盗まれた手紙についてのセミネール
エクリ 1 | |
ジャック・ラカン 宮本 忠雄 弘文堂 1972-05-25 売り上げランキング : 250486 おすすめ平均 espritが凝縮された、形容できない読後感 最重要文献 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
さて、なんで「ラカン」かと言うと、前回の西平先生の本を読んで「三者関係」を考えたからです。「エクリ」の最初の講演が「盗まれた手紙」。江戸川、あ、失礼、エドガー・アラン・ポーの有名な探偵小説を題材にした治療論ですが、そこに登場人物の「三角形の反復」を読み取っている。どの場面も三者関係だ、と言うのです。違うのに(笑)。最初は手紙が盗まれる犯行現場。王様がいて、王妃様がいる。そこに大臣が入ってくることで三者関係が生まれ、役割の交換が起こる。手紙の所有者が、王妃様から大臣に移るわけです。なぜかというと、王様が節穴だから。その場の空気を読めてない。この王様が「中空構造」やらなんですかねえ。一人マヌケがいると、場が流動的になりやすい。それは生産的でもあり、破壊的でもある。トリックスター。
二つ目の場面は捜索。警察がいて、犯人の大臣がいる。そこに名探偵デュパンが入る。例によって警察の目は節穴で、隠されている手紙を発見できない。最新機器を使って捜索するからです。大臣の「心」を考慮していない。大臣は警察の「裏」を読んで、手紙の封筒を裏返しています。偽の宛名を書き込んで。でもそうした二者関係は、第三者デュパンの視点から見て取れる。これが「離見の見」ですね。大臣の「心」は、警察に合わせその場で構成されるものだから、関係性を見とれば読解可能で、同時に二人に合わせることは出来ないので介入できるわけです。
そして、デュパンは再度大臣宅を訪れ、雇った役者に窓の外でひと暴れしてもらうことで、大臣・役者・自分の三角関係を作り、大臣が役者のほうに気をとられた隙に手紙を取り戻す。これが「精神分析の構造」。クライエントとセラピストの二者関係を、セラピストはまるで他人事みたいに第三の視点(「大文字の他者」って奴だ)からも見ている。シテが客に気をとられているときに、シテの課題を読み取るワキのように。
あと「鏡像段階」も好きですよ。動物に鏡を見せると威嚇のためのポーズをとる話とか。そうね。誰かに怒りを感じるのは、その誰かが自分に似てるときだね。「私」が誰か分からなくなる不安。主と奴の関係。二者関係というのは「どちらが私か」というパワーゲーム(だいたい、日本語だと一人称も二人称も「自分」だもんなあ。区別付かんよ。自分もそう思うでしょ?)。それを乗り越えるには、第三の視点を持つことが必要になる。それと「ローマ公演」も好きだなあ。インド哲学が裏地に織り込まれてます。ダー、ダー、ダー。
エドガー・アラン・ポーの原作は青空文庫で。無料で読めます。
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