『ef - a fairy tale of the two.』−「不完全」でも/だからこそ肯定される物語−

ネタバレ注意!
作中テキストの引用を多く含みます。
クライマックスからの引用も含みます。
ただし、読んで頂くとゲームをプレイしてみたくなるかもしれません。

































ef - a fairy tale of the two.』−「不完全」でも/だからこそ肯定される物語−


今、目の前に、発売日(2009年9月18日)にはAmazonから届いていた、minoriの新作PCゲーム『eden*』のパッケージがある訳だが、それを開封する前に、minoriのひとつ前の作品であるPCゲーム『ef - a fairy tale of the two.』(前編『the first tale.』2006年12月22日発売、後編『the latter tale.』2008年5月30日発売。以下、本作と略す)を、主に物語と主題の面から、作中からの引用を中心に振り返ってみたいと思う。



まず、引用するのは、第3部のワンシーンより。一人称キャラクターは、第3部のヒロインである眼帯少女の新藤千尋。話しているキャラクターは、第4部主人公であるバイオリニストの久瀬修一。

久瀬「面白い歌を教えてあげようか」
「歌?」
久瀬「歌っていっても和歌のほう」
久瀬「幾山河(いくやまかわ) 越えさり行かば 寂しさの 終(は)てなむ国ぞ 今日も旅ゆく−
−牧水だな」
「どういう意味ですか?」
久瀬「どれだけ多くの山や河を越えれば、寂しさのない国があるのだろうか」
久瀬「そんなものはないことを実は知っているのだが、今日も新たに旅をしていこう−−ってね」
「寂しさ、と言ってますが明るい歌なんですね」

作中に引用されている「和歌」が、本作の基調をそのまま表していることもさることながら、ここで重要なのは、その「和歌」にふれたヒロイン・千尋の反応のほうで、この「和歌」を”明るい歌”と捉える感性が、前提として存在していることがわかる。
語られているテーマが多岐に渡り、拡散している印象のある本作だが、全編を通して、根底に横たわっているのは、「今、生きている自分・事実を肯定する」という力強い意思表明であることに気がつく。



続いて引用するのは、第4部。それも、過去編後のワンシーン。つまり、作中のクライマックス近いシーンから。一人称キャラクターは、第4部のヒロイン・羽山ミズキ。話しているキャラクターは、本作全体での主人公であり、キーパーソンである火村夕。

でも。
「だからこそ、わたしは震えるわけにはいかないんです」
頭を下げるわけにはいかない。
「自分に価値や意味がなくても……」
「あんなにきれいな人の代わりだなんて無理だろうけど……」
「それでも、あの人に追いつくために、わたしは頑張りたいから」
「わたしはこの世界で最後まで戦おうと決めたんです!」
最後まで笑っていようと決めたのだ。

(中略)

「もちろん、そこに完全な答えはありませんでした」
「自分の幸せのために誰かを泣かせてしまうこともあるし、人を思い遣るからこそ傷つけてしまうこともありました……」
「でも、そんな不完全さも、やっぱりひとつの欠片なんです」
「そういうものからも、わたしは目を逸らしちゃいけないんだと思いました」
「正しさと愚かさ、強さと弱さ、夢と現実--そういうのは多分、羽のようなものなんです」
「1枚だけじゃダメなんです。2枚が揃うことで、本当に羽ばたくことが出来るんだと思います」
「人が……ひとりの力で出来ることには限りがあります」
「でも、わたしはそれでよかったと思います」
「この不完全な世界に生まれてきてよかったって、心の底から」

ヒロインキャラクターにありがちな”元気な女の子”だと認識されていた、羽山ミズキが過去編を経ることで、過去編のヒロイン・雨宮優子の意志を継ぎ、全く別のキャラクターとして立ち上がってきた(と、プレイヤーには認識される)直後のシーン。
97年以降の、いわゆる「美少女ゲーム」における「攻略対象ヒロイン」の特徴として、キャラクターの中心(本質)に、いわゆる「トラウマの層」があり、その”単一の「トラウマの層」”を主人公が理解・解決することによって、ヒロインを理解し、攻略(支配あるいは欲望の成就)出来るという構造があるが、本作において、羽山ミズキというヒロインが乗り越えたものは、この構造そのものであると考える。
つまり、羽山ミズキという「キャラクター」にも「トラウマの層」は設定されているのだが、それは”ひとつの欠片”(他のシーンからも引用すれば”わたしの欠片の1つ。”)にすぎないものとして、「キャラクターを支配できる本質」としては機能していない。明るく振る舞っている「羽山ミズキ」も、「トラウマの層」を抱えている「羽山ミズキ」も、「羽山ミズキ」の同等な”ひとつの欠片”として、これまた作中の言葉を借りれば、どちらも「本物」なのである。
だからこそ、”笑っていること”が”戦”いであると言う羽山ミズキの言葉が、力強く、まぶしく思えるのである。

これは、すなわち、「トラウマの層」を克服することにより、「完全なヒロイン」となることを目指していた従来のヒロイン像から、「トラウマの層」も”ひとつの欠片”として、そのまま許容し、「不完全なヒロイン」を認めるという、ヒロイン像の更新である。



最後に引用したのは、第四部のラスト。つまり、作中のクライマックス。一人称キャラクターは、第4部の主人公であるバイオリニストの久瀬修一。話している相手は、第4部のヒロインである羽山ミズキ

ミズキ「この言葉が、わたしをここまで導いたんです。いい言葉です」
久瀬「……それは」
それは俺の言葉だった。
かつて、俺が蓮治に答えたものだった。
ミズキ「久瀬さん」
声のトーンを少し落とし、彼女は優しくつぶやく。
ミズキ「どんなに大事にしていても、人も物も、いつか必ずなくなります。それも絶対に絶対です」
ミズキ「絆も、想いも、記憶も、心も、命も」
ミズキ「この世になくならないものはありません」
ミズキ「壊れないものはないです」
ミズキ「幸せなんて作り物で、絵空事で、偽物です」
だから。
ミズキ「だから」
いらない。
ミズキ「大切にしましょう」
彼女はそれを言葉にして。
俺はそれを言葉にできなかった。
ミズキ「いつか訪れる別れを後悔しながら迎えないように……壊れてしまうから大事に、大事にしていきましょう」
羽山ミズキの言葉は、あたたかい海に手向けられた祈りにも似ていて、深く心に響いてくる。

本作の本質的なテーマが、ストレートに語られている感動的なシーン。
物語全体を縦に貫いているのは、キャラクターの「想い」であり、その媒体手段は「言葉」である。引用テキスト冒頭にあるように、「言葉」=「想い」が伝わっていたという事実が物語全体を救済するキーになっており、その”奇跡性”が丁寧に表現されている事からも、本作において、「言葉」=「想い」の伝達の不完全性は、かなり自覚的に扱われていると思われる。
そのうえで、全ては「不完全」であり、”でも/だからこそ”、”肯定される/するべき”なのだという本作の根幹にあるメッセージが直接、力強く吐露されるのである。
先に例に挙げた、「ヒロイン」や「言葉」は言うに及ばず、「自己」や「状況」、大きく言えば「人生」を、「肯定」して「生きていこう」という、作品に通念していたテーマが、浮上してクライマックスを迎えることになる。

総括すれば、個人的に、本作は”「不完全」でも/だからこそ肯定される物語”だったと考えている。



さて、現在の世の中を俯瞰してみれば、本作のテーマと表裏一体の関係で、”全てを「肯定」しないと生きていけない/生きづらい”世界であるとも言える。
いわゆる「サヴァイヴ系(決断主義的)」作品が説得力を持っている昨今だが、その点で、「サヴァイヴ感(決断主義)」作品と「自己肯定」作品は、表裏一体になっていると考えられる。
大きな物語」なき今、「喜び」や「悲しみ」あるいは、「苦難」や「しんどさ」さえも、自分の一部として引き受けなければ生きていけない世界と言えるのではないだろうか。他の作品に目を向けてみても、「サヴァイヴ感(決断主義)/自己肯定」が基調になっている作品が多いように思われる。おそらくは、世の中がそういう方向性の作品を求めているのだろう。

作品傾向としても、本作は、今の時代に必要な、意義のある作品だったと言えるのではないだろうか。