(ふたぎのみや)は 百木盛(ももきも)り 山(やま)は木高(こだか)し 落激(おちたぎ)つ 鷁(せのおと)も清(きよ)し 鶯(うぐひす)の 來鳴(きな)く春邊(はるへ)は 巖(いはほ)には 山下光(やましたひか)り 錦為(にしきな)す 花咲撓(はなさきをを)り 小雄鹿(さをしか)の 妻呼(つまよ)ぶ秋(あき)は 天霧(あまぎら)ふ 時雨(しぐれ)を疾(いた)み 小丹面(さにつら)ふ 黃葉散(もみちち)りつつ 八千年(やちとせ)に 生付(あれつ)かしつつ 天下(あめのした) 知(し)らしめさむと 百代(ももよ)にも 變(かは)るましじき 大宮所(おほみやところ)

 吾皇我大君 顯人明神神尊矣 高築治天下 久邇新京布當宮 百木生繁茂 山間樹高盛蒼鬱 水落湍流激 鷁酸串釡鄂反粥黃鶯啼出谷 來鳴報暖春日者 春日巖磐根 縱令山下亦光曜 絢爛猶華錦 百花爭艷撓亂咲 牡雄小壯鹿 呼妻戀啼秋日者 天霧曇蔽空 時雨疾降零不止 染赤小丹面 黃葉舞散降紛紛 永末八千年 生兒八十綿延胤 於此治天下 高知御宇馭國中 縱令百代後 屹立不搖莫可易 偉哉久邇大宮

田邊福麻呂 1053

「百木盛(ももきも)り」,「盛(も)る」乃繁茂之意。與森、冬籠等語亦有所關連。

「木高(こだか)」,樹木高大茂盛。

山下光(やましたひか)り」,山下光明輝耀。一般山下乃日蔭之處,此確光曜。修飾下句「花咲撓(はなさきをを)り」。

「錦為(にしきな)す」,猶如錦織一般。此云花開爭艷,令人將誤以為錦織

「天霧(あまぎら)ふ」,天空一面為雲霧所遮。

「小丹面(さにつら)ふ」,帶著赤色之意。「さ」乃接頭語,而「丹面ふ」表男女面色紅潤,容貌姣好。

「生付(あれつ)かしつつ」,天皇代代子孫生於此地,容景無限之狀。

「變(かは)るましじき」,打消推量語,意與べし相反。此云宮殿美崙美奐,絕不可能俄然衰頹。


1054 反歌五首 【承前,反歌五首第一。】

 泉川 徃麈疑綰掘絕者許曾 大宮地 遷徃目

 泉川(いづみがは) 行鷽(ゆくせのみづ)の 絕(た)えばこそ 大宮所(おほみやところ) 移行(うつろひゆ)かめ

 泉川徃黷磧\多緝堊充鱗賁襦‖郷緻絕時 除非一旦逝水斷 大宮方有衰移時

田邊福麻呂 1054

「絕(た)えばこそ」,以泉川(木津川)水無絕時,預祝久邇京榮華不斷。直譯為若久邇京有衰移之時,除非泉川水斷,否則決無可能。

「移行(うつろひゆ)かめ」,人物離散,宮殿衰廢之狀。

1055 【承前,反歌五首第二。】

 布當山 山並見者 百代爾毛 不可易 大宮

 布當山(ふたぎやま) 山並見(やまなみみ)れば 百代(ももよ)にも 變(かは)るましじき 大宮所(おほみやところ)

 久邇布當山 見比連山峻勢者 可知百代後 巍峨不變永屹立 偉哉久邇大宮

田邊福麻呂 1055

「山並(やまなみ)」,山岳連貫之狀。此概自恭仁京北望海住山寺所居三上山連山所云。

1056 【承前,反歌五首第三。】

 妗嬬等之 續麻繫云 鹿脊之山 時之徃者 京師跡成宿

 娘子等(をとめら)が 績麻懸(うみをか)くと云(い)ふ 鹿脊山(かせのやま) 時9とき)し行(ゆ)ければ 都(みやこ)と成(なり)ぬ

 昔日娘子等 績麻懸兮通桛之 足曳鹿脊山 世易

時移歷運轉 今作京師化都城

田邊福麻呂 1056

「績麻懸(うみをか)くと云(い)ふ」,以同音引「出鹿脊山(かせのやま)」之序。「桛(かせ)」乃紡織所用之木器。

「都(みやこ)と成(なり)ぬ」,成為京師。此表現對於驟然之變化感到訝異。

1057 【承前,反歌五首第四。】

 鹿脊之山 樹立矣繁三 朝不去 寸鳴響為 鸎之音

 鹿脊山(かせのやま) 木立(こだ)ちを繁(しげ)み 朝去(あささ)らず 來鳴響(きなきとよ)もす 鶯聲(うぐひすのこゑ)

 足曳鹿脊山 木立寔繁茂蒼鬱 以彼蒼翠故 每朝不闕來鳴響 鶯聲繞梁音不絕

田邊福麻呂 1057

「朝去(あささ)らず」,每朝。「去(さ)らず」為不闕、不欠之意,故此。


1058 【承前,反歌五首第五。】

 狛山爾 鳴霍公鳥 泉河 渡乎遠見 此間爾不通【一云,渡遠哉,不通有武。】

 狛山(こまやま)に 鳴(な)く霍公鳥(ほととぎす) 泉川(いづみがは) 渡(わた)りを遠(とほ)み 此處(ここ)に通(かよ)はず【一云(またにいふ)、渡遠(わたりとほ)みか、通(かよ)はざるらむ。】

 蒼翠狛山間 所鳴郭公不如歸 以彼泉川之 所渡河幅廣遠故 不通此間不來哉【一云,渡魴河廣遠哉,於是不通吾甚惜。】

田邊福麻呂 1058

「渡(わた)り」,應當渡行之處。北岸狛山,與南岸法華寺野,夾泉川而對,又川幅以此最宰。若鶯欲飛渡此川,當從此地。然卻不來。

「此處(ここ)に通(かよ)はず」,「此處(ここ)」表作者居所。概於泉川南岸鹿脊山側所詠。

「渡遠(わたりとほ)みか、通(かよ)はざるらむ。」,此云鶯之不來,概因川幅廣遠之故乎。

1059 春日悲傷三香原荒墟作歌一首 【并短歌。】

 三香原 久邇乃京師者 山高 河之鸚供〆澣叛廖/夕夊云 在吉跡 吾者雖念 故去之 里爾四有者 國見跡 人毛不通 里見者 家裳荒有 波之異耶 如此在家留可 三諸著 鹿脊山際爾 開花之 色目列敷 百鳥之 音名束敷 在杲石 住吉里乃 荒樂苦惜哭

 三香原(みかのはら) 久邇都(くにのみやこ)は 山高(やまたか)み 川鸚(かはのせきよ)み 住良(すみよ)しと 人(ひと)は言(い)へども 在良(ありよ)しと 我(われ)は思(おも)へど 古(ふ)りにし 里(さと)にしあれば 國見(くにみ)れど 人(ひと)も通(かよ)はず 里見(さとみ)れば 家(いへ)も荒(あ)れたり 愛(は)しけやし 如是(かく)ありけるか 三諸齋(みもろつ)く 鹿脊山際(かせやまのま)に 咲花(さくはな)の 色珍(いろめづ)らしく 百鳥(ももとり)の 聲懷(こゑなつか)しく 在(あり)が欲(ほ)し 住良(すみよ)き里(さと)の 荒(あ)るらく惜(を)しも

 賀茂三香原 恭仁久邇京師者 山高勢巍峨 水秀川黨收鏡供/頼云此地 宜室宜家寔住吉 我雖思此地 宜居宜棲寔在吉 然今為荒墟 化作故里舊都者 迴首顧國中 門可羅雀無人通 迴首顧里間 家亦荒頹蔓草生 嗚呼哀憐哉 世間無常如是乎 神齋三諸岳 鹿脊山際麓陲處 妍花咲爭艷 花色絢爛貴珍奇 百鳥啼爭鳴 鳥囀聲懷誠難捨 吾願得久居 如此宜住良里之 化作荒墟令人惜

田邊福麻呂 1059

「愛(は)しけやし」,此為感慨世間何以如此無常渺然之狀。

「三諸齋(みもろつ)く」,三諸山多為三輪山飛鳥神奈備山之別名,或時不特指固定場所,而表神所憑坐之山。「齋(つ)く」乃「齋(いつ)く」之略,表對鹿脊山之信仰

「色珍(いろめづ)らしく」,「珍(めづ)らしく」於此表內心受其吸引之狀。

「聲懷(こゑなつか)しく」,心受吸引而難以分離之狀。

「在(あり)が欲(ほ)し」,期望永遠如是。


1060 反歌二首 【承前,反歌第一。】

 三香原 久邇乃京者 荒去家里 大宮人乃 遷去禮者

 三香原(みかのはら) 久邇都(くにのみやこ)は 荒(あ)れにけり 大宮人(おほみやひと)の 移(うつろ)ひぬれば

 賀茂三香原 恭仁久邇京師者 荒頹作廢墟 只因百敷大宮人 遷去新京不復還

田邊福麻呂 1060

「移(うつろ)ひぬれば」,此云人物離散,人事全非。



1061 【承前,反歌第二。】

 咲花乃 色者不易 百石城乃 大宮人敘 立易奚流

 咲花(さくはな)の 色(いろ)は變(かは)らず 百敷(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)ぞ 立變(たちかは)りける

 咲花不易 一如昔時無變改 然見百敷之 殿上宮闈大宮人 立易移變不復還

田邊福麻呂 1061

「立變(たちかは)りける」,瞬間轉變,一般只為某物所取代,此則云人去樓空。

1062 難波宮作歌一首 【并短歌。】

 安見知之 吾大王乃 在通 名庭乃宮者 不知魚取 海片就而 玉拾 濱邊乎近見 朝羽振 浪之聲躁 夕薙丹 櫂合之聲所聆 曉之 寐覺爾聞者 海石之 鹽乾乃共 汭渚爾波 千鳥妻呼 葭部爾波 鶴鳴動 視人乃 語丹為者 聞人之 視卷欲為 御食向 味原宮者 雖見不飽香聞

 八隅治(やすみし)し 我(わ)が大君(おほきみ)の 蟻通(ありがよ)ふ 難波宮(なにはのみや)は 鯨魚取(いさなと)り 海片付(うみかたづ)きて 玉拾(たまひり)ふ 濱邊(はまへ)を近(ちか)み 朝羽振(あさはふ)る 波音騷(なみのおとさわ)き 夕凪(ゆふなぎ)に 楫音聞(かぢのおとき)こゆ 曉(あかとき)の 寢覺(ねざ)めに聞(き)けば 海石(いくり)の 潮乾共(しほかれのむた) 浦洲(うらす)には 千鳥妻呼(ちどりつまよ)び 葦邊(あしへ)には 鶴(たづ)が音響(ねとよ)む 見人(みるひと)の 語(かた)りにすれば 聞人(きくひと)の 見(み)まく欲(ほ)りする 御食向(みけむか)ふ 味經宮(あぢふのみや)は 見(み)れど飽(あ)かぬかも

 八隅治天下 經綸恢弘吾大君 蟻通車馬喧 押照樂浪難波宮 鯨魚獵取兮 邊津近海接蒼溟 拾玉獲真珠 近岸濱邊去不遠 朝羽振搏翅 波音騷動浪聲高 夕凪風浪歇 榜船楫音可耳聞 朝日晨曉時 寢覺之間聞音者 海若海石之 潮乾潮涸相與共 其於浦洲間 千鳥高啼喚戀妻 其於葦邊處 群鶴鳴立發音響 此情復此景 見者語之口相傳 聞人聽其言 心神嚮往欲見之 御食所向兮 難波味原味經宮 縱觀千遍亦不倦

田邊福麻呂 1062

難波宮作歌」,蓋田邊福麻呂隨橘諸兄留首難波宮時所作,或云聖武天平十七年幸難波宮時所作。

「蟻通(ありがよ)ふ」,「あり」表狀態持續,意指人馬往來不絕。

「海片付(うみかたづ)きて」,「片付(かたづ)き」指居住空間之部分與山海相接。

「朝羽振(あさはふ)る」,「羽振(はふ)る」乃鳥類搏羽起飛之狀。此云羽風激烈,帶動風浪駭起。

「寢覺(ねざ)め」,眾人沉眠之時,獨自醒寤之狀。

「海石(いくり)」,暗礁之類。或云,海若(わたつみ=海神)之訛乎。

「潮乾共(しほひのむた)」,「潮乾(しほかれ)」乃退潮,『高橋氏文』云:「船遇潮涸(しほかれ)。」「共(むた)」乃「與共」之意。

「御食向(みけむか)ふ」,地名「味經(あぢふ)」之枕詞

「味經宮(あぢふのみや)」,座落味經原之宮殿。按『日本書紀』孝記,近於難波宮,但非同所。然觀此歌前後,又似難波宮別名。未知孰是,唯俟後攷。


1063 反歌二首 【承前,反歌第一。】

 有通 難波乃宮者 海近見 漁童女等之 乘船所見

 蟻通(ありがよ)ふ 難波宮(なにはのみや)は 海近(うみちか)み 海人娘子等(あまをとめら)が 乘(の)れる舟見(ふねみ)ゆ

 蟻通人不絕 押照樂浪難波宮 以其近倉溟 漁獵海人娘子等 所乘之舟今可見

田邊福麻呂 1063

「海人娘子等(あまをとめら)が 乘(の)れる舟見(ふねみ)ゆ」,意境類於930「梶の音聞こゆ」。「海人娘子(あまをとめ)」原文作「海童女」而705、706題詞亦可見童女云云。

1064 【承前,反歌第二。】

 鹽乾者 葦邊爾躁 白鶴乃 妻呼音者 宮毛動響二

 潮乾(しほふ)れば 葦邊(あしへ)に騷(さわ)く 白鶴(しらたづ)の 妻呼聲(つまよぶこゑ)は 宮(みや)も轟(とどろ)に

 潮乾潮涸時 白鶴騷鳴在葦邊 戀妻情難止 鶴喚高啼呼妻聲 傳至宮中亦轟響

田邊福麻呂 1064

「葦邊(あしへ)に騷(さわ)く」,「騷(さわ)く」原文[⻊參],意同「躁」。

「宮(みや)も轟(とどろ)に」,此云白鶴喚妻之鳴傳來,宮中亦隨之鳴響。

1065 過敏馬浦時作歌一首 【并短歌。】

 八千桙之 神乃御世自 百船之 泊停跡 八嶋國 百船純乃 定而師 三犬女乃浦者 朝風爾 浦浪左和寸 夕浪爾 玉藻者來依 白沙 清濱部者 去還 雖見不飽 諾石社 見人每爾 語嗣 偲家良思吉 百世歷而 所偲將徃 清白濱

 八千桙(やちほこ)の 神御代(かみのみよ)より 百船(ももふね)の 泊(は)つる泊(とま)りと 八島國(やしまくに) 百舟人(ももふなびと)の 定(さだ)めてし 敏馬浦(みぬめのうら)は 朝風(あさかぜ)に 浦波騷(うらなみさわ)き 夕波(ゆふなみ)に 玉藻(たまも)は來寄(きよ)る 白真砂(しらまなご) 清濱邊(きよきはまへ)は 行歸(ゆきかへ)り 見(み)れども飽(あ)かず 諾(うべ)しこそ 見(み)る人每(ひとごと)に 語繼(かたりつ)ぎ 偲(しの)ひけらしき 百代經(ももよへ)て 偲(しの)はえ行(ゆ)かむ 清白濱(きよきしらはま)

 顯國八千矛 大國主神大汝命 自彼御世起 百船停泊此湊矣 大八島國中 千舟百船討海人 百慮之所定 刈藻罔象敏馬浦 朝風吹拂者 浦浪騷動隨風湧 夕波盪漾者 玉藻逐流來寄岸 潔白齋真砂 無垢清淨濱邊矣 每逢行歸時 見之百遍不倦厭 諾矣寔理宜 人每見之觸心絃 口耳相語繼 偲之褒之存不忘 縱令經百代 相傳與共讚不絕 如是淨潔清白濱

田邊福麻呂 1065

「八千桙(やちほこ)の 神」,大國主命。此云敏馬浦自古以來即為良港。

「百舟人(ももふなびと)の」,「人」字原文作「純」,1023亦有同表記。而3791有「純裏(ひつら)」云云。

「偲(しの)ひけらしき」,「偲(しの)ふ」於此乃讚美眼前事物之意。「けらしき」乃「けるらし」之略「けらし」之連體形

「偲(しの)はえ行(ゆ)かむ」,「え」乃表受身或自發之注動詞「ゆ」之連用形


1066 反歌二首 【承前,反歌第一。】

 真十鏡 見宿女乃浦者 百船 過而可徃 濱有七國

 真十鏡(まそかがみ) 敏馬浦(みぬめのうら)は 百船(ももふね)の 過(す)ぎて行(ゆ)くべき 濱(はま)なら無(な)くに

 清澄真十鏡 見宿女兮敏馬浦 百船所敬重 每經此浦必手向 不得輙過此濱矣

田邊福麻呂 1066

「真十鏡(まそかがみ)」,「見(み)る」之枕詞。此以「敏馬浦(みぬめのうら)」之音類而相關。

「過(す)ぎて行(ゆ)くべき」,「過(す)ぎ」指單純經過而不駐足。此云敏馬浦景色奇美,無法一瞥而過。

1067 【承前,反歌第二。】

 濱清 浦愛見 神世自 千船湊 大和太乃濱

 濱清(はまきよ)み 浦愛(うらうるは)しみ 神代(かみよ)より 千船泊(ちふねのは)つる 大和太濱(おほわだのはま)

 濱清砂潔白 浦景明媚無限好 早自千早振 神代以來千船泊 大和太之輪田濱

田邊福麻呂 1067

 右廿一首,田邊福麻呂之歌集中出也。

「浦愛(うらうるは)しみ」,「愛(うるは)し」乃讚歎風光美好之詞,與對人之「愛(うつく)し」有別。

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2016-08-20-土

[]お盆放浪京都 お盆放浪、京都を含むブックマーク お盆放浪、京都のブックマークコメント

お盆放浪京都

ついに旅行の最終日、京都

見所が尽きぬこの地がずるいの一言。連日の旅で疲れた身で出来るだけ行って、調整の融通も効く京都は本当に重宝である

以前留学の時は一度あった友人と8年ぶりあう約束があって、ワクワクした。会う前は取り合えず松尾大社小倉山を見て、それから余裕があれば城南宮でも、と考案した。


京都駅で一日フリーパスバス乗り放題切符を買って、酒造の神樣松尾大社へ!と言いながら途中の梅宮大社で先に降りた。同じく酒造の神樣・大山咋神を祀るこの神社は、松尾大社に近く街に位置する。なんと言うと...ネコが多い!早朝いったので神主が居なくて迎えてくれるのが猫、猫、猫!社務所にはお守りなど以外にネコ写真も売ってる!また、集まってる猫が梅宮大社の飼い猫で人に懐くものの勝手に餌を与えないでとの注意書きも。やっぱり時間がまだ早いのでか社務所もまだ開いてなく、一旦松尾大社に出て、戻る際にまたここに戻りご朱印を頂くことにした。


梅宮大社

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梅宮大社を後に松尾橋を越えると松尾大社は目の前。松尾大社神使と言えば龜と鯉、龜の手水社は大嶽山那賀神社以来か...神社の奧に磐座があるが、登拝には申し込みが要る上、写真不可。結局登拝せずに、お酒資料館を参観してから摂社の月讀神社へ。月延石、解穢水など見所も多し。一旦梅宮大社に戻り、再び嵐山へ。


松尾大社

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渡月橋から降りて、目指すは長慶天皇陵の近くにある陰陽博士安倍晴明嵯峨墓所住宅区の中に佇む晴明墓は、晴明神社のように騷ぐことなく、静かなところだった。隣に角倉稲荷神社があるのも人に葛葉狐伝説を思わせる。



渡月橋

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晴明墓を後にして続きの目標小倉山荘跡。調べてみればいろんな候補地があり、そのうち有力な常寂光寺へ行こうとして。途中、また例の竹林を経て、野宮神社にはいり、斎宮旧趾等を偲んでまた進む。途中新敕撰集百人一首テーマに、小倉百人一首文芸苑が立てた歌碑群があるものの、素通る人が多そう。大河内山荘を通過して竹林を抜けると御髮神社がある。祭神藤原采女亮政公で境内に献髮可能の髮塚がある。説明によると「髮は人身の最上位にあって造化の神より賜った美しい自然の冠りであると共に、生前にで殘れ得る唯一の分身として大きな恩恵感謝するなど副神として納祭れ祈拝される。」髮は神に通じる言葉を忘れずに。


野宮神社

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御髮神社

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ようやく、主役の常寂光寺に到着。この『小倉百人一首』を編纂した藤原定家が『明月記』に「其字如鬼」と自嘲した所で字が汚い私には親近感を湧く訳で、かの小倉百人一首を考案したのは小倉山である。常寂光寺を入ると直ぐに定家和歌及び定家山荘跡と書かれる歌碑がある。庭園の緑はヤバいほど自我主張していて上まで登ると京都を一望できる見晴の場所もあり、山を降りて先の歌碑の近くに別の「小倉百人一首編纂之地」と書かれる碑がある。こんな感じでついに小倉山百人一首の地を体験した。


寂光院

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京都駅に戻り、どこでも混んでいるお盆時期けれども、京都在住の友人のおかげで京都センチュリーホテルでTea Timeを過ごし、積もり話を色々した。最後でまたべつの伏見の友人宅で時間を潰しながら夜間バス山梨へもどる。ただし、甲府着はなんと朝四時。歩いて帰ってお風呂入ってからもう泥のように寝込んだ。我ながら長旅の疲れが出るわけ、年だな。

2016-08-19-金

[]お盆放浪出雲二日目 お盆放浪、出雲二日目を含むブックマーク お盆放浪、出雲二日目のブックマークコメント

お盆放浪出雲二日目

出雲二日目、今日目標として、まず意宇六社の中で唯一行ったことのない出雲一宮熊野大社、そして和歌発祥の地須我神社。そして状況をみて佐太神社美保神社も行ってみたいと思った。佐太神社場合バス一本でいけるけど、加賀の潜戸も合わせてみたいだが時間的に無理そうだ。美保神社はそもそもいくつ転乗しないといけなさそう。全部いけるならいいとして、恐らく時間がない。事実バスだと回り効率あんまり良くないのを実感した。

カメラ調子だが、一日置いたら動けるようになった。但し色々不具合があって、電池も電力がほぼ満杯の状態じゃないと何故か使用不可と表示され、4つの電池をいつも持っているけど普段は精精二つまで使うけど今日からはフル運用もあやしい。露光補償も怪しいので今日から写真から見れば分かると思う。

とにかく朝一出雲市から松江へ、そこからバスを利用して回る。と、思ったがかなり遅い時間にならないといろんな神社アクセスできるバスが出ない。須我神社は大東行きを乗るべきが、始発は九時くらいらしい。他も色々。美保はいけそうけどとりあえず熊野大社優先と言うことで。そのあと選択が間違ったということが分かった。熊野大社へは、直行便がなく、まず八雲へ行ってそこから乗換えする。ただし、熊野大社へのバスは9時から..._| ̄|○松江行きのバスはどんどん走ってるのに...

ほぼ一時間待たないといかず、運転手の方が近くに劔神社というのがあるのを教えた。素戔嗚尊八岐大蛇を斬った天十握劔を祭り建築として千木普通祭神によって男千木(外削り)と女千木(内削り)に分かれたものの、この神社は片方男千木で片方女千木という特殊な造りだそうだ。但し、時間的に行って帰ったら熊野大社へのバスはぎりぎりアウトの可能性があって、念のために断念。


熊野大社出雲の国では大社と言われるのは、出雲大社熊野大社の二ヶ所だけである。両方を繋がるのは亀太夫神事という奇拔の行事だ、出雲大社が古傳新嘗祭使用する神器なる燧臼・燧杵は毎年熊野大社より授けるが、出雲大社から神餅を供すもの熊野大社側は直ぐ神餅を受け入れず、まず神餅の出来栄えに関して苦情を言って、出雲大社神職は口答えも出来ず、ただそのクレームを黙って聞くのみ。最後、今まで言われたことを守ると約束し、ようやく燧臼・燧杵が授けられる。

また、『日本書紀』に「是歲,命出雲國造,【闕名。】修嚴神之宮。」、『出雲国風土記』に「熊野山郡家正南一十八里。有檜・檀也。【所謂熊野大神之社坐。】」など記録が残るように、昔熊野大社熊野山(天狗山)に鎮座した。大社から宇川を沿って川上500メートルな所に上宮跡があり、今は下宮(熊野大社)に合祀されたもののそれぞれの社の趾があり、頂を登ると熊野山の奧宮を遥拝する元宮遙拜所がある。途中、明見水があり、洗眼すると眼病に効く、産婦がこの水を服すると母乳が豊かになる御神水という。


熊野大社

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熊野大社 上宮

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熊野大社 上宮 明見水

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熊野大社 上宮 元宮遙拜所

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熊野大社を後に....とても言いたかったけどバスの本数が少なく、かなり待ててからようやく八雲へ、そこで乗換えて松江駅に戻る。幸い、松江駅から大東へのバスはそんなに待たなかった。以前、八重神社へ行ったものの、神詠「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣は」と「我が心清清しい」の舞台なる清地は、須我神社である

からも聞いたが、須我神社の人がかなり親切な方である。かなり相談に乗ってくれるし、奥宮への参拝がお進められて、あと佐太か美保か行きたいため帰りのバス心配で断念しようかと思ったけど、やっぱり奥宮へ行かないと最終的に心残りになり、丁度他に奥宮へ參りたい人がいって、共同行動することに。我々の荷物を見て、須我神社からまさか預けてくれると言い出すのが思わなかった、大変恐縮である

地図を頼りで奥宮へ登る。田園風景の中に八雲登山口と須我神社奧宮夫婦岩への案内が現れ、しかも階段の隣に和歌歌碑があり、八雲文学碑の径といい、和歌を伴う登山。個人的感想だけど、和歌といってもかなり近代的な作品で、自分が主に読んでいる万葉集古今集とは表現が違う。須我神社野方によると登山道がかなりキツイというが、そうでもない。森の中では涼しくて、正に清清しい場所である。途中、禊所として不老長壽の神泉坂根水があり、ここで清めて奧宮夫婦岩へ。夫婦岩磐座はもう素晴らしいの一言だ。ここに来てよかったと思う。奧宮の御祭神は、素戔嗚尊奇稲田姫、そして御子神の清之湯主三名狹漏彦八島野命。


須我神社

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須我神社 奧宮 夫婦岩

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奥宮から須我神社にもどり、次のバスにはまだ時間たっぷりあるので、須我神社の隣の神楽の宿に参観。ここの方も大変親切に色々教えで頂いた。どこまでも優しい心人を出会えるのかと、さすが出雲と云うことか。また、一緒に奧宮を參る方は東京からきて、出雲の後は伊勢へ行く予定で、話によると同僚に「えっ、出雲伊勢兩方行くの?」って聞かれたそうだ。お前は俺かと...ちなみに東京は何でもありなんでもないという点の見解も一致。

松江駅に戻り、今度は佐太神社へ向かう。時間的にもう社務所が閉まってる時間だけど取り合えず居てみる、出雲地方太陽神である猿田彦を拜めないと。本当は加賀の潜戸もう行きたいが無理。バスで行くとそれなり遠くて時間も掛かった。色々修理中らしいけど趣のある社である。今度はご朱印もらいながら加賀の潜戸も行こうかと松江駅に戻る。


佐太神社

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明日は8年ぶりの友人と会う約束もあるので、幸い松江駅の近くにあるジムでは、会員じゃなくでもお風呂が利用できる。お風呂に入って時間を潰して23時30分の夜間バス京都へ。

2016-08-18-木

[]お盆放浪出雲一日目 お盆放浪、出雲一日目を含むブックマーク お盆放浪、出雲一日目のブックマークコメント

お盆放浪出雲一日目

かの地、出雲に再び。

GWの際も二日しか入れなかったので、出雲大社の周辺である日御碕神社、屏風岩、猪目洞窟は行けなかった残念さはいつも心に残る。

朝、夜間バス出雲市で降りて、早速出雲大社経由、日御碕神社へのバスをのり、出雲再挑戦の旅を始まる。

日御碕神社は流石にさすが美しい、出雲地方では珍しく見える権現造りの社殿が華やかに海の傍に佇むのが麗しい。『出雲国風土記』に「美佐伎社」として記され、上宮・神の宮は素戔嗚尊を祀り、下宮・日沈宮は天照大御神を祀る。「日沈の宮」という名の由来は、伊勢神宮が「日本の昼を守る」日登の宮に対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」 との「勅命」を受けた神社という。伊勢で連日雨か曇りの天氣に対して、晴れの日、神社の朱色と対応する群青の空と白雲が相俟って非常に美しい景色を見せてくれた。まだ朝早く神主さんが居なくて朱印をもらえず、周りを散策して又戻ろうと思った。日御碕神社の近くに、日御碕灯塔や経嶋がある。また、行けなかったけど日御碕海底遺跡もあり。経嶋(文島ともいう)では、日沈宮元宮で今はウミネコ繁殖地としても有名、日御碕灯塔への道からはよく見える、途中に「日和碕御神事御旅所」と表記された地が日御碕神社祭祀家祖神天葺根命が神敕を奉じ経嶋の百枝松を天照大御神に奉る承伝地という。後ほど分かったけど、もっと登れば素戔嗚尊の御神陵と言われる「神蹟 隠ケ丘」も有るようだ、失念


日御碕神社

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バスの本数が少ないので、出雲大社の方向へ歩いて、途中には日御碕神社遥望できる場所があるのが来た際分かったのでそこを目指し、また月讀神社という小祠もある。バス稲佐の浜で降りたら、前回行ってなかった屏風岩に參った。稲佐浜は出雲国譲の地として知られるが、大国主神武甕槌神が国譲りの交渉をしたのはこの屏風岩だそうだ。屏風岩からからずに因佐神社があり、祭神武甕槌神のもそのゆかりだと思う。


屏風岩

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因佐神社

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そしてまた弁天嶋へ。前回は曇りだったけど今度は晴、写真撮りながら満喫している最中に...首からぶら下げたカメラカメラが海におちった!!!(死)直ぐバッテリとメモリカードを取り出して干してみたけど、時間を置いてからカメラ作動不審の末に動けなくなった。一日置いたら写真が取れるようになるけど、絞り、露光、とシャッター以外にあんまり正しく動けるボタンが無く、特に露光補正があやしいのと、そのばで写真確認できないのが痛い。あと、沈胴式レンズも手で引かないとちゃんと出なくて困る。

って訳で、最悪の事態を想定しつづ行くべきところを行かないといけない。前回の黄泉比良坂につづいて今度は出雲国風土記にかかれた黄泉穴こと猪目洞窟

宇賀鄉。北海濱有礒,名腦礒。高一丈許。上生松,蕪至礒。邑人之朝夕如往來,又木枝人之如攀引。自礒西方窟戶,高廣各六尺許。窟內在穴。人不得入,不知深淺也。夢至此處礒窟之邊者,必死。故俗人,自古至今,號黃泉之坂、黃泉之穴也。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/fuudo/izumo/izumo05.htm#izu05_02

夢でこの洞窟に入る人は必ず死ぬという物騒な記事だけど。幾つ気になる点がある。猪目のいめは夢(古音いめ=寢目)に通じるのではないか。そして、現在は思うことが夢に出ると違う、古の人は相手自分を思ってるから自分の夢で(生霊として)現れる。ようする、己の霊が夢の中で現世と黄泉境界を越えたのではないか、それなら死ぬのも納得できる。

猪目洞窟青春18切符を使って旅行してきた夫婦出会い台湾に来たいとの話。意外と東エレとか生研をご存知とは驚いた。


猪目洞窟 (黄泉穴)

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そのまま出雲市にもどり、カメラを鮎売りできる場所を探してみたけど、即座修理できるところは無さそう。早めにゲストハウスに行って、行こうと思った須佐神社は諦めた。出雲ゲストハウスにも夕食会があって、なんと出雲で二週間泊まり女性大生が居る。卒論テーマパワースポット関係らしい。隣の人が明らかに「こんな所で二週間も居られるか」って顔してるけど、私の場合むしろ一ヶ月も足りないのでは...人それぞれだなと実感した。ちなみに、私的パワースポットという言葉がなんか軽くてあんまり好きではない。

2016-08-17-水

[]お盆放浪奈良一日目 お盆放浪、奈良一日目を含むブックマーク お盆放浪、奈良一日目のブックマークコメント

お盆放浪奈良一日目

今晩の夜間バス京都より出雲へ。なので夜まで京都に辿りつかないといかない。

山梨伊勢出雲への直行便がないものの、京都との直行がある。特に京都何気に見所が多い、調整も易いため、旧正月からよくこんな感じで京都中間拠点として使う。ただし、今度は二回も京都中継の形になり、また伊勢から奈良経由で京都へ行くため、乗換え点の大和八木中心にならでも行こうかと計画してみた。

場所的に橿原神宮が近いが、以前既に行ったことあるので後回し、『古事記』『日本書紀』に出た場所として墨坂神社は一度行ってみたい。あと丹生川上神社か、宇治上神社とかは機会があれば行きたいと思う。そんな感じで榛原で降りて回る予定になった。電車に乗ればまた伊勢斎宮広告を張った列車と出会った。伊勢中川特急に乗換える予定だったけど間に合えず、プラットフォームから階段下りてまた登ったら丁度発車したのを見送りになった。よく見ると、乗ってきた電車の左右ともドアが開いているでは、こういう乗換えシステムを今更気づいて失敗。仕方無くもとの電車をそのまま乗りて、ゆっくり榛原へ。

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丹生川上神社アクセスページによると、榛原駅からバスが出てるはずだが...バス運転手に聞くと昔は走ってたものの今は既にその路線はもう無さそう。どうしても行くにはタクシーの利用...となると諦めるわ。とりあえず歩いて墨坂神社へ。

墨坂神社は『日本書紀神武天皇東征においで兄猾、弟猾〜兄磯城、弟磯城の段で有名で、頭八咫烏の話も有って近くに八咫烏神社も鎮座する。時間の都合上八咫烏神社には行けなかったが....


 九月甲子朔戊辰,天皇陟彼菟田高倉山之巔,瞻望域中。時國見丘上則有八十梟帥,【梟帥,此云たける。】又於女坂置女軍,男坂置男軍,墨坂置焃炭。其女坂、男坂、墨坂之號,由此而起也。復有兄磯城軍,布滿於磐余邑。【磯,此云し。】賊虜所據,皆是要害之地,故道路絕塞,無處可通。天皇惡之,是夜自祈而寢。夢有天神訓之曰:「宜取天香山社中土,【香山,此云かぐやま。】以造天平瓮八十枚,【平瓮,此云ひらか。】并造嚴瓮,而敬祭天神地祇,【嚴瓮,此云いつへ。】亦為嚴呪詛。如此則虜自平伏。【嚴詛咒,此云いつのしり。】」天皇祇承夢訓,依以將行。


(中略)


 兄磯城等猶守愚謀,不肯承伏。時椎根津彥計之曰:「今者宜先遣我女軍,出自坂道。虜見之,必盡銳而赴。吾則驅馳勁卒,直指墨坂,取菟田川水以灌其炭火,儵忽之間出其不意,則破之必也!」天皇善其策,乃出女軍以臨之。虜謂大兵已至,畢力相待。先是皇軍攻必取,戰必勝。而介胄之士不無疲弊。故聊為御謠,以慰將卒之心焉。謠曰:

楯並めて 伊那瑳山の 木間ゆも い行守らひ 戰へば 我はや飢ぬ 島鳥 鵜飼が伴 今助けに來ね

 果以男軍越墨坂,從後夾擊破之,斬其梟帥兄磯城等。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki03.htm#sk03_03

墨坂神社祭神、墨坂大神は、天御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神 伊邪那岐神 伊邪那美神 大物主神並称である。但し、前掲された件の場所は旧社地で今所は後ほど(文安六年)遷坐されたのである境内竜王宮には波動水という靈水があり、水道水の100倍の五万パワーがあるという。



墨坂神社

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榛原駅に戻ったら「肇國聖跡 墨阪神社、鳥見山中靈畤址、墨阪神社附屬神武講社本部」と書いた石碑がある。確かに「榛原」の地名由来も『日本書紀』で伺える。

 四年,春二月壬戌朔甲申,詔曰:「我皇祖之靈也,自天降鑑,光助朕躬。今諸虜已平,海內無事。可以郊祀天神,用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中,其地號曰上小野榛原、下小野榛原,用祭皇祖天神焉。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syoki03.htm#sk03_08

折角宇陀市に来たので「菟田(宇陀)血原」や「菟田高城跡」とかも見たいけれども、墨坂神社神主によると遠いらしく、観光案内所に聞いたらやっぱりバスの本数が少なさそうだ。ここでお進められたのは、大宇陀。よく見ると、万葉集公園、人麻呂公園阿紀神社、そして阿騎野の朝の壁画があるのではないか!そう、大宇陀はかの阿騎野である

実は朝から雨が降っていて、あんまり無理はしたくない。観光案内所の人によるとそろぞろ止むし、降るだとしても小雨くらいだろうとのコメントがあったけれども...全然違う。大雨だった。阿紀神社を搜してみたけれども、見つかれず、変わりに最初に行く予定のなかった大龜和尚民芸館に辿りついた。雨宿りもかねて参観してみたらかなりの見所があり、特に吉田初三郎の「大和宇陀郡 神武天皇聖跡御図絵」は、宇陀を中心に御聖跡を描かれた傑作である神武帝のそこのひとも親切で色々勉強になった気分だ。

大龜和尚民芸から坂を下りて、森の中に阿紀神社がある。阿騎野の阿騎に通じ、『皇太神宮儀式帳』では宇太乃阿貴宮と呼ばれ、『倭姫命世記』では宇多秋宮と呼ばれる元伊勢である

 六十年癸未,遷于大和國宇多秋志野宮。積四箇年之間奉齋。于時,倭國造,進采女香刀比賣,地口、御田。

 倭姫命乃御夢爾:「高天之原坐而吾見之國仁,吾乎坐奉。」止悟教給比岐。從此東向,乞宇氣比氐詔久:「我思刺氐徃處。吉有奈良波,未嫁夫童女相逢。」止祈禱幸行。爾時,佐佐波多我門仁,童女參相。則問給久:「汝誰?」答曰:「奴吾波天見通命孫爾八佐加支刀部。一名,伊己呂比命。我兒宇太乃大禰奈。」登白岐。亦詔曰:「御共從仕奉哉?」答曰:「仕奉。」即御共從奉仕

 件童女於大物忌止定給比弖,天磐戶乃鑰預賜利弖,無鄂柑嶐掘ぐ蔽或甘掘だ況薺怎型吉,左物於不移右須,右物不移左志弖,左左,右右,左歸右迴事毛,萬事違事奈久志弖,太神爾奉仕。元元本本故也。又,弟大荒命,同奉仕。從宇多秋志野宮幸行而佐佐波多宮坐焉。

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sintou_gobusyo/yamatohime01.htm

人気が無く、清清しい場所である神主普段居なくて、御朱印は残念ながら頂けなかった。


大和宇陀郡 神武天皇聖跡御図絵


元伊勢 阿紀神社

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阿紀神社を後に、万葉公園と人麻呂公園へ向かう。阿騎野人麻呂公園中之庄遺跡掘立柱建物や竪穴式住宅の一部を復元して保存・整備するもの中山氏の壁画「阿騎野の朝」を元に歌聖柿本人麻呂石像を建てたのがその目玉である。「阿騎野の朝」というと、『万葉集』において人麻呂が軽王子に從って阿騎野へ遊狩の際に詠んだ長歌一首、短歌四首の連作の内、短歌第三「東の 野に陽炎の 立つ見えて 顧見すれば 月傾きぬ」をモチーフしたものである

0045 輕皇子宿于安騎野時,柿本朝臣人麻呂作歌

 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隱口乃 泊鷸骸圈/震變 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去來者 三雪落 阿騎乃大野爾 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而

 八隅治し 我が大君 高照らす 日皇子 惟神 神さびせすと 太敷かす 京を置きて 隱國の 泊鷸海蓮/震變つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押並べ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去來れば 御雪降る 安騎大野に 旗芒 篠を押並べ 草枕 旅宿りせす 古思ひて

 八隅治天下 經綸恢弘我大君 空高輝曜照 日嗣輕皇子 惟神隨神性 如神稜威且端莊 太敷雄偉兮 飛鳥倭京今棄置 盆底隱國兮 長谷泊麈兄骸圈/震斂亞醂 雖彼山道路荒嶮 排闢巨岩根 遮路禁樹押並進 坂鳥劃坡兮 朝日曦時既越而 玉極輝耀兮 夕暮黃昏時來者 御雪所飄降 宇陀安騎大野間 幡薄旗芒與 篠竹之疇闢押排 草枕羇旅兮 今日旅宿在此野 慕思曩昔日並尊

柿本人麻呂 0045


0046 短歌 【承前。】

 阿騎乃野爾 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 去部念爾

 安騎野に 宿る旅人 衷靡き 眠も寢らめやも 古思ふに

 宇陀安騎野 假宿此野旅人矣 豈得鄂寄咫_診縮珂続涌怠蝓/看宛寮良自己

柿本人麻呂 0046


0047 【承前。】

 真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曾來師

 真草刈る 荒野にはあれど 黃葉の 過ぎにし君の 形見とぞ來し

 真草薙刈兮 此地漫蕪雖荒野 木葉褪黃變 以此乃先君故地 慕其形見遂來矣

柿本人麻呂 0047


0048 【承前。】

 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

 東の 野に陽炎の 立つ見えて 顧見すれば 月傾きぬ

 望東觀平野 安騎野間陽炎立 陽炎發茜色 驀然回首顧見者 殘月西傾將匿沒

柿本人麻呂 0048


0049 【承前。】

 日雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者來向

 日並の 皇子尊の 馬並めて 御狩立たしし 時は來向かふ

 往昔日並知 故君草壁皇子尊 列馬並諸騎 發向朝野率御狩 此時彷彿昔再來

柿本人麻呂 0049

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/manyou/m01.htm#0045

中山正實氏はこの和歌を元に、有職故実の考証をし、名作壁画阿騎野の朝」を生み出した。今は大宇陀中央公民館に所蔵していて、登録すれば見学可能。私一人のために礼堂を開けて、紹介のラジオを流し、じっくり見学できるなんて恐縮の極まりであった。その絵はすでにネットで公開していて、但しいろんな細節はやっぱり本物を見ないと分からないので機会が有れば是非!


阿騎野 柿本人麻呂像(人麻呂公園、阿騎野の朝)

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大宇陀から榛原駅に戻り、京都へ。目的京都鉄道博物館。前回旧正月来た際はまだ開いていなかったので、連日日晒雨淋をしてきた自分には丁度いい休憇になった。夜は友人ちで夜間バスの発車まで時間を潰してまた出雲へ。


京都鉄道博物館

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2016-08-16-火

[]お盆放浪伊勢三日目 お盆放浪、伊勢三日目を含むブックマーク お盆放浪、伊勢三日目のブックマークコメント

お盆放浪伊勢三日目

ついに伊勢神宮125社巡拝においで最後の地、外城田地域を挑戦する。この地域神社分部も広いし、山中位置するところも少なくない。旧正月では滝原宮の後ここに来ようと思ったけど時間の余裕をみて急に田丸地域を変更した。振り返って見ると正しい選択でした。

朝一ゲストハウスから出発、丁度昨日滝原宮へ行きたい女性時間が被ったので一応途中までは同じ。(滝原宮の場合伊勢市から多気まで行く必要あり。)朝は曇りだったので田丸平野を眼下に收めそうな榛原神社最後に、まず御船神社から始める。ここで気づいたのは、やっぱり地図と実際の地形とは微妙に違うこと、例え河と表示された所にすでに伏流になったりする。手持ちの本も結構古いのでその分變化ありかもしれない。


御船神社は倭姫命が外城田川を遡る際にこの地で船を泊まったのが名称の由来。同座である牟彌乃神社寒川比古命寒川比女命祭り大水上神の御子で川守の神という。特筆すべきなのは、入口に石灯篭の常夜燈があり、伊勢神宮摂社末社にしては華やかな部類だと思う。


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河を越えて田んぼの真ん中に佇む森があり。直感で進んだら朽羅神社に的中。入口から少し進んだら巨大な木の根があり、神宮域内には基本木を伐ることが禁じられるので雷かなにかの原因で倒れて人の手を施したのかと思う。社殿は新しく、近頃建て直したのだと思う。祭神千依比賣命千依比古命、ともに大歳神の御子で田野農耕の神として祀られる。


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これからやや遠いところに回らないと次の津布良神社へは辿れない。途中雨が降り始めて、一旦幸神社で雨宿りをしてから再出発。津布良比古命、津布良比賣命は大水上神の御子で田野の水神として信じられ、小道に入ってから道が分からなくなり、水神性格もあるので一度池のほうに進んだら外れ、同じ丘でも池の反対側に位置する。境内は柔らかい苔に覆われるが、同じく美しい苔生のある宇治山田神社とはまた趣が違う。


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本日最大の難関、鴨神社大水上神の御子にして農耕灌溉の守護神。倭姫命が大日山の中腹に社地を定められたという。地図を見るだけかなり厳しいとは予想したけど実際に登ってみたらはるかに厳しい。「鴨神社参道、これより1100mと書いた石碑」までは良いとして、竹林を越え、伊勢自動車道の下を出るとどこか道なのかを全然からない。いくつ試行錯誤の末にとある山道を見つけ、(但し、あの山道へつなげる道は無さそう、只管草むらを踏み分けるのみ。)とにかくのぼる。雨が止んだはずだけど湿度が高く、正直カメラには湿気があんまり宜しくないのでしんぱいしつづ登る。蜘蛛の巣も多いので適当に枝を拾い杖として使い登り、山の中腹というものの、全然神前神社みたいな階段もなく、迷うだっのかという不安が心の中で拭けなく進む。進めると進むほど道が怪しくなり、最終的に山の頂に登った所で比較的に道らしい道らしいに出た。何所へ進めば辿り付けるのかイマイチ分からず、携帯地図と調べたらかなり遠いところへ行ったとの表示だけど、恐らく現在地場所に精度問題があるのでGPSOnしてみたら...Over HeatでShut down..._| ̄|○ とりあえず右手を歩いてい見て勘でU Turn、殆ど諦めた所でで鴨神社へ降りる道標発見。かなり降りてからようやく足元の崖の麓に神社発見!まさに熊野古道の伏拝王子気持ちとか思う。しかも、神社を修繕している人ががいる!話してみたらここへくる参拝者は結構迷ったそうだ、出会ったとき確率で「ああ、まさか人が居るとは思わなかった!」とか言われそうという。この気持ちが分かるわ...マジで冗談抜きで遭難しそうだから。元道をそのまま引き返すのも微妙なので、的山公園への道に出てから降りる、ここは断然行きやすい。降りる前に、鴨神社の近くにある倭姫命が使ったという氷室の泉へ參って、再び残りの125社參りへ。


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田乃家神社及び同座の田乃家御前神社墓地の隣にある、祭神大神御滄川神大神御滄川御前神農家の守り神として伝えられる。

東外城田神社及び外城田小、永壽寺を過ぎで蚊野神社、同座・蚊野御前神社に参り。祭神大神御蔭川神と大神御蔭川御前神、この地の田野を潤す灌溉用水の神という。125社もついに最後榛原神社だけ残る。


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階段を登り、山や茂みの中に天須婆留女命御魂御前神を祀る榛原神社が鎮座する。御名から分かるように、昂星を祭る神社である日本神話においで星神が極めて少なく、稀少な存在である。ようやら、星の出具合で農耕を占い信仰が由来である。ここから田園風景を一望でき、125社參りはここで幕を引いた。


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伊勢神宮125社全參詣達成

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外宮に戻り、遷宮館の特別解説を参加した。遷宮館の紹介と、1:1 外宮 1/4 模型解説付きで拜める。遷宮館は前回も行ったけど、あんまり時間が無くさらっと見回ったので、今度は丁度解説コースにあわせてゆっくり見ることになった。そこは色々興味深い話を拝聴させていただいた。外宮模型に関して大きさこそ1:1なのだが、側面から1/4だけ原寸大で作られたものには流石に圧巻。凝宝珠ならず居玉は瑪瑙か翡翠かその当たりの造りかと思われがちだけど違う、実は漆で恰も宝珠のように仕上げたのを聞いて驚いた。また、外宮の中唯一つの内宮仕様建築の所があり、天照大神外宮に出向かって食事するという御饌殿である。あと、柱と梁の間わざと隙間を残して、それが20年を初とぴったりと合うことも初耳であった。

解説が終え、個人的解説員に聞いたのは、摂社末社遷宮に関すること。正宮・別宮は20年一度で、定められた順で造替えと遷宮を行うが、鴨神社で聞いた話では摂社末社の造替えは40年一度だそうだ、但しその順はよく分からない。頂いた返事に関して、摂社末社は基本40年一度造替えを行い、造替え後の20年は基本の修理を行う、こんな感じで修理を挟んで40年で生まれ変わる。但し、先後の順は決めておらず、建物の痛み具合を調査の上に調整する。もちろん、場所によって痛みが激しい神社は優先に修理もしく造替えするという。

最後解説コース用のイヤフォン・マークを返却した際に、なんと解説コース申し込みのお礼として遷宮館紹介冊子が頂ける!写真禁止遷宮館だけあって、貴重な写真解説を載せるこの冊子は間違いなく重宝である


ちなみに、外宮の創立は『日本書紀』に記載がなく、社伝の『止由氣儀式帳』によれば雄略天皇の代であることがわかる。

天照坐皇大神、始巻向玉城宮(垂仁)御宇天皇御世、國國處處大宮處求賜時、度會(乃)宇治(乃)伊須須(乃)河上(爾)大宮供奉。爾時、大長谷天皇(雄略)御夢(爾)誨覺賜(久)、吾高天原坐(弖)見(志)眞岐賜(志)處(爾)志都眞利坐(奴)。然吾一所耳坐(波)甚苦。加以大御饌(毛)安不聞食坐故(爾)、丹波國比治(乃)眞奈井(爾)坐我御饌都神、等由氣大神(乎)、我許欲(止)誨覺奉(支)。爾時、天皇驚悟賜(弖)、即従丹波國令行幸(弖)、度會(乃)山田原(乃)下石根(爾)宮柱太知立高天原(爾)比疑高知(弖)、宮定齋仕奉始(支)。是以、御饌殿造奉(弖)天照坐皇大神(乃)朝(乃)大御饌夕(乃)大御饌(乎)日別供奉。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~kokakuro/kodaishi/ise/ise3-1.htm


夜はまた夜食会。125社巡り達成のことも有って、伊勢地酒・おかげさまを買って皆で飮もうかと思う。事実伊勢にいる際は毎日飮んでた...

積極的料理を作るご家族一行は今日居なさそうで、皆合わせて料理を作ったけど速度が遅い、昨日や一昨日に比べたらそんなに盛り上げって無かった...と思った所でおかげ横丁料理人として仕事している人が突然現れ、カレー、燒き伊勢うどん、燒き茄子など、次と次と色んな料理ハイスピードで仕上げてしかも終わりが見えないし、おまけにポテトチープなどお菓子を持参していて、あと私以外もやっぱりお酒を持ってくる人が大勢に居て、また「伊勢の夜に」と乾杯したけど私には正に豐受大神荒魂による祟りしか見えず、皆を暴食の大罪に墜ちさせるOut of Controlな夜が始まった......

2016-08-15-月

[]お盆放浪伊勢二日目 お盆放浪、伊勢二日目を含むブックマーク お盆放浪、伊勢二日目のブックマークコメント

お盆放浪伊勢二日目

昨日の行程がハードだったので、今日自転車を借りて參るスポッドが少ないけど道が長い宮川地方を巡る。

相変わらずお伊勢さんを巡るの地図が分かり難いと言うか、古いからマークされたCheck Point無くなったりするので川原神社を通りすぎで地元の人に聞いたら「パチンコ屋ならあそこに有ったけどが潰れた。そこに神社があったけ?」って感じの返事を頂いた。長年古墳神社を巡る勘が働いて無事月讀尊御魂を祭る川原神社を辿った。伝説によると、月讀尊はここで宮川の上流から来られた倭姫命を迎え、大若子命の船に乗り、宮川をおられたので、宮川守護神として伝えられた。


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そのまま道すがら進んで自動車道の下を越えてから、園作神である曽奈比比古命御前神を祭る園相神社が鎮座する。


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ここまでは何となく順調でしたが、これから道が長くて分かり辛くしかも雨が降り始めた...とほほ。結局結構迷うってからようやく久具都比賣神社を見つかり、大水上神の御子・久具都比女命久具都比古命を祭るお社だった。この路線は、基本交通量の多い県道沿いに在り、特に山を登らないとかいけない場所はなく、但し縦長が長いので自転車を利用するほうが無難だろう。また、夏場だと水分や塩分補給を注意したほうがいい。


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午後からは晴れ、外宮に戻り、北御門でようやく開放された度會國御神社大津神社への道を出会って参拝できた。度會國御神社祭神・彦國見賀岐建與束命は天日別命の御子で度会神主の祖である大津神社の葦原神は五十鈴川河口の守護神という。伊勢神宮外宮の宮域内にも拘らず人数の少ない道が清幽な雰囲気を漂う、大津神社から通行止めの先は上御井神社があり、そこで上御井神社を遥拝できる。

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御井神社神宮御料水として使われ、日別朝夕大御饌からはじめ神宮諸祭には必要不可欠で神聖視された存在である言い伝えによると上御井が涸れたことはないとされるが、『太神宮諸雑事記』によると永承5年に上御井の水が涸れ、土宮の前の下御井の水を汲んだとの記録あり。上御井異変ある際には朝廷から使いを派遣し祈謝するといわれる。

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昨日もハードだけど、翌日もかなりキツイ予定していて、今日比較的に回る点が少なく、省エネな感じでゆっくり伊勢を回ることが出来た。ゲストハウスの方はアメリカ人に続いて(先日通訳された...)、フランス人も入ってなお更グローバル気分になり、また滝原宮へ行きたい女子も居て賑やかである。ちなみに私は別宮の中にも特に遠い滝原宮はお勧め内宮彷彿する宮域で人ごみも無く清清しい雰囲気に包まれるステキ場所である

ユメビトハウス夜食会の二日目、先日から家族一行の方々が積極的料理を作ってるのが恐縮だった。皆で自己紹介をして、私も含めて意外と年がかぶるタメ組みが何人もあり、ヘルパーのN川さんは見た目より年上でよく話している作品リアルタイムで見た世帯だと初めて分かった。こんなメンツなのでまた酒を買出し、伊勢の夜にと乾杯!って秋ならず夏の夜長を過ごした。

2016-08-14-日

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お盆放浪伊勢一日目

伊勢行きのバスですが、松江、津、伊勢市などを経て、二見浦で降りるのは私だけだ。

伊勢神宮の参拝に関して、本当は二見浦で禊をしてから外宮として内宮最後朝熊山というのが順番である


前回は夕方二見浦を見たくて、本当は二見浦の見所は日出だけど、夏場だとここで宿泊でもしないかぎり難しい。それでも朝の二見浦夕方と違う風貌を呈して心地よい所である


二見浦

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前回も続きメインの目的伊勢神宮125社巡りであり、案の定地図を頼っても摂社末社がどれも少々搜し難かった。江神社を目指しながら行きすぎで榮野神社へ至った。幸い、普通無人神社の榮野神社である今日祭りがあって神職から道を聞けて見つかった。五十鈴川の河口で入江近くの位置に鎮坐するのが名前の由来であるが、山の麓にある。また俗に蒔絵明神と云う。江神社の近くに猿田彦岩や大江寺があり、大江寺が元興玉社とも言われる場所で元興玉社の小さい社がある。

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それから神前岬の方向を向けて山を登る。かなり険しい参道であるが、山の麓から神前神社の表示が在り、石段も鋪設され階段終点には神社があることが分かるだけ安心感がある。山の頂には皇大神宮攝社神前神社とそれと同座である許母利神社、荒前神社が坐す。荒前比賣命は國生神の御子である。急な坂道である涼しい林中にあり、そこで山蟹と出遭うのも面白かった。


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それから天照大神素戔嗚尊との誓約によって生まれた女神須佐乃乎命御玉道主命を祭る粟皇子神社へ向かう。別名淡海子神で海岸鎮護の神であり、本当は池ノ浦からアクセスしたほうが便利だけど、一旦『お伊勢さんを歩く』の地図をしたがって、松下社経由で松下駅の反対側の小径に入る。松下社について、蘇民將來を祭る蘇民祠があり、また主殿には祭神三柱で素戔嗚尊菅原道真、また不詳神一座があり、少し珍しい組み合わせである。って、小径に入って海に出ることではなく、山に登る感じになり、道迷ったのかと思うけどそうでもない。登り道の続き下がり、山を越えて海岸を出る路線だそうだ。但し下がり道が終えたら道が無くなり、田ぼんと行って良いかどうかの場所に出て、とりあえず農道とも言え難く、叢や泥の上に細い木板がある所を踏み分けて進む、ようやく海に出た。海岸を沿って海の屋があり、そこでまた道を尋ねて粟皇子神社。やっぱり神社名前を言い出したらあんまり知られなくて、海の屋の人が確かにお社が有った...って感じだった。粟皇子神社を後に、何故かホテル経由でようやく道に戻った。これで二見地方神社は一通り参ったので、池ノ浦のバス停からかんバスにの鳥羽へ。


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鳥羽から電車志摩赤崎におり、志摩国の赤崎神社を参る。鳥羽観光案内所から志摩国一宮伊射波神社の行き方も聞き、歩いて行くつもりだったけど、正直自分のやり方は冬場ならともかく夏場ではかなりキツイバスが進められたので赤崎神社前でバスを乗って安樂嶋へ。ちなみに、安樂嶋行きのかもめバスはかんバスの一日切符適用であることは帰り道でようやく分かった...(汗)

あと、ここで気づいたけど、山登りの道が激しいのと湿度が高いせいかカメラセンサーゴミが入った。(死)台湾に戻ってからCleaningに出そうと思ったけど後ほど出雲で大変羽目になったはこの時にはまだ知る由もない...


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志摩一宮は二ヶ所あり、一つはその前に參った伊雑宮(いざわのみや)、もう一つはこの伊射波(いざわ)神社。原因として伊雑宮官社として一宮にしていいか、という懸念である。同じ発音での社としては瀧原宮多岐原神社連想する。伊射波神社一宮として規模が小さい、変わりにあんまりに人が無く山の中で海を面して靜に佇むよき所である宮司はいつも神社にいるわけではないので、ご朱印を求める場合は先に電話宮司と連絡を取り、おおむね宮司家で頂ける。実際、バスの降り場に伊射波神社へと、伊射波神社宮司家への道標がある。また、宮司からの見渡しも大変ステキ景色である。伊射波神社の奧に領有神の道を通って海上守護神領有神の社へでる。そこのまた、絶景。戻りになるど流石に何本の山も越えたのかかなり疲れが溜まり、水飮んで休んだりする。バス停のどころにお盆踊りの準備をしていて涼しい風景である


志摩一宮 伊射波神社

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鳥羽経由で内宮に参拝。正宮御垣内に位置する興玉神宮比神屋乃波比伎神一般に参拝不可なので、正宮より遥拝する形となる。

また、内宮宇治橋の対面にある饗土橋姫神社の隣にある津長神社は、前回行き損ねたので今度行ってみようと思ったけどなんと道路が封じられた。どうや津長神社大水神社らは修繕中につき、饗土橋姫神社同座になるようだ。ちなみに、正宮、別宮は20年一度式年遷宮を行うけど、攝社・末社・所管社に関しては40年一度に作り変え、また20年毎に修理と云う形となる。この年は作り変えであれば、20年後は基本簡単な修理となるのが基本で、先後次序は特に無く、調查により先後が変わるし、また鎮座地により痛みの具合も違う為それぞれの状態にで修理・遷宮を行う。実際にこの目で津長神社を見えず、125社めぐりとして些か微妙ですが、饗土橋姫神社で参拝する形になった。

おはらい町で赤福氷を頂く、おかげ横丁まで散歩してきた。連続してハード旅路はいリラックスと言えよう。帰り道で斎宮広告を載せたかんバスを見た、近頃かなり意欲的活動している斎宮歴史博物館体験館の姿勢に脱帽である


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かんバス

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時間の余裕がありそうなので直接外宮へではなく寄り道で猿田彦神社を寄った、天鈿女命を祭る佐瑠女神社に参拝。結構佐瑠女神社例祭のポスターが有名だけど今度は張ってなかった。また、帰りから気づいたのは、昔は無かったはず佐瑠女神社にも御朱印が頂けるようだ、失念もっと時間も遅くなって受付時間が過ぎたのかも。

外宮にもどって、大津神社への道は相変わらず開いてなかった。神宮護衛に尋ねたら警備・安全上の理由で朝7~8時くらい開けて午後4時で閉まるらしい。確かに、一般参拝不可の上御井神社に近いし、いつまでも開けるのが宜しくないかもしれない。その後、大宮所の境界を首護する四至神を参拝し、写真を撮り、どうもかなり一般人パワーストーンとして扱われる所が気にするけどね...

猿田彦神社 佐瑠女神

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外宮 四至神

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夜は久しぶりのユメビトハウス、偶然にも旧正月メンツも揃って縁を感じた。かなり美猫のアルーだけど、窓の明けかたら会得して外で喧嘩したりするようで、今はかなり貫禄のある顔つきに。ユメビトハウス夜食会は相変わらず楽しい

2016-08-13-土

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お盆放浪東京

お盆大型連休出雲にするか伊勢にするかを少し惱んでた末、兩方にした。

伊勢ではまず伊勢神宮125社全社参拝を目標にし、また出雲は前回行けなかった日御碕神社熊野大社(意宇六社の中唯一まだ行ってないところ)などが目的

勿論、山梨から直接伊勢へも出雲へも行ける訳無いし、一旦東京名古屋京都経由となる。

本当は東京発で朝一出雲大社着のバスが良いだけど、さすがお盆では予約が満杯になったために断念。

バスの便や取れそうな宿りによって決めたScheduleは以下となる。

若干、東京へ出る便が非常に早いとか、甲府に戻る便は朝四時着とか、それそれしんどい時間であるがそれしか取れないから仕方ない。


実はとても惱んだことが有る東京半年くらい住んだ割りに東京のどこか面白いのは今どこイマイチ分かりません。

便利かつ何でもありの反面、なんでも独自ものあんまりない。

博物館美術館には大変興味深い出し物があれば見に行きますが、そこそこ興味あるであれば一人で行ってもあんまり面白くない。

友人とScheduleを確認した所、ラーメン二郎チャレンジ以外はなかなか決めなかった。(当日、予約コミケだと分かって道理で開かない人が多い...)


東京で私の興味にあいそうな場所で探してみて、奧多摩しかいか...

日原鍾乳洞御岳渓谷候補に挙げたものの、山梨から新宿に出てまたUターンなのが莫迦莫迦しのでボツ

ということで適当都内神社めぐりになる。


まずは以前半年間お世話になった小田急を8年ぶりに乗り、招き猫発祥地といわれた豪徳寺へ。実は昔世田谷八幡宮へ行った際に神主さんに勧めたことがあったけど、すれ違った。というか日本が本当に神仏の間は平和だなと感じた。

豪徳寺の有名なスポットといえば招き猫の山のおる招猫殿、しか仏像に「如是畜牲發菩提心」と書いてある。また、まさか三重塔にも招き猫の浮雕があるとは嶄新といえる。


豪徳寺

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東京メトロの一日切符を買って、山王日枝神社へ。大山咋神を祀る都内神社。この目で山王鳥居を見たのは初めてかもしれない。実は後で京都松尾大社梅宮大社など酒の神として大山咋神を祀るお社を巡って偶然にして莫名な繋がりを感じた。

そのあと新橋烏森神社へ出る。御朱印が有名で行ってみようと思った。烏森神社自体は失礼ながら私的特別思い入れあんまりいかも。


山王日枝神社

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烏森神社

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そして日本橋炎天の下でかなり体力が削れてて、ここでかなり休んだ。日本橋の見所は勿論Patlabor2で爆撃された麒麟の像。前々から見てみたいと思うし、実際に目に入るとかなり感懷深いものであり、東京でこういうのが殘ってよかったと思う。

それから神保町へ、実はうろ覚えで猫の巣となった「柳森神社」が神保町にあるのをカン違って苦労した、御蔭で太田稲荷神社にいったけど。その日の神保町鬼畜だ、写真にも映ったとおりやすくて良い本が多いけど、旅行初日でこういう本を買うなど自殺行為に等しい。

日本橋

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神保町

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太田稲荷神社

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友人と交流最後ラーメン二郎初チャレンジ。野菜増し大蒜で行ってみたら私がまだ全然いける。今度油も追加しようか...と思いながら隣から野菜増し増し大蒜の声が......

歌舞伎町で格好良い猫と出会って、そののち新宿珈琲貴族コーヒーを飲み、池袋へ。ひたすらビックカメラ時間を潰して後輩と交流し、居酒屋で夜間バスが來るまで飮み放題、結局夜間バスで軽く調子が惡くなって些か後悔だった...


ラーメン二郎歌舞伎町

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2016-08-07-日

[]補給物資万葉集試訳 補給物資、万葉集試訳を含むブックマーク 補給物資、万葉集試訳のブックマークコメント

補給物資

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黒髪ロング、ああ黒髪ロング、黒髪ロング


万葉集試訳

1007 市原王悲獨子歌一首

 言不問 木尚妹與兄 有云乎 直獨子爾 有之苦者

 言問(ことと)はぬ 木(き)すら妹(いも)と兄(せ)と 有(あり)と云(い)ふを 唯獨子(ただひとりこ)に あるが苦(くる)しさ

 縱令不言語 草木尚能有兄妹 反顧吾為人 生作獨子無人伴 孤苦寂寞心甚悲

市原王 1007

「木(き)すら妹(いも)と兄(せ)と」,「妹(いも)兄(せ)」常指夫婦,此則意指男女兄弟植物亦有雌雄異株而言。


1008 忌部首酲穗ず友賒來歌一首

 山之葉爾 不知世經月乃 將出香常 我待君之 夜者更降管

 山端(やまのは)に 猶豫(いさよ)ふ月(つき)の 出(いで)むかと 我(わ)が待(ま)つ君(きみ)が 夜(よ)は更(ふ)けにつつ

 其猶山端間 猶豫不決遲出月 今該將出乎 吾所引領苦久待 君尚未至夜已更

忌部酲穗ぁ1008

「猶豫(いさよ)ふ月(つき)の」,名月遲出,似猶豫不決。借實景敘情之表現

1009 冬十一月,左大辨葛城王(橘諸兄)等,賜姓橘氏之時,御製歌一首

 橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝爾霜雖降 益常葉之樹

 橘(たちばな)は 實(み)さへ花(はな)さへ 其葉(そのは)さへ 枝(えだ)に霜置(しもお)けど 彌常葉木(いやとこはのき)

 橘之花與實 經寒暑不彫 其葉復其枝 能凌霜雪而繁茂 彌更常冏鷸樹

聖武天皇 1009

 右,冬十一月九日,從三位葛城王、從四位上佐為王等,辭皇族之高名,賜外家之橘姓已訖。於時,太上(元正)天皇皇后,共在于皇后宮,以為肆宴,而即御製賀橘之歌,并賜御酒宿禰等也。或云:「此歌,一首太上天皇御歌,但天皇皇后御歌各有一首者。其歌遺落,未得探求焉。」今檢案內,八年十一月九日,葛城王等願橘宿禰之姓上表。以十七日,依表乞賜橘宿禰

「橘(たちばな)」,蜜柑科常小高木。當時為高級果食之一。

「外家」,母方之家。諸兄之母縣犬養三千代與美努王產下諸兄後離異,改適藤原不比等,生光明皇后和銅元年天皇譽忠誠,賜浮坏之橘敕曰:「橘者,果子之長上,人之所好。柯凌霜雪而繁茂,葉經寒暑而不彫。與珠玉共競光,交金銀以逾美。是以,汝姓者,賜橘宿禰也。」http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki12.htm#skk12_03

皇后宮」,此或云皇后之父,藤原不比等之故居。飲宴之前,蓋在內裏正殿行賜姓之儀。

「案內」,紀錄先例,保存於御所書籍


1010 橘宿禰奈良麻呂應詔歌一首 【承前。】

 奧山之 真木葉凌 零雪乃 零者雖益 地爾落目八方

 奧山(おくやま)の 真木葉凌(まきのはしの)ぎ 降雪(ふるゆき)の 降(ふ)りは(ま)すとも 地(つち)に落(お)ちめやも

 其猶深山中 降雪雖凌真木葉 時久或化古 然雖零雪更降益 橘實豈有落地時

奈良麻呂 1010

「橘宿禰奈良麻呂」,諸兄之子,當年方十五、六歲。此歌或為諸兄所代作

「真木葉凌(まきのはしの)ぎ」,「真木(まき)」乃得為建材之檜杉之類。「凌(しの)ぎ」乃自上方押下。

「降雪(ふるゆき)の」,以上乃以「降(ふ)り」引出「古(ふ)り」之序。又引天皇所敕「柯凌霜雪而繁茂」之文。

「地(つち)に落(お)ちめやも」,此有不落家名之意。

1011 冬十二月十二日,歌儛所之諸王臣子等,集葛井連廣成家宴歌二首

 比來,古儛盛興,古歲漸晚。理宜共盡古情,同唱古歌。故擬此趣,輙獻古曲二節。風流意氣之士,儻有此集之中,爭發念心,心和古體。

 我屋戶之 梅咲有跡 告遣者 來云似有 散去十方吉

 我(わ)が宿(やど)の 梅咲(うめさ)きたりと 告遣(つげや)らば 來(こ)と言(い)ふに似(に)たり 散(ち)りぬとも良(よ)し

  吾宿庭園間 屋戶苑內梅已咲 欲告與伊人 一似請君來晤逢 不若散去而可也

葛井廣成 1011

「來(こ)と言(い)ふに似(に)たり」,「來(こ)」乃「來(く)」之命令形。告知自家梅花綻開,有似要求對方來訪之意。

「散(ち)りぬとも良(よ)し」,良(よ)し表放任。雖欲對方來訪,但生性謹慎而卻步。


1012 【承前。】

 春去者 乎呼理爾乎呼里 鶯之 鳴吾嶋曾 不息通為

 春去(はるさ)れば 撓(をを)りに撓(をを)り 鶯(うぐひす)の 鳴(な)く我(わ)が山齋(しま)そ 止(や)まず通(かよ)はせ

 每逢春至者 庭梅爭咲華盛撓 黃鶯報春暖 來回啼鳴我山齋 不止為通當罷來

葛井廣成 1012

「撓(をを)りに撓(をを)り」,主與當為梅,而不見於歌中,蓋承前篇而省略為然。

1013 九年丁丑春正月,橘少卿并諸大夫等,集彈正尹門部王家宴歌二首

 豫 公來座武跡 知麻世婆 門爾屋戶爾毛 珠敷益乎

 豫(あらかじ)め 君來坐(きみきま)さむと 知(し)らませば 門(かど)に宿(やど)にも 玉敷(たまし)か益(まし)を

 若得察未然 豫知君將來幸者 奉為與君晤 敷玉門前與宿間 款待迎來則益矣

門部王 1013

 右一首,主人門部王。 【後賜姓大原真人氏也。】

「君來坐(きみきま)さむと」,君指來客,蓋橘佐為

「門(かど)に宿(やど)にも」,「門(かど)」指門外,に後省略も字。

「玉敷(たまし)か益(まし)を」,向客人道歉招待不週時之常套句

1014 【承前。】

 前日毛 昨日毛今日毛 雖見 明日左倍見卷 欲寸君香聞

 一昨日(をとつひ)も 昨日(きのふ)も今日(けふ)も 見(み)つれども 明日(あす)さへ見(み)まく 欲(ほ)しき君(きみ)かも

 雖云會前日 昨日今日亦逢見 怎奈情不抑 相思之情更泉湧 明日仍欲與君晤

橘文成 1014

 右一首,橘宿禰文成。 【即少卿之子也。】

「欲(ほ)しき君(きみ)かも」,此君字乃來客指稱主人。

1015 榎井王後追和歌一首 【志貴親王之子也。承前。】

 玉敷而 待益欲利者 多雞蘇香仁 來有今夜四 樂所念

 玉敷(たまし)きて 待(ま)たましよりは 猛踈(たけそか)に 來(きた)る今夜(こよひ)し 樂(たの)しく思(おも)ほゆ

 相較設玉敷 嚴備以待迎吾至 我亦有所思 不若猛踈今夜來 更樂何有不周處

榎井王 1015

「玉敷(たまし)きて 待(ま)たましよりは」,來客指主人招待無所不足之招呼用語

「猛踈(たけそか)に」,未詳。或為粗暴之意。

1016 春二月,諸大夫等,集左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家宴歌一首

 海原之 遠渡乎 遊士之 遊乎將見登 莫津左比曾來之

 海原(うなはら)の 遠渡(とほきわた)りを 風流士(みやびを)の 遊(あそ)びを見(み)むと 漂(なづさ)ひそ來(こ)し

 遠渡蹈滄溟 欲見風流秀才士 雅興遊宴者 不遠千里破風浪 埀朿じ局差墅

巨勢宿奈麻呂 1016

 右一首,書白紙懸著屋壁也。題云:「蓬莱仙媛所化囊蘰,為風流秀才之士矣。斯凡客不所望見哉。」

「遠渡(とほきわた)りを」,乘船遠渡重洋。

風流士(みやびを)の 遊(あそ)び」,「風流士」乃能解風流男子。「遊び」乃遊宴。

「漂(なづさ)ひそ來(こ)し」,排除水之抵抗而前進

1017 夏四月,大伴坂上郎女,奉拜賀茂神社之時,便超相坂山,望見近江海,而晚頭還來作歌一首

 木綿疊 手向乃山乎 今日越而 何野邊爾 廬將為吾等

 木綿疊(ゆふたた)み 手向山(たむけのやま)を 今日越(けふこ)えて 孰野邊(いづれののへ)に 廬(いほ)りせむ我(われ)

 木綿疊幣帛 手向貢呈逢坂山 今日越彼山 其後當以孰野邊 假廬此身渡今宵

坂上郎女 1017

「木綿疊(ゆふたた)み」,手向之枕詞。以木綿所製之敷物。旅人代以之為幣帛,獻與土地神以求旅路安平

「廬(いほ)りせむ我(われ)」,假居何處。「我(われ)」乃複數,依原文吾等可知不只一人。按題詞,蓋一日之內,自賀茂社,經逢坂山,而至奈良近江淡海。

1018 十年戊寅,元興寺之僧自嘆歌一首

 白珠者 人爾不所知 不知友縱 雖不知 吾之知有者 不知友任意

 白玉(しらたま)は 人(ひと)に知(し)らえず 知(し)らずとも良(よ)し 知(し)らずとも 我(あれ)し知(し)れらば 知(し)らずとも良(よ)し

 白珠美玉矣 不為人知無顯聞 眾諸狎侮無所謂 凡俗雖不知 我獨知之寶珠者 他人不解亦無惜

元興寺僧 1018

 右一首,或云:「元興寺之僧,獨覺多智,未有顯聞,眾諸狎侮。因此僧作此歌,自嘆身才也。」

白玉(しらたま)は 人(ひと)に知(し)らえず」,作者自比珍珠,而他人不知其貴。

「我(あれ)し知(し)れらば 」,以假定表確定事實之用法

「獨覺」,佛語,指為獨自開悟而修行

1019 石上乙麻呂卿,配土左國之時歌三首 【并短歌。】

 石上 振乃尊者 弱女乃 或爾緣而 馬自物 繩取附 肉自物 弓笶圍而 王 命恐 天離 夷部爾退 古衣 又打山從 還來奴香聞

 石上(いそのかみ) 布留尊(ふるのみこと)は 手弱女(たわやめ)の 惑(まど)ひに因(よ)りて 馬(うま)じ物(もの) 繩取付(なはとりつ)け 獸(しし)じ物(もの) 弓矢圍(ゆみやかく)みて 大君(おほきみ)の 命恐(みことかしこ)み 天離(あまざか)る 夷邊(ひなへ)に罷(まか)る 古衣(ふるころも) 真土山(まつちやま)より 歸來(かへりこ)ぬかも

 石上布留尊 物部之裔乙麻呂 因手弱女惑 遭此罪咎配土佐 雖非馬之儔 身受桎梏為繩繫 雖非獸之儔 弓矢所圍倨嚴陣 天皇大君之 咎命可恐無所逆 天離日已遠 罷流夷邊土佐地 古衣復打槌 自於紀堺真土山 何日能許歸來哉

時人 1019

石上乙麻呂」,天平一年三月,以通藤原宇合寡婦久米連若賣之罪,配流土佐。若賣流下總,而獲翌年六月大赦歸京。然乙麻呂不在赦例。

石上(いそのかみ) 布留尊(ふるのみこと)」,此云乙麻呂之敬稱,蓋同情其遭流行所至。石上氏本源物部,以布留為本貫。多胡郡碑亦稱石上乙麻呂石上麻呂為石上尊。

「手弱女(たわやめ)の 惑(まど)ひに因(よ)りて」,因年輕女子之故而遭逢禍亂。

「馬(うま)じ物(もの)」,雖非馬而遭繩所縛。按『獄令』,配送囚犯時須上形具。

「古衣(ふるころも)」,「真土山(まつちやま)」之枕詞。古衣至砧板復打(またうち→まつち)而令柔順,故云。


1020 【承前。】

 王 命恐見 刺並 國爾出座 愛耶 吾背乃公矣

 大君(おほきみ)の 命恐(みことかしこ)み 指並(さしなら)ぶ 國(くに)に出坐(いでま)す 愛(は)しきやし 我(わ)が背君(せのきみ)を

 天皇大君之 咎命可恐無所逆 出坐鄰並之 紀伊隔海土佐國 愛也哀憐哉 吾之兄君乙麻呂

石上乙麻呂妻 1020

「指並(さしなら)ぶ」,鄰並。土佐紀伊同屬南海道而有一海之隔。真土山者,奈良紀伊之境。

此歌與下首,或並為一首,或視為前曲短歌。而本歌與次曲之間,似有脫落。

1021 【承前。】

 繫卷裳 湯湯石恐石 住吉乃 荒人神 船舳爾 牛吐賜 付賜將 嶋之埼前 依賜將 礒乃埼前 荒浪 風爾不令遇 莫管見 身疾不有 急 令變賜根 本國部爾

 掛幕(かけま)くも 忌(ゆゆ)し恐(かしこ)し 住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとがみ) 船舳(ふなのへ)に 領賜(うしはきたま)ひ 著賜(つきたま)はむ 島崎崎(しまのさきざき) 寄賜(よりたま)はむ 磯崎崎(いそのさきざき) 荒波(あらきなみ) 風(かぜ)に遇(あ)はせず 障無(つつみな)く 病有(やまひあ)らせず 速(すむや)けく 歸賜(かへしたま)はね 本國邊(もとのくにへ)に

 僭述掛尊諱 忌懼誠惶復誠恐 墨江住吉之 底中表筒現人神 願於船舳處 鎮坐領賜率船行 此船之所著 島之諸岬眾崎崎 此船之所寄 磯之諸岬眾崎崎 得不遇荒波 不遭狂風駭浪摧 無恙無所障 不罹病痛無所惱 令之速且此〜疇歸賜令還來 再踏歸途本國邊

石上乙麻呂妻 1021

 【右二首,常作一首。其間疑有脫漏。】

「掛幕(かけま)くも 忌(ゆゆ)し恐(かしこ)し」,修飾「住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとがみ)」之同體格。

住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとがみ)」,住吉三神。司掌航海安全海神。神多為隱身,而住吉三神時化人姿顯現,故約現人神

「歸賜(かへしたま)はね」,ね表希求

1022 【承前。】

 父公爾 吾者真名子敘 妣刀自爾 吾者愛兒敘 參昇 八十氏人乃 手向為 恐乃坂爾 幣奉 吾者敘追 遠杵土左道矣

 父君(ちちぎみ)に 我(われ)は愛子(まなご)ぞ 母刀自(ははとじ)に 我(われ)は愛子(まなご)ぞ 參上(まゐのぼ)る 八十氏人(やそうぢひと)の 手向(たむけ)する 恐(かしこ)の坂(さか)に 幣奉(ぬさまつ)り 我(われ)はぞ追(お)へる 遠土佐道(とほきとさぢ)を

 父君觀之者 我為膝下愛子矣 妣母觀之者 吾乃膝下愛子矣 參昇上京兮 八十諸氏百姓人 手向祈安平 窒礙難行恐坂間 奉幣貢物獻於此 吾今一路追行之 驅馳路遙土佐

石上乙麻呂 1022

「父君(ちちぎみ)」,此云石上麻呂。

「母刀自(ははとじ)」,母之敬稱。刀自乃對地位家族中心女性之敬稱。

「參上(まゐのぼ)る」,自地方上京

「八十氏人(やそうぢひと)」,種種姓氏之人。

「恐(かしこ)の坂(さか)に」,所在未詳。當時傳說,諸地山坂、河川有妨礙旅人順利通行之荒神

「幣奉(ぬさまつ)り」,求神所奉之祭品。

「我(われ)はぞ追(お)へる」,「追(お)ふ」表朝目的直行

或曰已上三首,蓋同情乙麻呂之時人、乙麻呂妻、以麻呂自身所詠。實際蓋皆時人所詠乎。


1023 反歌一首 【承前。】

 大埼乃 神之小濱者 雖小 百船純毛 過跡云莫國

 大崎(おほさき)の 神小濱(かみのをばま)は 狹(せば)けども 百船人(ももふなびと)も 過(す)ぐと言(い)は莫(な)くに

 紀伊大埼之 神之加太小濱者 其湊雖小而 百船諸人祈於此 不敢輕忽擅過之

石上乙麻呂 1023

大崎(おほさき)の 神小濱(かみのをばま)は」,紀伊加太、田倉崎船麈戟董E珍匣西北有式內社加太神社,今稱淡島神社

「過(す)ぐと言(い)は莫(な)くに」,莫敢不祈於神而漠然通過。


1024 秋八月廿日,宴右大臣橘家歌四首 【四首第一。】

 長門有 奧津借嶋 奧真經而 吾念君者 千歲爾母我毛

 長門(ながと)なる 沖(おき)つ借島(かりしま) 奧(おく)まへて 我(あ)が思(おも)ふ君(きみ)は 千年(ちとせ)にもがも

 長門沖津處 奧之借島名所如 深邃無極矣 我願己所思慕君 其壽千歲比南山

巨曾倍對馬 1024

 右一首,長門守巨曾倍對馬朝臣

「沖(おき)つ借島(かりしま)」,借「沖(おき)」之音引出「奧(おく)まへ」之序。

「奧(おく)まへ」,內心深處。

「我(あ)が思(おも)ふ君(きみ)は」,此指右大臣橘諸兄

「千年(ちとせ)にもがも」,「に」乃斷定助動詞「也(なり)」之連用形,「もがも」表希求


1025 【承前。四首第二。】

 奧真經而 吾乎念流 吾背子者 千年五百歲 有巨勢奴香聞

 奧(おく)まへて 我(われ)を思(おも)へる 我(わ)が背子(せこ)は 千年五百歲(ちとせほとせ) ありこせぬかも

 深邃無極矣 思慕念我吾兄子 我亦有所願 冀汝長命壽長久 千年長青五百歲

橘諸兄 1025

 右一首,右大臣和歌

「我(わ)が背子(せこ)」,此云巨曾倍對馬。

「在(あり)こせぬかも」,「こせ」為「くれる」之意,而「ぬかも」表希求,而祈求內容多半不易實現。

1026 【承前。四首第三。】

 百礒城乃 大宮人者 今日毛鴨 暇无跡 里爾不出將有

 百敷(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)は 今日(けふ)もかも 暇(いとま)を無(な)みと 里(さと)に出(いで)ざらむ

 百敷宮闈間 高雅殿上大宮人 汝今復如是 蓋因公務繁無暇 不得出里來相會

豐島采女 1026

 右一首,右大臣傳云:「故豐嶋采女歌。」

「里(さと)に出(いで)ざらむ」,此云仕宮之人返家。采女一般無法自由離開後宮,蓋采女詠唱傳誦之歌而被視為自作所然。



1027 【承前。四首第四。】

 橘 本爾道履 八衢爾 物乎曾念 人爾不所知

 橘(たちばな)の 本(もと)に道踏(みちふ)む 八衢(やちまた)に 物(もの)をそ思(おも)ふ 人(ひと)に知(し)らえず

 非時香菓兮 今行橘蔭斑駁道 八衢路分別 吾人不覺沉憂思 只哀不得伊人知

三方沙彌 1027

 右一首,右大辨高橋安麻呂卿語云:「故豐嶋采女之作也。」但或本云:「三方沙彌戀妻苑臣作歌也。」然則,豐嶋采女當時當所口吟此歌歟。

「橘(たちばな)の 本(もと)に道踏(みちふ)む」,多人往來植橘之道,引出「八衢(やちまた)」之序。

「八衢(やちまた)」,道路分歧之處。八為表多數之虛數。立身八衢,不知當由而去,引申為心情迷惘之狀。


1028 十一年己卯,天皇遊獵高圓野之時,小獸泄走都里之中。於是,適值勇士生而見獲。即以此獸,獻上御在所副歌一首 【獸名,俗曰むざさび(牟射佐妣)。】

 大夫之 高圓山爾 迫有者 里爾下來流 牟射佐毗曾此

 大夫(ますらを)の 高圓山(たかまとやま)に 迫(せ)めたれば 里(さと)に下來(おりけ)る 鼯鼠(むざさび)そこれ

 勇士興遊獵 高圓山間獸遁走 為大夫所迫 泄走下來都里中 小獸鼯鼠其是也

坂上郎女 1028

 右一首,大伴坂上郎女作之。但未逕奏而小獸死斃。因此獻歌停之。

大夫(ますらを)」,此概指俄勢子之大宮人而言。

「迫(せ)めたれば」,兩者間距縮短。


1029 十二年庚辰冬十月,依大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍,幸于伊勢國之時,河口行宮,內舍人大伴宿禰家持作歌一首

 河口之 野邊爾廬而 夜乃歷者 妹之手本師 所念鴨

 河口(かはぐち)の 野邊(のへ)に廬(いほ)りて 夜(よ)の經(ふ)れば 妹(いも)が手本(たもと)し 思(おも)ほゆるかも

 河口野邊間 結廬假寢為權宿 歷經幾夜者 吾念愛妻妹手枕 更慕難眠愁相思

大伴家持 1029

藤原廣嗣謀反」,廣嗣糾彈橘諸兄一派之失,欲除玄掘吉備真備勢力而不成,反被指陳謀叛。

「廬(いほ)り」,簡造小屋宿泊

「妹(いも)が手本(たもと)し」,以妻之手腕為枕。

1030 天皇御製歌一首 【承前。】

 妹爾戀 吾乃松原 見渡者 潮干乃滷爾 多頭鳴渡

 妹(いも)に戀(こ)ひ 吾松原(あがのまつばら) 見渡(みわた)せば 潮乾潟(しほひのかた)に 鶴鳴渡(たづなきわた)る

 思慕待妹兮 身居吾之松原間 放眼望去者 退潮時分潮乾潟 葦鶴鳴渡越大虛

聖武天皇 1030

 右一首,今案,吾松原三重郡,相去河口行宮遠矣。若疑御在朝明行宮之時所製御歌,傳者誤之歟。

「妹(いも)に戀(こ)ひ」,思慕妻子欲與之相逢兒等待,遂為「吾松原(あがのまつばら)」之枕詞

「吾松原(あがのまつばら)」,未詳所在。按左注則在三重郡,然去河口行宮甚遠。


1031 丹比屋主真人歌一首 【承前。】

 後爾之 人乎思久 四泥能埼 木綿取之泥而 好住跡其念

 後(おく)れにし 人(ひと)を偲(しの)はく 思泥崎(しでのさき) 木綿取垂(ゆふとりし)でて 幸(さき)くとそ思(おも)ふ

 偲慕留家人 相思之愁情難止 身居思泥崎 手執木綿取垂而 唯願無恙好住矣

丹比屋主 1031

 右案,此歌者,不有此行之作乎。所以然言,敕大夫從河口行宮還京,勿令從駕焉。何有詠思泥埼作歌哉。

「後(おく)れにし 人(ひと)」,留居奈良家人

「思泥崎(しでのさき)」,此句同時表示身在思泥崎,亦以同音雙關下句垂木綿者。

「幸(さき)く」,原文「好住」,乃旅行之中,祈求居家者無恙之語,與「好去」相對。正倉院藏『杜家立成』云「唯願好住好住。」

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2016-08-03-水

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補給物資

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万葉集試訳

0991 同鹿人至泊鷁邊作歌一首

 石走 多藝千流留 泊鷁蓮絕事無 亦毛來而將見

 石走(いはばし)り 激流(たぎちなが)るる 泊鸚(はつせがは) 絕(た)ゆる事無(ことな)く 亦(また)も來(き)て見(み)む

 石走迸流水 急湍激烈勢奔騰 偉哉泊鸚遏\多緝壓厂絕時 還欲再來復見之

紀鹿人 0991

「石走(いはばし)り」,激流奔馳岩上之狀。

「泊鸚(はつせがは)」,以上乃引出「絕(た)ゆる事無(ことな)く」之序,亦為「亦(また)も來(き)て見(み)む」之受詞。


0992 大伴坂上郎女元興寺之里歌一首

 古鄉之 飛鳥者雖有 青丹吉 平城明日香乎 見樂思好裳

 故鄉(ふるさと)の 飛鳥(あすか)はあれど 青丹良(あをによ)し 奈良明日香(ならのあすか)を 見(み)らくし良(よ)しも

 故鄉飛鳥京 元興寺矣偉伽藍 青丹良且秀 平承新京明日香 新元興寺亦麗矣

坂上郎女 0992

「故鄉(ふるさと)の」,此云飛鳥舊京,相對平城新京而言。

奈良明日香(ならのあすか)」,平城新京之新元興寺

此云飛鳥舊京之本元興寺華美壯闊,然平城新京之新元興寺亦巍峨異常。

0993 同坂上郎女初月歌一首

 月立而 直三日月之 眉根搔 氣長戀之 君爾相有鴨

 月立(つきた)ちて 直三日月(ただみかづき)の 眉根搔(まよねか)き 日長(けなが)く戀(こ)ひし 君(きみ)に逢(あ)へるかも

 月出現姿形 細長三日上弦月 手搔柳娥眉 慕君苦待日已久 終得與君會一面

坂上郎女 0993

「月立(つきた)ちて 直三日月(ただみかづき)の」,此以三日月比喻女性柳眉。類語有娥眉、眉月等。

「眉根搔(まよねか)き」,眉根與眉同。古俗以為,眉間痒者乃將與戀人相逢之兆,此以手搔眉,祈求與戀人相會。

0994 大伴宿禰家持初月歌一首

 振仰而 若月見者 一目見之 人乃眉引 所念可聞

 振放(ふりさ)けて 三日月見(みかづきみ)れば 一目見(ひとめみ)し 人(ひと)の眉引(まよび)き 思(おも)ほゆるかも

 仰首望高天 直見上弦三日月 一目視此月 念及伊人柳眉引 睹物思人摧慕情

大伴家持 0994

「振放(ふりさ)けて」,仰望,「放(さ)く」乃將遠望之狀。

「人(ひと)の眉引(まよび)き」,「眉引(まよび)き」或指畫眉而言。家持觀月,連想至坂上大孃之眉月。

0995 大伴坂上郎女親族歌一首

 如是為乍 遊飲與 草木尚 春者生管 秋者落去

 如是(かく)しつつ 遊飲(あそびの)みこそ 草木(くさき)すら 春(はる)は咲(さ)きつつ 秋(あき)は散逝(ちりゆ)く

 去來親族等 如是遊樂率宴飲 觀夫草木疇 春日盛咲秋逝散 人有盛衰應惜時

坂上郎女 0995

「宴親族」,此蓋祭大伴氏祖神之晏。

「如是(かく)しつつ」,「つつ」於此表多數人一齊作相同動作。

「遊飲(あそびの)みこそ」,「遊(あそ)び」指遊宴。こそ表希求大伴旅人仙逝之後,坂上郎女蓋為大伴氏之中心人物。

草木(くさき)すら」,連草木都...並列輕重,草木亦有盛衰,人亦當得遊樂。

0996 六年甲戌海犬養宿禰岡麻呂應詔歌一首

 御民吾 生有驗在 天地之 榮時爾 相樂念者

 御民我(みたみわれ) 生(い)ける驗有(しるしあ)り 天地(あめつち)の 榮(さか)ゆる時(とき)に 逢(あ)へらく思(おも)へば

 吾為皇御民 生有驗之誠幸甚 吾竊有所思 幸得生逢天地間 繁榮盛時大御代

海犬養岡麻呂 0996

「生(い)ける驗有(しるしあ)り」,生活之意義、價直。

「天地(あめつち)の 榮(さか)ゆる時(とき)に」,值得慶賀之盛世。

天平四年,西日本各地饑饉。五年,光明皇后生母縣犬養八千代薨,皇后亦久疾不癒,實際上天下未必太平

0997 春三月幸于難波宮之時歌六首 【六首第一。】

 住吉乃 粉濱之四時美 開藻不見 隱耳哉 戀度南

 住吉(すみのえ)の 粉濱蜆(こはまのしじみ) 開(あ)けも見(み)ず 隱(こも)りてのみ哉(や) 戀渡(こひわた)りなむ

 墨江住吉之 粉濱之蜆殼不開 猶其不開誠 不敞心胸隱耳哉 獨自暗戀渡光陰

佚名 0997

 右一首,作者未詳。

「春三月幸于難波宮」,按『續日本紀』,三月十日出,十九日還幸。

「粉濱蜆(こはまのしじみ)」,「粉濱(こはま)」蓋流經住吉大社南端細井川之河口。以上乃「開(あ)けも見(み)ず」之序。

「開(あ)けも見(み)ず」,真情隱忍心中,不漏於外。

0998 【承前,六首第二。】

 如眉 雲居爾所見 阿波乃山 懸而榜舟 泊不知毛

 眉(まよ)の如(ごと) 雲居(くもゐ)に見(み)ゆる 阿波山(あはのやま) 懸(か)けて漕船(こぐふね) 泊知(とまりし)らずも

 形如柳眉之 雲居之端可所見 淡路阿波山 指山划行小扁舟 不知將泊在何方

船王 0998

 右一首,船王作。

「雲居(くもゐ)に見(み)ゆる 阿波山(あはのやま)」,雲居乃浮雲停流之空之彼端。無論難波宮或住及,皆無以目視阿波山。蓋見淡路島南部山地以託情乎。

「懸(か)けて」,以之為目標,指之。

「泊知(とまりし)らずも」,「泊(とまり)」乃停泊地。暗示作者羈旅在外心情忐忑無以安寧。


0999 【承前,六首第三。】

 從千沼迴 雨曾零來 四八津之白水郎 網手綱乾有 沾將堪香聞

 茅渟迴(ちぬみ)より 雨(あめ)そ降來(ふりく)る 四極海人(しはつのあま) 網手綱乾(あみてづなほ)せり 濡(ぬ)れも堪(あ)へむ哉(かも)

 其自千沼迴 驟雨零來降雰雰 四極之海人 所乾綱手曬網者 將遭雨濡漬濕哉

守部王 0999

 右一首,遊覽住吉濱,還宮之時,道上守部王應詔作歌。

「網手綱乾(あみてづなほ)せり」,原文網手綱乾有。網手綱未詳孰是,或漁網乎。古今集戀歌顯昭注云「萬葉讀網手繩。」云云。

「濡(ぬ)れも堪(あ)へむ哉(かも)」,不就會被淋濕嗎。「堪(あ)ふ」乃抵抗之意。

1000 【承前,六首第四。】

 兒等之有者 二人將聞乎 奧渚爾 鳴成多頭乃 曉之聲

 子等(こら)しあらば 二人聞(ふたりき)かむを 沖渚(おきつす)に 鳴(な)くなる鶴(たづ)の 曉聲(あかときのこゑ)

 子若在此者 吾欲倆人相共聞 沖渚奧津洲 天色晦暗未明時 鳴鶴高啼報曉聲

守部王 1000

 右一首,守部王作。

「子等(こら)しあらば」,「あらば」乃「ありせば」之略。表反事實之略。

「鳴(な)くなる鶴(たづ)の」,「なり」乃傳聞推定助動詞,雖得聞聲,而天色庶暗,曉黯之間,不得見鶴形


1001 【承前,六首第五。】

 大夫者 御獦爾立之 未通女等者 赤裳須素引 清濱備乎

 大夫(ますらを)は 御狩(みか)りに立(た)たし 娘子等(をとめら)は 赤裳裾引(あかもすそひ)く 清濱邊(きよきはまび)を

 大夫益荒男 起催御狩流鏑馬 娘子手弱女 引赤裳裾漫步迴 清鄒〔設川癌

山部赤人 1001

 右一首,山部宿禰赤人作。

「御狩(みか)り」,此云騎射行事,流鏑馬。演化自藥獵之射的武技。

「赤裳裾引(あかもすそひ)く」,年輕女性拉起裳裾優美行走之狀。

「濱邊(はまび)」,び乃邊之意,亦用於崗邊、山邊、川邊等處。


1002 【承前,六首第六。】

 馬之步 押止駐余 住吉之 岸乃黃土 爾保比而將去

 馬步(うまのあゆ)み 抑留(おさへとど)めよ 住吉(すみのえ)の 岸埴生(きしのはにふ)に 匂(にほ)ひて行(ゆ)かむ

 且緩馬之步 押留莫令不停蹄 墨江住吉之 岸邊埴生黃土矣 令彼染衣而將去

安倍豐繼 1002

 右一首,安倍朝臣豐繼作。

「馬步(うまのあゆ)み 抑留(おさへとど)めよ」,向馬丁要求抑止馬之急驅。

「匂(にほ)ひ」,染上色彩。

1003 筑後守外從五位下葛井連大成,遙見海人釣船作歌一首

 海娍嬬 玉求良之 奧浪 恐海爾 船出為利所見

 海女娘子(あまをとめ) 玉求(たまもと)むらし 沖波(おきつなみ) 恐海(かしこきうみ)に 船出(ふなで)せり見(み)ゆ

 海女娘子等 蓋求珍珠寶玉哉 奧浪沖津波 不畏海象險如此 出船滄溟狀可見

葛井大成 1003

「船出(ふなで)せり見(み)ゆ」,類例有927「騒きてあり見ゆ」、3672「燈し安敝里見ゆ」。

1004 桉作村主益人歌一首

 不所念 來座君乎 佐保川乃 河蝦不令聞 還都流香聞

 思(おも)ほえず 來座(きま)しし君(きみ)を 佐保川(さほがは)の 蛙聞(かはづき)かせず 歸(かへ)しつるかも

 始料未曾及 吾君來坐幸寒舍 然在天未暮 未聞佐保川蛙鳴 逕自歸去甚可惜

桉作益人 1004

 右,內匠大屬桉作村主益人,聊設飲饌,以饗長官佐為王。未及日斜,王既還歸。於時,益人怜惜不猒之歸,仍作此歌。

「思(おも)ほえず」,按左注,作者設飲饌以饗長官,仍恐招待不週。

「蛙聞(かはづき)かせず」,未聞蛙聲之間,即尚未日沒之前。千鳥、蛙鳴,共為佐保川名景。

「怜惜不猒之歸」,設宴盡歡,令客忘歸為善,而長官先返者,恐有不周之虞。

1005 八年丙子夏六月,幸于芳野離宮之時,山邊宿禰赤人應詔作歌一首 【并短歌。】

 八隅知之 我大王之 見給 芳野宮者 山高 雲曾輕引 河速彌 湍之聲曾清寸 神佐備而 見者貴久 宜名倍 見者清之 此山乃 盡者耳社 此河乃 絕者耳社 百師紀能 大宮所 止時裳有目

 八隅治(やすみし)し 我(わ)が大君(おほきみ)の 見賜(めしたま)ふ 吉野宮(よしののみや)は 山高(やまたか)み 雲(くも)そ棚引(たなび)く 川早(かははや)み 鷁(せのおと)そ清(きよ)き 神(かむ)さびて 見(み)れば貴(たふと)く 宜(よろ)しなへ 見(み)れば清(さや)けし 此山(このやま)の 盡(つ)きばのみこそ 此川(このかは)の 絕(た)えばのみこそ 百敷(ももしき)の 大宮所(おほみやところ) 止(や)む時(とき)も有(あ)らめ

 八隅治天下 經綸恢弘吾大君 巡幸所見賜 御芳野吉野宮 足曳山高險 浮雲棚引繫山頭 川水流且速 鷁枝嘩我畧響屐[念厦神氣 見知其尊貴不凡 宜為大宮所 見知其清雅絕倫 除非此山兮 有朝一日逢盡時 除非此川兮 有朝一日遇絕時 百敷宮闈間 美輪美奐大宮所 榮華豈有止時哉

山部赤人 1005

「見賜(めしたま)ふ」,天皇行幸遊覽之意。

「神(かむ)さびて」,久經年月,而有古色蒼然、神氣自露之樣。主語吉野宮

「宜(よろ)しなへ」,相稱。此云吉野宮作為離宮,甚為合洽。

「盡(つ)きばのみこそ」「絕(た)えばのみこそ」,祝禱勝景永恆,以不可能自然景觀變化為喻,如海枯石爛之疇。

大宮所(おほみやところ)」,此云行宮。


1006 反歌一首 【承前。】

 自神代 芳野宮爾 蟻通 高所知者 山河乎吉三

 神代(かみよ)より 吉野宮(よしののみや)に 蟻通(ありがよ)ひ 高知(たかし)らせるは 山川(やまかは)を良(よ)み

 遠自神代昔 吉野宮兮繁蟻通 絡繹人不絕 其宮高知聳巍峨 山川良善景絕倫

山部赤人 1006

「蟻通(ありがよ)ひ」,持續往來不絕,或猶蟻列綿延不斷。

高知(たかし)らせるは」,大規模營造宮殿

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2016-07-20-水

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万葉集試訳

0935 三年丙寅秋九月十五日,幸於播磨國印南野時,笠朝臣金村作歌一首 【并短歌。】

 名寸隅乃 船黐禄蠍 淡路嶋 松帆乃浦爾 朝名藝爾 玉藻苅管 暮菜寸二 藻鹽燒乍 海末通女 有跡者雖聞 見爾將去 餘四能無者 大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 俳徊 吾者衣戀流 船梶雄名三

 名寸隅(なきすみ)の 舟(ふなせ)ゆ見(み)ゆる 淡路島(あはぢしま) 松帆浦(まつほのうら)に 朝凪(あさなぎ)に 玉藻刈(たまもか)りつつ 夕凪(ゆふなぎ)に 藻鹽燒(もしほや)きつつ 海人娘子(あまをとめ) 有(あり)とは聞(き)けど 見(み)に行(ゆ)かむ 由無(よしのな)ければ 大夫(ますらを)の 心(こころ)は無(な)しに 手弱女(たわやめ)の 思撓(おもひたわ)みて 徘徊(たもとほ)り 我(あれ)はそ戀(こ)ふる 舟梶(ふなかぢ)を無(な)み

 魚住名寸隅 舟麈饐豐峅銚 對面淡路島 松帆之浦邊津處 朝凪風靜時 刈取玉藻漁海幸 夕暮凪止時 燒藻煮潮製藻鹽 海人娘子等 吾聞人云彼娘子 雖欲往見者 然苦無由亦無術 身為大丈夫 吾念憂柔復寡斷 心猶手弱女 尋思難定情難奈 猶豫復徘徊 戀慕之情溢不止 然無舟梶無由往

笠金村 0935

「名寸隅(なきすみ)の 舟(ふなせ)ゆ見(み)ゆる」,名寸隅或書魚住,船麈汲頭之意。

「藻鹽燒(もしほや)きつつ」,焚藻為灰,溶於海水,煮凝成鹽。

「見(み)に行(ゆ)かむ 由無(よしのな)ければ」,此云己為供奉行幸之身,無法隨心所往。

「思撓(おもひたわ)みて」,心思曲撓。

「徘徊(たもとほ)り」,有所留戀而排迴不前。

0936 反歌二首 【承前。】

 玉藻苅 海未通女等 見爾將去 船梶毛欲得 浪高友

 玉藻刈(たまもか)る 海人娘子共(あまをとめども) 見(み)に行(ゆ)かむ 舟梶(ふなかぢ)もがも 波高(なみたか)くとも

 海人娘子等 刈取玉藻景甚美 吾欲得舟梶 以往松帆浦觀之 縱令浪高不怯懦

笠金村 0936

「舟梶(ふなかぢ)もがも」,もがも表願望,原文書作「欲得」。


0937 【承前,反歌第二。】

 徃迴 雖見將飽八 名寸隅乃 船麈鯨声ぁ〇誉N思良名美

 行迴(ゆきめぐ)り 見(み)とも飽(あ)かめや 名寸隅(なきすみ)の 舟黯(ふなせのはま)に 重(しき)る白波(しらなみ)

 徃迴行數度 雖再見之豈飽厭 魚住名寸隅 舟麈鯨棲ご濔紂\乕煦濬美白

笠金村 0937

「重(しき)る白波(しらなみ)」,後浪推前浪,幾重層疊之狀。

0938 山部宿禰赤人作歌一首 【并短歌。】

 八隅知之 吾大君乃 神隨 高所知流 稻見野能 大海乃原笶 荒妙 藤井乃浦爾 鮪釣等 海人船散動 鹽燒等 人曾左波爾有 浦乎吉美 宇倍毛釣者為 濱乎吉美 諾毛鹽燒 蟻徃來 御覽母知師 清白濱

 八隅治(やすみし)し 我(わ)が大君(おほきみ)の 隨神(かむながら) 高知(たかし)らせる 印南野(いなみの)の 大海原(おふみのはら)の 荒栲(あらたへ)の 藤井浦(ふぢゐのうら)に 鮪釣(しびつ)ると 海人舟騷(あまぶねさわ)き 鹽燒(しほや)くと 人(ひと)そ澤(さは)に在(あ)る 浦(うら)を良(よ)み 宜(うべ)も釣(つ)りはす 濱(はま)を良(よ)み 宜(うべ)も鹽燒(しほや)く 蟻通(ありがよ)ひ 見(め)さくも著(しる)し 清白濱(きよきしらはま)

 八隅治天下 經綸恢弘我大君 唯神隨神性 營造高宮臨天下 播磨印南野 綿見滄溟大海原 荒拷麤妙兮 藤井之浦邊津上 欲為釣鮪而 海人之舟騷萬動 欲為燒鹽而 人等眾集聚於此 以此浦良矣 理宜人集適漁釣 以此濱良矣 理宜人集燒海鹽 蟻通人不斷 絡繹不絕觀此景 清冽白濱此勝景

山部赤人 0938

「隨神(かむながら)」,尊天皇現人神,故云。

高知(たかし)らせる」,造宮高大。按『續日本紀』,行幸前九日,遣門部王等十八人為造頓宮司,發向播磨

「大海原(おふみのはら)の」,『續日本紀』,云:「甲寅,至印南野邑美(おほみ、おふみ)頓宮。」邑美蓋大海之約音。

「荒栲(あらたへ)の」,藤之枕詞。粗糙之織物。

藤井浦(ふぢゐのうら)」,未詳。反歌有「藤江浦(ふぢえのうら)」或為同地。

「鮪釣(しびつ)ると」,鮪多半以銛之類突之以獲,釣字少見。

「見(め)さくも著(しる)し」,「見(め)さく」乃「見(み)る」之敬語「召(め)す」之く句法。「著(しる)し」表證據明確。



0939 反歌三首 【承前。】

 奧浪 邊波安美 射去為登 藤江乃浦爾 船曾動流

 沖波(おきつなみ) 邊波靜(へなみしづ)けみ 漁(いざ)りすと 藤江浦(ふぢえのうら)に 舟(ふね)そ騷(さわ)ける

 遠洋沖津浪 近岸邊浪皆平靜 海人欲為漁 藤江之浦滄溟間 舟船賑繁騷萬動

山部赤人 0939

「邊波靜(へなみしづ)けみ」,「邊波(へなみ)」同「邊波(へつなみ)」。「靜(しづ)けみ」乃「靜(しづ)けし」之み句法。

「漁(いざ)り」,捕魚。部分方言以刺槍捕魚特稱漁(いざ)り。



0940 【承前,反歌第二。】

 不欲見野乃 淺茅押靡 左宿夜之 氣長在者 家之小篠生

 印南野(いなみの)の 淺茅押靡(あさぢおしな)べ 小寢(さぬ)る夜(よ)の 日長(けなが)くしあれば 家(いへ)し偲(しの)はゆ

 播磨印南野 押糜野間淺茅草 為床小寢夜 草枕異地時日長 偲鄉暮情愈難抑

山部赤人 0940

「淺茅押靡(あさぢおしな)べ」,「淺茅(あさぢ)」乃高度較低之茅。「押靡(おしな)べ」乃自上將物押平之意。

「日長(けなが)くしあれば」,「日(け)」乃日數。

0941 【承前,反歌第三。】

 明方 潮乾乃道乎 從明日者 下咲異六 家近附者

 明石潟(あかしがた) 潮乾道(しほひのみち)を 明日(あす)よりは 下笑(したゑ)ましけむ 家近付(いへちかづ)けば

 縱令明石潟 乾潮道之道步難行 自於明日起 吾心雀動暗下笑 只由漸漸離家近

山部赤人 0941

「潮乾道(しほひのみち)を」,或有道路難行之意。

「下笑(したゑ)ましけむ」,不露於色,但心中歡愉。

0942 過辛荷嶋時,山部宿禰赤人作歌一首 【并短歌。】

 味澤相 妹目不數見而 敷細乃 枕毛不卷 櫻皮纏 作流舟二 真梶貫 吾榜來者 淡路乃 野嶋毛過 伊奈美嬬 辛荷乃嶋之 嶋際從 吾宅乎見者 青山乃 曾許十方不見 白雲毛 千重爾成來沼 許伎多武流 浦乃盡 徃隱 嶋乃埼埼 隈毛不置 憶曾吾來 客乃氣長彌

 味障(あぢさは)ふ 妹(いも)が目離(めか)れて 敷栲(しきたへ)の 枕(まくら)も卷(ま)かず 櫻皮卷(かにはま)き 造(つく)れる船(ふね)に 真楫貫(まかぢぬ)き 我(わ)が漕來(こぎく)れば 淡路(あはぢ)の 野島(のしま)も過(す)ぎ 印南嬬(いなみつま) 辛荷島(からにのしま)の 島間(しまのま)ゆ 我家(わぎへ)を見(み)れば 青山(あをやま)の 其處(そこ)とも見(み)えず 白雲(しらくも)も 千重(ちへ)に成來(なりき)ぬ 漕迴(こぎたむ)る 浦悉(うらのことごと) 行隱(ゆきかく)る 島崎崎(しまのさきざき) 隈(くま)も置(お)かず 思(おも)ひそ我(わ)が來(く)る 旅(たび)の日長(けなが)み

 味障多合兮 與妻目離兩相別 柔細敷栲兮 愛妻手枕不得纏 蒲木櫻皮卷 所造船舶舸舟上 真楫貫梶通 吾人划槳漕來者 淡道淡路之 北淡野島既已過 經印南嬬地 穿辛荷島群島時 自其諸島間 望見向吾故鄉方 青山串連峰 不知何處為吾家 白雲疊千重 層層相嵌漸飄來 漕迴巡滄溟 津津浦浦處處過 每至行隱之 諸島崎崎所泊處 無隈不例外 吾戀故鄉不止息 全因羈旅日已長

山部赤人 0942

「味障(あぢさは)ふ」,目之枕詞http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/105_20.htm

「妹(いも)が目離(めか)れて」,不再妻子之視線之內,離開。

「枕(まくら)も卷(ま)かず」,無法以愛妻之手腕為枕。

「櫻皮卷(かにはま)き」,「櫻皮(かには)」乃以蒲木為主之樹皮,貼合物體表面以防水。

「真楫貫(まかぢぬ)き」,真楫乃兩舷所有之梶之總稱。

「印南嬬(いなみつま)」,與509所詠稻日妻同。

「漕迴(こぎたむ)る」,「迴(たむ)」乃巡迴之意。

「隈(くま)も置(お)かず」,「隈(くま)」乃海岸線屈曲之處。「置(お)かず」為無所遺漏。便是身居岬角或島陰,無時不刻不思念家鄉。


0943 反歌三首 【承前。】

 玉藻苅 辛荷乃嶋爾 嶋迴為流 水烏二四毛有哉 家不念有六

 玉藻刈(たまもか)る 辛荷島(からにのしま)に 島迴(しまみ)する 鵜(う)にしもあれ哉(や) 家思(いへおも)はざらむ

 玉藻刈取兮 辛荷島間迴諸島 同迴群島間 若吾是為鵜鳥者 概可一免思鄉苦

山部赤人 0943

「島迴(しまみ)する」,此云鵜巡迴島之周邊以捕魚。

「鵜(う)にしもあれ哉(や)」,此句難解。估作若己身為捕魚之鳥。


0944 【承前,反歌第二。】

 嶋隱 吾榜來者 乏毳 倭邊上 真熊野之船

 島隱(しまがく)り 我(わ)が漕來(こぎく)れば 羨(とも)しかも 大和(やまと)へ上(のぼ)る 真熊野船(まくまののふね)

 泊船隱島陰 吾人划槳漕來者 見之令人羨 發向上京往大和 其真熊野之船矣

山部赤人 0944

「島隱(しまがく)り」,停泊島陰以避風浪。

「羨(とも)しかも」,羨慕。

大和(やまと)へ上(のぼ)る」,作者家居大和,今則反其道西向。遂與往大和之船錯身。

「真熊野船(まくまののふね)」,當時熊野再造船、航海技術已然卓越,多產具特色之機能、構造之良船。


0945 【承前,反歌第三。】

 風吹者 浪可將立跡 伺候爾 都太乃細江爾 浦隱居

 風吹(かぜふ)けば 波(なみ)か立(た)たむと 候(さもら)ひに 都太細江(つだのほそえ)に 浦隱居(うらがくりを)り

 勁風吹海上 心懸浪高海象險 為候風波止 泊船都太細江間 著居浦畔潛隱矣

山部赤人 0945

「候(さもら)ひに」,等待天候好轉,浪靜後而出航。

0946 過敏馬浦時,山部宿禰赤人作歌一首 【并短歌。】

 御食向 淡路乃嶋二 直向 三犬女乃浦能 奧部庭 深海松採 浦迴庭 名告藻苅 深見流乃 見卷欲跡 莫告藻之 己名惜三 間使裳 不遣而吾者 生友奈重二

 御食向(みけむか)ふ 淡路島(あはぢのしま)に 直向(ただむか)ふ 敏馬浦(みぬめのうら)の 沖邊(おきへ)には 深海松採(ふかみると)り 浦迴(うらみ)には 莫告藻刈(なのりそか)る 深海松(ふかみる)の 見(み)まく欲(ほし)けど 莫告藻(なのりそ)の 己(おの)が名惜(なをし)み 間使(まつかひ)も 遣(や)らずて我(あれ)は 生(い)けりとも無(な)し

 御食所向兮 淡路之穗狹別島 所與直向之 對面罔象敏馬浦 於其沖津處 潛身採集深海松 於其浦迴處 漬身刈取莫告藻 如其深海松 雖欲與君逢相見 卻猶莫告藻 吾惜己名恐蜚語 縱為間使者 吾懼流言未能遣 如此苟活心已滅

山部赤人 0946

「御食向(みけむか)ふ」,南淵、淡路、味生、城上等地名之枕詞。「御食(みけ)」乃貴人之食事。

深海松採(ふかみると)り」,海洋深處所生之海松。濃竸Сち堯な歧如松枝故名。

「莫告藻刈(なのりそか)る」,海藻名,與「莫告矣」同音。

間使(まつかひ)」,往來傳達消息之使人。

「生(い)けりとも無(な)し」,「無(な)し」原文「奈重二」者,取九九「二二為四(し)」而來。

0947 反歌一首 【承前。】

 為間乃海人之 鹽燒衣乃 奈禮名者香 一日母君乎 忘而將念

 須磨海人(すまのあま)の 鹽燒衣(しほやききぬ)の 慣(な)れなばか 一日(ひとひ)も君(きみ)を 忘(わす)れて思(おも)はむ

 須磨海人之 燒製堅鹽所著衣 著古慣肌身 吾憶故知如馴衣 未有一日忘君情

山部赤人 0947

 右,作歌年月未詳也。但以類故,載於此次。

須磨海人(すまのあま)の 鹽燒衣(しほやききぬ)の」,用以引出「慣(な)る」之序。須磨以製鹽聞名,鹽燒衣(しほやききぬ)為燒鹽時所著之作業服

「慣(な)れなばか」,「ばか」乃假定疑問條件。「慣(な)れ」,為慣著衣物,難以割捨,更喻人之交情。

「忘(わす)れて思(おも)はむ」,忘卻而不再想起。


0948 四年丁卯春正月,敕諸王、諸臣子等,散禁於授刀寮時,作歌一首 【并短歌。】

 真葛延 春日之山者 打靡 春去徃跡 山匕丹 霞田名引 高圓爾 鸎鳴沼 物部乃 八十友能壯者 折木四哭之 來繼比日 如此續 常丹有脊者 友名目而 遊物尾 馬名目而 徃益里乎 待難丹 吾為春乎 决卷毛 綾爾恐 言卷毛 湯湯敷有跡 豫 兼而知者 千鳥鳴 其佐保川丹 石二生 菅根取而 之努布草 解除而益乎 徃水丹 潔而益乎 天皇之 御命恐 百礒城之 大宮人之 玉桙之 道毛不出 戀比日

 真葛延(まくずは)ふ 春日山(かすがのやま)は 打靡(うちなび)く 春去行(はるさりゆ)くと 山峽(やまがひ)に 霞棚引(かすみたなび)く 高圓(たかまと)に 鶯鳴(うぐひすな)きぬ 文武百官(もののふ)の 八十伴男(やそとものを)は 雁(かり)が音(ね)の 來繼(きつ)ぐ此頃(このころ) 如此繼(かくつ)ぎて 常(つね)に有(あ)りせば 友並(ともな)めて 遊(あそ)ばむ物(もの)を 馬並(うまな)めて 行(ゆ)か益里(ましさと)を 待難(まちかて)に 我(あ)がせし春(はる)を 掛幕(かけまく)も 竒(あや)に恐(かしこ)く 言幕(いはまく)も 忌忌(ゆゆ)しく有(あ)らむと 豫(あらかじ)め 兼(かね)て知(し)りせば 千鳥鳴(ちどりな)く 其佐保川(そのさほがは)に 岩(いは)に生(お)ふる 菅根採(すがのねと)りて 偲草(しのふくさ) 祓(はら)へて益(まし)を 行水(ゆくみづ)に 禊(みそぎ)て益(まし)を 大君(おほきみ)の 命恐(みことかしこ)み 百敷(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)の 玉桙(たまほこ)の 道(みち)にも出(いで)ず 戀こふる此頃このころ

 真葛蔓伸延 寧樂奈良春日山 打靡隨風撓 此情此景告春臨 巍峨山峽間 春霞棚引掛峰間 高圓山之中 黃鶯出谷始鳴春 文武百官之 八十伴緒大丈夫 歸雁自南至 北歸鳴來繼此頃 如是相繼而 可以持續為常者 與友相並肩 去來遊興慶春暖 陣馬為行伍 巡行將去鄉里者 雖是引領盼 吾等難待春日來 僭述掛尊諱 忌懼誠惶復誠恐 冒言申斯事 此誠忌忌如履冰 若得早豫知 兼知未然如此者 千鳥爭鳴啼 於此佐保川之間 蔓生岩磐之 採彼菅根為偲草 執彼偲草而 祓除穢惡當益矣 身潛逝水間 禊祓垢離當益矣 稜威吾大君 散禁聖命誠惶恐 百敷宮闈間 高雅殿上大宮人 玉桙石柱兮 道路不得妄出矣 唯戀春意在此頃

佚名 0948

「散禁」,禁足、禁止外出。

「授刀寮」,授刀舍人寮之略。統轄帶刀警護天皇身邊舍人之司。

「真葛延(まくずは)ふ」,春日枕詞。晚春葛蔓延伸,初夏繁茂,故此。

「春去行(はるさりゆ)くと」,春日到來。と乃「と言って」之略。此云春霞、鶯鳴報春。

「山峽(やまがひ)に」,山稜線交差之處。

「雁(かり)が音(ね)の 來繼(きつ)ぐ此頃(このころ)」,避冬南去知鴈,相次北歸而來。

「常(つね)に有(あ)りせば」,「せば」乃與事實相反之假定。

「友並(ともな)めて」,與友人塋属賣鵝

「言幕(いはまく)も」,「言ふ」於此概有請願、表術不滿之異。

千鳥鳴(ちどりな)く」,佐保川枕詞

「菅根採(すがのねと)りて」,菅乃祓除時所持物之一,根乃虛字。

「偲草(しのふくさ)」,未詳,亦當為祓具。

「祓(はら)へて益(まし)を」,認罪祓除罪惡。

「大君(おほきみ)の 命恐(みことかしこ)み」,皇上之命令令人惶恐。


0949 反歌一首 【承前。】

 梅柳 過良久惜 佐保乃內爾 遊事乎 宮動動爾

 梅柳(うめやなぎ) 過(す)ぐらく惜(を)しみ 佐保內(さほのうち)に 遊(あそ)びし事(こと)を 宮(みや)も轟(とどろ)に

 梅柳時節短 惜其花時俄早過 佐保春日野 遊興打毬稍為樂 孰知宮中轟作響

佚名 0949

 右,神龜四年正月,數王子及諸臣子等,集於春日野而作打毬之樂。其日,忽天陰,雨雷電。此時,宮中無侍從及侍衛。敕行刑罰,皆散禁於授刀寮,而妄不得出道路。于時悒憤,即作斯歌。 作者未詳。

「佐保內(さほのうち)に」,佐保乃今日奈良西北郊處。案左注則在其東南打毬。

「宮(みや)も轟(とどろ)に」,宮內全體轟隆作響。一云忽天雨雷電,二云聖上敕罰。

0950 五年戊辰,幸于難波宮時作歌四首 【四首第一。】

 大王之 界賜跡 山守居 守云山爾 不入者不止

 大君(おほきみ)の 境賜(さかひたま)ふと 山守据(やまもりす)ゑ 守(も)ると云(い)ふ山(やま)に 入(い)らずは止(やま)じ

 縱為皇大君 賜境定堺据山守 警戒固森嚴 蕃人嚴守之此山 今日不得不入之

笠金村 0950

「境賜(さかひたま)ふ」,治定境界。

「山守据(やまもりす)ゑ」,配置山守。山守乃監視山林,不令人隨意入山伐木之警衛

「入(い)らずは止(やま)じ」,便是戒備森嚴之處,亦不得不入。

以下四首,概為決心追求人妻之曲。

0951 【承前,四首第二。】

 見渡者 近物可良 石隱 加我欲布珠乎 不取不巳

 見渡(みわた)せば 近物(ちかきもの)から 岩隱(いはがく)り 耀玉(かがよふたま)を 取(と)らずは止(やま)じ

 放眼望去者 其為近物之所以 縱為岩所隱 含光赫映耀玉者 吾人不得不取之

山部赤人 0951

「耀玉(かがよふたま)を」,水面搖盪而水底之美玉珠光搖曳之狀。深窗美人之比喻。

0952 【承前,四首第三。】

 韓衣 服楢乃里之 嶋待爾 玉乎師付牟 好人欲得食

 韓衣(からころも) 著奈良里(きならのさと)の 嬬松(つままつ)に 玉(たま)をし付(つ)けむ 良人(よきひと)もがも

 唐土韓衣之 著慣合身奈良里 妻待嬬松上 欲得良人付玉飾 不令孤芳寂自賞

笠金村 0952

「韓衣(からころも)」,大陸樣式之服飾。此為以「韓衣 著慣」引出奈良之序。

「嬬松(つままつ)」,此處嬬廣義指配偶,非關性別。「松」與「待」雙關。「嬬松」原文作「嶋松」,此依佐竹昭廣說改之。

「玉(たま)をし付(つ)けむ 良人(よきひと)もがも」,望有貴人飾玉,疆左輝。良人指優秀之貴人。

0953 【承前,四首第四。】

 竿壯鹿之 鳴奈流山乎 越將去 日谷八君 當不相將有

 小雄鹿(さをしか)の 鳴(な)くなる山(やま)を 越行(こえゆ)かむ 日(ひ)だにや君(きみ)が 當逢(はたあ)はざらむ

 小壯雄鹿之 發聲鳴啼之山矣 若有朝一日 能得越行彼山者 可否當逢會君面 

笠金村 0953

 右,笠朝臣金村之歌中出也。或云:「車持朝臣千年作之也。」

「小雄鹿(さをしか)の」,雄鹿。小為接頭語。本來雄露(しか)相對於雌鹿(めか)意指雄性,而後轉為一般呼稱,而有雄鹿(をしか)之詞。

「越行(こえゆ)かむ 日(ひ)だにや君(きみ)が」,作者為女性而越山之人為男性,相逢之主語為君。

「當逢(はたあ)はざらむ」,はた或書為、當為,中華俗語

0954 膳王歌一首

 朝波 海邊爾安左里為 暮去者 倭部越 鴈四乏母

 朝(あした)には 海邊(うみへ)に漁(あさ)りし 夕去(ゆふさ)れば 大和(やまと)へ越(こ)ゆる 雁(かり)し羨(とも)しも

 朝漁在海邊 夕暮飛翔越大和 雁兒甚自在 吾見其來去自如 不覺稱羨心嚮之

膳王 954

 右,作歌之年不審也。但以歌類,便載此次。

「漁(あさ)り」,人或鳥獸採集魚貝類

「雁(かり)し羨(とも)しも」,「羨(とも)し」乃稱羨之意。

本曲乃身居難波,思念大和之歌。時節概於秋冬之頃。左注雖云:「作歌之年不審」,然目錄書:「同幸之時,膳王歌一首。」

0955 大宰少貳石川朝臣足人歌一首

 刺竹之 大宮人乃 家跡住 佐保能山乎者 思哉毛君

 刺竹(さすたけ)の 大宮人(おほみやひと)の 家(いへ)と住(す)む 佐保山(さほのやま)をば 思(おも)ふやも君(きみ)

 刺竹根芽盛 百敷殿上大宮人 為家所住居 寧樂佐保山邊處 豈不懷哉吾君矣

石川足人 0955

「刺竹(さすたけ)の」,「宮」、「大宮」之枕詞植物根枝伸長茂盛之狀。

「家(いへ)と住(す)む」,為家而居。と乃として之意。

「思(おも)ふやも君(きみ)」,此吾君指大伴旅人

0956 帥大伴卿和歌一首 【承前。】

 八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曾念

 八隅治(やすみしし) 我(わ)が大君(おほきみ)の 食國(をすくに)は 大和(やまと)も此間(ここ)も 同(おな)じとそ思(おも)ふ

 八隅治天下 經綸恢弘吾大君 寓宇理食國 無論大和或此間 皆披皇澤同受化

大伴旅人 0956

「食國(をすくに)は」,食之本意,乃貴人飲食之敬語古代之配者受所領之貢而飲食,故延伸為治理之意。

大和(やまと)も此間(ここ)も」,無論大和或筑紫。

「同(おな)じとそ思(おも)ふ」,同有「おなじ」與「おやじ」二訓,今估作おなじ。

0957 冬十一月,大宰官人等,奉拜香椎廟訖,退歸之時,馬駐于香椎浦,各述作懷歌

   帥大伴卿歌一首 【第一。】

 去來兒等 香椎乃滷爾 白妙之 袖左倍所沾而 朝菜採手六

 去來子共(いざこども) 香椎潟(かしひのかた)に 白栲(しろたへ)の 袖(そで)さへ濡(ぬ)れて 朝菜摘(あさなつ)みてむ

 去來子等矣 來到筑紫香椎潟 白妙素織兮 襟袖濡濕不為意 身居潮間摘朝菜

大伴旅人 0957

「奉拜香椎廟」,天平寶字四年已降,每年十一月六日,大宰官人帥以下,恒例參拜香椎宮。此前雖非恒例,但或亦有此習。

「去來子共(いざこども)」,去來乃漢文俗語之用法,子共乃對年輕者或下僚親近者之呼稱。

「袖(そで)さへ濡(ぬ)れて」,熱衷於某事而未注意到袖為海水沾濡。

「朝菜摘(あさなつ)みてむ」,此菜為副食之海藻之類。北九州之「沖独活」乃以紅藻類為原料。


0958 大貳小野老朝臣歌一首 【承前,第二。】

 時風 應吹成奴 香椎滷 潮干汭爾 玉藻苅而名

 時風(ときつかぜ) 吹(ふ)くべく成(な)りぬ 香椎潟(かしひがた) 潮乾浦(しほひのうら)に 玉藻刈(たまもか)りてな

 觀夫天象者 時風將拂自海上 筑紫香椎潟 潮乾浦間兒等矣 惜今速刈玉藻來

小野老 0958

「時風(ときつかぜ)」,以一日為周期,定期吹拂之風。此文屬海風。筑紫之地海風自午前九時起吹,秒速五公尺。


0959 豐前守宇努首男人歌一首 【承前,第三。】

 徃還 常爾我見之 香椎滷 從明日後爾波 見緣母奈思

 徃還(ゆきかへ)り 常(つね)に我(わ)が見(み)し 香椎潟(かしひがた) 明日(あす)ゆ後(のち)には 見(み)む緣(よし)も無(な)し

 每逢往還時 吾所常見香椎潟 此情此景者 明日之後去此國 無緣復見徒傷感

宇努男人 0959

「徃還(ゆきかへ)り 常(つね)に我(わ)が見(み)し」,自豐前國府往大宰府,田川道為近。然經道津、夷守之路,驛家整備而多人利用。

「見(み)む緣(よし)も無(な)し」,此云作者宇努男人將歸任中央,而來大宰府告別乎。

0960 帥大伴卿遙思芳野離宮作歌一首

 隼人乃 湍門乃磐母 年魚走 芳野之瀧爾 尚不及家里

 隼人(はやひと)の 戶巖(せとのいはほ)も 鮎走(あゆはし)る 吉野瀧(よしののたき)に 尚及(なほし)かずけり

 薩摩隼人之 戶巨巖雖勝絕 然較鮎躍兮 吉野宮瀧湍急流 依舊尚不及之矣

大伴旅人 0960

「鮎走(あゆはし)る」,鮎於初夏,自宮瀧之淵往上遊夏身躍身溯急湍之狀。

「尚及(なほし)かずけり」,尚不及之。

0961 帥大伴卿宿次田溫泉,聞鶴喧作歌一首

 湯原爾 鳴蘆多頭者 如吾 妹爾戀哉 時不定鳴

 湯原(ゆのはら)に 鳴(な)く葦鶴(あしたづ)は 我(あ)が如(ごと)く 妹(いも)に戀(こ)ふれや 時判(ときわか)ず鳴(な)く

 次田溫泉原 高啼喧囂葦鶴者 其心蓋同吾 戀妻之情不能抑 啼血鳴泣不辨時

大伴旅人 0961

「葦鶴(あしたづ)」,與鶴同,以鶴多居葦邊故名。

「妹(いも)に戀(こ)ふれや」,疑問條件法。

「時判(ときわか)ず鳴(な)く」,「時判(ときわか)ず」可作不分時節,或持續無所中斷解。

旅人思亡妻歌,見載於『萬葉集』卷三446~453、卷八1473等。

0962 天平二年庚午,敕遣擢駿馬使大伴道足宿禰時歌一首

 奧山之 磐爾蘿生 恐毛 問賜鴨 念不堪國

 奧山(おくやま)の 岩(いは)に苔生(こけむ)し 恐(かしこ)くも 問賜(とひたま)ふかも 思堪無(おもひあへな)くに

 深山幽境間 磐上蘿生發神氣 敬畏誠惶恐 未料汝君命作歌 唯得應聲訟此詠

葛井廣成 0962

 右,敕使大伴道足宿禰饗于帥家。此日會集眾諸,相誘驛使葛井連廣成,言須作歌詞。登時廣成應聲,即吟此歌。

「擢駿馬使」,為選拔優秀駿馬獻上所派遣之大使。然而當時九洲並無公設牧場,隨行葛井廣成諳新羅甚詳,或為輸入泊來馬。『續日本紀』有新羅獻馬之紀錄。

「奧山(おくやま)の 岩(いは)に苔生(こけむ)し」,引出「恐(かしこ)くも」之序。古代將靈地奇岩、巨石神聖視之信仰形態。生苔更顯古意、神氣。

「問賜(とひたま)ふかも」,問於此表要求。即左注「言須作歌詞」之命。

「思堪無(おもひあへな)くに」,始料未及、無由抗命。此表忽然受命作歌,困惑之情。

0963 冬十一月,大伴坂上郎女,發帥家上道,超筑前國宗形郡名兒山之時作歌一首

 大汝 小彥名能 神社者 名著始雞目 名耳乎 名兒山跡負而 吾戀之 干重之一重裳 奈具佐米七國

 大汝(おほなむぢ) 少彥名(すくなびこな)の 神(かみ)こそば 名付初(なづけそめ)けめ 名(な)のみを 名兒山(なごやま)と負(お)ひて 我(あ)が戀(こひ)の 千重一重(ちへのひとへ)も 慰(なぐさ)め無(な)くに

 八千矛大神 大己貴命大國主 其與少彥名 開拓之神初命名 名負名兒山 徒有平善彼山名 然吾愁戀慕 縱其千重之一重 所憂全不得其慰

坂上郎女 0963

「大汝(おほなむぢ)」,大國主之別名。另有大穴牟遅神大己貴命、大汝命、国作大己貴命八千矛神、葦原醜男、伊和大神、所造天下大神杵築大神等別稱。和歌常與少彥名神並作物事起源遠古之比喻。此曰名兒山名甚古,有其由來。

「名付初(なづけそめ)けめ」,「けめ」表傳言。

「名兒山(なごやま)と負(お)ひて」,古語「平善」訓「まぐし」。見『丹後風土記逸文奈具社條。


0964 同坂上郎女向京海路,見濱貝作歌一首 【承前。】

 吾背子爾 戀者苦 暇有者 拾而將去 戀忘貝

 我(わ)が背子(せこ)に 戀(こ)ふれば苦(くる)し 暇有(いとまあ)らば 拾(ひり)ひて行(ゆ)かむ 戀忘貝(こひわすれがひ)

 每憶吾兄子 苦於相思愁斷腸 若有閑暇時 不若出行至濱邊 拾來解憂忘戀貝

坂上郎女 0964

「我(わ)が背子(せこ)に」,男性伴侶,此處不明所指者為誰。或唯觸戀忘貝而虛擬感發。

「戀忘貝(こひわすれがひ)」,古傳可解戀苦,令人忘卻之咒物。死貝雙殼之單片。或云如鮑等單殼。1147有類歌。

0965 冬十二月大宰帥大伴卿上京時,娘子作歌二首

 凡有者 左毛右毛將為乎 恐跡 振痛袖乎 忍而有香聞

 凡為(おほな)らば 左右(かもか)も為(せ)むを 恐(かしこ)みと 振(ふ)りたき袖(そで)を 忍(しの)びてあるかも

 若為繁俗者 左右云云總將為 誠惶復誠恐 汝命高貴負名望 雖欲揮袖仍隱忍

兒島娘子 0965

「凡為(おほな)らば」,若汝非為身分高貴者。「凡(おほ)」乃普通之意。

「左右(かもか)も為(せ)むを」,相疊遠稱指示之「か」,無論如和總有辦法之意。

「振(ふ)りたき袖(そで)を」,揮袖乃愛情表現。願望助動詞「たし」於此為初出。

0966 【承前。】

 倭道者 雲隱有 雖然 余振袖乎 無禮登母布奈

 大和道(やまとぢ)は 雲隱(くもがく)りたり 然(しか)れども 我(あ)が振(ふ)る袖(そで)を 無禮(なめし)と思(も)ふ勿(な)

 上京大和道 路途曠遠隱雲後 雖隱不得見 吾傷易別故揮袖 還願勿思其無禮

兒島娘子 0966

 右,大宰帥大伴卿,兼任大納言向京上道。此日,馬駐水城,顧望府家。于時,送卿府吏之中,有遊行女婦。其字曰兒嶋也。於是,娘子傷此易別,嘆彼難會,拭涕自吟振袖之歌。

「然(しか)れども」,此云雖然大和路為雲遮蔽,觀之不見,然而自己仍揮袖惜別。而此舉或有失禮。

「無禮(なめし)」,不辨貴賤、禮數。身分低者對高者言行無禮。

「府家」,大宰府廳舍。

「遊行女婦」,即遊女。『和名抄』云:「遊行女兒,うかれめ,一云あそび。」

「傷此易別,嘆彼難會」,『遊仙窟』云:「所恨別易會難,去留乖隔。」http://open-lit.com/listbook.php?bid=10737&cid=1&gbid=217

0967 大納言大伴卿和歌二首 【承前。】

 日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香裳

 大和道(やまとぢ)の 吉備兒島(きびのこしま)を 過(す)ぎて行(ゆ)かば 筑紫兒島(つくしのこしま) 思(おも)ほえむかも

 上京大和道 行經吉備兒島時 觸景生慕情 蓋將以其同名故 心念筑紫兒島矣

大伴旅人 0967

「筑紫兒島(つくしのこしま)」,此云遊行女婦兒嶋。

「思(おも)ほえむかも」,通過吉備兒島(地名)時,因同音而憶起筑紫兒島(人名)。

0968 【承前。】

 大夫跡 念在吾哉 水莖之 水城之上爾 泣將拭

 大夫(ますらを)と 思(おも)へる我(あれ)や 水莖(みづくき)の 水城上(みづきのうへ)に 淚拭(なみたのご)はむ

 自詡大丈夫 吾意有淚不輕彈 然至水城上 憂情不覺忽泉湧 潰堤啜泣拭淚流

大伴旅人 0968

大夫(ますらを)と 思(おも)へる我(あれ)や」,自嘲己身行為不似大丈夫

「水莖(みづくき)の」,水城、岡、丘之枕詞。此概以水城之大堤擬丘而言。而「水莖(みづくき)」、「水城(みづき)」類音亦有關連。

「淚拭(なみたのご)はむ」,「拭(のご)ふ」乃「拭(ぬぐ)ふ」之古形。


0969 三年辛未,大納言大伴卿在寧樂家,思故鄉歌二首

 須臾 去而見壯鹿 神名火乃 淵者淺而 麁鷙畧良武

 須臾(しまし)くも 行(ゆ)きて見(み)てしか 神奈備(かむなび)の 淵(ふち)は淺(あ)せにて (せ)にか成(な)るらむ

 須臾片刻間 仍欲前往觀見之 飛鳥神奈備 淵者淺而或成鵝”埣慮什7頁_

大伴旅人 0969

「三年辛未,大納言大伴卿在寧樂家」,此年七月廿五日,大伴旅人薨,年六十七。

「故鄉」,旅人生於飛鳥舊京,三十歲後方遷寧樂(奈良)。

「行(ゆ)きて見(み)てしか」,「てしか」乃願望終助詞。

神奈備(かむなび)の」,飛鳥神奈備山。然其實指何山仍有諸說。惑云雷丘,則神奈備淵蓋飛鳥川流經雷丘南半上山與甘橿丘間之淵乎。

「淺(あ)せにて」,あす乃變淺之下二段活用形,に為完了助動詞ぬ之連用形


0970 【承前。】

 指進乃 粟栖乃小野之 芽花 將落時爾之 行而手向六

 指進(訓未詳)の 栗栖小野(くるすのをの)の 萩花(はぎのはな) 散(ち)らむ時(とき)にし 行(ゆ)きて手向(たむ)けむ

 刺墨指進兮 栗栖小野萩花開 時至花散時 當往其處獻貢物 手向祭神求安平

大伴旅人 0970

「指進の」,訓未詳,有さしすきの、さしすすの、さしすみの、さすすみの等說。栗栖之枕詞http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33221683.html

「手向(たむ)けむ」,對守護國土之神供獻幣物,多指旅行之時向道神、山神祈求平安而獻上之祭品。


0971 四年壬申,藤原宇合卿遣西海道節度使之時,高橋連蟲麻呂作歌一首 【并短歌。】

 白雲乃 龍田山乃 露霜爾 色附時丹 打超而 客行公者 五百隔山 伊去割見 賊守 筑紫爾至 山乃曾伎 野之衣寸見世常 伴部乎 班遣之 山彥乃 將應極 谷潛乃 狹渡極 國方乎 見之賜而 冬木成 春去行者 飛鳥乃 早御來 龍田道之 岳邊乃路爾 丹管土乃 將薫時能 櫻花 將開時爾 山多頭能 迎參出六 公之來益者

 白雲(しらくも)の 龍田山(たつたのやま)の 露霜(つゆしも)に 色付(いろづ)く時(とき)に 打越(うちこ)えて 旅行(たびゆ)く君(きみ)は 五百重山(いほへやま) い行裂(ゆきさ)くみ 敵守(あたまも)る 筑紫(つくし)に至(いた)り 山退(やまのそ)き 野退見(ののそきみ)よと 伴部(とものへ)を 班遣(あかちつか)はし 山彥(やまびこ)の 應(こた)へむ極(きは)み 谷蟆(たにぐく)の 小渡(さわた)る極(きは)み 國狀(くにかた)を 見賜(めしたま)ひて 冬籠(ふゆこも)り 春去行(はるさりゆ)かば 飛鳥(とぶとり)の 早來坐(はやくきま)さね 龍田道(たつたぢ)の 岡邊道(をかへのみち)に 丹躑躅(につつじ)の 匂(にほ)はむ時(とき)の 櫻花(さくらばな) 咲(さき)なむ時(とき)に 山庭常(やまたづ)の 迎參出(むかへまゐで)む 君(きみ)が來坐(きま)さば

 白雲層湧立 寧樂生駒龍田山 露霜降置而 白妝色染時節間 翻山越其嶺 旅行而去汝公者 群山五百重 押排蹋破徑前行 至於禦敵要 守敵門戶筑紫國 鎮守山之端 警蹕嚴護野之極 派遣伴謢等 處處配屬置兵士 木靈山彥之 迴響應聲之所及 谷蟆蟇蛙之 小渡鑽動之所及 照覽國之狀 鎮護國家治海西 籠冬寒已過 時當春日臨來者 願如飛鳥之 速速歸鄉早還來 寧樂龍田道 岡邊道上春意濃 時值丹躑躅 妍花綻放匂映色 時值櫻之華 滿咲片野染山間 對生山庭常 吾將參來出迎之 只消汝君歸來矣

高橋蟲麻呂 0971

西海道節度使」,節度使乃仿唐制之令外官員。為維持國內治安與嚇阻新羅而擴張軍備,派遣四道節度使西海道九州之九國三島,並當於文中筑紫。

「白雲(しらくも)の」,以白雲湧出(=立つ)而為「龍田(たつた)」之枕詞

「露霜(つゆしも)」,露之雅語。

「い行裂(ゆきさ)く」,推開草木、岩石而前進。

「敵守(あたまも)る」,監視、守禦外虜。

「山退(やまのそ)き 野退見(ののそきみ)よと」,「退(そ)き」乃遠離之意。山野之極限、邊界。

「伴部(とものへ)」配下官人。

「山彥(やまびこ)の 應(こた)へむ極(きは)み」,山彥乃回音之擬人化。山彥應聲之所及,表地上之盡頭。

「國狀(くにかた)を」,國之形勢。意即西海道之實態。

「冬籠(ふゆこも)り」,春之枕詞

「早來坐(はやくきま)さね」,「ね」乃希求終助詞。

「丹躑躅(につつじ)の 匂(にほ)はむ時(とき)の」,「匂(にほ)はむ」表花色麗發散。

「山庭常(やまたづ)の」,以山庭常枝葉對生,故為「迎」之枕詞


0972 反歌一首 【承前。】

 千萬乃 軍奈利友 言舉不為 取而可來 男常曾念

 千萬(ちよろづ)の 軍也(いくさなり)とも 言舉(ことあ)げせず 取(と)りて來(き)ぬべき 士(をのこ)とそ思(おも)ふ

 縱令千萬卒 敵軍臨陣勢衝天 吾度彼為人 不輒舉言討敵來 覆滅賊師壯士矣

高橋蟲麻呂 0972

 右,檢補任文,八月十七日任東山山陰、西海節度使

「軍也(いくさ)」,士兵。

「言舉(ことあ)げ」,非必要地高聲宣言。古因言靈信仰,以為不吉。

「補任」,按令制任命官職,或予以位階

0973 天皇(聖武)賜酒節度使卿等御歌一首 【并短歌。】

 食國 遠乃御朝庭爾 汝等之 如是退去者 平久 吾者將遊 手抱而 我者將御在 天皇朕 宇頭乃御手以 搔撫曾 禰宜賜 打撫曾 禰宜賜 將還來日 相飲酒曾 此豐御酒者

 食國(をすくに)の 遠朝廷(とほのみかど)に 汝等(いましら)が 如是罷(かくまか)りなば 平(たひら)けく 我(われ)は遊(あそ)ばむ 手抱(たむだ)きて 我(われ)は坐(いま)さむ 天皇朕(すめらわれ) 珍御手以(うづのみても)ち 搔撫(かきな)でそ 犒賜(ねぎたま)ふ 打撫(うちな)でそ 犒賜(ねぎたま)ふ 歸來(かへりこ)む日(ひ) 相飲(あひの)まむ酒(さけ)そ 此豐御酒(このとよみき)は

 朕所治食國 四道諸國遠朝廷 汝等節度使 如是退去出向者 方寸可安平 吾得出遊無所憂 抱手組腕而 怡然安居無所畏 天皇如朕者 以珍手慈吾股肱 搔撫卿等髮 犒賜慰勞之 按撫卿等首 犒賜慰勞之 待卿歸來復命日 還願相飲同酒酣 飲此杜康豐御酒

聖武天皇 0973

「食國(をすくに)の 遠朝廷(とほのみかど)に」,此云派遣至各方之官人。

「汝等(いましら)」,此云藤原房前、宇合兄弟,以及多治比縣守等三人。

「手抱(たむだ)きて」,組腕,意近於『尚書』「垂拱治天下。」前文「我(われ)は遊(あそ)ばむ」有「無為而治」之意。

「我(われ)は坐(いま)さむ」,自敬表現派遣高官時禮儀歌採此形者多有。

「珍御手以(うづのみても)ち」,「珍(うづ)」乃高貴之意,此亦自敬表現

「犒賜(ねぎたま)ふ」,慰勞。

0974 反歌一首 【承前。】

 大夫之 去跡云道曾 凡可爾 念而行勿 大夫之伴

 大夫(ますらを)の 行(ゆ)くと云(い)ふ道(みち)そ 凡(おほ)ろかに 思(おも)ひて行(ゆ)く勿(な) 大夫(ますらを)の伴(とも)

 此乃勇壯士 益荒男所行之道 卿等吾股肱 莫以凡念輙行去 卿等壯士伴男矣

聖武天皇 0974

 右御歌者,或云:「太上天皇(元正)御製也。」

「凡(おほ)ろかに」,等痢∨淆、一般。


0975 中納言安倍廣庭卿歌一首

 如是為管 在久乎好叙 靈剋 短命乎 長欲為流

 如是(かく)しつつ 在(あ)らくを良(よ)みぞ 靈剋(たまきは)る 短命(みじかきいのち)を 長(なが)く欲(ほ)りする

 正因如是在 人生於世有此善 靈剋魂極矣 石火光中寄此生 仍願此命能長久

安倍廣庭 0975

「如是(かく)しつつ」,按其文脈,不詳如是所指為何。或述飲宴之歡,或云恬適之樂。


0976 五年癸酉,超草香山時,神社忌寸老麻呂作歌二首

 難波方 潮干乃奈凝 委曲見 在家妹之 待將問多米

 難波潟(なにはがた) 潮乾(しほ)ひの餘波(なごり) 良(よ)く見(み)てむ 家(いへ)なる妹(いも)が 待問(まちと)はむ為(ため)

 押照難波潟 乾潮遠淺留餘波 宜祥觀此景 何以如是翫委曲 妻待居家將問之

神社老麻呂 0976

難波潟(なにはがた) 潮乾(しほ)ひの餘波(なごり)」,此云退潮之實,遠方淺麈光景

「待問(まちと)はむ為(ため)」,「為」乃先行替妻子之問作準備。


0977 【承前。】

 直超乃 此徑爾弖師 押照哉 難波乃海跡 名附家良思蒙

 直越(ただこえ)の 此道(このみち)にてし 押照(おして)るや 難波海(なにはのうみ)と 名付(なづ)けけらしも

 涉嶮直越山 步行此道回首時 顧見光海景 人云日光押照兮 難波海名有以也

神社老麻呂 0977

「直越(ただこえ)の 此道(このみち)」,直線越過山嶺之道。此云越過生駒山連結平城京難波之路,雖險阻難行,然路程較遠迴為近。

「押照(おして)るや」,難波枕詞。作者於山路反顧難波俯瞰難波之海反射日光之景,心思此概枕詞之由來,故云。

難波海(なにはのうみ)」,今大阪灣。

0978 山上臣憶良沈痾之時歌一首

 士也母 空應有 萬代爾 語續可 名者不立之而

 士(をのこ)やも 空(むな)しくあるべき 萬代(よろづよ)に 語繼(かたりつ)ぐべき 名(な)は立(た)てずして

 身為大丈夫 豈當徒然殞命哉 悵然嘆空虛 馬齒徒長無事成 未得留名傳千古

山上憶良 0978

 右一首,山上憶良臣沈痾之時,藤原朝臣八束使河邊朝臣東人,令問所疾之狀。於是,憶良臣報語已畢。有須,拭涕悲嘆,口吟此歌。

「沈痾」,重病。

「士(をのこ)やも 空(むな)しくあるべき」,身為男子雖欲揚名立世,然不得志。

「名(な)は立(た)てずして」,名乃名望、名聲。漢魏六朝以來,立名乃男子大望之一。

0979 大伴坂上郎女與姪家持從佐保還歸西宅歌一首

 吾背子我 著衣薄 佐保風者 疾莫吹 及家左右

 我(わ)が背子(せこ)が 著(け)る衣薄(きぬうす)し 佐保風(さほかぜ)は 疾(いた)く勿吹(なふ)きそ 家(いへ)に至(いた)る迄(まで)

 親親吾兄子 所著衣薄難禦寒 寧樂佐保風 還願慈悲勿疾吹 直至良人返家時

坂上郎女 0979

「我(わ)が背子(せこ)が」,此云大伴家持,時年十六。坂上郎女欲使加持與其女大孃結婚

「著(け)る衣薄(きぬうす)し」,此除表面上之意,或蘊含大伴旅人薨後,家持頓失後盾而言。

「佐保風(さほかぜ)」,大伴邸所在之佐保之地所吹之風。


0980 安倍朝臣蟲麻呂月歌一首

 雨隱 三笠乃山乎 高御香裳 月乃不出來 夜者更降管

 雨隱(あまごも)る 三笠山(みかさのやま)を 高(たか)みかも 月(つき)の出來(いでこ)ぬ 夜(よ)は更(ふ)けにつつ

 遮雨避雨濡 御笠之山三笠山 以其山高嶮 阻蔽太陰不得見 月未出兮夜已深

安倍蟲麻呂 0980

「雨隱(あまごも)る」,「三笠山(みかさのやま)」之枕詞。降雨之際,以笠避雨,故云。

三笠山(みかさのやま)を 高(たか)みかも」,疑問條件法。蓋是因為三笠山高之故,明月遲遲不出。

「夜(よ)は更(ふ)けにつつ」,夜色漸深,而月不露面,令人困擾。

0981 大伴坂上郎女月歌三首 【承前。郎女三首第一。】

 獵高乃 高圓山乎 高彌鴨 出來月乃 遲將光

 獵高(かりたか)の 高圓山(たかまとやま)を 高(たか)みかも 出來(いでく)る月(つき)の 遲(おそ)く照(て)るらむ

 寧樂獵高之 高圓山勢峻嶮故 吾居春日里 天暗之後不見光 明月遲出晚照臨

坂上郎女 0981

「獵高(かりたか)」,奈良南高圓山附近。本指高圓山西麓鹿野園一帶,後多用作高圓山之枕詞

「高圓山(たかまとやま)を 高(たか)みかも」,構文同980曲。大伴坂上郎女別宅在高圓山西北春日里。又坂上郎女、安倍蟲麻呂乃從兄妹。


0982 【承前。郎女三首第二。】

 烏玉乃 夜霧立而 不清 照有月夜乃 見者悲沙

 烏玉(ぬばたま)の 夜霧(よぎり)の立(た)ちて 鬱悒(おほほ)しく 照(て)れる月夜(つくよ)の 見(み)れば悲(かな)しさ

 漆遽╋妄臓〔詭互侈≧並虛 朦朧且鬱悒 曖曖含光朧夜月 觀之悲更從衷來

坂上郎女 0982

「鬱悒(おほほ)しく」,迷濛不清之狀,亦指心情鬱悶。

「見(み)れば悲(かな)しさ」,此云觸景生情,見朧月夜而生相思之情。


0983 【承前。郎女三首第三。】

 山葉 左佐良榎壯子 天原 門度光 見良久之好藻

 山端(やまのは)の 細愛壯士(ささらえをとこ) 天原(あまのはら) 門渡(とわた)る光(ひか)り 見(み)らくし良(よ)しも

 山端稜線上 細愛壯士明月矣 門渡高天原 輝耀照臨光天下 能見此景誠善矣

坂上郎女 0983

 右一首歌,或云:「月別名曰細愛(佐散良衣)壯士也。緣此辭作此歌。」

「山端(やまのは)の」,山稜線。

「細愛壯士(ささらえをとこ)」,月之別名,蓋指上弦月。『日本書紀』紀體紀和歌有「細(ささら)の御帶の」云云。http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/kikirouei/krr02.htm#17神代紀「可愛」訓え字。

「門渡(とわた)る」,本意渡過戶、川戶,此云埀虛空。

0984 豐前國娘子月歌一首 【娘子字曰大宅,姓氏未詳也。承前。娘子歌。】

 雲隱 去方乎無跡 吾戀 月哉君之 欲見為流

 雲隱(くもがく)り 行方(ゆくへ)を無(な)みと 我(あ)が戀(こ)ふる 月(つき)をや君(きみ)が 見(み)まく欲(ほ)りする

 浮雲能蔽月 遁隱不知其行蹤 慨然有所思 吾之所戀明月者 君亦欲見其耀耶

豐前國娘子 0984

「行方(ゆくへ)を無(な)みと」,月為雲所隱蔽,不知在何方。

本曲不知應和孰人之歌,似有寓意但不詳委曲。

0985 湯原王月歌二首 【承前。湯原王二首第一。】

 天爾座 月讀壯子 幣者將為 今夜乃長者 五百夜繼許

 天(あめ)に坐(ま)す 月讀壯士(つくよみをとこ) 賂(まひ)は為(せ)む 今夜長(こよひのなが)さ 五百夜繼(いほよつ)ぎこそ

 高作天原上 月讀壯士明月矣 吾將獻賂故 還願得令此夜長 猶如五百夜所繼

湯原王 0985

「月讀壯士(つくよみをとこ)」,月之別名。除月讀外亦稱月弓尊、月夜見尊

「五百夜繼(いほよつ)ぎこそ」,こそ乃希求終助詞。

0986 【承前。湯原王二首第二。】

 愛也思 不遠里乃 君來跡 大能備爾鴨 月之照有

 愛(は)しきやし 間近里(まちかきさと)の 君來(きみこ)むと 大伸(おほの)びにかも 月照(つきのて)りたる

 愛也令懷念 不遠之里所居君 雖言將來者 所期之日久延宕 明月歷歷照分明

湯原王 0986

「愛(は)しきやし」,令人懷念、愛慕者。

「君來(きみこ)むと」,此君指男性友人。

「大伸(おほの)びにかも」,未詳,蓋時期延宕之謂。

0987 藤原八束朝臣月歌一首 【承前。藤原八束歌。】

 待難爾 余為月者 妹之著 三笠山爾 隱而有來

 待難(まちかて)に 我(あ)がする月(つき)は 妹(いも)が著(き)る 三笠山(みかさのやま)に 隱(こも)りてありけり

 時久誠難待 吾之苦等遲出月 妹妻所著兮 御笠之嶺三笠山 復隱之兮更不見

藤原八束 0987

「待難(まちかて)に 我(あ)がする月(つき)は」,己所思念汲汲欲見,難以等代之月。

「妹(いも)が著(き)る」,三笠山枕詞。著(き)乃穿戴之意。

0988 市原王宴禱父安貴王歌一首

 春草者 後波落易 巖成 常磐爾座 貴吾君

 春草(はるくさ)は 後(のち)は移(うつ)ろふ 巖成(いはほな)す 常磐(ときは)に座(いま)せ 貴(たふと)き我(あ)が君(きみ)

 春草不久長 後易轉俄移落去 願君如巨巖 常磐不動亙古今 貴也英明吾君矣

市原王 0988

「春草(はるくさ)は」,『萬葉集』239云:「春草の 彌珍しき 我が大君哉」,蓋有人詠歌類此。

常磐(ときは)に」,永恆不變。

「貴(たふと)き我(あ)が君(きみ)」,此君指安貴王。

0989 湯原王打酒歌一首

 燒刀之 加度打放 大夫之 禱豐御酒爾 吾醉爾家里

 燒太刀(やきたち)の 鎬打放(かどうちはな)ち 大夫(ますらを)の 壽(ほ)く豐御酒(とよみき)に 我醉(われゑ)ひにけり

 千錘百鍊兮 燒大刀之鎬打放 壯士益荒男 情熱所祝豐御酒 吾飲酣兮醉此身

湯原王 0989

「打酒」,酌酒。

「燒太刀(やきたち)の」,以火鍛造,千錘百煉之刀。

「鎬打放(かどうちはな)ち」,未詳,但與打酒雙關。

大夫(ますらを)の 壽(ほ)く豐御酒(とよみき)に」,壯士蓋指主宴之市原王。「壽(ほ)く」乃祝人幸福而吟詠賀詞。

0990 紀朝臣鹿人跡見茂岡之松樹歌一首

 茂岡爾 神佐備立而 榮有 千代松樹乃 歲之不知久

 茂岡(しげをか)に 神(かむ)さび立(た)ちて 榮(さか)えたる 千代松木(ちよまつのき)の 年(とし)の知(し)ら無(な)く

 跡見茂岡間 稜威聳立露古色 繁茂欣向榮 千代松木不知歲 悠久長待幾星霜

紀鹿人 0990

「神(かむ)さび立(た)ちて」,久經年月,蘊含古色,如有神氣。

千代松木(ちよまつのき)の」,千年松木,亦有等待千年之意含。

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2016-07-18-月

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万葉集試訳

0923 山部宿禰赤人作歌二首 【并短歌。】

 八隅知之 和期大王乃 高知為 吉野宮者 立名附 青垣隱 河次乃 清河內曾 春部者 花咲乎遠里 秋部者 霧立渡 其山之 彌益益爾 此河之 絕事無 百石木能 大宮人者 常將通

 八隅治(やすみし)し 我(わ)ご大君(おほきみ)の 高知(たかし)らす 吉野宮(よしののみや)は 疊付(たたなづ)く 青垣隱(あをかきごも)り 川並(かはなみ)の 清河內(きよきかふち)そ 春邊(はるへ)には 花咲撓(はなさきをを)り 秋邊(あきへ)には 霧立渡(きりたちわた)る 其山(そのやま)の 彌益益(いやますます)に 此川(このかは)の 絕(た)ゆる事無(ことな)く 百敷(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)は 常(つね)に通(かよ)はむ

 八隅治天下 經綸恢弘我大君 營殿建高聳 所造瀧上吉野宮 層層疊環繞 群山青垣圍隱矣 川流隨河道 水秀清邁內矣 時值佐保春 百花爭咲隨風撓 時至龍田秋 雲霧層湧起立渡 猶彼群山之 連峰益益彌更發 猶彼川河之 逝水不絕亙古今 百敷宮闈間 高雅殿上大宮人 願得常通永侍奉

山部赤人 0923

高知(たかし)らす」,營設宮殿高大聳立。

「疊付(たたなづ)く」,重合。

「青垣隱(あをかきごも)り」,猶如受青垣般之群山所圍繞。

花咲撓(はなさきをを)り」,「撓(をを)り」乃植物繁茂欣榮之狀。

0924 反歌二首 【承前,一首反歌第一。】

 三吉野乃 象山際乃 木末爾波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞

 御吉野(みよしの)の 象山際(きさやまのま)の 木末(こぬれ)には 幾許(ここだ)も騷(さわ)く 鳥聲(とりのこゑ)かも

 芳野吉野 象山之際交谷間 木末樹梢上 爭鳴起落騷幾許 鳥聲繞梁音不絕

山部赤人 0924

「象山際(きさやまのま)の」,象山位於宮瀧南方。象山之東有三船山,其間夾喜佐古。際乃峽谷,古本『玉篇』云:「際,交會之間也。」

0925 【承前,一首反歌第二。】

 烏玉之 夜之深去者 久木生留 清河原爾 知鳥數鳴

 烏玉(ぬばたま)の 夜更去(よのふけゆ)けば 久木生(ひさぎお)ふる 清川原(きよきかはら)に 千鳥數鳴(ちどりしばな)く

 漆遽╋妄臓^婆觜洪種貎乱弌ゝ很攴衞仞検\〔誓串川原間 千鳥數鳴聲起落

山部赤人 0925

「久木(ひさぎ)」,未詳,按『萬葉集』1863曲,蓋為春花之木。正倉院文書有「久木紙」、「比佐宜染」,可知其得為染料。


0926 【承前長歌第二。】

 安見知之 和期大王波 見吉野乃 飽津之小野笶 野上者 跡見居置而 御山者 射目立渡 朝獵爾 十六履起之 夕狩爾 十里蹋立 馬並而 御獵曾立為 春之茂野爾

 八隅治(やすみし)し 我(わ)ご大君(おほきみ)は 御吉野(みよしの)の 秋津小野(あきづのをの)の 野上(ののうへ)には 跡見据置(とみすゑお)きて 御山(みやま)には 射目立(いめた)て渡(わた)し 朝狩(あさがり)に 鹿豬踏起(ししふみおこ)し 夕狩(ゆふがり)に 鳥踏立(とりふみた)て 馬並(うまなめ)て 御狩(みかり)そ立(た)たす 春茂野(はるのしげのに)

 八隅治天下 經綸恢弘我大君 芳野吉野 蜻蛉秋津小野之 野上草原間 据置配屬跡見人 御山丘陵上 立渡射目設一面 朝獵晨狩時 蹋起豬鹿驚獸醒 夕獵暮狩時 踏立禽鳥振羽搏 並馬為陣伍 發向遊獵為巡狩 在此春日野間

山部赤人 0926

「跡見(とみ)」,授獵之際,見豬、鹿足跡,推測獵物所在方位之人。

「射目(いめ)」,獵人接近獵物,隱身射箭之遮蔽物。

「鹿豬踏起(ししふみおこ)し」,蹋地驚起鹿豬。鹿豬於此泛指獸類。

「鳥踏立(とりふみた)て」,蹋入草藪,驚起藏身草叢之鳥。

「御狩(みかり)そ立(た)たす」,立字於此為舉行之意,主語乃聖武帝。


0927 反歌一首 【承前,二首反歌。】

 足引之 山毛野毛 御獦人 得物矢手挾 散動而有所見

 足引(あしひき)の 山(やま)にも野(の)にも 御狩人(みかりひと) 獵矢手挾(さつやたばさ)み 騷(さわ)きてあり見(み)ゆ

 足曳勢險峻 高山之間平野間 遊獦御狩人 手挾獵矢持幸弓 驅馳散動可眼見

山部赤人 0927

 右,不審先後。但以便故,載於此次。

「獵矢(さつや)」,授獵用矢。さつ語源乃幸(さち)。

「騷(さわ)きてあり見(み)ゆ」,「騷(さわ)く」包含音響與舉動。

0928 冬十月,幸于難波宮時,笠朝臣金村作歌一首 【并短歌。】

 忍照 難波乃國者 葦垣乃 古鄉跡 人皆之 念息而 都禮母無 有之間爾 續麻成 長柄之宮爾 真木柱 太高敷而 食國乎 治賜者 奧鳥 味經乃原爾 物部乃 八十伴雄者 廬為而 都成有 旅者安禮十方

 押照(おして)る 難波國(なにはのくに)は 葦垣(あしかき)の 古(ふ)りにし里(さと)と 人皆(ひとみな)の 思休(おもひやす)みて 由緣(つれ)も無(な)く 在(あり)し間(あひだ)に 績麻成(うみをな)す 長柄宮(ながらのみや)に 真木柱(まきはしら) 太高敷(ふとたかし)きて 食國(をすくに)を 治賜(をさめたま)へば 沖鳥(おきつとり) 味經原(あぢふのはら)に 文武百官(もののふ)の 八十伴男(やそとものを)は 廬(いほ)りして 都成(みやこな)したり 旅(たび)には在(あ)れども

 日光押照兮 澪標浪速難波國 人云彼故里 葦垣舊都不為意 人皆不掛念 不置心頭所思休 以為無由緣 思事不關己之間 績麻之所如 難波長柄豐崎宮 豎立真木柱 美輪美奐敷太高 於茲坐御宇 治賜天下食國者 味鴨沖津鳥 味經之原草野間 文武百官之 八十伴緒股肱臣 結廬造小屋 自為都成現於此 縱為旅地雖異鄉

笠金村 0928

「押照(おして)る」,難波枕詞日月高掛高天照臨四方之意乎。

「葦垣(あしかき)の」,「古(ふ)り」之枕詞。葦乃難波一代之代表性景物。

「思休(おもひやす)み」,不掛於念頭。休者止也。

「由緣(つれ)も無(な)く」,無所關心。

「績麻成(うみをな)す」,「長」之枕詞

「真木柱(まきはしら) 太高敷(ふとたかし)きて」,將宮殿建立壯大。太高敷乃古法建築不立礎石,將柱根埋於土中固定。難波宮亦可窺見此建築法。

「沖鳥(おきつとり)」,味鴨、巴鴨,以為「味」之枕詞

「文武百官(もののふ)の 八十伴男(やそとものを)は」,侍奉朝廷之文武百官。八十伴男為眾多世襲之胤。

「廬(いほ)り」,營建假宿以泊。

0929 反歌二首 【承前。】

 荒野等丹 里者雖有 大王之 敷座時者 京師跡成

 曠野(あらのら)に 里(さと)は在(あ)れども 大君(おほきみ)の 敷座(しきま)す時(とき)は 都(みやこ)と成(な)りぬ

 荒蕪曠野間 雖是天離鄙夷里 一旦吾大君 乘輿幸來敷座時 頓化都城御天下

笠金村 0929

曠野(あらのら)に」,荒蕪無人跡之原野。景行紀古訓曠野作あらのら。ら乃接尾語。

「敷(し)き」,占有、治理。

0930 【承前反歌第二。】

 海末通女 棚無小舟 榜出良之 客乃屋取爾 梶音所聞

 海人娘子(あまをとめ) 棚無(たなな)し小船(をぶね) 漕出(こぎづ)らし 旅宿(たびのやどり)に 楫音聞(かぢのおとき)こゆ

 海人娘子 所乘無棚小扁舟 划槳漕出哉 草枕他鄉旅宿間 楫音舸梶聲可聞

笠金村 0930

「棚無(たなな)し小船(をぶね)」,無船棚之貧弱小船。刳舟(くりぶね)之疇。

「宿(やどり)」,宿泊地。

「楫音聞(かぢのおとき)こゆ」,當時難波半島狀,為海所挾,東為草香江,西為大阪灣,海岸之音蓋可聞於宮中

0931 車持朝臣千年作歌一首 【并短歌。】

 鯨魚取 濱邊乎清三 打靡 生玉藻爾 朝名寸二 千重浪緣 夕菜寸二 五百重波因 邊津浪之 益敷布爾 月二異二 日日雖見 今耳二 秋足目八方 四良名美乃 五十開迴有 住吉能濱

 鯨魚取(いさなと)り 濱邊(はまへ)を清(きよ)み 打靡(うちなび)き 生(お)ふる玉藻(たまも)に 朝凪(あさなぎ)に 千重波寄(ちへなみよ)せ 夕凪(ゆふなぎ)に 五百重波寄(いほへなみよ)す 邊波(へつなみ)の 彌繁(いやしくしく)に 月(つき)に異(け)に 日(ひ)に日(ひ)に見(み)とも 今(いま)のみに 飽足(あきだ)らめやも 白波(しらなみ)の い咲迴(さきめぐ)れる 住吉濱(すみのえのはま)

 鯨魚獵取兮 海岸濱邊水清清 打靡漂蕩漾 茂生玉藻隨波流 朝凪平時 逐千重波隨浪寄 夕凪風靜時 更隨五百重波來 如此岸浪之 疊疊彌繁更幾重 縱令經月異 縱令日日每觀之 此情此景者 見之千百豈飽足 白浪濤如華 咲迴一面盛滿開 美不勝收住吉

車持千年 0931

「鯨魚取(いさなと)り」,海之枕詞,此用以修飾濱邊。

「邊波(へつなみ)の」,擊岸之浪。

「彌繁(いやしくしく)に」,更加頻繁。

「月(つき)に異(け)に」,經月而彌加。「異(け)に」有格別之意。

「日(ひ)に日(ひ)に見(み)とも 今(いま)のみに 飽足(あきだ)らめやも」,飽足在此有「不厭」、「仍未滿足」之二層寓意

「い咲迴(さきめぐ)れる」,以白花比喻白浪。

住吉濱(すみのえのはま)」,約在難波宮跡南去八公里之處。


0932 反歌一首 【承前。】

 白浪之 千重來緣流 住吉能 岸乃黃土粉 二寶比天由香名

 白波(しらなみ)の 千重(ちへ)に來寄(きよ)する 住吉(すみのえ)の 岸埴生(きしのはにふ)に 匂(にほ)ひて行(ゆ)かな

 白浪層層湧 千重寄岸拍濱邊 墨江注吉之 岸埴生發黃匂 去來染衣縱娛情

車持千年 0932

「岸埴生(きしのはにふ)」,染色用埴生之露頭處。

「匂(にほ)ひて行(ゆ)かな」,「匂ふ」乃赤色發散之狀。住吉一帶乃黃土產地,遊於此地則衣裳自然漸染為黃褐色

0933 山部宿禰赤人作歌一首 【并短歌。】

 天地之 遠我如 日月之 長我如 臨照 難波乃宮爾 和期大王 國所知良之 御食都國 日之御調等 淡路乃 野嶋之海子乃 海底 奧津伊久利二 鰒珠 左盤爾潛出 船並而 仕奉之 貴見禮者

 天地(あめつち)の 遠(とほ)きが如(ごと)く 日月(ひつき)の 長(なが)きが如(ごと)く 押照(おして)る 難波宮(なにはのみや)に 我(わ)ご大君(おほきみ) 國知(くにし)らすらし 御食國(みけつくに) 日御調(ひのみつき)と 淡路(あはぢ)の 野島海人(のしまのあま)の 海底(わたのそこ) 沖海礁(おきついくり)に 鮑玉(あはびたま) 澤(さは)に潛出(かづきで) 舟並(ふねな)めて 仕奉(つかへまつ)るし 貴見(たふときみ)れば

 玄天黃地之 遙遠無窮之所如 光陰日月之 亙古長久之所如 日光押照兮 難波長柄豐崎宮 八隅治天下 吾之大君治秋津 所理海幸御食國 奉為御膳日御調 狹別淡路之 野島海人白水郎 深邃海底兮 沖津遠洋海礁處 欲取鮑珠玉 幾度潛出勤不懈 並舟連漁舸 營為仕奉供御調 尊貴之情今可見

山部赤人 0933

「天地(あめつち)の 遠(とほ)きが如(ごと)く」,此處「遠き」乃時空悠久無窮無限之意。

「國知(くにし)らすらし」,與1037「宜(うべ)知らすらし」同,治國天下,理宜如是。

「御食國(みけつくに)」,進貢天皇御膳食材之國。「食(け)」乃食物。『萬葉集』中供奉海幸之國,有淡路伊勢志摩等,稱御食國。

「日御調(ひのみつき)と」,作為天皇供御。「日」乃以太陽比擬天皇,讚頌威之美稱。「調(つき)」乃各國獻上贄調納於朝廷之特產。按『延喜式』,淡路所獻有宍、雜魚、鹽等。

「沖海礁(おきついくり)に」,「海礁(いくり)」乃海中岩礁,適作漁場之地形。

「鮑玉(あはびたま)」,鮑魚中之珍珠,或云鮑魚本身。鮑乃主要海產品,平城宮木簡「貢進物荷札」有「薄鰒、蒸鮑、生鰒」等字。

「潛出(かづきで)」,潛入水中以取魚貝類

「仕奉(つかへまつ)るし 貴見(たふときみ)れば」,此云海人勤奉海幸,乃天皇威之表,而為其感動。與前文「我(わ)ご大君(おほきみ) 國知(くにし)らすらし」呼應。


0934 反歌一首 【承前。】

 朝名寸二 梶音所聞 三食津國 野嶋乃海子乃 船二四有良信

 朝凪(あさなぎ)に 梶音聞(かぢのおとき)こゆ 御食國(みけつくに) 野島海人(のしまのあま)の 舟(ふね)にし有(あ)るらし

 朝晨風歇時 船楫梶音聲可聞 海幸御食國 野島海人白水郎 其舟航來仕奉哉

山部赤人 0934

野島海人(のしまのあま)の」,「海人(あま)」原文作海子。相對海女(あまめ)而言。

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2016-07-12-火

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■真字萬葉集 卷第五 雜歌

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■先代舊事本紀大成六十三 御語本紀上卷 上

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万葉集試訳

0907 養老七年癸亥夏五月,幸于芳野離宮時,笠朝臣金村作歌一首 【并短歌。】

 瀧上之 御舟乃山爾 水枝指 四時爾生有 刀我乃樹能 彌繼嗣爾 萬代 如是二二知三 三芳野之 蜻蛉乃宮者 神柄香 貴將有 國柄鹿 見欲將有 山川乎 清清 諾之神代從 定家良思母

 瀧上(たきのうへ)の 三船山(みふねのやま)に 瑞枝刺(みづえさ)し 繁(しじ)に生(お)ひたる 栂木(とがのき)の 彌繼繼(いやつぎつ)ぎに 萬代(よろづよ)に 如是(かく)し知(し)らさむ 御吉野(みよしの)の 秋津宮(あきづのみや)は 神柄(かむからか) 貴(たふ)とくあるらむ 國柄(くにからか) 見(み)が欲(ほ)しからむ 山川(やまかは)を 清爽(きよみさや)けみ 宜(うべ)し神代(かみよ)ゆ 定(さだ)めけらしも

 吉野瀧上畔 御舟之岳三船山 瑞枝新葉發 無間繁茂蘊活力 栂木名所如 繼嗣彌發更綿延 千秋度萬代 如是行幸寓光宅 芳野吉野 蜻蛉離宮秋津宮 神柄發稜威 尊貴榮耀如是哉 國柄秀風土 見之百遍不厭哉 山川誠壯麗 清澄爽朗脫俗塵 理宜遠自神代昔 定為宮地有以也

笠金村 0907

「幸于芳野離宮」,吉野離宮位於今奈良吉野郡吉野町宮瀧。此行幸養老七年五月九日發向,十三日歸京。非仙覺本系統於題詞下有小字書「車持朝臣千年作歌一首。」

「瑞枝刺(みづえさ)し」,瑞枝乃具光澤之新枝。刺す表枝葉伸長外放之意。

「繁(しじ)に」,繁茂無空隙。

「栂木(とがのき)」,「栂(とが)」與「樛(つが)」通,松科長高木。又以つが雙關引出下文「繼(つ)ぎ」。

「如是(かく)し知(し)らさむ」,「知らす」乃領有之意。「知(し)」原文書「二二」者,二二相乘為四(し)故也。

秋津宮(あきづのみや)」,吉野離宮之別名。

「神柄(かむから)か」,神之本性。

「國柄(くにからか) 見(み)が欲(ほ)しからむ」,國柄乃國土本身具有之特性。「見が欲しからむ」表期望能持續觀翫。

「清爽(きよみさや)けみ」,清表客觀之清潔感,爽表主觀之清爽感與心情。

0908 反歌二首 【承前。】

 每年 如是裳見壯鹿 三吉野乃 清河內之 多藝津白浪

 每年(としのは)に 如是(かく)も見(み)てしか 御吉野(みよしの)の 清(きよ)き河內(かふち)の 激(たぎ)つ白波(しらなみ)

 每年來此地 歲歲如是欲見者 芳野吉野 清鄒〔晴內之 激盪渦捲白波矣

笠金村 0908

「見(み)てしか」,てしか表願望終助詞

「清(きよ)き河內(かふち)」,「河內(かふち)」乃「河內(かはうち)」之略,意指川上谷間之平地。今如上高地、香落溪等「こうち」亦為其音轉。吉野尚有「清き川原」、「川鵑寮兇」等表現

「激(たぎ)つ」,此云奔流與岩石激突迸發,化作白波之狀。

0909 【承前反歌第二。】

 山高三 白木綿花 落多藝追 瀧之河內者 雖見不飽香聞

 山高(やまたか)み 白木綿花(しらゆふばな)に 落激(おちたぎ)つ 瀧(たき)の河內(かふち)は 見(み)れど飽(あ)かぬかも

 山高嶮水深 絕壁落激貫千丈 猶白木綿花 瀧之河內堪絕景 百看千遍不厭倦

笠金村 0909

「山高(やまたか)み」,「山高し」之み句法,多表理由而此為與瀧の河內之並立表現

「白木綿花(しらゆふばな)に」,搗碎楮皮,漂白其纖維而得木綿。以花喻其美。に表付於名詞之比喻用法

下二句蓋模『萬葉集』36柿本人麻呂吉野宮曲「瀧宮處は 見れど飽かぬ哉」,唯人麻呂歌讚頌天皇行為,而笠金村重於敘景。

0910 或本反歌曰 【承前。】

 神柄加 見欲賀藍 三吉野乃 瀧乃河內者 雖見不飽鴨

 神柄(かむから)か 見(み)が欲(ほ)しからむ 御吉野(みよしの)の 瀧河內(たきのかふち)は 見(み)れど飽(あ)かぬかも

 神柄發稜威 愈是欲見冀拜觀 芳野吉野 宮瀧河內景勝絕 百看千遍不厭倦

笠金村 0910

「神柄(かむから)か 見(み)が欲(ほ)しからむ」,摘前曲「神柄(かむからか) 貴(たふ)とくあるらむ 國柄(くにからか) 見(み)が欲(ほ)しからむ」之要而成。

0911 【承前,或本反歌第二。】

 三芳野之 秋津乃川之 萬世爾 斷事無 又還將見

 御吉野(みよしの)の 秋津川(あきづのかは)の 萬代(よろづよ)に 絕(た)ゆる事無(ことな)く 又還見(またかへりみ)む

 其猶芳野兮 御吉野秋津川 萬代流無絕 吾欲還見復訪此 再三不絕頻翫之

笠金村 0911

秋津川(あきづのかは)の」,吉野川流經秋津一帶之部分的俗稱。

「還見(かへりみ)む」,再訪此地吟翫其景。

0912 【承前,或本反歌第三。】

 泊鷭 造木綿花 三吉野 瀧乃水沫 開來受屋

 泊鷭(はつせめ)が 造(つく)る木綿花(ゆふばな) 御吉野(みよしの)の 瀧水沫(たきのみなわ)に 咲(さ)きにけらずや

 概是泊鷭 所造白木綿花者 化作吉野 宮瀧水沫咲絢爛 好似白華綻瀧間

笠金村 0912

「泊鷭(はつせめ)」,住於泊麈女性

「木綿花(ゆふばな)」,同白木綿花

「咲(さ)きにけらずや」,此以白波水沫看作白花之綻開。


0913 車持朝臣千年作歌一首 【并短歌。】

 味凍 綾丹乏敷 鳴神乃 音耳聞師 三芳野之 真木立山湯 見降者 川之每 開來者 朝霧立 夕去者 川津鳴奈拜 紐不解 客爾之有者 吾耳為而 清川原乎 見良久之惜蒙

 味凝(うまこ)り 竒(あや)に羨(とも)しく 鳴神(なるかみ)の 音(おと)のみ聞(き)きし 御吉野(みよしの)の 真木立(まきた)つ山(やま)ゆ 見下(みおろ)せば 川每(かはのせごと)に 明(あ)け來(く)れば 朝霧立(あさぎりた)ち 夕去(ゆふさ)れば 蛙鳴(かはづな)くなへ 紐解(ひもと)かぬ 旅(たび)にしあれば 我(あ)のみして 清川原(きよきかは)らを 見(み)らくし惜(を)しも

 味凝心繫兮 不絕羨望欲觀之 雷動鳴神兮 美談之音唯入耳 芳野吉野 真木茂立峻山上 俯瞰一望者 群川之鶻Ь〃福每逢天明時 朝霧湧現雲霞立 每至夕暮時 川間蛙鳴道欣榮 下紐不所解 獨身羈旅置異地 唯吾孤一人 見此清扈川原 無人相伴甚可惜

車持千年 0913

「味凝(うまこ)り」,「竒(あや)に羨(とも)しく」之枕詞漢字或作味凍或作味凝。煮凝美味,而心為其所吸引之意。『日本靈異記』有煮鯉寒凝之語。

「竒(あや)にに羨(とも)しく」,竒乃莫名無由之意。羨乃心受吸引之意。

「鳴神(なるかみ)の」,「音に聞く」之枕詞。對雷之音響畏怖之呼稱。

「真木(まき)」,讚美檜杉等良材之類。

「紐解(ひもと)かぬ 旅(たび)」,未攜妻子,獨身前往之旅。古俗夫婦別離時,相結下紐,至再會為止不解,以期速能復逢。



0914 反歌一首 【承前。】

 瀧上乃 三船之山者 雖畏 思忘 時毛日毛無

 瀧上(たきのうへ)の 三船山(みふねのやま)は 恐(かしこ)けど 思忘(おもひわす)るる 時(とき)も日(ひ)も無(な)し

 吉野瀧上畔 御舟之岳三船山 稜威雖可畏 然吾更眷閨中妻 無時無日忘思慕

車持千年 0914

「恐(かしこ)けど」,雖然敬畏,卻...之意。羈旅之中,當畏懼山神,但因思鄉之情,口漏慕妻之語。依言靈信仰,此含後悔之意。


0915 或本反歌曰 【承前。】

 鳥鳴 三吉野川之 川音 止時梨二 所思公

 千鳥鳴(ちどりな)く 御吉野川(みよしのかは)の 川音(かはおと)の 止(や)む時無(ときな)しに 思(おも)ほゆる君(きみ)

 千鳥爭鳴啼 御芳野吉野川 川音奏清響 潺潺無止無間歇 吾慕思君亦如是

車持千年 0915

「川音(かはおと)の」,已上三句,以川音不止,引出慕情不息之序。

「思(おも)ほゆる君(きみ)」,此君所指不明。或為留鄉友人,或以假女性身分抒懷。亦有車持千年女性之說。

0916 【承前,或本反歌第二。】

 茜刺 日不並二 吾戀 吉野之河乃 霧丹立乍

 茜射(あかねさ)す 日並(ひなら)べ無(な)くに 我(あ)が戀(こひ)は 吉野川(よしのかは)の 霧(きり))に立(た)ちつつ

 暉曜緋茜射 日並數之未幾時 戀慕情難止 化作吉野川之上 霧霞層湧罩瀰漫

車持千年 0916

 右,年月不審。但以歌類,載於此次焉。或本云,養老七年五月,幸于芳野離宮之時作。

「茜射(あかねさ)す」,日之枕詞。茜草根紅,可為緋色染料。

「日並(ひなら)べ無(な)くに」,亦別離以來,日數未多。

「霧(きり))に立(た)ちつつ」,慕情難止,悲嘆渡日,而嘆息化作川霧。

0917 神龜元年甲子十月五日,幸于紀伊國時,山部宿禰赤人作歌一首 【并短歌。】

 安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 背匕爾所見 奧嶋 清波瀲爾 風吹者 白浪左和伎 潮干者 玉藻苅管 神代從 然曾尊吉 玉津嶋夜麻

 八隅治(やすみし)し 我(わ)ご大君(おほきみ)の 常宮(とこみや)と 仕奉(つかへまつ)れる 雜賀野(さひかの)ゆ 背後(そがひ)に見(み)ゆる 沖島(おきつしま) 清渚(きよきなぎさ)に 風吹(かぜふ)けば 白波騷(しらなみさわ)き 潮乾(しほふ)れば 玉藻刈(たまもかり)つつ 神代(かみよ)より 然(しか)そ貴(たふと)き 玉津島山(たまつしまやま)

 八隅治天下 經綸恢弘我大君 將欲為常宮 屹立萬代所造營 雜賀野離宮 背向離宮見彼方 奧嶋沖津島 明媚澄明清渚間 每逢風吹時 白浪騷動蕩濤湧 輙遇退潮時 海人漁獵刈玉藻 遠自神代起 此地靈貴如此然 稜威此玉津島

山部赤人 0917

「幸于紀伊國」,八日著御津島頓宮,滯在十餘日。聖武帝改當地若濱名明光浦。廿三日還京。時笠金村未從駕,留京作歌543~545。

「八隅治(やすみし)し」,「我(わ)ご大君(おほきみ)の」之枕詞。大君指聖武帝。

「常宮(とこみや)」,永恆不變之宮殿平城宮出土木簡亦可見常宮字樣。

「仕奉(つかへまつ)れる」,此作造營建物解。

「背後(そがひ)に見(み)ゆる」,天皇離宮南面,諸臣北面

「沖島(おきつしま)」,自雜賀野離宮所見諸島今日和歌浦唯有妹背山居海中,當時蓋鏡山亦為獨立海島。而奠供山、雲蓋山等,蓋滿潮時為島而乾潮時為河口沙洲狀態乎。玉津島山蓋諸島合稱。

「玉藻刈(たまもかり)つつ」,つつ表反覆持續。或多人行相同動作

0918 反歌二首 【承前。】

 奧嶋 荒礒之玉藻 潮干滿 伊隱去者 所念武香聞

 沖島(おきつしま) 荒礒玉藻(ありそのたまも) 潮干滿(しほひみち) い隱行(かくりゆ)かば 思(おも)ほえむかも

 奧嶋沖津島 清渚荒礒玉藻矣 潮乾復滿盈 隱沒玉藻匿去者 吾心所念當何如

山部赤人 0918

「潮干滿(しほひみち) い隱行(かくりゆ)かば」,退潮後又漲滿潮,則退潮時所見之玉藻又復不見。

0919 【承前反歌第二。】

 若浦爾 鹽滿來者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡

 若浦(わかのうら)に 潮滿來(しほみちく)れば 潟(かた)を無(な)み 葦邊(あし)へを指(さ)して 鶴鳴渡(たづなきわた)る

 稚若和歌浦 潮汐滿盈和歌浦 干瀉為潮沒 渡鶴失瀉指岸翔 鶴渡葦邊發聲鳴

山部赤人 0919

 右,年月不記。但稱從駕玉津嶋也。因今檢注行幸年月以載之焉。

「潟(かた)を無(な)み」「無み」為「無し」之み句法。

赤人從駕之歌,亦以讚賞風景為中心,對天皇皇澤之情則流於表面。


0920 神龜二年乙丑夏五月,幸于芳野離宮時,笠朝臣金村作歌一首 【并短歌。】

 足引之 御山毛清 落多藝都 芳野河之 河麈機±童淡者 上邊者 千鳥數鳴 下邊者 河津都麻喚 百礒城乃 大宮人毛 越乞爾 思自仁思有者 每見 文丹乏 玉葛 絕事無 萬代爾 如是霜願跡 天地之 神乎曾禱 恐有等毛

 足引(あしひき)の 御山(みやま)も清(さや)に 落激(おちたぎ)つ 吉野川(よしののかは)の 川(かはのせ)の 清(きよ)きを見(み)れば 上邊(かみへ)には 千鳥數鳴(ちどりしばな)く 下邊(しもへ)には 蛙妻呼(かはづつまよ)ぶ 百敷(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)も 彼此(をちこち)に 繁(しじ)にしあれば 見(み)る每(ごと)に 竒(あや)に羨(とも)しみ 玉葛(たまかづら) 絕(た)ゆる事無(ことな)く 萬代(よろづよ)に 如是(かく)しもがもと 天地(あめつち)の 神(かみ)をそ祈(いの)る 恐(かしこ)く有(あ)れども

 足曳勢險峻 高山爽朗勢清清 落激流渦卷 御芳野吉野川 川麥澄遏仝彼流水清無曇 上游源流處 千鳥數鳴轉不停 下游水緩處 群蛙呼妻叫喧囂 百敷宮闈間 高雅殿上大宮人 來去穿彼此 眾人伺候無間隙 此情與此景 每見無由生羨慕 玉葛珠蔓兮 其蔓長生無絕斷 冀望萬代後 繁盛如此無改易 今向天地間 八百萬神祈此願 誠惶誠恐仍付禱

笠金村 0920

「神龜二年乙丑夏五月,幸于芳野離宮」,此行幸未見於『續日本紀』。

「百敷(ももしき)の」,「大宮(おほみや)」之枕詞。以眾多敷石所築之城。

「彼此(をちこち)に」,彼、此各表遠方與近方。

「繁(しじ)に」,繁多無間隙。

「玉葛(たまかづら)」,「絕(た)ゆる事無(ことな)く」之枕詞。蔓性植物蔓長而難以切斷,故此。

「如是(かく)しもがも」,祈求離宮之繁榮與茱王臣之安泰。

「恐(かしこ)く有(あ)れども」,雖然惶恐,仍舊祈求所願。

0921 反歌二首 【承前。】

 萬代 見友將飽八 三芳野乃 多藝都河內之 大宮

 萬代(よろづよ)に 見(み)とも飽(あ)かめや 御吉野(みよしの)の 激(たぎ)つ河內(かふち)の 大宮所(おほみやところ)

 縱令生長久 見之萬代豈飽厭 芳野吉野 瀧上水激河內之 巍峨壯麗大宮

笠金村 0921

大宮所(おほみやところ)」,書「宮所(みやところ)」者,多半指過去宮地之舊跡,或尚未完成新宮。此處直指離宮者,蓋以行宮之故。

0922 【承前反歌第二。】

 皆人乃 壽毛吾母 三吉野乃 多吉能床磐乃 常有沼鴨

 皆人(みなひと)の 命(いのち)も我(わ)がも 御吉野(みよしの)の 瀧(たき)の常磐(ときは)の 常(つね)ならぬかも

 吾今有所願 還冀皆人與吾命 猶此御吉野 瀧之常磐亙古今 能為久長恒不變

笠金村 0922

「皆人(みなひと)の」,仙覺本等原文作「人皆」,元曆校本等作皆人。

「我(わ)がも」,「我(わ)が命も」之略。

「常(つね)ならぬかも」,「常(つね)乃」衡久不變,「ぬかも」表希求

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