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このこ、どこのこ(文芸ブログ)

2010-07-09 文學界7月号新人小説月評

月評7月号

シリン・ネザマフィ「拍動」(文學界

 まず日本語を母語としない人間が、これだけの文章を書くことに驚く。言われなければ外国人だとはまったくわからないにちがいない。文学的な印象の文体だ。今の若手作家のなかには、もっと砕けた口語調の文章しか書けないものがいくらでもいるだろう。

 とはいえ内容は物足りない。主人公の「私」は恩師である山本先生に久しぶりに呼び出され、アラビア語の通訳を頼まれる。北アフリカ出身の非常勤講師アラン先生が、交通事故で突然意識不明の重体になってしまったのだ。故郷から駆け付けた言葉の通じない家族たちに状況を伝え、少しでも慰めることが彼女の役割だ。しかし、好転の兆しのないアラン先生の病状を前にして苛立ちをつのらせた家族は、自分たちが外国人だからろくに治療もされない差別待遇にあっているのだと疑心暗鬼をつのらせる。一方、山本先生をはじめとする日本人サイドは、軋轢をおそれて本当の病状を伝えていなかった。

 異文化に接触した人間が違和感を苛立ちや怒りに転化してしまうことはよくある。そして怒りをぶつけられた側は、その戸惑いを彼らは異人種だからという認識に変えて防御し、やり過ごそうとする。その結果お互いの気持ちはまったく理解されない。ここに描かれているのはそのような状況だ。けれども社会科学論文なら、こうした状況をビビッドに描き出すだけで何らかの啓蒙的な価値を持つのかもしれないが、小説としてはいかにもありそうなありふれた事態にしかみえない。小説としてのまとまりを考えるなら、焦点は、在日経験の長さゆえ、アラブ側の気持ちも日本人の対応も理解できてしまう「私」のアイデンティティのゆらぎ、ということになるのかもしれないが、その部分が通りいっぺんにしか描かれていないので印象が薄い。

 感情表現がストレートで、怒りだすと止まらないアラブ人、衝突をさけるため曖昧にものを言おうとする日本人というのも紋切り型だ。いや、紋切り型でも真実をついているのかもしれない(少なくとも外国人である作者の目にはそう映ったわけだ)。しかし、彼らの行動は読者の予想内であるために驚きがない。

 結局のところ、文章は悪くないし(ところどころねちっこい描写があってそれはよかった)、描かれているシチュエーションも自然な(ありそうな)ものなのだが、そこから踏み出せずに終わってしまった。

 しかしこの書き手が優等生であること、努力家であることは確か――でなければ、短期間で内容と文体両面の「純文学っぽさ」をマスターできないだろう――なので、次の飛躍を期待したい。

上村渉「群青の杯を掲げて」(すばる

 十代の頃、一緒に新宿で飲んでいた友人が、歩いて家まで帰ろうと言いだした。目的地は千葉船橋東京を横断することになる。もちろん酒の勢いもあったが、それより今しかできない馬鹿なことをやるのだといった興奮があった。道をまちがえて大回りしたせいもあって、友人の家にたどりついたのは朝の十時ごろではなかったかと思う。疲れ切っていた。しかし達成感もあった。何より、気の合う仲間としゃべり通しだった数時間が、なによりも貴重なものに思われた。つまり、我々はまだ童貞だったということだ。

 この作品を読んでその夜のことを思い出した。苦味の利いた青春小説だ。

 俊と大輔は、フリースクールで出会った友人だ。二人とも不登校の過去を抱え、今も社会に対する不適応感を抱えている。といっても、俊の方はIT関係の小さな会社に、大輔はクリーニングチェーンに勤めてそれなりの信頼を得ている。つまりきちんと社会人をやっているわけだが、本人たちはそう感じていない。客観的にそつなくこなせていたのだとしても、ちょっとしたことをきっかけにまた道を外れてしまうのではないかという薄氷感が決して消えないからだ。このあたりの機微の描き方がいい。ひきこもり経験者にとって最大の恐怖は、再び精神のバランスを失い、過去に経験した自意識の地獄へとまた落ち込んでしまうことだろう。その意味で彼らは、アルコール中毒からの帰還者に似ているのかもしれない。

話はいくぶんずれるけれども、現在たまたま村上龍の『共生虫』を読んでいる。1999年に連載された作品で、やはりひきこもりの青年が主人公、それも完全なモンスターとして描かれている。龍が絶頂期の作品とあって、さすがに圧倒的なおもしろさだが、ひきこもりが過剰で病的な存在として扱われているという点では、現在とずれてしまっていると思う。つまり、当時ひきこもりはまだ新奇で不気味な現象として感じられていたかもしれないが、その後十年で、確実に私たちの社会の平凡な一部――であるがゆえにますます深刻な――になったからだ。 

現在もひきこもりが主人公の作品は珍しくないけれども、その多くは結局物語を劇的にする素材として利用しているだけだ。その点、この「群青の杯を掲げて」では、物語のために(元)ひきこもりという設定があるのではなく、(元)ひきこもりという存在のために物語が作られている。

ちょっとしたことからバランスを崩した俊は、東京からフリースクールのある御殿場まで歩こうと言いだす。大輔も俊に引きずられるようにつきあう。小説の大部分は、このただひたすら道を歩き続ける描写からなっている。いわばロード・ウォーキング・ノベル。難をいえば、もう少し読者サービスがあってもよかったと思う。たとえば、過去のエピソードを適宜織り込むことで、彼らの心情に膨らみをもたせ、また単調になりがちな叙述にメリハリをつけることができたのではないか。


温又柔「来福の家」(すばる

 名前が温又柔だけにというのは悪い洒落だが、ほんわかした温かなエピソードばかりつづく。物語がなくて自分語りだけがある。だから、小説というよりまとまりのない長大なエッセーを読まされているような気持ちになる。語り手は日本で生まれ育ったが、日本国籍はない華人台湾人)。大学卒業後、不得手だった中国語を学ぶために専門学校へ入り直すという決意を軸に、日本語、中国語台湾語の三つの言語と自分の関わりをいろいろと考える、というのが主な内容だが、ストーリーがないので結局散漫な印象しか与えない。何か切迫感がないのである。個々のエピソードも、そういう境遇であれば経験しそうなごくありふれたものばかりだ。そして出てくる人物がみな善人ときている。優しい家族と友達に恵まれて、個人的には慶賀の至りだが、読者にしてみれば「それで?」というほかない。

 それにしても、国籍アイデンティティの問題を扱ってこれほど陰りのない話も珍しいのではないだろうか。これはやはり出自が台湾だからなのか。大陸系であればこうはいかなかったような気もする。作者がふたつの国家のはざまに生きて、きわめて朗らかでナチュラルであることは素晴らしいことには違いないが、小説としては退屈だった。

松波太郎「関誠」(すばる

 これはおかしかった。前作の「東の果て」(文學界)は、野心的ではあるものの、仕掛けが収束しないでとっちらかったまま終わってしまった感じだったが、こちらはきっちりまとまった好短編。最近転職したばかりの戸川クンは、職場の先輩である関誠(せきまこと)に実家にまねかれる。物語の半ばは、このときの関誠の描写に費やされる。とにかく変人である関誠の一挙一投足のズレぶりが絶妙におかしい。さらに一緒に暮らしている関の母親もおかしい。小心な凡人である戸川クンは、先輩と事をかまえたくない一心で同調しているのだが、実際のところ彼の奇妙な行動を子細に観察している。しかし気安く馬鹿にしたり意地悪になったりしないのが戸川クンのいいところで、彼のニュートラルな眼差しを通して、関誠の妙に論理的な印象を与える奇行の数々が詳細に描写される。

しかしそれだけだったら単に奇天烈な人を描いただけに終わっていただろうが、読んでいる途中で不意に気づくのだ。この作品は荒唐無稽なギャグ小説ではなく、むしろ何か障害――アスペルガーを連想させる――を持つ青年の写実的な肖像ではないのかと。その瞬間、関誠の印象ががらりとかわる。つまり彼の奇行から透けている真面目さ、誠実さ、純朴さ、優しさといったものが見えてくる。

 

広小路尚祈「塗っていこうぜ」(すばる

前作の「うちに帰ろう」では、精神的なバランスを崩した主婦と、そのママ友である男性主人公の気軽なやり取りが、どんどん二人を深刻な状況に追い詰めていくおかしさがおもしろかったのだが、それと比べると今回はちょっとわかりやす過ぎるかな、という感じ。前にもましてすらすら読めるけれども、その分、分類不能のおもしろさはなくなってしまった。

 主な登場人物は「おれ」、ジュンペイ、ケンタの三人。十代の頃は一緒につるんで「やんちゃ」していて、その地域では知られた不良だったが、今はみなまじめにガテン系の職についている。「おれ」は塗装工。彼は世の中は絶望で真っ黒でもなく、かといって光に満ちているわけでもなく、暗がりのなかにかすかな希望がさしている「茶色」なのだという信念を持っている。最近地元のシャッター商店街が落書きだらけになっていることを憂えた主人公たちは、「おれ」を中心に深夜にシャッターを茶色く塗ってまわることを決心する。プロの技で商店街を見かけだけでも再生させようというわけだが、もちろん違法行為だ。ところが、ペンキを塗っているあいだに溶剤の臭いにケンタがシンナー中毒をぶりかえして……。

 狙いはわかる。ストレートで肉体派で、うじうじ悩みたくても先に体が動いてしまう、そんな三人がタッグを組んで寂れた田舎町を塗って塗って塗りまくる、という設定はいかにも明るく勢いのある作品になりそうだ。彼らが元不良とも思えぬほどまじめでやけに好青年なのも、キャラクターの深みより軽快さを優先したのだとして、まあ良しとしよう。けれども、キャラクターをシンプルにしたぶん、彼らには思いっきり動いてもらわなければならないが、そこが中途半端なのだ。というのももともとプロットに起伏がなさすぎるのである。物語の定石上、彼らが結成したチーム「ちゃーす」は、何度かの危機を乗り越えて結束していかなければならないが、活動を始めたばかりで空中分解してしまう。それに「おれ」と恋人フジコとの関係も書きこみ不足。今のままでは単なる怒りっぽいおばさんだ。母親の再婚のエピソードだって宙に浮いている。そんなこんなで、連載途中で打ち切りを命じられて、とっちらかったままになってしまったマンガのような味気のなさが漂う。枚数と内容の兼ね合いを見誤ったのだろうか。素材を生かして書きなおせば良くなるかも。

木村紅美「黒うさぎたちのソウル」(すばる

 これまで木村紅美というと、二十代の女性の淡い思いや孤独な心情を繊細に、しかしどこか風通しの良いままに描く作家という印象があったのだけど、今回はやや新機軸。いや、かなり大胆な試みだったと思う。大胆というのは、最近流行りでもあるスクールカーストを前提にした少女小説の枠組みに、現在まさに進行中の極めつけの大問題、戦後史の宿痾とでもいうべき主題をぶちこんでみせるという大技だったからだ。すなわち、沖縄基地問題。それも単に、リベラル派のお題目を社説風になぞるのではなく、沖縄内部の差異にも目を配り――沖縄本島からも過酷な差別を受けた地域である奄美がとりあげられる――苦しみから湧き出す歌=ソウルミュージックというテーマも繰り出し、それをほとんど知られていない奄美の特異な民謡と結びつけて、少女暴行事件を表象するのだから、大技につぐ大技である。大したものだ。単に社会的なテーマを取り上げているからではなく、沖縄問題とゴスロリ少女を結び付けるという発想がまず新しい。

それでは、見事歴史とがっつり四つに組んだ、本邦初の(?)社会派少女小説にして、ロックンロール民謡小説の誕生かというと、残念ながらそうもいかない。技が決まり切らず肉離れを起こしてしまったというか、どこか水と油のようにテーマが混ざり切らずちぐはぐなのである。

背景は1999年、主人公麻利はLUNA SEAに夢中の高校三年生東京育ちだが、両親は沖縄県人である。幼いころからの友人奈保子は奄美大島の血筋で、やはりLUNA SEAのファン。昔は親友のようだった二人だが、最近は学校で所属するグループが違うせいでどうもうまくいかない。そこには、社交的でルックスもいい麻理とどこか陰のある奈保子という違いばかりでなく、沖縄奄美の微妙な対立感情も影を落としているようである。

二人はLUNA SEAの東京ビックサイトのライブに行ったことから、仲たがいし、お互いにひどい言葉を投げあう。

どうしてもテーマの社会派的な骨太さと、実際に描かれる世界――平凡な女子高生の心情――の小ささがうまくかみ合っていない感じ。でもおもしろい試みだと思います。

鶴川健吉「乾燥腕」(文學界

 文學界新人賞受賞作。後宮は冴えない新人サラリーマン。安アパートでの一人暮らしで、息抜きと言えば自慰くらい。このいかにもツキのない男の、何一ついいことのない日常をねちっこく、戯画的に描いていく。まず隣人も変人ばかりであるアパートが凄まじい(思わず武田麟太郎を思い出した)。また、触覚的な不快感をしつこくしつこく描写する。個人的にはネズミの尻尾が一番来た。今住んでいる場所ではネズミをしょっちゅう見かけるので、それだけ生々しいのだ。

 ただ、生理的な不快感のヴィヴィッドな描写という点では、それなりのものだと思うけど、それで終わってしまっている。あと何が欠けているのか。キャラクターの魅力だろうか。登場人物の絡み合いだろうか。物語が転がっていく勢いだろうか。一次的なモチーフの反復という点では執拗過ぎるくらい執拗なのだけど、その先の部分がお留守なのだ。

穂田川洋山「自由高さH」(文學界

 こちらも新人賞受賞作だが、とにかく文章が見事だ。緻密に組み立てられ、丹念に磨き上げられた一分の隙もない手練の文体で、意図されたわずかな古めかしさが作中の柿渋同様、古色のついた艶を放つという按配。内容は、さして若くも見えない男が、取り壊し寸前の廃ネジ工場を借りて、木材を切り、塗装を施し、ときおり知人と会話を交わすといった程度の内容ともいえないようなもの。ほとんど文章の魅力を最大化するために、どうでもいいような筋が選ばれたのではないかと思えてくる。

 しかし、実のところ、読みながらどこか息苦しかった。大した文章だと思う一方、その文章の良さから先に気持ちの持って行きどころがないのである。

 見事で技巧的な美文と希薄なストーリーの組み合わせと言えば、すぐに堀江敏幸が頭に浮かぶ。けれど、堀江の場合苦しくなることはない。それは堀江が要所要所で、文章だけに向かってしまいがちな読者の注意を、印象的なイメージや具体的な情感といったものにさりげなく誘導するのが巧みだからだと思う。それらは石造りの壁にうがたれた窓のように、あるいは流麗なメロディ内の休止符のように機能する。小説の文章がもっとも美しく感じられるのは、その文章のことを一瞬忘れ、情景や感情がまざまざと迫ってくる瞬間だ。この作品では、その呼吸がうまくいっていない。というか、そんな印象的な情景なんてものにあっさり着地してたまるか、と意地になっているところさえあるのかもしれない。人物に関しても、あくまで表層的な描写にあえてとどまっている感がある。しかしそんなに肩肘をはらなくてもいいのではないか。


戌井昭人「川っぺりらっぱ」(en-taxi

 この作家は、世間の隙間に落っこってしまったような人間を描くのがうまい。社会に反抗している、世を拗ねている、というのとも少し違うし、落後者、挫折者というのとも微妙に異なっている。なぜだかその男の周り半径数メートルだけ、世の規範が働かなくなってしまっている。圧力が薄れてしまっている。世の良識あるオトナたちの意識の大部分を占めているような事柄、つまり間近に迫った納期だとか、職場の人間関係のわずらわしさとか、経済的な不安であるとか、そういうものが抜け落ちて真空状態に立っている。本人も、何で俺はここにいるんだろ、と首をかしげている。そんな風情である。

 前作の「ぐらぐら一二」(群像5月号)は、事故で指が二本落ちてしまったのを淡々と受け入れる若い男の話だった。普通だったらショックで落ち込んだり激高したりしそうなものだが、彼は平然としている。それでいて、少しも病的なところを感じさせないのが独特だった。

 今回は、売れないジャズミュージシャンが主人公だ。彼は実家が所有している川べりのプレハブの二階に寝起きしている。もともと砂利置場の事務所なので、便所は建設現場にあるような簡易便所だし、シャワーは水道にホースをつないだだけのものだ。ミュージシャンと言っても食えているわけではなく、他に仕事もしていないので極貧生活だが、本人は何となく納得してしまっている。満足している、ということではない。いつのまにかその生活に体がなじんでしまっているのである。

 一応サックス教室を開いているのだが、生徒は三人しかいない。こんなうらぶれた教室に通ってくるのは、そもそも自分も生来のツキのなさが肌身にしみ込んでいるか、さもなければ腹にいちもつある奴しかいない。この中では、田んぼと呼ばれている小学生がおもしろい。なぜこの教室を選んだのかと聞かれて、「駄目な奴の雰囲気も吸収しなくちゃジャズはできねえからな」とうそぶく生意気なガキだが、ピアノを弾かせればちょっとした神童であるらしく、また案外いい奴にも思える。

 そのほかにも、土建屋の父、ヤンキーの姉、主人公をジャズに導いた破滅型の先輩とキャラがいちいちしっかり立ちながら、エッジが効きすぎて奇人になっていないところがいい。

 ストーリーと呼べるほどのものはないけれど、個々のエピソードはどれもクスリと笑ってしまうようなものばかりだ。と同時に、かすかな哀感と憂鬱さも漂っている。それは主人公が、音楽に打ち込めなくなり、ちんたら停滞していると感じるところから来るのだが、それでいて妙にふてぶてしい、人生を棒に振って何が悪いという開き直りも感じられるのだ。

 決して斬新でもなんでもない話なのに、なぜかするすると引き込まれ、もっと続きが読みたくなる。これだけ多彩なキャラをたくさん出しておいて、いっさい収拾をつけないまま終わらせてしまうのはもったいない。ぜひ、連作にしてほしい。

赤染晶子「乙女の密告」(新潮

 以前この作家の作品を一、二読んだ覚えがあるのだが、どうもよくわからない、という印象しか残らなかった。がちがちの前衛小説に思えたり、逆に、かなり病的な感覚をそのままじかに吐露したものなのか、と思ったりした。だが、この作品を読む限りどちらでもなさそうだ。かなり知的で構築的、かつユーモラスな作風である。

 最初の設定はコメディータッチ、それも学園マンガ風。京都にある女子学生ばかりの外語大。そのドイツ語科では、つねに人形を小脇にかかえている変人外国人教師の指揮のもと、学生たち(「乙女たち」)は「黒ばら組」と「すみれ組」に分かれて競い合っている。何を競い合うかというと、外国語スピーチコンテンスト。今は「アンネの日記」を題材にしたコンテストが控えている。黒ばら組のリーダーで、コンテストの女王である麗子様、その麗子様にあこがれる主人公のみか子、その友人で帰国子女の貴代といったところが主な面々。ネーミングだけですでに七十年代のスポ根少女マンガ風味である。スポーツがスピーチに、美形のコーチが怪しい変人教授に差し替えられているだけだ。

 ところが、途中からスピーチ素材のアンネの存在感が増してくる。すなわちユダヤ人というアイデンティティを否定され、オランダ人という他者へ同化する夢にすがらざるを得なかったアンネの苦悩に、登場人物たちが共振していくのだ。スピーチと人形を巡るドタバタが、アンネの逃亡生活の再演となる。パロディと見せかけて、むしろポリティカルで実存的なテーマが作品の中核にあるのである。

ただ、おもしろおかしく楽しく読ませるけれども、アンネ・フランクに託して語られる主題が充分に展開されているようには思えなかった。アンナ・M・フランクといった名前に象徴されるような個人の単独性、固有性の尊厳といった主題はそのまま受け取ればあまりにストレートに過ぎ、より複雑で微妙なニュアンスを読み取るには、メタフィクションめいた仕掛けが邪魔になる。最後に伝わってくるのは、作者のアンネ・フランクによせる熱い共感であった。

浅川継太「朝が止まる」(群像

 群像新人賞受賞作。二つのパートが交互に続く。第一のパートは、電車の中で出会う若い女の後姿をひたすら窃視し、あとを追いかけていく男の一人称。ねちっこくやばい感じであるが、どこか詩的だったりもする。第二のパートは、二重目覚まし時計なるいかがわしい商品を売る若い女の語り。この二重目覚まし時計というのが作品の肝で、見かけはただの目覚まし時計、ただし前ぶれなく二回目のベルが鳴ることがあるのだという。そのベルが鳴ったとき、持ち主はこの「現実」という夢から覚めるのだという。つまりマトリックスでいえば、モーフィアスが差し出す錠剤のようなものだ。かなりメタフィジカルな話である。

 とはいえ、この二重目覚まし時計が単なる法螺なのかははっきりしない。ストーリーは、二重目覚まし時計の真偽は置き去りにして、売り手である「わたし」と彼女が所属する怪しい組織の駆け引きのようなものにシフトしていくからだ。これだけで、ずいぶん凝った造りであることがわかると思う。作者はこのややこしい話を破綻することなく、「安定した書きぶりで造形し遂げている」(選評の松浦寿輝の評)。

 ただ僕はその実力は認めつつも、どうも乗ることができなかった。これだけ周到に謎を張り巡らせ、リアルとその外部の反転を仕掛けておきながら、最後までその謎には切り込まずに、周囲をぐるぐる周っているだけなのだ。最初から爆弾を破裂させる気のない爆弾犯みたいなものである。ごまかされたような気がする、というと大げさだが、どうも肩すかしをくらわされたような感じだ。(ただ、自分は女子高生の見ている夢なんじゃないかと思い悩んでいる脂性の中年男、という小さなエピソードだけはやたらとおかしかった。)

野水陽介「後悔さきにたたず」(群像

群像新人賞受賞作。選評にコンビニを素材にするのはありふれているという意見があったが、そうは思わない。確かにコンビニ自体は若手作家の作品にしょっちゅう登場する。けれども、単なる場所としてではなく、意識的に労働の現場としてコンビニをとらえたものは多くないだろう。読みながらあらためて思ったのは、日本で発展したコンビニという業態が、いかに日本の国民性、歴史的特殊性と結びついているかということだ。具体的には、これほど膨大で多種多様な商品を、システマティックに精緻に管理している小規模小売店など世界中探してもないのではないか。少なくとも僕が今生活している中国では到底無理そうだ。中国にもコンビニはあるが、雑貨屋とそれほど隔たっているようには思えない。よほどの高給でも約束しない限り、平均的な中国人労働者は、コンビニを回していくのに必要な煩瑣で複雑な作業の数々を受け入れられないだろうと思う。なぜそこまでしなければならないのか、と思うはずだ。なぜ床に泥はね一つついていてはいけないのか、なぜ商品が一ミリとずれずに整然と並んでいなければならないか。

 もちろん日本の優秀な労働者マンセーというつもりはない。むしろこの種の過剰なサービス基準が不幸を生んでいる面は大きい。この作品の主人公サクライは、コンビニ店長なら喉から手が出るほど欲しい、コンビニ店員のプロ、超人的なスーパーコンビニマンだが、ほとんどフルタイムで働いて手にするアルバイト代は21万程度に過ぎない。しかし彼がこの仕事に注ぎ込んでいる情熱と労働の量は、どんなエリートサラリーマンをも上回るものだ。ほとんどこれは無償の情熱なのだ。そしてもちろんサクライ以外のアルバイトに、もしもサクライのように働くことを求めるとしたら、これは地獄以外の何ものでもないだろう。

 さて、ここまで書いてきてなんだが、以上の部分はこの作品とはほとんど関係ない。というのは、この作品は過酷な労働の苦しみを描いたワーキングプア小説でもなんでもないからだ。もともとそうした社会的視点とは無縁の作品であって、以上は読みながら考えた個人的な感想に過ぎない。ではいったいどういう作品なのか。

 僕はこの作品を、神にも等しいひとつの主体が小さな宇宙を統べていく神話的、あるいは古典的作品だと感じた。実際に書かれているのは、傍からは変哲もなく見えるだろう理系大学生サクライが、コンビニでルーティンワークをこなしていく様だが、実のところこれは、閉ざされた「商品の宇宙」(マルクス)を内なる律に則って統治していく主体についてのある種の神話であると思う。でなければ、これほど単調な話がかくも魅力的なのか説明できない。コンビニというミクロコスモスを、天体にも比すべき厳密な原理に従って運行していく店員サクライは、近代小説よりも古典劇の主人公に近く、2010年代の日本におけるささやかな王である。だから彼の王国の秩序を脅かす異物(コンビニ前にたむろする不良など)が排除された後、近代小説ではあまり縁のない種類の慰安(すべては当を得ており、正しい摂理が働いているという安心感)が訪れるのだ。


牧田真有子「預言残像」(群像

 この作家については、一年前に読んだ「夏草無言電話」という作品を読んだときにいたく感銘を受けて、短い文章を書いたことがある。ある媒体に載る予定だったのだが、事情で流れてしまったので、こちらで蔵出ししておく。

 その前作は、結晶のように閉ざされた透明度の高い世界を形作っていた。しかし今回は、より多くの題材をとりこみ、登場人物を増やして世界を広げようと試みたあとが伺われる。しかし、それはまだ成功しているとはいえないようだ。もともとこの作家は、精緻なリアリズム思春期の心情をたどるうち、いつのまにか幻想の気配が漂いはじめるという作風の持ち主だ。あくまで基調となっているのはリアリズムである。ところが、今回は予知夢や謎の死亡事故や原因不明の殺人衝動といった大げさな道具立てがリアリズムの部分と噛み合っていないために、どこかつくりものめいて人工的な印象を与えてしまう。具体的に言うと、日常のささやかな心理や心情の描写に関しては隙がないのに、彼女の根本動因である殺人衝動といったものは理由を説明されない。だから、不自然に感じられるのだ。ホラーなりミステリーなりであればそうした不自然さも許容範囲だが、このタイプのリアリズムでは気になってしまう。

 それと関連するけれども、主人公たちの心理の理路がどうにも呑み込みにくい。高校生の朱泉は、兄から自分の死を予言された瞬間、歓喜に包まれる。それはどうやら、死という終着点をしっかりと自分の手につかむことで、自分というものの輪郭がはっきりとし、瞬間瞬間を取り返しのつかない現在として生きられる、といった感覚であるらしい。理屈としてはわからないではないけれど、観念的であり、納得しづらい。高校生としてあまりにエクセントリックである。いや、高校生だからこそエクセントリックなのかもしれないが、では末期がんを宣告されたとき同じように考えられる十代がどれだけいるかと想像してみると、やはり不自然だと思う。同じことは、もう一人の主人公の心理にも言える。

 ただ、このように成功作ではないにしても、あらためてとてもいいものを持っている作家だと感じた。描写のひとつひとつが清冽であり、印象的なのだ。そのうちきっと素晴らしいものを書くだろうと信じている。

柴崎友香ハルツームにわたしはいない」(新潮

 ようやくおぼろげにこの作家がこだわっている事柄がわかってきた。冒頭、語り手の「わたし」は、アイフォンを使って東京の天気を確かめ、ついでにロンドン、フェズ、サンパウロといった地域も見て、最後にハルツームが現在41度であることを確かめる。なぜ行ったことも行く予定もないハルツームの天気を調べるのか。この瞬間、彼女は、自分が今新宿へ向かう電車の中にいてハルツームにはいないが故に、自分が今新宿へ向かう電車の中にいてハルツームにはいないことに深く驚愕しているのだ! 最高だ。ここにはトートロジーだけが引き起こすのできる形而上学的な目眩がある。ただ、今回の作品では、そうした哲学的な疑問――言葉にするとしたら、私という存在の偶有性といったものになるだろう――には深入りせず、複数の場所、情景、話題があたかもアイフォン上のアイコンのように、清潔な快適さで流れていく。プロット的にはほとんどつながりのない場面が、しかし一瞬の遅滞もなく、なめらかに差し替えられていく様は、ほとんど円熟の境地とさえ感じられる。これまで培ってきた技法が完全に自家薬籠中のものとされている格好だが、後半に至って、今までこの作家にはなかった、いい意味でぶっきらぼうで不穏な気配がにわかに立ち込めるのも興味深かった。




 

2010-07-08 牧田真有子「夏草無言電話」

(前略)

今回取り上げたいのは、牧田真有子という作家の「夏草無言電話」という作品。二十八歳というからまだ若い人ですね。十ページ程度の短い作品なんだけど、とてもよかった。高校生の少女が、突然「当分しゃべることをやめる」と宣言するところから始まります。

ところで、いきなりここから大風呂敷を広げたいんだけど、前回の書簡で、近代小説のスタイルというのは、哲学の近代的主観性の構造と結びついているんじゃないかという話をしましたよね。これは、やはりデカルトのコギトを考えるとわかりやすい。ラカンが「セミネール4」で強調していることですが、コギトというのは空虚な、自分が存在しているということ以外は何も知らない無知の主体だよね。それに対して、知はすべて神の側に投げ返される。つまり世界の真実性と整合性はすべて神が保証するということですが、この場合の神というのは自然といいかえてもいい。この瞬間から、無知の主体が、目に見えている自然を一歩一歩観察し、記述することで世界の全体を獲得しなおす、という運動が始まります。すなわち、科学の誕生です。ラカンデカルト幾何学解析学に変化させたことなどを挙げています。もちろん自然は延長を持った物体に変化しており、その内的な論理構造を明かすことが科学の役目になります。

 バルザックフローベールが体現するリアリズムとは、まさにこの科学的態度の文学化ではないでしょうか。話者、ないし視点人物の目の前には、世界が多様な物体として現れている。それを明晰・客観的に記述すること。必然的に描写は高度化していく。ここで問題になるのは、世界がここに現前しているという感覚と、それを可能にする〈今〉という瞬間です。十九世紀のリアリズムの成立に、当時の科学礼賛の風潮を見てとるのは自然なことでしょう?

 しかし、近代文学にはもうひとつの系譜がある。それは、ドイツロマン派に起源を持ち、哲学的にはシェリングらポスト・カントの思考とつながっている。それは瞬間と現前とは対極的に、むしろ生成を問題とするものです。具体的には、自分が発している言葉にたえずメタレベルからの言及を繰り返すことによって、記述を、つまり時間を発生させる。ホフマンなどを読めばわかりますが、このタイプの作品は、リアリズム派の端正なフォルムを獲得することが難しく、プロットが迷宮化していく上に、どこまでいっても未完成という感を与える。均質な時間を前提にして、ある瞬間からある瞬間までを鮮やかに切り取ってみせるのが苦手なのです。そもそも現実というものが明確ではなく、その現実(記述)が成り立つ条件を主題化しているのですから。現代生物学の用語を使えば、「内部観測」ということになるでしょうか。

 さて、ここで牧田有真子に戻ります。この作品は端正なリアリズムの筆致で描かれていると言っていいと思いますが、ここでも問題になっているのは〈瞬間〉なのですね。主人公が言葉を失うのは、自分が桜並木に見とれていた瞬間にある殺人事件が起きていたことを知ったからです。その事件は彼女とは何の関係もないのだけど、美しく桜が咲き誇るのと同じ時間に、凄惨な出来事が共存しているということの不思議さに呆然としてしまうのです。この世界を現在という瞬間にスライスしてみれば、驚くほど多様な出来事が起きている。当たり前のことだけど、考えてみれば不思議といえば不思議です。念のため述べておけば、彼女はその事件をニュースで聞くだけ。思春期特有のはりつめた時間感覚が、少女を瞬間に封じ込めてしまうわけですね。

 言葉を失って彼女は見る人になります。透明な夏の日々のなかで、彼女の視線に現前する世界のありようが主な内容を形作っているわけだけど、そこにエキセントリックな級友が絡んでくる。その少女はどういうわけか、主人公にいわれのない悪意をぶつけてくるわけですね。

 種明かしはしないでおくけど、最後にまた時間が出てきますよね。級友は実は、彼女を時間から解放しようとしていたわけです。瞬間というのは、すでに複数の時の重ね合わせで出来ているのだという回答を用意して。

 周知のように現在、リアリズムは退潮傾向にあるわけだけど、小品ながら、リアリズムの限界に内側からかすかに触れている作品だ、なんていうのは冗談半分にしても、気持のいい小説だと思いました。

2010-06-07 文學界六月号新人小説月評

月評六月号

羽田圭介「黒くなりゆく」(すばる

 先々月のすばるに掲載された「御不浄バトル」では、この作家はブラック会社で働く若いサラリーマンの八方ふさがりの状況を淡々としたタッチで描いていた。それは出口のなさに由来する怒りや絶望さえも、生々しい鮮度を保てず、灰色の日常に溶け込んでしまうような麻痺の感覚として表現されていた。一方この作品では、主人公サカタは、自己啓発系のビジネス書を読みあさり、ひたすら自分の気持ちをアゲていくことで、殺伐とした競争を乗り切ろうとするタイプの人間である。サカタはストリート系ファッション誌の編集部中堅社員。少なくとも主観的には、最先端の情報機器を華麗に使いこなす有能なビジネスパースンであり、また東京のストリート文化を発信し、読者モデルたちからも一目置かれるちょっとしたカリスマである。

 もっとも本人がそう思いこみ、闇雲に自分を煽りたてているだけで、メタレベルから(読者目線で)見れば、彼はかなり滑稽な勘違い野郎に過ぎない。「御不浄バトル」の「僕」が、たえがたい日常をやりすごすために消費エネルギーをどこまでも下げて行き、半ば仮死状態になってしまうダウナー系だとすれば、サカタは社会が押し付ける価値観を過剰に刷り込んで、「サクセスしてるオレ」像をハイテンションで演じつづけるアッパー系だ。

 だがキャラクターはまあいいとしても、残念ながら、作品として成功しているとは言えない。まず文章だ。劣化した中原昌也風の力こぶの入った文体は、キャラクターを馬鹿っぽくみせてもアイロニカルな笑いを引き出すところまではいかない。さらに編集部の日常業務を描くだけで終わっているのも物足りない。もっと物語を動かして、サカタを極端な状況に投げこみ、暴走したり四苦八苦したりするのを見せても良かったのではないか。むしろドタバタ劇向きの題材だと思うのだが。


茅野裕城子「103号室の鍵」(すばる

 「わたし」は、久しぶりに訪れたニューヨークでたまたま入ったカフェのトイレで、煉瓦煉瓦の隙間から、一本の鍵を見つける。不意にそれが、二十年以上前自分が暮らしていた部屋の鍵だと気がつく。昔、まさにこの建物に住んでいたのだが、すっかり模様替えされてしまっていたので気がつかなかったのだ。彼女は若いころから海外のあちこちで暮らし、さまざまな国の男たちと恋をしてきた。いろいろ楽しいこと辛いことがあったが、今ではその自分も中年女になってしまった。いささかほろ苦い気持ちと、まだまだこれからの人生を楽しむのだという決意が入り混じる。

 奔放に生きてきた中年女性の感慨を描いた私小説風の作品。偶然訪れた店で、何十年前に無くしたきりになっていた部屋の鍵を発見というのはいくらなんでもやり過ぎだと思うが、まあそれはいいとしよう。だめなのは、そんな都合のいい道具立てを使っても、何の見せ場も作れず、単なる中途半端な回顧に終わっている点だ。ベテランらしく文章はなめらかに流れてゆくものの、構成らしい構成もなければ、吐露される心情も凡庸なものなので、どうにものめりこみようがない。正直ヤマもなければ落ちもない、ただありふれた情景が平板なリアリズムで描かれているという悪い意味で純文学的な作品にとどまったと思う。彼女はまだ恋も性の喜びもあきらめておらず、今も旅の合間に数年ぶりの情人と逢引したりしているのだが、この男も断片的にしか描かれない。こうやってぼやかして書くのが文学的だということになっているのだろうか。それよりも、くっきりと印象的な人物造形に注力した方がいいと思う。それにしても、どうしてどれもこれも青春時代の回想ばかりなのだろう。

松井周「そのかわりに」(すばる

 これはかなり奇妙な作品だ。「僕」は三十歳の勤め人。高校時代の友人北山の通夜の晩、よく三人でつるんでいた牛久保から、北山が自殺であり、しかも籍の入っていない子どもがいることを知らされる。子どもの母親は頑なに北山との関係を認めようとしないため、子どもは自分の父親が誰か知らない。そこで、まだ幼いその子(タカシ)に、北山の記憶を残しておいてやろうと牛久保は持ちかける。具体的には、北山のことを絵本にして保育園のタカシにわたすことになる。

 ところが、話は思わぬ方向に転がっていく。牛久保は以前からタカシに執拗に近づこうとして、母親(日高さん)からストーカーとして訴えられていたことを知る。真実がどうあれ、牛久保がかなり頭のネジが外れてしまっていることは確からしいし、牛久保が書いている絵本の原稿もどんどん奇妙なものになっていく。さらに日高さんからは衝撃の告白もある。一見サスペンス調のシチュエーションから始まって、物語がつねに予測の斜め上を行くのが心地よい。それも派手などんでんがえしでも、ポストモダン風のこれみよがしの逸脱でもなく、いつのまにか話があさっての方向に向かっているというさりげなさが今風だ。

 幾らか深読みするなら、この作品の登場人物は、牛久保をはじめとして死んだ北山にしろ、退職を迫られながらぼんやり絵本作りに没頭している「僕」にしろ、例外なく大きな歪みを抱えている。彼らは個々の現実からどこか遊離してしまっていて、直面する状況にとんちんかんな、あるいは妄想的な対応しかできない。牛久保の欲望は、実はかつて北山とのあいだにあった疑似家族を再建することなのだけど、それ自体既存の家族、コミュニティに適応できないことを前提としている。けれども、彼らの病は、現実にはのんきでボンクラなふるまいとしてしか発揮されない。愛すべきダメ男ぶりと、根深い狂気が表裏一体となっている。その白々と明るいうすら寒さが、どこか現代的に感じられるのだろう。

ありがちな落とし所に着地することなく、物語はぼんやり開かれたまま終わる。はっきりいってラストは弱いと思う。しかし、分類しがたいユニークな作品としておもしろかった。

古谷健三「ハニィ」(三田文学

 作者は一九三四年生まれというから七六歳だろうか。最年長「新人」記録更新に違いない。ちなみに慶応義塾名誉教授だそう。老年にさしかかった主人公に、あの「ハニィ」が死んだという連絡が来る。歯をニィと剥きだして笑う癖のある幼馴染で、子どもの頃から、性的な魅力で主人公を惑わしてきた。成人してからハニィはストリッパーやポルノ女優をしていたらしいが、数年に一度顔を合わせるか合わせないかの関係だったにもかかわらず、お互いにつねに気になっていた。ハニィの通夜に顔を出して、彼女との切れ切れの交情を追憶するという内容。

 結局これはハニィという人物をどれだけリアルに造形できるかにかかっているわけだけど、どうしても「聖なる娼婦」といったタイプの都合のいい類型にとどまっている感じがして仕方がなかった。ハニィは性的に早熟なだけでなく、もともと卑小な男たちを見透かすような崇高さを備えた少女(幼女)という設定になっている。しかし、現実社会では彼女は堕ちていく。一方男たちは出世していく。しかし彼女が汚れれば汚れるほど、幼馴染の男たちのあいだではハニィが輝かしい存在になっていくという構図で、紋切り型ではあるが、細部が充実していればまだそれなりに説得力が持てたかもしれない。だがそのディテールに生彩がないうえに、要所要所のイメージがやけに下卑ていて安っぽいのも問題だ。ハニィの最期が、ラブホテルで若い男に抱かれながらの死だったなんていうのもそうだし、小学生の女の子が、男の子の顔を股間におしつけながら、「女にとってね、初めて肌を許した男は一生忘れられないんだよ」なんて言うわけがないに決まっている。

松本智子「バブルシャワー」(三田文学

 「わたし」は大学時代の友人だったケンの結婚式に出席している。学生の頃いつも一緒だったケンとカズ、そしてヒロキという親しい男友達たちも今ではそれぞれ別の人生を歩んでいて、あまり会うこともなくなってしまった。結婚式の様子に、過去の仲の良かったころの会話が差し挟まれる。しかし、結婚式での青春時代の回想ときては、安手のテレビドラマじゃあるまいし、紋切り型過ぎてお話にならない。もう二ひねりくらいないとどうにもならないだろう。

宮内聡「大事な仕事」(三田文学

 腑に落ちない部分が多々ある。内容を説明すると、主人公は離婚経験のある男だが、今は別の女性と暮らしている。一か月前に祖母がひったくりにあって怪我をしたことを恨みに思って、毎夜近所を徘徊しては、ひったくり犯をつかまえてポケットのノミで殺してやろうと決意している。

 まず納得できないのは、主人公と元妻との関係だ。離婚を経験したのだから、それなりに怒りや憎しみの記憶が身にしみついていそうなものだ。ところが元妻は何の葛藤も感じさせずやり直そうと身を寄せてくる。交わす言葉もほとんど恋人のようだ。この部分に端的にリアリティがない。またこの男はかなり暴力的な人間である。例えば、一般に一緒に暮らしている女の連れ子に愛情を持てない、うまく接することができない、というようなことはあるだろう。しかし、だからといって、自分はその連れ子とは関わらない、と宣言してしまうのはかなりのものだと思う。けれど、不自然なのは相手もわりとあっさりとあきらめて受け入れている点だ。そのほかの振る舞いからいっても、どうみても独善的で衝動的で、ずいぶん厄介そうな男だが、どうも周囲はそう考えていないらしい。そして、肝心のひったくり犯を殺してやるという決意がよくわからない。祖母が寝たきりになったとしても、なぜ一気にそういう結論になるのか。もともと理屈の通じない規格外の人間なんだ、といわれればそれまでだが、読者を納得させるためには、狂人にも狂人なりの論理が必要だろう。

 このようにキャラクターに難があるのだが、さらなる問題は、この男の調子の外れた言動が、結局物語をどこにも導いていかない点だ。出来事が出来事を生まず、ちょっと変わった人間の心象風景で終わっている点が物足りない。

片野朗延「廃神」(三田文学

 「廃神」というのは実はネトゲ廃人のこと。つまりゲームに夢中で社会生活を送れなくなった人間を指す。語り手の兄はもともと画家を目指していたが、画業では喰えず、会社勤めも些細なことからやめてしまい、その後は絵も描かずゲームに没頭するだけの引きこもりになってしまう。困惑した親は縁切りのつもりでワンルームマンションを貸し与え、兄はそこにひきこもったまま完全に親兄弟とは疎遠になる。ところが、贈与税がらみで親とのあいだがトラブル模様になり、あわや兄は路上に放り出されるかというところで、突然母親が倒れ、唯一冷静に対応した兄によって一命を取り留める。それまでまったく無能で、人にも無関心と思われていた兄の別の一面が見え、ほのかな希望がさしてきたところで結。

 一見飄々としている兄の姿から、引きこもりをやめられない苦しさ、焦りが伝わってくるのがなかなかいい。兄は自分で言うほど開き直っているわけではなく、何とかしなければならないと思えば思うほど、身動きがとれなくなっていくという隘路にはまっているわけだ。どこか距離のある弟の語り口もいいのだろう。兄が飼っていた亀を埋葬する場面などはちょっと印象的。

 不自然なのは、一人暮らしの兄がどうやって食事や最低限の買い物をすませているのかという点だ。収入だってゼロでは生きていけないし、ネット料金も払えない。それと「私」の仕事である「パソコンの事務員」って何だそれ。そのような瑕疵はあるけど、全体としては現代的な心情を描いて悪くない。ただ、人物スケッチに終わっている点は残念。


 村松真理「三十歳」(三田文学

三田文学』は現在、各社の文芸誌のなかで一番文芸誌らしい文芸誌だという印象がある。具体的にはどこかオーソドックスで端正な印象の作品と出会う率が高い、ということだ。とりわけ、若手の女性作家には「三田カラー」とでも言いたくなるものがある。特徴をあげれば、若い女性の心理・生理を整った文体で、息苦しいほど稠密に描いていくものが多い。他誌では見かけない名前なので、三田文学編集部が育てた若手なのだろう。大雑把を承知で言えば、『文藝』から出てくるティーンエイジ作家と真逆の作風だとひそかに思っている。

 こういう言い方を作家がどう思うのか知らないが、村松真理も「三田カラー」の一人だ。そして個人的には大いに好みである。まず文章が心地よい。口ずさみたくなるような印象的なフレーズが幾つもある。海外から帰ってきた幼いころからの友人との時間を描いているのだが、一瞬の心情を描いて巧みであり、清潔感もある。

 にもかかわらず、残念なことに記憶に残る作品とは言い難い。それは結局のところ、とても繊細に、そして優等生的に、瞬間的な空気感、心理の揺れを書いているだけだからだ。ここには時間、動き、変化がない。「私」とミイは、出会ったときと同じ関係のまま別れる。新たな認識や決意も訪れない。けれども、短編小説を読むとき、読者が求めるのはささやかなイニシエーションではないだろうか。目の前の風景がさっきと少し違って見えるというような体験こそが醍醐味ではないだろうか。

西元綾花「鰐と海藻」(三田文学

 これも三田カラーの一人。前作の「白牡丹μは鯖の目に咲く」同様、まだ性的な経験のない若い女性の自分の身体への違和感を描く。大学生の秋菜は、簿記検定の試験勉強のため塾に通っているが、そこに勤めている戸田から、性的な眼差しを向けられてうとましく感じている。一方、同性の弓子さんには漠然とした好意を感じている。冬のある日、弓子さんの部屋で偶然彼女の肌に触れて息苦しいような興奮を感じるが、それを恋だと思い定めることはできない。

 繊細な筆致で、自分が性的な存在であることへの戸惑い、苛立ち、喜びを記述していて読ませる。個人的には昔好きだった鳩山郁子という漫画家を思い出した。ただ、もう少し世界に広がりがあるとよかったと思う。前作から考えても、この作家はこのような世界を書き継いでいくのだろうし、それはとても完成度の高いものなのだが、これだけだとごく限られた読者にしか届かないような気がするからだ。

塚越淑行「三十年後のスプートニク」(文學界

 邦夫は、これまで長年介護してきた母親を施設に入れたのを契機に、自分の人生を見直そうと昔暮らしていたイギリスを訪れる。三十年ぶりのロンドンは大きく変貌していて邦夫を失望させるが、長らく心の底に沈めていた恋の記憶をよみがえらせもする。ヴァカンスでロンドンに来ていたマリとは、ディスコで出会い、その日から十日間セックスを繰り返したのだった。邦夫はマリとつきあうことを熱望するが、マリは故郷では私は別の人間になるのだと言ってノルウェーに帰ってしまう。その後邦夫も帰国するが、マリの言葉はいつもどこかで意識していたのだった。そのマリから、三十年ぶりに会っても構わないと手紙が来る。

 ずいぶん素直な話であり、ちょっとメロドラマ風でもある。なにしろ異国で青春時代の恋を回想するストーリーなのだ(いっそのこと、もっとガシガシメロドラマ路線で突っ走っても良かったのではないかという気もするが、それはたぶん作家の志向とはちがう)。主人公はおそらく五十代だが、未婚で、いまだに昔のアヴァンチュールの相手を気にかけ、ラストであらためて文学への志を語るような万年青年といった風情の人物だ。このアクのなさ、人の良さが作品のカラーを決定している。他愛もないと言えば他愛もない話だけど、わりと気持ちよく読むことができるのは、この主人公の素直さあってのことだ。それと相手役マリの、冷たさ(毅然とした態度)がきちんと書けているも、大甘の話になるのを救っている。

 とはいえ、どこか古めかしい話であるのは確かである。

三並夏「四つ目の椅子」(文藝

 以前読んだ「嘘、本当、それ以外」(文藝)よりもずっといい。前作は、学校という閉鎖的な空間の中で空気を読みあったり、ヒステリー的な演技に走ったりする十代を描いた群像劇だったが、今回は作者と(おそらく)等身大の女子大生の目から、「家族」という虚構への不安と愛情を語っている。

 三人家族のほたるの家の食卓には四つ目の椅子がある。それは、流産してしまった弟のための椅子だという。つまりこれは、彼女の家が不在の息子の存在によってひとつにまとまっているということのメタファーなのだ。彼女の父と母は表立って争うことはないが、ほたるはどこか二人のあいだの食い違いのようなものを感じている。芽衣と沙織というほたるの二人の友人の場合は、ともに両親が離婚しており、家族というものの脆さがはっきりと目に見えるようになっている。二人はそれぞれ、義理の母、義理の父と一緒に暮らしながら、一生懸命家族をやっている。彼女たちが仲がいいのは、お互いそのけなげさに共感しているからだろう。

 改めて思ったのは、この世代にとって(という言い方が乱暴なのは承知しているが)家族というのは〈演じる〉ものになったのだなあということだった。ほたると父が母親の誕生日を祝うシーンがあるが、三人は別に仲が悪いわけではないのにもかかわらず、どこかそこには必要な役割をプレイしている感が漂う。芽衣、沙織の場合、彼女たちの家族ははっきり再形成された人工物である。芽衣はほたるに、ファミリーワゴンのコマーシャルに出てくるような家族なんてどこにもないのだけど、そうしたものを目指す「心意気」が大切なのだという。つまり心はバラバラでも、そうしたイメージを演じる態度にしか家族の実質などないと言っているのだ。そこにアイロニーの響きはない。彼女にとって家族は、努力なしには成り立たない幻想なのだ。

 文章にしろ、内容にしろ、とにかく素直でのびやかな印象。二十歳の作者が感じている不安やためらいがけれんのない態度で記されている。この濁りのなさが最大の美質だろう。この点では、本当にいいものを持っていると思う。

井村恭一「妻は夜光る」(文學界

 とても仕掛け、たくらみの多い小説だ。芸がないのが芸みたいな顔をしている作品の多い純文学の世界ではそれだけで貴重だ。実際、大した力作だと思う。日常系ゾンビ小説という新ジャンル(?)をつくった作品であり、また料理・食事小説でもある。

 舞台は住民年齢の高そうなとある公団住宅。猫から感染したツォという奇病が広がり、主人公の妻もそれにかかってしまう。ツォに感染するとすぐに死んでしまうのだが、死んだ後も一日三時間ほどは起きてきて普段と同じような生活をする。ただしどういうわけか食欲が昂進し、それも肉料理ばかり食べたがる。主人公は封鎖された団地内で生活しながら、毎日妻のためにせっせと肉料理を作り続ける。妻が旺盛な食欲で次々に料理をたいらげていく描写が印象的。また、噛み合っているようで飛躍だらけの妻との会話もうまい。

 団地は、役所から派遣されたセキグチという男によって外部との交通を遮断され、管理されることになる。しかし実のところ、セキグチが行うのは食料の配布や花火大会の開催だったりして、団地の日常生活はおおむねそのまま維持される。事実、ツォ患者(死者)たちの毎日は、リタイアした老人たちの日常そのものだ。だが皮肉なことに、死んでからの方が死ぬ以前より健康・健啖であり、不死に近いという逆転が起きている。

 おかしなことばかり起きる小説だが、その奇妙な出来事が細部までかっちりと造形的に作られているので、妙な妄想につきあわされるわずらわしさはまったくない。ディテールまできちんとピントがあっていて、曖昧なごまかしやぼやかしがない。作品の基調に妻を失った切実な悲しみがあり、しかしその死んだ妻が隣で生活しているという困惑するしかない状況が、暗いユーモアを醸しだしている。

 この奇妙なダークファンタジーが描いているのは、端的に言って死後の世界である。しかし冥界というのは、幾らかスローモーになり、光度の落ちた日常以外ではない。そこで人々は生前と同じことをくりかえすが、そうした行為には、意味や変化といったものが抜け落ちてしまっている。ツォ患者たちは団地内の広場で会合をしたり、煙草を吸ったり、バーベキューをしたりするが、それらは過去の行為を焼き増ししているようなものなのだ。

 オリジナルな世界観、ゆるぎない文章、きっちりつめられたディテールと、とても実力のある作家である。もっと読まれてもいいはずだ。膨大な数の読者を獲得はしないかもしれないが、この作風が好きだという人は一定数必ずいると思う。

松波太郎「東の果て」(文學界

「おれ」は、祖母の葬式のために行った熊野で、始皇帝から童子童女を与えられて不老不死の霊薬を探しに出たという除福がたどりついたという伝説があることを知る。幼いころ、祖母が除福について語っていたことも思い出し、興味を持つ。東京に帰ってから、肉体労働をこなしながら「原典」(司馬遷の『史記』)にあたっていく。

 除福の謎を探るという歴史ミステリー風でもあり、そこに大陸から出稼ぎに来ている中国人への関心が重なり、さらに父や祖母といった一族への思いも絡む、ととても構えが大きい。しかし実際にはどれも中途半端に終わってしまったようだ。これは勘だが、武田泰淳が好きで、泰淳風の八方破れの作風も念頭にあったのではないか。むろん実際には、うまく形にならないままの小説的モチーフがあちこちに投げ出されたままという印象。けれど、なぜだかこの作者には好感を持たせるものがあり、いい資質を持っていると思う。自然に対象(この場合は中国)への愛情が伝わってくるからだろうか

柴崎友香「寝ても覚めても」

 呆然とした。奇妙で斬新な作品。ほとんど実験的といってもいいような作品。けれどもそれが生硬な観念に導かれてではなく、ただひたすら事物をまっすぐに見つめるという固有の性向から生まれてきたことの驚き。柴崎友香が、どこかふわふわとしたガーリーな世界を描きつつも、余人に真似のできない特異なスタイルを生みだしつつあることはわかっていた。しかし、これほどまでにラディカルで野心的な作家だったとは思わなかった。粗筋の紹介はあえてさしひかえるが、ただ十年に及ぶストレートでクレイジーなラブストーリーだとだけ言っておく。冒頭からまず通常の小説では見られない異様なたたずまいに驚かされる。奇をてらったことは何一つ書かれていないのだが、事物が、風景が、物語の一部になることなく写真のようにただそこに存在しているのだ。それはハイパーリアリズムを思わせるが、読み進めるにつれて、この作品が単に鮮明なイメージをそのまま切り取るのではなく、像とそのコピー、フレームの内と外を巡る複雑なゲームとして構成されていることに気づく。それも言葉による議論ではなく、イメージの反復と二重化という具体的で小説的な操作を通して。この作品ではイメージは写真やテレビ、または他人の空似によって必ず二つに分裂するのだ。ところが終盤に近付くと、激しい情動の波がこの実践的な思弁とひとつになる。物語がうねりだし、緊迫感がピークに達する。ラストまでは一気呵成だ。


蜂飼耳「阿夫利山」(三田文学

思わず何度も読み返してしまう。ちょっとホラー風味もある幻想的な短編だが、文章がとにかくすばらしく読んでいて心地が良い。また構成もまったく隙がない。ごくごく短い作品なのだが、一行一行のなかに動きや出来事があるので、すごく濃度が濃い。蜂飼耳という作家は、名前だけ知っていても読んだことがなく、詩人エッセイストという認識だったのだが、これは名手だと思った。阿夫利山という山の途中で親譲りの豆腐屋をひらく女のもとに、古い友人が訪れ、そこから少女のころ出会った男の記憶がたぐりだされる。懐かしいようなちょっと怖いような記憶の断片であり、行き場のないパズルのピースのようなものである。

喜多ふあり「望みの彼方」(群像

 つくづくこの作家とは合わないのだと思う。正直、何をしようとしているのかさっぱりわからない。世代の違いということもあるだろうが、それだけでもないような気がする。僕の感覚では、これは作品として未完成であり、作者の生の感情がそのまま露呈してしまっている。フィクションへと昇華する手続きが踏まれていない。けれども作者は、小説の形に収まったら取り逃がされてしまうような部分にこだわっているのかもしれず、だとしたら仕方がないのではないか、とも思われる。少なくともこの人は文芸誌で居心地の悪さを感じているのではないか。しかしかといってエンタメ系にいけるほど読ませるテクニックがあるわけでもないのが辛いところだ。

 約半分を占める殺人犯の逃亡手記の部分では、人物がどうにもチャチで安っぽくうすっぺらに書かれている。これが、単に作者の技術不足なのか、それともわざとやっているのかわからない。あと半分は作者を思わせるような若い作家が、自分は何ごとも「本気」になっていないということで自分を責める、というもの。

2010-05-06 「文學界」5月号新人小説月評

風邪の子どもの世話であやうくアップし忘れるところだった。5月号。

群像」が、新鋭短編競作と題して8編の作品を並べている。一編400字詰め原稿用紙で3,40枚といった短さのせいもあって、強烈な印象の作品はない。ただ偶然にも、オーソドックスなリアリズムの作品と、「本当らしさ」を顧慮しない抽象的で観念的な作風が半数ずつに分かれた。ただ、後者のなかで、観念としての手続きをきちんと踏んでいるのは朝吹真理子だけであったように思う。他の作品は、選びとられたスタイルに必然性が感じられず、単なる作家の奇矯な思いつきでしかないような印象を与えてしまう。あと、朝吹真理子、天もと浩文、喜多ふありの三人が、いずれもラストでいきなりメタの視点に立つという落ちをつけていたのは偶然なんだろうか。

 この点、リアリズムには強みがある。なぜこのように書かなければならないのか、という問いが読者の頭に浮かぶことはないからだ。実際のところ、ちょっとひねりのある丸岡大介を除いて、リアリズム勢の作品はどれも安定感があり、それなりにおもしろかった。ただ、もちろん安定感とは平凡さの別名でもある。枚数のせいもあるとはいえ、どれもこじんまりした印象ではあった。

 朝吹真理子「家路」(群像

平凡な中年男の数十年に及ぶ半生をビデオに撮り、それを超高速で早回ししてみた、といった趣の作品。あるいは数百枚の似通った写真を次々に重ねてみた、といったところか。「群像」の作品の中で、唯一明確な方法意識を感じた。二十代のなかでは数少ない抽象的な主題を扱える作家だと思う。ある中年男性が、イタリアらしき湖畔で寝そべっているという叙述から始まる。彼はつい先ほど(?)都内の勤め先から帰ろうとしていたのだが、ふと気がつけばそこにきている。なぜそうなのかは自分でもわからない。それから男の若き日から中年の今まで――あるいは、もしかしたら老年までなのかもしれないが――の情景が矢継ぎ早に語られていく。そこにあるのは通常の日常的な時の流れではなく、あらゆる日が同じ日であり、一生が一日であるというような感覚だ。過去と今が混然とし、現在の風景のなかに過去が見える。過去と現在をどうやって区別したらいいのかわからない。あらゆる現在が過去においては未来であり、あらゆる過去がそのときにおいては現在であったことの不思議。極めて濃厚であり、技術的にも揺るぎがない。

天埜裕文「捨鉢観覧席」(群像

この作品と喜多ふありのものはまったく意図がわからなかった。彫刻家である彼とその妻か恋人であるらしい彼女、そして二人を見ている私がいる。前半は、私が観察した彼と彼女の関係についての記述がつづく。後半は、ある「青年」が自殺の名所であるらしい橋に向かおうとする途中で出会う出来事が描かれる。エピソードにもなっていない断片がただ並べられている。意味がなく、笑いもなく、人物も生きていないというのではどうすればいいのか。それから、喜多ふありと同様、楽屋落ちめいたラストさえつければ、何をやってもいいというのはふざけた話だと思う。

 

戌井昭人「ぐらぐら一二」(群像

 これはおもしろかった。今、ポケットのなかに自分の指が二本入っているという告白から始まる。この「僕」はつまらないミスで指を切断してしまったのだが、そのときの描写がすごい。「僕は印刷屋で配達のアルバイトをしていた。その日は裁断屋さんに寄ってスーパーマーケットの特売チラシを受け取り配達する予定だったが、チラシの裁断がまだ終わっていなくて、待っているときにボサッと裁断機に手をついていたら、刃が降りてきて、ゆっくりスパンと指が切れてしまった。」何がすごいといって、もちろん非日常的な出来事が、かくも平凡に語られるのがすごいのだ。「ゆっくりスパンと」というのも怖いと同時にどこか間が抜けている。とにかくこの語り手は体温が低い。呑気というか、緊張感がないというか、指を無くしたのも、ちょっとした忘れ物くらいの感じで、淡々と受け入れている。もちろん、投げ遣りだったり無感覚だったりする主人公というのは、現代小説では珍しくもないのだが、そういうのとも少し違う。変に自然体で、肩の力が抜けまくっているのである。

 これは主人公だけではない。あとになって見つかった指を「僕」が裁断屋に取りに行くと、裁断屋のおばさんは慰めるようなことを言って、茶封筒に入った指と一緒にみかんをくれる。「僕は指の入った封筒をポケットに入れ、みかんの入ったビニール袋をぶら下げ裁断屋さんを出た。」半ばミイラ化した指と、人の良いおばちゃんがくれるみかんというとりあわせがなんともとぼけた味わいを醸している。

 こんなわけだから、ドラマティックな展開があるはずもない。語り手は指をどうしたものか思案したあげく、魚に食べさせようと海のある地方都市に行く。そこで指を海に投げ込んだあと、新興宗教の団体らしきものと遭遇したりといった小事件があるのだが、明快な落ちやクライマックスはない。けれどもこの貧乏くささと明るさが同居した感じは悪くないし、あまり類例のないものだ。


喜多ふあり「プチ家出

「私」は一緒に暮らしている男から虐待に近い扱いを受けているが、それでもまだ男に執着している。男は新しい女リリコを引き入れており、「私」は以前自分が前の女を追い出したように、男に追い出される羽目になるのではないかと恐れている。寝場所を失ったときの準備に、ゴミをあさる場所を探していた「私」は、自分とよく似たみすぼらしい女と出会い、リリコをゴミ捨て場に突き落として殺すことを勧められる。

 背景はすべて書き割りのように、人物はすべて人形のように書かれている。それはそれでかまわないのだが、作者はそうしたスタイルによって何を書きたかったのか、作品をどの方向にもっていきたかったのかまったくわからない。何のためにこうした共感も感情移入もできない書き方が必要だったのか、という疑問だけが残る。ラストに、この「私」というのは人間ではなくどうやら猫らしい、という種明かし(?)があるのだが、だからなんだ、という感想しか持ちようがない。

羽田圭介テキサスの風」

 もしかして木下古栗とか意識してるんだろうか。わざとらしい文体とキャラクターで、荒唐無稽な出来事を語るというスタイルだが、ギャグのキレが悪くて失敗している。結局この種のものはスピード感が大事であり、もたついてしまってはダメなのだ。また脱線や逸脱がなく、ストーリーが単調なのもマイナスに働いている。

墨屋渉「きずな」(群像

 主人公庄司は、ある日これ以上働く気持ちを無くし、会社を退職する。妻も子もいるのだが再就職にも気が進まず、ぼんやりしているうちに昔のクラスメートが、知的障害を持っている子どものためのNPOを運営していることを知る。なぜか手伝うことを申し出てしまった彼は、初めて触れた知的障害児の姿に、社会人としてのこれまでの人生ではまったく目も向けなかった領域があることを感じる。

 こうした出来事が、児童向け読み物風のスタイルでつづられる。主人公がなぜ働く意欲を失ったのか説明はないし、知的障害児と出会うことで何が変わったのかも描かれない。ただ、いかにもこうしたことはあるだろうな、と淡い共感を誘う。

 結局、この作品の長所も短所も、この墨絵めいた淡白さにあると思う。主人公はただ何となく、じりじりと追い詰められていく。自分が、あるいは周囲の人間関係が少しずつ変化していることには気づいているが、それがどのようなものなのかは明瞭に意識されない。これは現実の我々の生活の常態であり、その意味でこの作品のリアリズムは日常から離陸していない。そこに、鮮やかだとか生々しいというのとはちがう、ぼんやりとしたリアリティがある。

 ただあまりに淡すぎ、こじんまりとしすぎてやしないかという疑問が残る。もちろんそれは意識的に選択されたものなので、文句を言っても仕方がないのかもしれないのだが。

丸岡大介「深海」

 デビュー作「カメレオンのための戦争練習帳」は傑作だと思ったのだが、これはちょっと「?」という感じ。一応リアリズムに分類しておくが、実は怪しい。丸岡大介というのは、語りに周到に仕掛けを仕込ませるタイプの作家であり、この作品でも、中年夫婦の平凡な沖縄旅行を淡々と描写しているように見えて、それがフェイクなんだよという合図だけは、凡庸に過ぎる人物描写や文章の違和感としてしっかりと埋めこまれている。しかし、「カメレオンのための戦争練習帳」では、複数の語りが定位するそれぞれの「現実」が回転ドアのように入れ替わるところが魅力だったのに、この作品にそのダイナミズムはない。すると結局、ただの凡庸な沖縄紀行になってしまうのだ。


三輪太郎「ジュ・トゥ・ヴ」

 題名はフランス語で、私にはあなたが必要だ、の意。父方の親戚の死に怪事が伴うことから神秘主義思想の研究を志した主人公が、精神的行き詰まりから鬱になり、学問をあきらめてトレーダーに転身する。しかしその選択は父親の激怒を招き、勘当同然となる。20年後、病に倒れた父の危篤の席で、彼は自分が株の世界に惹かれたのも、神秘主義の場合と同様、世界という謎に迫りたかったからだと悟る。死を前にした父との和解、というテーマはもちろん目新しいものではないが、滞りのないなめらかな語り口が、そのことを意識させない。おもしろいのは株価の変動にヘーゲル的な「精神」――死を凝視することで自由を獲得しようとする普遍的衝動――を見るというくだりで、株の世界に身を投じた人間なら、なるほど、そう感じるのかもしれないと思わせる説得力がある。主人公にとって株の売買は単なるマネーゲームではなく、偶然の振る舞いのなかに必然性を見出すという哲学的探求として意識されているわけだ。

 そうした主題のおもしろさもあって、楽しめる短編になっている。

田山朔美「代理母豚」(文學界

 以前、この人の「魂おろし」という作品を読んで、しっかりとした構成力とエンタメ系にも通じそうな読後感の爽やかさに感心したことがあるのだが、その印象は今回もかわらない。主婦の美耶は、高校の同級生弥生から、昔の友達の留衣子が突然電話をかけてきたという話を聞く。代理母を引き受ける気があるかと聞かれたのだという。やがて美耶にも「福音の森」という不妊に悩む夫婦のカウンセリング施設に来ないかと誘われる。実は美耶は母子関係に問題を抱えており、母親から愛されたという実感を持てずにいる。そのせいなのか、夫とのあいだもどこか他人行儀で表面的だ。

 美耶は、母、夫、同級生といった周囲の人間とのあいだに、何らかの齟齬を抱えている。そこへ、美人で完璧に思えた過去の友人が現れ、徐々に壊れた精神をさらけ出していく。友人の妄念の根底にあるのは子どもが欲しいという強い思いだ。その思いに触れ、美耶も少しずつ母との関係を見つめ直し始める。

 複数のモチーフを適切に按配して堅実にストーリーをくみ上げていく力を評価したい。実際、純文学の世界では、この能力が軽視され過ぎていると思う。物語は最終的に人が子を持つことの意味といった主題に向かっていく。

 しかし疑念もないではない。母子の葛藤、幼いころの性的トラウマ、夫婦間のセックスレス、怪しげな新興宗教と、物語を構成するパーツのひとつひとつがいかにも「現代的」トピック、すなわち紋切り型に過ぎるのではないかということだ。どれもどこかで聞いたことのあるような話だという印象は否めない。また夫のキャラクターもいくらかご都合主義的なところがある。

 それと、どのエピソードでも、グロや荒唐無稽になってしまう一歩手前で踏みとどまっている感じがしたのだが、さらに一歩踏み込んでみるという選択肢はなかったか? 特に豚の子宮を借りるというイメージなどはすごく魅力的なので(題名はネタばれで良くないと思う)、もう少しエゲツナイ展開にしてもおもしろかったのに、などと思った。

うまい人であり、また真面目な人だ、と感じた。それだけにどこか優等生的にまとまってしまうところがあるので、次回はもっと大胆に書いていいのではないでしょうか、ということで。


広小路尚祈「うちに帰ろう」(文學界

 最近の小説では、主夫というのをよく見かけるような気がする。最初に出てきたのは村上春樹の初期短編(「ねじまき鳥と三人の女たち」など)ではないかと思うが、ここ数年はちっとも珍しい存在ではなくなった。全般に、三十代から四十代の男性作家が書く主人公というのがみな脱力系になっているのだ。彼らはある日ふと会社をやめ、自分は何をしたいのだろうと考えながらぼんやりと過ごす。あるいはまだ会社に所属していたとしても、いかにも適当だったり所在なさげだったりする。企業でガシガシ働いている男性主人公なんて、文芸誌では見た覚えがない。一方、女性作家の女主人公たちは、企業勤めにしろ、専業主婦にしろ、はるかに本格的に労働している印象がある。仕事のことで悩むのも彼女たちの方だ。

 広小路尚祈のこの作品も、そうした主夫小説のひとつ。この作品の特徴は、語り手が明確な行動指針・処世訓を持ち、その実践として主夫生活を送っている点だろう。修行というほどではないが、日々の生活が自分の信じる価値観を実現するための実践なのだ。その指針とは、物事を独断的に見ない、つねにバランスを考える、こだわりのないところでは妥協する、人間関係の円滑さを優先する、といったものだ。もちろんこれは、決定的な対立をいつも回避し、その場だけ糊塗するいかにも日本的な態度かもしれない。が、成熟した大人の対応だともいえる。

 中心人物は公園でのママ友のなかで浮いてしまっている「おれ」と美和さん。家庭がうまくいっていない美和さんは、唐突に「おれ」に心中をもちかけ、「おれ」はポリシー上すっぱり相手を否定したり、関係を断つことができないので、曖昧にごまかしていくうちにどんどん心中に追い込まれていく。この落語的ともいえる展開と本当に心中してしまうのかという興味が物語をひっぱっていく。一見さばさばしてドライに見えるが、妙な思い込みで心中を迫ってくる美和さんというキャラクターがおもしろい。

安達千夏「冬の鞄」(すばる

 川上弘美の「センセイの鞄」とか、小川洋子の「博士の愛した数式」とか、女性が年の離れた老年男性の姿を愛情をこめて回想するといったタイプの話がある。べたべたの恋やセックスはちょっと、という人向けの変格恋愛小説であり、この場合、男性側のポイントは、ぎらぎらした性欲はすでに枯れ果てて、かすかなエロスの残り香くらいになっていること、基本的に紳士であり優雅さと優しさを備えていること、時流からはずれた日蔭者の地位にいるが実のところ有能で頭脳明晰であること、などなどだ。まあかなり女性に都合のいいファンタジーではあるけれど、別段それはかまわない。

 で、この作品は娘が父親の生涯を語る、という設定になっているが、実は偽装で、「センセイの鞄」タイプの素敵なロマンスグレーのおじさまにときめいちゃったわ、という話ではないかと思ったのだ。というのも、この父親像が妙に大甘で理想化されているように見えてならないからである。肉親の目ってもっと意地悪で冷酷なものではないだろうか。これは娘というより、恋に目がくらんでいる女の眼差しではないだろうか。

 断わっておくが、作者は恋愛小説を書いているつもりはないのだと思う。大真面目に父と娘の物語を語っているのだろう。だがそれが作者の本当の欲望とすれちがってしまっているのではないか。だから、読んでいて何か居心地が悪いのではないだろうか。

 語り手の父親は、腕のいい鞄職人だった。そこで語られるのは、祖父と対立して出奔した兄の後を埋める形で、父が地道に修業を積み、やがてすぐれた職人として全国に熱烈なファンを持つようになる過程である。彼は寡黙で優しく、教養があり、娘である私を全面的に愛してくれる。一方母親の方は、とかく旧弊で頭の悪い女として描かれている。それが余りに戯画的でわざとらしく見える(書き込みが足りないせいもある)。

 そして問題は、肝心の鞄職人としての父親が、どこかおとぎ話めいて手ごたえがないことだ。先に書いたとおり、かっこよすぎ、主人公にとって都合が良すぎるのだ。実はこの父親には同性の恋人がいて、ということらしいのだが(正直、この部分が判然としなかった。この恋人、失踪した兄と何か関係があるんですか?)、そのことも含めて娘の幻想の「父親」という感じがしてしまう。素敵な男性(父親)に愛されている自分、というナルシズムが作品の基底にあるような気がしてしまうのだ。

 あと、文章がどうも気になった。この人は文章に自信があり、また力も入れている人だと思う。だが、どこかでそれが対象を正確に記述することより、雰囲気に流れているように感じた。その文章への力みが、こわばったリズムを生んでいるとも思う。



松本薫「百年の献立」(すばる

 なんとも微妙な作品だ。松本薫は、「新人」とはいっても十年以上のキャリアをもつはずであり、それだけに文章や場面転換は充分にこなれている。しかし全体としてみると、どこかちぐはぐな感じが漂う。相互にどう関連するのかよくわからないモチーフが、ばらばらに投げ出されているのだ。まず、主人公である主婦妙子が毎日つけつづけている献立表がある。これは主婦業の終わりのなさ、単調さを象徴していると言ってよいだろう。妙子の十五年にわたる日々の労働が、十数冊の手帳のなかにおさまってしまうという不思議さ。いわばそこには、妙子の主婦という立場に対する誇りと倦怠がともに同居している。

 さらにこの感覚をつきつめると、相手か自分が死なない限り、決して解放されることのない「妻」「母」という存在への違和へたどりつく。妙子は、そつなく妻業、母業をこなしているわけだが、その彼女でも、娘が言い当てたように「お母さんをやめたい」と思う瞬間がないわけではない。自分で望んで妻や母になったのだとしても、である。

 これを第一のモチーフとするなら、次のモチーフは、娘がときどき連れてくるヒヨリという女の子の奇妙さだ。小学三年生の彼女は、首からかけた水槽に入っているウーパールーパーを、自分の兄だと言い張る。他にもいくつかおかしな振る舞いがあり、母親に虐待されているという噂もある。ここにあるのは、ヒトがヒトをつくり、血のつながりが連綿と続いていくということのうす気味悪さであるらしい。ヒヨリは、兄はニンゲンであることをやめて、進化したのだという。子を生み、育てる。家族を成す。誰もがあたりまえと信じている営みを、疑義に付す役割をこのヒヨリという子は担っている。

 このようにそれぞれのモチーフは切実でもあり、興味深くもあるのだが、実際にはうまく展開されておらず、消化不良の感を与える。モチーフが断片的なイメージに留まっていて、物語へとつながっていかない。ウーパールーパーにしろ、虐待にしろ、もっと幾らでもエピソードを膨らませられるはずだと思うのだ。結局、どこか中途半端な印象を与える作品になってしまった。

藤谷治「ふける」(新潮

 藤谷治は、僕は未読だが、「船に乗れ!」という大部の青春小説で話題の作家。だが作家本人のブログによれば、これは自分のねじまがった気持ちをそのまま書いた読者のことなどこれっぽちも考えていない作品で(  )、万が一雑誌に掲載されなくても仕方がないと覚悟していたのだという。いや、文芸誌のなかでは全然読みやすい方ではないでしょうか。まったく読者を無視した作品は他に山ほどあります。

 題名はまず「授業をふける」(サボる、逃げ出す)といったときの「ふける」だが、「耽る」「更ける」「老ける」といった語も重ねられているのかもしれない。

 もう若くはない男が、仕事も家族も放り出して、深夜の新宿駅から適当な始発電車にのりこみ、確たる当てもなく旅を始める。いわゆる失踪・蒸発であり、最後には死を覚悟している気配も漂う。といっても脳裏をかすめるのは、しょせん下卑た中年男らしく、どの街でなら熟女プレイを楽しめる歓楽街があるだろうかといった下世話な妄念に過ぎない。作品はそうした「私」の思考を細かく追っていく。途中で、この世の外から来たような「坊主」と同行二人となり、金沢にまでたどりつく。

 明るい要素の何一つない小説だが、不思議と息苦しさはない。つねに移動していること、文章のテンポ、物語のリズムに破綻がないこと、そして本人が言うように作者の暗い心情が反映しているのだとしても、それを生の形でぶつけるのではなく物語へ昇華しているからだろう。確かに、深刻なものを含んではいる。それは具体的には、死(往生)への魅惑を意味する坊主というキャラクターとして現れる。しかし、語り手は最後には、この坊主と一緒にいることを選択するのであり、つまりは死の誘惑にさらされつつ、今のところは生き続けるということだ。僕はこれは中年の小説だと感じた。ひとつひとつの感慨が二重底三重底になっている。絶望しつつ、その絶望をポーズだと自覚している自分がいる。けれども若い自意識の鋭さとは無縁だ。短編ではあるけれども、きっとこの作者は粘り腰で作品を書くタイプだと思わせられる。この作品がきわめて優れているとは思わない。けれど、この作家は信用できる、と思った。


鹿島田真希「その暁のぬるさ」(すばる

 鹿島田真希を読むのは奇妙な体験だ。何が問題となっているのかがわからない。何が起きているのかもわからない。何もかもが霧のなかのように茫漠としていて判然としない。しかし退屈だと感じないのが不思議なところだ。正確に言えば、自分が退屈しているのか興奮しているのかも今一つ感じ分けられないのだ。

 「わたし」は幼稚園の保育士。別れた恋人についての「わたし」の回想と、周囲の保育士たちの言動が織り混じる。平安の女房文学を連想してしまった。女たちの世界であり、日常の細やかな出来事と過去の恋とが、とりとめもないといえばとりとめもない筆致で語られる。作品を貫く基本的な感情は嘆きなのだが、それが同時にどこか紗がかかって感じられるのが鹿島田的である。婉曲にぼかして書いてあるわけではないが、話者の関心が、そもそも通常より斜め上の方向、形而上的な領域に向けられている気がするからだ。そのために恋人との小さなエピソードも、どこか神話めいて感じられる。

 話者は外界よりも自分の内側に目を向けている。というか、そもそも客観的な存在としての外的な出来事と、それに対する自分の感情を分けていないようである。恋人との関係を核とし、さらに数人の同僚との関わりだけが彼女にとっての世界であり、しかもその世界は彼女の揺れ動く感情によって染め上げられてしまっている。こう書くといかにもありふれた日常系の作品のようだが、平凡な日常がそのまま超越的な領域と地続きになってしまっている感覚が独特なのだ。

伊藤香織「苔やはらかに」(文學界

九州芸術祭文学賞。選評では九州弁を多用した妙に気だるい文体が評価されたようだが、僕はそうした小手先以前に大きな問題があるように思う。青臭いことを言うようだが、僕は小説というのは数多の例外はあるにせよ、基本的に物語を語るものだと思っている。そしてその物語を通して、個人が直面する様々な問題について思考するものだと思う。しかしこの作品には、物語もないし思考もない。あるのは憂鬱な私が周囲の善意にふんわりと包まれている、といった極私的な「気分」でしかないように思える。思考がない、というのは、作者は語り手を受動的に状況のなかでやすらわせているばかりだからだ。恋人と別れた。辛い。悲しい。そこまでは誰でも思う。思考するというのは、そうした直面する状況を再解釈、再定義し、異なる可能性を探ることである。それは例えば、どちらが悪かったのか? どこで誤ったのか? 本当に愛情があったのか? といった平凡な問いで構わない。むしろ小説的思考というのは、そうしたありふれた問いによって導かれる。けれどもこの作品には、最後まで残った携帯の彼氏の写真を消すといった、感傷的な場面があるきりだ。語り手と彼氏との関係がどのようなものだったのか、そこで何が起きたのか、はオミットされる。でも、やっぱりそこを書くべきじゃないのか? そこから物語が始まるんじゃないか? 作者はうすぼんやりとした悲しみを描けば、あるいは、移り変わる空の色などを詳細に描写すれば(さして詳細でもないのだが)文学になると勘違いしているような気がする。しかしそんなはずがないだろう。小説と抒情詩は違う。ただの「気分」ではなく、複雑な思考、活きのいい理路といったものが小説を活気づける。上手いか下手かではない。それ以前のスタンス、小説観の部分で納得がいかなかった。

 

2010-04-08 「文學界」4月号新人小説月評

4月号の月評です。雑誌に載ったのは、基本的に下記の文章を縮めたものです。


総評

 今月読んだ作品のなかで、とびぬけた読後感を与えたのは青山真治だった。ごく短い作品だが、すぐれた小説ならではの一気に世界が広がっていく感触がある。一方、技術力を見せつけたのが古川日出男だった。この二人は、現在最も勢いのある作家たちといっていいだろう。また、若手ながら木村紅美と村田沙耶香の二人は、着実に安定した実力を蓄えつつあると思う。村田は、どこか異様な女性の心理世界の造形に巧みであり、木村は女性と女性とが一瞬関係しては離れていく描写にすぐれている。しかし、今回一番鮮烈だったのは小林里々子だ。未知の才能だが、注目していきたいと思った。


松本圭二詩人調査」(新潮

 アル中で停職中のタクシードライバーである園部のもとに、突然ヒラリー・クリントン似の宇宙人が現れる。地球は近いうちに滅亡することになっており、貴重種として「聖人」と「詩人」をサンプルとして保存することになっている。その調査のために、世に埋もれた詩人である園部のもとを訪れたのだ。

 こういう前提のもとに、園部の酔言混じりの回想として、彼の青春時代が語られる。はっきりいってSFとしての設定はあらっぽい。斬新さも整合性も、バカSFに必要な悪ノリもない。だが、この設定によって、園部が語る内容にワンクッション置くという効果はあったろう。ストレートに語られたとしたら、どうしようもなくしょぼく、暗く、イタイものになっただろうから。

 何が語られているのか。90年前後の思想系オタクのみすぼらしい青春である。


「表層と戯れる」というのがあの頃の倫理だったんです。ゲームの規則としては理解できるけんですけども、それをモラルとするのは難しいですよ。生き方の問題になってきますから。カルトに走るやつはアホで、ポストモダンをおしゃれ感覚で消費している連中が賢く見える。そんな雰囲気が主流だった。嘘だと。どっちもアホだと。わたしらはそう思っていたんです。

 はっきりいってイタイし、寒い。しかし、当時大学の思想研究会や政治研究会といった名前のサークル室でドゥルーズデリダやや中沢新一栗本慎一郎や丸山圭一郎や吉本隆明などを読んだり、あるいは読んだかのようにふるまっていた人間なら、どこかで思い当たる節があるのではないか。

 当時、まだキャンパスには伝統芸能化した新左翼党派が居座り、ときおりデモやシュプレヒコールをあげていた。一方、ニューアカ以降の「現代思想」に心ひかれるネクラ(これも当時の流行語)男子たちは、気分として「反体制」だった。今となってはほとんど語れることもないが、彼らの心情にはまだどこか70年代的なテロや暴力志向が影を落としている部分があったと思う。彼らは左翼や政治を馬鹿にし、浅田彰にならって闘争より逃走、ゴダール的な表象の政治こそ、リアルなポリティクスなんだなどとうそぶきながら、同時代のどこまでも登り詰めていくかにみえるバブルの宴には、本能的なルサンチマンを抱えていた。

 当時の園部は、大学の仲間たちと東京新都庁の爆破をもくろむなどできもしない計画をぶち上げながら酒を飲んでいる。本気でやる気などない。気分だけなのだ。そして、そのことも自分でわかっている。だからかえって虚勢をはり、支離滅裂なことをしてしまう。彼は結局見栄のために、古本屋で買った筑摩書房世界文学全集チェーホフの巻を使って爆弾を作ってしまう。このへんのテロへの敷居の低さも、オウム911を経験した現在ではありえないことだ(作中、園部が爆弾を作るのはオウム事件の衝撃を受けてでもあるのだが)。それも仲間内でただ一人の美人女子学生に煽られたからというかっこ悪さだ。

 このあたりの情けなさ、駄目さ加減がこの作品の読みどころなのだと思う。少なくとも僕にとってはそうだ。はっきりいってゲロである。青春の記憶というすっぱいバケツ一杯のゲロをぶちまけているわけである。でも確かにこういう時代はあったことは記憶している。

 というわけで、読者を選ぶ小説である。80年代から90年代にかけて二十歳前後だった人たちのなかのごく限られた層には、つきささるものがあるかもしれない。しかしそうでなければ、退屈な話かもしれない。お話としての出来はあまりよくない。作者は自分の思いをぶちまけるのに性急すぎる。

 あと作者の詩人へのこだわりもわかりにくい。詩人であることがそんなに大層なことなのかと思う。詩人といっても、園部は詩壇に認められているわけではない。ただ、毎晩酔い潰れながら、PCに長編詩と称するものを打ち込み続けているだけだ。それが他人にどう映るのかはわからない。園部はただ酔っぱらってゴネている生活破綻者に過ぎないのだが、詩人というだけで人類を代表して宇宙人の研究対象になってしまう。



木堂椎「笑い飛ばして、笑い飛ばしてよ」(早稲田文学u30)

最近の若い世代の作品に多い特徴として、1.極めてせまい人間関係(主に学校)を背景に、2.明るく人気のあるキャラクターを演じつづけている主人公が、3.しかしそれが本当の自分ではないことに悩む、というものがある。これまでにとりあげた作品でいえば、先月の三並夏「嘘、本当、それ以外」がそうだし、白岩玄の「海の住人」にもそれに近い感覚がある。中心となるのは、過剰な対人関係のなかでの自分と、一人になったときの自分の乖離という、ある意味では、だから何、といった程度の主題なのだが、十代から二十代の書いた作品にくりかえし現れるところをみると、それなりに切実な問題なのだろう。前提となるのが、過酷なスクールカーストの存在であり、周囲の人間のなかで優位な(または居心地の良い)ポジションを獲得しなければならないという焦燥感である。しかしそこでうまくふるまっているものほど、じゃあ素の「自分」って何だろう、という空虚感にさいなまれるというわけだ。

 「笑い飛ばして、笑い飛ばしてよ」は、この傾向の典型的な作品。主人公は大学サークル「紅茶研究会」で一番の美人として、華やかな学校生活を送っている。だが実のところ、中学校では地味でつまらないやつとしていじめられていた過去がある。当然中学時代のことは封印しているのだが、そのサークルに中学の同級生鏑木が入ってきて彼女は動揺する。そればかりか、鏑木は、過去のいじめ体験を笑い飛ばせないこと自体が、まだ囚われている証拠だと指摘して、彼女を追い詰める。最後に彼女はサークルメンバーの前で自分の過去を告白する(のだが、このあとにもうひとつ大きなどんでん返しがある)。

 文章やキャラクターはライトノベルに近い、ということはつまり身体性の希薄な文章だ。それだけに深刻にならずすいすい読める勢いがあり、そういうのが好きな人にはいいかもしれない。



羽田圭介「御不浄バトル」(すばる

 「僕」は平凡なサラリーマンだが、毎朝出勤前に駅ビルのトイレで排便することを心の安らぎとしている。就業時間中も、しばしばトイレに行ってくつろぐ。彼の勤め先は、限りなくブラックに近い中小企業だ。業務は世間知らずの主婦に高額な教育教材を売り付けることで、弱者を喰い物にしているといってもいい。「僕」も当然そのことは意識しているが、同時にこれが仕事だからと割り切ってもいる。私事だが、僕の友人にも似たような会社に勤めているものがいた。彼はとても頭がよく、正義感も強かったのだが、結果としてこの種の企業に勤めることになってしまった。コースから外れてしまった人文系院生の行き場など、塾でなければこうしたいかがわしい企業くらいしかない。それを非難するのはのたれ死ねというようなものだ。彼は会社の内情をおもしろおかしくギャグのように語っていたが、実際にはかなりきついものがあったと思う。一年くらいして、彼が退職したことを聞いた。おそらくメンタルか肉体かのいずれかに失調をきたしたのだろう。その後、交流が途絶えてしまったが、どこかで元気に働いていることを祈る。

 そういう個人的な事情もあって、会社の部分がやけにリアルに感じられた。語り手は自分の仕事内容をそれほど深刻に思い悩んでいるわけではない。けれどどこかで負い目は感じている。またやっていることは詐欺に近いと言っても会社の雰囲気は、平板でどこからのんびりとさえしている。つまり、何もかもが中途半端なのだ。退屈な日常とかすかな罪責感。ほんとうにこのままでいいのかという焦燥。それさえも曖昧に輪郭がほどけていく毎日の慣れ。「僕」がトイレで休息したり、食事をとったりすることにこだわるのは、そこがサラリーマン生活のなかの数少ないプライベートなスペースだからだ。彼はわざわざ就業時間中にトイレに弁当を出前させて楽しんだりする。もちろんそれはささやかな反抗であるにはしても、しょせん遊びでありゲームである。いわば「本気」にならないこと、つまり真剣に懊悩したり、辞表をたたきつけたりせず、かといって会社に完全に順応したりもしないというルールが彼を支えている。

 ところが物語の進行につれて、この会社が予想以上にやばいところであることがわかってくる。「僕」はなんとか会社が自分をやめさせるように仕向けようと画策する(辞めさせられた、という形の方が失業保険を貰うのに都合がいいからだ)。その過程で、語り手も微妙に狂気に接近しているような気がするが――トイレの個室にダッチワイフを持ちこんでオナニーをする、というのはすでに壊れているのではないか――結局のところ最後まで、デタッチメントの態度を崩すことはない。

 結局、何も変らない、という物語なのだと読んだ。主人公は事件といっていいものにまきこまれるが、何も成長しないし、生き方も変えない。会社が摘発されてもたぶん彼自身の人生はさして変わりがなさそうだ。彼は絶望しているわけでもない。何も起きない、何も変わらない。だから、何にも本気にならない。そして毎日をそこそこ楽しむこと。排便のようなささやかな快楽もしゃぶるように堪能すること。これはこれで、現代にふさわしい倫理なのかもしれない。


青山真治「患献相殺式情始末」(すばる

大学教員らしい夫と、イラストレーターの妻。妻がふと思い立ってスケッチ旅行に出かける。夫もたまたま体があいたので後を追う。ごくなんということもない夫婦の日常生活のひとこまに過ぎず、筋らしい筋もない。だがそれがひどく瑞々しいのだ。ささやかなあぶくのような挿話がないあわさって、二人の人間の輪郭を奥行きをもって描き出していく。いや、ある人間について語ることが、いつのまにかその人間の歴史、記憶、人間関係を示すものになっていく。一人の人間のなかには、これまでに交わした無数の会話、無数の思い出、無数の出来事が書きこまれているのだから。そのようにして人は、時間と空間に編み込まれている。それは最初から閉じられた輪郭を持って、複数の作品を飛び移ることのできるいわゆる「キャラクター」的な人物像の対極にあるものだ。印象、記憶の重ね合わせとしての人物。きわめてまっとうな二十世紀文学的方法論だ。

 この作品は、やがて短編連作の一部のようなものになるのだろうか。それともより大きな長編小説の背景となるのだろうか。いずれにせよ、この短編から感じられるのは、これが複雑な広大な世界の一部を切り取ったものだということだ。すぐれた小説は世界の大きさと豊かさを、小さな日常の描写を通して開示してくれる。


墨谷渉「地蔵塚」(早稲田文学

 昔、一度だけ訪れたことのある親戚の墓を、ふらりとたずねてみる、という話に、幼い子供の死をめぐる幾つかの点景的エピソードを添えた作品。私小説なのかどうか知らないが、感触としてはそれに近い。子供の死といっても、自分の子が亡くなるわけではないので、切迫感はない。淡い断想といったところだが、なかなか心地がよく、個人的には好きな作品。あっさり薄味。


青沼静哉「ほか○いど」(○は温泉マーク)(早稲田文学

 早稲田文学新人賞だが、選考の東浩紀の評が的確かと思う。「唯一の、そして最大の難点は固有のテーマらしきものが見つからないことで、したがってそういう観点から見ればこれはまったく不毛な小説でもあるのだが、それはこの小説の狙いからすれば不可避、というよりむしろその不在こそがテーマなので不問に付すほかはないだろう」。小説というのは奇妙なもので、何らかの「主題」――いずれも曖昧な言葉だが、「意味」といっても「こだわり」といってもいい――のない作品を長時間読むのは困難であり、また、書き手も長期間無意味に耐え続けることは難しい。確かに現在では、福永信青木淳悟といった物語内容における意味の不在を志向する一群の作家が存在する。だが彼らの作品は、その不在を補填するように、構造そのものにおいて何らかの一貫性を触知させる。でなければ作品としては成立しないだろう。

 だが「ほか○いど」では、初発ゆえの意味の不在がそのまま投げ出されている。幾つかのアイデアと言葉遊びと、先行テクストの擬態以外はきれいさっぱり拭い去られている。「受賞の言葉」(にあたるもの)も含めて、徹底して作り込み、ふざけ倒してやろうという心意気には見上げたものがあるとさえいっていい。

 東は「ニコニコ動画時代の『さようなら、ギャングたち』といった趣」と書いているが、高橋にあったリリシズムを支える「わたし」の一貫性は皆無である。一行ごとのナンセンスギャグによってテクストを駆動させるスタイルはゼロ年代以降のものだ。


木下古栗「盗撮星人」(早稲田文学

 あいかわらず快調といっていいだろう。今回も話としてはまったく意味がないがおもしろい。

ところで、「群像」の「小説合評」で、前回取り上げた「夢枕に獏が……」を佐川光晴田中和生の男性作家・批評家が褒めているのに対して、平田俊子が首をかしげているのが興味深かった。どこがいいのかさっぱりわからないという風情だ。もしかして木下作品は女性には嫌われるのだろうか? 下ネタだから? というか、「女のことなど何も知らないのに下ネタで異様に盛り上がってる馬鹿な中坊グループ」みたいなノリだから? 実際、木下の下ネタは全然エロくないし、どこかに童貞臭がする。僕は、木下の作品を読んで、なんとなく古谷実のコミック「稲中卓球部」を思い出していたのだが、思えばこれも、ナンセンス+下ネタ+中学生のとりあわせだ。女性読者がつかないとしたら可哀相だが、この三つは僕の大好物なので、どんどんこの調子で書いていってほしい。


佐藤弘「あの手紙の中で集まろう」(早稲田文学u30)

 ちょうど幾人もの亡霊が次々にその書き手に憑依しては、自分の経験を語っているかのように、一通の手紙として書かれている文章のなかで、語り手が次々に移り変わっていく。アイデアはおもしろいのかもしれないが、完全に失敗している。お互いに連関のない内容がだらだらと語られていくため、読みづらいことこのうえなく、しかも散漫な印象しか与えない。その上、「手紙」という設定が何の役割も果たしていない。

このタイプの小説を書くためには、複数の語りをもっと精緻に構造化する必要があったろうし、文章も考える必要があっただろう。今のざっくばらんな語り口が効果的だとは思えない。逆説的だが、断片によって作品をつくりあげるためには、全体を感じさせる必要がある。


間宮緑「禿頭姫」(早稲田文学u30)

王朝もの。やんごとなき姫君の甲姫は、目覚めて突然自分の黒髪が消滅していることに気づく。彼女はお付きの影姫の髪を切って鬘をつくって身につけるが心はやすまらない。

作者が狙ったのは、王朝を舞台にした物語のなかでも、坂口安吾桜の森の満開の下』、石川淳『紫苑物語』、澁澤龍彦『ねむり姫』のような妖しい耽美的な雰囲気を持った作品ではないかと思われる。しかしこれらの作品を名作にしているのは、完璧な文章と目も眩むような奇想とともに、くっきりとした輪郭を持ったプロットなのである。これらはメルヒェンであり寓話でもあるのだから、シンプルで力強い筋立てが必要なのだ。この要素が決定的に欠けている。作者は文章にこだわる――成功しているとは思わないが――ほどにも、筋立てにも気を配ってほしかった。

あと一応平安期の宮廷がイメージされているのだろうが、具体的な設定がよくわからないのも気になった。幾人も登場する「姫」たちは、一人の「御殿様」に仕えているらしいが、現実にはそのようなことはなかっただろう(妻問い婚なんだし)とか、お付きの侍女に過ぎないものがなぜ「影姫」と呼ばれるのか、など。歴史的事実を逸脱するな、というつもりはないが、「現実と似通った別の世界」を舞台にするのなら、ある程度現実世界との異同を明瞭にしておく必要があると思う。



入間人間「返信」(早稲田文学u30

 ひきこもりの青年が、唯一のコミュニケーション相手であるメル友から電話番号をメールされて戸惑う話。ディスコミュニケーションに苦しむ主人公の自意識語りが中心であることと、彼を母性的に受け入れる女性が登場することの二点において、まちがいなくラノベ的だ。だが、分量のせいもあって、粘着性はなく淡白な印象を受ける。けっきょくのところ、引きこもり青年が女性に励まされてちゃんとした人間になろうと決意するという「いい話」に落ち着いた。


村田沙耶香「パズル」早稲田文学

OLである早苗には、他人というものを一個の人格以前に生の肉体、細胞や粘液や内臓の集合として見てしまう癖がある。例えば満員電車に乗れば、周囲の男たちが吐き出す息を、ほとんど手でつかむような具体性をもって感受する。普通だったら気持ちが悪いと思いそうなものだが、自分自身の身体を無機物のように感じている早苗は、そうした他人の「肉体」と接することに恍惚感を覚える。「他者」というものを認知するときの奇妙な歪み、ブレというのがこの作者の主題であるらしい。その奇妙さは、酔った同僚の嘔吐物の香りをうっとりと吸い込むような描写にあらわだが、そのような場面でも意外なほどグロテスクさはなく、静謐で繊細なトーンが全編の基調をなしている。正直にいえば、この早苗というキャラクターはかなり作り物めいているという感じは拭えなかった。けれど全体としてはよくできている。世界に対する違和を抱えた若い女性が、その違和を受け入れることで癒され、至福に入っていく(しかし、客観的には狂っていく)という物語を、素直に描いて成功している。


木村紅美「見知らぬ人へ、おめでとう」(群像)

 企業で経理を担当している灯子は、職場にも同僚にもなじまず、どこか孤高の姿勢を保って生活している。もともと彼女には若いころから世の中のマジョリティに対して反発する気分があったのだが、三十を過ぎてみると、結局平凡なOLに過ぎないこともわかっている。一方、未央は結婚して専業主婦という安定コースに一度はのったものの、夫のリストラでまた働きに出ることになった。未央のわだかまりは、昨年経済的理由から、二人目の子供を中絶したことだ。この二人の日常が交互に語られ、やがて交わる。

 先月の朝比奈あすか「クロスロード」もそうだったが、最近の女性作家の小説では、未婚、子無しで働く女性と、無職か働いても不安定労働の既婚女性という取り合わせが多いような気がする。いわばこれが、平均的な現代女性の生き方の振り幅なのだろう。いうまでもなく、女性もばりばりキャリアアップという路線も、家庭で優雅に専業主婦という路線もとっくに擦り切れてしまっている。希望や展望の見えない毎日のなかで、深呼吸のできる空間を探し求める場面がしばしば描かれる。

 確かに新味のある設定ではないかもしれない。けれども、家庭や職場といった既成のコミュニティに依存しない場所で(というのはそれらのコミュニティはもう機能していないからだが)、硬直化しない人間関係を求めるというモチーフにはリアリティがあるのだろうと思う。

 ほとんど接点も利害関係もない灯子と未央が一瞬だけ出会うとき、儚さゆえにその交わりは無垢である。

追記(4月8日)僕は木村紅美が好きだ。特に、「イーハトーヴ短編集」という小品がとても好きだ。村田沙耶香についてはよく知らないのだけど、基本的にいい作家だと思う。それで今回もかなり好意的に書いたけれども、しかしあとになって、両者ともあまりにお約束に過ぎるのではないかということも考えた。というのも、現在の文芸誌では、孤独な女性の生活を平明なリアリズムで描いた作品はほとんど定番ともいえるほどたくさんあるからだ。そろそろ飽和状態にさしかかっているのかもしれない。女性作家の多くが、主題の幅をひろげていかなければならなくなるだろう。


小野正嗣「蟻の列がほどけるとき」(早稲田文学)、「流れに運ばれまいとするもの」(すばる

「蟻の列がほどけるとき」は先々月の「かあさんのピアノ」の続編、ないし、姉妹作。テーブルの上を蟻が一本の線を作って歩いている描写からはじまり、その蟻が森の中を行進する人影に変わったり、語り手である「僕たち」自身に変化したりする。細部に織り込まれる森の中で赤ん坊が泣いているといったイメージも魅力的だ。プロットのかわりにイメージのメタモルフォージスで勝負するこういう作風は人を選ぶのかもしれないが、僕は嫌いではないし、水準もクリアしていると思う。一方、「流れに運ばれまいとするもの」の方は、地面にうつ伏せになっている老婆といった同じイメージのくりかえしが停滞感を呼んで、少し辛かった。「蟻の列がほどけるとき」くらい短い方がうまくいくようだ。


小林里々子「ぼくのあな」(早稲田文学u30)

 才能を感じた。中学生の世界におけるいじめというのは、「へヴン」にも見られる通り、流行といってもいいような素材なのかもしれない。だが小林は、見通しの利かない短い文章を積み重ねることで、無数の光源がハレーションを起こしているような歪んだ幻惑的な想像空間をつくりだしている。中学二年生の透は、たまたま通学途上に痴漢に襲われたことから、性的なものに過敏に反応するクラスメートたちにオカマ扱いされるようになる。またその一学年下の龍も、似たような経緯でいじめられている。自分を透明にすることで、周囲との軋轢を解消しようとする透にたいして、龍は突発的な暴力で応じる。彼は自分を怪物にすることで、うとましく不潔な日常的なコミュニケーションの回路を断ち切るのだ。情景を描写するのではなく、瞬間瞬間の出来事だけを記録する文体が、学校内の権力の変動、思春期の未熟な性的意識、揺れ動く自己像といったものを粒子状の流動体として描き出すことを可能にしている。二人は砂鉄が磁場によって姿をかえるように、幾つかの模様を描き出しながら、引き返すことのできない結末に向かって突き進んでいく。

 

古川日出男「犬屋たちは必ずコンクリートの裏側に」(早稲田文学

編集部の指示だとはいうものの、古川日出男を「新人」とくくるのは違和感がある。すでに充分なキャリアを持ち、しかもいま最も脂ののりきった実力派作家というのが衆目一致するところではないのか。この作品も、古川の力が遺憾なく発揮されている。ある男の五歳から二九歳までの半生がものすごい速度で一息に語られる。わずか数ページの作品であり、必然的に物語は圧縮され、断片的なイメージだけがモンタージュ的に組み合わされることになる。軸となるのは、少年が犬と会う、という場面の反復だ。そこにメタフィクショナルな語りがたびたび介入する。あらためて実感するのは、古川という作家語りのスキルのすさまじさだ。長編を読めばすぐにわかるように、古川の武器はエンタメ的なスピーディーな展開と、巧緻に仕組まれた複雑なナラティブにある。この超短編でもそれがわかる。逆に言うと、その技量のパフォーマンスのためにだけ書かれた作品という感じがしなくもない。軽くブルペンで剛速球を披露して見せている剛腕投手といったところか。