無能+光 / 道 [順不同]

引っ越します

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2012年2月5日(日曜日)
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「無能+光」



るのぽサイトで排出する。

 僕は、今日も散歩に出かける。玄関を出て、いつものコースを歩く。下を向いて、鬱々と歩く。景色は眼に入ってくる、太い道路は排雪されて道幅が広い。僕は毎日を同じようにすごし、同じような感情を持ち、同じような目線で見ている。


 家に帰ってきた。パソコンを開き、文字を打ち込む。僕が打ち立てようとしてきたことは、砂上の楼閣だった。バベルの塔を建てようとしてきただけだった。ないものをあるように見せ、示そうと、周りを欺き、自分に嘘を重ねてきた。そう、有用な振りをしてきた。自分は有用だと言おうとしてきた。示そうとしてきた。これはもちろん裏返る。そう、僕は無能なんだ。無能。何の役にも立たず、嘘をつき、虚勢を示す、バカな輩。僕は無能なんだ。難しい本を読むのも、無能を隠すため、英語を勉強するのも、有用だと示すため、自分は偉大で、立派で、頭がよく、スマートな将来有望だと示そうとする、有用だと言い張ろうとする、何にもない奴。僕は有用だと言おうとする無能な人間。自分の眼を欺いてきた。



 こすっているのも無能な象徴だ。自分を慰める。無能を隠そうと必死に抵抗してきた。欺きが核になって、広げよう示そうと躍起になった。無能に蓋をして、暗い井戸に沈めた。今立ち現われようとしている。無能はすべてで、すべてに示す重要な道具だ。父は無能で、母は無能で、もちろん僕は無能だ。無能こそ重要な言葉。言おうとしているタイトルは書く前から決まっていた。無能からすべては始まる可能性がある。Iceageが流れている。言い立てる。創作と壊しが重なる。僕は無能から始めたい。嘘をつく必要はないじゃないか。佇(たたず)みたい。そっと静かに立ちたい。木々の中で、寒い中、樹木の呼吸を感じ、木々に同化しようとするのか、森に重ねて、呼吸したい。無能はいい言葉じゃないか。



 手をこすって、垢が出る。手から落ち、地面に撒かれる。吸い込まれ、土の中深く落ちていき、どもまでも溶けて、融かして、熱を持ち、光を放ち、解けていく。土の中で光は、四方に広がり、大地までが光り始める。その光は、大気を照らし、光線が伸びていく。光がジグザグに放たれる。月に届くくらい光は伸びていき、消えた。









「 道 」



 空を叩く、コンコン、こんにちは。 いますか。部屋の中は静まり返っているようだ。誰もいないんだな。コンコン。ドカッと蹴っ飛ばして、ドアを壊した。中に入り、ポケットに入れておいたりんごを齧る。だれもいない。あいつはどこに行ったんだ。どこへ。港かな。行ってみよう。


 部屋を出て、坂を下って漁港に向かった。たぶん奴はいない。どこへ行ったんだ。なんで奴を追っているんだ。ようもないのに追いかけ回す。空が曇ってきた。雨が降りそうだ。ポツポツと顔に当たり始める。風も吹いてきた。どこかで雨宿りをしないといけない。さてどうする。ドアを開け、商店に入る。ここで雨宿りだ。おやじかおばさんは出てこない。するめがぶら下がっている。缶詰も並んでいる。地元の人間だけを相手にしている地方都市の商店。音楽が流れていて、たぶんおやじかおばさんが聞いているのだろう。リクエストだろうiceageがかかっている。空で何かが光った。雷か? ズドーン。遠くに落ちる。ズドーン遠くに落ちる。ズドーン少し近くなってきた。おじさんが出てきた。いらっしゃい。なんにいたします。おじさん、あまやどりしているだけなんだ。おじさんの顔が曇り、早く出ていってくれと言っている顔になった。雨も雷も遠くなったので、そこを出る。

 もうあいつのことはどうでもよくなった。女の尻でも追いかけたほうが得策だ。あんな奴追いかける価値もない。どうでもいいや。駅に向かい、350円の切符を買った。ローカルの普通に乗る。各駅停車でいちいち駅に停まる。急いでいるわけでもないのでこれでいいや。これしかない。この汽車に付き合う。駅のあたりでは揺れる。ゴトゴト。汽車は進んでいく。レールの上を実直に進んでいく。時たま下りとすれ違う。窓の外には、工場の景色が続いている。鉛色の空気。重い。乾いていて重い。景色を眺めていると、旅もいいもんだと、自分の目的もない旅に心地よさを感じる。目的はないけれど、350円の切符なので、350円のところの駅で降りた。



 ここにも350円の町が広がっている。商店があり、パン屋があり、飲食店がある。安っぽい街の景色。貸自転車屋があったので700円払って乗っかる。高い。吹っかけやがって。でもこのママチャリが気に入った。3段変速。かなりスピードが出せる。坂を上り、下って、川があったので、ママチャリを投げ捨て、乗り捨て川に歩いていく。いかにも地方都市の地方の川。2級河川とかいうのだろうか。濁った茶色い水が流れていく。川の中に入っていき、沐浴した。そう俺は出家したんだ。今日から俺は坊主になる。

 そんな気分になった。実際の俺は川には入らず、眺めていた。川にはビニールとかが流れてくる。水は恐い。なにもかも飲み込む。強い力と吸引力を持っている。何でもかんでも飲み込んでパワーとしていく。恐くなって川を離れた。魂まで流されそうだった。かわいい女の尻はどこにあるんだ。俺は尻を求めてこの町に下りたのに、尻はいない。遠くで汽笛が鳴った。汽車は動いている。自転車に乗る気はなくなった。歩いて行こう。草をかき分け、土手に上る。土手沿いの両側の道の片側を歩いていく。ずっと続く。トボトボ歩く。咳き込む。ゴボッとなった。日が暮れてきた。駅に帰る気はなかった。川沿いの道を歩いていく。どこにつながるのだろう。いなかに、どこかの森につながるのか。それとも町に行くのか。砂利が撒かれた土の道を、ランニングシューズで歩く。どうでもよくなってきた。腹が減る。腹へったあ。疲れたあ。歩く。ドンドン歩く。トボトボ歩く。道は続いていく。

 悪魔が出てきた。悪魔はこういう。女の尻が欲しいか。欲しければくれてやろう。だが、お前から支払いがないと尻はやれんなあ。悪魔、何が欲しいんだ。俺は尻が欲しい。お前の髪の毛が欲しい。そうかくれてやろう。おれはきっとハゲになるんだ。つるっパゲになるだろう。俺は悪魔と取引した。俺は女を得て、悪魔は俺のハゲを手に入れる。なかなかいい取引じゃないか。でも、俺のハゲに価値なんかあったっけ? 俺は発射した。夢だった。俺はあの川で背中を丸くしてしゃがみ込んで、小さく眠りこけていただけだった。さっき捨てた自転車を拾って、さっきの町を目指した。駅について、汽車に乗り、いつもの日常に戻ろう。もどるしかない。毎日だから。

日記

 読み終わりました。


「増補新版 カラー版 世界服飾史」、監修=深井晃子、美術出版社、2010

8. 20世紀後半 深井晃子 氏
日本のファッション・デザインの広がり

p181
〜〈ファム・オブジェ(男性の視線でみた女性)〉のための服ではない、理性的な服の存在を示した。つまり女性の身体を彫塑する服ばかりではなく、抽象的で身体の形とは直接的に関係のない服が着られたとき、初めて着る人と一体化する。服を制御するのは着る人であり、それがまたきわめて官能的でもありうることの発見だった。〜



引用者:ここのところの文章はすごくエキサイティングです。現代の服の話なので、わかりやすい。服と人間との関わり方の新しい提示があっておもしろい。

 身体に合わせて作ってきた、組み立ててきたのを、身体の上に別物として新しい形として作り上げ、服として身体とのシンパシー、友好関係を断って組み上げたとき、着る人の服として新たに立ち上がってくる別の地平が現れる、それを日本人デザイナーがやったという凄さがあったのだろうと、読んで感じました。ここの文章にはしびれました。









2012年2月1日(水曜日)
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 昨日も何もしないで寝てしまいました。

 今朝起きてから午前中いっぱい調子が悪かったです。帰り道はだいぶよかったです。

 今日は起きていられそうです。

 したっけ。(じゃあ、また)

素顔

2011年12月26日(月曜日)
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 風邪を引いて元気でないので、作業所を休ませてもらいました。

 でも起きていられるので放送大学の勉強をしています。

功利主義分析哲学、一ノ瀬正樹、2010 を視聴勉強していまして、10 ウィトゲンシュタインの出現 まで来ました。

 ここで、規則のパラドックスが出てきました。僕は、ルールを覚えてルールに乗っ取ってやるというのが苦手です。どうしてルールの通りにやらなければいけないのか、別の方法もあるのではないのかと付き合うことに拒絶反応が出ます。裏を読み取ることのどこがいけないのかとか。



 ウィトゲンシュタインによると、規則を規則通りにやらなければならないという暗黙のルールの矛盾をあぶりだしています。2ずつ足していけといった場合、996、998、1000、1004、1008と、1000を超えたら4を足すと理解しても間違いにならないというのです。この考え方は僕にしっくりきます。数学の嫌いなところは、ルール通りにやっていくことです。別のやり方や、解釈を変えたり、違う行動が認められていないところです。



 僕と世界とのやりにくさは、僕が額面通りに物事を受け取ることを拒否しているところにあるのかもしれない。どうしても、裏の意図や、真意、その人の核心部分はどうなっているのかに向いてしまう。人物をそのまま受け取れない。それはそのまま、僕自身がそのままではなく、自己矛盾を持ち、表面的な顔の裏に、本当の自分とでも言われているような、別の顔を持っているからかもしれない。僕には、自分で自分を追いやり、閉じ込めてしまっている素顔を隠しているところが大きくあると思う。素顔に気付き、掘り起こしていかないと、僕の現体制の表の顔とは別の押し殺した本音の素顔を見つけ出すという作業が必要に思う。ほんとうに出てくるのかはわからない。僕の現体制はでっち上げだと思う。

透明なセロファン(病気)

2011年11月26日(日曜日)
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「透明なセロファン(病気)」






 唇と唇を重ね合わせ、吸いあった。きみは本当にきみなのか。ほんとうにいるのか。輪郭があやふやだ。はっきりしない。肩を抱いているつもりだけれど、実感がない。僕に女は存在するのか。女の輪郭も、自分の輪郭もぼやけている。なにもかもが記憶の中の出来事のように触れられない。きみの手を握っているつもりだけれど、きみをちかくに感じない。僕はなんなんだ。きみはなんなんだ。もうどうでもいい。僕は人間ではないんだ。動物でもない。無機質なガラスで、均質なプラスチックで、ゴムなのかもしれない。飴のように、伸びたりとけたりするのか。


 
 きみのぬくもりが欲しい。心の溶解が欲しい。血管があり、血の流れる温かな交流が欲しい。けれど、きみを感じらない。僕はもうだめなのか。もうだめなのだろう。もうだめなんだ。
 けれど、安住もしない。だめなりに道は残されている。逃げ道がある。細いけれど、確実に続いていく、どこかにつながり、人間が回復し、底上げがなされる、明日を見せてくれるような、ひっかかりを残す逃げ道がきっとある。ぼくはしんじている。きみがふたたび登場し、僕も立ち現れる日を信じている。僕らが輝く日はきっと来る。その日をしんじている。だから、ぼやけた、手触りのない、失調の毎日に甘んじる。転換点を見据えている。現れなくても、それを夢想することで、ぼやけた毎日に甘んじる。この崩れた豆腐のような毎日を引き受け、ローテーションを組み、動かすことを受け入れ、心血を注ぎ、機械を回し続けるんだ。このシステムを回すことが、明日をつくるとしんじているから、今日もぼやけた毎日を動かすんだ。僕の歯車は、消えてもいい、なにもなくてもいい、かならず触れる日は来る。僕は触ることになる。かならず、感触を得る。

世界最遅。

2011年11がつ14日(月曜日)
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 世界最遅。



 これが世界に誇る最遅(さいち)だ。今までに例を見たことがないほどに遅い、ノロい、イライラする。あまりの遅さにみんなに迷惑をかけ、煙たがれる最遅。


 しかし、イライラしていていいのか。なぜ遅いことを嫌うのか。速ければいいとだれが決めた。わざと遅くし、スピードを下げ、遅いことを誇ろうではないか。先を急いで何を得ようというのか。他人に後れを取り、置いて行かれることの何が悪いのか。自分のペースを守り、自分の守備範囲をがっちり固め、やることの核にある本質・何が本当に求められているのかを他人任せにしないで自分で決めていく、それが最遅だ。


 最遅は世界に誇れる標準規格であり、それを超えていくものだ。これからの世界を担うのは最遅以外にない。
借りものの人生でいいのか。自分の足で立とうとはしないのか。世界の価値観が逆転するところを見ないですます手はないはずだ。


 きみに寄り添う最遅。ぜひ手にとってご覧いただきたい。その素晴らしさに驚愕することになるだろう。


 あなたとともに。

ママ

2011年11月12日(日曜日)
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「ママ」



 トマトが落ちてきた。潰れた。とんびは飛んでいた。空をクルクル回って悠々と。トンビはそんなに安泰ではない。カラスなどは何とも思っていないようで、攻撃を仕掛けたりする。テレビで見たんだ。

 乳母車を押していた。乗っているのは子猫なんだ。空には太陽がギラギラ。まぶしい。暑い。アイスキャンディーが食べたいな。前を歩く女の子のお尻が欲しい。

 日は陰(かげ)ってきた。乳母車の子猫をどうしよう。どこに連れて行こう。きっとママにしかられる。ママーッ。
 僕は男で、ママを恐れている。ママのどこが怖いかって。規則と歯車と、強制だと思う。ママにはかなわない。ママーッ。
 お月さまと太陽が同時に昇ってきて、暗い空を皓皓(こうこう)と照らす。ママの顔を思い出そうとするけれど、輪郭が浮かばない。僕の頭はおかしいのかって。子猫にミルクをあげなきゃ。お腹を空かせているようだ。僕も腹が減ってきた。ママのご飯を食べに急いでお家に帰ろう。ママーッ。

 クルマがひっくり返って駐車してある。タイヤが4個空を向いている。スポーツカーだけれど、あれでは走れないだろう。よく見たら、運転手もひっくり返って座席に座ってらあ。ハンドルを握って、煙草を吹かせている。態度が悪そうで、目つきも変そうだ。運転しているところなのだろうけれど、進んでいないよ、オッサン。

 ママの呪文に負けているうちは、僕には女は手に入らないだろう。ママーッ。
 僕がママに呪文を掛ければいいや。ハンドロコンチロキロプンドー。今度は僕の番だ。

 太陽は沈み、月も沈んで、ステンレスの電燈が灯(とも)った。暗い空は明るくなり、蛾が集まり、気分はしぼんだ。また明日が始まる。今日は終わる。僕の居場所はなく、空は空気が一列にどこまでも並び、遠くまで伸びている。足首風船※を乳母車に縛り付け、どこまでも歩いて行った。

※足首風船とは、足首を切り落とし、逆さにしたもの、血が滴り落ちている男の足の形をした風船。切断面もリアルに作ってあり、スネ毛も見える。


 きみは遠く、僕はうつむいてトボトボ家路につく。

「鼻水賢人」

2011年10月29日(土曜日)
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「鼻水賢人」


 わしは帰ってきたぞ。でも今回は、前回ほどじゃないんじゃ。そんなに盛り上がらない。

 わしの最新の伝授情報は、股くぐりじゃ。大人の男の股をくぐると、金運と恋愛運がアップじゃよ。お薦めじゃ。

 わしもこの屈辱的な方法を考案した時は、どうかなと思ったのじゃが、屈辱を屈辱と思わないときに運が開けるんじゃよ。映画、酔拳ジャッキー・チェンじゃったと思ったが、あの時、ジャッキーの運はアップしたのじゃよ。皆も気がついたかな? この世に股くぐりという屈辱的なこと以上に運がアップすることはないんじゃよ。

 どうやってこの、伝授情報を得たかって? わしは、その時、掃除機をかけていたのじゃが、洗濯したカーゴパンツがかけてぶら下がっていたのじゃ。そのパンツの下をくぐらないと前へ進めなくなったのじゃ。わしは自分のじゃがパンツの下をくぐったのじゃ。その時の屈辱感が感動的じゃった。自分のだから屈辱しないんじゃないかって。そんなことはない。すべてのパンツくぐりは、股くぐりにつながるのじゃよ。自分のパンツをくぐるのにこんなに屈辱的なら、他人の股をくぐる屈辱がどんなに大きく、強いことか察したのじゃ。じゃから、股くぐりは金運、恋愛運アップの決定的な技術なのじゃよ。この重要な伝授を与えてしまったわしは、また旅に出て修行せにゃならん。新しい技を修めるまで家には帰らんつもりじゃ。


 屈辱感が大事なのじゃよ。男が男の股をくぐる、これは大事じゃよ。わしは自分のパンツの股をくぐっても屈辱感を持ったからな。みじめさが原動力じゃ。感じることはどこにつながっていくのじゃろうなあ。見たり聞いたり感じたり、そういうことはどうなってくのじゃろう。消費じゃないぞ、感じることじゃ。わしらはどこに運ばれていくのじゃろう。ただ土に帰るだけなのじゃろうか。人間に生まれ、人間活動をし、人間の中で生かされ、場所を与えられているわしらは人間であることで幸せになるのかもしれん。人間活動はすごいことなのかもしれん。その幅と厚さと高さは一人の人間の知るところではないんじゃろう。わしのような、頭のよくない人間にも薄々は感じるんじゃよ。人間の端くれをやらせてもらっているわしにも感じるところはあるのじゃよ。