”アニメを「読む」”日々

2011-04-03

関西ローカルのテレビ番組(毎日放送)「ちちんぷいぷい」。

東日本大震災後の、3月15日(火)に再開されたときに表明された番組のスタンス。

とても、真摯で共感できるものだったので、勝手に引用させてもらいました。

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いわゆる”情報バラエティ番組”なのですが、あまたの東京発の同ジャンルの番組とは一線を画していると個人的には思っています。

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「報道特別番組」により、

先週11日(金)ときのう14日(月)の

放送をお休みしましたが、

ちちんぷいぷい」では今後、

次のようなスタンス(立場)で、

今回の「東日本大震災」に関して

お伝えしていくつもりです。



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その1「現在も震災の最中、その状況下にいることを忘れずに……」

11日(金)午後2時46分すぎに発生した

巨大地震、それに伴う大津波による「震災被害」は

過去のことではありません。

現在、そして今後も続けて起きうる事象として、

お伝えしていこうと考えています。



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その2「関西で知りたいこと、できること」

16年前に阪神淡路大震災を経験した私たちにとって、

東日本を中心に被害が広がっている

今回の震災に関して、いま知りたいニュースとは何か、

という視点でお伝えしたいと考えます。

そして、関西にいて、できることは何なのかを

ともに考えたいと思います。



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その3「メディアからの伝え方、メディアとの接し方について」

これまでに経験したことのない巨大地震により、

主に東京発で「報道特別番組」が休みなしに

各局から伝えられています。テレビ、ラジオ、

新聞以外にも、メールを含むインターネットなどの

メディアで伝えられる情報もあります。

ちちんぷいぷい」としては番組として、

伝えるべき事柄は何かを冷静になって、

お伝えしていきたいと考えています。

テレビ番組でありながら、「しんどくなったらテレビ消して下さい」と言ってしまえるあたりが、この番組のすごい所だと思います。

2010-06-30

「快適さ」というトリガーの不在 -「はめつら!」を観て-

6月27日に、大阪北加賀屋にて開催されている「はめつら!」の最終日を覗きに行ってきた。

訪れたのは、午後3時半頃。家具工場跡という倉庫のような建物の2階。ワンフロアでの展示だったのだが、徹頭徹尾「暑い!」という一言に終始してしまう。

これは、何も素朴な感想ではなく、本質的にこのアート展が「ギーグたちが快適だと感じる生活空間=消費・再生産空間」を切り取ったものだと思われるだけに、「快適さ」を伴わず、むしろ「不快適」な空間に無理をして留まっているギーグたちを目の当たりにしてしまう時点で(少なくともそう思ってしまう時点で。思わず「ご苦労様です」と思ってしまった)致命的な失敗であるように思う。

「快適」であればこそ、お互いの名も知らず、一過的に訪れた観覧者たちが、自らもそこに暫し居着き、絵を描いたりなどして、コンテンツを消費・再生産できる。その姿・振る舞いこそがアートの一部分と化す。

そして、さらにその姿、あるいは生み出されたコンテンツに触れた観覧者がそれを新たな起点として、消費・再生産を行う。

この連綿と続く(もっと欲を言えば「過剰な」)消費・再生産活動こそが、ネット上から切り出した”運動”のリアルへの現前化であり、このアート展のキモであると思われる。

だから、数珠つなぎ的に”居着いてしまう”という現象が駆動するには、「快適さ」というファクターは非常に重要なはずであり、それを考慮されていなかった大阪での展示はいささか期待外れに終わった感は否めない。

2010-03-24

「Togetter」の「権力」について


10.04.05 誤解を招く表記があったので、一部修正しました。(内容・骨子に変更はありません)




「Togetter(トゥギャッター)」というウェブサービスをご存知だろうか。

twitter」での様々なユーザーのツイート(つぶやき)を、誰でも自由にリスト化して”まとめ”を作成・保存、共有できるサービスで、その手軽さから僕も利用しているのだが、今回、たまたま、つくった”まとめ”に関して、自分の考えの甘さが露呈したので、反省の意を込めて、ここに記す。


まとめたのは、下記のもの。

<Togetter - まとめ「東京都青少年保護条例改定案(「非実在青少年」規制)問題について」>http://togetter.com/li/8701


例の「非実在青少年」規制問題についてである。

問題の内容や、それに対する個人的な考えは、ここでは脇に置いておくとして、このまとめをつくったのは、単純に流れていくTLを自分用に書き留めて、後日にゆっくり読もうと思ったのと、ツイートをRTしようと思ったものの、関連ツイートが複数に渡っていたので、これまた単純に一度のRTで済むように、まとめをつくって公開(ツイート)し、RTの代わりにしようとした為。


それで、一晩明けて(夜勤だったので)チェックしてみたら、PVが1000を越えているという、僕にとっては破格の反応数で、これにはかなり驚いた。

それで、調子に乗って、他ユーザーのツイートなどを加えていたのだが、この時は、このまとめが持つ「権力」を自覚していなかった。


その「権力」について考えるきっかけになったのは、まとめに加えたあるツイート(それは、他のユーザーのツイートをRTしたものに、私見を加えたものだった。なお、そのツイート自体は何かしらの主張を伴ったものではなく、そのRT元が参照していた書き込みも”違う角度”から書かれている規制反対派の意見であった事は特に留意して頂きたい)に対して、そのツイート主から「まとめに加えるならRT元のほうがいいのでは?」(意訳)という、もしかして、そういう意図ではなかったのかもしれないが、大変に示唆的な指摘を頂き、「疑いの眼差しを常に持つ」を標榜する僕にとっては、すごくショックを受け、強く反省するに至った。




僕は、このまとめにあえて「異物」(追記:重ねて注意して頂きたいが、そのツイート自体に何らかの主張があった訳ではない。あくまで「まとめ」に「編集」して初めて「異物」として機能する。だから、「主張」が生じるのは僕の「編集」においてである)を挿入することで、”違う意見を言いにくい気まずい「空気」が醸成されている”事を示そうという勝手な意図だったのだが、それは、冷静に考えてみると、他人のツイートを”コマ”として扱い、すでにある”文脈”に後付で無理矢理組み込もうとした訳で、ツイート者が意図していない用い方をしていたならば、負担と不快感を与えてしまうのは至極当然で、僕の行為は非常に無責任で不適切だった。

それが、RTツイートとなると尚のこと。


こうして、考えてみると、「Togetter」は、「空気」を恣意的に規定してしまうことが出来る非常に強力な「権力」発生装置であり、「編集」という「権力」を手軽に、意識せずに扱えてしまうツールであることがわかる。


そもそも、ツイートを時系列にするだけで、ツイート間におけるコミュニケートの根拠、信憑性が生まれてしまう。本当は、コミュニケーションが成立していないツイートであっても、「Togetter」で並べれば、コミュニケートが成立したように読めてしまう。つまり、編集次第でどういう文脈にも捏造できてしまう。

そして、今回は、同じ意見のツイートばかりを並べていた為に、反対の意見をまとめに差し込めない「空気」が醸造されてしまっていた。ここに、ツイートした当人ではなく、第三者が勝手に、ツイート者の意図を越えて接ぎ木可能になっている。

これは、怖い。

まさにアーキテクチャの「権力」。

「Togetter」は、恣意的に文脈を組み替え、様々な「空気」を醸成することが出来る「権力」発生装置であるとともに、ツイート者に対して、いつどのようなまとめ方をされるのかわからないというプレッシャーを与える装置でもある事に今さらながら気がついて、その事に気がついていなかった自分にも愕然としている。


「空気」に「抵抗」するなどと、大層なことを自分で宣言しておきながら、何という自己欺瞞。今回の件では、自分の甘さを痛感し、大いに反省した次第。




あと、付け加えるならば、今回の件で思ったのは、「誰でも編集可」にしていても、意外に誰もまとめに手を加えないんだなという事。

そもそも、他人の文脈を整理し直すにはパワーがいるし、誰も編集の手間やリスクを負わない。

そして、まとめたユーザーのTLを参照したり、フォローしたりはもしないという事。

まとめのPV数と、僕のフォロワー数は全く連動しなかった。

だから、多くの閲覧ユーザーは、”まとめ”の表層にある、そのままの文脈で受け取ってしまうんだろうなと。


なお、「Togetter」の存在が悪いとか、そういう話では全くなく、利用する側が、「権力」や「空気」に飲み込まれないように、自覚を持って接しなければならないと強く思った訳です。

自戒を込めて。

2010-02-21

劇場版『涼宮ハルヒの消失』−”TVアニメシリーズ”の外部としての「映画」−


劇場版『涼宮ハルヒの消失』は、2006年に第一期シリーズが、2009年に再度、新作を加えて第2期シリーズが放送されたTVアニメシリーズ『涼宮ハルヒの憂鬱』の劇場版作品である。

劇場版では、TVシリーズでは描かれなかった、原作ライトノベル(2003-、角川スニーカー文庫)の一編『涼宮ハルヒの消失』(2004年8月1日刊)が映像化された。


3時間近くある長編ではあるが、観終わった後、元気をもらったような気がした。




本作は、観客に対して、非常に間口の広い映像作品になっていて、それこそ、純粋なラブストーリーとして観ることも、ヒロインの長門に萌え転んで観ることも可能だし、全編に漂う儚い空気感や映像美、心に染み込んでくる音楽に酔いしれる事も可能である。


だけど、僕が”元気をもらった”のは、おそらくそれらではなく、『消失』が「映画」であったことの意義。意味のほうに理由があるように思う。




原作小説およびTVアニメシリーズの基本構造として、「非日常」な出来事が次々に起こっても、物語の中心は、あくまで「日常」の高校生活であり、「日常」の大切さ・意義を再発見し、回帰する物語であった。


だが、原作でも、特種な位置づけにあると思われる『消失』のエピソードでは、「日常」よりも「非日常」を中心に物語が進行し、”「日常」の高校生活”がほとんど描かれずに終わる。

その為、TVシリーズでのアニメ化では、全編に横たわる作品テーマと祖語が生じると思っていたが、「映画」でのアニメ化というアクロバティックな方法をとることで、「消失」というエピソードの再配置に成功したのではないか。


つまり、「TVアニメシリーズ」という”「非日常」はあるが「日常」を選択し肯定する物語”をカッコの中に一旦入れる事で、その「外部」として『消失』を位置づけ、最終的に「TVアニメシリーズ」に帰還するという構造が立ち上がったのではないかと考える。


そういう視点で考えた場合、本作は、原作エピソードの「消失」を咀嚼し、再配置することで、2重の意味で”「日常」を肯定する物語”を成立させ、原作ライトノベルTVアニメシリーズをさらに強化する事に成功したのではないだろうか。

まさに、「映画」である必然性があった作品と言えるだろう。




ここで、物語における『消失』の世界を位置づけるならば、それは、「日常/非日常」(TVシリーズ)という括りではなく、「改変された日常=理想の日常」としての「楽園」ではないかと考える。

「楽園」には「非日常」が存在しない変わりに、「非日常」を夢想し、望むことが可能であり、それはある意味、救いと希望があるセカイである。

対して、TVシリーズにおける「日常/非日常」では、「非日常」を目の当たりにしながら、それでも、あえて「日常」を選択するセカイであり、もはや、「非日常」に救いや希望を見出すことが出来ない。

そして、主人公のキョンが選択したのは、TVシリーズにおける「日常/非日常」のセカイであり、それは、そんなセカイを生きていこうという態度の表明(変更ではない)に他ならない。

TVシリーズでは、事なかれ的に享受していた”「非日常」はあるが「日常」を選択し肯定する物語”を『消失』においては、自覚的に選び取る。

それは、この現実こそが、即時的な希望がないセカイだと認識し、それでもあえて、そんな社会を生きていくしか無いのだという、ボクたちの感覚と重なっている。




このボクたちの感覚に『消失』が即し、この切実な生き方を肯定し、しんどさを分かち合える作品であったからこそ、”元気をもらえた”のではないかと思っている。