kurakenyaのつれづれ日記

2009-06-30 見えるものと見えないもの11章 倹約と贅沢

さて今日は11章「倹約と贅沢」です。


1950年のバスティアは書いてないのですが、

今の経済学の視点からすると、

貯蓄が道徳的に優れていると言う主張だけでなくて、

経済に関しても長期には優れていることは明らかです。


僕はこれについて、いろいろと過去に考えてみたことがあるのですが、

それは、全員が9割を貯蓄する社会とはどのようなものだろうか?

という疑問です。


もちろん、ここでは国際貿易資本移動がないとします。

とすると、9割が貯蓄されるということは、それらの資金は何らかの投資活動に回るしかないですから、

おそらく資本投資はリターンがゼロか、あるいはマイナスになるくらいになされるだろうし、

あるいはR&Dも、リターンの期待値マイナスになるほどに行われるはずです。


さてそういう社会は、確かに貯蓄のリターンはmarginal returnが低下するために低いかもしれないのですが、

未来への技術開発が大規模になされるため、経済成長率は大幅に高くなるはずです。

そういった社会が望ましいものであると言えるかどうかは、判断者の時間割引率に依存しますが、

総じて、いわゆる「成長型経済」が望ましいと言う人にとっては、望ましいはずです。

贅沢はあるいは生産設備稼働率を高めるのかもしれませんが、

倹約的な社会のほうが長期的には成長率が高いはずです。


これは製薬や化学半導体などの研究型の産業がなかった19世紀には言及することはなかったでしょうが、

いまとなっては明白です。

とはいえ、その割には、今も消費が伸びれば伸びるほどよいというエコノミストがいるのはなぜでしょうか?

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11.倹約と贅沢

 見えるものが見えないものを日食のように隠してしまうのは、何も公共支出だけのことではない。政治経済関係することに加えて、この現象は誤った道徳正当化へとつながってしまう。国内の道徳利益物質利益が相反するものであるかのように見せるのだ。このことより落胆し、気がめいることなどあるだろうか? 例えば、

 秩序、統制、注意深さ、倹約や金使いを抑制することを、子どもに教えることを義務と考えない家父はいない。

 虚飾と贅沢を糾弾しない宗教はない。そうであるべきである。がその反対に、次のような格言をなんと頻繁に聞くことだろうか。

「貯蓄は、人々の生気を干上がらせてしまう。」

「高貴な人々の贅沢は、庶民の慰めである。」

「浪費は自らの破滅となるが、国を富ませる。」

「貧者のパンとなるのは、富者の余剰である。」

確かにここには、道徳的な考えと社会経済的な考えの間に目に余るほどの矛盾がある。この軋轢を指摘した後、どれだけの偉大なる人々が静穏を保てるのか?それは私が一度も理解できないことだ。なぜなら、人間の心にある二つの相反する傾向を見るほどに耐え難いことはないからだ。人類は、一方の極端にあるのと同じほどに、もう一方の極端においても堕落してしまう! 倹約なら悲惨を生み、放蕩は道徳的な破滅に堕してしまう。幸運なことに、これらの卑俗なる格言は、倹約と贅沢とに偽りの光の下に照らしている。それらは、直近の見える結果にのみを考慮に入れ、遠くに存在する見えないものを考慮していないからだ。この不完全な見方を修正してみよう。

 モンドールアリストゥスの兄弟は、遺産分割をした後、年に5万フランの収入を得ることになった。モンドール流行りのフィランソロピーを実践する。彼はいわゆる浪費家だ。一年に何度も家具を新調し、毎月馬車を買い換える。人々は、金をすばやく使うための彼の高貴なる計略について語り合う。つまり彼は、バルザックアレキサンダー・デュマの享楽生活を上回る。

 彼への賞賛は引きも切らない。「モンドールについて教えてくれ! モンドールよ、永遠に! 彼は労働者に恵みを与え、人々に祝福をもたらす。本当に、彼は贅沢にふけり、通行人にさえ金をまく。そして彼の尊厳人類品性は少しばかり低下する。しかしそれがどうした? 彼は、自身の労働によるかどうかは別にして、その財産で善を成している。金を循環させて、商人を常に満足させて帰らせている。金が丸く造られているのは回るためだと言うではないか?」

 アリストゥスは非常に異なった人生設計を採った。彼は、自己中心主義者でないにしても、少なくとも個人主義者ではある。なぜなら、彼は消費について熟慮し、穏当で適度な楽しみを求め、子どもの将来について考えた、つまり節約をするからだ。

 そして、人々は彼について何と言うか? 「あいつのような金持ちに何の意味がある? あいつはケチ野郎だ。確かに、やつの生活の単調さは見上げたものだし、人道的で博愛精神もある。だが、やつは計算高い。やつは収入全部を使ったりしない。家も豪華じゃないし、人も集っていない。内装職人や馬車職人、馬商人菓子屋にどんな利益をもたらしていると言うのか?」

 こういった道徳的には致命的な意見は、贅沢に伴う出費という、目に入る一つの事実に基づいている。そして、それと同量あるいはそれ以上にもなる節約的な消費という、もう一つの事実は目に入らない。

 しかし、社会秩序の聖なる設計者によって、すべてが驚異的に見事に配置されている。他のこと同様、このことについても、社会経済道徳性は対立するどころか完全に一致しており、

アリストゥスの知恵はモンドールの愚行よりも品位があるだけでなく、利益にもかなっているのだ。そして、私が利益にかなっていると言うとき、アリストゥスにとってだけ、あるいは社会全般に対してでさえもなく、労働者自身、つまりすべての産業にとっても利益があるのだ。

 この証明のためには、現実の目には見えない人間行動の隠された結果に対して目を向けさえすれば良い。

 なるほど、モンドールの贅沢はすべての点において目に見える効果を生み出している。誰でも、モンドールの折りたたみ幌のついた馬車、二頭立て四輪馬車、四輪箱馬車、天井画の繊細さ、豪奢な絨毯、豪邸の輝きを見ることができる。モンドールの馬が競馬場を走っていることを知っている。彼がオテル・ド・パリで開く晩餐は大通りの人々の耳目を集め、人々は「気前のいい男だ。収入を使うどころか、資産まで使っているに違いない。」これは、見えるものだ。

 労働者利益という観点からは、アリストゥスの所得がどうなっているのかを見るのは容易ではない。しかし、注意深く行く先を考えてみれば、そのすべてが、最後にいたるまで、モンドール財産と同じように労働者雇用を与えていることがわかるのだ。唯一の違いは、モンドールの度外れた贅沢は次第に減少する運命にあり、必ず終わりを告げるが、アリストゥスの賢明なる消費は年々増加するということだ。

 もしそうなら、確実に公益は道徳調和する。

 アリストゥスは自分家計のために年2万フランを使う。もしこれで満足しないというのなら、彼は賢明人間であると呼ばれるに値しないだろう。彼は貧者に降りかかる災難に同情し、その援助のために良心から1万フランを寄付する。彼には、商人製造業者、農民にも一時的な困難を抱える友人がいる。その情況を知り、慎重に、そして効果的に援助するためにも、さらに1万フランを使う。最後に、彼は婚礼費用を用意すべき娘と、将来を期待される息子がいることを忘れない。そのため、年に1万フランを貯蓄に回す。

 よって、以下が彼の支出リストである。

1、自家消費 20000フラン

2、慈善活動 10000フラン

3、友人の援助 10000フラン

4、貯蓄 10000フラン

 これらの項目を見れば、最後のお金にいたるまで国民産業に回っていることがわかるだろう。

 1、自家消費 人々の雇用産業に関する限り、この出費はモンドールが使う分の額と完全に同じ効果を持つ。このことは自明なので、これ以上は語らない。

 2、慈善 この目的のための1万フランは産業に対して同額の利益をもたらす。肉屋パン屋、仕立て屋、大工のもとに届くのである。違うのは、パン、肉、服はアリストゥスのためではなく、彼の代理となった人々によって使われることだ。そして、ある消費者が別の消費者に取って代わることは、一般的には取り引きに影響を与えない。アリストゥスが金を使うか、その代わりに別の不幸な人が使うようにするかは、まったく同一だ。

 3、友人の援助 アリストゥスが金を貸した、あるいは与えた友人は、地面に埋めるために金を受け取るわけではない。そうだとすれば、そもそもの仮定に反する。友人は商品を買うためか、借金を返済するために金を使う。前者の場合、取り引きが促進される。モンドールの買う1万フランのサラブレッドのほうが、アリストゥスまたは友人の買う1万フランの買い物よりも価値があるなどと言うものがいるだろうか?借金の返済に使われた場合、第三者、つまり貸付人が現れることになるが、その金は仕事か、家庭のためか、農場のためかに必ず使われることになる。彼はアリストゥスと労働者の間に入るだけだ。名目は変わっても、出費は同じであり、産業の振興も同じである。

 4、貯蓄 残りは貯蓄された1万フランである。この点においては、芸術商業雇用労働の振興において、モンドールアリストゥスよりも上回っているように見える。とはいえ、道徳的にはアリストゥスのほうがどれだけがモンドールよりも優れている。

 こういった自然法則の明らかな矛盾を見るとき、私は苦痛となるほどの精神的な居心地の悪さを感じる。もし人間が、その利益に反することと道徳に反することのどちらかを選ばなくてはならないとするのなら、その未来絶望するしかない。幸運なことに、そうではない。アリストゥスがその道徳的な優越と同じように、経済的な優越を回復するには、外見上の矛盾にもかかわらず真理であり、心癒される原理を理解するだけでいい。つまり「貯蓄することは、消費すること」である。

 アリストゥスが1万フランを貯蓄する目的は何なのだろうか? 100スー金貨2千枚を庭に埋めるためだろうか? もちろん、違う。資産と所得を増やすためだ。その結果、その金は彼の個人的な楽しみを購入するために使われる代わりに、土地や家、国債の購入、起業活動のために使われるか、あるいは商人銀行家の手に渡るのである。これらの場合の資金の行く先を追跡してみれば、売り手や貸し手という仲介人を通して、それらが雇用を促進することに納得できるだろう。それは間違いなく、モンドールの例に倣えば、あたかもアリストゥスがその金を家具宝石、馬と交換したかのごとくにである。

 アリストゥスが1万フランで土地証券をを買ったするとき、それは彼が金を使いたくないと考えたからだろう。これが、彼への不満となるのだ。

 しかし同時に、土地証券を売った者は、その金を何らかの形で使いたいという考えから売ったのだ。だから、どのみちアリストゥスか、あるいはその代わりの誰かによってその金は使われることになる。

 労働者階級雇用の促進については、アリストゥスとモンドールの行為には一つの違いがある。モンドール自分で消費するため、その効果は目に見える。アリストゥスは部分的に仲介者を通じて消費するため、その効果は目に見えない。しかし、実際のところ、効果をその原因に正しく起因させることができるものにとっては、見えないものは見えるものと同じくらい確実なものとして認識される。このことは、両方の場合において、金は循環しているという事実によって証明される。浪費の場合と同じように、金は賢いものの鉄金庫の中にあるのではないのだ。よって、倹約産業を害すると言うのは間違いだ。上述したように、それは贅沢と同じほどに有益なのである。

 しかし、もし現在についてのみ考えるのではなく、もっと長期について考えるなら、倹約はどれほど贅沢よりも優れているのだろうか。

 10年が経つ。モンドールとその財産、大変な人気はどうなるのだろうか? すべてを失い、彼は破産する。経済に対して毎年6万フランを使うどころか、彼は経済の負担となっている。どうであるにしても、彼はもはや店主たちを喜ばすことはない。もはや芸術商業パトロンでもなく、労働者に対しても、あるいは彼が貧困に導いたその子孫の役にも立たない。

 同じ10年が終わった後、アリストゥスはその取得を経済還元し続けているだけでなく、その消費は毎年増え続けている。彼は資産を増大させ、つまり、その資産賃金を提供する。その資金量に応じて労働需要が決まり、彼はますます労働者階級に多くの報酬を与える。彼が死ぬとすれば、彼の子どもたちが、こうした進歩文明の仕組みを継承する。

 道徳的な見地からは、贅沢に比べた倹約の優越は議論の余地がない。ある現象の直近の効果にとどまらず、最終的な効果について考察するする能力を持つすべてのものにとって、政治経済の見地においてもそうであると考えるのは、心が癒されることである。

2009-06-29 見えるものと見えないもの10章 アルジェリア

オバマ大統領に限らず、どこの国の政治家でも

温暖化対策が雇用を増大させると言う。


とはいえ、一般均衡理論を理解する経済学者であれば、

温暖化対策のための労働力は、

本来であれば、どこか別のセクターで働けたはずだと言うだろう。


現在の政策はすべて、

需要が足りないために労働力活用されきっていない=完全雇用ではないと言う考えに基づくのだが、

政治家と言うのはいつもそういう風に主張している。

そういうことをそのままいい続けている新聞もどうかと思うが、

人々が信じる以上、仕方がないところもあるだろう。


こういった話はよくよく考えればおかいしことがわかるが、

そのためには論理的に考える必要がある。

それが残念なことに難しいのだろう、、、


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10.アルジェリア

 ここに、議題について論争している4人の演説者がいる。最初、4人全員が同時に話し、ついで、次々に話す。彼らは何を言ったのか? もちろん、フランスの力と偉大さについてのとてもすばらしいことだ。もし収穫を得ようとするなら、種をまく必要があることについて。我われの巨大な植民地の輝ける未来について。我われの人口の余剰を遠隔地に分散させることの利点について、などなど。壮大な雄弁を誇る演説、そして常に次の結論によって装飾されている――「5千万フランほどをかけて、アルジェリアに港と道路を造ることに投票せよ、ここへ移民を送り、家を作り、区画整理をするために。そうすれば、フランス労働者を救い、アフリカでの労働奨励し、マルセイユ商業に刺激を与えることがになる。それは、すべての意味利益となるのだ。」

 その通り、それはまったく正しい、国家が5千万フランを使い始めるまで、それについて考慮しないというのであれば。もしお金がどこに行くのかだけを見て、どこから来るのかを見ないのであれば。お金が徴税人のバッグから出てきてからの良い面だけを見て、お金をバッグに入れることから生じる悪い面や、そのために行われないことになった良い面を見ないのであれば。その通り、このような限定的な視点からは、すべてが利益となる。北アフリカに造られる家は、見えるものだ。北アフリカに造られる港は、見えるものだ。北アフリカでつくられた雇用は、見えるものだ。これらよりやや少ないフランスでの雇用は、見えるものだ。マルセイユでの商品の搬送もまた、見えるものだ。

 しかしこれらの他に、見えないものもある。国によって出費された5千万フランは、納税者によって、もしそういうことがなかったら使われたであろう用途には使われなかった。政府によって為された出費によって生じたすべての良いことから、個人的な出費が為されなかったことから生じる害悪差し引く必要があるのだ。ジャック・ボノムは彼が稼ぎ、税金として奪われたお金で何もしないのではない。そう言うのは馬鹿げている。なぜなら、彼は苦労してお金を稼いだのであり、それを使うことからは満足を得るからだ。彼は庭の柵を直しただろうが、今それはできない。これは、見えないものだ。彼は畑に肥料を撒いただろうが、今それはできない。これは、見えないものだ。彼は別荘に二階を建て増ししただろうが、今それはできない。これは、見えないものだ。彼は工具の数を増やしただろうが、今それはできない。これは、見えないものだ。彼はもっとたくさん食べ、良い服を着て、子どもに良い教育を与え、娘の婚礼費用を増やしただろう、これは、見えないものだ。彼は相互扶助協会の会員になっただろうが、今はできない。これは、見えないものだ。一方では、奪われてしまった楽しみがあり、壊されてしまった行為がある。その一方では、彼が活動を促進したはずの下水工事大工、鍛冶屋、仕立て屋、村の学校教師は、今はそれを邪魔された――これらすべては、見えないものだ。

 アルジェリアの将来的な繁栄からは多くのことが期待できる。その通りだ。しかしフランスが失うものを、完全な視界の外にやってはならない。マルセイユ商業は際立っている。だがこれが税という手段によってもたらされるのであれば、同じ分だけ国内の別の場所での商業破壊されていることを、私は常に示さねばならない。「北アフリカに移送される移民がいる。それは国内に残る人々を助けることだ」と言われる。私は言う、「もしアルジェリア移民を送り出すのに、フランスにとどまる場合の2,3倍の資金も一緒に送り出すのなら、どうしてそんなことがいえるだろうか?」

 軍事大臣最近述べたところでは、アルジェリアに一人を送り出すためにかかる費用は8千フランである。さて、これらの貧しいものたちは4千フランもあれば、フランスで十分に生きていけただろう。一人と同時に、二人の生計分がなくなるのなら、どうしてフランスの民は助かるのだろうか?

 私がここで唯一の目的としているのは、すべての公的支出について、その明らかな利益の背後には、容易には見出しがたい悪が存在していることを、読者に明らかにすることだ。私ができる限りにおいて、読者には両者を見て、両方を考慮する習慣をつけてもらいたい。

 公共支出が提案された場合、その結果とされる雇用の促進を別にして、それ自体のメリット吟味しなければならない。なぜなら雇用の促進は幻想だからだ。このように公共支出によってなされることはすべて、私的な支出によっても同じことができる。よって、雇用への関心は、常に問題外のことだ。

 この論の目的は、アルジェリアに対する公共支出の持つ内在的な価値を批判することにあるのではないが、それでも私は、一般的観察を止めることができない。それは、税を通じた公共支出には常に問題があるという考えである。なぜか? それは次のような理由による。第一に、それによってある程度の正義が損なわれてしまうからだ。ジャック・ボノムは自分で楽しもうと働いて金を稼いだのに、国税がそれに干渉して彼の楽しみを他人に与えるというのは残念なことだ。確かに、それらの税を課す人々には、十分な理由を提示する義務がある。私たちは、国家嫌悪すべき理由を示してきたのを知っている。「この金で、労働者を雇わねばならない。」もちろん、これに対して、ジャック・ボノムは(そのことに気が付くやいなや)次のように答えるだろう。「それは結構だ。しかし、その金で私は自分で彼らを雇えるだろう。」

 この理由はさておき、他の理由はこうした偽装がなされていないため、国庫と哀れなジャックとの議論ははるかに単純なものとなる。もし国家が彼に対して、「おまえの金を、身辺の安全を守るのに役立つ警官を雇うために、毎日通る道を舗装するために、財産と自由を守る民の裁判官を雇うために、国境を守るための兵を維持するために、使おう」というなら、ジャック・ボノムは、私が間違っていないなら、躊躇せずに金を支払うだろう。しかし、国家が彼に「おまえがうまく耕地を耕した時に小さな賞金を与えるために、彼の望まない教育をその息子に与えるために、大臣が豪華な晩餐にもう一品を加えるために、アルジェリアに家屋を建てるために、移住者への援助は言うまでもなく、さらに移住者を守るための兵を維持するために、さらにその兵を見張るための将兵を維持するために、などなどに、金を使おう」というなら、哀れなジャックは「この法システムは、無法のシステムとほとんど同じじゃないか!」と大声で叫ぶと思う。国家はこの反論を予想して、どうするのだろうか? 全部を一緒くたにして、その質問と関係のない、もっともらしい理由を持ち出すのだ。雇用に与える影響を語り、大臣料理人や御用商人について指摘し、税収に頼る移民や兵、将校存在を示す。これらは、事実、見えるものだ。そしてもし、ジャック・ボノムが見えないものを考慮に入れることを学んでいないならば、彼はだまされているのだ。これが、何度も何度も繰り返すことによって、私がそのことを彼に教えるために全力を尽くしたい理由なのだ。

 公共支出雇用を増大させることなく、単に産業間を移動させるとき、公共支出に反対する第二の深刻な懸念が持ち上がる。雇用を移動させるということは、労働者を移動させるということであり、国の人口配置を律する自然法則を妨害することだ。もし5千万フランが納税者のもとに留まるなら、それはフランスの4万の行政区雇用を促進することになる。それは自然の紐帯としての役割を果たし、皆を故郷土地に維持し続け、考えられるすべての労働商業に分配される。もしこの5千万フランを市民から国家が取り上げて、ある場所で使うなら、それに見合った分の雇用が移動し、その分だけ他の土地に属する労働者が移動し、その土地に属さない流動的な人口が集まるだろう。そしてそれは、あえて言うならば、資金が尽きたときには危険でさえあるのだ。ここに以下のような結論がある(そしてそれは私の言ったことを裏付ける)。こうした熱狂的な活動は、いうならば、狭い場所に閉じ込められて、皆の注意を引く。それは、見えるものだ。人々は喝采し、手順の美しさと簡単さに驚き、その継続と拡大を求める。見えないものは、おそらくはもっと価値のある同じ数の雇用が、フランスの他の地域で創出されるのを阻まれたことなのである。

 

kjhkjh 2009/07/01 11:42 この理由はさておき、他の理由はこうした偽装がなされていないため、「国庫」と哀れなジャックとの議論ははるかに単純なものとなる。

文脈から国家のtypoかと思われるのですがどうでしょうか?

kurakenyakurakenya 2009/07/02 16:35 バスティアの原文ではここはfisc(つまり英語のfiscal)で、財政局というほどの意味らしいです。
結局、国庫と訳しましたが、おっしゃる通り、文脈からは国家でもいいわけです。

全体にできるだけ直訳、逐語訳的にやっているので、
160年前のパンフでもあるため、読みづらさはご容赦のほどを m(__)m

kjhkjh 2009/07/06 14:57 先生ありがとうございました<(_ _)>

ベキダデアルもおもしろいんですが、
この見えるものと見えないものも、出版まで是非いってもらいたいです。即買いします。おもしろいです。

とっくに卒業しましたが未だにゼミを受けさせてもらってる気分ですww

2009-06-27 見えるものと見えないもの9章 クレジット

今日バスティアの9章をアップします。

ついでに、たまには経済学者のハシクレらしく、小さな解説を試みてみましょう。


バスティアの作品は、すべてが一般均衡の考えに基づいているため、

不況時においても、すべての生産要素は完全に利用されているという状況が前提になっています。

例えば、これはマクロ経済学でいうところの、均衡動学だといえると思います。


ケインズ主義者は、不況時には生産要素は活用されていない=有効需要が足りないからだ、と主張します。

これは例えば、現在自動車生産半導体生産を見れば、

確かに生産キャパシティよりも少ない量しか生産されていないため、政府の出動となるわけです。


おそらくほとんどの功利主義的な経済学者にとっては、

不況時に政府が出動することが国民効用を増大させるのかという問いが重要なのですが、

これは現在のように、すべての政府協調的に財政出動をする場合には検証しようがないのが難点です。

本来は、財政出動などをする国と、しない国で長期のパフォーマンスを比べれば面白いのですが、

それはすべての国家政治活動を重視する人間たちに牛耳られている以上、

ほとんど不可能なことになってしまっているわけです。


とはいえ、確かに日本航空エルピーダ、などの企業を助ける意味などあるのでしょうか?

マスコミ報道でも、そういった大企業に勤めている人よりも、

平均的納税者ははるかに貧乏だと言う事実は都合よく無視されています。

悪法収容所行きは当然でしょう。


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9.クレジット

 いつの時代でも、特に近頃はそうだが、クレジットの拡大によって富を増大させようとする試みが為されてきた。

 私は誇張ではないと信じているが、二月革命以降、パリ出版社は1万以上ものパンフレットを発行して、この方法による社会問題の解決を叫んできた。この解法の基礎付けはといえば、ああ!錯覚なのだ。実際、もし錯覚が基礎付けと呼べるのならば。

 最初に為されるのは現金生産の混同であり、ついで紙幣現金との混同、そしてこれら二つの混同から現実が引き出されるとされる。

 この問題においては、生産活動が次々と受け渡される手段となっている、通貨、コイン、紙幣、その他の道具を忘れ去ることが絶対的に必要だ。つまり、我われのビジネス生産そのものにあって、それが貸し出しの真の目的物なのだ。農夫がスキを買うために50フランを借りるとき、実際に貸し出されたのは50フランではなくてスキだ。商人が家を買うために2万フランを借りるとき、彼が負っているのは2万フランではなくて、家なのだ。金銭は、当事者間の契約を促進するために現れているに過ぎない。

 ピエール自分のスキを貸したがらないかもしれないが、ジャックはそのお金を貸そうとするかもしれない。この場合、ギロームは何をするのか? 彼はジャックからお金を借りて、そのお金ピエールにスキを買うのである。

 しかし、実際のところ、誰もお金それ自体のためにお金を借りるわけではない。お金とは生産物所有権を得るための媒介物に過ぎない。つまり、ある国において、その国に存在する以上の生産物を、ある人から別の人に与えることはできないのだ。

 現金紙幣流通量がどれだけであろうとも、すべての貸し手が持っている以上のスキ、家、道具、原材料を借り手が受け取ることはできない。なぜなら、すべての借り手には貸し手がいるのであり、借りたものというのはローンを意味しているからだ。

 このことを前提とすると、クレジット制度にはどのような利点があるのだろうか? それは借り手と貸し手の間で、互いを見つけたり契約したりすることを促進するのだ。しかし、貸し借りをするものを即座に増やすというような力は持っていない。とはいえ、望むものすべての手にスキ、家、道具、食料を与えるという改革の目的が達成された場合には、そういうことを可能とするべきなのである。

 彼らはどうやってこれを実現しようとしているのか?

 国債をローンに転換ことによってである。

 このことについて洞察を与えてみよう。それは見えるものと、見えないものを含んでいるからだ。その両者を見る必要がある。

 ここで、世界には一つのスキがあって、二人の農民がそれを借りようとしているとしよう。

 ピエールフランスに唯一存在するスキの持ち主である。ジャンとジャックはそれを借りたい。ジャンは、その誠実さと財産、良い評判によって、安心できる。彼は信頼に値し、クレジットがある。ジャックにはまったく信頼が置けない。ピエールがジャンにスキを貸すのは当然のことになる。

 ここで、社会主義の計画に従って、国家が介入し、ピエールに対して「おまえのスキはジャックに貸しなさい。その返済については、我われが保証しよう。この保証はジャンのものよりも優れている。なぜなら、彼は彼のほかに責任を負うものはいないが、我われの場合は、確かに今は何も持っていなくとも、納税者財産を処分できるのであり、このお金を持って、必要な場合には、元本と利子を支払うからだ」と言う。その結果、ピエールはスキをジャックに貸す。これは見えるものだ。

 そして社会主義者は手を揉みながら言う。「我われの計画の素晴らしさを見ろ。国家の介入のおかげで、かわいそうなジャックはスキを借りた。彼はもう地面を掘る必要がないし、これから財を成すだろう。それは彼にとって良いことだし、国家全体にとっても利点なのだ。」

 皆さん、実際には違う。それは国家の利点などではない。その背後には、見えないものがあるからだ。

 スキがジャックの手にあるということはジャンの手にないからだ、ということは見えない。

 ジャックが穴を掘る代わりに農業をするなら、ジャンは農業をする代わりに穴を掘る必要があるよう貶められたことは見えない。

 結果、貸し出しの増加だと考えられたものは、単なる貸し出しの置き換えにすぎない。さらに、このローンの置き換えが、二つの非常に不正な行為を意味することも見えない。

 ジャンはその誠実さと良き活動によって、ふさわしい信用を得たにもかかわらず、ローンの機会を奪われたことは、彼に対する不正義である。

 自分関係のない借金を支払わされたことは、納税者に対する不正義である。

 ジャックに対するのと同じような機能を政府がジャンにも与えたと主張するものがいるだろうか? しかし、スキが一つしかない以上、二つを貸すことはできない。「国家の介入のおかげで、貸し出されるためのものよりも多くのものが借りられた、なぜならスキはここでは貸出資金意味するからだ」というような社会主義の主張が常になされる。

 私が金融活動をもっとも簡単な表現に簡略化したのは事実だが、もしも、もっとも複雑な政府の信用制度を同じテストにかけてみれば、その結果において同じであることが納得できるだろう。すなわち、信用を置き換えているだけであって、付け加えているわけではないことを。ある国の、ある一時点において、利用可能な資金の量は一定であり、それらはすでに貸し出されている。貸し出しへの保証によって、国家は実際に、借り手の数を増やすかもしれない。しかし、国家は貸し手を増やし、貸し出し全体の重要性を増やす力は持っていない。

 しかしながら、私が引き出してはいると思われたくない一つの結論がある。私は、法律は貸し出しの力を作為的に増大させるべきではないと言っているが、その力を作為的に抑制するべきだとは言っていない。もし、我われの担保付貸し出しその他のシステムにおいて、信用貸し出しの適用を拡大することを阻むものがあるのなら、それは取り除かれねばならない。このことはもっとも正しく、正義に適うことである。しかし、これだけが自由と整合的なのであって、これだけが改革者の名に値するものが要求するべきなのだ。

2009-06-26 見えるものと見えないもの8章 機械

8.機械

 機械呪いあれ! 毎年、その増大するパワーは何百万もの労働者の職を、そして賃金とパンを奪い、彼らを貧困へとおとしめる。機械呪いあれ!

 これが民衆の思い込みに基づく叫びであり、ジャーナリズムでも繰り返される。

 しかし機械を呪うことは、人間精神を呪うことなのだ。

 そんな主張に満足を感じることがなぜできるのか、私は不思議でならない。

 なぜなら、もしそれが真実なら、その不可避的な結論とはどのようなものだろうか? それは誰にとっても活動性、繁栄、富、幸福などが不可能になってしまうということだ。その例外は、愚かで自動性を欠くものたち、そして考え、観察し、まとめ上げ、発明し、最小の手段によって最大の結果を得るという決定的な才覚を神によって与えられなかったものたちだ。その反対に、ぼろ布、みすぼらしい丸木小屋貧困飢餓というのは、鉄や火、風、電気、磁力の中に化学力学法則を見出そうとする、つまり自然の力の中にその力への補助を見出そうとするすべての国に不可避な運命となる。ルソーと同じように「すべて考える人堕落した動物だ」とも言えるだろう。

 これだけではない。この主張が正しいとしよう。すべての人は考え、発明し、そして最初から最後までその生存のどの瞬間においても自然の力を利用し、その労力や出費を下げて少ないものから多くを取り出し、できるだけ少ない量の労働からできるだけ多くの満足を得ようとするものであるから、当然に、すべての人間進歩への心理的な傾向そのものによって、人々を苦悶させる衰退へと駆け出していることになる。

 だから、統計によって明らかにされるべきことは、ランカシャーの住人はその機械のあふれた土地を捨てて、機械の知られていないアイルランドへ職を求めに行くことである。また歴史によって明らかにされるべきことは、野蛮が文明の新時代を暗がりにし、無知と未開の時代において文明は光輝くということである。

 これら大量の矛盾には我われを不快にする何かが明らかに存在し、その問題自体の中に、これまで十分に分析されてこなかった解決の要素があることと思わせる。

 すべてのミステリーはこうだ。見えるものの背後に何か見えないものがあるのだ。それを白日のもとに晒してみよう。私が示すことは前述したことの繰り返しだ。なぜなら問題はただ一つであり、同じものだからだ。

 人間は、反対する力が存在しないときは、できるだけのバーゲンを目指すという自然の傾向を持っている。つまり、相手が外国生産者であっても、熟練機械生産者であっても、その労働に対してできるだけ多くを得ようとする。

 この傾向に対する理論的な反論は、どちらにおいても同じだ。どちらにおいても、それは労働を明らかに活用しないということが非難される。ここで、労働活用しないことではなくて、それを暇にすることこそが重要なのだ。だから、どちらのケースでも、実際には同じ障害物、――力、が反対されている。議会外国との競争を禁じ、機械との競争を禁止する。すべの人に自然な性向を抑止するために、その自由を奪うという方法以外に、どんな方法があるのだろうか?

 確かに多くの国においては、立法者たちはこの二つの競争のうち、一つだけを標的にして、もう一つについては不満を述べるにとどまっている。このことはつまり、立法者のつじつまが合っていないということを証明しているに過ぎない。

 このことに驚く必要はない。間違った道では、不可避的につじつまは合わない。そうでなかったら、人類はその犠牲になっていただろう。間違った原理は、これまでも、これからも終点にたどり着かないのだ。

 ここで、例示をしよう。それは長いものにはならない。

 ジャック・ボノムは二人の労働者を使って2フランを得た。しかし彼は、ロープと重しを使えば、その労働を半分に減らすことができることに気づいた。こうして彼は節約しながらも同じ金をもうけ、一人の労働者を首にした。

 彼は一人の労働者を首にした、これは見えるものだ。

 そしてこれだけを見て、「文明の悲惨さを見るがいい。これこそ自由が平等にとって致命的である有様だ。人間精神の超克によって、即座に労働者は貧窮のふちに投げ込まれる。ジャック・ボノムは二人の労働者を雇うことができた。しかし二人は競争によってもっとも低い賃金で働くことになり、ボノムは賃金を半分しか支払わなくなった。こうして富めるものは常にますます豊かになり、貧しいものはより貧しくなる。社会設計され直す必要がある。」素晴らしい結論だ、前口上に値する。

 幸運なことに、前口上も結論も両方が間違っている。なぜなら半分の見える現象の背後には、残りの見えない半分があるからだ。

 ジャック・ボノムによって節約されたお金は、この節約必然的な結果と同じように、見えないものだ。

 彼の発明の結果として、ジャック・ボノムは大きな競争利益を得るために一フランだけを労働者に支払うことで、残りの1フランは手元に残っている。

 もし世界に雇われていない労働者がいれば、使用されていない資金を持つ資本家がいる。二つの要素は出会い、結合される。そこには労働需要供給賃金需要供給において何の変化もないことは、日の光のように明らかだ。

 発明と、最初のフランによって雇われた労働者は、今や、かつては二人の労働者によって為されていた仕事をする。二人目の労働者は二番目のフランによって雇われ、新しい種類の仕事を実現する。

 では、生じた変化は何なのか? 追加的な国民利益が得られた。つまり、発明は無償の大勝利、――人類への無償の恩恵なのだ。

 私の例示の形式から、次の推論を引き出すかもしれない、――「機械からの利益のすべてを受け取るのは資本家である。労働者階級は、苦しみが一時的なものであったとしても、そこから恩恵をこうむることはない。なぜなら、例示されたように、、機械は確かに国民労働を減らしこそしていないが、増やすこともしておらず、その一部を置き換えたのだから。」

 私はこの薄い著書において、すべての反論に答えようとは思わない。私がもくろんでいる唯一の目的は、卑属で、広く信じられている、そして危険偏見と戦うことだ。私が示したいのは、新しい機械によって、その報酬労働者から差し引かれてしまった時、いくばくかの労働者仕事から解き放たれることになるだけだということだ。これらの労働者とその賃金が結合することによって、発明以前には生産することが不可能であったものを作り出すだろう。そこから、最終的な結果は、同じだけの労働からより多くの生産物が得られるという利点だということになる。

 この追加的な恩恵を受益者は誰なのか?

 最初に、確かに資本家発明者が受ける。機械を最初に使うことに成功したものであり、それは彼の天才勇気への報酬だ。この場合、例示したように、彼は生産費を節約したのであり、その節約分がどのように使われようと(そして必ず使われるのだが)、機械によってクビになった労働者の数とまったく同じだけの雇用を生み出す。

 しかし、すぐに競争がその節約分を価格低下分にしてしまい、発明者はもはや発明恩恵を受けることができなくなる。恩恵を受けるのは、購入者、消費者労働者を含む市民、つまり人類なのだ。

 そして、見えないものは、すべての消費者のための節約分は、その後の賃金を支払うための資金となること、そしてまた、その賃金機械によって節約された分に置き換わること、なのだ。

 よって、前述した例に戻るなら、ジャック・ボノムは2フランを賃金に使うことによって利益を得る。発明のおかげで、賃金は1フランだけである。彼がその生産物を同じ価格で売る限り、この生産にために一人少ない労働者を雇うことになる。これが、見えるものだ。しかし、ジャック・ボノムが節約した1フランによって雇われるもう一人の労働者がいる。これが、見えないものだ。

 自体が自然と変化して、ジャック・ボノムが生産物価格を1フラン下げざるを得なくなったとき、彼はもう、商品生産のために必要な労働者を雇うための1フランを持っておらず、節約分はもはや彼のものではなくなる。新しい受益者がとってかわる、それは人類だ。ボノムの生産物を買ったものは、誰であれ1フラン少なく支払うのであり、必然的にこの節約分を次なる賃金の資金とする。このことは、またもや見えないものだ。

 事実によれば、この機械の問題には別の解決方法もある。

 機械生産費用を低下させ、生産物価格を下げる。利益の手かは消費の増大をもたらし、必然的に生産を拡大する。最終的に、発明前と同じだけ、あるいはより多くの労働要請される。このことの証明として、印刷、織物、などが挙げられる。

 このような例示は科学的なものではない。それによれば、もし今話題にしている生産物の消費が一定か、あるいはそれに近いなら、機械化は雇用を害するということになる。これは真実ではない。

 ある国ではすべての人が帽子をかぶるとしよう。機械によって価格が半減したとしても、消費は倍増はしないだろう。

 この場合、国民労働力の一部が麻痺するというのだろうか? 卑俗な例によるなら、ウィ、である。しかし、私によれば、ノン、である。なぜなら、もし国中で帽子が一つとして余分に売れなかったとしても、賃金となる資金は確保されて続けている。帽子の取り引きに回らなかった分は、全消費者によって実現された経済活動に回ったことが見出される。それは、機械によって不要であるとされた分の労働への賃金として支払われ、すべての取り引きの新しい発展を促すことになる。

 そして、事態はこうして進展する。80フランする新聞があったが、今は48フランである。32フランは購読者の節約分である。この32フランが報道産業に向かうことは明らかではないし、少なくとも必然的ではない。しかし、そうでないなら、どこか別のところへ向かうことは明らかであり、必然的でもある。それをもっと多くの新聞の購入に使うものもいるし、またより快適な生活に、良い衣服に、良い家具に、使うものもいる。

 このようにして、産業はすべて一体である。それらは大きな全体を形作っており、それぞれの異なった部分は隠された水路で連絡されている。一人による節約は、全員の利益となる。節約というものは、労働賃金犠牲にしてしか生じないのだということを理解することは、非常に重要だ。

2009-06-25 ”philosophy of liberty” by Ken Schoolland

小生のサイトからリンクが張ってある、ぜひとも見て欲しいサイト

"Philosophy of Liberty (自由の哲学)”の日本語バージョンがついにアップされたので、

みなさんもぜひご覧ください。


http://www.jonathangullible.com/sites/default/files/PoL3/philosophy_of_liberty.swf?lang_selected=Japanese


何年か前にこのサイト発見して、素晴らしいと思い、日本語訳を申し出たところ、

すでに誰か(僕はkyuuriさんじゃないかと思っている)による素晴らしい日本語原稿が用意されていました。


小生のサイトアドレスも帰国したら、またちゃんとはり直すことにします。

2009-06-22 『情況』7月号への寄稿

さて先日小生は『情況』編集部からの依頼を受けて、7月号に向けて、

リバタリアンの構想するネットワークはどのようなものか」というような短文を書きました。


ご存知の方もいるかもしれませんが、「情況」は基本的に左翼誌なので、

そういうところに「貧困問題」への対処法と言う形で、

説得力のある短文を書くというのは大変困難なものだと痛感しました。


なんというか、そもそも常識と言うものを否定するための論述を展開するには

雑誌の数ページ程度と言う長さは、あまりにも短すぎるのです(苦笑)。


生協がしていることはヨーカドーがしていることと全くかわらないと思うのですが、

なぜか「営利目的でない」というのが、左翼的な人々の心に響く部分があるのですね。

それはしかし、税制優遇の部分以外については、

多様な助け合いのあり方として望ましいことです。


?????????????


貧困問題のための新しいネットワークリバタリアニズムはどう構想するか

 アメリカ金融危機に発する不況によって、日本でも貧困問題が深刻化している。派遣労働者が突然解雇されてしまう派遣切り蔓延解雇時に社宅からも追い出されるというホームレス化の問題など、これまでの日本的な生活の安心は根本から揺さぶられている。いきおい多くの識者は、これまでの政府の福祉政策が不十分であったことを認め、より一層の手厚い政府による福祉制度の充実を訴えることになる。

 私は“リバタリアン”、つまり自由を最大限に尊重すべきだと考える思想を信じている。リバタリアニズムは福祉政策であれ、産業政策であれ、政治的な活動の肥大化大きな政府は、それ自体が市民の自由を抑圧し、生活窮乏化させると考えている。

 しかし「自由を重視する」といえば聞こえはいいが、つまりはリバタリアニズム新保守主義、あるいはネオ・コンと呼ばれる単なる既存の資本主義制度の擁護者だろうと批判されることが多い。リバタリアニズムは、資本主義を肯定するという意味においては保守主義的な側面も持っているが、基本的に現状維持的なバイアスなどは持っていない。むしろ貧困問題などに対しても、現状以上に、まさに「人間的」な解決法を望ましいと考えている。逆説的に響くかもしれないが、それは政府肥大化によっては実現不可能なのである。

 この点について、以下説明させてもらいたい。


NPOという自発的なネットワーク

 私が注目し、また感心しているのは、社会問題の解決のために自分で活動を始める人が日本でも近年急増してきていることだ。例えば、本誌掲載のNPO法人もやい事務局長である湯浅誠氏が、2009年の正月に「年越し派遣村」の村長として、派遣切りに苦しむ人々の救済を陣頭指揮していたのは記憶に新しい。年越し派遣村は、基本的に民間NPOが既存の組織ハブとなって主導し、共感する人々の寄付で賄われた。

 他にも、私が素晴らしいと思っている活動はたくさん存在する。包装ミス賞味期限切れなどから販売しないことにした食料品を集めて、それらを必要とするホームレスや生活困窮者、DV被害者などに配るセカンド・ハーベストお歳暮などの実際には不要な贈答品や、あるいは不要になった家具や食器などの生活用品を、それらを必要とする困窮した人のもとに届ける「救世軍サルベーション・アーミー)」。

 もちろん、古くからの大阪あいりん地区労働者福祉に取り組むNPOもある。アフリカ栄養失調の子どもを助けているフォスタープランTABLE FOR TWOのように、国際的な貧困問題に取り組む団体もある。

 今、多くの人々が、実際に自分時間エネルギーを提供して実践的に福祉活動に取り組むようになってきた。それは人々の生き方価値観の多様化した成熟した社会における、政府という強制力に頼らない、すばらしい社会的貢献のあり方だと言えるだろう。

 こういった自発的な活動について、「政府活動が不十分であるためにNPOがやっているのであり、そもそもは福祉活動は政府がするべきだ」と考える人も多いだろう。しかし、これは従来からの政府中心の政治思想のもつ、致命的な誤謬だ。

 自発的な公民活動が素晴らしいのは、それが政府活動ではないからだ。どれほど道徳的と思われる政治行為であっても、それにはさまざまな理由から反対する人々がいる。政治とは、強制的に市民から徴収した税を、徴収された本人の望まないことが多いような活動に費やすことだ。そもそも活動に同意しているのであれば、自発的に献金することができるだろう。

 市民NPO活動が望ましいのは、同意しない人々からも強制的に徴収した税金が投入されていないことによる。どういう目的を持つ行為であれ、人が嫌がることを無理やり強制する、あるいはその資源を収奪して実行よりも、説得などによって実現するほうが明らかに「人間的」な活動だ。

 もちろん、こういったNPOのすべてがすばらしい活動をしているわけでない。あるいは単なる節税対策の隠れ蓑になっているかもしれないし、あるいは日本漢字検定協会のように、公益を図るといいながら、実際には理事となっている一族の私物化しているような団体もある。実際、私がかつて勤めていた大学を運営する学校法人は、創設者一族の単なる集金マシーンとなっていた。

 それでも、NPO政府の活動よりも望ましいことは間違いない。なぜなら、NPOが腐敗しているのであれば、それを知った人はその活動への寄付や協力を止めることができる。漢字検定協会は、現在そうであるように、人々がその活動を拒否して受験しなければ、その資金は枯渇してしまう。

 本誌掲載のパルシステムなどの生協活動もまた、税制上の特権を別にすれば、たいへんに望ましいものだ。生協はもともと会員の相互扶助目的に設立されたものだが、仮にイオンヨーカドーなどの大手の流通企業が信用できないのなら、生協に頼るのもいい。それは人々の自発的な助け合い目的に適っている。

 生協でも、最近の偽装牛肉事件への関与の問題などが起こっており、決して無謬ではない。私の意見では、それは生協組織現実が単なる一般営利企業とほとんど変わらなくなっているからだろう。それでも、生協の利用は任意であるから、各種の問題は利用者の不買によって正されるという意味で、望ましい自発的な組織である。

 もちろん、人々からの評価を受けて存在するという点は、一般営利企業に関しても当てはまる。誰でも贔屓にしている会社があるだろうが、企業は常に利用者からのチェックを受けている。例えば、2005年から多くの保険会社が、その保険金の不払い問題を指摘された。結果、各社は軒並み加入者を減らし、それは従業員やあるいは株主への制裁となり、その営業方針を変更せざるを得なくなっている。

 この反対に、政府が何かを直接に行うのであれば、それがどんなにズサンで自分勝手な活動になっていたとしても、資金の供給を停止ことは不可能だ。その好例が、社会保険庁年金情報改竄である。そこでは加入者情報は歪曲されたり、不当に無視されていた。あるいは職員による横領不正流用もあった。しかし、こういった事態が発覚しても、国民社会保険料の支払いを拒否することはできない。そして、ほとんどの職員は何の懲罰も受けずに、公務員として現在もその職と給料保証され続けている。

 つまり、NPO企業はその活動の重要性や公正性、有益性に応じて、人々からの評価を受けて初めて収入を得ることができるのであって、それらを無視することはできない。こうした社会的な評価によって、ある程度の自浄作用が期待できる。反対に、政府はどういう失態に陥ったときも、その組織は失敗によって縮小するのではなく、拡大する。なぜなら、政府は人々の意見の相違を無視して、強制的に人々から税金を集めて、その活動資金にすることができるからだ。

 貧困の広がりが望ましくないと本当に思う人がいるのであれば、自分の所持金からどれだけかを自分の納得できるNPO寄付することが可能だ。あるいは自分時間を使って、活動に協力することもできよう。政府活動のように自発的ではなく、硬直的・非人間的になりがちな活動に期待するのは、道徳的にも現実的にも間違いである。


貧困者への直接支給を増やす

 

 とはいえ、人々の自主的なNPO活動だけでは、到底現在貧困問題は解決できないという考えるなら、やはり税金の投入しかないということになる。

 仮にこのような考えをとるのであれば、第一に考えられるべきなのは、貧困者への金銭による直接補助であり、第二には、貧困者を援助しているNPOへの実績に応じた補助である。現在社会福祉事務所ハローワークのように、直接に役人によって構成される行政組織を作るというのは、絶対的に避けなければならない。

 公益的な活動が政府によってなされるなら、長い時間のうちに、そこで働く人々は次第に単に公務員試験の得意な人々が主流となってゆく。そして、その労働の主たる動機は、保身と組織の維持になってしまうからだ。

 よく知られているのは、効率と民間の保育園経営、あるいはゴミ収集事業では、その効率が約2倍程度違うということである。公務であればやむを得ない制約もあるかもしれないが、その効率の差の大部分が組織の維持欲求や、業務の効率化へのインセンティブの欠如から生じているのだ。

 例えばアメリカでの報告では、ニューヨーク市内の小学校の中央事務職員は600人であったが、その5分の1の人数を教育しているキリスト教会の事務職員は26人であったという。政府の活動は費用対効果を考える必要がそもそも希薄であるため、常に無駄が発生し、それは温存されてしまうのである。

 具体的なホームレス対策としてまず第一に為されるべきなのは、本当に貧困にあえぐ人たちへの直接的な生活保護の支給であろう。現在のように「水際作戦」などと称して、適格者にも難癖をつけて給付を抑えるようなやり方は、まさに役人精神本質の発露であり、政府活動の矛盾そのものだ。

 例えば2007年における日本生活保護費の総額は2兆6000億円であり、GDPのわずか0.5%だ。対してOECD平均は2.4%、アメリカでさえも3%を越えている。日本ワーキング・プアの多くが、生活補助受給者より貧しい生活をしているのが現実だ。

 特殊な人々の権益でしかない公共投資産業促進などの無意味公共投資を即時停止し、農業保護を全廃するだけでも、30兆円を超える予算が捻出できる。それを生活保護にあてることは、日本国憲法に謳われている社会権の具体化として、特殊権益の保護に過ぎない公共投資農業保護などよりはるかに望ましいだろう。

 付言するなら、現在の生活補助のシステムでは、受給者が賃金を得た場合、その同額分だけ補助が削減される。これでは働くインセンティブが減少してしまう。生活保護者が賃金を得た場合、そのすべてではなく、その一定割合を補助金から差し引く制度(これは“負の所得税”と呼ばれる)にすれば、生活保護勤労意欲とを両立させることができるだろう。

 さらに弱者への直接支給ではなく、どうしても各種の保護施設をもっと充実するべきだというのなら、欧米を中心に存在するシェルターと呼ばれる保護宿泊施設への補助を考えるべきだろう。例えば、ニューヨークシェルターは民営であり、利用者に応じて市からの補助金が入る仕組みになっている。


小さな政府の意義

 最後に、リバタリアニズムの立場から、どうしても指摘しておきたいことがある。

 本稿で問題にしているのは、相対的貧困、あるいは金持ちとの格差問題ではなくて、絶対的貧困、あるいは物理的な飢餓健康への害悪という危険だ。だが、こういった絶対的貧困を多くを作り出しているのは、常識的な発想から批判される資本主義制度ではなく、弱者保護を担うはずの政府だということだ。

 日本農業保護のために、ムギコメは国際価格の3倍から10倍、肉類もまた3倍にもなるように関税をかけている。農地には事実上固定資産税が免除されているため、都市部相続対策の農地存在し、弱者が住むべきアパート供給も不足して、家賃は高止まっている。地域独占を許された電気・ガス・水道の事業体は他の先進国の2、3倍の価格である。

 現存の政治に有利な既得権益保護を廃止し、自由に世界から食料を調達して、企業活動の自由を認める。それだけで人々は現在の半分の収入でも、自分の掲げた目的のため、幸福追求のために生きることができるのだ。政府の行う個別的な社会政策のすべては、特殊利益団体に集中的に恩恵を与える一方、大多数を少しずつ貧しくしている。それが積もりに積もって、現在のような絶対的な貧困層を生み出しているのである

 これらの個別場当たり的な政策を廃して、さまざまな理由から収入を失ったものには手厚い生活補助を与えて再自立の機会を与える。それこそが、人々の自発的活動のネットワークを最大限に保障し、それらを公民道徳へと活用しながら、自由で豊かな社会を作る唯一の方法なのだ。

 

hogehoge 2009/06/23 07:30 私もリバタリアン的な心情を持ちます。
それとは関係ありませんが、ネットで長文を書く際は以下のことに留意していただいたほうが読みやすいです。

1). 目次をつけましょう。
2). 見出しをきちんと付けましょう(htmlにおけるh要素ですね)。
3). 本で文章を読むことと、webで読むことは違います。長文を、そのまま書くのは、読みづらいです。

その点分裂勘違い君はうまいです。ちゃんと、目次をつくり、見出しに、h要素を使ってます。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20090621/p1

本でこの分量の文章を読むことと、webでこの文章を見る事は、全然違うので、そこに留意なさったほうが良いです。せっかく興味がある内容なのに、不必要に読み辛いと感じました。

neet-manneet-man 2009/06/23 15:09 >>hoge
寄稿した文をそのまま転載してくれたのだから、まぁいいじゃないですか。
目次見出しを強調しても、この文は変わらずwebでは読み辛いと思います。


食料輸入の関税についてですが、
食糧のある程度の自給は国防行為でもあり、政府が行うべき最小限の介入でしょう。
水資源に豊富な日本が、わざわざ食料自給の機能を手離すのは不合理です。

>自由に世界から食料を調達して、企業活動の自由を認める
輸入先の他国から過度の介入をされても"ガイジン"の主張は通らない。
上記を実現するには、たとえば植民地を獲得しリバタリアニズムの思想をそこに確保する。
 (侵略自体が矛盾を生みますが土地は有限ですし、気候や土壌の多様性は既存の国土では獲得できない。)
または企業資本によるパワーゲームで小国を蹂躙するのもよいでしょう。
関税を取っ払うには併せて何か方法が必要だと思います。

kurakenyakurakenya 2009/06/23 15:44 コメントありがとうございます。
読みにくさについては、もう少し改善するよう努力するつもりです。

農産物関税が国防だと言うことへ反論としては、
僕が書きました「国家はいらない」の4章「農産物保護制度」
http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/noneedforthestate4.htm
をご覧ください。

これはもっと読みにくいので、大変に恐縮ではありますが、、、

HSEHSE 2009/06/26 14:39 >hoge

こういう人をフリーライダーというのでしょうか?ww
ただで読ませてもらって文句は垂れるとはいい度胸してます。
それにしてもこんなコメントをそのまま掲載するなんて、自称サイバーリバタリアンの○田○夫とは違って蔵さんは太っ腹ですなあ。

2009-06-21 ベキダ⇔デアル、6章

6、ベキダ>デアル:政治体制

自由意志と遺伝的性向

 神経科学や行動遺伝学が多くのことを明らかにするにつれて、「自由意志」というものが本当に存在するのかについて、多くの人々が疑問を抱きつつある。

 とはいえ、この問題は決して新しいものではない。すでに17世紀以降、近代物理学が発達するにつれて、自然科学を理解する多くの人々にとって興味深い哲学的な問題となっていた。有名なところでは、18世紀のフランスの数学者・物理学者であったラプラスが「ラプラスの悪魔」について考えた。

 悪魔は、すべての物質の現在の位置と運動を把握しつくしている。古典力学には不確実性は存在しないため、人間を構成する物質を含めて、すべての物質の未来の状況は、現在の位置と運動量から厳密に計算できる。

 ちょうど、ビリヤードの球が次々と当たりながらも、現時点でのすべての球の位置と運動量から、正確に将来の球の位置が計算できるようなものである。古典力学では、世界の運命は永遠の将来にわたって完全に確定していると考えられた。

 これは極端な物理学的な思考実験であったが、その後20世紀に入り、量子力学が発達すると、こういった物理的な決定論は、確率的なものでしかありえないという考えに変わった。しかし、もともと人間のような非常に巨大なシステムは、古典力学的な原子レベル、あるいはさらに素粒子レベルからのシュミレーションをすることができないため、その行動を物理学のレベルで決定することは不可能だ。

 今後どれだけコンピューターが発展したとしても、ハイゼンベルク不完全性定理に表れているように、物質の位置や状態の計測自体が困難であり、また原理的にも不能だ。地球外のエネルギーによっても地球の物質が大きな影響を受けていることからすれば、物理学のレベルからの動物行動の演繹は、どこまで行っても実用的にはならないように思われる。

 こういった話は、「自由意志論」との関係で論じるには興味深いのだが、あまり現実的な意味を持たない。こういった物理学的な法則よりも、生物の行動の予測については、ヒト以外の多様な生物を含めて行動遺伝学の方がはるかに役に立ちそうだ。

 古典的な動物行動の研究には、フォン・フリッシュによる、遺伝的なミツバチコミュニケーションがある。昆虫は行動の学習ということをほとんど行わないが、例えばミツバチの場合、花のある場所への方向や距離の伝達方法までもが遺伝的に組み込まれている。

 人間の場合、はるかに高い学習能力を持つことは明らかだが、それにも生まれつきの違いがある。このことは、これまでの行動遺伝学の研究から明らかだ。個人の遺伝子配列や、あるいはその非常に粗い代理変数としての親の生活からは、糖尿病やガンなどのリスクを含めて、個人の人格や生活などが確率的に予測できる。

 多くの人々はこの点について、病気などはともかく、行動については完全に環境的なものによって決定されるという、環境主義的な見方をするようだ。確かに、人間の環境は、幼少時には親や保護者によって与えられる受動的(passive)なものだ。

 しかし、少年期になると、次第に自分の興味や才能に応じて周囲の人間の反応も引き出すようになる。これは反応的(reactive)な行動パターンと呼ばれる。例えば、少年野球でもピアノでも、やる気と才能のある子供の方が、指導者からも熱心な技術指導や励ましを受けるようになる。

 思春期を過ぎると、人間は独立して自分のやりたいことをするようになる。これは人間の行動が主体的(active)な段階に入ることを示している。特に自立して説渇するようになると、概して人は自分が興味があることしかしなくなる。

 すべての形質や行動について言えることだが、おそらくは現代社会という自由な環境に生きる人間には、各人に生まれつきの行動の最適値、あるいは最頻値というものがある。それを教育的、あるいは職業的、その他の何らかの理由から異なったものにするのは、大きな精神的努力が伴う。以下に示したグラフが、そのことを示している。

 双子の身長や体重は、別々に育てられた場合でも驚くほどに一致している。このことからは、我々の行動や形質には、基本的な最頻値のようなものがあって、その状態がおそらく一番ありそうなものだ。この値から離れたものを実現するためには、環境要因の大きな違いや、あるいは環境の違いに応じた本人の意識的な努力などの、特別な要素が必要になる。

























 もちろん、現実はこれほどに単純なものではないだろうが、それでもこのグラフは有用な示唆をする。例えば、好きなものを自由に食べてコレステロール値が高くなり、動脈硬化や、あるいは糖尿病などにかかる人は数多くいる。そういう人でも、意識的に食事の質を変えるとか、あるいは運動をしたりするというように、つらいこと=精神的な負荷を覚悟すれば、病気を避けることができる。

 同じように、日本人男性の平均身長は約一七二センチほどである。これはここ二〇年ほど変化していないことからは、現代社会における遺伝的な発現としてはこのあたりが最頻値だということなる。かつて、江戸時代の日本人の平均は一六〇センチに届いていないが、これは栄養状態が悪かったからだ。また現在では、遺伝子を組み替えた大腸菌によって作り出されるヒト成長ホルモン(HGH)を投与すれば、身長が高くすることもできる。こういった「環境」要因の変化を意図的に作り出せば、身長を変えることも可能だ。

 あるいは生まれつき攻撃性が強く、順法意識の低い個人がいたとするなら、最頻値では何度かの暴力犯罪を犯すことが考えれよう。しかしそういった個人であっても、周囲の人々の励ましや保護、それに応じた自分の意志や訓練などによって、順法的な一生を送ることは、相当の割合で可能だろう。

 これまでに多くの哲学者や科学者が「自由意志」の存否について語ってきたが、ここでの私の説明は、この深い哲学的な問題には答えていない。人間には自由意志があるという前提で、自分の遺伝的な性向に対処、あるいはそれを増強することができるという、常識的で凡庸なものだ。

 個人には遺伝的に最も自然な行動や思考があるが、それは多様な外部環境要因によってある程度変化しえる。そしてその要因が多ければ多いほど、強いものであればあるほど、遺伝的な自然状態から離れることになる。こうした、ほとんど自明の事実が、私の主張しているものだ。

 ここで先回りして、この章の結論を言っておこう。

 人間にとって自然な政治制度は、おそらく王制や独裁制であって、民主主義や精神の自由は、努力して意識的にその価値を称揚しなければ、安定的に実現しないものである。啓蒙主義を経て、人類はすでにこれに成功した。

 そして、政治への過剰な期待もまた、自然な人間の心性である。しかし、、政治活動の危険性と限界が、理性によってもっと認識されるべきである。政治活動はかつての独裁政治と同じように、低減されねばならない。これは全く実現していない人類の今後の課題である。

 以下に、もっと詳しく説明しよう。


啓蒙思想による保守的王制の批判

 いろいろと異なった歴史観はあるのだろうが、ここで論じたい世界史的な事実は、王制や貴族制といった政治体制の変化と、それと並行的に起こった産業革命による商品の生産過程の変化の2点である。これらは、相互に関連して、相互に強めあってきた。

 まず、王制から共和制への政治体制の変化を引き起こし啓蒙思想について考えてみよう。政治的な啓蒙思想ではホッブズやロック、モンテスキューなどが有名だが、彼らに共通するのは、既存の権威への盲従を批判し、国家の存在意義について理性的に議論したという点だ。

 それ以前の議論では、ボシュエの王権神授説などのように、王権と宗教を結びつけることによって、絶対王制を宗教的に肯定するような思考法が一般的であった。例えば、エジプトでもファラオは太陽神アモン・ラーの生まれ変わりであるし、あるいは古代メソポタミアでも神が王に政治を信託したことになっていた。

 また中国の皇帝は天命を受けた支配者であった。日本でも、戦前までは天皇が現人神であり、その統治の根拠は古事記という神話による極めて宗教的なものだった。現在のタイやカンボジアの王室もまた、現地の土着信仰と一体化している。

 これらは典型的に、現状肯定的な保守思想だといえるだろう。啓蒙主義者たちの論理は、それまでの世界に普遍的に存在していた宗教と王権の安直で感覚的な結びつきを、理性に問いかけることで否定することから始まった。

 例えば、ホッブズは「王という絶対権力者のいない原始的な状態に人間が生きていた」と想像する。その場合、それは万人の万人に対する闘争状態に陥ってしまうため、それを回避する必要が生じる。結果的にホッブズは、彼以前の思想家たちと同じように国家の絶対性を肯定しているが、重要なのは王制を肯定するに至るまでに、盲信に代わって論理が存在することだ。

 そもそも、王権が絶対であるとか、神が王権を肯定しているとか、そういった命題は論理や理性を超えたものだ。啓蒙主義とは理性に従って、それまで無批判であったものを何とか論理的に説明しよう、あるいは説明できないものを否定しようとする試みだった。

 ホッブズの論理を受けて、ロックは、権力が人民の信託に反する場合は革命によって否定されることもあるべきだとした。革命権、あるいは抵抗権の肯定である。さらにモンテスキューは、権力はあまりにも暴走する危険が大きいため、一つの個人や機関が専有べきではないとした。これが、権力分立の原則だ。

 彼らの議論は、理性に基づいたものであって、超自然的、あるいは宗教的な感覚には依存していない。これが、「啓蒙」、つまり理性の光で迷妄の闇を照らす(enlightenment)ということの意味である。

 啓蒙思想以前の世界では、王制をとっていない国はほとんどなかった。啓蒙思想家の時代には、王制はともかくも機能するものであることが証明されていた。それに比べて、共和政の方はほとんど成功するかどうかもわからない夢想的な政治制度だった。古代ギリシアやローマでの政治が参考になった程度である。

 保守的な精神の持ち主たちは、この時代には当然に王制を支持し続けたはずである。当時、彼らは言い続けたに違いない。「共和制というのは、理念としては理解できないこともないが、現実的ではないね。」

 総じて言えば、近代民主制は絶対王制に比べて「進歩した」制度であり、進歩主義を信じる平等主義者が押し進めてきた社会改革の結果である。つまり左翼革新勢力は18世紀以降、一進一退を経て来てはいるものの、結局のところ、彼らの目指す社会改革をどんどん実現してきた。

 第二次世界大戦では、ナチスやファシスト党、あるいは日本軍部の独裁が起こった。そういった絶対的な独裁政治が完全に否定されている今となっては、極右民族主義的な人々でさえも、民主主義政治体制を否定することはほとんどない。

 有史以来の人間社会のほとんどが王制をとっていたことを考えれば、これはたいへんな驚きであり、ある種の進歩である。また、王制や貴族制が素晴らしい政治制度であり、そこに戻るべきだと主張する思想家がいなくなったというのも実に興味深い。人間の平等を志向するベキダは、少なくとも政治体制の歴史においてはその理念を実現してきた。この意味で、ベキダがデアルを作り出してきたのだ。

 

産業革命による科学と自由の価値の上昇

 民主制が王制を圧倒したのは歴史的な事実だとしても、いったい民主主義には何らかの王制その他の独裁政治を超える利点が内在しているのだろうか?ここで私が問題にしているのは、水掛け論的な「倫理的な望ましさ」を超えた、人々の物質的な福祉を改善する、あるいは人々の精神をより満足させ、それを否定すようとする対外勢力を圧倒する戦力という物質的な繁栄である。

 独裁制は、それに不服のある社会主義者に対しては直接的な政治的不利益を課すだろうが、保守的で秩序維持的な人々は独裁者の臣下として、あるいは独裁政党の組織内で頭角を現すことを考えるだろう。そして、むしろそこから利益を受ける。

 日本史においても、平安時代の藤原氏やあるいは鎌倉幕府の将軍であった源氏、執権の北条氏、あるいは足利家や徳川家のように、天皇の臣下の形をとりながらも、実質的に政治権力を奪うことは珍しくない。

 社会が内戦状態にはないという意味で安定しているということは、そういった状態が仮に平等・公正な理想状態にはないとしても、人間の生活環境としては重要なことだ。平和のうちに生きることができなければ、どういった生産活動を維持することも難しくなる。これは現在でもアフガニスタンタリバンの復活や、ダルフール紛争など多くの国で内戦が散発しており、そこでの人々の生活の困窮を見れば疑いない。

 しかし、王制や独裁制には重要な問題点がある。それは、王制、特に絶対王制はほとんどの場合、体制への批判につながるようなすべての思想の発表を禁止してしまうことだ。同時に科学的な真理の発見につながるような研究活動をも禁圧し、その結果として科学技術の進歩が遅れてしまう。

 こういった言論活動の制限は、小国が分立していたヨーロッパ諸国ではせいぜいが地動説の禁止などであったかもしれない。例えば、ガリレオの『天文対話』は禁書になったが、それでもオランダでは『新科学対話』を出版できた。しかし、統一王朝が長い間支配を続けることが多かった中国でははるかに深刻であった。

 中国では15世紀の明朝の時代には、ほとんど産業革命の基盤となるレベルの技術的な知見があったと考えられている。しかし、明清以降の朝廷は思想統制をおこない、自然科学の発達につながるような科学的な実験も、さらにはそれを公表し、意見を交換するような行為をも全般的を禁止した。

 なぜ、自然科学までも禁止までするような必要があったのだろうか? 私にはその理由ははっきりしないが、結局のところ、「現状の知識や政治制度は十分なものであり、新しい試みなど必要ではない。必要ないだけでなく、専制秩序の維持という観点からは有害になる可能性がある」と朝廷と官僚たちが考えたからだろう。

 つまり、皇帝本人、あるいはそれに群がる官僚組織からの命令が、保守的な地方政治組織と相まって、科学的な好奇心を現状維持に不必要な「余計なこと」だと考えたのだ。また、意見や知識の公表の前提となる表現の自由などは、体制転覆の扇動行為への警戒感から完全に否定された。

 よく知られているように、中国では唐の時代から、官僚選抜のために科挙制度が行われている。だが、その内容はといえば、孔孟の教えである四書五経をいかに完全に暗記し、うまく形式主義に則って運用記述できるかという、いまとなっては信じられないほどにバカげたものだ。科挙のためだけに、八股文という特別な形態の文体があったほどなのだ。

 それは、保守主義が無意味な形式主義の極致に達したものだ。孔孟の教えやその伝統を疑わずに暗記し、運用できるような、無批判で特殊な知性の持ち主が、一族郎党ともども栄達を極めるという制度だったのだ。

 結果、東洋では自然科学も、それを支える論理学・数学もついに発展しなかった。その反面、ヨーロッパでは多様な物質についての化学的な知見の蓄積は、次第に冶金術の高度化を生んだ。それらの技術の伝播や、あるいは実験結果の公表によって、さらなる知的な探究が育まれた。それが最終的には、大規模な蒸気機関を可能にするような鉄の精錬技術や機械工学、エネルギーについての気体の状態方程式にまでもつながっていった。

 世界史の教科書での産業革命の項を読むと、ほとんど無機質な筆致で、紡績機や自動織機の発達、蒸気機関の発達などとして記述されている。それはそれで事実としては正しいのだろうが、重要なのはそれを可能にした背景的な自然科学の知識である。

 それらはルネサンス以降、飛躍的に進歩しており、17世紀以降はニュートンの微積分学の天文学への応用などに代表されるような、物理数学の急速な進歩があった。その間、東洋人は中国でも、朝鮮半島でも、日本でも同じように、ほとんどの官僚や市井の学者が、完全に無意味な朱子学や陽明学などの儒教論争、宗教論争に明け暮れている。こういった状態については、明治以前にも福沢諭吉などの蘭学者が嘆いている。

 なぜヨーロッパで最初に産業革命資本主義が発達したのか? その古典的説明は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズム資本主義の精神』が良く知られている。ウェーバーによると、プロテスタンティズムのもつ現世における勤勉精神こそが資本主義的な成功を生み出したのだという。

 これは間違いなく、十九世紀から現在に至るまで多くの読者を得てきた著作であり、大いに評価されてきた説明だ。しかし、現在の私は、これは社会学者の陥りがちな大いなる勘違いだったと考えている。

 それは単に、二十世紀以降の日本、韓国、台湾、シンガポール中国大陸、などの経済的な躍進が顕著だという経験的な理由からだけではない。資本主義の発達というのは、キリスト教という特殊な宗教に依存するものというよりは、もっと権威主義保守主義、あるいは知的な好奇心などの人間の精神性に関連しているものなのだ。

 ヨーロッパ社会の圧倒的な物質的成功を目にするまでは、アジア人権威主義的な傾向が科学と資本主義の発達を阻害していた、というのが私見である。例えば、江戸時代の経済はそれなりに商業資本主義的ではあった。けれども、産業革命の基礎となる科学的、技術的な知識の探求が、中国思想の影響からか、完全に否定されていた。科学知識は、商業や個人的な技巧などの発達以上には、到底、継続的な発展をすることはできない。

 科学の発達やそれに随伴した実利的な現象としての産業革命は、人間の知的探求というものの持つ価値を一変させた。それ以前の研究者とは、錬金術師などのように、何か役にも立たないことを実験したり、調べたり、あるいは古代ギリシャ哲学者や儒学者のように無意味な思索をしているという、奇人変人的なイメージがあっただろう。

 これは、たとえば、古代ギリシア哲学の万物の根源論争や、ユークリッド幾何学などを考えてもらえればわかりやすい。あるいは、中国の春秋戦国時代の諸子百家について考えよう。それらは確かに世界や人間の本質について何事かを議論してはいるのだが、実利的な現実主義者にとってはまったく無意味だった。しかし近代の科学は、産業革命となって結実した。ここで自然科学的な知識は、我々の生産活動を拡張することのできる実利的な有益性をもつことが、誰に眼にもはっきりと認識されたのである。

 科学的な知識は、その性質からして、その進歩や内容を、政治的にコントロールできるものではない。確かに絶対王制や独裁政治をとりながら、科学を進行させることはまったく不可能ではないかもしれない。しかし知識の中には、王制に否定的、あるいは都合のよくないような知識もある。実際に例えば、ダーウィンによる進化論はキリスト教、さらにはその権威によって支えられてきた王権の意義を大幅に減殺する理論であった。

 これに対して、もともと市民の自由を大幅に許す民主政治であれば、少なくとも自由な学術研究を制限する必然性は少ない。これが、科学は民主制における方がより急速に進歩する理由だ。結果としてその社会は物質的にも、より繁栄することになる。

 また、科学的知識の存在場所についても、それは中央集権的なものではありえない。科学の膨大な知識の維持には、必ず科学者集団が必要であり、科学的発想や発見の散発的な性格によって、それらは中央集権的というよりは、分散的にならざるを得ないからだ。

 前述したように、ソヴィエトルイセンコ学説のもたらしたロシアの生物学への破壊的な影響を見ても、中央集権的な科学の統制の失敗は明らかだ。そもそも科学とは、様々な個人が多様な仮説を提出し、それを証拠と突き合わせて検証することによって批判発展する知的な営みである。実験や照合をする前から政治的な理由で仮説を肯定・否定するのでは、知識は後退することはあっても、増加することは期待できそうもない。

 ソヴィエトしかり、中国しかりで、つまり専制政治と科学の発展とは基本的に相性が良くない。社会主義の国家において科学が全般に振るわない最も大きな理由は、社会主義では、政治的に決定された社会目標が、科学の目標になっていることがほとんどで、それに向けての研究態度が称揚され、政治に関連した研究費ばかりが肯定されるということにある。 

 この点は、科学哲学者であるカール・ポパーが繰り返して指摘している。科学とは、そういった政治的に決定することが可能な営為ではなくて、むしろ中央集権的な試みには馴染まない個人的な知的興味に基礎をおいているのだ。

 科学的知識は、科学的な信念とともに、学会などに集う科学者一人ひとりの心の中の情報として、分権的に蓄えられている。これは、中世以前の社会において、重要な知識が教会や王室を中心として独占されていた時代との決定的な違いである。

 民主主義は、科学的な活動をあまり圧迫しないため、絶対王制の国よりも科学は発達し、その成果を大いに利用することで物質的に豊かになり得る。だからこそ20世紀以降、絶対王制ではなく、民主主義の方がはるかに大きな物質的な福利を人々にもたらしてきたのだ。

 王制や独裁制と民主制にはこういった実利的な違いが存在する。そのため、20世紀初頭にはほとんどの世界の諸国が王制であったのに対し、21世紀の政界諸国のほとんどが民主制に移行している。体制の変革は、科学的知識の有用性の世界的な浸透と相まって、科学的知識を作り出す精神的な自由の承認にもつながった。

 精神活動の自由は、知識の増大と伝播の高速化を促す。その結果、経済の生産性をも上げることにつながり、結局は全員が豊かになるというコンセンサスが、世界的な規模で完成したのだ。

 結局、科学の発展においては、保守的な体制維持派は、知的探求心に富む革新派に比べると、人類に対する長期的な貢献度は低かったと結論されるだろう。この結論は、保守派には不愉快かもしれないが、見過ごせない重要な要素を含んでいる。

 古典ギリシア時代、アポロニウスは楕円曲線の性質について研究したが、彼の研究は、同時代にはまったく何の役にも立っていない。しかし、それから二千年後、天体の運行についてのケプラーの法則の解明に、楕円曲線や双対曲線の理論は大いに役に立った。

 あるいは、内燃機関を実用化させたダイムラーの試みや、空を飛ぶためのライト兄弟の努力は、即座に何かの役に立ったわけではない。それどころか、当時の主だった物理学者のほとんどが、ケルヴィン卿のように「空気よりも重いものが空中に浮かぶことはない」と信じていたのだ。しかし、役に立たないものは無意味だといって禁止するようでは、人間は江戸時代生活水準から永遠に抜け出せなかっただろう。

 ここでも、進歩主義者のベキダは、保守主義者のベキダを完全に圧倒した。今では、生活において体制維持的な人々であっても、科学研究費への支出が無駄だとは主張しない。この意味で、新奇性の追求、新しい仮説への興味は大学などの組織を通じて、公的な制度として確立した。進歩主義者のベキダは、ここでも大学や企業などの社会制度というデアルを、数世紀という時間をかけて作り出した。

 とここまで私は、ベキダが歴史的に作り出した人間社会のデアルを高く評価してきた。これに対して、以下に述べる小さな政府に向けての私個人のベキダは、現代社会ではますますデアルから遠のいている。それは事実だが、私は悲観はしていない。前述したように、民主主義思想も、最初は哲学者の妄想からスタートしたのだからだ。


ゼロサム・ゲームからプラスサム・ゲームへ

 毎日を忙しく生きている現代人はあまり意識することはないのだろうが、産業革命は人間の生活の質を激変させた。それまでの人口の増大というのは比較的にゆっくりとしたもので、時に飢饉が起こったり、疫病が蔓延したりして、局所的には増減しているが、全体としては微増してきた。

 これまでに多くの学者が過去の人口を推定しているが、このことは人口学者であるマッケブディとジョーンズの著作にある歴史的人口推計や、近代から戦後・将来の推計についての国連公式統計をみても明らかだ。

 近代以前の世界では、二人の夫婦から二人の子供が生き延びて、子供を残せれば幸運だった。こういった状況では、誰かの子孫が死んでくれれば、自分の子孫が生き延びる可能性は高まる。疫病は確かに第一の死亡原因ではあったが、疫病がなくても、限られた土地からとれる食べ物には限界がある。疫病は直接的な死因ではあっても、それは栄養失調からの免疫力の低下の産物であることが多い。

 こういった世界こそが戦国時代の日本であり、近代以前のヨーロッパの王国が群雄割拠した状況である。そこでは基本的に、自分が繁栄するためには、他の誰かを滅ぼしてその地を奪うしかない。自分の利益と他人の利益を足し合わせるとゼロになる。かつての社会状況はゼロサム・ゲームだった。

 文字もほとんど普及しておらず、金属を精錬する知識もない、紀元前の世界を想像してみよう。農耕と文字の普及する前である、紀元前一万年の世界人口は四〇〇万人程度だったと推定されている。それが紀元1年には3億人程度にまで増えているのだ。この間の1万年の間、年間平均にして0.2%程度の増加である。

 これをヒトの一世代が25年だとすると、一組の夫婦が平均して2.05人の子供を残したことになる。これは、つまり人の一生のうちには、仲間の数が目に見えて増えるということはほとんど不可能だった。

 1798年の時点においてさえ、経済学者トーマスマルサスは、人口は幾何級数的(指数関数的)に増えるのに対して、食料はせいぜい算術級数的(一次関数的)にしか増やせないため、世界人口が貧困に苦しむのは必然的だとした。これは、当時の理論としては、大変に説得的だと考えられた。その後の歴史的な経験を待たなければ、多くの知識人に陰鬱な未来という思想的な影響を与えたのも無理からぬことだ。

 ゼロサム・ゲーム状況では、他国人と戦ってその地を奪うという行動は必然的になる。これを実行するためにも、防御するためにも愛国的なメンタリティが必要になるだろう。また古代ギリシャやローマでおこったような、貧富の格差の蔓延は共同体意識を低下させ、戦争にも不利になってしまう。

 しかし産業革命以降、先進国の人口は年率にして1%以上増えることが普通になった。これは、一組の夫婦に3人近くの子供が育ったということである。実際、20世紀の一〇〇年間で世界人口は16億人から六〇億人にまで約4倍に増えた。これは年間の人口増加率にして約1.4%になる。一世代を30年とすると、1組の夫婦からおよそ3人の子供が育ったことを意味している。

 現代の世界人口が、たとえば年率1%で増大し続けても、バイオテクノロジーの発達や各種のロボットの実用化、海洋への移住、さらには宇宙への移民などによる経済的な成長はそれ以上であり続けるだろう。私は、今後も人口問題から貧困が生じるということはないと考えているが、同時に、科学的、芸術的な知識がより重要になる未来の世界では現在よりもはるかに所得格差は拡大するとも思っている。

 科学の発展は、相乗効果を持っている点で、社会状況はすでにゼロサム・ゲーム状況ではなくなった。固体物理量子力学の進歩はより効率的なCPUの生産を可能にし、その増加したコンピューティング・パワーはさらなるシュミレーションを可能にして、物理学の進歩を加速する。その他のバイオテクノロジーから量子コンピューターナノテクノロジーなど多くの分野の発見の成果が結合することで、ますます急速な科学の発展と、社会的に利用可能な生産物の増大が期待できる。

 環境主義的な懸念を別にすれば、インドやアフリカの人口爆発を恐れる必要はない。2010年の人類はおよそ70億人ほどだが、技術的に維持可能な人口は今後も上がり続けるだろう。私は特にハードなSFファンというわけでも、宇宙に興味があるというわけでもないが、この千年紀のどこかの時点で地球人が宇宙に移民するということについても、まったく疑っていない。

 ちなみに、どのみち地球は50−60億年のうちに、太陽の赤色巨星化にともなって太陽に飲み込まれてしまう。それ以前の10億年のうちには、太陽は核にある水素を使い果たし、もっと重い物質による核融合を始め、膨張し始める。その時には、現在の温暖化などとはまったく異なったレベルの地球の高温化が起こるだろう。その時、有機化合物からなる生物が生きれるとは考えられない。

 もちろん、1千年と10億年では、100万倍の違いがあるが、そのどこかの時点で、母なる地球から離れなくては、人類は滅亡してしまう。その時、人類が現代の人間とは似ても似つかないものになっているにしても、私の子孫がその時にも生きているのなら、地球とともに滅ぶなどという選択をせずに、宇宙に植民して楽しく愉快な人生を生き延びてもらいたい。

 さて、ここでの議論をまとめると、人類はゼロサム・ゲーム状況にあった産業革命以前から、プラスサム・ゲーム状況である現代型科学技術社会に突入した。現代には、相手との戦争を重視する、保守主義的・愛国主義的な精神性は有益ではなく、あるいは有害でさえある。それは破壊的な戦争活動につながりがちなだけでなく、自発的な移民や取引も制限しがちだからだ。

 同じように、左翼の持つ平等主義もまたプラスサム・ゲームの世界では重要性が減少すると考える。なぜならゼロサム・ゲームであれば、平等でないということは、弱者の子孫は次第に少なくなることを意味する。これに対して、プラスサム・ゲームでは強者ほどではないにしても、弱者であってもそれなりの自己実現や子孫の繁栄を実現できるからである。


政治への過剰な評価

 さて未来論から本題に戻ると、現代社会はプラスサム・ゲームであり、お互いの発見などの知識、あるいは生産物を交換することによって、双方がより豊かになれる。交換とはつまり国内の経済取引や、あるいは国際貿易などである。

 その豊かになる程度で十分な生活をしていける。長い人類の歴史のほとんどを占めていたような、戦争をしかけて別の集団から領土や女性を奪わなければならなかった時代とは異なったフェーズにある。このことは、いくら強調しても強調しすぎることはできない。それは根本的で重要な生活環境、あるいはゲーム状況の変化である。

 我々がどこかの異人を根絶やしにしてしか増えることができないのであれば、それは進化の過程を通じて、ヒトの心に根を生やす。そして絶対的な善だと認識されるようになり、我々の行動原理を支配する。まさにこれこそ人間のよそ者嫌いであり、集団間闘争としての戦争の歴史を作り出してきた人間の精神性だ。

 そこでは敵に勝つために、命令への順守や秩序への服従、集団利益と個人利益の同一化が重んじられる。戦場で戦う個人にとっては、敵の集団に勝利したいという集団としての利益と、自分が死傷することを避けるために逃げ出したいという個人としての利益が常に衝突する状態にある。

 これは典型的な囚人のディレンマ状況だが、戦争のような極限状況では団結の強さが勝敗を決することが多い。その状況こそが、我々の持つ崇高だと感じる愛国心を形作ってきた。

 この状況においては、多様な強制力を伴う政治活動は不可欠だ。突然どこかの集団が自分たちに戦争を仕掛けてきて、自分たちの財産を奪う可能性があるのであれば、それに対しては防衛的に戦う以外に生きる道はない。つまり、防衛のための軍隊や施設、兵器などが必要となり、そのための税を集める必要がある。

 歴史的に見れば、権力者というのは強盗団、あるいは暴力団の活動と自警団の中間のようなものだ。自分たちの縄張りを支配すると同時に、そこで生きるものからショバ代(税金)をとる。同時に、被支配民からも有能なものを採りたてることによって、権力基盤を維持・磐石化する。もちろん、暴力団とは大きな違いがある。これらの行為を、被支配民(主権者・納税者)の側が、支配者のことを総じて心理的に肯定している点においてだ。

 自分のサイトで無政府主義を標榜している私でさえも、無政府主義者の日本人と話したことは一度もない。私自身も30才を過ぎるまで、政府は人間にとって当然の制度であると思っていたし、今でもそういった感覚は理解できる。いわんや普通に生きている人たちであれば、犯罪者を含めて、全員が政府の存在意義を認め、それは不可欠な存在だと感じているだろう。

 王制や貴族制に比べると、現代の民主主義社会では、政治家や官僚になるチャンスは誰にでも開かれている。このため、治者と被治者とが一体化しているという「政治論理」が唱えられる。これはもっともな意見だ。

 豊臣秀吉は、立身出世によって天下人になった。しかし、彼の生まれ合わせた戦国時代の一時期を除けば、古代の天皇制、貴族性、武士による幕府政治など、どの時代にしても政治システムを昇るためにはある程度の血統を要求されてきた。日本の歴史において、今太閤と呼ばれた田中角栄を生み出した戦後の日本社会が、個人レベルでもっとも開かれた社会であろう。

 しかし、ここで問題にしたいのは、誰が政治を担うかという問題や、あるいは過去の専制王制に比べて、現代の民主政治がどれほど、より開かれていて、より科学と親和的であり、個人の自由を実現しているのかという点ではない。

 そうではなくて、「政治」という集権的な意思決定システムで我々の社会のどれだけのことを決定し、どれだけを私的な自治として個人に委ねるのかという点だ。つまり、政治活動と私的な活動の境界をどこに置くのかという問題だ。

 これについての政府の役割や大きさをめぐる議論では、治安維持や国防活動といった常識的な国家固有の活動は議論の極限であり、人々はそういった活動が国家によってのみ行わるべきことについて疑いを持っていない。私は無政府主義者であり、これについて異なった意見を持っているが、ここではそういった極限的な違いは重要ではなかろう。

 テレビを一見するだけでわかるように、国政を担う政治家たちが議論しているのは、国防や治安維持といった重要なことなどではない。政治活動とは、そのほとんどすべてが景気対策であったり、保険や年金などの社会保障システムの制度改革であったり、あるいは農業や中小企業保護であったりする。

 しかし、こういった「慈善」的な政府活動は、様々な理由からそれに反対する人がいる。また個々的な活動への評価も人によって異なっているのが現実だ。とするなら、そういった慈善事業は、その活動反対する人たちに対する強制力を使ってまで行うべきではない。

 私は前著『リバタリアン宣言』(朝日新書)において、何でもかんでも良いことは国がやるべきだという発想を、「クニガキチント」の思想と呼んで問題視した。国という強制力を伴う組織は、活動に反対する人々に対しても自分の意見を押し付けることができるという点で、特殊な暴力装置である。だからこそ、できるだけ謙抑的でなくてはならない。

 現実の道徳理念は人によって異なっている。だから、何かやればいいこと、素晴らしいことがあるという人は、自分の財産や労働力を使ってそれを実現しようとするべきだ。それが、ホームレス対策であれ、失業者対策であれ、年金制度であれ、自分で人々に呼びかけることから始めることができる。この場合、その目的遂行のために、最初から他人のポケットのお金を集める必要はない。

 このことに同意してもらえるかどうかは別にして、ここでは、このように「すべての社会活動について政治活動を当然である」と考えるような心理的傾向について、進化論的な視点から説明してみよう。

 私たちの進化的な過去において、戦争が頻繁であればある程、あるいは狩猟、農耕、治水などでの集団活動が重要であればある程、それに応じて政治活動というものも重要なものであっただろう。政治活動が重要であればある程、皆にとって良いこと、素晴らしいことは何でもかんでもクニガキチントやらなければならない、と感じるようになる。なぜなら、そう考える心理的傾向、あるいは感じるのが自然だと認識するような神経系が進化するだろうからだ。換言するなら、そう感じない個体からなる集団は戦争に弱く、あるいは食料の確保が不確実になり、構成員が増殖することはできなかっただろう。

 5章のテーマに沿っていえば、そういった政治活動の過去の生活における重要性のデアルから、社会的な価値の認知としてのベキダが導かれた。「政治活動などくだらない、あるいは意味がない」などというニヒリストは決して集団のリーダーにはなれず、リーダーとしての権力に伴う多くの利益を得ることができない。無政府主義者が抹殺されるような環境では、無政府的な思想に神話的な神経回路が発達することはない。

 このため、人間の認知は「政治」の重要性、あるいは価値について、現代社会には不必要に重きを置いている。私自身が少年時代に感じていたところでも、良いこと、素晴らしいことは政治家によってなされると感じていたし、そうも教えられていたように思う。

 しかし、これは現代の自由社会にはそぐわない価値観である。政治活動を行うためには、誰かから税を集める必要があるが、税を喜んで払いたいという人は寡聞にして存在しないようだ。ということは、政治活動の「ほとんどすべて」に対して、本当のところ、人々は同意していないのだ。あるいは、自分だけが政治活動からの利益を得て、その対価を支払いたくはないのかもしれない。

 そのどちらでも構わない。どちらにしても、多くの人が心の底では同意していないことを、強制的に押し付ける政治家が「えらい」人だという、過剰な価値づけはやめる必要がある。自由な社会での「えらい」人というのは、自分の財産や労力を使って何か良いこと、望ましいことをする人のことであって、その反対に、あることを望ましいと思っていない他人を強制労働させたり、その他人の財布からお金を無理やり集める人たちではない。

 我々が現在持っている、政治活動を過剰に重視するという人間心理は、ゼロサムゲームの社会で形成されてきた。それは、現代、あるいは未来に広がるプラスサムの社会にはまったくふさわしくない。


アイヒマン実験、あるいは『権力への服従』

 スタンフォード大学で行われた監獄実験について前述した。それは、人間は権力を握ると、嗜虐的な性質を露わにすることも多いということであった。公認された権力がサディズムの傾向を持つなら、その受け手には権力に対する服従傾向があると予想するのは自然だろう。

 こういった人間の持つ「服従心理」の実験は、監獄実験に先立ってイェール大学で一九六一年に行われた。当時、若き准教授であったスタンレー・ミルグラムは、ナチスで実行されていたような大量殺人が、上司からの命令によって通常人に本当に可能なものなのかを実験しようとした。

 もし、普通の人が実行不可能なのであれば、ナチスでガス室の管理を行っていたアイヒマンなどの人物は、その人格がもともと異常だったからだといえるだろう。その反対に、平時のアメリカ人でさえも権威的な命令への服従が起こるなら、それは相当程度、人間の普遍的な性質であるということになる。

 ミルグラムの実験では、被験者を新聞で募り、40人の多様なバックグラウンドを持つ人々が集めれた。被験者は、役者であるサクラとペアになり、サクラが学習者、被験者がその教師役として、学習実験に参加していると説明された。被験者とサクラは部屋を別にされ、マイクを通して声が伝わり、ガラス窓を通して様子が見えるようになっていた。サクラが解答を間違えるたびに、被験者は次第に強い電気ショックを与えるという行為を、監督者であるミルグラムの監視下に要求された。学習者に与えられとされた電気ショックは、実はまったく存在しない。

 被験者には45ボルトから15ボルトずつ上がってゆき、450ボルトまで目盛りがあるように見える。そして375ボルトから420ボルトはは赤のメーターになっており、「危険」と記されている 420ボルト以上は「XXX」と記されている。ショックが与えられると、電圧が上がるにつれて、役者は叫んだり、ガラスを叩いて心臓の不調を訴えたりするが、途中からはぐったりとして反応をやめるように、あらかじめ決められていた。

 この実験では、途中で止めようとした被験者に対しては、監督者が口頭で、4種類の促しを与える。「続けてください」から「あなたに選択肢はありません。続けなくてはなりません。」まで、次第に強くなる命令であった。

 この実験では、危険領域である300ボルト以下で実験参加を放棄して行為を停止した参加者は40人中1人だけである。監督者の監視下に置いて、26人が最大電圧の450ボルトのショックを、すでに何の反応しなくなったサクラに対して与え続けた。多くの被験者は、途中にミルグラムがすべての責任を取ることを求めたり、止めたいとは申し出たり、あるいは、明らかに大きなストレスを感じたりしながらも、結局はミルグラムの指示に従ったのだ。

 この実験に先立って、ミルグラムは学生に、どの程度の割合が450ボルトまでショックを与え続けることが予想されるかを聞いた。学生たちが、最後までショックを与え続けるだろうと考えた被験者の人数の平均はわずかに1.2%だったが、実際の実験では65%にもなった。

 この実験の教訓は明らかで、それは「公式の権威に対して、人間は服従する強い傾向を持っている」というものだ。服従は、ナチス支配下のアイヒマンという個人の属性ではなく、おそらく人間の普遍的な心理なのだ。

 この実験は大きな反響を呼んだ。多くの似たような実験が為されてきたたが、その結果は次のようなものである。イェール大学のような伝統のある大学内で、白衣を着た教授が命令する場合の方が、単なる商業ビルの一角での実験よりも服従性が高いこと、被験者と学習者の接触度が高くなれば服従が弱まること、監督者が被験者に近ければ近いほど服従は強まること、複数での実験の場合、別のサクラ被験者が公然と反対を唱えると服従は弱まること、などが確かめられた。こういった感覚は、どれも人間として至極もっともだ。

 この実験は、本当に興味深い。結局のところ、イスラエルで裁判にかけられたアイヒマンはドイツの公務員だった。大量殺戮とはいえ、国家からの公的な命令に単なる公務員が反逆することができるとは思われない。同じように、戦前の日本社会に生きていた人なら、徴兵を拒否したり、大陸で民間人の殺害を拒否することなど不可能だ。

 人間は集団で闘争をしてきたり、あるいは集団での狩猟活動を行ってきた。その中で権威に反対することは、そのまま死を意味しただろう。それはおそらく人権思想の確立した近代以前のすべての社会に当てはまる。いつの時代でも反権威的な人物は、大きなリスクを甘受さざるを得なかったのだ。

 ミルグラムは84年に夭折したが、彼の『服従の心理』は最近、翻訳家として有名な山形浩生によって再訳された。ぜひとも読んでいただきたい一冊である。


ポパーの歴史批判

 さて「強制力の行使である政治活動を重要視するべきではない」という考えは、ほとんど市井で聞くことはないし、メディアでも圧倒的なマイノリティである。これは厳然たる事実だが、だからといって独自のものだというほどに奇妙なものではまったくない。

 ポパーは『開かれた社会』の「第25章、結論」において、「歴史に意味はあるか?」という問いに対して、「歴史というものは、過去の人間の諸行為に対して我々が価値づけをおこなった記述にすぎない」と答えている。以下に、かなり長くなるが、ポパーによる歴史批判を引用したい。

「大部分の人はどのようにして「歴史」という用語を使用するようになったのであろうか。・・・彼らは、この用語を学校や大学で学ぶ。彼らは歴史についての著作を読む。彼らは、「世界史」とか「人類の歴史」という表題を持った著作で何が取り扱われているのかを理解する。そして彼らは、歴史を多かれ少なかれ一定の事実系列とみるようになる。そうして、彼らは、これらの諸事実が人類の歴史を構成している、と信じるのである。

 しかし、われわれは既に、事実の領域は無限に豊富であること、そして選択が存在せざるを得ないことを知っている。われわれは、われわれの関心に従って、例えば、芸術史、あるいは言語史、または飲食習慣史もしくは発疹チフスの歴史(ジンサーの『ネズミ・シラミ・歴史』を見よ)について書くことができよう。確かに、これらのどれ一つとして、(それらすべてをまとめ合わせたとしても)人類の歴史ではない。人々が人類の歴史について語る時、念頭に置いているのはむしろ、現代に至るまでの、エジプトバビロニアペルシアマケドニアローマ帝国、等々の歴史である。換言すれば、彼らは人類の歴史

について語っているのであるが、しかし、彼らが意味し、彼らが学校で学んできたものは、政治権力の歴史なのである。

 人類の歴史などは存在しない、ただ無数の、人間生活のあらゆる側面の歴史が存在するのみである。そして、それらの一つが政治権力の歴史である。この歴史が世界史にまで高められている。しかし、私見によれば、これはまじめな人類概念すべてへの攻撃である。それは、ほとんど、横領、略奪、毒殺の歴史を人類の歴史とみなすことに等しいのである。なぜなら、権力政治の歴史は国際的犯罪と大量虐殺の歴史(まことにそれらを抑制しようとする若干の試みを含めて)にほかならないからである。このような歴史が学校で教えられ、幾人かの最大級の犯罪者が歴史の英雄として褒めそやされているのだ。

 しかし、人類の具体的な歴史という意味での普遍史の如きものは本当に存在しないのであろうか。そのようなものは存在しない。これがすべての人道主義者、特にすべてのキリスト教徒の返答であらねばならない、と私は信じる。人類の具体的な歴史は、もし存在するとするならば、すべての人間の歴史であらねばならないだろう。それは、すべての人間の希望、闘争、苦患の歴史であらねばならないだろう。なぜなら、ある者よりも重要な人間というものは存在しないからである。明らかに、こうした具体的な歴史を書くことできない。われわれは捨象せねばならないし、われわれは無視し、選択しなければならない。しかし、それ故に、われわれは多種類の歴史に到達するのであり、中でも、人類の歴史として喧伝されてきた国際的犯罪と大量虐殺の歴史に到達するのである。

 しかし、何故に、権力史がまさしく選択されて、例えば、宗教史、あるいは詩の歴史が選択されないのであろうか。これには幾つかの理由がある。一つは、権力はわれわれのすべてに影響を与えるのに対し、詩はごくわずかの人にしか影響を与えないということである。他は、人間には権力崇拝の傾向があるということである。しかし、権力崇拝が人間の持つ最も性悪な種類の偶像崇拝の一つであり、獄舎の時代、人間が奴隷として生きていた時代の遺物であることに疑いはありえない。権力崇拝は、軽蔑されても当然な感情である恐怖から生まれたのである。権力政治が「歴史」の核とされてきた第三の理由は、権力者は崇拝されることを欲したのであり、そして彼らのその願望を強制できたということである。あまたの歴史家が、皇帝や将軍や独裁者の監督下に著述したのであった。」(傍点は原著ではイタリック)

 ポパーがこの文章を書いたのは第二次世界大戦中であり、当時は20世紀の世界大戦の悲惨さに直面して、バートランド・ラッセルをはじめ多くの人々が、人道主義的な立場から戦争批判をしていた。この時代性を考慮しつつ上の文章を読めば、ポパーの政治権力批判の意味がはっきりする。

 現在の日本人にとっては、政治活動というのは、あからさまな戦争行為というよりは、各種の自由の侵害や徴税というようなもっと穏健なものだ。しかし、政治権力の「強制性」については、上記の記述は変わらぬ普遍性を持っている。

 人間に関連する行為や事実は、過去に無限に存在している。その中から我々が直観的に重要だと思うものを概説したのが「世界史」と呼ばれるものである。そして、私や読者が大学入試のために覚えたように、その内容は圧倒的に殺戮と暴力的支配、隷属の事実についてである。

 いい加減に、政治活動の過剰な重視はやめねばならない。

 当然ながら、政治学などを研究する人々をはじめ、我々のほとんどは政治活動が「特別に高尚」な活動であるであるという価値観を持っている。例えば、ナチスの迫害から逃れてアメリカに亡命したハンナ・アーレントは、他の活動を上回る政治活動の優越性を認めた。あるいはフランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマスは、政治的な対話を「コミュニケーション的行為」として重視している。

 しかし、こういった政治重視の直観こそが、我々の長年の進化心理の産物であり、権力崇拝を再生産しているのだ。いい加減に、政治家が「えらい」人だという素朴信仰は、ある種の宗教であると認識して、やめるべきだろう。


「強制的」でない社会

 これまで私が説明してきた歴史観は、「現状を維持しようとする保守的な精神に反して、革新的な精神の持ち主たちが啓蒙主義から民主主義政治を生み出し、同時に科学的な探究を肯定して、現代の豊かで自由な社会を作り出してきた」というものだ。

 もちろん、こういった歴史の記述は、多少なりとも単純化しすぎではある。しかし、全体としてそういう方向であったということは間違いない。

 今後の課題は、保守対革新という対立軸においてさえ、そもそも政治活動が重視されすぎていることにある。つまり、民主主義という政治体制においてさえも、その政治活動の外延(つまり広がりの縁)を決めるのは政治活動自体であるという点で、個人の活動の自由を規制しがちなのだ。

 政治活動には不可避的に有形・無形の強制力が含まれるが、私的な活動は自分の意志で行われる以上、定義によって自発的である。そして、この自発性こそが人間の最も素晴らしいものを作り出す原動力だ。つまり、現在の世界各国の進歩主義においてさえ、旧態然とした政治的な力を使って素晴らしいと思われることを国民に強制しようとしていることが問題なのだ。

 前に、進歩主義的な思考が社会制度の改革に対して、一般的に肯定的であることを見た。この思考こそが、世界各国の民主的、あるいは進歩主義的な改革政党が、自由な資本主義から生じる格差などの諸問題の解消に向けての政治プログラムを組む理由だ。

 しかし、未来の自由と豊かさは、これまでのように政治活動を特別視する価値観の延長線上には存在しない。我々がこれまで抱いてきた、政治活動がまず価値的な中心にあり、経済活動が辺縁にあるというような感覚自体を、ここで脱ぎ捨てる必要がある。

 優秀な人間は公務員になったり、政治家になったりするのではなく、インターネット起業家やトヨタのエンジニアになったり、あるいは各種の慈善的なNGOで活動する。これこそが、戦争行為や国家による強制行為を当然視しない、未来の社会の価値序列である。

 では、拡大しつつある格差については、どう対処すべきなのか。

 資本主義の構成要素である生産活動や交換活動は、もともと完全に自生的な秩序であるから、それらは政治による強制がなくても機能する。しかし、資本主義の結果が所得の平等を実現するという保証はないし、実際に20世紀の終わりごろから、どうやら不平等は拡大しつつあるようだ。

 このような、地球規模の資本主義経済の拡大と、その結果としての不平等の拡大が不愉快であると感じるとしよう。その場合、資本主義的な生産様式、交換様式の効率性を肯定し、その結果として生じる所得の不平等については、事後的な再分配によって矯正する混合経済的が良さそうだ。

 これは、現在の北欧モデルなどに代表される進歩主義政党、社会主義政党の政策である。スウェーデンフィンランドデンマークなどの諸国では、社会政策がうまく機能していると報告されている。あるいはこういった政策を目指すのも一つの方法かもしれない。

 私が北欧モデルに共感しない理由には、リバタリアンとしての自由権の重視がある。税が高いことは、つまり自分が自由に処分できる資源が減ること、最終的には自分自身の個人的な幸福追求権を侵害せざるを得ないことを意味する。伝統的にインテリの間では物質的な幸福の追求は蔑視・軽視されがちだが、結局、可処分所得が税として集権的に決定されているのであれば、私が個人として追求したいことは大きく制約されてしまう。

 これと同じように重要な事実には、国を構成する人口規模がある。北欧諸国の人口を見ると、デンマーク540万人、スウェーデン900万人、ノルウェー470万人、フィンランド520万人である。これに対して、日本やアメリカ、ロシアや中国などの人口は、この10倍から300倍にもなる。

 このことは大変に重要だ。

 こういった国々の数百万人の人口というのは、日本では東京や神奈川、埼玉、あるいは大阪よりも小さい。行政機構全般の冗長性、無意味さ、非効率、あるいは天下り官僚の作り出す非効率などは、人口規模が大きくなるに従って幾何級数的に急速に増大する。これは私の主観的な経験則だが、つまりパーキンソンの法則と同じだ。

 人口規模、つまり予算規模の小さない北欧諸国では、日本のように国家主義的で非効率な農業政策は横行しないし、自然破壊でしかない公共事業費も計上されない。また、官民一丸となって、世界一のコンピューター産業を作るというような無謀・無駄な計画もありえない。人口が数百万人程度の小さな政府にできることは、世界のすう勢に適合した産業に向けて、職業教育内容を変更したり、あるいは実際に介護サービスを充実させるという程度に留まる。

 国家行政の非効率性は、東京都だけで国家を作っていれば、現在の日本の100分の1に低減するだろう。勝手に断言するなら、おそらく人口の2乗ほどに比例して、政治の効率というものは低下してゆく。これは霞が関に広がる特殊法人の数についてもいえるだろうし、あるいは各種の経済規制的な法律の与える生活へのマイナス面においても当てはまる。

 どのみち、現代の市民生活を支える多様な消費物資は、世界的な貿易によってのみ可能だ。いろいろと関税をかけたり、検疫上の難癖をつけて外国のものを輸入しなければ、結局は市民生活の水準が低下することになる。衣料品や医薬品、家電製品など様々な製品についても同じである。

 独自に農産物や工業製品の様々な基準を作るというのは、それだけで無駄でバカげた役人の労力投入である。また、国内の独自規格の存在は、国内の非効率的な産業を保護して、消費者として高くて悪い製品を使うことになる。これはJIS規格に守られた日本の上下水道施設や、あるいはインドからの後発医薬品を受け入れないような政策のことだ。

 シンガポールや香港のように、東京や大阪だけで国を構成するのなら、食物自給率を上げようとか、あるいは世界標準の無線技術を策定しようとか、そういったことは議論にならない。それらのバカげた主張や議論の代わりに、どうやって隣国との軋轢を下げて、より友好的に豊かに生きるのかを話し合うしかない。

 この意味では、日本を分解して、10から20の国に分けてみれば面白いだろう。それぞれの地域が政策を競い合えば、中には良いものも出てきて、あるいは年金制度などももう少しマシになるかもしれない。

 結局、大きな国の政治ゲームとは、他人の血税をいかに素知らぬ顔、涼しい顔で楽しく吸えるかに依存している。道徳的に納得しながら、見知らぬ他人の税金で楽しく暮らせるのであれば、それほど楽しいことはない。納税者が見知らぬ人であればある程、周囲の不景気や貧困を横目に、「自分は十分に働いている、あるいは働いた」という自己欺瞞で生きることが可能になる。

 ここでの主張は、1、日本に限らず、すべての国の政府は警察・裁判・国防などの最低限度にとどまるべきであること、2、そして社会保障や年金、医療保険などは民間企業、あるいは慈善事業とのコラボレーションによって、できるだけ強制力を配した形で行われるべきだ、というものだ。

 現代の福祉国家の行っている慈善的な事業はすべて、NGOに任せるべきだというのが、私の考えである。そうした方が純粋に経済的な効率が高いという理由からだけでない。まったくサービスを好ましいと思っていない人々からも強制的に金銭を徴収し、サービスを与えるという、まさに非倫理的な行為をやめさせることができるからだ。

 政治活動は、我々の進化過程においてあまりにも重要であった。そのため私たちは、政治こそが善をなす活動だと自然に感じ、それを子どもたちに教育し続けてきた。だが、これは、強制による収奪ではなく自発的な交換を主とする社会にはふさわしい考えではない。良い活動とは、オープンソース運動のようにヴォランティアによって自発的に提供され、その利用もまた強制されないようなものでなくてはならない。このとき、社会に生きる人々はもっとも自由であり、かつ豊かに生活できるだろう。


オープンソース型の「政治」活動

 強制を伴わない政治活動というのは、確かにこれまでの常識からは想像できない。ある意味で、語義矛盾とさえ言えるだろう。それはその通りなのだが、治安維持や国防・外交活動などを除けば、社会保障や健康保険、あるいは年金などの社会福祉活動は、別段、強制的に制度化される必要はない。

 日本には多くの総合病院があるが、そういった病院は営利目的ではないことを高らかにうたっていることが多い。だったら、ヴォランティア精神のある医師を低い給与で雇用して、保険事業者と契約して独自のサービスを始めてもいい。医師法さえなければ、誰でも自由に医療行為ができるし、安い給与でも働きたいという人はたくさんいる。

 同じように、介護保険についても、低い給与でも働く気のあるボランティアの集う会社が、独自に保険を売り出してもいいだろう。もちろん、介護保険についてノウハウを持つ保険会社が、そういった病院や介護施設とタイアップすれば、もっとサービスはよくなるはずだ。

 どういったサービスを提供するにしても、制度への強制加入という足かせがなければ、各施設や保険会社はそのサービスを競うだろうし、実際のサービスが悪ければ、客は急速ひ引く。反対に、政府が一元的に福祉制度を提供すれば、それに似たサービスは存在できなくなるだけでなく、政府のサービス自体も競合するものがないために劣悪化しがちになる。

 こういった自発的な制度などは、まったくの夢物語であると感じる人は、一度リナックスやあるいはオープンオフィスなどのフリーソフトウェアを使ってみるといい。私はこれらの製品が、ウインドウズマイクロソフトオフィスに比べて劣っているとは感じないし、少なくとも必要なものはすべてそろっているという点で十分に満足している。

 国家に一つという画一的な制度ではなく、もっと小さな制度や組織がたくさんあった方が、一人ひとりに適合したサービスが提供できる。もちろん、制度の選択肢が増えるのだから、その選択には弁護士や医師、あるいはファイナンシャルプランナーによる相談のようなサービスを利用する必要もまた生じる。

 これは例えば、無料であるリナックスでさえも何種類もの異なったディストリビューションが存在し、それぞれの長所短所があり、あるいはシステムメインテナンスは知的なスキルとして有料であることに似ている。

 社会保障のようなサービスは、どの程度貯金をするか、あるいは多様な健康リスクに対してどのように対処するのかという、きわめて個人的な性向に大きく依存している。本来的に画一性が求められるようなものではない。

 本来的に異なったサービスを求めている人々に、国会の場で集権的に決議し、無理やり全員に同じ制度をあてはめようというのが政治活動だ。そこには当然に倫理的な問題も生じれば、あるいは経済的な非効率も生じてしまう。

 政治活動を志すような高い倫理観をもつ人は、オープンソース運動のように、まず人が本当に喜んで自発的にメインテナンス・コストを支払うような商品やサービスを提供することから始めればどうだろうか。それはまさに、民間企業やNGOの行っていることだ。

 さて、政治活動は、おそらくは遺伝的に我々の活動の中で最高の価値を持つものだと認識されている。だからこそ、こういった政治活動そのものの強制性、自由と繁栄とのトレード・オフについて人々に納得してもらうことが、私にとっての個人的なミッションである。

 啓蒙主義以前の世界で、全成人による普通選挙からなる民主主義の価値を信じていた人など一人としていない。これは間違いのない事実だ。だが現代の社会では、保守的な人々の間でさえも、民主主義の価値を差し置いて軍政や、あるいは王制に戻ろうという人は皆無だ。

 それは人間が歴史的に多くの実験を経て、民主主義社会の方がより自由で、豊かに生きれることを学んだからである。同時に、ヨーロッパ諸国は、その進んだ科学と経済力を背景にして、軍事的にも圧倒的であった。このことも間違いなく、アジア人を開眼させた理由だろう。

 ここで、これらの歴史的な知識なしに、人間がその精神の赴くままに、もう一度ゼロから政治体制を作るとしよう。この場合、秩序維持的な精神が発揮されて、再び王制が主流となるに違いない。前述したグラフでいえば、人間の歴史的な知識のない状態の最頻値は、王制に違いないのだ。

 この意味で歴史や社会制度のもたらす帰結の違いを知ることは、大変に有意義だ。結局、有権者のほとんどが、「最小限の政府が治安を維持し、それ以外の福祉活動はNGOに任せる」という方法がもっとも自由と豊かさを実現することに納得しなければならない。その時、そういった政治活動の最小化は、現代の民主主義と同じように、教育やマスコミを通じて疑問の余地なく「信仰」されるに至るだろう。


小さな政府や自由と日本人

 さて前述したように、日本人(おそらくアジア人)の場合、そのパーソナリティのレベルにおいて、新奇性追及の程度が低く、不安の度合いも大きい。それに一致するのだろうが、自発的な人々の善意よりも、権威的な政府による秩序を好む保守的な精神性が強いように感じる。

 ジョストが報告しているところでは、アメリカでも二〇〇一年の世界同時テロ9.11以降は、多くの人々が保守的な政治傾向を強めたという。採りたてて政策上の成功もなかったブッシュ大統領が再選されたのも、この事件の影響で多くのアメリカ人が伝統的秩序を重視する共和党を支持したからだ。

 これは、実に理解しやすい構図である。日本の場合にも、右翼・左翼のスペクトラムは時代背景によって相当に変化してきた。日本にも、戦後50年もの間、社会党という比較的大きな左翼政党があったのは、あるいは第二次世界大戦の敗戦というきっかけによる厭戦ムードがあったからではないかと私は思っている。実際、沖縄や広島・長崎で革新反戦勢力が強いのは、戦争の被害が甚大だったからだ。

 しかし、戦後も半世紀以上を過ぎて、人々は戦争を忘れつつある。そして、現在の2大勢力と呼べるのは自民党+公明党と、民主党だ。これらの政党はみな中道から保守寄りの政党であると考えられるが、日本の政治では完全に主流を形成している。その反面、明らかな進歩主義政党である社民党や共産党は、かつての社会党と共産党ほどには大きな勢力ではない。

 今後の経済格差の増大に伴って、あるいは社民党や共産党が急速に伸長する可能性は、残っていないわけではない。しかし、私には、現状が日本社会の基本的なメンタリティだろうと感じられる。前述したが、明清時代の中国、李朝時代の朝鮮、あるいは江戸時代の日本のどこにおいても、自由も科学も存在しなかったのは歴史の公然たる事実だ。

 東アジア圏では、儒教の伝統の圧倒的な精神支配は、19世紀まで連綿と続いていた。西洋社会との接触がなかったら、なお数千年、あるいは永遠に続いたに違いない。儒教、特に宋学以降の儒学は、徹頭徹尾現状維持的、権威肯定的な精神性である。これは良くも悪くも東北アジア人の比較的な精神特性なのではないかと疑われてしまう。

 これは私の政治的な信条である、究極の脱権威主義としての無政府主義とはまったく相いれない。そして、こういった認識は私自身の「認知的な不協和」を増大させてしまっている。私の信念からすると、現実がそうではない方が都合がいいが、やはり自然科学的な視点からは、自分に都合がいいからといって否定することはできない。

 これが真実なのかどうかは、わからない。しかし仮に本当だったとしても、私にできるのは、私自身が「善なるもの」、「価値のあるもの」だと信じるベキダを日本語話者に納得してもらうよう訴えかけること以外にはない。なぜなら、私の信じるベキダと、日本人の平均的な精神性についてのデアルとは、親和的であるかないかは別にして、やはり別のものだからである。







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2009-06-20 ベキダ⇔デアル、5章

5、ベキダ>デアル:様々な分野についての世界観は違っている

倫理観が自然の認識に影響する

 前章で説明したように、進化の力を通じて、デアルという環境はわれわれの心の中に住むベキダを作り出した。より適応的で相互利他的なベキダの感覚をもつような個体を作り出す遺伝子は、ヒトの遺伝子プールの中で頻度を上げ、圧倒的なマジョリティになったのだ。

 しかしこのように、ベキダの究極的な存在の説明がデアルから導き出されるということは、我々の多くにとって常識的なことではない。

 倫理的な直観の基礎付けについては、少なくとも私が高校時代までは習ったことはなかったし、今もほとんどの人々はそんなことには興味がないようだ。倫理観とはまさに常識として備わっているものであり、自明であって疑う必要があることなどないのだろう。

 脳死状態になった個人からの臓器移植などは、これまでの直感を超えている。こうした問題に対してのみ、各種の原則、あるいは道徳的な公理・公準から考え直すこともあるといった程度だろう。

 私は脳死問題について強い意見はもっていないが、日本人の多くは脳死患者からの臓器移植に反対している。賛成する人は、脳の死は現実的な意味での人間的な判断や行動の終わりであると考え、また臓器の移植で助かる患者がいるという功利的・理性的な判断をしているようだ。

 これに対して反対論者は、論理というよりも、脳死状態の人間の体が温かく、代謝が今も続いていることなどの感覚を重視する。「温かく息をしている状態の人は生きていると感じられる」という直観を頼りに判断し、そして判断するべきだと考えるのだろう。

 こういった極限な事例判断は別にしよう。すると、ほとんどの常識人にとって、「自然や社会の事実や状態というのは一義的に存在していて、それは誰にとっても同じである」という考え自体には異論はないだろう。

 しかし、現実に存在する事実なり、状態なりについての認識となると、千差万別、まさに百家争鳴といった風である。それこそ、学者の数だけ、あるいは人の数だけ世界観にも違うものがある。

 この章では、右翼左翼の観点から、いくつかの興味深い見解の相違を見てみたい。

 神ならぬ実際のプラグマティックな個人が「世界を認識する=デアルについて考える」時には、ほとんど必然的にその人の多様な偏見が入り込む。その人の世界観のデアルに対しては、その人のベキダが影響を与えてしまうのだ。

 原理的には、世界のデアルは原理的に自然科学的な探究によって解明することができるのかもしれない。しかし、その状態についての知識は、常にその時代時代の科学の状況に応じて暫定的に確からしいだけである。あるいは白黒をはっきりできないことも多い。

 こういった場合には、科学者がインスピレーションを受ける根源そのものが人間的な直感であるため、世界観はほとんど不可避的に個人の持つベキダと関連することになる。科学史をひも解けば、数多くの分野で、ベキダの信念の違いによって論争がおこり、最終的にそれなりに納得できるようなデアルについての常識が確立してきた。あるいは、今も論争が続いている分野も少なくない。

 もちろん、科学史上の論争の中には、倫理観と関係しているというより、それとは独立の哲学的な方法論と関係しているものも多い。例えば、古代ギリシアの万物の根源論争や、科学的知識の帰納的、あるいは演繹的性格などは、個人のベキダとは直接的な関係はないように思われる。

 本書では、倫理と存在=ベキダとデアルの関係について語っている。だから、ここでは両者の関係がはっきりしない事例は置いておいて、社会倫理に直接的に基づいて生じた自然科学的、あるいは社会科学的な論争を採り上げてみたい。

 なお、ベキダからデアルを直接に導き出す論理的誤謬は「道徳主義的誤謬moralistic fallacy」と呼ばれる。これはハーヴァード大学の生物学者バーナード・デイビスによる造語で、ヒューム自然主義的誤謬の対義語といえるものだ。デイビスは1978年の『ネイチャー』の論文で、倫理的なガイドラインと自然の実在の峻別、つまりベキダとデアルを混同しないように訴えたのである。


ミーム複合体

 さて、オックスフォードの生物学者リチャード・ドーキンスはその著『利己的な遺伝子』の中で、人間文化において代々継承される文化の基本単位として「ミーム」という言葉を創造した。その後三〇年以上が経て、ミームは今や多くの人々に使用される一般用語となった。

 彼は同書で、人間の文化においては、ある種の思考様式や概念などのミームは、特定の別のミームと結びつきがちであること、またそれらは一つになって「ミーム複合体」を構成することが多いこと、を指摘している。

 ドーキンス自身の例示したミーム複合体には、「宗教というミーム」と「地獄の業火というミーム」、あるいは「教義を批判しようとしない完全な信心というミーム」などがある。これらは宗教的なミーム複合体を作り出して、自分自身の存在を人間の心の中に永続化することに成功しているという。

 キリスト教についていえば、旧約聖書の記述では「神は世界を創造し、そしてすべての生き物を治めるために、自らの形に似せた人間を創り出した」ことになっている。ここからキリスト教のミーム複合体には「人間の存在は特別なものであり、我々の地球は世界の中心にある」という天動説が加わることになる。

 前者は19世紀のダーウィンの進化論によって論駁され、後者はもっと早くにコペルニクスガリレオなどによって否定された。しかし、こういった外濠となっていた辺縁的なミームを失った後でも、キリスト教は多くの人たちの精神文化の中でもっとも大きな存在であり続けてきた。

 ミームは文化の単位であるから、デアルもベキダも同じように含まれる。例えば、キリスト教では神からの命令として、有名なモーセの「十戒」として基本的なベキダが与えられている。これと同時に、旧約聖書には、世界の始まりや存在の意味についてのデアルも記されている。

 イスラムでも、同じようにコーランには道徳的な日常規律のベキダが事細かに記されている。同時にそこには、アッラームハンマドを預言者としてこの世に遣わしたというデアルについての記述も含まれている。

 仏教でも、輪廻思想のような、存在について思索もあれば、同時に「煩悩」に惑わされないことに代表されるような、守るべき徳目もある。驚くべきことは、多くの宗教にはこうしたデアルとベキダがあるが、ベキダがほとんど同じであるということだろう。

 本書の主題である、ヒトの進化的なゲーム状況に照らしてみよう。ベキダがなぜほとんどの宗教において似通っているのかの説明は、少なくとも後付け的には可能である。それは他の集団と激しく抗争しながら、同時に内部的に平和を保ち、繁栄する社会生物には不可欠な行動規範なのだ。

 また、ほとんどの宗教が自然とベキダとデアルの両方を含むのも納得がいく。

 ベキダとデアルが異なった概念であるという論理的な、あるいは解析的な洞察は、人間の歴史において、それほど古いものではない。ヒュームが嘆いているように、ほとんどの人々の思考の流れの中では、デアルはベキダを意味しているし、あるいはその反対に、ベキダは直接・間接にデアルに自然とつながるのだろう。

 過去の政治思想や世界観においても、これまでに数多くの興味深いミーム複合体が発生してきた。そういった世界観の中には、保守的な思想に親和的な、「自民族中心主義」や「陰謀史観」などがある。また、進歩主義的な思想に親和的な世界観・人間観には、「利他行動の普遍性」や「人格や能力の教育による無限の可塑性」などがある。

 以下に順に見てみよう。


自民族中心主義(ethnocentrism)

 これについては、いまさら多くを語る必要もない。保守的な人はよそ者嫌いであることがほとんどであり、その行動の正当性を高めるために。自民族こそが優越的な存在であるという世界観を持ちたがる。

 最も有名なものは、第二次世界大戦中ドイツを支配していたナチスによる「アーリア人種」の優越論だ。ナチスは、「ドイツ人こそがインド・ヨーロッパ語族の祖民族としての純粋なアーリア人であり、人間存在の中でもっとも優れたものであるため、世界を支配する必然性がある」とまで主張した。

 だが奇妙なことは、「アーリア」という言葉はサンスクリット語で「高貴な」という意味である。そうだとするならアーリア人の直系の子孫は、北部ヨーロッパではなく、現在のイランやインド北部に住んでいると考えるべきだったはずだ。実際、現在ではそのように考えられている。ドイツ人はアーリア人の中でももっとも純粋なものであるというのは、まったく不自然な世界観だ。

 またヒトラーの『わが闘争』の中では、日本人は二流民族になっていたが、それでは同盟国として都合が悪い。そこで、ハンス・ギュンターが記した『北方人種』では、相変わらず北方の民族は南方民族に比べて優越した精神性を持つとして考えられているが、同盟国であった日本人もアーリア的な要素を持っていると主張された。こういった考えなどは、今となってはコジツケ以外の何物でもなく、実にバカバカしい。

 同時に、ユダヤ人はその人間性において道徳的に卑劣で下等な存在であるとされ、五〇〇万人もの人々がガス室送りになって虐殺された。いわゆるホロコーストである。こうした行為は、自分の民族がもっとも優れたものなのだという自分中心の世界観なしには、決して行われなかっただろう。

 この意味で保守的なよそ者嫌いの信じがちな「自民族中心主義」のもつ潜在的な危険性は、強調しすぎることができない。ナチスの大虐殺ほどの社会現象を引き起こしてはいないものの、自民族中心主義はあらゆる民族で見受けられる。それらは相互に矛盾しているが、しかし普遍的な思想なのである。

 日本人もまた、戦前、日本は「世界で一つの神の国」だとして、八紘一宇を支配するのは当然であるという世界観を持っていた。左翼的な人々は、軍部がそういった思想を民衆に「押し付けた」のだという。しかし私の理解するところでは、ナチスの場合と同じように大衆は熱狂的に、あるいはごく自然に自民族の優越を信じたのである。

 中国でも、そういった事実は変わらない。チベットは沿革的には、ほとんどの時代に中国の王朝から独立しているが、結局漢民族の世界観では漢民族の文化がチベット文化の源になっている。そのため、チベットは中国の一部であるのが自然だということになるのだろう。

 「中華人民共和国」という名前自体が、自分たちが世界の中心であることを主張している。「大韓民国」もそうだし、「大日本帝国」「Great Britain」も同じで、自国の名前に優越性を誇示するような言葉が入っていること自体が、いかに多くの人々が自民族を優れていると考えるのかを物語っている。

 現代の生物学者であれば、ヒト集団には多様な違いはあることは認めるが、別段それが優越や劣等を意味するわけではないと考える。例えば、日本の美容整形では、ヨーロッパ人的な造型の要素を取り入れると、より美しく感じられるのは、否定できない事実だ。とはいえ、その美醜の基準から、ヨーロッパ人が価値的な優越性を意味しているとまでという人はいないだろう。

 我々の陥りがちなこういった民族の優越思想は、どう考えても奇妙なものだ。例えば仮に、日本人の平均的な知能が高いからと言って、それが自分という個人とどう関係しているのか?

 純粋に個人をベースに考えるなら、ほとんど何の関係もない。私を含む集団の特性は、私が生まれる前の時点では、なるほど将来の期待的な平均値を著しているかもしれない。しかし、現実の私は集団の平均とは別なものとして、すでに実在している。

 2チャンネルなどの匿名掲示板では民族主義的な発言がよく見られる。しかし私が文化について感じるところでも、科学的な遺伝的な距離指標においても、日本人と中国人や韓国人との差は、日本人とヨーロッパ人やアフリカ人との差などに比べれば、圧倒的に小さい。

 「目くそ鼻くそを笑う」という言葉がある。私はドイツ人とオランダ人、デンマーク人を外見から区別できないが、実際には顔だけでなく、多様な特性についても小さな集団の平均値の差は存在する。だが、それはあまりにも小さい。

 アメリカに留学してよくわかったことは、同じように白人にとっては、韓国人も中国人も日本人も区別できないことだ。ほとんど同じだからだ。そして、今振り返ってみて、私自身もまた同じであると考えた方がよほど納得できる。

 なお、私は後述するように、各種の民族集団、あるいは人種集団には異なった特性があると考えている。それはちょうど、顔や体型はそれぞれに異なっているのと同じように、脳内のニューロンの配線も、あるいは神経伝達物質ホルモンなどの濃度や反応なども違っていると考えるのが自然だということだ。

 もし、神経細胞の構造や組成などに起因する差異がまったく存在しないというのであれば、私はそのように「存在しない」と主張する方が、証明をする責任があると考える。例えば外見における違いが存在する以上、ニューロンの結合構造などによって形成される精神性にも差が「ある」という仮説をデフォールトとすべきだ。これこそが帰無仮説として、基準となるだろう。

 こういった主張は、平等を信仰する多くの左翼主義者には納得がいかないことは、私自身十二分に理解している。だが、私の見解というだけでなく、自然科学者はますます多くの遺伝子頻度が、集団によって異なっていることを発見しつつある。その中には、様々な病気への罹患因子もあれば、人格に影響を与える因子なども含まれている。

 科学者であれば、違いがあるとは言っても、その違いをもって、どちらかが「価値的に優れている」とは言わない。価値は各人の心の中にしか存在しないからだ。もし、「東洋人よりも西洋人の平均身長が高いことから西洋人が優れている」と考える人がいるなら、それはその人が「背が高い方が優れている」という「価値観」を持っているということでしかない。


陰謀史観と危険な世界

 アドルノによるFスケールの質問には、「25、ほとんどの人は、我々の人生がいかに秘密裏にコントロールされているのかについて認識していない」というものがある。これはつまり、自分には知らされていない、あるいは知ることのできないような密室で、多くの重要な政治的な決定がなされていると思うか、という質問である。

 保守的な人々の多くは、概してこれを肯定するようである。歴史を見れば、王や貴族など一部の特権階級が、恣意的に多くのことを、大衆には秘密のうちに決定してきたのは間違いのないだろう。こういった社会状況を前提にして神経回路が進化してきたのであれば、現代のような民主主義社会でも、投票による意思決定は名目的なものにすぎないという懐疑心が起こっても不思議ではない。

 人々には知らされていないが、実はユダヤ人富豪であるロスチャイルド家が、あるいは秘密結社フリーメーソンが世界政治の黒幕であり、すべての国の政治と歴史をコントロールしてきた。これが典型的なものだが、いわゆる陰謀史観につながりがちだ。

 陰謀論は、ユダヤやフリーメーソンに限らない。現在の日本の不況をして自由貿易主義を掲げる英米勢力、つまりアングロ・サクソンの陰謀であると主張する著作も多い。自分に都合が悪いことが起こった場合に、誰か究極的な悪者がいて、その一味が世界をそのように誘導していると考える。これは陰謀史観と呼ばれるが、昔も今も常に多くの人を魅了し続けてきた。

 現在もっともポピュラーなのは、おそらくアングロ・サクソンの陰謀論ではないだろうか。特に資本主義とそれに伴う格差の拡大を嫌う人たちは、これを嬉々として主張していることがある。しかし、数十年のうちには、中国がアメリカに比肩する時代が来るだろう。政治思想においても、現実においても中国の方がはるかに独裁的な国家であるため、陰謀論が好きな人々は中国陰謀論、あるいは客家陰謀論などを語り始めるに違いない。

 私のかつての主観では、陰謀論や、あるいは後述するような超自然の力への信仰といった考えは、中学生からせいぜいが大学生までが信じることのできる、ある種の若さの特権であった。しかし、実際には少なからぬ人々が、成人になってからも超自然の力は当然として、陰謀史観もまた信じている。そういった陰謀史観はまた、世の中はそれほど安心できる場所ではないという、「危険な世界」という世界観にもつながっている。

 つまり、世界がどの程度、危険なものであるのかという認識は、まさに個人の人間観やそれに基づく国際政治状況の認識パターンに、その多くを依存している。危険の存在とは論理的には関係ないが、危険への恐怖においても、人はそれぞれ異なっている。ジョストらの研究によれば、保守的な人々は「死への恐怖、死の訪れ」についても、進歩的な人々よりも鋭敏な意識を持っている。

 ここで、『サピオ』のような、国際紛争を重視する雑誌を一読すれば、世界がいかに陰謀や紛争に満ちていることが事細かに書いてある。つまり能天気で平和ボケした日本人は、緊迫する世界情勢の中で危機に瀕しているというわけだ。

 こういった紛争に満ちた世界観にについて、Fスケールには「26、人間の本性が今のままであれば、これからも戦争や紛争は続くだろう。」という項目がある。これなどは明らかに、人間が戦争を起こし、互いに殺し合うことは避けえない性質の事柄だという認識だ。

 こういった人間性への認識や世界観は、岩波や朝日新聞などの進歩主義的な思想とは、まったくの対極にある。当然、読者層は完全に異なっているだろう。私自身も、柳条湖事件地下鉄サリン事件のように陰謀は実際に時として起こることがあるが、長期的・安定的な状況で陰謀が維持されることはありえないと考えている。

 カール・ポパーが『推測と反駁』述べているように、

「もちろん、陰謀が決して生じないなどと主張するものではない。しかし、私は二つのことを主張する。第一に、陰謀はそう頻繁ではなく、また社会生活の性格を変えるものでもない。陰謀がなくなったと仮定しても、我々はこれまで絶えず直面してきたのと基本的に同じ問題に、依然として直得面するだろう。第二に、私は、陰謀はごく稀にしか成功しない、と主張する。達成された諸結果は、目指された結果とは、通常、非常に異なる(ナチの陰謀を考えられたい。)」

 おそらく、こういった社会状況の記述を検証することは不可能だろう。しかし、そういった検証できない叙述への信頼こそが、世界観の違いというものなのだ。

 余談になるが、私の実家は田舎にあることもあって、外出する場合や夜でも鍵をかけないことがほとんどだった。東京で一人暮らしをするようになったが、出入りするときに鍵を開け閉めするのが面倒なので、鍵をかけずに外出することがほとんどだった。私の部屋に入っても、金目のものなど何もないし、一人暮らしの部屋の大きさである以上、窃盗に合う可能性は確率的には低いだろうと感じていたからだ。しかし、これを話すと、多くの友人が驚いた。

 戸締りを真剣にする人々は、窃盗や強盗の存在と可能性を強く意識しているのだろう。私のような能天気な人間は、あるいは強盗にあって死んでしまう可能性は高いだろうが、そういったニュースを聞いても、あまり反応しないというのは、「中国人などの残忍な外国人犯罪社についての事実を知らない」能天気な平和ボケなのだろう。

 さて、陰謀論と並んで、人知を超えた超自然的な力への信仰もまた、自然科学と経験を重視する進歩主義とは相性が良くない。Fスケール中の「5、科学は重要だが、人間の理解を超えた重要なことがたくさん存在する」という質問は、まさに科学的な方法と知性への懐疑である。同じように、「21、いつか、おそらく占星術が多くのことを説明することができることが示されるだろう」という質問は、西洋では占星術だが、東洋では血液型や四柱推命、風水などを含んでいると考えれば、超自然的な力の存在への信仰として同じである。

 私自分の短い人生においても、中学生になる頃には、神秘ものならなんでもありの総合雑誌『ムー』を読み、デニケンによる『未来の記憶』に始まる宇宙人論に惹かれた。その後、私は大人になってしまったが、10年ほど前にはハンコック超古代文明論『神々の指紋』がベストセラーになった。二〇〇八年現在でも、エドガー・ケイシーよろしく予知夢を見るというジョセリーノ『未来予知ノート』、『未来からの警告』はベストセラーだ。こういった超自然ものや宇宙人ものは定期的にベストセラーになって、人々の心をとらえ続けている。

 こういった超自然ものの人気は、スピリチュアルカウンセリングや四柱推命などを含めて、世界的に見ても一向に衰えていない。いや、安定してはいるが停滞している現代社会では、むしろそういったベストセラーテレビ番組も増加しつつさえある。  

 右翼的、あるいは保守的な態度というものが、こういった超自然的な存在への信仰と関係しているというのは、私にはある意味で奇妙にも思われる。進歩主義者が新奇性を好むのであれば、むしろ、不思議な力というのは左翼に信仰されるべきようにも感じられるからだ。

 しかし、歴史的に見ても、18世紀までの啓蒙主義は理性を重視し、自由と平等を説いた。その反動として高まった19世紀的なロマン主義民族主義では、民族の神話などの不合理で、超自然的なものへの感情を主題にしたものが多い。

 現在でも、保守が民族主義的であるのは、民族主義はそもそも理性よりも感情に基づくものであり、ロマン的なものであるからであるだろう。とすれば、超自然=保守主義となるのは、理性=科学=進歩主義となっているのも、その反面としてうなずくことができるように思う。

 というわけで、多様な神秘主義をどの程度信じるのかという問題については、進歩主義的な左翼は、合理主義、経験主義を重視する。これが、岩波や朝日では科学部があって、非合理な信仰を排斥するような知的雰囲気を作り出しているのだろう。

 おそらく、保守主義者の信仰するような無批判で非合理的な信仰は、本人の精神的な緊張を和らげると同時に、権威に盲従して社会的な変革を望まなくする。そういう意味で、マルクスが罵ったように「宗教はアヘン」なのだろう。


成功と失敗の自己責任と犯罪への厳罰

 右翼と左翼という区分はまた、現状の社会経済的な格差を容認・あるいはもっと積極的に望ましいと考えるか、それとも平等の理念に反するものとして否定しようとするのかという態度の問題でもある。

 ここで仮に現状の様々な結果的な格差の原因が、すべて例外なく本人の素質や努力によるものだとしてみよう。例えば、現在の収入の差が、少なくとも同種の職業については、本人の獲得した能力(そういうものが実在し、かつ実測できるとして)と完全に比例しているとする。獲得した能力は、あるいは素質によるかもしれないし、あるいは努力によるものかもしれない。

 この場合、現状批判は難しくなるだろう。この場合、現状を否定するには、所得と能力の勾配が大きすぎるという批判をすることができる程度になるからだ。あるいはまた、先天的な素質の差もまた不平等であるとして否定することも不可能ではない。ほとんどの平等主義者は、実際には「環境」が不平等であるため、さらに結果は多様な偶然に左右されるために、獲得した能力と稼得能力や社会経済的な状況とは一致しないと主張する。

 環境が同じでないというのは、まったくもってその通りである。義務教育の内容に入っているようなわずかなことを除いて、各種の運動や音楽などの技芸のトレーニングは、通常、本人よりも親の価値観に従った形で、本人に幼少時から与えられる。野球、サッカーを始め、ピアノやスケートその他のほとんどすべての技芸は、すべての子どもに対してチャンスがあまねく与えられているわけではない。

 また、ケガや病気、交友関係や親の世代からのコネクション、その他の偶然的な要素もまた人生に大きな影響を与える。芸能界や政界に多い親の代からの俳優・政治家などでは、本人の立場からすると偶然そのものであるが、親の立場という環境が確かに本人の成功に大きな役割を果たしている。

 こういった「本人」以外の要因があることをもって、平等主義者は現状を肯定できないと主張する。本人に帰責できない要素があるという主張については、ほとんどの人が納得しているだろうし、私もまったくその通りだと思う。人々が一致しないのは、本人に帰責できる要素がどの程度であり、環境や偶然による要素がどの程度であるのかという点(統計的にいえば分散分解)についてだ。

 本人に起因する要素が圧倒的に大きいと考えるなら、その人は保守的な人だろう。アドルノのFスケールには「20、人々は、強いものと弱いものという二つの階級に二分される」という質問がある。これに対してイエスという人は、つまり世の中にはそもそも強いものと弱い者がいて、現実はそれを反映していると考える。

 その反対に、左翼的な人々は、環境要因や純粋な偶然要素が圧倒的に大きいと考える。そして、人々が現状のような異なった格差的な状況にあることに対しては、基本的に本人の責任ではない偶然に起因していると考える。

 マイクロソフトの創業者であったビル・ゲイツは、ウインドウズオフィス、さらにインターネットエクスプローラーなど一連のソフト開発の成功によって、創業者利益として5兆円もの個人資産を手に入れた。あるいは著名な投資家で、同じように5兆円以上もの私財をなしたウォーレン・バフェットなどもいて、金融投資活動を好む人々には大人気である。だれでも、未来のコカコーラディズニーの株をあてて、巨万の富を築きたいと思うからだろう。

 彼らのような億万長者がビジネス書に描かれる場合には、その能力や行動をして「鋭いうえにも鋭く、キレるうえにもキレる」というような記述をするのが鉄則である。おそらく、そういったビジネス書を読んで、信じ、納得する人々とは「頑張ったもの、優れたものは報われる」と思っているに違いない。でなければ、そもそもそんな成功者の伝記など読むはずがない。

 さて、二人はすでに事実上引退しており、彼らの財産のほとんどは公衆衛生・難病治療のためのビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団に寄付されている。かつてアメリカの富豪たちはこぞってスタンフォード大学カーネギー=メロン大学、ヴァンダービルド大学、ロックフェラー医科大学などの大学を作った。おそらく現代のビリオネアたちは、現在のアメリカには、そういった教育施設はもう十分に存在していると感じているのだろう。

 さて本題に戻ると、ビル・ゲイツスティーブ・ジョブスは経済的にも社会的な名声においても大成功をおさめた。ところで、彼らがもう一度異なった時期に生まれても、やはり同じように重要な企業を興したのだろうか?ロックフェラーカーネギーのような大富豪の社会的な成功はほとんど偶然であり、事実、大富豪の中で人生において二度も成功しているものはいないとも言われる。

 これは本当に興味深い問題だと思う。

 例えば、私はアインシュタインが真に天才であったことに心の底から納得している。それでも、彼がこの時代に生まれていたとしたら、相対性理論ほどの革命的な理論を構築できたとは思わない。相対性理論のような理論は、物理学の歴史において、正にある適切な時点に生まれなければ、築くことも検証することもできないと感じるからだ。もちろん、彼がノーベル賞クラスの物理学者になったことは、疑いないとは思う。

 こうした例外はあるかもしれないが、人生における成功の回数というのは、極めてその数え方の難しい概念だ。投資家であるバフェットは、その人生において少なく見ても数十回の大成功を収めているようにも思えるが、コカコーラディズニーという「ブランド」という現代的なシグナリング戦略が奏功するという賭けに「一度だけ」勝ったと考えることもできないわけでもない。

 あるいは、アップルコンピューターを創業したスティーブ・ジョブスは、現在のウィンドウズ的なユーザー・インターフェイスをもつマッキントッシュを作って、最初の成功を収めた。その後、共同経営者であるジョン・スカリーによって一度は会社から追放されたが、再び、そのカリスマ性によってアップルに戻った。その後、アップルをiPodから音楽再生、ビデオ編集とそれらに特化した美しいソフトを搭載したコンピュータ、さらに携帯電話の会社として蘇らせた。彼はその人生に、少なくとも二回の成功をおさめたといえると思う。

 シリコン・ヴァレーを中心に、現代ではシリアルアントレプレナーと呼ばれる、連続的に起業を成功させている人々もいる。よく知られているような大きな成功と、あまり知られていない小さな成功とが単なる大きさの問題でしかなく、ビジネスへの特殊な嗅覚をもつ人々がいても不思議ではないことからすれば、ある分野で歴史になるほどの人物はそれに値するのかもしれない。

 ここで、人々の主観的評価や逸話を離れて、もう少し客観的な研究を見てみたい。

 神ならぬ人間には、ある個人の人生をとり上げて、本人に帰することのできる要素とそれ以外の要素を分解することはできない。それに一番近い思考実験は、ここでも双子の所得や、あるいはその社会経済的な地位を比べるという程度だ。

 二〇〇二年のジャーナル・オブ・エコノミックパースペクティブズに、双子の所得の相関についての研究が載っている。この学術雑誌は、経済学者の間ではサーヴェイ論文集として定評のあるもので、マサチューセッツ大学のハーバート・ギンティスとサミュエル・ボールズという、生物学や心理学にもよく通じた経済学者による論文である。

 アメリカ国内の統計を使った数値では、一卵性双生児の所得の相関が0.56なのに対して、二卵性双生児の場合はこれが0.36である。一卵性の場合、遺伝的な資質は同じだが、二卵性では、基本的には半分だけが同じである。よって、もっとも簡単な計算法からは、この二つの差の2倍である0.4が、環境や偶然の部分を差し引いた遺伝的な相関係数であることになる。

 所得の分布は正規分布に従っていないため、ここでの分析はまったく厳密なものではない。それでもこの研究は、現在1億円の所得を得ている個人が別の場所に育った場合、その期待的な所得は少なくとも4千万円程度にはなることを意味する(日本人の平均賃金は5百万ほどである)。

 ここでの遺伝には、本人の努力しようとする人格なども含まれることには、よく注意してもらいたい。努力という行為が遺伝的な人格の発露ではあるとしても、努力が本人には帰すことのできない「偶然」であるとは、どんな左翼主義者でも言わないだろう。そういったものも含めて、遺伝率は算出されている。

 0.4という値は高いようにも感じられるが、残りは、環境やあるいは環境と遺伝の相互効果、あるいは偶然などに依存しているのだから、真実はどちらかといえば、左翼的な世界観に近いとも言えるかもしれない。

 しかし、この数値をどう捉えるのかということ自体が、個人の人格に依存している。所得の散らばりの大半が本人に帰することができないということは、それは純論理的には、現状の肯定や否定という価値判断とは関係しない。例えば、所得のどれだけかの再分配が妥当であるとか、あるいはそれと似たような結論を出すことは論理的には不可能だ。

 ところで、現在の日本の状況について、自分が右翼的か左翼的かを知るのに持ってこいのリトマス試験紙がある。それは「激増するハケン労働者が受ける不利益は世界経済の発展から生じる仕方のないものだ、あるいは労働者自身の努力不足によるものだ」と考えるか、あるいは「彼らは資本主義の不平等な経済システムの犠牲者であり、何の落ち度もないのに不遇をかこつている」と考えるのかである。

 ここでは所得という数値が使いやすいので、格差の存在の代表として採りあげてみた。確かに、所得というものは国家によって再分配が可能かもしれないが、実際には人の多様な人生のごく一部にすぎない。

 それ以外の、運動能力や外見の魅力、身長や知性、職業選択や配偶者の選択、その他の要素は実在する不平等ではあるが、これらを国家が矯正することは事実上は不可能だ。そういった状況の不平等に対して、文句を言うよりも自分が努力するしかないと考えるのが保守なのである。そして、そういった不平等をより緩和するような社会変革を志向するのが進歩主義者なのだろう。

 Fスケールには「3、もし人々がおしゃべりをもっと減らして、もっと働けば生活はより豊かになる」というものがある。これはまさに現状を追認し、それよりも個人の努力を信じる保守的な態度である。前述したように、保守主義者は平均よりも勤勉であり、それは彼らの美徳なのである。

 書店にあふれる処世術的なビジネス書を見ると、永遠のベストセラーの欄でナポレオン・ヒルは『思考は実現する』と語り、デール・カーネギーは『人を動かす』、そして『道は開ける』と訴えている。これらの書籍は合理主義的でこそないかもしれないが、そういったガンバリズムというのは、バカにするべきではない。おそらく、人間の潜在力のマキシマムを引き出すには、なんらかの自己暗示や頑迷というほどの固い決心が必要なのに違いない。

 保守主義者が現状の社会システムを追認し、努力した結果が成功であれば、それは彼の得るべき報酬であることになる。同じ考え方をすれば、罪を犯すなら、その償いは行為者が為すべきことになるだろう。


保守主義と犯罪への厳罰

 保守主義者は、犯罪に対する厳格な処罰を望む傾向がある。ニールらによって保守的質問項目が開発されているが、その項目の中には「死刑に賛成するかどうか」というものがある。この質問についての遺伝率が0.51とひじょうに高いことからは、保守性には遺伝的な基盤があることが示唆される。

 同じコンテキストで、左翼の政党や主張者の多くは、犯罪者に対して同情的であるのが普通だ。彼らは、何らかの社会的な問題のために、犯罪者は罪を犯さざるを得なくなってしまったのだと弁護するのだ。

 そういった世界観からすれば、犯罪者は社会の犠牲者なのであり、それに対する刑罰を峻厳にするよりも、むしろ行為者を犯罪に向かわせた社会の矛盾点の方を改善するべきだということになる。まさに、これこそが、多くの人権派弁護士の根本的な世界観であり、彼らの法廷での主張の基底をなす認識である。

 犯罪行為の遺伝率、あるいは非行行為の遺伝率についても多くの報告がある。犯罪は自己中心的な人格を持って、かつ社会的な地位が低い場合に起こりがちである。この両方が高い遺伝性を持っているため、結果として犯罪行為の遺伝率も50%を超えているという報告が多い。

 ここでも社会的成功と同じ議論が成り立つ。犯罪が起こった場合、犯罪者の個人的な資質の発現デアルと考えるのが保守であり、その場の状況や、あるいは犯罪者の育った環境が悪いのだと考えるのが革新なのだ。

 当然、この認識の違いは犯罪者に与えるべき懲罰の程度にも関係する。

 犯罪に対する罰は、保守であれば長期の厳罰主義を支持しがちであり、革新であれば、厳罰というよりも比較的短い教育刑という形を好む。これは犯罪という悪に対する応報感情からの刑罰に対する感覚の違いである。

 しかし、刑罰のまた別の目的には、犯罪に刑を科すことによって将来の犯罪を予防するという目的(一般予防と呼ばれる)もある。ここでもまた、保守派は厳罰によって犯罪を予防できると考えるが、進歩主義者は、犯罪とは一種の病気のようなものであり、厳罰化したところで犯人が犯行を思いとどまることはないと主張する。

 経済学者はこの点、比較的に保守派が多いようであり、対して社会学者は進歩派が多いようだ。二つの分野は学風も違えば、祖先神も異なるので、厳罰が本当に犯罪を抑止する効果があるかという問題については長い論争が存在する。

 一応、例えば経済学の分野においては、アーリックの古典的な研究がある。それによると、一人当たりの死刑執行は、約7回の潜在的な殺人事件を抑止しているという。また懲役の長さや有罪率の高さも、それなりの犯罪抑止効果を持つという結論が出ている。

 もちろんこれに対して、社会学者は統計的な手法を批判したり、あるいは常識に訴えたり、あるいは犯罪者へのインタヴューに訴えたりして、そういった抑止効果は存在しないとしていることが多い。

 ごく常識的に考えれば、詐欺や窃盗などの財産犯は刑罰の厳しさに反応するだろうが、殺人などのような極限行動は、なるほどあまり反応しないようにも思われる。しかし、これについても、結局は程度の問題であることのだろう。

 これに関連して、一九九八年にシカゴ大学のジョン・ロットは、『銃が増えれば、犯罪は減る(More Guns, Less Crime)』という挑発的な題名の本を出版して、大きな反響を呼んだ。彼は、自由放任経済を信奉しており、シカゴ学派の中でも本流の人物だといえるだろう。彼の論理は、仮に銃をすべての市民が常に携帯しているなら、犯罪者はそれを恐れて、犯罪行動は減るだろうというものだ。

 ロットは10州の犯罪統計を使ってこの結論を出したが、これは銃規制賛成派を逆なでしたために、大きな論争を生み出した。複数の学者が、ロットの結論は信頼できないと統計的に反論したのだ。ロットは続編となる著作で、統計データと犯罪者へのインタヴューから、彼の結論を補強している。

 確かに、犯罪予備軍がもっと簡単に銃を入手できるのなら、それを使った犯罪は起こりやすくなるだろう。その反面、反撃を恐れるような潜在的犯罪者は、多くの潜在的被害者が銃を持っているなら、犯罪を躊躇するはずでもある。残念ながら、私はこの論争についてあまり納得できる結論を得ていないので、判断は読者にお任せしたい。

 さて私は、明らかに厳罰主義的な考えを持っているが、それは犯罪予防という観点からよりも、単純に応報的な感情からである。犯罪類型にもよるが、劣悪な社会状況にある人々が、ジャン・バルジャンのように、貧困から窃盗、あるいは居直り強盗に至ることはあり得ると思う。それらに対しては、ある程度の同情も感じる。

 しかし、貧困が殺人やレイプなどにつながるはずがない。そういった犯罪者に同情する必要などまったくないと思う。純粋に応報的な正義の感覚からして、そういった行為には厳罰が与えられるべきだと感じる。これは明らかに保守主義的な感覚そのものであることはいうまでもない。


クロポトキンと自然にあふれる利他的な行動

 ナチスほど徹底的ではなかったとはいえ、19世紀のヴィクトリア期のイギリスでも、多様な保守的な考えが大きく花開いていた。実際、当時のイギリス産業革命を完成させ、全世界に植民地を経営して「日の沈むことのない大帝国」としての繁栄を謳歌していた。そういった時代に、イギリス人の優秀さが帝国の成功と繁栄を導いたと考えるのは、きわめて自然なことだった。

 同時に自然観においてもまた、競争を重視する風潮が広まっていた。ここでは、ダーウィン進化論の擁護者として「ダーウィンブルドッグ」と呼ばれた、トーマスヘンリー・ハクスレーをとり上げてみる。

 彼が『十九世紀 The Nineteenth Century』誌上に書いた「生存競争」と題されたエッセイには次のような記述がある。

「道徳家の視点からすれば、動物の世界というのはほとんど剣闘士の見世物のレベルにある。生き物はそれなりに取り扱われながら、戦いをけしかけられる。そこでは最も強いもの、最も素早いもの、最も抜け目のないものが、明日の戦いに向けて生きのびるのだ。・・・最も弱いもの、最も愚かなものが壁に張り付けられることになり、その一方、その環境に対して最も適応した、しかしそれ以外の意味では最良とは言えないような、最も屈強で、最もずる賢いものが生き残る。生活はルールのない闘争の連続であり、限られた一時的な家族関係を超えると、ホッブズ的な万人に対する闘争が、存在の普通の状態なのである。」

 現在の進化理論は、こういった「血塗られた自然」といった程に単純ではない。細胞や個体レベルの共生から、血縁的、あるいは互恵的な利他行動、その他多くの協調的な要素が存在する。常に死ぬか生きるかという剣闘士の戦いという要素も確かにあるが、負ければそれなりに名誉や評判、あるいは収入が低下するという程度の、野球やサッカーといったチームスポーツ的な要素も同じ程に大きいだろう。

 しかし、この闘争を重視したハクスレーの自然への記述を読んで、当時ロンドンに在住していた無政府共産主義者のクロポトキンは、大いに憤ったという。そしてその後、彼は一九〇二年に『相互扶助』を出版した。

 前述したように、保守主義者はよそ者嫌いであり、基本的に他人を信用しない。彼らにとって、利他的な行動は、基本的に親族や友人に対して行われるべきものだ。と同時に、世界は危険に満ちており、自然界もまた弱肉強食の生存競争が支配している。

 これに対して、自然界の競争的な側面を見るのではなく、むしろ、協力的、協調的な活動に目を向けて、それらを重視するというのが、リベラリストの視点だ。ここではそのもっとも極端な例として、生物学者であると同時に、無政府共産主義を夢想したピョートル・クロポトキンを紹介しよう。

 クロポトキンベラルーシの大貴族の生まれであった。その祖先は、ノヴゴロド公国の開祖であるリューリクにまで遡ることができたという。彼の父は一二〇〇人の農奴を所有し、クロポトキンは兄ともに幼いころからドイツ語フランス語家庭教師についていた。彼が自由や平等の理念を知ったのは、このフランス語家庭教師からであった。

 15歳でセント・ペテルブルクにあるロシア軍士官学校に入学したが、士官としての生活を嫌い、20歳で自らシベリア駐留を志願した。その後、アムール川流域の地理探査に従事する職業生活を送りつつ、生物たちの観察研究を続けた。

 クロポトキンは、極北の地でともに寒さから助け合って生きるトナカイや水鳥、ネズミなどの動物たちの様子をつぶさに観察し、進化は競争からではなく、協力から生まれるというインスピレーションを得た。その後、活動の場を西ヨーロッパに移して、政治運動、革命運動に身を投じたのである。

 彼が生きた19世紀の後半の進化論では、イギリスのハクスリーなどを中心として、「適者生存」、「血塗られた自然」といったフレーズが大流行していた。それは、個体間だけでなく、集団間の競争を社会ダーウィニズムとして提唱したスペンサーの考えのように、圧倒的に競争重視の、ある意味で殺伐とした世界観であった。

 これにほとんど感情的にも、認識的にも反対していたクロポトキンは、一九〇二年に記した『相互扶助:進化の要素』の「結論」において、以下のように記している。

 

「動物の世界では、圧倒的多数の種が集団で生きており、生存競争のための最高の武器は

協力であるということわかっている。ここでの生存競争とは広い意味でのダーウィン的な意味であり、それは単なる生存に向けての格闘というよりも、種にとって不都合なすべての自然状況に対する格闘なのである。個体の闘争が極限まで少なく抑え込まれ、相互扶助の実践がもっとも発達した動物種は、必ずもっとも数が多く、繁栄しており、さらなる発展にむけて開かれている。この意味で得られる自然からの相互の防御は、長く生きて経験を蓄積し、より知的な発達や、社会的習慣のいっそうの発達を可能にする。そしてそれは、種の維持、発展、さらなる進歩的な進化を確実にするのである。その反対に、非社会的な種は、滅びゆく運命にあるのだ。」

このような認識は現在の進化論とは必ずしも整合的ではないが、クロポトキンがいかに、厳しいシベリアの自然環境に対して、群れを作って対処し、生き続ける動物たちに強い共感を感じていたのかが理解できるだろう。

 さて、クロポトキン無政府主義者アナーキストであったが、その高貴な出自のためにアナーキストプリンスと呼ばれている。これが、ある意味で完全に矛盾している形容であることは明らかだが、彼に対するプリンスの称号は、権力の存在しない平等な社会を目指した、その精神の気高さを称賛する意味を含んでいる。

 ダーウィニズムはその始まりから、個体の生存・繁殖のためには他者との競争に打ち勝つ必要あるという意味で、競争的な思想と基本的に親和的だ。このことから、主流派のダーウィン進化論は、常に多くの人々からの不評を買い続けてきたのである。

 戦後昭和の日本でも、京都大学でカゲロウの研究などをしていた今西錦司は、「すみ分け」を重視した独自の進化論を提唱していた。「すみ分け」とは、異なった生物種がそれぞれに異なった生態的な地位を自発的に選んでいるという「共生」の思想だ。今西は京都大学にあって多くの弟子を輩出したため、昭和の時代には、彼の意見はそれなりに認められていた。だが、個人の死とともに、理論なき理想は学説史の闇へと消えていった。

 もっと低いレベルでは、リン・マーギュリスらによる「細胞の共生説」がある。もともと細胞内のミトコンドリアや葉緑体などは独自のDNAをもっており、細胞とは別生物であった。それが他生物の細胞と共生関係に入り、全体として機能するように進化したことが、現在では広く認められている。これはしかし、個人スポーツがチーム・スポーツに変化したという程度であり、進化論を超える「新しい進化論」とまでは呼べないかもしれない。

 その他にも、進化とは主にウイルスによる他の生物種からの遺伝子の搬入=トランスポゾンによって引き起こされるとする説や、DNAは分子レベルでの偶然の浮動によって固定され、それが進化の原動力だと考える中立進化説などがある。どの説も、競争という概念を嫌い、むしろ偶然の要素を重視するという意味で、ダーウィン説の持つ〈無慈悲さ〉を否定する側面がある。

 競争によって遺伝的に優秀な個体がより多くの子孫を残すというのであれば、遺伝は重要な役割を果たさざるを得ない。イギリスから始まった「氏か育ちか」という論争の中で、遺伝的な資質を重視するか、それとも後天的な環境の方を重視するかという考えの違いは、論理的なものというよりも、まさに世界観の対立なのだ。

 最後に、旧ソヴィエトで猛威をふるった、ベキダからデアルへの影響の代表としてルイセンコの進化説を挙げてみよう。それは、努力によって、あるいは環境によって遺伝的な性質までも変化するという考えであった。

 ダーウィン以前のフランスの生物学者ラマルクは、個体による獲得形質が次の世代にも遺伝すると主張した。しかし戦前にはすでに、オランダヴァイスマンなどによってこのことは完全に否定され、それは学者の間では常識となっていた。

 自分が育った環境や、あるいは練習によって獲得した能力などは、次の世代に遺伝することはない。なぜなら、個体が後天的に獲得した形質は、生殖質(卵子や精子)の遺伝子にはまったく影響を与えないため、次世代には伝わりようがないからである。これは生物学において、セントラル・ドグマと呼ばれている。

 ウクライナ生まれの植物学者であったトロフィム・ルイセンコは、こうした生物学知識をブルジョワ的であるとして政治的な批判をした。そして、生物学者ミチューリンのネオ・ラマルキズムの提唱に基づいて、環境からの影響によって遺伝的な資質もまた変化すると主張したのだ。

 彼は、環境からの影響、つまり個人の努力や獲得した能力などが次世代に遺伝するという考えの方が、平等や進歩主義的な理念に適合し、より好ましいと考えた。なるほど、自然的な事実もが、政治思想によって決定されるというのであれば、そう考えることもできるだろう。

 ルイセンコは、スターリンに気に入られると、学説的に反対する研究者を次々と追放して科学アカデミーを支配した。彼は、小麦を播く前に冷蔵保存するという「春化」によって、秋まき小麦を、寒さに強い春まき小麦にできると主張した。

 一九四八年にルイセンコは政治闘争に完全な勝利を収め、獲得形質の遺伝についての異論をさしはさむことを国内で禁止することにまで成功した。その後53年には、ライバルであった著名な生物学者ニコライ・ヴァヴィノフを投獄し、餓死させた。

 ルイセンコ学説は50年代のソヴィエトの小麦生産に大きなダメージを与えた後、次第にソヴィエト国内でも実践されなくなっていった。しかし、その完全な学術的な否定は、ルイセンコを贔屓にしていたフルシチョフが失脚する1964年まで待たなくてはならなかった。このことに、ルイセンコ学説の政治性が見事に表れているだろう。

 一九五九年にはDNAの二重らせんが発見されたこともあって、その後のソヴィエトでは主流の遺伝学が復興した。しかし、興味深いことには、その後の文革時代の中国も、このルイセンコ学説を採用したことだ。それによって、大量の餓死者を出しているのだ。当然ながら、自然的事実は理念では変化しない。

 また驚いたことには、西側に属する戦後のの日本にさえも、ヤロビ農法という形で導入しようとした(おそらく共産主義に傾倒していた)学者がいた。ベキダから自然についてのデアルを引き出すことはできない。ルイセンコ学説は、ほとんど妄想というべき思想が国家によって科学に押しつけられた悲惨な事例である。


無限の人格的可塑性

 ルイセンコの学説は、つまるところ、生物の進化が、生育環境によって引き起こされているべきだという、イデオロギー的な環境決定論であった。どうやら、この環境万能主義というのは、進歩主義的な人々にとっては、まさに麻薬のような力を持っているようだ。

 社会主義の極端な実践には、北朝鮮の主体思想や、カンボジアでの少年の思想改造がある。一般に、(いやしい資本主義的・拝金的な)人間精神を教育によって改造することがひじょうに重視される。これは、左翼的な傾向を持つことが多い、教育者や教育学者には典型的に見られる精神態度だ、これは特に社会主義国でない資本主義世界においても、同じだ。

 保守的な人々の視点からすると、「人間には遺伝的に持って生まれたものがあって、それを変化することができることもあるだろうが、難しいことが多い」ということになる。もちろん、ここで極端に遺伝性を強調してしまうと、ナチスのように遺伝万能論になってしまうため、遺伝的な要素を強調することは望ましくないという、戦後の自発的な自己検閲は存在する。

 少年の非行から成人の犯罪、あるいはモラルの欠如から科学嫌い、援助交際に至るまでの広範囲の、大人が望ましくないと感じるすべての風潮について、教育によって何とかするべきだとの主張が繰り返されている。政治家からマスコミまでのすべてで、「そういったことをしないようにする人間的、道徳的な教育が重要だ」という大合唱になっている。

 だが、私はこの考えに非常に懐疑的である。

 双子研究を見ると、知能から人格、思想、身長などの特長に至るまで、多くの形質で、遺伝的な分散割合は50%程度だ。これに対して、環境要因の中の何が、どの程度の影響を与えているのかは、まったくはっきりしていない。ほとんどの研究では、双子によって共有される家庭環境は、子どもの人格などに見るべき影響を与えていないことが示唆されているのだ。

 教育者の与える訓示や人格的な教育のようなものは、現実には、その説教によって相手に様々な不利益を与えている。説教を聞いている学生としては、その時間や精神的苦痛を減らすために、一時的に理解したように振舞ったり、あるいはその時だけ行動を変えていることがほとんどではないのだろうか。

 もちろん、私も純粋な知識やスキル、例えば数学や物理学、法律などの知識、あるいは野球の投球方法やスキーの技術指導などについては、教育と学習は何にもまして重要であると考えている。そういった技能については、先達からの指導や助言なしでは、決して現代社会に通用するプロフェッショナルなレベル、あるいは世界で一流のものにまで高まることはない。

 しかし、教育者や政治家が議論しているのは、もっぱら一般人に対する道徳教育であったり、人間的な成長を目的とする人格教育であったりする。そういったものが必要なのか、あるいはまた可能であるのか、私はこれらについて大変に疑わしく感じる。

 人間にとって若い時間は有限であり、学習できることも有限である。このことは、金メダルを取るようなアイス・スケーターが、決してプロの野球選手にはなれないことからも明らかである。あれをすれば、これはできない、というトレードオフは普遍的だ。

 道徳教育などという、人類史上、その効果が測られたことのないようなものに時間をかけるよりも、現代数学からやコンピューターサイエンス、さらには司法制度などの知識の習得や、あるいはテニスからヴァイオリンなどの技芸に至るまで、時間をかければいいだろうことは無限にある。

 これと同じ発想なのが、犯罪者の更生可能性についての議論だ。19世紀の後半から発達した「新派」と呼ばれる刑事法学者は、犯罪者というのは人間の正常な社会化が妨げられた結果として生じると主張した。よって懲罰に変えて、教育の概念で犯罪者を遇するべきだと考えた。

 この運動の影響は、いまでも監獄内の職業訓練では、パソコン技能の習得などの実用的な能力よりも、むしろ根気を必要とする伝統的なタンスづくりなどの精神修養的なものが多いことにも表れている。

 だが、そもそも道徳などの社会性を身につけさせる方法などは、これまでまったくわかっていない。そういった状況において、6歳からの教育でも身に付かなかった道徳教育が、服役中の限られた時間の中で可能なのだろうか?

 左翼的な思想では、生まれ持っての資質の基本的な平等が前提とされるため、行動に差があるのであれば、その原因は後天的な環境にあり、それは教育によって当然に矯正可能だということになりがちである。だがこれは本当なのだろうか。

 私は、まず第一に、生物として人間が進化してきた以上、その行動や特徴の基盤には大きな遺伝性があると信じている。進化には、遺伝的な突然変異に基づく行動や体徴の変異と、それが淘汰され、あるいは拡散するプロセスの両方が必要だからだ。

 同時に、仮に極端な教育、あるいは条件反射的な学習などの実践によって、個人のすべてを変えることができるとしても、それは重大な自由や人権侵害を伴うことになるのではないかと危惧する。誰にでも、少なくとも人への直接的な犯罪にならない限りは、社会という他人の集合体にとっての望ましい人生ではなく、自分の希求する生活、自分なりの幸福を追求する権利があると考えるからだ。

 ベキダは、一人ひとりにとって異なったものだ。それを社会的に強制しようとするなら、ナチスやその後の社会主義国で起こったような、他人の価値観による個人生活や思想、さらには人間性の自由の否定という代償を払う必要が生じてしまう。このことは、よくよく理解してもらいたい歴史的な教訓だと思う。


マーガレット・ミードと『サモアの思春期』

 人間は基本的に平等であるという政治信条は、「実際に人間集団は、少なくともその精神において同じである」というデアルにつながる。こういった考えは広く文化人類学や社会学に広がってきた。

 こういった極めて二十世紀アメリカ的といえる思想潮流を作るのに、大きな役割を果たしたのが、文化人類学者として活躍したマーガレット・ミードだ。ミードには二つの代表作があり、一つは『サモアの思春期』である。

 そこでのテーマは、西洋社会の禁欲的な文化が、思春期における反抗的な精神を生み出すというものだ。そこでは、人間行動の本質的に文化的な要素と、西洋の宗教社会に流布する性的な禁忌意識は特殊なものだ、という点が強調された。

 もう一つは『三つの原始社会における性と気性』と題された、パプア・ニューギニアの3つの文化についての報告だ。アラペシュ族では男女両方が平和的であるのに、ムンドゥグモル族では両方が好戦的である。そして、チャンブリ族では、男は着飾ったり化粧をするのに対して、女は外で働く。こういったまったく異なった文化が共存していると報告したのである。

 ミードは女性解放運動、市民権運動にも乗って、メディアでも頻出する有名人になった。60−70年代は、それ以前の不平等状態が弾劾され、性の解放運動とともに、平等という理念がそれだけ重視された時期である。あるいは、西洋以外の文化も西洋文明と同程度に尊重されるべきだという、多元的文化理念の時代であった。

 『サモアの思春期』が単なる思い込みであったことは、デレク・フリーマンによる『マーガレット・ミードとサモア:人類学的神話の創成と破壊』に詳しい。ミードは、9か月のフィールドスタディを現地語をまったく理解しないままに終えた。対してフリーマンは、4年半の歳月を現地の社会と言語とともに過ごした。フリーマンが指摘するように、サモアにも反抗的な思春期があり、また性的な禁忌意識が存在することは、いまや疑いない。

 いわんや『三つの社会』は、単なる彼女の願望と思いこみでしかなかった。いまや、性ホルモンの与える生理学的な事実、あるいは脳機能の各種の性差に関する神経科学的知見と、ミードの結論した男女の心理的同一性は、まったく相いれていない。

 私見では、多様な文化を探そうとするのであれば、文明化されていない社会を探すという文化人類学アプローチよりも、むしろ都会のサブカルチャーを研究する社会学の方が可能性があったように思う。

 都会には、多様な遺伝的な素因を持つ人々が高密度に住んでいるため、特殊な文化が発達することが可能だ。例えば、男性ホモセクシュアルの文化は大都市には普遍的に存在するが、多様性を嫌う地方ではそういった文化は存在しない。どんな種類のものであれ、特殊な嗜好を持つ人は都会へと移住してしまうため、異なったカルチャーが発生する余地がない。

 ほとんどの場合、ベキダはデアルを生み出さない。社会体制などの人工物を除いて、人や自然のあり方というのは基本的に我々の倫理とは独立した存在だからだ。だが、当たり前のことだが、強い倫理観を持つ人ほど、こういった考えに陥りがちなだ。

 現代社会の倫理感からは必ず付け加えられることだが、男性と女性に集団としての差異があることは、個人に対して何かを語ることとは違うということである。明らかに男性の平均よりも体力の上回る女性はいるし、身長の高い女性もいる。

 要は、「このグループはこういう傾向を持つ。だから制度として別に扱うのが当然だ」という発想法そのものが悪いのである。、すべての「実質的な平等」を、国家のような強制力を持つ主体によって実現しようするなら、個人主義的な正義からも効率性からも大きく隔たった制度を構築してしまう。それは、すべてが集団主義に基づいた悪しき思想だ。

 そういった実例が、遠くはアメリカアファーマティブ・アクションであり、近くは京阪神地方の同和利権、朝鮮人利権といった、マイノリティの公務員への優遇採用である。こういった制度化された集団主義はすべて、最終的にはかえって個人間の不公平感を生み出してしまう。


自己欺瞞の進化

 これまでに明らかになったように、ベキダという当為概念がデアルの存在概念の認識に影響を与えるのは、直観的に自然なことのように感じられる。とはいえ、一体どういう意味で、異なった概念の相互干渉が起こるのが「自然」なのだろうか?

 心理学には、レオン・フェスティンガーが一九五七年に提唱した「認知的不協和」という概念がある。人間は自分のもつ世界観と整合的な事実の認識を持たなければ、その矛盾から精神的ストレスを感じてしまう。そのため、自分の価値観と異なる事実を無視したり、あるいは整合的な事実を強調する傾向を持つという理論である。

 もともとのフェスティンガーの理論は、たばこの有害性という事実と、自分の喫煙行動という事実、というような、デアルの対立についてのものである。喫煙者は、タバコの有害性を否定しようとするのである。この理論から類推されるところでは、各人が、自分の信じる価値であるベキダと矛盾する事実を、認識から排斥しようとするのだ。

 結果の平等な社会が価値的に望ましいと感じている人が、「現状の格差はすべて、あるいはほとんどが遺伝的に説明できる」という現状維持的な主張を聞いたとしよう。それを否定したいと感じるのは、ごく自然なことだ。

 もちろん、すべての格差が遺伝的であったとしても、なお平等な社会は望ましく、その実現のためにむしろ才能のない人には特別な訓練を与え、才能のある人には不利益を課すという政策を採ることも、論理的には可能である。しかし、そういった主張では、多くの賛同を集めることはできそうにない。

 こういった意味で、個人の価値観からの世界の認識への影響というのは、自己矛盾を避けるためには必然的な心理機構となる。社会についての認識というのは、実に多様かつ微妙な要素を大量に含んでいる。そのため、誰しもが、自分の理論に都合のいい事実を持ち出すことによって、それなりに自分の理論を正当化できるのだ。

 よく政治的な対立では、自説に都合の良い事実を引用し合うが、歴史的、社会的な事実というのは無限に存在する。カントールが集合論で行ったように、自然数と偶数を一対一に対応させることでさえも可能だ。例えば、ここで自然数に保守的事実を対応させ、偶数に進歩主義的事実を対応させれば、両者は同じように無限であるとさえ主張できるかもしれない。

 しかし、私はこういった不可知論には、あまり賛成しない。人間によって抽象的に区分される事実というのは、確かに無限にある。だからこそ、統計的な処理が重要性を持つのではないだろうか。統計学の利用は、どちらの方がより蓋然的であるかについての、個人の主観的な判断を超えた情報を与えてくれる。少なくとも、客観的事実への接近の可能性は高まるだろう。

 世界観というほどの大げさなデアルでなくても、自分の日常的な行為が道徳的であるという程度の小さなデアルについても、認識のゆがみは恒常的に存在している。通常、誰しも自分が道徳的に逸脱しているとは考えないものだろうが、自分が日常に行っている、小さなウソや小さな盗みなどは、意識に上らないままに終わっているのだ。

 心理学者のフェルドマンたちによる長期的な研究によると、ほとんど無意識のうちに、60%にも上る人がほとんど習慣的にウソをついているという。日常的に、男性は平均して25ものウソをつく。多くのウソは、自分の能力をわずかに誇張するようなもので、その意図は自分の会社での評価、仲間内での評価を上げることにあるという。

 これは、恥ずかしいことではあるが、思い出すと私も時々行っている。友人などとの会話の中で、話を面白くするためであったり、あるいは自分のいい面を誇張したりしてしまうのだ。おそらくは私も、自分ですぐに思い出せる以上に多くの小さなウソをついているのだろう。

 その他のウソは、社会的なトラブルを起こさないため、あるいは相手を傷つけることを避けるためである。これらはどちらかというと病人を落胆させないためのホワイト・ライの類である。

 ちなみにチンパンジーをはじめ、多くの社会性動物はウソの警戒音を発したりすることで、自分の利益を守ることが知られている。あまりにも多くの生物種でウソの信号が発見されているため、コミュニケーションがあるところには必ずウソがあるということを疑う生物学者はいない。

 さて、女性のウソは男性に比べると、2分の1から3分の1と少なく、その多くは自分を社会的なトラブルから守るためだという。女性の体内には男性ホルモンであるテストステロンが少ないが、テストステロン自己評価を高めると同時に、自分をより良く見せたいというウソを引き起こしているようだ。

 この事実は、女性よりも男性の方がより大きな社会的な競争圧力、さらには異性の獲得圧力を受けているという考えとも整合的である。あるいは、男性の方が自分勝手で反社会的、攻撃的であることが多いという事実とも整合している。

 こういった自己欺瞞は、自分で気づかない方がより自然なものになり、他人からも信用されやすい。人間はウソをついていると自覚している時には、目の動きや発汗、その他の身体的な変化が生じてしまう。だから、まず自分をだますことができるなら、それは他人を信じさせる近道となる。

 こういった自己欺瞞の利益については、ロバート・トリヴァースが詳述している。彼は、遺伝的な違いから生じる親子間の心理的、行動的な葛藤をおそらく最初に指摘した進化理論の第一人者である。

 彼は一九八二年に、自己欺瞞が果たしてきたであろう、自分のウソを他人を信じさせる役割の重要性と、自己欺瞞の進化について議論した。自己欺瞞に関連して、私が面白いと思ったのは、彼の指摘する「社会理論」というもの全般についての見解だ。

「我々の全員が、社会理論を持っている。我々は結婚についての理論も持っている。例えば、妻と夫は、その片方が長い間耐えてきた利他主義者であって、もう片方がどうしようもなく身勝手であることに同意するかもしれないが、どっちがどっちであるのかについては意見が異なるだろう。私たち一人ひとりが、自分の雇用関係についての理論を持っている。私たちは搾取され、そのもたらす価値に比べてあまりに少ない給料を得て、低い評価しか得ていない(そしてそれは、仕事の出来を最小化したり、会社のものを盗んだりすることが正当化する)のか? 私たちは、通常、もっと大きな社会についても理論を持っている。豊かな人たちは、その他の人を犠牲にして自分たちの資産を不公正に増やしているのか? 民主主義は、定期的に主権者の力を再確認することを本当に許しているのか? 法律制度は、制度的に我々(例えば、アフリカ系アメリカ人)に不利益な偏りを持っているのか? これらの理論を考える思考力は、おそらく部分的には、我々の対人関係や、より大きな互恵的な利他的制度におけるごまかしを見破るために進化したのだろう。

 社会理論が、その語り手に都合がいいような偏りを持つことは容易に予測される。社会理論というものは必然的に事実の複雑な羅列を含むが、それらは非常に片面的に記憶され、ほとんど整理されていないものであるため、自己利益に整合的な社会理論体系の構築にとっては都合が良いのだ。矛盾は非常に遠くに隔たっていて、発見するのは難しい。」


 社会理論と呼ばれる複雑な心理的な防壁を構築することによって、ますます自己欺瞞は巧妙化して、見破るのが難しくなる。自由放任の経済を擁護するべきなのか、あるいは政府によって資本主義の労働者搾取は否定されねばならないのか。ベキダから始まる大規模な価値と信念の体系としてのイデオロギーを信じることは、必然的に世界の存在状態の認識に多大な影響を与えざるをえない。

 また我々の多くは、大きな善なる目的のためには日常の小さなウソのレベルにとどまらず、相当程度の悪であっても許されると考えがちである。これが行き着くところは、〈主観的に小さな悪〉が、客観的には重大な犯罪である殺人を含んでしまう。そういった犯罪行為は正当化されて、倫理的な自己検閲から完全に逃れることになるのだ。

 戦争時の虐殺などは、典型的にこういった状況に当てはまる。戦争に勝利するためには、多くの不必要な虐殺や嗜虐的な行為が繰り返される。それらはしかし、戦勝という大きな善を目指しているために、行為者本人にとって大きな倫理的な不協和を感じさせることはない。

 「歴史修正主義」と呼ばれる言葉があるが、現在のアメリカヨーロッパには「ナチスによるユダヤ人虐殺は存在しなかった」と主張し始めている人々がいる。日本でも南京大虐殺が存在しなかった、あるいは朝鮮併合などは朝鮮人の方から望まれていたという人々がもっと増えるだろう。

 私は15年ほど前に、南京大虐殺を記念する「抗日記念館」という施設を訪れたことがある。私は中国側が主張する30万人の及ぶ大虐殺というのは誇張である可能性が高いと思っているが、それでも千人、万人という程度の単位での殺戮行動が行われたことは疑っていない。

 少なくとも、大規模で組織的な集団虐殺はともかく、戦闘に際して一般人への、あるいは占領下の随所での暴行や傷害、殺人、レイプなどは頻発していただろう。つまり、平常時ならば犯罪である行為が頻発していたことは間違いないだろうということだ。

 ヴェトナム戦争時のアメリカでは、良心的懲役拒否という行為が初めて大規模に実践されたが、戦前の日本でそういった行為が許されたはずはない。私自身もその当時に召集されていたならば、「殺るか殺られるか」の状況に覚悟を決めて、民間人を含めた殺戮行為を行っていただろう。

 あるいはもっと小さなところでは、オウム真理教による地下鉄サリン事件がある。宗教国家を樹立するための教祖の命令は、彼らにとっての絶対的な大きな善であり、そのためには地下鉄での無差別殺人などは、些細な行為でしかなくなっていたのだ。

 事後的に彼らを非難することは、もちろん正当である。しかし、集団的な信仰が教団内に確立していた中で、実行犯人たちが命令に従わないという選択肢は、主観的には存在していなかっただろう。


政治活動というシグナリング・ゲーム

 自己欺瞞と関連して、私が常日頃から感じている不思議の一つは、多くの政治家が、なぜ対立政党の政治家たちを、あれほどまでに断定的、かつ悪しざまに批判できるのかということだ。それらのほとんどは、政治に直接関係のない単なる人格攻撃でしかない。

 誰にでも異なった信念や理想があるとは思う。しかし、ほとんどの政治家の対話というのは、実につまらない失言などを揚げ足取りしながら、個人攻撃に突入して、延々と道徳的な資質の質疑を繰り返す。私としては、もっと政策的な論議をしてもらいたいのだが、そういったことはあまり深くは行われない。明らかに、「誰が信頼できる人物なのか」という問いが最も重要視されている。

 これについてはしかし、私の方が例外である。多くの有権者は、政策レベルの考慮も重要だが、それよりももっと政治家への人間的な信頼を重視している。このことは、過去の多くの選挙結果からも明らかだ。

 政治活動というのは、自らの掲げる政策の望ましさを客観的に訴えかけるというよりも、いかに自分が人間として信頼に値するのかを競うという要素の方が強いのだろう。つまり政治とは、「私は信頼できる善良な人物であるから、皆さんに悪いことなどするはずがない」というアピール合戦だ。

 ほとんどの経済学者は、「重油の値段が高騰しているために漁民が補助を求めている」場合でも、その補助金というのは結局のところ、誰かから税金を集めなくてはならないことを理解している。その上で賛成するなり、反対するなりの議論をする。しかし、政治家は、常に自分の現在の票を支える政治的な援助はするが、そういった行為が長期的にもっと優先すべき課題を犠牲にするかもしれないことは無視する。

 もう一つの不思議なことは、政治家のだれもが「自分のやっていることが誰にとってもいいことだ」と断言することである。私は、長い間、これは単なる無理解、あるいは無知なのかとも訝っていたが、最近になってこういった行動はもっと本能に根ざした進化的に理由のある行動であることを理解した。

 政治活動に身を投じようとするような人々には、暗黙のうちに自分の主張する政策のいい面だけを考え、悪い面については無視できるようなメンタリティが必要とされる。もちろん、誰にもそういったご都合主義的な傾向はあるに違いないが、そういった自己欺瞞が強ければ強いほど、自分の活動への完全な自信と信頼、そして他人への強制を当然視することができるからだ。

 私のような極端な懐疑主義者は、象牙の塔に閉じこもっているか、せいぜいが人々に向けての文章を書いて「考えて納得してもらう」しかない。これに対して、「政治」とは他人に多くのことを「無理やりに強制する」ことだ。そういった行為を躊躇しないためには、自分の信念の絶対的な信頼と、それに伴う多様な自己欺瞞が不可欠な資質なのだ。

 私の父は、長い間、地方の小都市で市議会議員をしていた。小渕恵三首相の急死の後、密室での談合で、隣の石川県の衆院議員である森喜朗が首相になった時、彼は「こういう(森元首相のような)奴らは自分のやってることに何の矛盾も感じないで、よっしゃ、よっしゃ、とか言って、毎日、後援会の人たちと楽しく飲み食いできるんだな。そりゃ、すごいことだ。それも一つの才能だな」と愚痴をこぼしていた。

 さて、自分のやっていることのマイナス面を見ないという自己欺瞞のおかげだろう、政治家の多くは、ライバルの責任問題の追及については徹底的である。私は誰でもたたけばホコリの一つぐらいは出るんじゃないか、といった感覚で生きているが、こんな弱気な考えでは自分の道徳性の高さ、清廉潔白さは示せるはずがない。苛烈極まりない他人への口撃をすることによって、鳥やセミ、スズムシのように、有権者に向かって「自分は潔白ですよーー、信頼できる人物ですよーー」と常に歌わねばならない。

 これは生物学では、シグナリング・ゲームと呼ばれる。カエルの鳴き声について考えよう。低く鳴けるカエルは体の大きなカエルである。大きな体のカエルは当然にメスにアピールするために鳴くが、小さなカエルも鳴かないわけにはゆかない。もっと小さなカエルだと勘違いされないためには、鳴くしかない。

 政治もこれに似ている。相手を攻撃しない政治家は、どこかにやましいところがあるのかと勘違いされる可能性がある。それをなくすためには、結局、中傷合戦が行き着くところまで行かざるを得ないのだろう。

 私はこれは、本当にバカバカしい行為だと思っている。常識はずれであることを承知しながらも、私が無政府主義を支持することの、もっとも大きな利点の一つはここにある。政治家が毎日のように飽きもせずに行っている無意味で非生産的な、バカバカしい中傷合戦に代えて、彼らの持つそういった他人のあらさがしをするような高い能力は、もっと別の種類の、真に意味のある生産的な活動に振り向けることができるはずだ。

 これは政治体制の問題であるので、次章で詳しく論じよう。

 この章をまとめると、右翼的・左翼的思想をはじめ、人々は多様なベキダを信じている。それに応じて、信じたい、あるいは信じがちな世界の状態というものは異なっている。それが多様な対立と悲劇を生み出してきた。

 ルイセンコ学説のように、完全な誤りとして悲惨な結果をもたらした後に終結したものもある。しかし、対立の多くはそのまま現代に持ち越されて、人間の利他性から、資質の平等、道徳教育の効果、刑罰の抑止効果、さらには世界の危険性やあるいは新規事業の可能性に至るまでの多くの論争となっている。

 実在する世界は、人間の知性が容易に届く範囲内にはないという意味で十分に複雑である。だから、こういった対立は和解することなく、今後も続いてゆくことになるのだろう。

2009-06-19 ベキダ⇔デアル、4章

さて今日は「ベキダデアル」の4章をアップします。


これは僕が書いたものの中でも興味深い記述だと思うので、

自然科学社会科学の両方に興味がある人は、ぜひともご一読ください。

画像が抜け落ちてしまって申し訳ないですが、

別になくても、読めばどんなものが書いてあるかは自明です。


割と学術論文の引用も多いのですが、

参考文献は最終章の後に書いたので、

興味のある方は、すいませんが最終章を待って自分で確かめてみてください。


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4、右翼と左翼、タカハトゲーム

右翼と左翼の普遍性

 右翼・左翼という政治用語は、フランス革命の時代に始まる。議会の左側にジロンド派ジャコバン派などの平等を推し進めようとする平民派の代表が座り、右側には王に忠誠を誓う王党派が着座していたのだ。

 当時の政局は不安定で、国王ルイ16世は幽閉されて王権を停止されていた。その後のフランスが共和国となるのか、あるいは王国であり続けるのかすらも、誰にもはっきりとしていなかった。その後、王はオーストリアに逃亡しようとしたことから人々からの支持を失い、処刑された。

 また急進的なジャコバン派が政権を握り、粛清の嵐による恐怖政治を行ったことはよく知られている。彼らはキリスト教が王権と結びついてきたことをも糾弾し、キリストの生誕から始まるグレゴリウス暦に代わって革命歴を導入し、さらには「理性の宗教」という新しい信仰までも国民に強要した。

 それはつまり、「王家の伝統の維持というのはそもそも平等の理念とは根本的に相いれないものであり、キリスト教もまた同じ穴のムジナだ」とロベスピエールたちが考えたからだろう。彼らは、フランス人権宣言に謳われたように、人は自由、平等に生を受けているはずなのに、貴族や僧侶たちがその実現を阻んでいると感じたのだ。

 そこでの自由とは、キリスト教多種多様な戒律からの自由、封建領主の多様な権利からの自由であった。そして平等とは、王や封建領主である貴族と平民とが、少なくとも法律的には同等の権利を持つことを意味していた。

 こうした左翼勢力は急進的な社会制度の改革を指向し、右翼はそれに反対する勢力として、王政を支持し、キリスト教道徳を守ろうとした。こうした右翼・左翼の主張は、その後の政治的なコンテクストによって常に変化してきたし、あるいは国によっても相当に異なった主張を含んできた。しかし、その対立の中心には常に、右翼の現状維持的・保守的な価値観と、左翼の平等主義的・進歩主義的・改革的な価値観の対立があったことは間違いない。

 もっともこの二つの思想の対立が深刻化していた時代は、一九四五年から90年までのいわゆる「冷戦」の時代だろう。この時代の右翼の盟主はアメリカであり、資本主義と自由、そしてキリスト教を理念とする資本主義的自由国家であった。

 左翼の盟主は、現在のロシアとなっている、今はなきソヴィエトであった。マルクス・レーニン主義を掲げたソヴィエトでは、農業も工業も国営集団化され、資本主義に特有の不平等は、ある程度克服されていたといえよう。反面、体制に反対する芸術家や科学者はシベリア送りになったり、あるいは西側に亡命を余儀なくされた。市民の自由な表現は許されないまま、政治体制は共産党による一党独裁制であり続けた。

 その後、冷戦は社会主義国の崩壊によって消滅した。そして、国家レベルでの右翼と左翼の対立は、ベルリンの壁の崩壊して以降は、はるかに穏健なものになった。第二次大戦後の先進国では、右翼的な政党でも必ずある程度の福祉政策を推し進めているし、左翼的な政党でも産業振興を目的とする政策を持っているのが普通である。

 20世紀を通じて進展した資本主義先進国の福祉国家化によって、かつてに比べると右翼的な政党と左翼的な政党との間には大きな違いがなくなってきている。とはいえ、今もアメリカでは、共和党と民主党、フランスでは保守党と社会党、イギリスでは保守党と労働党、といったように、二つの異なる政治陣営はそれなりに明確な対立軸を持ちつつ、人々に政策を訴えかけ続けている。

 日本では、戦後長らく自民党対社会党という対立がはっきりしていたが、現在の2大政党である自民党と民主党では、その政策の保守・革新性、平等への訴求性などについての違いが明白ではない。おそらく左翼は小さな社民党や共産党であると考え、自民・民主の両方が右翼的であり、それらが思想的に対抗している考える方がすっきりするだろう。

 もちろん、日本の保守というのは天皇を中心とする価値観を持っているが、欧米の保守というのはキリスト教的な価値観を持っているなど、子細に見れば、数多くの違いがある。しかし、右翼的な思考とは、それ以前から存在してきた伝統の重視であり、保守的な態度であると考えれば、こういった違いは本質的にそれほど大きなものではないのだろう。

 詳しくは後述するが、社会進歩と革新、平等をモットーとしている左翼にしても、実際には民族主義的な感情は右翼と同じ程度に強く持っている。歴史的な中ソの路線対立をはじめ、日本の共産党の食料自給率の向上の政策に見られるように、左翼が必ずしも国際協調一辺倒というわけではない。

 とはいえ、心理学の調査にあるように、左翼の人々は右翼的な人々に比べて、新しい考えを積極的に評価し、平和主義的であり、現実世界に対して楽観的であるようだ。とするなら、国際的な平和の維持のためには、権威主義的な精神性を持つ右翼民族主義者こそが警戒されるべきだというのは真実だろう。

 ここで注意すべきなのは、当然のことながら、実際の人間の性格というのは実に複層的、多面的なことだ。それを右翼・左翼の1次元に回帰するというのは、過度の単純化であるという見過ごせない問題点が生じてしまう。ほとんどの人は、右翼に典型的な主張に賛同しているわけでも、典型的な左翼の主張のすべてに納得しているわけでもないだろう。

 しかし、ここでの主張は、そういった過度の単純化の持つ問題点を差し引いても、こういった1次元的なものの見方の傾向性は、人間の活動や思考において実在しているようだということだ。そして、それに従って歴史や社会の分析にも有用だということである。


タカハト・ゲーム

 さて、ここまで右翼と左翼の歴史について簡単に解説してきたが、そもそもこういった政治的な態度の対立があるのはなぜなのだろうか? 仮にどちらかの考えを持つ個人が圧倒的に有利であって繁栄するのなら、長期的にはそちら側の考えだけが集団内に存在することになるはずである。

 もちろん抽象的には、右翼・左翼という現在の政治的なスペクトラムは一時的なものであり、長期的にどちらか一方に収斂してゆく途上にあるのだと考えることもできる。その場合、将来の均衡点では一方の意見のみが社会の通念となる。

 しかし、前章で書いたように、犯罪を行わないという道徳規範でさえも、それを持たない個人が逆に有利になるという場面が考えられる。その利点があるために、サイコパスは常に我々の社会に存在し続けているに違いない。

 もっと一般的に考えれば、ある特定の行動戦略が、別の行動戦略を圧倒して追い払ってしまうという状況だけでなく、二つ以上の行動戦略が、社会で拮抗し、頻度的に均衡しつつ存在するという状況があることが想像できる。

 生物学でもっとも初期に発表され、現代でも有名な行動戦略の均衡理論は、一九七三年にイギリス人のメイナード=スミスとアメリカ人のジョージ・プライスによって『ネイチャー』上に発表された「タカハト・ゲーム」だ。

 彼らの論文は学術的なものであり、論文内の数値などはもっと抽象的であったが、以下に、具体的な数値を入れた簡略化されたタカハト・ゲームを示してみよう。


                タカ         ハト


  (−1、−1)

 (0、4)


  (4、0)


 (2、2)


 AとBの2個体がいて、4の価値を持つエサをめぐって行動する。タカ戦略は、発見したエサをめぐって戦う。ハト戦略は相手が戦いを挑んでくれば逃げるが、そうでなければ、エサを分け合う。表の読み方は、個体Aの行動戦略が表の上に書いてあるタカとハトによって示されており、Bの行動戦略は表の左側に書いてあるタカとハトで示されている。

 Aがタカをとり、Bもタカをとれば、相互に戦いをすることになって、4のえさを得るためにお互いが傷ついてしまう。その結果、双方が−1の利得(損失)を得る。Aがタカをとって攻撃するのに対し、Bがハト戦略で逃げるという場合は、左下のマスに表れている。この場合、Aは4の利得を得るが、Bは逃げるだけなので0の利得である。

 右上のマスを見れば、Aがハト戦略をとり、Bがタカ戦略をとる場合は、両者の利得値が反対になることがわかる。最後に、AもBも両方がハト戦略をとる場合には、戦いは起こらず、エサは均分されるため、ともに2の利得を得ることになる。

 確かに、お互いが必ずハト戦略をとるのであれば、それなりに満足できる2という利得を双方が得ることができるだろう。しかし、相手がハト戦略をとることが分かっているのなら、こっちとしては、タカを行ったほうが有利である。そして、相手にとってもこの状況は同じであるので、どちらにとってもタカ戦略をとるインセンティブが発生することになる。

 この場合、純粋にタカ戦略をとるか、あるいはハト戦略をとるのかといっても、どちらも相手の戦略によっていい時もあれば、悪い時もあるので、うまく決定できない。しかし、ここで、タカとハトの戦略を一定頻度で混ぜるという混合戦略を許すなら、確率的な戦略としての均衡解が存在する。

 少しばかりの計算をすると、タカ戦略を2/3の確率でとり、ハト戦略を1/3の確率でとれば、これがベストの戦略になることがわかる。このとき、タカ戦略とハト戦略の期待的な利得値はともに2/3となり、どちらの戦略をとっても有利になることはないからだ。

 ここでよくよく考えてもらいたいことがある。ここで仮にAとBの両者からなる社会の総利益というものがあるとしよう。その値は当然にえさの値である4であり、これは両者が常にハト戦略をとることによって実現される。タカ戦略というのは、相手を攻撃して利益を得るものであるため、それが衝突した場合には、両方に大きく無意味な被害が生じてしまうからだ。

 この意味で、わずかでもタカ戦略をとるものがいれば、それは社会の利益をどれだけか損ねることになる。それでも、タカ戦略をとることは、個体にとっては最適なのであり、社会の利益は、そのまま個人の利益となるわけではないのである。

 さて、ここで示される均衡戦略は、進化ゲーム理論においてESS(Evolutionary Stable Strategy=進化的安定戦略)と呼ばれる。仮にタカハト戦略の比率を変えて挑戦してくる個体があったとしても、それに対しても期待的な利得において優越しているため、長期的に必ずこの点が均衡点として実現するという性質を持っている。

 このようなタカハトゲームでは確率的な混合戦略が均衡解をもつことは知られているが、必ずしもすべてのゲームがESSをもつわけではない。あるいは、ゲームの性質によっては、どちらか一方の行動だけが支配的になるということもある。タカハトゲームはこの点、安定な均衡を実現するため、社会内に複数の行動が安定的に存在する場合の、ベンチマーク的なモデルとなっているのである。

 私がここで生物学のタカハトゲームを例示したのは、人間社会の右翼と左翼がこれと同じような状況にあるのではないかと考えているからだ。つまり、どちらもがそれなりの利点と欠点をもって、拮抗対峙している状態なのだろうということである。

アドルノのFスケールと右翼の利点

 私がいつも政治的な論争について感じるのは、政治的な主張である右翼・左翼の思想についてどれだけあれこれ議論しても、ほとんど常に水掛け論に終わってしまうということだ。実際には、その主張者に対しての、直接的な個人攻撃に終始することがほとんどのようでもある。

 そういった繰り返される無意味な人格攻撃はさておき、このことをもう少し実証的に検討してみよう。まず右翼的、あるいは左翼的な人物たちの人格的な特徴がどのようなものであるのかを、心理学の研究から考えてみたい。

 第二次世界大戦における、ナチスのホロコーストは多くの知識人に強い影響を与えた。後に『啓蒙の弁証法』を著してその名を世界に知られたテオドール・アドルノは、大戦中にフランクフルト大学からアメリカバークレーに逃れていた。ユダヤ系の社会哲学者であったからなのだ。アドルノアメリカ滞在中に、ナチスに協力したドイツ人の人格に関する『権威主義パーソナリティ』という著作を著した。

 その中で、ファシズムに傾倒しがちな人格、つまり右翼的な人格特性の判断尺度として、Fスケールを提唱したのである。後によく知られるようになったアドルノの思想が非常に抽象的であることからすると、こういった具体的・客観的な精神尺度の作成というのは、彼の業績としては、まさに異色である。

 このFスケールは全部で三〇問からなり、それらに対して「ひじょうに反対する」から「ひじょうに同意する」までの6段階で答える。「ひじょうに反対する」が1点で、「ほとんど反対する」が2点、「ある程度反対する」が3点、「ある程度同意する」が4点、「ほとんど同意する」が5点、「ひじょうに同意する」が6点、として配点がなされる。

 以下に、日本人への単純な質問としても比較的に適切なものだと思われる、最初の一〇問を抜き出してみよう。

1、権威への服従と尊敬は、子どもが学ぶべき最も重要な美徳である。

2、態度や素行、出自のよくない人々は、品位ある人たちとは一緒に暮らして行けない。

3、もし人々がおしゃべりをもっと減らして、もっと働けば生活はより豊かになる。

4、ビジネスマンや生産者というのは、社会において芸術家や大学教授よりもはるかに重要である。

5、科学は重要だが、人間の理解を超えた重要なことがたくさん存在する。

6、どんな人間でも、当人が疑問を感じることなく従ってしまうような超自然的な力に対しては、完全な信頼を持つべきである。

8、法律や政策などを超えてこの国がもっとも必要としているのは、人々が完全に信頼することのできるような、勇気があり、精力的で、献身的なリーダーである。

9、普通の正気でまともな人は、友人や親せきを傷つけようなどとは夢にも思わないものだ。

10、苦しみを通じてのみ、本当に重要なことを学ぶことができる。

11、若者にもっとも必要なことは、厳しい訓練と深い決断、そして家族と国家のために働き、戦う意志である。

さらに質問は続いてゆくのだが、これだけでも、これらの質問に対して非常に強く同意する人たちとは、保守的であり、権威や秩序を重視するタイプであることが了解されるだろう。

 アドルノ自身は、エーリッヒ・フロムその他の精神分析的の研究者から影響を受けて、このような人格は、権威に対する依存と自我の未発達によって起こると主張した。これは、いかにも当時流行っていた精神分析的な説明といった風である。

 しかし、私は精神分析という学問領域自体が、科学史上の重要な知的空想だったと考えている。よってここでは、この本の主題に沿った形でアドルノのFスケールを再解釈することにする。つまり、進化理論、ゲーム理論的な意味において、社会において保守的・権威主義的であることは、個人的レベルでの利点を持っていると考えるのだ。

 すでに社会内に強固なヒエラルキーが存在している場合、それを尊重し、上位者に認められて、その権威を維持・利用する立場につこうとすることには、明らかな合理性がある。例えば、伝統芸能の世界、あるいは各種の学会では、上位者の常識を理解して実践することは、出世においてほとんど不可欠な要素である。これが権威を無批判に受け入れ、それに従うという権威主義的な態度の下地となるのだろう。

 また、自分が慣れ親しんだ習慣や考え方が大事なのだと感じることにも理由がある。これまでそれなりに機能してきたものである以上は、それは受け継がれて当然であり、新しいものを試すのを嫌うこと自体が価値を持ち得る。これは、生活態度全般における保守的な態度と結びつくだろうし、あるいは自分と異なる人々に対する忌避感、よそ者嫌いにつながる。

 Fスケールには、これに直接的に関連する質問群がある。

16、同性愛者は犯罪者とほとんど同じものであり、強く罰されるべきである。

26、人間の本性が同じである限り、戦争や紛争はなくならないだろう。

28、今日では、これほどたくさんの異なった人々が行き来し、国際結婚しているのであるから、そういった人たちからの伝染病に対しては特に注意する必要がある。


 現代の常識からすると28番は少し奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、20世紀の医学が登場する以前は、感染症は常に人間にとって死亡原因の第一の地位を占めていた。中世や近代の歴史を見れば、中緯度にあるヨーロッパや日本でも、天然痘やマラリア、麻疹、結核、コレラ、ペストなどが大流行していることがわかる。このことからすれば、よそ者は自分に危害を加えると考え、生来的な危険を感じるのは、今の常識から考えるほどに不思議な発想ではない。

 また別の例を引くなら、日本人や韓国人が恐れている、アメリカ産牛肉のBSE問題がある。日本国内の牛からもBSEは見つかっており、そのために中国政府などは日本産の牛肉を輸入禁止にしている。それでもほとんどの日本人は、自国産の方が中国産よりも食品全般に関して安全だと感じている。

 こういった排外感情というのは、理性的なものというよりは、ほとんど裸の本能そのものだ。ヨーロッパや日本の遺伝子組換え作物の輸入禁止を始めとして、ほとんどすべての国でこういった「国産品」消費運動が存在するのである。

 あるいは、そういった国産主義は〈スローライフ〉という精神主義的なスローガンをとることもあるし、もっと物質主義的に安全性を掲げる場合もある。どちらにしても、こうした左翼的な環境主義者の主張でさえも、安全性についての科学的な懸念というよりは、実のところは単なる排外主義であることが多い。外国で暮らしていた私にとっては、こういったことは驚きであり続けている。

 ちなみに私は、26番には「ある程度反対する」というほどの態度だが、16番には「ひじょうに反対する」し、28番にも「ひじょうに反対する」。私の場合、平均スコアは約2.5であったが、これは権威主義からは相当に離れている。それでも私の選好を個別的に見れば、例えば「犯罪に対する厳罰主義」などは極端な権威主義者と同じであったのは興味深い。ネット上にもFスケールを図ってくれるサイトがあり、参考文献に示したので、読者諸氏にもぜひとも試してもらいたい。

 さて、保守主義というのはある種の生活戦略である。〈保守〉というのはそれまでに続けてきた生活態度を継続することであるから、実際の具体的な生活態度としては、時間と空間によって異なった生活態度を意味することになってしまう。

 日本に生まれれば、保守というのは天皇への忠誠であっただろうし、ヤオロズの神への信心でもあっただろう、また今でも神社やお寺への参りを意味するに違いない。西欧諸国では、教会での祈りを意味するだろうし、イスラム諸国ではモスクでのメッカに向かっての祈りになるだろう。

 当然ながら、よそ者嫌いの意味は中国人と日本人では、相互に相手への差別や侮蔑を意味する。あるいは現在の日本の保守というのは地方の農家に多いかもしれないが、30年後に農家が激減してしまうとすれば、あるいはその時の保守というのは都市住民となるかもしれない。あるいは今後、有機農業をするために都市から地方に移り住む人たちが農村を支えるのであれば、――私はこのシナリオをあまり信じていないが―― 地方の住民はむしろ革新的なメンタリティを持つようになるかもしれない。


民族主義と遺伝的近似性理論

 右翼といえば、保守であると同時に、自民族中心主義であることも常識となっている。共通の神話や文化を持つロマン主義的な民族主義の高まりは、19世紀以降、多くの国々での独立戦争につながってきた。

 現在においても、中国を支配する漢民族とは異なった民族が多いチベット自治区やウイグル自治区では、独立運動が盛んで、テロや暴動が発生してする。ロシアでも、アブハジア自治区、さらにグルジア内には南オセチア自治州などで、多くの紛争事件やテロリズムが続いている。

 一九九〇年代は、旧ユーゴスラヴィアの解体に際して、セルビア人勢力による多くの集団虐殺や民族浄化が起こり、すでに戦争を長らく経験していないヨーロッパ人を驚かせた。アフリカでも、ルワンダのツチ族とフツ族の対立が起こり、鉱物資源をめぐる内戦はシエラレオネアンゴラでも悲惨な状況を現出した。スーダンの南西部ダルフール地方では、今でもアラブ系、アフリカ系の紛争が続いている。

 こういった民族という概念は、一般には純粋に歴史的・文化的なものだと考えられることもあるが、多くの場合はヒト集団内の遺伝子頻度の差として記述することができる。遺伝学者のカヴァルリ・スフォルツアの研究によれば、民族区分と関係の深い言語区分もまた、集団の遺伝的な勾配と相関関係がある。

 これはある種当たり前のことで、人間は昔から集団を作って生活してきたのだから、互いに利益が衝突することは避けられなかっただろう。その場合、戦争をすることもあれば、同盟関係によって助け合うこともあったはずだ。遺伝的に類似した特性を持つ人々は、その祖先を共通にする可能性が高いのである。当然、言語も似ていることが多く、体の物理的な特徴も似ている結果、仲間としてふるまい行動は進化するだろう。

 純粋に遺伝子の視点から考えれば、自分が作り出した個体と似ている個体は、自分と同じ遺伝子によって作り出されたものである可能性が高い。よって、単純にそれだけの理由から、彼や彼女を助ける必然性が生じるのである。

 例えば、日本人とは、朝鮮半島中国大陸沿岸部から渡ってきた人々と、それ以前に住んでいた縄文系の人々が、およそ二〇〇〇年ほどをかけて混血してできた民族である。25年で1世代が経過してきたとすると、わずか五〇〇年前の私の祖先の数は2の20乗、つまり百万人になる。つまり、その4倍の二〇〇〇年とは、ほとんど完全な混血に十分な時間の長さなのだ。歴史時代に日本に入り込んできた移民の数の少なさを考えると、日本人はなるほどある程度の民族的な一体感となっているといえるかもしれない。

 それでも遺伝子研究を仔細にみると、九州北部から瀬戸内、畿内から琵琶湖沿岸にかけての日本人は、朝鮮半島南部の人と近縁であるようだ。おそらく彼らが弥生人の血を強くひいており、東海以東の縄文人の遺伝子頻度とは違っているのだろう。九州南部や東北、飛騨などでは縄文頻度がより高く、沖縄やアイヌはもっと縄文人の原型に近いようだ。

 遺伝子だけを重視するというわけではないが、朝鮮半島の人々や中国大陸の人々と日本人の遺伝子頻度には、それなりの統計的な差が存在する。日本人を作り出している遺伝子の立場からすれば、日本人はともに助け合うべきだ。それによって、自分という遺伝子の増殖率が上がるだろうからである。

 どんな人でも家族、特に自分の子供をヒイキ目に見るし、あるいは親戚びいき=ネポティズムも広くどのような社会にも見られる。それをもっと広範な集団レベルにしたのが、自民族中心主義だ。

 こういった考えは、19世紀のダーウィンからスペンサー、最近ではエドワードウィルソンに至るまで、多くの理論家が指摘してきた。彼らの指摘の通り、最近のプローミンなどによる双生児研究によれば、養子のきょうだいよりも、生物的なきょうだいの方が、よく似た人格の友人とつきあっているのだ。

 例えば、ハワイでの異なった民族間の婚姻を扱った調査によれば、そうした異民族間のカップルは同じ民族間のカップルよりも人格的に似ているという。また、カナダの心理学者フィリップ・ラシュトンたちの研究によれば、友人同士や配偶者同士は血液型タイプの遺伝的な類似性が、通常の関係よりも有意に高い。

 つまり、人間は自分に似た遺伝子を持つ異性と配偶関係にあることが多いのである。このように、似た者同士が結婚しているという現象はアソータティヴ・メイティング(同種配偶、同型配偶)と呼ばれる。典型的な例としては、背の高い男女はともに一緒にいることが普通だし、学歴の高い男女は一緒になっていることがある。こういった程度のことは、おそらく誰にとっても明白だろう。

 もっと興味深いのは、より詳しい研究によれば、こういったアソータティヴ・メイティングの度合いは、言葉遣いや慣習のように環境によって変化しやすい性質よりも、論理や空間認知などのように遺伝性の強い性質についての方が、より高いことだ。おそらく、我々の好みというのは、我々を作り出している遺伝子の繁栄にとって都合が良くなるように、遺伝的な資質から無意識のうちに大きな影響を受けているということなのだろう。

 しかし、こうした同類好みにはその代償もある。動植物の近親交配は、悪性の劣性遺伝子のホモ結合につながることも多いため、過度に近親度の高い配偶は好まれないのが普通だ。例えば、親子や兄弟の婚姻は、古代エジプト王家のような例外を除いて、ほとんどすべての社会でタブーとなっている。

 戦前の日本や、あるいはいくつかの太平洋の島々では、あまりにも近すぎないが完全なよそ者でもないということで、イトコ婚が好まれたようである。イトコ婚の慣習については、実際に私の親戚でも、かつてはそういう例があったと聞いている。

 しかし、統計の発達した現代の遺伝学の知見からすると、イトコ婚では精神遅滞などが発生する頻度がどれだけか上がってしまうことになる。また、身体的にも虚弱であったり、身長が低かったりすることも多い。つまりイトコ同士の近親度では、個体のレベルでの適応度を、統計的なレベルではあっても、平均よりもわずかに下げてしまうということなのだ。

 よそ者嫌いからは近親交配が引き起こされ、近親交配が不利益を持つとしよう。その場合、その不利益は何によって補償されてきたのだろうか?

 ヒトの男が集団で戦争を行い、常に集団間で相互に殺りくを続けてきたことを考えると、戦争の頻度が高ければ高いほど、よそ者嫌い、あるいは自民族中心主義によって強い結束を誇る大きな戦闘集団は有利になる。

 おそらく、我々は自民族中心主義によって発生する近親交配の不利益を、戦争での結束の強さによって打ち消したのだろう。また、遺伝的にまったく違った相手との戦争では、似た者同士の戦争よりも、さらに敵を強く憎しみ、冷酷かつ残虐になれたのに違いない。

 ヨーロッパ人は中世以降、アフリカ人を奴隷として利用してきた。しかし私の知識では、古代ギリシア時代以降、ヨーロッパ人自身は互いに奴隷にし合っていたということはない。誰でも自分と異なる特徴を持つものであればあるほど、相手への共感を容易に失い、人間ではなくモノとして扱うことができるのだろう。


新奇性の追及と左翼の利点

 右翼の本質は、変わらない生活を望むという保守主義である。ニューヨーク大学のジョン・ジョストを中心とする最近の心理学的な研究によれば、その反対に、左翼の本質は〈新しいものやことへの興味〉にあるという。

 心理学では、人間の人格の5大特性として、1、新奇性の追求=開放性、2、勤勉さ、3、内向性・外向性、4、協調性、5、神経質的傾向、をあげることが普通である。左翼的な人々とは、つまり進歩主義的な人なのだが、ジョストらの研究によれば、進歩主義者は新奇性の追求を好む傾向がある。つまり、科学的にも政治的にも新しい概念や制度に対して、より寛容で開かれた心を持っているのだ。

 こういった知的な好奇心が持っている利点は、現代のような知識産業が重要な社会では説明するまでもないが、過去の人間の生活においても明らかだ。それは、新しい食べ物や薬を発見したり、あるいは新世界への移住を可能にしたはずだからである。

 過去と同じことを繰り返していたのでは、新しい知識は得られないし、居住可能な空間も、いずれは人でいっぱいになってしまう。そこで、新たな知識を獲得して食糧を増産したり、あるいは新天地への移民などを可能にするようなメンタリティは、過去の人間の歴史の中で十分な利益を当事者にもたらしたに違いない。

 また進歩主義的な人は、複雑な事態をそのままに理解しようとする傾向を持つのに対して、保守的な人は単純に善悪の二元論に分けようとする。こうした心理特性の差はまた、大学卒業後の研究を望むかどうかにも影響を与えるようだ。

 アメリカの大学の知的な風土では、教授や大学院生には進歩主義者が多いといわれている。これはおそらくすべての社会に当てはまる性質だろう。知的な興味が高く、複雑なことをもっと知りたいと思うような人格は、過去の制度に拘泥しない精神性を意味している。

 企業文化についても、これは当てはまるだろう。グーグルサン・マイクロシステムズを始めとするシリコン・ヴァレーの企業の多くには、スタンフォード大学からスピンオフしたという経緯がある。そのため、全体に進歩主義的な企業カラーを持ち、スーツを着る必要がないというように、ドレスコードも緩やかである。また、グーグルの研究者のほとんどが博士号をもっていることや、創始者ラリー・ページが太陽光発電風力発電に積極的なことなどはよく知られている。こういった企業風土は、本当にアメリカ大学院生の作り出した企業といった感がある。

 左翼主義者たちが、新奇性の好きな人たちであるというのは、多くの人にとって納得できるだろう。しかし、左翼的人格の持ち主は、社会での平等を重視するという調査結果も同時にはっきりしている。

 保守的・権威主義的な性格とは、すでに存在する社会階層をそのまま批判することなく受け入れ、その階段を上ろうとするメンタリティである。既存の社会階層を承継しつつ、その階段を昇るという方法がオーソドックスなものであるのは誰にとっても明らかだが、その代償には遅すぎる昇進があるだろう。あるいは予想通りに昇進しつつあったとしても、大願成就する前に事故や病気で死んでしまうかもしれない。

 これに対して、左翼の特徴は、そういった階層状態の存在そのものの懐疑であったり、あるいは価値的な完全否定なのである。戦国時代でも、織田信長のように実力が伴っていて幕府の権威を否定すれば、少なくとも実力を高めるのにはてっとり早い。彼は天皇の権威まで否定しようとしたために明智光秀に殺された。これも事実ではあるが、一般に明白な実力者にとっては、既存の権威の否定はより迅速な昇進を可能にするだろう。

 これは学問の世界でも同じである。老教授のいうことを聞いて、カバン持ちをしているような研究者も多いのは事実だ。だが、まったく新しい発想を花開かせることができるような実力を持つ学者の方が、最終的にはその影響力を高めることもまた、頻繁に起こっている。指導教授と同じことを手堅く行うか、あるいは新しい考えに賭けてみるかは、本人の能力や、その世界における抽象的な成功の機会に頻度依存する行動戦略だと考えられよう。

 現代世界の政党政治の枠組みでは、既存の権威への批判とは反資本主義的なものになるのだろう。先ほど紹介したFスケールを考案したアドルノホルクハイマーハーバーマスたちとともに、フランクフルト学派を隆盛に導いた。その「批判理論」はマルクスの影響を受けたものであるが、戦後の西側諸国での反資本主義的な学生運動に大きな影響を与えたことは広く知られている。

 既存の社会階層への懐疑や批判は、多くの場合、偶然の要素を重視することにつながり、結果の平等主義につながるのかもしれない。その反対に、社会階層が本当の実力によって完全に裏打ちされた合理性を内包したものであるなら、そういった社会秩序に対する批判は弱いものになってしまう。

 社会構造に批判的な考えを持つ人は、政治的な主張としては、現存の秩序の理不尽を訴え、平等主義を掲げるべきだろう。それによって、現在の社会構造から不利益を被っている人たちからの支持を取り付けて、自分たちがリーダーになるのが賢明だ。

 政治構造の中で主流派を形成している人たちは、その状態に満足しているだろうから、保守となる。これに対して、少数派を形成している人は不満があるだろう。そして、少数派も複数の流れを集めれば、むしろ多数派を凌駕する数になることは多い。だから、平等主義は、政治的な多数派に対するアンチ・テーゼとなる。よって、既存の体制に批判的な人には、平等主義を掲げる実際的な利点がある。

 もちろん、私は進歩的な知識人が、意図的に平等主義を選択しているとまで主張しているわけではない。そういうことも実際には多いのかもしれないが、私の興味は常に、進化的な時間軸での、人間心理と行動の発達にある。知的に開放的な個人は体制に対して懐疑的であり、同時に平等主義的な思想を持つとするなら、進化によってこれらの二つの性質を一緒に発達させるような個体の方が、そうでない個体よりも有利だったからに違いない。


遺伝的多様性と雑種強勢

 保守的な思考は、よそ者嫌いの感覚をうみ出してネポティズムによる有利性をもつ。その反面、新しい物好きな人々は、異なったタイプの人と結婚したりすることを忌避しない。そのため、病原菌に対抗するための、ヒト白血球抗原(HLA)のタイプの多様性を獲得してきたはずである。

 HLAタイプとは、ヒトの免疫タイプであるが、これは、もっと一般的に脊椎動物が持っている免疫タイプと同じものである。通常、血液型はABOの赤血球タイプによる分類がもっともよく知られているが、赤血球の代わりに病原菌などの外敵に対抗する白血球のタイプがHLAタイプなのだと考えれば分かりやすいだろう。

 ヒトのような大型の動物の進化の歴史は、同時に病原菌との闘いであった。そのため、HLAタイプは、チンパンジーやゴリラと共通の祖先をもっていた一〇〇〇万年以上前にも遡ることができるほどである。つまり、我々の共通祖先の時代にはすでに、同じように異なったHLAタイプが存在していたということである。

 病原菌耐性の重要性は、例えばコロンブス以降の、ヨーロッパ人のアメリカ大陸移住の結果に明らかである。ユーラシア大陸の多様な病原菌がアメリカ大陸もたらされた結果、アメリカインディアンの多くが新たな病原菌に耐えられず、その人口は実に10%にまで激減してしまった。

 ジャレッド・ダイヤモンドによる名著『銃・病原菌、鉄』によれば、「二千万人だったメキシコの人口は、天然痘の流行によって一六一八年には百六十万人にまで激減していたのである」という。

 また彼は続けて、

 「私が子供の頃、アメリカの学校では、約一〇〇万人のアメリカ先住民が北米で暮らしていたと教えられていた。そうだとすれば、ほとんど無人状態だった広大な土地に白人が住みついたということになる。一〇〇万人は、白人によるアメリカ大陸の制服を正当化するには好都合な数字だった。しかし、最近の遺跡の調査研究の結果や、初期のヨーロッパ人探検家が残した沿岸地方の記録は、当時のアメリカ大陸には約二〇〇〇万人の先住民が暮らしていたことを示唆している。コロンブスアメリカ大陸発見以降、二〇〇年もたたないうちに、先住民の人口は九五パーセントも減少してしまったことが推定されるのである。」

と記している。

 同じように、コロンブスが来た時には八〇〇万人もいたハイチとドミニカの人口は一五三五年にはゼロになっている。フィジー諸島では麻疹によって四分の一が死亡しており、ハワイでも梅毒、淋病、結核、インフルエンザ、腸チフスなどによって五〇万人が八万四〇〇〇人へと激減しているのだ。

 ユーラシア大陸は広く、牛や豚、アヒルや鶏など、多くの家畜がいた。人口が増えて、ヒトが都市に稠密に生きるようになると、それぞれの家畜に固有の病原菌が突然変異を起こし、ヒトに感染するようになった。こういった病気は、麻疹、結核、天然痘、インフルエンザマラリアなど、ヒトの生死にとって重要な病気のほとんどを占めている。

 ユーラシア大陸では、一万年以上にもわたって、こういった病気の散発的な流行を通じて人々は病原菌体制を得てきた。しかし、アメリカ大陸や、大陸から隔離されていた諸島域では、ヨーロッパ人によって突然もたらされた病原菌によって、人口の大部分が失われたということなのだ。

 ヒトの病原菌耐性や、それを支える遺伝的な多様性のもつ重要性は、ワクチンが開発されている現代に生きる我々が今日感じているいる以上に大きかったのだ。よそ者との結婚には重大な利点があり、異なった文化や人々への興味や憧れは、新しい物好きとなって我々の心に根付いているのだろう。

 人間は、自分と異なったHLAタイプを好むという実験もある。「Tシャツ実験」と呼ばれる有名な実験では、女性に男性の着たTシャツに臭いを嗅いでもらい、それを好ましいかを評価してもらった。女性が好む匂いは、自分とは異なったHLAタイプの男性の臭いであった。

 このことは、少なくとも免疫に関しては、人間は自分と異なったタイプの人に惹かれることを示している。それは進化の過程で、子どもの免疫の多様性を高めると言う意味で有利であったからであろう。

  こういった病原耐性という理由のほかにも、系統の大きく異なる集団の混血の子どもは、ヘテローシス(雑種強勢)の利益を受けているはずである。

 前述したように、過度の近親交配は、不利益な遺伝的劣性遺伝形質のホモ結合をまねくことが多いため、有害であることが多い。これに対して、育種学から明らかになっているように、異なった系統の交配によって、親世代よりも大きく、強く、病原菌耐性の高い子ども世代を作ることができることが多い。

 これはヒトに対しても、当てはまるはずである。混血の個人は、大きく異なった系統から来た有益な対立遺伝子を持っている可能性が高いため、より快活で、各種の疫病に対して耐性が強いだろう。

 私は、ヒト集団におけるヘテローシスについての論文を読んだことはない。しかし、前述したようにイトコ婚などの近親婚にはマイナスの遺伝的な影響があることからは、混血の場合にはヘテローシスが生じていることになる。

 例えば、黒人初のアメリカ大統領に選ばれたバラック・オバマは、父がケニア人、母がスウェーデンアメリカ人であり、遺伝的には白人と黒人のハーフである。彼はハーヴァード大学のロー・スクール在学時代に、名誉あるハーヴァード・ロー・レヴューの編集長を務めている。

 また、ゴルフのタイガー・ウッズもまた、アメリカでは広く黒人というくくりで表現されるが、彼の父はアメリカの黒人であり、母は中国系のタイ人であることからすると、相当に多様な集団の混血である。多くの記録を塗り替えつつあるその強さは、ある程度ヘテローシスから来ているのかもしれない。


保守的な性生活 VS 性の解放

 保守主義に典型的な主張によれば、特定の異性に対してのみ性的な関係は持たれるべきものであるだろう。また、おそらくホモセクシュアルについては、多くの保守主義者は否定的だろう。配偶相手を限定するというのは別にアジアなどに限った話ではなくて、キリスト教を基調とするヨーロッパ文化でも同じであるし、ホモセクシュアリティについては日本以上に偏見がある。

 日本の芸能界では、おすぎとピーコや、槇原則之、刈谷崎省吾、IKKOなど、非常に多くがゲイであることを事実上公言して、女性的なトークによって人気を博している。しかし、西洋文化でそういった人々が好感をもたれるかは大いに疑問である。

 さて 戦後のアメリカでおこった興味深いリベラリズム運動の中には、女性の解放、黒人の解放をはじめ、様々なものがあった。その中には「性の解放」を謳ったフリーセックス・ムーブメントもあった。今では単なるエロ本のイメージ以上の認識を持っている人はほとんどいないかもしれないが、『プレイボーイ』などの雑誌はそれなりの高尚な政治的な背景を持って生まれてきたのだ。

 そういったアメリカ的な意味での「リベラル」な論者によると、性的な抑圧というのは本来的に無意味な禁欲主義であり、性的にもっと開放的に生きることは、人間的なのであり悪徳などとされるべきではないという。キリスト教道徳その他のほとんどの宗教では、禁欲的であるというのは重要な徳目であるから、これは反宗教運動であっともいえるだろう。

 こういった性の解放運動は、現代の科学的な視点からはどのように考えられるのだろうか?

 前述したように、保守主義というのはつまり同類同士での繁栄を確保し、よそ者を排除しようという考えである。このライフスタイルからすると、もともと子孫の多様性を求める必要性は低いために、多人数との性交渉は感染症の危険を持つリスキーな行為だということになる。

 とすれば、比較的に多人数との性関係は持たないようにするべきだろう。おそらく、こういった繁殖戦略の違いが、保守主義者が性的に禁欲的で、開放的な性生活を〈堕落〉であるとみなす心理的な傾向を生み出しているのだ。

 私は自由主義者なので、自分がかかわるかどうかは別にして、少なくとも高校生以上が援助交際することであっても、合意があれば構わないと考えている。当然に大人の関係については、金銭取引があっても、あるいは同性愛でもまったく問題はないと思う。

 しかし、不思議なことに、自由の国だと思われているアメリカの多くの州では、売買春は禁止されている。これはキリスト教的な保守主義者が、売春行為や同性愛行為が社会にはびこることを望まないためである。

 ちなみに同性愛者の男性では、その性交渉の頻度は極端に高く、かつ、不特定多数の異なったパートナーと関係を持つのが普通である。これは、異性愛の通常人の多くにとっては、想像できない人数になる。この意味では、彼らがエイズなどの性感染症に高い罹患率を持つのは必然的だ。

 昔から人間社会には梅毒、淋病、ヘルペスやエイズまで、多くの性感染症が存在してきた。夫や妻などの長期的な配偶関係から行きずりの関係まで含めて、社会における性交渉が頻繁であればある程、自分の罹患リスクも上がり、繁殖能力にも問題が出る可能性が高まってしまう。

 だとすると、できるだけそういった開放的な性生活をしないように人々に強制するのは、だれにとっても自分に有利になる。ある意味で、性感染症の蔓延とは、囚人のディレンマ状況なのだといえるだろう。皆が禁欲的であれば、社会全体として大きな利益が享受できるが、個人がこれを順守することには小さな不利益を伴ってしまう。これが保守主義者の性道徳の押し付けが、道徳として他人に押し付けられる理由なのだ。

 さて、リベラリズムとはつまり伝統的・宗教的な権威への挑戦でもあるのだが、現代のように性感染症のほとんどが撲滅された社会では、不必要な性的禁欲を強いている社会勢力への挑戦ともなる。これがフリーセックス運動だったのだ。

 ところで、男性は多くの女性と関係するすることを望むが、一般に女性はそうではない。妊娠することによって子育ての不利益を受け持つのは、主に女だからである。また女はあまり数多くの男と関係を持つことよりも、育児を助けてくれそうな、あるいは遺伝的に優れた男と関係を持った方が有利となるからでもある。

 これは、できるだけ多くの女に、自分の子供を産んで育ててもらいたいという、男の究極の欲求とは一致しない。フリーセックス運動は現在では完全に消滅したが、それは男女に同じように一致した精神的な利益をもたらさなかったからだ。

 リベラルな人は新奇性を求める傾向があるため、自分と違うタイプの人をあまり避けたりしない。また、おそらく遺伝的な多様性を持って、疫病に対処してきたタイプであると考えられる。だから、傾向的にはより多くの性的なパートナーを持っているだろう。

 後述するように、ドーパミン・レセプターD4DRの繰り返しが多い遺伝子を持つ人は、新奇性を追求する度合いが高い。そして報告によれば、そういった人たちはより多くの相手と性交渉ををもっている。

 それだけではない。同性愛の男性でも、5-6倍の頻度で異性とも性交渉をしているのである。こういった性活動の多様性は、当然に保守的な道徳とは対立するし、西洋医学とワクチンが発達する以前は性感染症のリスクを高めていただろう。

 現代でこそ、禁欲的である必要性はまったく存在しないかもしれないが、人類の歴史を通じて、禁欲的であることには感染症リスクの低減という利益が伴った。我々の生得的な心理機構は、環境が激変しても、わずか一〇〇年では大きく変わらないのだ。

 また、保守的な人々は離婚を経験した人に対して、〈離婚経験者〉のラベルを張って、それを望ましくないと考えがちだ。対してリベラルの発想では、壊れた関係を続けるよりも、新しい関係を探した方がずっと健全だと考える。

 ちなみに、この考えは典型的に現代アメリカ人の採用する考え方である。だが、こういった規範面からの認識の違いは、母子家庭の子供への共感や同情などに対する態度の違いも生むことになっているに違いない。

 同じことは、エイズなどの性感染症についても当てはまる。血友病に起因するエイズ患者などを除けば、おそらくエイズ患者への偏見は、保守的な性道徳を持つ人々の間ではほとんど必然的なものだ。なぜなら、エイズ患者の多くは、結局、自発的なリスク行為の結果として感染している。保守的な認識からすれば、そこには偶然の要素もあるが、つまるところは自分の行為の結果なのだ。自分で責任を取らなければならないことになる。

 一言付け加えるなら、これは論理の半分でしかない。例えば、スキーやスケート、その他ほとんどすべてのスポーツには、多様なリスクがある。そういったスポーツから障害を負い、身体障害者になったとしても、保守主義者はエイズ患者に比べれば、はるかに同情的だろうと思う。

 つまり保守主義者には、、まず最初に性的な活動への禁忌意識というものがある。それに違反した結果、不利益を被ったというのは、当然の報いであっても、同情の余地などないということなのだ。

 繰り返しておくが、私は自由奔放な性活動にも、取り立てて指弾すべきような道徳的な問題はないと感じている。人は皆、自分が選んだ価値観にしたがって生きればいい。他人にプライベートなことの作為・不作為を道徳的をベキダをあてはめるのは、余計なお世話であり他人の自由への越権行為というべきである。

 最後に、性というデリケートな問題を論じるときの常として、大いに注意してもらいたいことがある。それはまず、ここでの議論がひじょうに小さな傾向的な差について語っているという点である。本書で論じているのは、小さな、しかし統計的に優位な差異であり、ステレオタイプ的に人へのレッテル貼りまでも正当化するものではない。

 次に、そもそも性的に開放的な人々への社会的な軽蔑があるとするなら、それ自体が再考されるべきことだという点である。ヒトに近縁のアフリカのボノボは、同性・異性を問わず頻繁に性行為をして、それによって友好関係を築き、社会の平和と安定を保つ。チンパンジーの場合、ボノボほどではないが、少なくとも異性間では乱婚的である。

 ヒトの社会で、現在主流となっている一夫一婦制が進化したのには、いくつもの理由があったと考えられている。だが自然界を見れば、一夫一妻であるべき自然主義的な必然性などはない。単に繁殖上の利点が存在したため、我々の心の中に、一夫一婦制や貞節、離婚の忌避などの「道徳観」や「善悪観」が進化してきただけなのだ。


離婚、愛着とヴァソプレッシン

 保守主義者の主張の一つには、子どものため、あるいは本人のために「離婚するべきではない」というものがある。私は、このベキダに対して特に共感を感じることもないが、逆に否定するほどの感情も持っていない。本音のところ、個人の人生観、あるいは配偶行動の違いなのだろう程度の興味しか持っていない。しかし、だからこそ知的に興味深い知識も存在する。

 サンガクハタネズミとプレーリーハタネズミは近縁種であるにもかかわらず、プレーリーハタネズミは一夫一婦的であり、子どもの養育も両親で行うが、サンガクハタネズミはつがいをつくらず、子どもの養育も母親が短期間行うだけである。このことは、一九九〇年代には、生物学者の間では広く知られていた。

 さて一九八〇年代の終わり、国立精神衛生研究所のトム・インゼルは、ヴァソプレッシンとオキシトシンという、わずかにアミノ酸配列のみが異なる二つのホルモンが、ラットの愛情行動の多寡に大きな影響を与えていることを確かめていた。この二つのホルモンは性交時に多く分泌される、〈愛着〉形成物質だといえるだろう。

 これらの事実からインゼルは、オキシトシンとヴァソプレッシンの受容体の分布がプレーリーハタネズミとサンガクハタネズミでは異なっているのだろうと予測した。その通り、92年の論文では、プレーリーハタネズミのヴァソプレッシン受容体の分布は、サンガクハタネズミよりも多いという発見が報告された。

 これの結果は、レトロ・ウイルスを使った遺伝子の導入によって、ヴァソプレッシン受容体の発現頻度を高めた実験でも確かめられている。「遺伝子治療」によって、サンガクハタネズミにつがい行動を採らせることに成功しているのだ。

 ここまで話が進むと、このホルモンの働きが人間行動にも重要な役割を果たしているだろうということは、容易に推測される。2002年には、神経経済学者のポール・ザクらは、オキシトシンの量が多いほど、囚人のディレンマ状況にあるプレイヤーの相手への信頼度が高まることを確かめた。

 ザクはさらに、オキシトシンを径鼻投与することによって、ゲーム状況においての相手プレイヤーへの一般的な信頼度が上昇することまで報告している。また、オキシトシンの体内濃度が高ければ高いほど経済取引を促進し、国民経済の繁栄を促すことになるのだという国際比較を行った論文も書いている。

 この考えに対して、私はそれほど強く同感していないが、ともかくも人間の神経基盤的な相違が、社会現象というマクロな違いを説明するという、単純な還元主義には強い共感を抱いている。

 さて、ハタネズミのつがい行動がヴァソプレッシンによって予測されるのであれば、人間の場合でも、経済行動などよりも結婚や離婚などについての活動の方が強く関係していると考えるのが自然である。90年代から議論されていたこの話題は、二〇〇八年に入って、スウェーデンカロリンスカ研究所イェール大学との共同研究によって肯定的に確かめられた。

 スウェーデン人の成人約二〇〇〇人について、第12染色体上にある、アルギニン・ヴァソプレッシン受容体を作るAVPR1A遺伝子を調べた結果が報告された。男性についてはこの遺伝子が334と呼ばれる型である場合、ヴァソプレッシン受容体が少なく、パートナーへの愛着の度合いが低いことが分かっている。このヴァソプレッシン受容体を作らない遺伝子がホモ結合している場合、結婚せずに同居している確率が32%、過去一年間に離婚や別離の危機を経験した確率が34%であった。これらの数値は、334以外の型のホモ結合の場合の、それぞれ17%、15%に比べると、約2倍となっていた。

 また妻から不満を持たれている割合も高いことからすると、あまり愛妻家といったタイプではないのだろう。女性ではこういった違いがはっきりしないというのも興味深い事実であり、詳しい経路分析も含めて、今後のさらなる研究が待たれる。

 もともと、社会学研究では、離婚をした両親の子どもは高い確率で離婚をすることが知られているが、通常これは、両親の離婚によるストレス、あるいはロール・モデルの学習などのせいであると説明される。しかし、学術的な双子研究からは、おそらく離婚の遺伝率は30−40%に上ると推定されていた。

 離婚や別居というのは、自分と相手の魅力や不倫、失業、子どものしつけをめぐる不和、など多くの原因によるものであることは疑いない。とはいえ、結局、不和に折り合いをつけながら一緒に暮らし続けるか、あるいは別れるのかは、パートナーへの愛着形成の遺伝的な傾向も無視できない要因なのだろう。

 ジョキンたちによる人格研究でも、危険回避の傾向や伝統の尊重といった保守的な人格要因は、離婚をしないことにつながっていることが報告されている。この研究などとも併せて話を単純化していえば、離婚という行為もヒトの自然な配偶戦略であり、新奇性を追求するタイプは相手に飽きて、比較的離婚に踏み切るやすいような心理を持っている。その反対に、保守的なタイプは単婚的であり、離婚をタブー視しがちだということなるだろう。


右翼と左翼は部屋にあるものから違う

 ジョストたちの研究からは、右翼と左翼の人々は、政治的な信条だけでなく、もっと人格的な違いや、あるいは些細な違いまで存在することが明らかになっている。

 まず人格的な特性については、右翼的な人は標準的な人々よりも勤勉である。これには、一体どういう意味があるのだろうか。私の単純な考えでは、既存の秩序の中では、勤勉ではない人は昇進することが難しいだろうというものだ。

 ある人が、既存の社会秩序を肯定し、それを受け入れるメンタリティを持っているとしよう。その前提で、人生を成功させるためには、人よりも規範に従って勤勉であることが求められる。よって、保守性と勤勉性は進化的に同時に発達するに違いない。

 権威主義者はまた、「世の中には勝者と敗者しかいない」というような考えに同意しがちであるとされる。そうだとすれば、勤勉に努力を重ねることが勝利の確率を高める以上は、そういった考え方を持つ人は勤勉な努力家であらねばならないだろう。

 後述するように、このことはまた、人生に与える多様な運の存在についても、大きな認識の違いを生み出す。保守派は人々の能力や努力の違いを強調しがちであり、人生の成功者は、努力をしたか、才能があるか、その両方があったためであると認識することが多い。

 これに対して、進歩主義者は、人々の見たところがこれほど同じようであるのにもかかわらず、これほどの社会的な格差が生じる理由は、多様な運、偶然が介在しているからだと考えがちなのである。

 こういった世界観の違いは次章で詳述するが、ここでは、右翼と左翼では部屋に置いてあるものの頻度が違うという興味深い結果を紹介しよう。アメリカの学生を対象にして、そのベッドルームの状態や置いてあるものを比較したのである

 左翼主義者の部屋に、どういったものが置いてあるのかを想像してほしい。実際、私自身のイメージの中では、おそらく若干本の量が多いのではないかと思っていた。なぜなら、私のイメージの中では、日本の左翼主義者の多くはインテリだったからである。

 また、私はアメリカの大学にも通ったが、多くの友人の意見はリベラルであったからでもある。単純化すれば、知的な好奇心は高い学歴につながりがちであり、逆に本を読むような知識人は多くがリベラルだからである。

 次の表は、その違いを統計的に明確な順に示したものである。



   右翼のベッドルーム

   

 スケジュール付きカレンダー

 郵便切手

 細糸

 アイロンとアイロンボード

 ランドリーかご

 普通のカレンダー

 国旗(アメリカ国旗を含む)

 アルコール消毒液

 明るい

 整理された文具

 清潔

 整理されている

 きれいである

 

   左翼のベッドルーム

 多種類の本

 多種類の音楽

 芸術関係のもの

 世界の音楽CD

 たくさんの文具

 たくさんの本

 世界地図アメリカ以外)

 フェミニズム関係の本

 映画のチケット

 民俗音楽のCD

 民俗学関係の本

 たくさんのCD

 旅行のチケット

 記念品(旅行でかった指輪など)

 レゲエCD

 モダンロックCD

 クラシックロックCD

 旅行関係の本

 多種類のCD




 この表では、上に書かれているものほど、一方のタイプの部屋にあるがちなものであったり、顕著な性質である。

 私の認識もそれなりに正しい認識だったといえるかもしれないが、興味深いのは、例えば、保守主義者は部屋に国旗が飾られている頻度が高いことである。安直な解釈だが、これは国家というものを重要なものだと認める態度を意味しているのだろう。

 その他、スケジュールカレンダーカレンダーは、日常の生活を秩序だったものにするのに不可欠なアイテムである。また郵便切手、ランドリーかごや細糸、アルコール消毒液なども、毎日の生活のいろいろな不測の事態に備えようとする態度を意味している。そして、明るく、整理され、きちんとした部屋というのも、保守主義者の認知地図がすっきりとした明快な秩序を好むことを示すのだろう。

 その反対に、進歩主義者は世界地図や、世界各地の民俗音楽のCDを持っている割合が高い。地球儀は、地球の中で自分の住んでいる地域がいかに小さく、限定的なものであるか、そして地球上には自国以外の多様な地域や国があるのかを実感させてくれる。旅行関係の本やチケット、記念品などは、自分の住む地域以外への興味が、左翼主義者の方が高いことを示している。

 教育学の永遠の古典である『エミール』において、ルソーはエミールに向かって、外国を旅行して見聞を深めること、特に地方に行って人々の生活を知ることは重要だと諭している。ルソーは啓蒙時代の左翼主義、平和主義の原点とも言える人物であり、そういった傾向の強い教育学に大きな影響を与えてきた。進歩主義者が、外国への興味を持っているというのは、この意味でも興味深い。

 これに関連して、民俗音楽、レゲエやロックのCDは、それぞれの地域で独自に発展してきた、西洋音楽とは異なったスタイルの音楽が持つインスピレーションを評価する態度を示しているのだろう。

 フェミニズムを含めて、多様な生活スタイルに理解を示す態度は多文化主義(multi-culturalism)として、アメリカの大学院では非常に一般的である。それに対して、異なった宗教をもつ移民などに対してキリスト教的な価値観を強要する態度は、宗教的な保守派の間では珍しくない。

 科学哲学カール・ポパーはその生涯を通じて、科学を開かれた知的試みであるとし、全体主義社会主義は、権力者とは異なった考えや思想を否定してしまうとして非難した。そういった考え方からすれば、探求の場である大学での精神性のあり方は多文化主義的であって良いのだろう。科学的な理論に限らず、我々にインスピレーションを与える源泉が多様なものであることは、文化的な豊僥さを支える上で肯定されるべきなのだろう。

 こういった違いは、幼稚園に通っている時からの追跡調査でも明らかになっている。カリフォルニア大学バークレー校のブロックたちの研究によれば、幼稚園の教師たちから、活動的、感情的、社交的、自信がある、人を気にしない、衝動的、などと形容された子どもは、大人になってからリベラルになることが多いという。

 これに対して、比較的に謙抑的、優柔不断、怖がり、頑固、傷付きやすい、過度に抑制的、と評価された子どもは、保守的な大人へと育っている。こういった事実も、基本的な人格特性が大きく変化することはまれであるという現代的な心理学・遺伝学の知見からすれば、当然だろう。

 以上をまとめるなら、この表に表れているのは、右翼は秩序と勤勉、左翼は好奇心という異なった次元の人格特性を持っていることである。そしてそれは、政治思想に固有の違いというよりは、もっと基本的な人間性の相違が、結果的に政治思想についても発露しているものだと考えられるのである

 つまり、左翼と右翼は、文化的に決定されると考えられているような思想や行動だけでなく、もっと遺伝的な人格レベルでの違いを持っている。そしてこのことは、次章で詳述するように、現実世界の認識にさえも当然に影響しているのである。


行動遺伝学から見ると

 マウスやウマの性格だけでなく、人間の性格も遺伝することは現在ではよく知られている。よく知られているのは、別々に育った一卵性双生児を使って、その人格的な違いを調べるという双生児研究である。

 アリゾナ大学のロバート・プローミンなどによる研究や、ミネソタ大学のツイン・スタディーズなどからは、多くの性格要素の分散のおよそ半分が遺伝的に決定されているようだ。こういった二〇〇〇年以前の研究は、主に数理統計学に頼ったものであった。

 近年、政治学でもアルフォードらが遺伝要因は環境要因よりも大きいことを実証している。保守あるいはリベラルといった政治的なイデオロギーは、五〇%以上の高い遺伝率を示している。

 さらにヒトゲノムプロジェクトが終了して久しい現在では、ヒトの詳細な遺伝子マップが完成している。もっと直接的に、どの遺伝子がどういったタンパクの合成を通じて行動に影響を与えるのかさえも、次々と明らかになってきているのだ。

 前述したように、人格の5大要素には新奇性の追求がある。イスラエルアメリカでの研究によれば、この要素の分散は第11番染色体にあるD4ドーパミンレセプター(D4DR)の影響を受けていることが広く知られている。D4DRにはDNA配列の繰り返しが見られるが、これが短いほどドーパミン・レセプターの数が多く、各種の刺激を受けやすいため、わずかな刺激で十分だと感じる。反対に、長い繰り返しはレセプターの数を減らし、十分な刺激がなければ、より強い刺激を求める個体を生み出す。この結果、新奇性の追求度合いが高まるのである。

 この点については、慶応大学の大野裕らの研究が興味深い。それによれば、この遺伝子については、日本人は4回の繰り返しがほとんどで、5回以下が98%だが、アメリカ人では6回以上が31%もいる。つまり、新奇性の追求は日本人よりもアメリカ人で圧倒的に見られる性質なのである。

 これはおそらく、東洋人はヨーロッパ人に比べてもともと遺伝的に異なっているからだろう。さらにアメリカに移民したヨーロッパ人は、自ら新天地を求めてアメリカ大陸に渡ったため、アメリカ人ヨーロッパ人の中でも、おそらく新奇性追及の度合いが高い人たちであるからに違いない。

 この結果から端的に結論すれば、日本人は比較的に保守的だということになる。

 大野裕の報告によれば、日本人の保守性については、これだけにとどまらない。別の神経伝達物質であるセロトニンについても、日本人は高不安型なのである。とすれば、後述するように、世界は不安なものであるという認識を通じて、政治的にも保守的となるだろうことを示唆している。

 セロトニン(5HT)の欠乏は、人を不安やウツ的な精神状況に陥れる。現在の抗ウツ剤の主流であるSSRIは、ニューロンの接合部であるシナプスでのセロトニンの濃度を高めて、ウツ症状を抑えるというものである。

 さて、セロトニントランスポーターについての遺伝子である5HTTは第17番染色体に存在するが、これにはセロトニンのレベルを高めて不安を低くするロング型と、セロトニン・レベルを下げて不安にするショート型の多型が存在している。例えば、アメリカ人ではロング型が遺伝子頻度において57%がロング、43%がショートであるのに対して、日本人の場合は、17%がロングで83%がショートなのである。

 東アジア人では約50%がロングのホモ結合なのに対し、白人では30%、黒人では10%程度である。この統計からしても、不安のレベルがアジア人で高いことは間違いがないだろう。また同じように、ショート型を二つ持つ人は、不快な刺激に対しても敏感であることが示唆されている。

 同じ文脈では、テキサス州にあるライス大学の政治学者ジョン・アルフォードは、三万組の一卵性及び二卵性双生児を調べて、一卵性の方が政治的な態度が似通っていることを報告している。雑誌ニューサイエンティストにおいて、アルフォードは「これらの(政治的)見解は根源的なものであり、大脳に刻み込まれている。誰かにリベラルでないように説得しようというのは、誰かに茶色の目を持たないように説得しようとするのと同じだ。我々は、説得というものについて再考する必要がある」という。

 政治的な態度はタカハト・ゲームのように、それぞれ固有の利点をもって、人間の社会に併存してきたのだろう。最終章で述べるように、大きな政治的な事件が起こった場合、個人の人格もまた左傾化したり、あるいは右傾化したりすることがあるようである。しかし、それにしても、ベースラインが存在するはずである。

 こういったベキダについての研究は、少なくとも我々の集団的な〈自由意思〉の概念に挑戦し、政治体制というデアルを決定してしまうように感じる。あるいは宿命論、運命論的につながりがちのようだが、一体そういった宿命論に陥ることが必然的なのかについては、最終章で少し考えてみたい。


大航海時代起業家精神

 世界が危険に満ちていて、山のあなたに青い鳥がいないというのであれば、なるほどこれまで通りの生活を繰り返すのは合理的だ。外の世界にチャンスがあるのかどうかは、ある程度その時代の偶然に依存しているからだ。

 大航海時代、新大陸を発見して移民したヨーロッパ人は、アメリカ大陸をはじめ、世界に広がり、その人口は大増加している。これは成功例であるが、それ以前には航海によって無数の冒険家が死亡している。

 では、ヨーロッパ人が世界を探検し始めたのは、純粋に偶然なのだろうか?これまでの人間の常識はそう説明してきたが、あるいは新規性追及の度合いがヨーロッパ人の方が高く、同時にセロトニン活性が高く不安が少ないからではないのだろうか?

 実は、大航海時代と呼ばれる15世紀、明代の中国の方が造船技術は高かった。中国の船は安定しており、長距離の外洋航海にはるかに適したものであったのだ。実際に永楽帝は、宦官の鄭和をアフリカにまで遠征させて、ゾウを土産に持ち帰らせている。

 歴史家の多くは、やる気さえあれば、当時の中国の技術で世界一周をすることができたはずだと指摘している。しかし、永楽帝以降の皇帝と側近たちは、むしろ保守的な態度に変化して、中国が世界に向かうことはなかった。

 同じように、日本にも瀬戸内には同じ程度の造船技術、航海技術を駆使する集団がいたし、彼らの一部は倭寇として東シナ海縦横無尽に活動していた。しかし、なぜか世界のすべてを探検するという活動は、ついに起こらなかった。

 時代は変わって、現代の資本主義社会ではコロンブスのような冒険家にあたるのは、新しい産業にチャレンジする起業家だろう。初期の自動車にしても、飛行機にしても、ほとんどの人は新しい活動や起業への試みを無謀だとしてバカにするだけだが、なかには成功するものもいる。それが、アメリカでは多くの富豪を生み出したのだ。

 鉄鋼王カーネギーや鉄道王スタンフォード、ヴァンダービルドなどである。これは、現代の起業家である、ビル・ゲイツやラリー・ページに至るまで続いている。いうならば、植民国家であるアメリカには、常に新しいものにチャレンジする伝統がある。

 日本でも、明治の文明開化の時代の財閥や、あるいは戦後のソニーやホンダなど、大きな産業をリードしてきた企業が数多くある。そういった企業のオーナーたちは、個人主義的な色彩の弱い日本では、アメリカほどの資産家となったわけではないのは異なるが。

 こういった起業家たちが、あるいは進歩主義的であったことは間違いない。企業活動とは本質的に自分の信念や技術への賭け行為なのであり、失敗を恐れていては最初からチャレンジすることもできない。起業家たちの世界観は、基本的に楽天的なものであるに違いない。

 世界、あるは経済が本質的にどの程度危険であるのか、あるいは成功のチャンスに満ち溢れているのかなど計量のしようもない。あえていうなら、世界中で設立された会社の9割以上が、1年以内に失敗に終わっているほど危険だということはいえるだろう。

 だから、保守的なメンタリティを持つ人々は公務員を目指すべきだろうし、実際にそうしているに違いない。保守派は国家を重視する点、仕事へのやりがいはあるだろう。また保守派は危険に敏感であるが、公務員はリストラ・倒産がないため職業的にも安定してるからだ。私は、多くの優秀な日本人が官僚になるのは、これまで説明してきた日本人、あるいは東アジア人の精神生理学的な気質に関連しているのではないかと考えている。

 社会的な功利主義からすれば、優秀な人材であればある程、未知なる分野を切り開き、新しい産業を作り出してもらう必要がある。全員が役人であるとすれば、そういった社会が悲惨であることは、旧ソヴィエトから北朝鮮に至るまで明々白々だ。

 しかし、もっとも優秀な日本人の多くが官僚や、あるいはその後、政治家になっている。あるいは、日本人が大企業志向であるというのも間違いないだろう。自分で起こす小さな企業の自由さと大きな成功報酬よりも、むしろ安定を選ぶというのは保守的な個人にとっては合理的であるだろうが、社会的に効率的であるのかどうかははっきりしない。

 私が大学にいたころ、法学部の教授のある言葉が興味深かった。「官庁、銀行、証券会社損害保険会社、と並べてみると、業務の複雑性やリスクはどんどん上がっているんですね。しかし、反対に成績のいい人から複雑でない安全安心な仕事に就くんですよ。これは社会的にいいことなのかどうかわかりませんね。」なるほど、なるほど、である。


左翼も権威主義的ではないのか?

 ところで前述したように、一般に権威主義的で心情的に頑迷であればあるほど、現状維持的な保守的な思想傾向を強めると考えられている。しかしここで、私と同じような懐疑主義者は、小さな疑問を感じてしまうかもしれない。

 左翼主義者がそんなに開かれた人格の持ち主であるというのなら、社会主義国であったソヴィエトの指導者であるスターリンの行った大規模な粛清の嵐はどう説明されるのか?あるいは、ソヴィエトや東欧諸国、現代の中国での、政治思想から大衆娯楽、あるいは海外旅行などに対する統制は、知的好奇心の高揚とどう整合的であり得るのだろうか?あるいはポル=ポトの率いるクメール・ルージュの行った、集団の3分の1にも及ぶ未曾有の大虐殺は、人間の基本的な平等理念や思想的な寛容とどう関連しているというのか?

 これらの疑問は、多くの資本主義や自由経済の擁護者が感じている、ほとんど直観的なな社会主義への嫌悪と深く関連している。左翼、社会主義者の政策を見ると、少なくとも資本主義と同じくらいに独断と偏見に満ちた非人道的なものであり続けたという、歴史的な事実がある。

 こういった疑問に対しては、かなり昔からU字型仮説という説明がある。これはつまり、権威主義的な人物というのは極端な右翼に存在するのであるが、同時に左翼でも極端になってゆくにしたがって、権威主義的になるというものである。

 この考えを図示してみると、次のように描かれる。























 図から読み取れるように、まず右翼的な人物は権威主義的である。それが左翼的になると権威主義は次第に弱まるが、それはある程度までの話であって、極端に左翼的な人物は、再び権威主義的な色彩を強めるというのである。

 このような考え方は、各種の共産主義者の書いたものを読むと、なるほど説得的であるように思われる。彼らのもつ教条的な信条、人間観は、開かれた精神性というよりも、むしろ権威主義そのもののように感じられるからである。

 イギリス心理学者ハンス・アイゼンクは戦後のソヴィエトでの政治的な現実を見て、すでに一九五四年にこのことを指摘している。私自身も、大学時代から長い間、この考えは正しいのではないかと思っていた。

 おそらく、こういった指摘が相次いだために、アメリカ心理学会の主流は、右翼・左翼と権威主義的な性格というのはほとんど関係がないと考えるようになった。前述のアドルノのFスケールは、当初こそはナチスの台頭を説明するものとして評価されたが、その後60年代からは、学術研究の中ではほとんど完全に無視されてきた。

 しかし、最近の学術的なパーソナリティ研究を読むと、これは正しくなかったようだ。ジョストたちはヨーロッパの政党を調べ、その教条主義と頑迷さについて統計分析をしている。

 結果としては、ほとんどの研究が、頑迷さは右翼的であればあるほど高まるという仮説を支持している。一部には、左翼性が極度に高まった場合にも、わずかに高まるという結果があったが、その程度は高くはない。

 つまり、前述の図で言うなら、極端な左翼は、あるいは若干権威主義的であるかもしれないが、ほとんどの領域のおいて右翼的であればあるほどに権威主義的なのだ。
























 パーソナリティ研究の結果はそう語るとしても、では歴史的な疑問に戻って、どうして左翼のリーダーたちは多くの粛清や思想弾圧を繰り返してきたのだろうか?

 この疑問に対して、ここでは私個人の見解を述べよう。

 私の意見では、歴史的な悲劇を理解するカギは、「権力」あるいは、「政治」というものにある。人は誰しも、ある程度の利己性を持っているのであり、自分が権力者・支配者となった時には、自分の望む世界と信じる価値観を人々に強要してしまう。

 つまり、よく知られているように「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」のだ。左翼のリーダーたちが特別に権威主義的なのではなく、残念なことに、多くの人間は自分が権力の魔力を持つ場合には、権威主義的になってしまうものなのだ。

 私の考えは、それほど奇妙なものではない。いまや心理学の古典的実験と目されている一九七一年の、フィリップ・ジンバルドーによる監獄を模した実験、いわゆるスタンフォード監獄実験について考えてみよう。

 ジンバルドーは、パーソナリティが、囚人と看守に扮している人々の行動にどのような影響を持っているのかを調べようとした。彼は24人のボランティアの学生を看守役と囚人役に分けて、スタンフォード大学内の建物の地下に模擬監獄を作り、行動の変化が生じるかを観察した。実験は、看守がすべての権力を握っているという感覚、そして囚人には何の自由も与えられていないという感覚が与えられるようにデザインされた。

 結果として、看守たちの間に急速にサディスティックな態度が広がり、また囚人たちの間にはトラウマティックな精神状態が広がっていった。ジンバルドーはもともと2週間の予定であった実験を、6日目に打ち切らざるを得なかった。

 ボランティアは、精神面で健全であることを重視して選ばれたスタンフォード大学の男子大学生であり、ほとんどが白人の中産階級出身者であった。それでも彼らによって行われたサディスティックな行動には、懲罰として囚人のマットレスを奪い、コンクリートの上で寝かせること、トイレに行かせずに部屋の中で排泄させること、腕立て伏せをさせたり歌を歌わせたすること、性的ないやがらせをすること、などの多様な侮辱行為が含まれていたのだ。

 こういった傾向を示した看守役は、約3分の1であると報告されており、また囚人役に対して十分にやさしい態度を維持したものもいた。このことからすれば、看守役の持つ個人的なパーソナリティの違いが、虐待行動の速やかな学習に影響していることは間違いない。

 とはいえ、アメリカでも日本でも看守による囚人の虐待事件は常に起こっている。それは監獄内における権力のすべてが、基本的に看守に握られており、囚人には何も与えられていないことと関連しているだろう。

 監獄における看守とは、全体主義社会における権力者とそれほど違わない。人は誰でも、権力を持てば濫用し始め、最後にはそれを楽しんだり、あるいは権力を失いたくないために粛清までするようになる。

 結論として、私の考えは、左翼的な人々がいくら権威主義的な人格を持っていないとしても、実際に権力者になると、その濫用に走るものも相当程度いるのだろうというものである。それは、絶対的な権力というものの作り出す特殊な状況であり、絶対権力を掌握すれば、すべてではないにしても、多くの人が権威主義的、高圧的になってしまうに違いない。

 この理解で、歴史的に起こった社会主義国家での思想の弾圧や人権蹂躙、極端な虐殺までを説明できるのかはわからない。しかし、少なくともその手掛かりにはなるだろう。絶対的な権力とは、それだけ人を変えてしまうのだ。

 



 

2009-06-18 保護貿易を支持する人は

Caplan 自身の研究によると、

貿易の自由化の支持は、


1、学歴が高くなるほど、

2、男性のほうが女性より、


高いという統計事実がある。


しかし、これがなぜなのかについ彼は詳細な説明をしていない。

ので、僕がここでタブーに挑戦しつつ、説明を試みてみよう。


僕が考えるところでは、

自由貿易を支持する人々の心には、


1、自由貿易がもたらす経済的な利益についての合理的な理解

2、愛国的な意味での国内生産物への信頼外国人への感情的な不信感


の二つがあるのだろう。


さて、学歴が高い人は経済的な利益を理解する程度が低い人よりも高いために、

自由貿易を支持しているように思われる。

あるいは同時に、リベラリズムから外国への不信感が少ないのかもしれない。


女性の場合はどうだろうか?

僕が感じるところでは、外国への不信感が大きいように思われる。

日本製農産物を好むのは女性に多いように思うが、

それは主に外国への不信があるのだろう。

これはあるいは男性よりも女性の方がリスク回避的であるためなのではないか。


アメリカでも、メキシコ産や中国産よりも「アメリカ製」を歌った商品は多い。

笑えるのは、日本人がBSE問題で騒ぐアメリカン・ビーフが、

アメリカではproudly serve American beef! などと高らかに宣伝されていることだ。

同じように日本人が誇る国産牛肉は、かつてBSEのために中国その他に輸出できなかったのに、

日本メディアを見ても明らかなように、日本人がそれによって国産牛を食べなくなったとは聞かない。


こういった情況が示唆するのは、愛国心や、外人外国への不信感には、

比較生産費仮説のような細かいごちゃごちゃして面倒な説明などまったく必要ないということだ。

それほどに強く、人の心にはもともと外人への不信が生じるものなのであって、

それを克服するためには、経済的な利益外国人への信頼を訴えるための理知的な理解がいるということなのだろう。



それはそれで経済学の意義を高め(僕の職業的な意義を生じさせ)ているのかもしれないが、

そもそも国家的な規制などなければ、あるいは国家などなければ、

僕が日本で、あるいはアメリカで、あるいはヨーロッパで現地の規制法によって収奪されなくてもすむはずなのに。

それはまた、外国差別外人差別に反対する人のすべての人にとって、経済的な協力の機会を奪っている。

貧しい国でも働きたい人はたくさんいるのに、それに無関心であり続けるとは、

そして保護貿易を支持する人がいるとはたいへんに残念なことだ。

2009-06-17 ベキダ⇔デアル、3章

3、デアル>ベキダ:道徳規範

利他性をめぐる議論

 前章では、犯罪と呼ばれる、誰にとっても明白な悪行について考えた。犯罪は究極の利己行動であるため、その抑止のために、どの社会でも犯罪者には罰が科される。人々は社会内の規範を共有しており、犯罪行為から得られる利益を減らすために、犯罪者への積極的な加害行為を懲罰として与えることに合意しているのである。

 これほどまでの特別な取り扱いは、犯罪行為が「あまりにも」利己的な行為だからである。これに対して、社会規範の中には、隣人、あるいは社会内の他人に対しても「利他的であれ」というようなものや、「困った時には助け合うべきだ」などといった程度のものがある。これらは、犯罪の禁止規範などに比べると、はるかに緩やかで、状況についても曖昧なことが多く、そして強制的な罰則を伴わないのが普通である。

 こういった道徳は、だいたいが「利他的であるべきだ」という行為規範に集約されるのではないかと思う。ここで、利他的であるというのは、「自分の利益犠牲にしても他人の利益を増進させる」というほどの意味である。

 素朴に考えれば、自分以外の他人の利益になって、自分の利益にならないような行為を促す遺伝子があったとしても、地質学的な時間をかけた進化の流れの中で、消滅しているはずなように感じられる。これを受けて、ダーウィン主義を熱烈に擁護し続けたハックスレーを始めとして、19世紀の前半までのほとんどの進化論者たちは、人間道徳は幼少時からの絶え間ない社会化によってのみ、形成されると考えてきたようだ。

 今でも、多くの世俗的な見解では、道徳というのは利己性を抑えるような教育によってのみ体得されるものだというものが多いだろう。だからこそ、犯罪社会規範の低下を憂える人々は、その対策として道徳教育などをすぐに持ち出すのだ。

 しかしこの点について私は、道徳教育の効果を完全に否定するというほどではないが、特段の必要性を持つとは思っていない。なぜなら、現代社会では他に覚えるべき重要科学知識が爆発的に増加している反面、道徳教育を座学として行ってもほとんど効果は上がらないと感じるからだ。

 私は、利他行動もまたある程度生得的なものであり、それほどには各種の学習の影響を受けないのではないかと考えている。上述したサイコパスの存在のように、価値観や当為概念であるベキダを人に教育するということは、特に難しいことであることを示す状況証拠もある。

 以下に、利他行為をめぐる道徳について、進化生物学で主流となる理論を簡単に説明してみたい。ここで指摘しておきたいのは、道徳理論犯罪とは異なって、もっと緩やかな規範であるということだ。

 犯罪行為では、加害者被害者とはなんに関係もないままに「場当たり的に」被害者に存在を与える。これに対して、道徳的な行為のほとんどは、相手との関係はすでに存在していて、その状況でどう行動するのかということになる。共同行為の一方は、相手を選ぶことができるという意味犯罪行為とは異なっているし、また共同行為が相互の裏切りになるという最悪の帰結でさえも、単に投下した時間エネルギーを失うだけで、犯罪行為ほどには大きな被害が生じることはない。

 このことが、社会破壊的な犯罪に対しては強制力を通じての懲罰が必要であるが、その反面、単に非生産的であるに留まる非道徳的な行為に対しては、その後の共同行為の拒絶という弱い意味のサンクションで十分だと人々が考える理由であろう。


血縁選択説

 生物の行動を考える際に、最も基本となるのは個体行動である。そこで、個体の行動が自分の利益を促進する場合は利己的行動であり、自分に不利益でありながら自分以外の利益になることをするのが利他的行動であると定義することにしよう。

 すると、あら不思議自然界ももっとも頻繁に見られる行動の一つである、子育て利他的な行動であるということになってしまう。親が子供を育てるのはあまりにも当たり前である。そのため、育児利他的な行動であり、説明を必要とするということ自体が、ウィリアム・D・ハミルトンによる一九六四年の論文まで、見過ごされていたのだ。

 ハミルトンは、個体を造り出した遺伝子の視点から見ることによって、どの個体に対する利他行動が進化するはずであるかについて考察した。通常の生物は倍数体と呼ばれ、一対の染色体を両親から一つずつ受け継いでいるため、親との遺伝的な共有度(血縁度)は2分の1である。親が子供を育てるのは、遺伝子的には、半分の自分を育てるということに等しいため、能率は直接に自分の利益になる利己的な行為よりも悪い。

 しかし、子供は幼少時に世話を必要としており、親が子の世話をする労力は自分を不利にするが、それ以上の利益子供に与える。そして、親が子供を養育するのは、基本的に親が先に成熟して能力が高いからである。この点、きょうだい間の血縁度も親子と同じく2分の1で同じである。このため、親の代わりに上のきょうだいが下のきょうだいの世話をするということも、多くの種でごく自然にみられることが理由づけられる。

 もっと一般的には、利他行動についての「ハミルトン法則」によれば、

     個体への行動のコストC < 血縁度R X 行動の受益者の利益

が成り立てば、その行動は進化すると考えられる。例えば、3人の子どもを救うために親が自分の命を投げ出す行為は、Cが1であるのに対して、血縁度は0.5の3倍の1.5であり、その利益は1.5となるため、適応的な行動であるといえるのだ。

 アリやハチなどの社会昆虫は特殊な遺伝をしており、そのオスは半数体と呼ばれて、生まれてくるメス同士の血縁度は4分の3になる。当時は、この繁殖様式によって決定される血縁度の高さ自体が、社会昆虫においては女王のみによる繁殖を説明するのだと考えられてきた。彼らの社会では、女王以外のメスはワーカー(不妊カースト)となって、女王の世話、卵や幼虫の世話をするのみで、自分では繁殖はしないという真社会性(eusocial)と呼ばれる生物なのである。

 この理論が正しいとするなら、きょうだい間の近縁度が0.5になってしまう(倍数体である)哺乳類では、真社会性の動物はいないのではないかということになりそうだ。しかし考えてみると、ゴキブリに近いといわれているシロアリは倍数体の昆虫であるにもかかわらず、不妊カーストがいる。つまり一般論として、血縁度が高い集団を作って生きるのであれば、不妊カースト進化しうるのである。

 実際、90年代以降の研究では、アフリカの地中にすむハダカデバネズミは、一個体のメスのみが繁殖し、その他のメスは子供を協力して育てる真社会動物であることが報告されている。ハダカデバネズミの群れの血縁度をDNA検査して調べたところ、78%であったという。これはハチやアリの75%を超えており、おそらくこのような高い近親性が、彼らの特殊な生活様式の基礎となっているのだろうと考えられている。

 さてこの血縁選択、あるいは血縁淘汰説がベキダに与えている影響は、少なくとも現代の日本ではそれほど大きなものではない。誰でもそれなりに自分の子供を育てるのは当然の義務だと感じているし、ほとんどの親が毎日実行していることだからだ。

 とはいえ、まったく道徳感情と関係がないとまでは言えないだろう。子供の養育を遺棄する親はいるし、特に父親が養育にかかわらないというのは離婚後の母子家庭ではかなり普通なようだが、そういった行為はそれなりに非難されてもいる。

 子供の養育に資源エネルギーを持ち出さない親は、なぜ非難されるのだろうか?おそらくは、親の養育を十分に受けられない子どもは、物質的にも精神的にも満ち足りないため、反社会的な逸脱行動に走りやすく、それが社会の他の構成員に負担をかける可能性が高まるからなのだろう。あるいは、親以外の遠い親族が世話をすることにでもなれば、彼らにはもっと直接的な不利益があるとも考えられよう。

 すべての親が子どもの養育に責任を持つ社会のほうが、そうでない社会よりも(当の親以外の)誰にとっても望ましいことは間違いない。今後の日本では、離婚とそれに伴う父親の養育放棄がもっと頻繁に起こるだろう。とすれば、日本でもアメリカと同じように「父親であること」から生じる養育義務を、人間的な道徳としてもっと強調する時代が来るのかもしれない。


互恵的な利他行動

 親子やきょうだいよりも遠い血縁関係にある個体への利他行動は、人間の場合はネポティズム(親戚びいき)と呼ばれるが、これは通常は利他的な行動だとはみなされないようである。血縁度についての理論を構築するはるかに以前から、人々は、親戚というのは延長された自分自身であるという直観的な感覚を持っていたからだろう。

 よって普通人間利他的な行動という場合、親戚ではない人に対する利益となるような行為をさすことになる。おそらくは、隣人であるか、あるいは地域社会の一員、あるいは会社などの同僚だろう。当然、これには組織を共にしない友人も含まれる。

 倫理規範では「利他的であるべきだ」と抽象的に表現したとしても、それは誰に対してもというよりは、互いに助け合えるような人に対してであるということが普通である。隣人や知人と互いに助け合うことができれば、食べ物の一時的な欠乏や病気などのリスクをどれだけかヘッジすることができるからだ。

 こういった互恵的な利他行動というのは、ある種の黙示的な契約であり、そう考えれば、それが履行されなかった場合の怒りというのも納得できる。キリスト教でいう隣人愛のような理想的で完全な利他行動であれば、そもそも相手が助けを返してくれなくても、それに対して怒りを感じることはないはずである。

 こういった互恵的な利他行動は、すでに一九七一年アメリカ進化生物学ロバート・トリヴァースによってヒトを含む動物一般に当てはまることが示唆されている。その後、人間以外のいくつかの動物で互恵的利他行動が報告されている。

 もっともよく知られているのは、南米アマゾンジャングルに生きるチスイコウモリの例である。チスイコウモリはウマやロバ、ヒツジなどの大型動物の肌を噛み破って、そこから吸血することで生きている。血液栄養価の高い食べ物であるが、獲物となるような動物から、十分に多くの血液を吸える日ばかりではない。チスイコウモリは2,3日の間、食事が取れない場合には、餓死危険に直面することになる。

 十分に血液を吸った時には、ねぐらを近くにする個体に血を吐き出して分け与える。そして、自分が十分に採食できなかった別の機会にそのお返しをしてもらうのである。個体識別が発達したコウモリは、過去に血を分けてくれなかった個体に対しては、相手が飢餓に瀕している場合でも血を分けてやらないことが報告されている。

 この例でよくわかるように、互恵的な利他行動もまた、純粋利他的というよりも、共同でリスクを減らすための利己的な利益にそった行動であると考えられるだろう。ここで重要なのは、相手がお返しをしてくれる個体なのか、あるいはくれない個体なのかを知ることなのだ。

 

評判の意義

 ヒトが社会動物であったことは間違いないから、数百万年以上も昔から、狩りや採集などでの共同作業をしていたはずである。獲得した成果を分け合うとするなら、自分は手抜きをして働いて、他人にはきちんと働いてもらうのが自分にとっては都合がいい。だが、これは誰にとっても同じ状況だ。

 完全に他人の活動を監視することはできないから、ある程度は他人を信頼して、自分に割り当てられた活動に励むしかない。ここでは手抜きをすること「サボリ」と呼び、全力を尽くすことを「マジメ」と呼ぼう。ここでの状況は、以下のように表わされる。


                サボリ        マジメ


  (0、0)

 (−4、6)


  (6、−4)


  (5、5)


 Aの行動戦略は上に書かれた「サボリ」と「マジメ」であり、Bは左に書かれた「サボリ」と「マジメ」である。ここでは、AとBの2人がひと組にならないと狩りができないとしよう。両者が一日に10の労力を出せば30の収穫があがり、各自の利益は収穫の分け前である15から労力の10を差し引いた5となる。

 しかし、一方が怠けて、片一方がマジメに働いた場合には12の収穫が上がり、それは等分されるので、結局怠けたほうは6を得て、マジメな方は−4を得ることになる。双方が怠ければ、収穫はないし、労力も投下されていないので、両者が0を得る。

 これは、両者が異なった場所で、異なった役割を果たす場合、例えば、一方が獲物を追い出し、もう一方が谷の向かい側で待っていて捕獲するような場面だと考えればいいだろう。二人ともがマジメにやれば、二人の総利得は10となって望ましいのだが、一方がサボることによって、サボった方はより多くの利得を得る。相手がさぼった場合も、自分もサボる方がマジメにやるよりも良い。

 こういった狩りを一度だけするのであれば、相手がサボろうが、マジメに働こうが、自分がサボリを選ぶのが有利になる。つまり、双方がサボリを選ぶことが安定的なナッシュ均衡となってしまう。

 このゲームは「囚人のジレンマ」と呼ばれ、ゲーム理論家がもっとも重視するものである。それは両方のプレイヤーにとって、相手の行動にかかわらず、相手との協調行動をとらないことが有利になる。しかし、両方が強調すれば、はるかに大きな利益を双方が得るという特質をもっているからである。

 このゲームを行うのが一度だけであるとするなら、サボりが有利になることは先の利得表から、定義によって間違いないことになる。しかし、ヒトの人生は十分に長く、多くの共同作業は反復されて行われることがほとんどだろう。

 囚人のジレンマゲームでは、1980年代から、ミシガン大学政治学者であるアクセルロッドによって、何度もコンピュータープログラムを使ったトーナメントが行われている。そこで安定的に強いのは、「しっぺ返し(tit for tat)」と呼ばれる戦略であった。

 しっぺ返しは、まず相手に対して協力的にふるまうが、相手が協力しない場合には、その次の回には協力しないことによって、相手を1度だけ罰する。その後、相手と再び協力しようとし、相手も協力し続ける限り、協力をし続けるというものだ。

 非常に簡単なルールであるが、しっぺ返しは、我々のもつ倫理の多くを体現している。

1、まず相手を信頼する。

2、相手が裏切るのなら、それに対しては罰を与える。

3、相手が協力的なら、自分も協力的であり続ける。

これらはすべて、我々の基本的な道徳観と一致するものであることは興味深い。そしてこれほどに単純な戦略が強力であるというのは、ほとんどの研究者にとって意外なこととして受け止められたのだ。

 最近のこの種のトーナメントでは、異なったプラグラムと対戦する時には、そのプログラム過去の行動をモニターすることができるようになっている。過去に協力してきたかどうかによって、相手の「誠実さ」を測り、その予測値に応じてこちらの対応を変えるのである。これによって、相手が誠実なタイプであれば協力的に振る舞い、裏切りを多くするようなタイプであれば、用心して、安易に協力行動をとらないという、もっと複雑な行動戦略が可能になる。

 これはちょうど、クレジットカード会社消費者金融会社が、消費者契約するかどうかを決める際には、過去クレジットヒストリーを参考にするようなものだ。実際、過去自己破産していればクレジットカードを持つことは難しいが、それはクレジットカード会社からみると、カードを使わせることのリスクが高いからだ。

 現代社会では、こういった「評判」の多くはデータベースの中にデジタル情報として蓄積されていることが多い。しかし、ヒトが進化してきた環境は、せいぜいが数十人程度の部族社会である。そこでは、各人の評判はほとんどの構成員によって共有されており、正反対の評価や、あるいは参考になる情報がないということはなかっただろう。

 噂は個々人の人格についての情報であり、そのために人々はこんなにもウワサ話が好きなのだろう。そういった情報には、誰を信じるべきか、誰を信じないべきかについての、大きな価値があったと考えられるのである。

 評判の価値の高さについては、現代社会でも重要であり続けている。

 世界大企業経営者の多くは他の会社から転職してきているが、それも必ずしも同じ業界からではないことが多い。しかし、彼らは全員、過去職業的な実績において、高い経営能力を持っていることを証明してきている。だからこそ、大きな上場企業経営40歳代の若さで、株主から任されるのだ。

 特殊な分野でベンチャー企業を興す場合でも、その道ではすでに評判を確立した人の場合は、資金も集まりやすいし、多くの賛同者を得ることも容易だ。シリコン・ヴァレーには、大企業技術者からヴェンチャー企業を興す人が多いが、その理由は過去の実績があるためだろう。

 あるいは、学歴偏重と批判されることの多い日本韓国中国大学レベルでの差別がある。これもまた、ほとんど無意味なまでの過去努力や、限られた試験時間内の事務処理能力の高さを、多くの企業が評価しているために出来上がったものだろう。民間企業であれば、採用から出世に至るまで、人事的な昇進過程がどこかに明記されているわけでもなければ、法律で仔細に強制されているわけでもないのに、学歴が重視されているのだ。

 現代的な評判の重要性の例の中でも私がお気に入りのものは、オープンソースソフトウェアの開発についての自生的な秩序についてだ。現在、多くの人々に無償で提供されているリナックスオープンオフィスであるが、そういった大規模なオープンソースソフトウェアの開発には何万人もの並行的な作業が要求される。

 このとき、誰がどういったパートのまとめ役になって、方向性を決定しているのだろうか。

 実際には、リナックスの場合、開発方向のグランドデザインを決めるのは、もちろんライナス・トーバルズである。その下の階層では、最重要カーネルの開発から、周辺機器デバイスドライバーの開発まで、多くのセクションに分かれて、担当リーダーがいる。これは誰かが命令したものというよりも、長い間のオープンソースソフトの開発から自然に発生したものである。

 実績や人望のない個人が何かを開発すると発言しても、それに協力する人はいないため、実績のある評判の高い人物の意見を中心にして、自然と自生的なまとまりができあがる。これはサイバースペース内の最も大規模な組織的活動における、評判の持つ素晴らしい意義を表わしている。

 ヒトの持つ高い言語能力は、個人についての評判を伝達することによって、社会倫理的に望ましい人格を有利にしてきたはずである。我々のおしゃべりがいかにゴシップにあふれているか、あるいは政治家がいかに政治活動以外で評価されがちであるのか、を考えてみよう。皆にとって望ましいような社会規範を強く持つ個体が良い評判を得て、より高い適応価を誇ってきたとしても、それほど驚くべきことではない。


人格予測サイコパス

 前章でも書いたように、病理的な犯罪人格者サイコパスと呼ばれるが、彼らのほとんどに見られる特徴は、ウソをつくことに対してまったく罪悪感をもたないうえに、他人に対して共感も持たず、ひじょうに流暢に大量のウソをつくということである。

 通常、見え透いたウソをつくことは大きな勇気がいるし、なかなか話のつじつまを合わせるのも難しいものだが、彼らは躊躇することなく、大きなウソをつく。それも矛盾したウソをつくことがほとんどなのだが、それを指摘されても、すばやく話を変えたり、ごまかしたりして、まったく悪びれず、狼狽もしない。こういったことは、なるほど、サイコパスであるかどうかの大きな判断要因となる。

 あるいは、通常ウソをついていたり、やましいことがある人は相手の目を直視できないものだが、サイコパスはむしろ不自然なほどに相手の目を直視して、自分の言っていることを信用させる。

 私は、ヒトラーサイコパスであったとはあまり思っていない。しかし、感情の果たしている意思決定上の重要性を説く経済学者フランクは、ウソの心理研究をしてきたエクマンによるのヒトラー研究引用して、

「アドフル・ヒトラーはもっともらしく嘘をつくことができた。一九三八年九月の会談で、ヒットラーイギリス首相チェンバレンに対して、チェコスロヴァキアの国境を書き換えられるという要求が認められば、戦争突入する意志はないと約束した。会談の後、チェンバレンは姉に宛てた手紙の中で、こう記している。『彼の顔に手強さや冷酷さを見たような気がしたが、今ここにいるのは約束を守る人であるという印象だった。』」

と記している。

 病理的な人格を持つ人間のついたウソが、本当のことであるのか、あるいはウソであるのかを見極めることは、通常人にはきわめて難しい。ウソをつくことによって発言者はその利益を高めるため、ウソは見つかる可能性との兼ね合いで、均衡行動として進化してきた。簡単に見破られるのであれば逆効果になるため、難しい戦略なのだ。

 前章で述べたように、おそらくはウソをつくというのは我々の行動戦略の中に、多かれ少なかれ入り込んでいる。しかし、それが客観的に異常なレベルにまで高まり、同時に相手への共感が欠如しているような場合、その人は人格障害に分類されることになる。

 サイコパスは、囚人のジレンマ状況において常に裏切り続けるため、良い評判を得ることができない。彼らのウソは、数か月で周囲のだれかに見破られる。そのため、数か月の単位で居場所を転々と変えて、次々と別の人間たちをだまし、彼らから利益を掠めて生き続けるという生活パターン普通になる。

 この意味で、移動が簡単になり、自由に頻繁に多くの人が移り住む現代社会は、サイコパスにとっては、過去のいかなる状況よりもその生活を維持しやすくなっている。部族社会よそ者に対する処遇が厳しかった過去のどの時代よりも、サイコパスにとっては有利な状況が現出しており、彼らは急速に増殖できる環境にあるだろう。


社会道徳法律は違うが

 東京駅の駅前を歩いていたら、前を行く人がタバコの吸いがらを捨てたとしよう。これは軽犯罪法やあるいは都の条例には抵触しているのかもしれないが、あまりにも軽微な罪なので、誰も真剣には告発しない。この意味で、タバコのポイ捨ては道徳違反ではあっても、刑事法的な犯罪ではないといえよう。

 では、社会道徳違反するのと、犯罪を行うのはどこが違うのだろうか。犯罪の場合、被害者の同意がないだけでなく、その行為の加害者被害者はもともと何の共同行為も企てていない。にもかかわらず、一方的に加害者は害を加えているのだから、被害者には帰責できるような要素はまったく存在しない。結論として、そういった一方的で被害の大きな行為については、抑止するために適正に処罰される必要が生じる。

 これに対して、最初に契約を交わしたりして、相互に協力するべき状況にある二人のうち、一人がサボる場合を考えよう。この場合、よほど明白に詐欺的な行為でない限り、契約違反しているということで処理されるだろう。こういった社会規範への違反では、処罰されることこそないが、将来的に一緒に働かないという不利益が生じることになる。

 これは犯罪の処罰ほどには厳格で絶対的なものではないかもしれないが、その長期的な効果においては同じような機能を果たしている。

 小さな共同体で生きていた時代には、社会規範への違反犯罪行為はほとんど同じだっただろう。現代社会でさえも、ほとんどすべての職業の維持や成功には、社会規範としての相手に対する互恵的な配慮が不可欠である。

 さて、タバコをポイ捨てした行為者と私は協働関係にはないため、状況は少し違っている。軽犯罪などはその害悪はひじょうに小さいので、それは犯罪として罰するほどの、社会的エネルギーを投入する価値がない。人の行為を証明して問責するには、大きな人的エネルギーが必要となるが、それに見合うだけの大きな害悪でなければ、処罰すること自体がますます我々を窮乏化させてしまうだろうからだ。

 さて、どういった行為が犯罪として処罰されるのかが事前に告知されていなければ、人々の活動は委縮してしまい、行動の自由は実質的に保障されなくなる。このため近代国家では、害悪の顕著に大きな行為のみが、犯罪として処罰されることが規定されている。自由を標榜する現代国家では、実際に逮捕されたり、処罰されたりするほどの犯罪行為が少ないのはそのためでもある。

 とはいえ、軽犯罪であっても、そういった行為を公然と繰り返す人物は、社会規範への違反者と同じように長期的には人望を失っていくことになる。ある行為への直接的な処罰こそなくても、社会規範違反軽犯罪行為は共通して、未来においての生産的な活動に参加する機会を失うというペナルティを受けているだろう。

 この意味で、倫理違反もまた軽度の懲罰を受けている。観念的には、倫理違反法律違反の違いは質的なものであるとも考えることもできるが、それすらも自然科学的には、不利益の程度の違いに過ぎないのだろう。

2009-06-16 デアル⇔ベキダ 2章

2、デアル→ベキダ、犯罪行為

 

実在論vs観念論

 デアルとベキダというような哲学的なことがらについて語る時、最初に避けて通れない論点がある。それは「そもそも一体どういったことが、思考の前提として最初に所与であり、議論をする必要がないと考えられるものなのか」という抽象的な問題である。これは、論理学的にいえば公理の問題であるし、哲学的にいえば、科学実在論と観念論の対立であるといってもいいだろう。

 科学実在論は、日常的な実践としては素朴実在論とか、あるいは実在論と呼ばれる。これは「我々が感覚的に認識する世界は、それを認識する自分がいてもいなくても、実際に物質として客観的に外界に実在している」と主張するものである。いうまでもなく、世界、あるいは自然についての、もっとも常識的な立場であろう。

 実際に生活している人々のほとんどすべてが、この素朴実在論を暗黙のうちに仮定していると思う。まさに、自分が死んでも世界は続くというのは、常識そのものだ。仮にこれに本気で反対する人、懐疑する人がいたとすれば、その人はよほどの真摯な哲学者であり、かつ特殊な信念を持っている人である。あるいは、変人呼ばわりされるだろう。

 ちなみに、そういった人は「独我論者」と呼ばれる。「認識主体があってこそ、外界は初めて存在するのであり、認識する主体がなければ、それが実在するかどうか考えるのは無意味である」というようなジョージバークレーに代表される考えである。これは、なるほど、哲学の議論としては面白いので、哲学史においても重要な位置を占めている。そして誰もが人生のどこかで出会う興味深い考えであるだろう。しかし、それを長い時間かけて考える価値があると考える人は、ほとんどいないだろう。

 私はたまたま、この自然的実在の問題について、個人的な思い出がある。

 高校に入学したときときに、田舎の高校にしては珍しいことに、イスラム教を信仰するというクラスメートがいた。私は彼との放課後の小さな論争で、「神などいるはずがないし、そう考える必要性もない」と主張した。当時の私の感じていた、無神論者としての常識とでもいうべきものを披歴したつもりだった。

 もちろん、イスラム教の彼は神の不存在について反論をしたが、それは彼の実感によるものであり、論理を重視する私の心にはあまり説得力がないように感じられた。これはこれで宗教的な態度としては、ごく当たり前のことなのだろう。

 驚いたことは、その時、仲裁に入った別のクラスメートが「神を信じる人には神がいて、神を信じない人には神はいないんじゃないか」といったことだった。私にとっては、この考え方は、イスラム教信仰以上に、さらに徹底的に納得できなかった。

 「外界は客観的に一義に実在していて、それらが認識主体であるチッポケな僕らの信念によって異なっているはずがないじゃないか!」と感じたのだ。

 ところで、唯我論とは「自分がいない自然世界は存在しない」とか、あるい「認識主体なき外界を観念することは無意味である」とかいうものである。これは「主観に応じて、異なった自然が存在する」という相対主義とは確かに異なったものではある。とはいえここには明らかに通底する、認識対象への懐疑主義的な論理がある。

 その後、大学に入ってからは多くの哲学的な議論に触れる機会を持った。今の私はかつてそうであったほどには、実在論を素朴には主張しなくなった。とはいえ、これ以外の思考方法は、今まで私には説得力があるようには思われなかったし、知的に興味深いだとも感じられない。よって、ここでこれ以上、議論することはやめにしよう。

 さて、このような極端な思想である独我論に比べると、はるかに一般的に支持されている考えには、いわゆる「観念論」がある。この観念論では、主観的なもの、あるいは精神的なもの、言語的なものが第一義的に重要であると考える。自然的な外界とは独立した精神性という考えは、カントヘーゲルなどのドイツ観念論でも展開されている。

 特に興味深いのは、前述したカントによる、倫理的な当為命題であるベキダについての認識である。カントは、倫理的な命題体系の世界は、客観的な外界とは別の完全に独立した世界であると考えた。世界の自然状態に対して、超然と存在する抽象的な当為概念の体系を考えようとしたのだ。これは、私のような素朴実在論に帰依する人間にとって、実に興味深い発想だ。

 以下に説明するように、私の立場は徹頭徹尾実在論に依拠している。そして、私の議論と世界観の中には、観念論的な要素はほとんどまったくない。これは私が中学生の時から帰依しているダーウィニズムの窓から見える世界観と、観念論の提示する世界観があまりにも異なっているからだ。

 私の考えるところでは、観念論が与えてくれるものはそれほど多くないし、その多くは専門的な用語に伴った特殊な視点に依存している。概念や言語の創造や精緻化などの至極小さな問題に注視していて、それを作り出す神経科学についての、はるかに重要な事実を見逃しているように思うのだ。

 例えば、ヘーゲルは〈世界精神〉という概念を使い、ときにベキダを含んでいるようにも感じられる観念的・思弁的な概念の運用に基づいて、人類の歴史という実在的なデアルを説明しようと試みた。あるいは後期ヴィトゲンシュタインやポスト・モダン哲学者たちは、〈言語的転換〉とも呼ばれるような、言語重視の世界観を打ち出した。

 私はそういった方法は採らない。その反対に、実在すると感じられる外界のデアルによって、観念的な世界の一部を構成しているベキダを説明しようとする。それは自然の実在を、言語や概念、価値観などという人間のもつ観念に優先するものとして、論理展開の基礎に置く考えである。


人間心理の由来

 さて、私が本書を書いている究極的な狙いは、人間の感じるベキダの起源と現状について検討を加え、それによってどういった社会が可能なのかというデアルについて考えてみることである。とすれば、ヒュームムーアが鋭くも指摘したように、「ベキダとデアルは無関係なので、混同して使用してはいけないよ」というだけでは、ミもフタもない。

 そこでまず私が目を向けるのは、「人間がどのような経緯から現在のような存在に至ったのか」という、自然科学的な人間の由来の問題である。これによって、その行動を決定する心理についても、なんらかの洞察を得ることが可能だろうと考えるのだ。

 そして、科学者の常識として、「人間とは、遠い昔に自然発生した、おそらくRNA=リボ核酸によって構成される自己複製体が、悠久の進化を経て到達した自己複製マシンである」という考えを受け入れる。これは現代科学においては極めて常識的で、日本の科学者においても異論の少ない正当な考えになっていると思う。

 この点について詳しく説明する必要はないかもしれないが、一つだけ強調しておきたいことがある。それは、日本でも西洋でも、多数派の人々は実利を与えてくれない科学に興味などはまったく持っていないのであって、「人間が単純な生命体から進化してきた」などとは信じてはいないということである。

 実際、ほとんどすべての宗教で、人間は特別な存在とされている。キリスト教イスラム教ユダヤ教、仏教など、すべての宗教で、人間の精神、あるいは心理は、地質学的な時間をかけた進化の過程によって形づくられたなどとは考えられていないのだ。

 キリスト教では、安直に絶対神によって創造されたというし、仏教その他の宗教では、人間の由来自体がはっきりせず、そもそも進化という視点自体が存在しない。輪廻転生などの思想は、時間の始まりも終わりもなく、博物学的な動物種の類似性や相違についてなんらの興味もないようで、それらの存在のヒントも与えてはくれない。

 こういった宗教に帰依していない無神論的なマジョリティは、人間の霊性や自然の超常性などの特別な存在を感じつつも、その他の自然科学も同時に受け入れている。そこには、あるいは論理的な矛盾があるのだが、そんなことは「考えたことがない」、「どうでもいい」、「重要じゃない」、「自分に関係ない」ということであるようだ。

 さて、私のように中学生の時代から徹底的にダーウィニズムに洗脳されて育った人間には想像もできないが、一八五九年以前の真摯な思索家たちは、自然に対しての、あるいは社会に対しての思索をする際に、人間の由来と性質は聖書などの宗教書や、自分自身の社会学的な観察に基づくほかはなかった。

 例えば、フランス革命アメリカ独立戦争の思想的な基礎付けを与えた、18世紀の啓蒙思想家には、ホッブズジョン・ロックモンテスキュールソーなどがいる。彼らは聖書を否定しない範囲で、人間の原始的な社会状況について、理性を使った想像を試みている。これはこれでキリスト教原理の枠内においては、理解可能な知的態度だといえるだろう。

 例えば、ジョン・ロックは聖書の歴史的な記述を歴史的科学的真実であるとみなして、考察をすすめている。これは20世紀の教育を受けた私には奇妙奇天烈な発想だが、地質学も未熟で、放射性同位元素による年代測定法もなかった当時には、やむを得ないことだった。むしろ驚くべきなのは、聖書の記述を前提としながら、現代に残るような社会哲学を展開できたその天才である。私はこれに対して、驚くほかない。

 あるいはまた、ヘーゲルは一八〇七年に『精神現象学』を著し、世界精神というような観念を導入し、歴史的な社会変化についての思索をなしている。この世界精神はきわめて抽象性の高い概念であり、また個人意識を超越しているという点では全体主義社会主義的でもある。

 こういったドイツ観念論は、当時としては大きな意味をもっていたのだろう。しかし、現在の自然的な人間の由来に鑑みれば、私には無意味に抽象的概念を濫用しているとしか思われない。むろん、神の意志についてのみ語る神学者に比べれば、世界精神というあらたな思考の概念を使って世界史を分析しようというのは、ある意味で理知的であり、評価に値するとはいえるかもしれない。

 多くの宗教を同列に論じることはできないだろうが、キリスト教原理主義においても、幸福の科学、あるいは統一教会においても、心身二元論的な立場がとられている。つまり、霊的な存在としての人間は独自の存在であり、自然科学から学ぶことはできないと考えるのである。おそらく心身二元論は、すべての振興カルト宗教に当てはまる一般的な主張であるだろう。

 心理学においてさえ、進化論が入り込んだのは一九九〇年代に入ってからである。

 例えば、一九三〇年代のフロイト心理学は、生物学、あるいは進化論にインスピレーションを受けたものであったが、彼の進化論の理解はほとんど独断的な思い込みでもいう程度のものであった。その結果、彼は後年、人間にはタナトス(死への願望)が存在するというような、ひじょうに独自性の強い主張をしている。

 実際のところ、今日の科学史家の共通の認識では、初めて人間心理が進化の産物であると考えたのは、他ならぬチャールズ・ダーウィンであった。彼は著名な『種の起源』において生命の進化機構を説明したが、その後『人間の由来(The Decent of Man)』を著し、人間と他の野生動物の行動的な類似性について詳細な記述を残している。そこでは、人間の心理機構とそれと類似する動物の心理の多くが、人間あるいは動物にとって進化的な利益があることによって発達したという明確な視点が提示されている。

 ところが、不思議なことに、ダーウィンの進化論的な心理学は、一〇〇年以上もの間、日の目を見なかった。おそらく動物の利他行動の研究が進んだ一九七〇年代を経て、ついに人間の心理や倫理もまた進化論の光によって説明できるのではないかという考えが、再び広まり始めたのだ。

 後述するように、一九七五年にはエドワードウィルソンの『社会生物学』が、翌76年にはリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』という二つの大きな啓蒙書がかかれた。これによって、現代の心理学社会科学は長い方法論的な迷走から解き放たれることになったのだ。


残ったものが残った

 ここで、ひじょうに簡単にダーウィン進化論について説明しよう。

 生物の個体は多くの子どもを残すが、そのすべてが生き残って子孫を残すことは不可能である。この場合、外的な環境、あるいは種内の性的な競争によって、優れた資質を持つ個体が生き残ること、そして子孫を残すことにより成功する。その結果、そういった優れた資質は、種内のより多くの子孫に広がってゆくことになる。

 より多くの子孫を残せる個体は、定義によって、より適応的である、あるいは適応価が高いといわれる。古典的な例を挙げるなら、シマウマを狩るライオンの足の速さや学習能力の高さなどがあるだろう。

 ライオンの場合、より速い速度で走ることによって、あるいは風下から気付かれないように獲物に近づく技術が高いことによって、狩りの成功率は上がるだろう。その結果、より多くの子どもを育てることができるため、そういった資質、あるいは遺伝子は次第に種内に広がる。その結果、種としてのライオンはよりうまく狩りができるようになるだろう。これが、種の進化である。

 この考えは、時に「適者生存」と呼ばれるが、実際には「生存」が重要なわけではない。つまり「生存」するだけでは何の意味もなくて、「繁殖」の成功が重要なのだ。だから、生物学者が「適応価」について話すとき、それは原則的に残した子どもの数になるのである。ある個体が短命であったか、長生きしたかはほとんどどうでもいい。

 この考えは、様々な意味で「劣った」個体が繁殖に成功しないことを意味している。そのためだろう、「競争」が美徳であるとは思わない人びと、あるいは〈平等〉が重要な価値であると考える人びとにとっては、あまりウケの良いものではない。

 次章で詳述するように、「人間は平等であるべきだ」という考えは、我われの道徳観・価値観においてあまりにも大きなものである。そのため、ダーウィン的な進化論は間違っている「はずだ」という考えは、この一五〇年間、絶え間なく主張され続けてきたし、現在もそうである。間違いなく、今後もそうであり続けるだろう。

 あるいは科学哲学的、抽象的にはダーウィン進化論が誤りである可能性は存在しているといえるだろう。だが、私が知る限り、ダーウィニズム以外の進化論は論理的・実証的に破たんしているので、以下はダーウィン進化論を前提にして議論を進める。


遺伝子を中心に世界を見る

 よく知られているように、生物の遺伝子デオキシリボ核酸DNA)によってコード化されている。人間のDNAは30億もの塩基対によって構成される膨大なものだが、実際にタンパク質をコードしているイントロンと呼ばれる部分は3万ほど、あるいはもっと少ないと考えられている。

 このわずか3万の塩基対の配列はヒトであれば、ほとんどが同じである。そうでなくては、ヒトとして正常な個体発生をして、活動することはできない。しかし、これらのうち三〇〇ほどの遺伝子座は、各個人によって異なっている。そして、これらの異なった遺伝子は対立遺伝子と呼ばれ、ヒト集団内の個々人の遺伝的な差を生みだしている。

 過去、人びとの関心をもっとも強く引いてきたのは、一つの遺伝子の違いによって引き起こされる致命的な病気である。たとえば、東欧系ユダヤ人に保因者が多いテイ・サックス病がある。この致死的な病は、ガングリオシドという脂質が神経細胞内に蓄積することによって、歩行失調その他の神経活動の麻痺を引き起こし、最終的には死に至るというものである。

 この病気は遺伝子座が特定されているだけでなく、その遺伝子にコードされているタンパク(酵素)も判明している。つまり、15番染色体上にあるHEXA遺伝子は、β-N-アセチルヘキソサミニダーゼAという酵素を作り出すが、これに異常がある場合、神経細胞からガングリオシドが除去されなくなる。

 ヒトは、二つの対立遺伝子を持っているため、そのうち一つでも正常であれば、酵素が生成されて問題は生じない。つまりHEXA遺伝子の異常は、劣性の遺伝子となるのである。そして、この劣性遺伝子を、父と母の両方から受け継いで二つ持っている(ホモ結合)いる場合、病気になってしまうのである。

 この病気は中年期以降に発症することが多いため、保因者は青年期にすでに結婚して子供をつくっていることが多かった。そのため、この遺伝子がヒトの両方の染色体に存在する(ホモ結合が生じている)場合、その個体にとっては致死的であるにもかかわらず、その子どもはすでにある程度大きくなっていることが普通であった。そのため、このHEXA遺伝子の異常は、ヒトの遺伝子集団(遺伝子プール)内を生き残ってきたのだ。

 もっと興味深いのは、鎌型赤血球の生成遺伝子のホモ結合である。これはサハラ以南の黒人に多い遺伝子であり、ホモ結合すると致死的であるが、1つの染色体上にだけ持っている場合、マラリアに対して耐性をもつことができる。この場合、ホモ結合による死というの大きな危険を割り引いても、その遺伝子マラリアへの耐性を持つため、集団内に広がるということになる。

 総じて言えることは、個人に悲惨な死をもたらすような遺伝子であっても、別の理由から若い時期により多くの子供を持つことを可能にするのであれば、結局は集団のなかで生き残ることができるということである。あるいは逆に、個人に安楽を与えるような遺伝子でも、それがその個体の生殖につながらないのであれば、地質学的な時間の中では淘汰されてしまう。

 進化論の帰結からすれば、遺伝子の多くは、人間は各個人が、人間として望ましいと思うような性質をもっているとはいえない。なぜなら、個人(個体)は遺伝子の作り出す入れ物に過ぎず、個人の精神的な安楽や死に方、長寿などの性質は、その個体を作りだした遺伝子の繁栄とは、完全には一致していないからだ。

 さて、19世紀にダーウィンが進化論を定式化したとき、自然淘汰の単位については漠然と種であるとか、あるいは集団、さらには個体であるとか考えられていた。これを決定的に遺伝子中心の視点に転換したのが、イギリスウィリアム・D・ハミルトンと、アメリカジョージ・ウィリアムズであった。

 彼らの理論をまとめてみよう。動物が利他的な行動をする際、相手はほとんどが近親個体であり、近親個体には自分と同じ遺伝子が近親度に応じた確率で入っている。例えば、通常の生物では、親と子ども、同じ父母を持つきょうだいは2分の1の遺伝子を共有している。おじやおば、祖父母では4分の1、いとこでは8分の1となる。よって、自分の受ける不利益を上回る十分な数の親族を助けることができるのなら、そのような利他行動は進化することになる。

 後述するように、人間の場合には、利他行動は親族以外にも広くみられ、それには多様な理由があると考えられている。そうはいっても、親戚同士の助け合いは、人間においてももっとも普通にみられるのも間違いない。

 さて、遺伝子中心にみると、自分が死んだとしても、二人以上のきょうだいが助かるのであれば、そういった行為は生物学的な進化的な存在基盤を持つことになる。このことはダーウィニズムを現代的な形で完成させた立役者の一人であるJ・B・S・ホールデンが50年以上も前に指摘している。

 鎌形赤血球貧血に関して前述したが、このことのもっとも重要で興味深い例は、一つ一つの遺伝子が、その果たす役割において多面的なことに関連している。この多面発現で予想されるのは、ある遺伝子が個体の死亡リスクを高めたとしても、それを上回る繁殖の可能性によって適応価を高めるのであれば、そういった遺伝子は集団内に広まるだろうというものである。

 例えば、男性ホルモンであるテストステロンは筋肉の発達を促進させるため、おそらくは男性同士の争いにおいて大きな価値をもってきたはずである。しかし、高濃度のテストステロンは免疫力を弱めるだけでなく、更年期以降における前立腺ガンの発ガン率を高めてしまう。つまり、男性が男性らしくあることには戦闘力を高めるという利益とともに、発ガンによる死亡リスクを高めるというコストがかかっているのだ。

 また別の例をあげてみよう。遺伝子の組み換えによって、センチュウを長生きさせることができたことは、多くの科学雑誌で紹介された。シカゴ大学生物学者は、センチュウの寿命を約2倍にまで伸ばしたし、すでにヒトについても4番染色体に長寿のカギを握る遺伝子の一つがあることが確かめられている。

 しかし、この遺伝子は同時に、繁殖を抑制するものであるようだ。適応価は大きく下がっているのである。長生きさせる遺伝子があったとしても、それが10分の1以下の子供しか残せないのでは、そういった遺伝子が集団の内部には広まることはない。

 遺伝子の視点からみると、個体が長生きすること自体には何の価値もない。より繁殖を成功させることができるのであれば、個体が若くして、惨たらしく死んだとしても、遺伝子は集団内に広まってゆくことになる。この考察は、進化を個体中心に見ることは、少なくとも生物学的な視点とは相いれないということを意味している。

 ドーキンスはこの遺伝子中心の視点を、「生物個体は遺伝子の乗り物でしかない」という刺激的な表現を使って、世に広めた。一九七六年の『利己的遺伝子』は、人文主義的な人間存在の意義をますます低いものとしたように思われる。我々の個体心理までもが自己複製マシーンのプログラムの発露であるというのは、知的にはともかく、意義ある人生というものを求める普通の人にとっては聞いていて面白い話ではないのだろう。

 

タブラ・ラサの仮説

 さて、ヒトは生まれてくるとき、なんらの先天的な行動傾向ももたず、その後の学習によってすべての行動を覚えるのだとしよう。こういった考えは、心が白紙のままにうまれてくるという意味で、タブラ・ラサの仮説と呼ばれる。

 このタブラという言葉は、英語のテーブルの語源となったラテン語である。いろいろなことを書き表す黒板のようなものを指していて、つまり、まっさらノートというような意味がその原義である。

 この仮説は、前述したスコットランドの啓蒙哲学者であり、経験主義者であったジョン・ロックが主張したことでよく知られている。その後、この考えはロシアパブロフによる条件反射の研究などを経て、アメリカで行動主義心理学として大きく花開いた。

 行動主義を完成させたジョン・B・ワトソンスキナーたちは、人間心理をブラックボックスとして取り扱うという方法をつきつめて、生物の本質とは単なる反応の連鎖であると主張した。ついで、その自然な帰結として、条件付けによってどんな子どもでもどんな人格にでも訓育することができると考えたのである。

 ワトソンによる、一九三〇年の代表作『行動主義』における以下の文章は、彼の極端な立場を表わすものとして、心理学史において大変によく知られている。

 「12人の健康な乳児と彼らのための、よく計画された、私の特定するような養育環境を私に与えよ。私は、彼らのうち任意の一人を、私の選ぶどんなタイプの専門家にも育て上げることを約束しよう。それは医者であれ、弁護士であれ、社長であれ、そして、そう、たとえ乞食であれ、盗人であってもであり、そして子供の才能、好みや趣向、能力や適性、その祖先の人種にかかわらずである。このことは私のもっている実験結果を超えた主張であることは認めるが、それは反対意見の推進者たちも同じであり、彼らはそれを数千年にもわたって行ってきたのだ。」


 さて、当時に比べて圧倒的に多くの学問的な知見が集まった現在となっては、こういった考えの詳細を論じて、個々的にその主張に反対する必要はもはや存在しない。現在の心理学研究の主流となっている進化心理学では、生物学的な進化論からヒトの行動の意味を説明しようとする。そこでは、配偶行動をはじめとする、多くの重要な人間行動は先天的な傾向によって導かれると考えられている。

 ちなみに大分さかのぼったところでも、言語学者のノーム・チョムスキーは、言語の発達は、単なる条件反射では説明できないことを一九五〇年代に最初に主張している。ヒトの脳に言語を獲得するための先天的な言語回路が存在していないならば、条件反射のみでは、わずか数年でのヒトの言語の習得は不可能だからだ。

 彼の考えは、進化論的言語学者であるスティーブン・ピンカーによる『言語を生み出す本能』などに引き継がれている。実際に、脳にはブローカ野やウェルニッケ野などの言語活動に特化した部分が存在していること、そしてその発生や分化には遺伝子レベルの基礎付けがることは、現在ではよく知られている。

 あるいはまた、別々に育てられた双子研究をみてみよう。こういった研究は、アメリカデンマークなどで行われてきた。一卵性双生児が異なった里親に育てられた場合、その性格や行動の違いと類似性を測ることによって、人間行動の差異に対する影響を、遺伝要因と環境要因に分けて考えることができる。

 一卵性双生児は遺伝的には同じであるが、養子縁組によって里親が異なっている場合には、その生育環境が異なることになる。成人後の人格の類似性はもともとの遺伝的な素因によるものであり、その違いは基本的には環境要因によって形作られると考えられるのである。

 これは現在、行動遺伝学と呼ばれる研究分野になっている。結論的には、人間一人ひとりには遺伝的に自然な個性があり、それは単に環境によってのみ決まるのではないことがわかっている。知性や各種の性格因子の遺伝率、つまり集団内変異のうち、遺伝によって説明される部分は50%程度になる。つまり、ヒト集団のなかの様々な個性、あるいは人格や能力のバラつきは、その50%程度が遺伝的に誘導されているといえるだろう。

 後述するように、右翼・左翼などの政治的な態度についても、遺伝率はそれなりに高いようである。とするなら、人間の倫理観にも先天的な基礎付けがあり、それは遺伝的に、脳内のニューロンの結合様式や神経伝達物質の分泌量や受容性、あるいはホルモンの分泌などに埋め込まれたものである、という前提をとることは自然な話になる。

 ここで理解してもらいたいのは、こういった行動の遺伝性という概念を考える際には、個人の行動や個性が遺伝によって完全に決まってしまうということではないことだ。「ある程度」というところがミソなのである。これはまた自由意志についての部分で後述するが、全体の議論に大きく関連してくるので、忘れないでもらいたい。


犯罪という行為概念の自然主義的基礎付け

 明らかに、われわれの社会には「殺すなかれ」、「盗むなかれ」、あるいは「犯すなかれ」といような基本的な犯罪への禁忌意識がある。私は、これらの道徳規範はほとんど直観的なものであって、神経科学的な、あるいはハードウェア的な配線が先天的に発生することが、遺伝レベルでプログラムされているのだろうと考えている。

 あるいは、そういった規範などはすべて社会的な構築物でしかないという人もいるかもしれない。こういった感覚が先天的なのか、あるいは後天的なのかについては、また後に考えることしても、こういった倫理観や道徳感情が広く一般に存在することだけは間違いない。

 さて、こういった道徳規範の存在に関連して、世の中でよく聞かれる素朴主義的な質問には、「なぜ人を殺してはいけないのか?」というものがある。いろいろと人文主義的、人道主義的、あるいは宗教的な返答があることは間違いないだろう。しかし、これらの説明はすべて、私が合理性の基準から考えて納得できるものではなかった。

 曖昧な説明に代わって、私はここで、多くの日本人にとってほとんどまったく聞いたことのないであろう、功利主義的な説明をしてみたい。これはアメリカで発達してきた「法の経済分析」という研究分野における、法律の功利主義的、あるいは経済学的な基礎付けである。聞きなれないに違いないが、その論理はクリアであり、ベキダという概念の基礎付けとして知的に興味深く感じられるはずである。

 まず典型的な犯罪行為として、殺人や傷害行為をめぐる規範について考えてみよう。

 AがBを殺す、という行為について検討しよう。その場合、AはBを殺すことによって精神的に満足を得ると考えることができる。ここで、このAによる殺人による満足、あるいは快感に価格をつけることを考えてみよう。これは100万円に値するかもしれないし、あるいは1億円になるかもしれない。

 しかし有限なある金額をもらうことによって、AはBを殺すことをやめることに同意するという金額が存在するだろう。これは、Aにとって、Bを殺すことと、その金銭をもらうことの価値が等しいこと(経済学者のいう無差別であること)を意味している。

 反対に、Bにとって自分が殺されないことには、間違いなく主観的には無限の、あるいは客観的にも、Bの生涯所得全体の最低限度の価値がある。Aが得た快楽の金銭換算値と、Bが被る被害の金銭換算値には大きな差があるのが普通である。とすれば、犯罪者の快楽額から、被害者の損害額を差し引きすると、結局は大きなマイナスになるだろう。つまりAとBによって構成される小さな社会全体からみると、AがBを殺すことからは、Aの利得よりもBの損失の方が、金銭的に大きいということになる。

 ミもフタもない表現なのだが、これが殺人が罪とされる理由である。

 同じ論理は傷害行為にも当てはまる。怨恨であれ、通り魔のような愉快犯であれ、傷害犯は相手に傷害を与えることで何らかの精神的な快感を得ている。それを金銭評価するなら、せいぜいが数万円から数百万円程度の価値しか持たないだろう。言い換えれば、それだけの金額をもらうのなら、その引き換えに犯人は傷害行為をやめることに同意するだろうということである。

 これに対して、傷害を受ける個人としては、傷害犯人の快楽よりもはるかに大きな被害を受けるのが普通である。いいかえれば、被害者は傷害を回避するために、犯人の快楽換算額以上の支払いをする用意があったはずだということである。

 ということは、被害者と加害者の二人についての社会的な利得は、傷害という行為によって全体としてマイナスになっている。これを「金銭的な」功利主義からみると、傷害行為は社会全体の幸福を減らしたことになるため、われわれはそれを犯罪として罰するのである。

 最後になるが、窃盗については、もっと理解しやすい。通常、もともとの所有者にとっての窃盗物の価値は、窃盗犯人にとっての価値に比べてはるかに大きい。仮に、窃盗犯人にとっての価値が、所有者にとっての価値よりも高いのであれば、犯人は所有者に売買を持ちかけることで、合法的に所有者の同意を得て、当該物を入手できるはずだからである。

 窃盗犯人のほとんどは、窃盗物をすぐに闇市場に売り払ってしまう。通常、その価格はもともと所有者が買った値段に比べて、はるかに低いものでしかない。さらに、窃盗行為には時間も労力もかかるのであるが、それはもっと別の生産的な仕事をすることにも使えた時間と労力なのである。

 窃盗行為は、犯人にとっても時間のかかる、しかし社会的には価値破壊的な行為となっている。このため、窃盗物を犯人が得ることは犯人の快楽になっているが、それ以上に所有者にとっての損失と窃盗行為は犯人の労力の総和は大きな価値を持っている。つまり窃盗行為は、社会全体の価値を毀損する行為であり、望ましくないものだといえるのである。

 実のところ、話はこれにとどまらない。殺人にしても、傷害、窃盗にしても、そういった行為が起こることが予想されるのなら、潜在的な被害者は、それに対抗するために、武器を持ったり、あるいは夜中の外出を控えたり、厳重な戸締りのための器具や防犯装置を購入する必要が生じてしまう。これらは、それ自体は何も生産的なものではなく、単なる純粋な社会的な損失である。

 実際、犯罪率の高いアメリカでは、日本でいうセコムのような警備会社と契約するのが、ごく一般的な家庭でも常識となっている。なるほど、セコムの活動は確かに顧客の生命や財産を守るというサービスを供給してはいる。

 しかしここで、そもそも犯罪行為をしようとする人間がいないとしよう。その場合、現在そういった警備会社に勤めている人たちは、工場で何かを生産するなり、高齢者介護をするなり、といった、何かもっと他の積極的に生産的な仕事に就くことができる。つまり、警備会社のサービスは消極的なものでしかなく、警備活動などが、そもそも必要ないのであれば、社会の総福祉を上げることができるはずなのである。

 以上のように、犯罪と呼ばれる行為は、ある程度は加害者にとっては満足度の増大につながっているかもしれないが、それ以上に被害者が迷惑を被っている場合なのだといえるだろう。これは、加害者と被害者の両方の利益を金銭的に考えたものだが、もっと常識的に加害者と被害者がほとんど同じような境遇にあると考えれば、そのまま精神的な満足度の増減についての功利主義哲学として理解できるのである。


犯罪のゲーム状況

 ここでの記述的な説明を、もう少し厳密にゲーム理論をつかってあらわしてみよう。A、B二人のプレイヤーによる社会において、それぞれが犯罪的な行動、ここでは盗み、をする場合としない場合について、各人の得る利得を考える。


                     プレイヤーAの行動

                  盗む         盗まない


 (−10、−10)

  (−20、10)

 (10、−20)

   ( 5、 5)



 表の中にかっこであらわされた数値は、それぞれAとBの利益値を示している。Aが盗みをしてBが盗まない状況は、4つの数値行列のうち、左下に表れている。Aは盗みをするために10の利益を得るが、Bとしてはそれ以上の20という大きな損失を被ることになる。Bが盗み、Aは盗まないのであれば、状況は反対になる。

 AもBも窃盗をはたらけば、お互いのものを取り合うために、それぞれが20を失って10を得るため、結局は二人ともに10を失うことになる。最後に、二人ともが盗みをしないのであれば、その時間を別の生産的な活動に充てることができるため、両者は5の利益を得ることになる。

 犯罪の状況論理とは、まさに加害者と被害者の利得を足し合わせた場合に、負の値をとるということにある。加害者はなんらかのものを得るのだが、その正の値は、被害者の負担する負の値によりもはるかに小さいのである。

 この場合、両者が事前に話し合って、盗みをしないという協定を結ぶことが、双方にとって有利になるだろう。このために、犯罪をしないということが暗黙の社会契約であるという考えや、犯罪行為を社会契約上の契約の不履行とみなされることがあるのだ。

 犯罪行為は罰されるということが事前に約束されていれば、各人が犯罪を行うインセンティブはなくすことができる。ここで示した場合であれば、盗みに対して、例えば10の罰を与えることが事前に約束されているということになるだろう。窃盗行為が必ず罰されるというのであれば、AもBも窃盗の後に罰を受けることによって結局は0の利益を得るよりも、普通に働いた方が5の利益を確保できるだけマシになるのである。

 10の利益のある犯罪に対して、10単位の罰が与えられるという刑法的な社会契約を実行することと、盗まれた被害者やその他の第三者が、加害者に対して10単位以上の復讐をすることとは、犯罪抑止効果の点からみると、同じであろう。このことが、後述するように、実際には社会契約という論理的な解決法をとる代わりに、われわれが道徳感情と、それに伴う犯罪への憎しみと応報感情によって、犯罪の発生を抑止している理由なのだ。

 さて、殺人について考えてみるのは、思考実験としては窃盗よりも興味深い。AがBを殺すというのであれば、Bの被害は通常は無限大だといえる。この場合、Aが感じる満足が有限のものであれば、つまり、有限の金額の金銭に置き換えられるというのであれば、それだけでAとBの利得の総和は無限にマイナスとなる。

 総和の値がマイナスの大きな数字であればある程、その行為の反社会性は高いと考えられるし、同時にそういった行為に対する道徳的な非難と物理的な懲罰の程度は上昇する。このように、通常の個人生活のなかで、他人との共同生活に対して破壊的であるものが犯罪なのであり、そういった行為が起こらないように罰する必要が生じるのだ。

 さらにここで注目に値するのは、実質的な社会的損害が生じていない場合には、犯罪は違法ではなくなるという、一般的な法制上の特例である。これは前述の利得行列でいえば、Aが窃盗をして、Bが窃盗をしない場合の利得が、それぞれ20と−10であるような場合である。

 例えば、AがBの別荘に入ってパンを盗んだが、Aは遭難していたために餓死しそうな状態にあり、反面、Bは別荘にはおらず、その別荘である山小屋に多くのパンを蓄えていたとしよう。この場合、刑法では「緊急避難」行為として、このような住居侵入や窃盗の違法性は阻却され、犯罪として罰せられなくなると考えられている。

 具体的には、日本の刑法では、第37条に「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。」とある。

 要するに、緊急の場合には、犯罪に当たるような行為であっても、もっと重要な利益を守るためであれば、それを実行することは道徳的な非難を受けたり、罰を受けたりしないということである。これはまさに、刑罰や倫理観がその根底に功利主義的な論理を持っていることによるのである。

 似たようなことだが、同等の利益(法律用語では法益と呼ばれる)を守るために、犯罪に当たるような行為を行うのもまた許されている。例えば、自分を殺そうとしてきた相手を逆に殺してしまうというような、正当防衛である。

 刑法36条には「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」とある。これもまた犯罪とされるべき行為が実質的にもたらす利益を考えると、しないよりもした場合の方がより大きいという例外規定なのである。

 このような緊急避難や、あるいは正当防衛の制度について考えると、法が犯罪行為を規定し、処罰しようとすることは、功利主義的な考察によって説明できることが納得できるだろう。ついで、このようなデアルという状況論理が、どのようにしてベキダという感覚に転化していったのかを検討しよう。


進化的適応環境が心理機構に反映されるまで

 ここまでに述べた説明は、功利主義的な哲学に基づくものであり、いわば状況論理を考察したわけである。だから、個人が「道徳的直観」を持って、殺人が悪いと感じることの説明というよりも、むしろ、「どうして殺人が悪いことなのか」についての論理的な説明である。

 では、こういった論理は、1、一体なぜ我々の直観、あるいは実感にまでなっており、2、さらに強い感情を伴うのだろうか。ここで、進化的な議論の出番になる。

 まず1について考えてみよう。

 後述するように、道徳感情はおそらく哺乳類程度の知能があれば、共通して持っていると考えられる。しかし種の単位での行動の変化は速やかなので、ここでは特に、人間がゴリラチンパンジーから分岐して独自に進化してきた過去500万年以上の歴史を考えてみよう。その進化的な生活環境というのは、せいぜいが数十人程度の小さな集団であったと考えられている。

 貨幣のない状況においても、殺人や傷害、食べ物や衣服の窃盗などは価値破壊的、非生産的な活動であるため、集団内部の軋轢を高める。どういった集団においても、殺人や盗みといった活動が恒常的に存在するのであれば、それに備えるための物質的・心理的な負担は大きなものとなるだろう。

 集団にとって破壊的な行為は、行為者を罰する必要がある。そういった行為は犯罪と認識され、懲罰が下されることになるべきである。これは、ヒトの進化の過程で、状況によって変化することのない普遍的な行為規範となるため、ヒトの脳内には犯罪を見出し、罰を与えるような回路が発達することになる。

 地質学的な時間の中で、状況論理は道徳判断の専用モデュールとして脳に配線され、その実行には、大脳の一般的な論理的な思考をほとんど必要としなくなる。実際、内省的に考えても、常識的な犯罪行為に対しての道徳的な非難には、ほとんど論理的な要素は含まれてないように思われる。

 経済犯罪などの特殊犯を除けば、殺人や窃盗などの自然的な犯罪は、どういった社会でも、あるいはどういった状況でも、犯罪として認識される。そして、それらに対しては憎しみや嫌悪などの感情をもって、公的、あるいは私的な懲罰が与えられる。こうした一連の犯罪に対する一般人の道徳判断には、一般論理的な思考はほとんどまったく入っていないのが普通なのだ。

 たとえを持ち出すなら、大脳における論理的な思考というのは、コンピューター上を走る一般的なソフトウェアのようなものだといえるだろう。それを実行するために時間もエネルギーも必要となる。時代や場所に関係なく、常に同じ判断を下すべきなのであれば、ソフトウェア的に後天的な学習をするよりも、特殊で小さなハードウェアとして埋め込んでおいた方が、処理速度も速いし、エネルギーも少なくて済む。

 コンピューターに明るい人は、CPUには通常無線LAN専用の補助チップが付いていることや、あるいは高速でリアリティのある描画のためには専用のグラフィック回路が付いていることを知っているだろう。比較的にルーティーンになるような情報処理に対しては、専用の回路があった方が効率がいいのである。

 次に、2の問題に移ろう。なぜ犯罪への道徳判断には感情が伴うのだろうか。

 犯罪は通常加害者には何らかの利益を与え、被害者を害する行為である。それを罰するというのは契約としてはもっともなものだが、実際にその懲罰を実行するためには、何らかの労力が必要となる。

 小さな部族集団で生きていたヒトの進化的な環境では、被害者は自分で、あるいは自分の家族や友人と一緒になって、直接に加害者に対して懲罰を加える必要がある場合が多かったはずである。あるいは、長老のような仲裁役に対して、加害者の懲罰を訴える必要があったかもしれない。

 どちらにしても、加害者にしてもなんらかの言い分はあるだろうし、素直に懲罰を受けるかどうかは明らかでない。懲罰を逃れるために逃げようとするかもしれないし、あるいは応戦してくるかもしれない。犯罪はすでに起こってしまい、被害は回復することができないのであるから、逆に懲罰行為をあきらめる方が「合理的」であると言える場合も多いだろう。

 そういった場合に、懲罰を与えようとするものに、断固とした感情が伴わってはいないとしよう。その場の一時的な合理性を優先して懲罰行為をあきらめる個人は、次回からナメられてしまい、いっそう犯罪の被害に遭いやすくなってしまう。

 だから、一時的には懲罰を与えようとすることで、さらなる被害が生じたとしても、断固として復習をすることが、長期的には有利になる。このことを可能にするためには、合理的な判断を超えた懲罰欲求を生じさせるための、理性を超えた強い感情が必要になる。これが犯罪を非難する際に、なぜ強い感情を伴うのかについての理由となるのである。

 実際、復讐のような強い感情を伴う場合、ヒトの全身にはアドレナリンという戦闘準備を行うホルモンが行き渡り、顔は紅潮すると共に、意識的にはコントロールできない非随意筋が怒りの感情を作り出す。こういった状態を作り出すためにはそれなりの肉体的なエネルギーを必要とするため、ヒトの意図の真剣さを表す重要なシグナルとなるのである。

 自分よりも肉体的、あるいは社会的に優勢な犯罪者に対して、不退転の決意で復習をするためには、合理性を超えた尋常ではない憎しみが必要であろう。それを成し遂げるために、ヒトの心の中で、犯罪への非難は強い感情をもってなされるように進化してきたのだ。

 なお、最近目覚ましく発達してきた大脳活動のイメージング技術であるfMRIやPETなどを使ってみても、このことは明らかである。論理的な判断は、頭の前側にある前頭葉が活性化して実行される。これに対して、倫理的な判断は、扁桃体で発生する感情を伴いつつ、前頭葉などに比べてもっと原始的な脳部位である大脳視床下部によって行われている。

 さらにまた、このことからは、集団内の道徳感情というのは、ヒトが他の類人猿と分岐するはるか以前から持っていたことが示唆される。当たり前のことだが、集団生活をする動物であれば、なんらかの人間に似たような行動規範が存在しており、それを破れば他の個体からの罰を受けることになる。

 例えば、チンパンジーの研究で有名なオランダ霊長類学者であるフランス・ド・ヴァールには、『政治をするサル――チンパンジーの権力と性』という著作がある。彼は、ヒトと同じようにチンパンジーも他の個体を欺いたり、仲間を作って攻撃したり、政治をしたりして、メスとの交尾の機会を確保しようとすることを報告している。集団の行動規範に反した場合には、仲間の怒りを引き起こし、サンクションが与えられるのも人間社会と同じなのである。


ウェイソン・カード問題

 さて、進化心理学では、社会規範に反するものを直感的に理解するため、人間の大脳には専用の回路があると考えるのが常識的な発想となっている。そして、その証拠として、例えば、まったく同じ論理構造をもつ純粋な論理問題を解くのに比べて、それを社会規範の違反の問題に置き換えると、人々が容易に問題を解くことができることがあげられている。

 その典型的な問題は、4カード問題、あるいは報告者の名前をとって、ウェイソン・カード問題と呼ばれるものだ。これはまず、4枚のカードがあり、その表にはアルファベット、裏には数字が書いてある。そして今、目の前には、A、B、4、7、の4つカードがあるとしよう。この場合、論理ルール「カードの表に母音が書かれているなら、裏には偶数が書かれている」について考えてみよう。このルールがこれらのカードには当てはまっていないことを確かめるためには、どの2枚のカードを裏返せばいいだろうか?

 ここで少し、読者の皆さんにもしばらくの間、考えてみてほしい。












 実際、この問題を解くためは、それなりに高度な論理能力を要求する。半数を超える人が、Aと4を選ぶのである。しかし、これは間違っている。なぜなら、4の裏をみて、それが子音であったとしよう。その場合でも、そもそもここで問題となっているルールは、母音の裏についてのみ語っているのであり、子音の裏の数字については何も語っていない。よって、4の裏を見ても、ルールが守られているかは確かめることはできない。

 しかし、7の裏を見て母音が書いてあったとすれば、ルールは破られていることが分かる。よって。ここでは、Aと7を選ぶのが正解なのである。このように論理を解説すれば、別に難しい問題ではないように聞こえるかもしれないが、直感的に即答できるようなやさしい問題でないことは間違いない。

 今度は、この問題を論理には変えないままに、社会規範の問題にしてみよう。

 酒場で合計4人の男がいて、飲み物を飲んでいるとしよう。左側の二人はそれぞれビールとコークを飲んでいるが、その隣には18歳、22歳の2人の男がビールあるいはコークを飲んでいる。この場合に、規範ルール「ビールを飲んでいるなら、その人は20歳以上である」を彼らが守っているのかどうかを知るためには、どの2人を調べればいいのだろうか?

 もう一度、少しばかり考えてみてもらいたい。











 過半数の人が、ビールを飲んでいる男性と18歳の男性の2人をを調べればいいことを即座に回答する。ここでは何も難しいことはない。ビールを飲んでいる男を調べるのは当然として、22歳の男が飲んでいるものを調べても、何の意味もないことは明らかだ。18歳の男が飲んでいるのがビールかどうかだけが重要なのだ。

 しかし、この問題は論理的には、カードの問題と同じなのである。にもかかわらず、このような社会規範の問題を解くことは、純粋な論理問題を解くのに比べて、ひじょうに易しく感じられるという事実がある。

 ここから、カリフォルニア大学進化心理学者であるレダ・コズミデスとジョン・トゥービィは、人間の脳には社会規範の判断のための特別な回路が用意されていて、規範の違反に対して懲罰を加えることを容易にしているのだろうと結論している。

 正直に言って、私にはこれが本当であるのかどうかには確証が持てない。論理問題は抽象化されているが、アルコール飲料が許されるような状況は、われわれになじみが深いため、単なる「問題に対する慣れ」である可能性も完全には否定できなさそうだからである。

 この問題は、fMRIのような大脳イメージング技術を使わなければ、はっきりとしたことは言えないように感じられる。とはいえ私も、理論的なレベルでは、社会規範専用の脳回路があっても不思議ではないと思う。よって、ここでは、彼らの意見を取り入れて、ここでいうウェイソン・カード問題に表れているように、人間には単なる論理を超えた社会規範の順守・違反などに特化した回路があると結論付けてもかまわないだろう。

 ここでの結論は、我々の原始的な進化環境では、多くの破壊的、反規範的な行動があり、それを相互に禁止するための規範心理が脳内に発達した。それらの社会規範回路は、純粋に論理的な思考をパスして、もっと直感的に善悪を理解することを可能にして、我々の行動の指針であるベキダを受け持っているということなgtのである。

 

デアルがベキダをつくりだした

 さてここで、以上の議論から明らかになったことを、もう一度確認してみよう。

 犯罪と呼ばれる行為は、基本的に集団内の他の個体にとって害悪をもたらす行為なのであり、犯人の得るものよりも、被害者の失うものの方が多いような行為類型を指す。これはしかし、ある種の行動をめぐる状況について説明しただけだ。つまり犯罪行為とは負の結果をもたらすという結果についての、デアルでしかない。ここから、直接には犯罪行為は行うべきではないというベキダは導き出すことができるわけではない。

 しかし、「こういった犯罪行為を行うべきではない」、あるいは「これらの行為は罰するべきだ」という当為概念を持たない個人ばかりが存在していたとしよう。そういう社会では、社会的に不利益となる行為が罰せされることがない。

 この場合、犯罪行為を実行するものは有形無形の利益を得るが、被害者はその利益以上の被害を被ることになる。長い時間のうちには、集団内にはそういう犯罪行為を行う個体は徐々に増えていくことになってしまう。犯罪者になる可能性も被害者になる可能性も同じようにあるというような状況では、その社会は結局、誰もが損失を被るようなものになってしまう。

 犯罪行為を許すような相互関係よりも、そういった極度に利己的な行為を罰するような心理を獲得した家族や小集団があったとしよう。それは、各個人が犯罪から得られる利益を減らすことになり、それによって相互に破壊的な犯罪行為を抑止することが可能になる。ここでの仮定は、これは合理的・意識的というよりは、進化の過程で生じた心理機構の結果だというものである。

 こういった進化論的な議論では、普通に人が「殺人は悪であり、罰されねばならない」と感じるとき、そこには今説明したような背後に存在する功利主義的な利益衡量などが意識される必要はまったくない。むしろ論理を超えた道徳的直観として、「殺人はするべきではなく、殺人者は罰されるべきだ」という、行動についての当為概念として、脳内に特別な配線が、進化によって形成されるようになっていると考えるのだ。

 以上説明したような形で、犯罪行為の生み出す状況というデアルと、犯罪行為についての価値判断であるベキダが結びつくことになる。犯罪という行為がもたらす状況はあくまでも、社会の構成員の不利益であるというデアルにすぎないのだが、そのような状態の発生に対して我々が心理的に対処してこなければならなかったことが、われわれの脳内にベキダという行為規範の生成回路を進化させることになったのである。

 これは法の経済分析において功利主義から規範理論を導き出す際に使われる論理を、私が進化論に当てはめたものである。後述するように、一九七〇年代にはすでに、ウィリアム・ハミルトンロバート・トリヴァース、エドワードウィルソンなどの社会生物学者たちは、動物の相互利他性を支える社会規範の進化について盛んに論じていた。

 人間も動物の一種だと考えれば、別にヒトだけが特別な存在ではない以上、人間の道徳規範の進化についてもチンパンジーやヒヒと同じ分析が可能になる。エドワードウィルソンによる1975年の大著『社会生物学』には、すでに人間の社会行動の分析は、進化論に整合する形で、生物学と統合されるだろうとまで断言されているのである。

 もちろん、この意見に対しては多くの社会科学者が強硬に反対した。人間の学習能力はほとんど無限といえるほどに高く、生物学の方法はそのままでは人間社会の研究に適用できないという反論がなされたのである。

 また人間行動の遺伝的・先天性を強調することが、これまでの社会に存在する保守的な行動様式を擁護しようとする試みだと感じられたことも大きい。このため、アメリカ生物学会ではいわゆる「社会生物学論争」が起こり、しばらくの間ウィルソンは個人的な誹謗中傷さえも受けることになった。

 生物学社会科学への影響は1980年代には顕著とは言えなかったものの、1990年代には次第に多くの若手の心理学者が、人間心理の進化理論的な基礎付けを展開するようになった。21世紀にはいって主流化したといえるレダ・コズミデスとジョン・トゥービィによる進化心理学の発展は、社会生物学という言葉は政治的な配慮から回避しているものの、その論理の展開は、社会生物学と基本的に同じである。

 社会規範の生成についてのゲーム理論的な研究の発展と並行して、法の経済分析もまた進歩してきた。法の経済分析はまた「法と経済学」とも呼ばれるが、当初そこでは、議会で制定される実定法が、誰に対してどういった経済効果を持つのかが主に議論の対象であった。

 しかし、現在の方の経済分析はそれにとどまらず、もっと自然法的な法規範の基盤についても、功利主義的な分析を加えるようになっている。私が、法の功利主義的な基礎付けについてはっきりと知ったのは、デイヴィド・フリードマンによる『自由のためのメカニズム』を読んだときであった。功利主義から規範理論を導出できるという考え方を知った時、私はたいへんに驚いたし、それに完全に納得した。

 フリードマンの近著である『法の秩序(law’s order)』には、ここで取り上げたような自然犯だけでなく、経済取引を含めた、はるかに多様な法規範の経済分析が提示されている。興味のある方は、ぜひともご覧いただきたい。

 さて、私は高校時代に倫理社会の科目を学習して以来、長らく存在と当為の関係について悩んでいた。大学時代に読んだ多くの人文系、社会科学系の思索は、前述したようにヒュームの時代から、大きな理論的な進展はないと感じた。哲学者思想家の分析は、単なる言葉遊びの域を出ておらず、私の論理的な直観からはまったく納得できなかったのである。

 そんな折、規範の進化ゲーム的な考察と、犯罪法の功利主義的な分析は、私がこれまでに知りえた中で、もっとも重要で堅牢な論理を提供してくれた。読者が私と同じように、ヒトの進化的適応環境を取り巻く状況論理から、我々に内在する規範意識を説明するやり方に納得してくれるかどうか、私には正直なところはっきりしない。ここではしかし、そうであると考えることにしよう。


懲罰が存在しない社会、あるいは犯罪行為が存在しない社会では

 さて、議論を先に進める前に、ちょっとした脱線をしてみよう。

 まず、もしも犯罪行為に有形無形の罰がまったく与えられなかったら、どうなるのだろうか。殺人が禁忌行為でないのであれば、人々はちょっと都合の悪い人がいればすぐにその人を殺すことを考えるだろう。われわれの誰しもが、誰かにとっては都合の悪い人に違いない以上、哲学者ホッブズが言うように「万人の万人に対する闘争」が状態となり、ほとんどの人はすぐにこの世からいなくなってしまうだろう。これでは、安定な社会とはなりえない。

 盗みが許されている社会ではどうだろうか。自分が他人の食べ物なり、着るものなりを勝手に利用できるのはありがたいかもしれないが、自分のものもまた他人が利用するため、所有権の概念は、単なる占有と同じになってしまう。そもそも、誰もが他人のものを勝手に占有できるのであれば、いかなる財であれ、それを作り出す労力を差し出す人も、交換取引をする人もいなくなってしまう。これでは、誰もが生きてゆくことはできないだろう。

 これとは反対に、盗みも殺人も存在しない、理想の社会を考えてみよう。そこには、犯罪行為を実行しようとする人が、何らかの理由からまったく存在しないのである。

 そこではまず、盗みをする働こうとする人がいないため、盗みによって生きる人はいない。現実の社会では盗みによって生計を立てている人も、架空の犯罪のない世界では必ず何かを生産して、それを交換すること、あるいは何らかのサービスの提供によって日々の糧を得る必要がある。これだけでも、社会全体としての福利厚生は大きく増えることになる。

 それだけではない。盗みがないのだから、家に鍵をかけるという精神的・肉体的な労力もいらなければ、監視機器を設置する必要もない分、より多くの別の生産物がつくられることになる。また盗みに対する警察の取り締まり、窃盗犯に対する刑事裁判、さらに懲罰としての刑務所の維持といった、多様な物的・人的な負担がすべて必要なくなる。

 これは殺人や傷害といった暴力犯罪に対しても当てはまる。人々は暴力を恐れる必要がなくなるだけでなく、犯罪によって生じる肉体的な被害もなくなり、同時に犯罪者を罰するための負担もすべてがなくなり、その分だけ、別の生産活動が行われて、社会全体はより豊かになる。

 こういったことを考えてみると、なるほど、犯罪行為というものが確かに反社会的であるということの意味が、直感的な倫理感情を超えて、論理的にもはっきりとしてくる。実際に犯罪は高度の害悪を社会に与えているのであり、「犯罪は悪であり、罰する必要がある」と感じる必要があるのだ。


道徳意識をもたないサイコパス

 犯罪は相互に破壊的な行為であるため、ヒトの大脳には犯罪を発見し、罰しようとする規範回路が発達してきた。あるいは同時にこの回路は、相手の立場について共感することを通じて、利他的にふるまうことも可能にしているかもしれない。

 もし社会規範を守り、他人にもそれを強要しようとするような回路があるとすれば、逆説的に、そういった回路が十分に発達しないような、何らかの先天的・遺伝的な異常もある可能性があるだろう。いや、むしろ、あると予測するほうが自然だ。

 これは道徳回路以外についてのほうが、はっきりと分かっている。

 例えば、人間が言語を操る能力は、極めてヒトという種に特殊的であるようだ。ゴリラチンパンジーが複文などの高度な文章は作れないことについては、多くの識者の意見が一致している。これに対応して、ヒト大脳のブローカ野では文法的に正しい文章の作成に関連しており、ブローカ野へのダメージがあると、対話者の発言の意味は比較的よく理解できても、それに対して適切な文法構造をもつ発話を行えなくなってしまう。発話が不明瞭かつ困難に理由の一つには、ブローカ野が、ちょうど唇やのどなどの運動真剣に近接しており、話すために必要な筋肉の協調が難しくなることにあると考えられている。

 これとは反対に、ウェルニッケ野に損傷が生じた場合には、発話は流ちょうなままであるが、相手の発言の意味を理解することなできなくなり、意味の通らない発言をするようになることが多い。つまりウェルニッケ野は、言語の文法的な理解を可能にしている領域だと考えられるのだ。

 これと並行して、自閉症もまた対人的なコミュニケーションを受け持つ回路の、先天的な異常であると考えられることが多くなってきている。大脳には他人のまねをするためのミラー・ニューロンと呼ばれる特殊な部位があるが、自閉症のすべてを説明するわけではないとはいえ、自閉症患者には、この部分に異常があることが多いのである。

 このため、自閉症の場合、「〜してあげようか?」と質問されると「〜してあげて」と答えたり、相手が自分にさよならの手振りをすると、同じように自分に向って手を振ってしまったりすることがある。

 こういった特殊な回路に問題があるという考えは、大脳活動のイメージングや神経科学の発達によって急速に進歩した。今となってはちょっと信じられないことだが、1950,60年代には、自閉症は「冷蔵庫のような冷たい母親」によって引き起こされると考えられていた。親の養育方法という環境要因で極端に重要であると考えるのは、フロイト理論の影響を色濃く受けたものだったのだろう。これはしかし、当時の自閉症の親にとってはたいへんなストレスを与えるような人格攻撃になっていたといえるだろう。

 さて、本題に戻ると、道徳回路が、特化した機能を持つ脳の特定領域であるとしよう。すると、通常人がもっているような道徳感情が、遺伝的であれ、環境要因からであれ、何らかの理由からほとんど発達しない人がいることが予想される。

 こういった人々は、サイコパス、あるいはソシオパスと呼ばれ、主に犯罪心理学者によって研究されてきた。よく知られているのは、『診断名サイコパス』(原題『良心の欠如(wihtout conscience)』)という著作である。著者のロバート・ヘアは、カナダヴァンクーヴァーにあるブリティッシュ・コロンビア大学の犯罪学者である。

 サイコパスの研究と診断については、クレックレーが16問からなる問診表を作ったことに始まる。ヘアはそれを20問に拡張して、より客観性を高めた。彼の質問群はアメリカ心理学会の公式人格問診表であるDSM−Vに取り入れられている。DSM−Vは、現在のDSM−IVから2011年に改正される予定になっているものである。

 サイコパスの典型的な例は、連続猟奇殺人者、大量強姦殺人者などに見られる。そういった人たちの多くは、犯罪を行うことや次々と軽薄な嘘をつくことになんら罪悪感情を持たない、あるいは、他人の感情に対する共感や同情をほとんど持たず、自分の立場から一方的に相手や社会状況を非難する、といった人格障害を持っている。

 ヘアによると、サイコパスが必ずしも犯罪者になるわけではない。犯罪に走るものも多いが、むしろ知的で会話がうまく、一般社会の中で、周囲の人々を傷つけながらも自分の立場をうまく保身して立ち回り、社会でも成功している人も多いという。

 こういったサイコパスというのは、利己性・衝動性の程度が弱くなれば、単なる自分勝手な人という程度の性格になる。人間には、他人に強く共感することのできる利他的な性格から、自分の都合しか考えない自分勝手ない人にいたるまでの、連続した人格スペクトラムがある。その中でもっとも利己性が極端な人々なのである。

 サイコパスは犯罪者になることが多いのは、もちろん極端に利己的だからであるが、犯罪は見つかれば、普通は自分の社会的地位をすべて失ってしまう。そのため知的な人間であれば、罪悪感からではなく、純粋に理性的・論理的な理由から犯罪をしないということも十分に考えられる。

 おそらく、これはもともとヒトが犯罪を忌避するような行動を進化させてきた状況論理を、知的に理解することを意味している。犯罪をすることは罰を受ける可能性が高いため、利己的な人間であっても、「犯罪は割に合わない」と理性的に判断するのである。だから、道徳感情が完全に欠落したサイコパスであったとしても、科学捜査が発達して犯罪検挙率が上がった現代社会では、合理的な意思決定から犯罪行為まではしないというのも、それほど不思議なことではない。

 犯罪に至らないまでも、日常生活において自分に有利な嘘をつきまくり、同時に他人の悪評などを聞き手を信用させてしまうというのはよくある話であるようだ。そういった「困った人たち」については多くの本がかかれているが、ヘアは

「精神病質がもっとも顕著なかたちで現れる場合、社会の規範を破るという非道な犯罪というかたちを取る。当然のことながら、多くのサイコパスは犯罪者だが、刑務所の外にいて魅力を振りまき、カメレオンのような才能を発揮して社会に甚大な被害を与え、破壊の爪痕をのこしていくものも大勢いる。

 社会の構成員でもあるこうしたパズルの一片は、全般に、人と気持ちを分かちあったり他人とあたたかな情を交わしあったりする能力に欠け、自己中心的で、無神経で、後悔の念のない人間というイメージをみずからつくりあげている。良心に押しとどめられることなくなんでもしてしまう人間と。ようするに、この病にかかった者にそっくり抜け落ちているのは、人間として社会の中で調和して生きてゆく資質なのだ。」

という。

 ヘアによれば、サイコパスの多くは、サイコセラピーを受けても、もともと自分の人格に問題があるとは思っていないため、望ましい効果があることはあまりないという。むしろ、セラピーの中で使われる言葉をうまく知的に理解して、「自分が着実に更生した」というもっともらしいウソをつくのを逆に助けてしまう結果、彼らの多くは保釈され、さらなる犠牲者を生むことになる。

 また、サイコパスは感情面をつかさどる脳神経系が未発達であることが多く、これが他人に対する共感の乏しさと関係しているのだと考えられている。脳科学的な知見としては、ヘアが指摘しているような脳波の異常も存在しているが、もっと最近のハリリなどによる研究によると、サイコパス扁桃体の活性が低く、感情の起伏に乏しいことが報告されている。おそらく、他人への同情や共感が発達していなということなのだ。

 私のサイコパスの存在に対しての、進化論的な究極の理由づけは、ヘアが社会生物学者の説として紹介しているものと同じである。サイコパスとは、周囲のほとんどの人が道徳回路を持っている場合に、それらの人々を食い物にして生きるという、頻度依存型の適応戦略なのだというものだ。他人を虫けらのように殺たり、搾取したりしながら、その言い訳をウソをならべながらつける人は普通はそんなにいない。そのため、彼らはその行動にも関わらず、一定の人々から逆説的な共感をもって迎え入れられる。そして、その人たちから、さらに奪うことを繰り返すというわけである。

 この仮説は、サイコパスが男性に多く、その魅力的な外見や流暢な軽薄なウソとホメ言葉によって多くの女性をたぶらかしながら、子供ができると妻子ともに遺棄しているという事実にも間接的に裏付けられるだろう。進化の流れにおいては、どういった理由であれ、子供を次世代に残すような資質は、次世代の遺伝子プールに引き継がれることになる。

 ところで、もっと一般向けの本としては、マーサ・スタウトの『良心をもたない人たち――25人に1人という恐怖』がある。良心をもたない人間が存在することに対する彼女の意見は、戦争などでは共感のない兵士のほうが効率的な殺し屋になれるという利点があるからだろうという。

 だが、私はこの意見にはあまり賛成ではない。私の理解では、ナチスの将校や旧日本軍の行為などを見れば明らかなように、戦争などの極限状況では、本当の常人でも十分に残虐になれる。マイナーな存在であるサイコパスには、もっと日常的な利点があるに違いない。

 同じように、精神科医のスコット・ペックによる『平気でうそをつく人たち――虚偽と邪悪の心理学』もよく知られているサイコパス関係の著作である。ペックは精神科医だが、ウソを平気で付くような人格の陰には「悪魔」がいるという。ストレートキリスト教の伝統に従った解釈である。

 もちろん、こういった例は日本の著作でも『サイコパスという名の怖い人々−あなたの隣にもいる仮面をかぶった異常人格者の素顔とは』や、あるいは『サイコパスのすべて――山崎正友の「捕食」人生』などに詳しく描かれている。中身はちょっとしたB級ホラーのような内容なのだが、こういった報告を読むと、サイコパスは日本にも数多くいることは間違いない。

 私自身もカリフォルニア大学で教務助手をしているときに、毎回オフィスアワーに訪ねてきて、自分の置かれている状況がいかに大きな問題を抱えており、自分がすべての課題から逃れることが正当であるのかばかりを強調する学生に出会った。彼は、すべての課題についてそういった主張するため、その評価に大変に困ったのである。

 同僚との会話から明らかになったことは、彼の話は非常に誇張されていて、客観的な記述だとは到底思えないということであった。結局、彼の主張は適度に間引く形で処理せざるをえなかった。

 すべての状況を自分の都合がよいように解釈し、それを自慢しながら、都合が悪い他人を徹底的に人格非難するという異常人格を持つ人は、どんな社会にも少なからずいる。上述した書籍などでは、そういったサイコパスとの生活訓も指南している。

 簡単にいってしまうと、残念なことだが、彼らの行動や性格を説得などによって変えることはできない。サイコパスであることに気づいた場合は、なるべくその人との関係を深くしないで、彼らから離れるに限るということらしい。


 

ベキダとデアル:再論

 この章では、犯罪のような明白な禁止行為類型について、どうして我々のほとんどがそれらを嫌悪・処罰しようする感情を持ち、同時にそれらを禁忌行為としてさけるベキダと考えるようになっているのかを説明した。

 それは、基本的に「犯罪行為をしないベキダ」、あるいは「犯罪は罰せられるベキダ」と考えるような心理機構を持つ個体が、そうでない個体よりも適応価が高く、より繁栄することができたということであった。

 犯罪に対する否定的な感情のような非常に基本的なベキダは、言語能力のようにほとんどすべての人に生まれつき備わっており、それはすでに、もともとそういった心理機構を発達させた状況論理とは独立したものになっている。

 これは例えば、飽食の飼いネコが時折見せるネズミスズメなどに対する殺傷行動を見ればわかる。人に飼われているネコは、食べものとしてはネズミを捕る必要がない場合でも、小さなネズミスズメを捕まえてなぶり殺しにしていることがある。ネコには、そういった捕獲殺傷の本能的なメカニズムがあって、直接的に食料として必要ではない場合にも、行動が発現するということなのだ。

 あるいはまた、女性のファッションへの興味や、化粧といった活動も同じように考えられる。進化の状況の中で女性が自らを着飾るのは、男性に対しての魅力を高めるためであったことは疑いないだろう。しかし、現在の女性心理においては、男性の目がまったくないような場合においてさえも、ファッションや化粧それ自体を楽しむようになっていることも間違いない。

 つまり、ある種類の行動が、状況的に長期にわたって安定的に必要であったとしよう。その場合、進化の過程を通じて、個体の中にはその行動のための心理的・神経的な回路が進化・発達する。そして、個体の置かれた状況と、過去の状況とは大きく異なっている場合でも、すでに遺伝的にプログラムされた行動はそれ自体が自己目的となって、不必要であった場合にも発現するのだ。

 ちなみに、進化生物学では前者を「究極ultimate」の要因と呼び、後者を「至近proximate」の要因であるという。これについての理解しやすい一例には、体内のホルモン濃度を変えることによって、行動が変化する場合がある。例えば、男性の攻撃性が高い至近の理由は、体内にテストステロンという男性ホルモンの高濃度に分泌されるからだが、そもそもなぜ男性がテストステロンによって攻撃的であるのかについての究極の理由は、男性が性的な競争の中で暴力的である必要があったからなのである。

 前述した道徳哲学者カントは、道徳律は自然界の現象とは全く独立の世界を形成しており、道徳感情をもつ者だけに特殊な地位を認めようとした。あるいは経済学の父アダム・スミスもまた、『道徳情操論』を著し、人間は道徳感情に基づく共感という、独自の美徳を持つと主張している。

 彼らが長い思索の末に結論付けたように、我々の道徳感情は、すでに過去の功利主義的な状況論理からは完全に独立して、それ自体が独立した価値観となっている。私はこのことを事実として疑わないし、感覚的にも確かに独立していると感じている。

 逆説的ではあるが、だからこそ、ベキダという概念はデアルとは独立して、個々人に特有のものなのである。つまり、現在の状況であれ、歴史的、あるいは進化的な状況であれ、いかなるデアルからも、現代に生きる個人レベルのベキダを導き出すことはできない。

 この二つの観念は、発生において相互に関連はしているが、しかし現在の存在としては完全に独立しているのである。このことは、次のような状況を考えれば、その問題ともどもよく理解してもらえると思う。

 ここに、「殺人は素晴らしい行為であり、我々はお互いに常に殺人、あるいは決闘をしあって、その結果、生き残ったものが、世界のすべてを支配するべきだ」という倫理観をもつ、(おそらく、いや間違いなく)男がいたとしよう。お気楽なたとえとしては、北斗の拳ラオウのような人物を考えればいいだろう。世界を己の実力、あるいは武力で支配するのである。

 我々は、彼に対して、そういった価値観、あるいは彼の信じるベキダが「どうして生産的でないのか」、「なぜ他の人々の生活にとって破壊的であるか」というデアルについては説明することができる。しかし、なぜ「道徳的、倫理的に間違っている」のかというベキダの点について説明、説得することは決してできない。

 ちなみに、トドやライオンゴリラなどのオスは、メスのハーレムを基本的に支配しているが、その支配者はオス同士の直接的な決闘において決められる。これは、まったく北斗の拳の世界そのものである。おそらく、彼らの心理においては、ハーレムとメスをめぐる争いは「聖戦」であって、そこにはヒトの感じる左翼的な平和主義の入り込む余地は、まったくないのではないだろうか。

 人間においても、一人ひとりの心の中にあるベキダについての信念は、その先天的後天的に形成された神経回路から生じるものである。それについては、どういった状況的なデアルの説明からも、彼の感じるベキダの世界における「ある行為は道徳的に正しい」という結論は、論理的に否定することなどできないのだ。

 こういった破滅的な倫理観に対しては、よく社会契約論の立場から、「そういった倫理観では、社会は成り立たない」、あるいは「そういう道徳では、あなたも危険にさらされるし、生産的でない」という反論が為される。しかし、これは確信的な破壊的倫理観を持つ者への説得を考えれば、完全に的外れであることがわかるだろう。

 ベキダを直観させる倫理観は、すでに我々の心の中で、デアルからは完全に独立した実体をもっている。生産的でない特殊なベキダの信念を持つ個人は、通常の社会的状況において成功することはないかもしれないが、それでも過去の特殊な状況へ適応していたことはあったかもしれない。そのために、そういった変異的な倫理観の持ち主が現代社会に存在する可能性はあるだろう。

 その一例が、前述のサイコパスその他の異常人格なのだ。あくまで。ベキダとデアルは異なったものであり、それは犯罪行為のような多くの人にとって疑う必要のない、「悪」についてさえもあてはまることを理解しなければならない。

 つまり、我々の心の中に、共通の画一的な道徳感情があり、それはすべての人間にとって同じであるはずだというのは、一つの幻想なのだろう。猟奇的な犯罪が報道されるたびに、マスコミでは、繰り返し「加害者の心の闇の解明」を関係機関に要求し、同時にその原因を「現代社会に内在する病理」に求める。

 それはそれで、平均的な倫理的直感を持っている読者・視聴者には受けるのだろう。同時に、「ベキダ>デアル」の章で詳しく述べるように、マスコミ従事者の行動戦略としては、自分たちの存在意義と地位や収入を高めるという点で、猟奇的事件の現代性・特異性を宣伝するのは、大変に合理的なことである。しかし私の正直な感想では、例えばかつてのサカキバラ事件のような完全に常軌を逸した犯罪については、何らかの社会的な制度や矛盾が犯罪につながる「加害者の心の闇」を作り出したとは到底思われないのである。

2009-06-09 見えるものと見えないもの7章 規制

GMクライスラー破綻して、そういった関連の話を聞くことも多いけれど、

アメリカにはグーグルアップルマイクロソフトその他の多くの会社がある。

何もいまさら自動車なんか作らなくても、いいように思うのだが、、、


関連して、今はプリウスがバカ受けしているようだけど、

僕はインドのタタの作る22万円の車のほうが興味深んじゃないかと思う。

ネットブックが2年のうちにほとんど主流になってきたのと同じように、

大きな爆発力があるのではないだろうか?


とはいっても、自動車には人命がかかっているので、

先進国ではひじょうにさまざまな規制がある。

なので、パソコンに比べて10倍ぐらいは時間がかかりそうではある。


さて、僕はバスティアの7章:規制 を訳してみました。


??????????????????


7.規制

 M・プロヒバン(この名前をつけたのは私ではなく、M・シャルル・デュパンである)(訳注:「禁止さん」とでも訳されるほどの名前)は、自分土地で見つかった鉄鉱石を精錬するのに大変な時間資産を投じた。自然ベルギーにおいてより豊かであるため、ベルギー人はフランスに対してM・プロヒバンよりも安く鉄を供給した。それはつまり、すべてのフランス人、あるいはフランスは、誠実なベルギー人から買うことによって、より少ない労働量で一定量の鉄を入手することができるということだ。よって、自分利益に導かれてフランス人はそうすることを怠らず、毎日大勢の釘職人、鍛冶屋、車大工機械工、蹄鉄工、それらの助工が、自分が出向いたり、あるいは仲介人を送ってベルギーで鉄を調達したのであろう。このことはM・プロヒバンを大変に不愉快にさせた。

 当初、彼はこの逆境に対して自分の力で終止符をうとうとした。しかし彼一人が困っているため、それは到底不可能だった。「私は銃を使う」彼は言った。「ベルトに4つのピストルを装着し、カートリッジもつめて、刀を纏い、この装備で国境に行く。そこで、私と関係のない仕事をするために現れた最初の鍛冶屋、釘職人、蹄鉄工、機械工、錠職人を殺し、彼らにどうやって生きるべきかを教えるのだ。」それを実行しようとした瞬間、M・プロヒバンは考え直してみて、戦争じみた意気込みを少しばかり落ち着かせた。彼は独り言を言った、「そもそも、私の同郷人であり敵でもある鉄の購入者が悪意にとって、彼らを殺す代わりに、彼らが私を殺すことも、まんざら不可能でもない。そして、私がすべての従業員を呼び出したところで、通行口をとめることはできないだろう。つまり、これは金をもたらす以上に、大きなコストがかかるだろう。」

 M・プロヒバンの脳裏に光線が走ったとき、彼は、自分が他人と同じ程度にしか自由ではないという、その悲しい運命から脱却できることに気づいた。パリには立法産業があることを思い出したのだ。「法とは何だ?」彼はつぶやいた。「それはいったん成立すると、良いものだろうが、悪いものだろうが、全員がそれを守らなければならないものだ。同じことをするために、公共力が組織され、その公共力のために国中から人と金が集められる。だから、もし私が偉大なパリ産業に『ベルギーの鉄は禁止』という些細な法律を通してもらえば、次のような結果を得ることができるのだ。つまり政府が、私が国境に送ろうとしていた数人の従業員の代わりに、あの手に負えない鍛冶屋、農民、職人機械工、錠職人、釘職人、助工たちの2万人にも及ぶ息子たちを送ってくれる。そして、これら2万人の税関役人を機嫌よく生活させるために、政府は鍛冶屋、釘職人職人、助工たちから2500万フランを集めて配るだろう。彼らは国境をよりよく守ってくれる。そして私は出費をすることがない。私は仲買人の脅威にさらされることもなく、自分の好きな価格で鉄を売ることができ、さらに偉大な同胞たちが恥ずべきような誤魔化しを受けるという甘美な満足さえも得る。彼らは、自分自身が永遠にヨーロッパ進歩を増進し、その先駆けであるとまで主張するだろう。オー! それは素晴らしいジョークだが試してみる価値はある。」

 こうしてM・プロヒバンは立法産業に赴いた。おそらくまたいつか彼の袖の下の話にも触れようと思うが、しかし今は、彼の表向きに行動についてだけ述べよう。彼は立法議員諸氏の前に、以下のような考慮をしてもらうよう持ち出した。

ベルギーの鉄はフランスでは10フランで売られており、私もまた同じ価格で売るよう強要されています。私は15フランで売りたいのですが、ベルギーからの鉄のためにそれができません。まったく、ベルギーの鉄は紅海の底に沈んでもらいたいと願っております。私は、ベルギー産の鉄がフランスに輸入できないような法を要請いたします。即座に私は価格を5フラン上げ、次のような結果を得ることができます。「100単位の鉄ごとに、私は10フランではなく、15フランを受け取ります。私はより豊かになり、産業道路を伸ばし、より多くの労働者を雇います。私たちは近隣の商人に対してもっと鷹揚にお金を使うことになります。商人顧客が増えて、より多くを雇い、この国のどの産業もが盛んになります。あなた方が私の金庫に与えてくれます幸運なるわずかな金銭は、湖に投げ込まれた石のように、無限の波紋を生み出すのです。」

 この議論に魅せられて立法によって容易に人々の繁栄を促進できることを喜び、立法者たちは規制投票した。「労働経済について言うなら」彼らは言った、「国の富を増進させるために、命令が必要なだけだというのに、こういった苦痛を伴うような手段に何の意味があるというのか?」

 そして、実際、法律はM・プロヒバンによって喧伝された通りのすべての結果をもたらした。一つだけ違うのは、彼が予見しなかったことももたらしということだ。彼に対して公平であるなら、彼の理由付けは間違いではなかった。ただ不完全だったのだ。特権を得ようと努力するなかで、彼は見える効果だけを認識し、その背後にある見えないものを忘れていたのである。彼は二当事者だけについて指摘したのだが、この事態には三者がかかわっている。私たちが指摘するのは、この意図せざる、あるいは論点の前にある省略なのだ。

 法律によってM・プロヒバンの金庫にもたらされたクラウン銀貨が、彼とその労働者にとって有利なものであったのは真実だ。そしてもし、法律によってクラウン銀貨が月から降って来たというのであれば、これらのよい効果は、それに対応する悪い効果によって打ち消されることはなかっただろう。不幸なことに、その不思議な銀貨は月から来たのではなくて、鍛冶屋、釘職人、車職人、蹄鉄工、助工、あるいは船大工、つまりは10フランを支払って前より少ない鉄しか受け取れなくなったジャック・ボノムのポケットから来ているのだ。よって、これが状況を変えたことは一目瞭然だ。なぜならM・プロヒバンの利益は、ジャック・ボノムの損失と釣り合っていること、そしてM・プロヒバンがその銀貨によって国の労働奨励するためにできることのすべては、ジャック・ボノムが自分自身でできたこと、が明らかだからだ。石が湖の一方から投げられたのは、別の方向から投げられるのを法律が禁止したからなのである。

 よって、見えないものは見えるものを凌駕しており、この時点でこの一連の行為の結果として不正義が残り、悲しいことに、法によって不正は永続する。

 これがすべてではない。私は、常に第三者が背景に取り残されていると言った。さらにもう5フランの損失を明らかにしてくれる者を前面に引き会いに出そう。それによって、取り引きのすべての結果が明るみに出ることになる。

 ジャック・ボノムはその労働の対価である15フランの持ち主だ。今彼は自由だ。彼はその15フランをどうするのだろうか? 彼は何か流行りものを10フランで買い、そのために彼(あるいは彼の仲買人)はベルギーの鉄100単位分を支払う。その後、彼には5フランが残る。彼はそれを皮に投げ捨てることはせず、その代わりに(これが見えないものだが)誰か商人に、その何らかの楽しみのために、例えば、本屋にボシュエの『世界史序説』と引き換えに使うのだ。

 よって、国民労働が関連する限り、15フラン分が促進されている。すなわち、10フランはパリ商品に、5フランは本の取り引きに。

 ジャック・ボノムについては、彼は15フランによって二つの満足を得る。つまり

 一番目、100単位の鉄。

 二番目、本。

 命令は執行される。それはジャック・ボノムの状況をどう変化させるだろうか? それは国民労働をどう変化させるだろうか? 

 ジャック・ボノムは5フランすべてをM・プロヒバンに支払い、そのために本の楽しみ、あるいはそれと同じ価値を持つ何か別のものを奪われてしまう。彼は5フラン損をしている。これは認識されなければならない。規制が物の値段を引き上げるとき、消費者はその差額分の損をするのだということは、決して見落とされてはならない。

 とはいえ、国民雇用にとっては得るものがある、と言われる。

 違う。得るものはない。なぜなら、法律によって、15フラン以上に雇用が促進されているわけでないからだ。

 唯一の違いは、法律のために、ジャック・ボノムの15フランは金属取り引きに使われたが、その施行以前には、炭鉱業と出版業に別れていたということだ。

 M・プロヒバンが国境において使った、あるいは法律によって彼が使わせるように仕向けた暴力は、道徳的な視点からは、非常に異なって判断されるかもしれない。法律によって肯定されるならば、その略奪は完全に是認できると考えるものもあるだろう。しかし、私にとっては、それよりも破壊的なものを想像できない。それが何であれ、経済的な結果は両方において同じなのである。

 好きなように見てもいいだろう。しかしもし公平であるなら、不正は順法、違法の略奪の双方から生じていることがわかるだろう。それがM・プロヒバンとその商人、もしそう望むなら、国内産業を5フランの利益分だけ豊かにすることは否定できない。しかしそれは二つの損失を生じさせると断言できる。一つはジャック・ボノムのもので、彼はそもそも10フランしか支払わなかったはずなのに15フランを支払った。もう一つは国内産業であり、それは差額を受け取ることができなかった。これらの二つの損失のどちらでも選んで、利益とつり合わせるがいい。もう片方の損失は完全な損失であることがわかる。教訓はこうだ、暴力によって奪うのは生産ではなくて、破壊なのだ。実際のところ、暴力で奪うことが生産なら、我われのこの国は今あるよりももう少し豊かだろう。

2009-06-05 My tenets

やや、コメントが相次ぐと言う不思議(笑)


「自由」という概念が何を意味するのかについて

いろいろな意見があるのが難しいですが、

リバタリアンは当然に実力に対する防衛を認めますが、

それが「積極的自由」の行使なのかといえば

違うものだとカテゴライズされると思います。


消極的自由とは、他人の生活に自分の好みを強制しないことです。

対して積極的自由とは、国家に対する権利(つまりその国民に対しての強制)です。


とはいえ、現実にはフランソワさんがおっしゃるように

迷惑なことを勝手に要求してくる人々はたくさんいて、

そういった場合は降りかかってくる火の粉を振り払う必要があります。


Pro-life押し付けが積極的自由なのかと言うと

fetusを人間とみなすかどうかにもよりますが、

みなせば人命の緊急避難に値するのかもしれないが、

みなさなければ、単なる価値観押し付けで、自由の侵害でしょう。


もう少し、難しい問題では、例えば、

宗教活動の戸別訪問などが許されるか?

というものなどがあります。

人に話しかける程度が、果たして人権侵害たりえるのか?

いろいろと意見はあるようですが、ロスバードノージック以来、

リバタリアンは「強制力」が行使されたか?

を区別とするので、話しかける程度では侵害は起こっていないと言います。


もちろん、D.フリードマンが指摘しているように、

どのような「物理力」から「強制」なのかを一義的に判断することはできません。

ので、こういった区別は現実には無理だと言う意見もあるでしょう。

アメリカ日本刑事訴訟法判例にも、

警察力の講師をめぐって同様の論点があります。


こういった点は微妙なのですが、

大まかに言って、ほとんどの政治活動においては、

消極的自由と積極的自由の違いは明らかなので、

あまり問題にはならないのではないかと思っています。

少なくとも、僕のリバタリアンアジェンダには

そういった遠い先のことは(残念なことに)入っていないのです(苦笑)。


またコメントなさってください。


さて、小生はここ数日かけて、

ダラダラと以下の論を書いているうちに

フランソワさんからコメントをいただいたので、

急遽upすることにしました。



>>>>>>>>>>>>>>>


なるほど、坂東αさんに再コメントを読み、感じることがあった。多少長くなってしまうが、昔からはっきりさせたかった小生個人のpeculiarな思想について、ここでまとめてみよう。


小生の世界観は、重要な点において、3段階にわかられると思う。

まず第一の論点は、

1.1、科学的合理主義と、それにともづく人間への進化論の適用

⇔ 

1.2、ほとんどの一般人の信じる宗教的な神や超自然的な力の存在


である。さて次に、進化論人類に当てはめることは認めても、

2.1、個体変異が現在でもヒト集団内に大きく(あるいはある程度)存在し、それは集団の行動の違いを生み出している(行動遺伝学)

 ⇔ 

2.2、現生人類には遺伝的な差が集団レベルでは存在しない、というpolitically correct な考え。これはメディアでは完全に、さらに学会(主流の進化心理学)でも大多数に支持されている


のどちらを信じるかという問題がある。

 さらに、


3.1、無政府資本主義がもっとも経済効率が良く、人間正義にかなっているというアナルコ・キャピタリズム  

⇔ 

3.2、政府が一定の役割を果たすべきだと考える、現代の常識となっている福祉国家主義


の対立がある。


 ここで、3の無政府主義は、別段1,2とは直接論理的な関係はないと思う。おそらく、直接に論理的なつながりないが、進化論から予想される利己的な人間性からは、「社会主義」的なegalitarianな存在へと教育、あるいは教化、洗脳することによっては現実的に機能する社会を作ることはできないだろう、という予想は成り立つかもしれない。

 つまり、「人間が自分のためにのほうが、他人のためよりも働くだろう」という利己的な経済学的な命題を認めるなら、基本的に資本主義を肯定することになるだろう。あるいは名誉や博愛精神も自発的な活動であることからは、効率性の条件を満たすので肯定されるが、強制力を背景とする「国家」、「政府」は非効率になると言うことになるだろう。

 これはもちろん、外部性、あるいは契約費用について、いくつかの仮定をおくとということである。圧倒的に多くの人は経済学者も含めて、政府の不可欠さについて、ほとんど暗黙の前提を置いており、それをよくよく考えてみることはないようだ。



 さて、3は利己主義という存在を前提にする社会制度についての当為概念を含んでいるが、1、2、は自然事実についての存在概念だ。1.1は日本の知的サークルにはかなりの支持者がいるが、2.1については小生の思想は完全に異端であって、主流派からは完全に無視されている。


 坂東αさんの疑問は、2.1についてのもので、人類(の特に知性の特徴)には統計的な差はないというものである。これは、知的なサークルでも説得力がある。僕はこれは間違っていると思っているわけだが、おそらく主観的な体験を述べるのはいうまでもなく、例示的に歴史的な事項を挙げあったすることさえも、単なる水掛け論になり、あまり意味がないだろう。


 一例として、例えば小生ブログで前掲のNisbettの'Geography of thought'のレヴューを読んでもらってもいい。こういう人間の思考の差が存在するという研究は必ず個人批判のレベルに落ちてしまうようだ。


 Cochran and Herpending の'10,000 years explosion'にいい例示があり、これは小生もかねがね思っていたので、ここで繰り返す程度にしたい。黒人白人アジア人は12万年前に、白人アジア人は4万年前に分岐した。しかし、小生がイギリス人日本人を間違えることはない。顔の特徴に見られるように、さまざまな形質が明確に異なっているからだ。


 さて、文化(行動様式や思考様式)は、神経回路の産物であり、その発生・発達は環境要因を取り込みながらも、その取り込み方自体がある程度遺伝的に決まっている。今チンプとヒトが同じ潜在的能力を持つと主張するものはいない。


 チンプとヒトは6百万年前に分岐した。10万年は、600万年の1%以上だ。遺伝子多型の数を調べてもヒト集団には変異があり、Cavalli-Sforzaなどの研究では、大まかな地理的な分布と、集団間の遺伝距離は相関している。


 顔が違っていて、それが統計的に明らかに識別ができるのであれば、筋肉骨格の組織の発達の違いは運動能力の違いになるだろうし、大脳神経の発達様式の差異は、それによって生み出される行動様式=文化もそれに応じて異なったものにするだろう。(もちろん、ここでは、どっちがいいとか、悪いとか、そういった価値判断はしていないし、価値判断に先回りすると、事実を否定したくなってしまう。)


 遺伝子解析やタンパク質解析の技術日進月歩だから、長期的には対立遺伝子による行動傾向の差異がもっと明らかになるだろう。そうすれば、ドーパミン・レセプターの量によって新奇性追求の度合いが集団間で異なるように、あるいはすでに5000以上に上る遺伝病の頻度が集団において統計的に異なっているように、あまり歴史的な事実の羅列に終わらないような議論が成立するだろうと思う。

 

 ちなみに人類が今後混血を繰り返して、もっとなだらかな遺伝勾配を形成してゆく場合、人類の遺伝的多様性が高まることになるだろう。よって、より多くの天才や鬼才、偉人、すばらしいアーティストアスリートが生まれると予想される。そうすれば、とても面白いと思っている。


 僕は3.1について、すでに本を書いたのだが、少なくとも、2.1については常識的な学者のように2.2の立場をとり、それによってより多くの共感を得ることを考えるべきなのだろう。が、残念ながら、2.1は僕の学者としての世界観の一部であるだけでなく、実際に分子生物学的な事実発見は僕に味方してきていると思っている。いくらそれをとれば有利になると分かっていても、日和見主義的に世界観を変更できない。

 ちょうどパスカル冗談のように、「神がいないなら、それを信じることは無害だ。神がいるなら、それを信じないことは損なので、信じたほうがいい」というのは、それこそ信念を欠いた空虚な論理だ。


 以下は、1、2、3についてもう少し私小説風に、かつドーキンスの『神は幻想である』へのオマージュとして書いてみるので、大方の人はここで、読むのをやめてもらいたい(笑)。ダラダラと思索してことにしようと思う。


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1、について

 僕は幼いころから理科教師(後の共産党員)の家に育ったので、神の存在について信じてはいなかったし、何か合理主義の心に反するものがあると直感していました。しかし本当の意味で神、あるいは超越的な絶対者の存在についてはっきりと否定し始めたのは、おそらく14歳の時にダーウィン進化論を知ってからです。

 ダーウィン進化概念は、僕らの高貴な感情もまた進化の産物であるはずだと教えるので、我われの良い面を体現した神などはいるはずがないと感じたからです。

 さて高校では、そういった議論を友人に吹っかけて楽しんだのですが、多くの友人は、「そんなことはどうでもいい」ということでした。で、大学でも同じだったので、僕はグールド、そしてドーキンスを読んだりして、楽しんでいました。


リチャード・ドーキンス

 ドーキンスは、僕がD.フリードマンとならんで個人的に最も影響を受けた知性の一人です。ドーキンスの主張し続けている、「人格を持つ、ユダヤ教以来の神」の否定の論理2006年に出版された『神は幻想である』に詳しく書かれています。僕はこの本を読んで、西洋社会キリスト教の絶大なる勢力を改めて理解し、それを否定しようとするドーキンスにたいへんに共感しています。

 なお、日本では、絶対神を信じる人は少数なので、僕は別にキリスト教に敵意を抱いたことはありません。大体のアジア人にとっては、絶対神などはそもそも最初から何の問題になっていないのだと思います。しかし、9.11以降は、こういた意見は誤りで、宗教国家と同じ本質を持つことがよく理解できました。

 僕がここで協調したいテーマは、彼のキリスト教の否定は、僕の国家への否定とまったく相同な論理構造をしてなしていることです。あるいは僕はこれを「神と国家の双対性原理」とでも呼びたいと思っています。

 宗教はその一見した信仰心の高遇な外見に反して、残念なことに、異教徒を非人間化し、自分と異なったものを殺すことを正当化するために存在してきたのです。現在も続くテロリズムを見てください。

(ちなみにドーキンスは殺し合いをしてこなかった仏教儒教宗教だと批判していないのですが、この点はもう少しアジア史を詳しく見てみたいものです。権力抗争にかかわっている意味では、同じように感じますが、、、)

 さて驚くべきことは、こういった彼の宗教に対するネガティブ記述のほとんどすべてが、国家に対して、そのまま完全に当てはまります。ドーキンスにはぜひとも、3.2の常識を捨てて、アナルコ・キャピタリストになって欲しいものです(笑)

 

2、について

進化心理学

 お分かりのように、僕はたいへん理屈好きでもあり、同時に懐疑主義者でもあるので、ヒトとチンプが違うのであれば、ヒト同士でもある程度は遺伝的に異なっているだろうと感じています。

 こういった意見マイノリティで、僕が大学に入ってグールドの度外れた平等主義的な著作『人間の測り間違い』などを読んで、当然ながら、何が左翼主義として正しいものなのか、Politically correctなのかをよく理解しました。この左翼主義的な知的潮流は現在ピンカーなどにも続いています。もちろん、僕は進化心理学には当然に賛成しています。しかし、なぜか彼らのほとんどすべてが「集団の差は存在しない」というのを聞くと、アメリカでのマイノリティ差別への配慮をしているのではないのかと感じます。

 しかし、知的に誠実であろうとするなら、彼らのうち、どれだけが本音でそう思っているのかは、僕にははっきりしません。単なるリップサービスの部分もあるのでしょうか。

 なお、昔は頑固なフェミニストは、ボーヴォアール女史のように、「女はつくられたのだ」的なことをいいました。これはしかし、進化心理学が全盛になって、NHK特集でさえも、男女の適応戦略の違いについて語るようになって、現在はほとんどナリをひそめてしまってようです。

 もちろん、僕は、能力のある女性は、その人の性別と無関係に処遇されるべきだと言う考えは持っています。しかし、集団の真理特性に差がない、という古典的なフェミニズム命題は明らかに誤りであると感じます。つまり存在と、当為の問題は別だと思っています。

 「神は幻想」では、フェミニストの啓発活動を賞賛しており、著作ではそういったことを目指していると書いています。僕も多くの制度的・法律的なな差別には反対しますが、さて結果としての完全な平等な状態を目指すべきなのかというと、それはよくわかりません。どの程度が望ましいのかの「結果」がよく分かっていないからです。これは、僕にとってのopen questionとなっています。


政治活動の難しさ

 2005年だったかに、ハーヴァード大学学長をしていたローレンス・サマーズが「男性よりも女性大学教員が少ないのは、その知性による」というような発言をしたとして、物議をかもし出し、結局、辞任しました。実際には、サマーズは学者であり、もっと微妙な発言をしたのですが、ここではどうでもいいでしょう。

 あるいは、現代遺伝学の重鎮であるジェームズワトソンが、黒人への差別発言をした、ということでメディアでは連日非難がされていました。

 もっと、最近に僕が興味深く感じたのは、The myth of ratinal voterを書いたBryan Caplanへの書評に、「彼は正しいのかもしれないが、それでは確かに選挙事務所を運営できないだろう」というものがあったことです。誰であれ、大衆の信念などが間違っている、というものは選挙に勝つのが難しいでしょう。

 学者であれば、自分の職業的な自滅への恐れを持たずに発言することができますが、それは民主主義の理念からは、ある意味でおかしなことではあります。(僕も含めて)学者給料の多くの部分が、政府の強制力を通じて納税者有権者の財布から捻出されているからです。

 おそらく、この点はUniversity of Marylandの経済学者John Lott Jr.の意見にあるように、「学者政府によって養われていると言うことは、その言論の自由と大きく矛盾しているのではないか」ということなのだと思います。経済的に自立していないものは、本当のところ、自分の信念についても言論の自由を行使できないのでしょう。あるいは、少なくとも難しくはなるでしょう。

 さて、その昔、東大佐倉統さんが「科学製造物責任」について語っていました。つまり、僕のように「集団間には差がある」というものは、そのような知識が悪用されて、差別につながったような場合には、その責任を取るべきである、というのです。

 あるいは同じ流れで、長谷川真理子さんなども、進化論の持つ「差別」への潜在的な危険性について警鐘を鳴らしています。(長谷川さんは、僕が駒場で授業を受けたときから、ハヌマンラングールの子殺しの道徳性について懸念していたのを覚えています。)多くの人は、「差がある」というと、それを「差別をしてもいい」という当為的な正当性の証明と受け止めるので、学者はそれを意識して活動すべきだと言うわけです。

 こういった恐れを、僕は理解しないとは言いません。しかし、原子力でも、あるいはどういった力でも、善用することもできるし、悪用することもできます。知識を、人々がどのように使うのかを科学者が考えてから公表したりするべきだと言うのは、かえって科学者選民思想のように思えて、どうも納得できない部分が残るのです。

 正直に言って、僕はどういった方向に遺伝学を利用するのかを決めるのは、個人だと思います。よって、自分の子ども遺伝子操作によってどういった能力を授け、その代わりに何を失ってもかまわないと考えるのかは、個人が決めるべきことだと思います。

 この思想の問題点は、生まれてくる子ども資質が親によってある程度コントロールされてしまうことです。が、シルヴァーも『複製されるヒト』で指摘しているように、人間は誰しも、親の与える教育から逃れることはできないのが現実です。ピアノバレエスケートなどの場合、早期教育以外では大成することは現実には無理です。

 ちなみに僕の話している日本語も、僕にとって既定の制約です。それは日本社会によって僕に与えられた教育によるのですが、あるいは英語での教育のほうが僕のような変わり者にはチャンスがあったのかもしれません。

 僕が「リバタリアン宣言」を書いたとき、葉緑素を入れた人間がいたら、ヴェジタリアン理想にかなうだろう、と書きました。すると、編集長から、「子ども遺伝子操作でいじめられたら、どうするんですか」との反論を受けて、長くなっていたこともあって、その記述は削除しました。

 しかし、なぜ親が与える教育ならば良くて、操作された遺伝子なら良くないのか?という疑問は残ります。つまり、そういう指摘をする人は、「理性というより単に感情的遺伝子操作に反対している」、あるいは「いじめられないという大衆迎合を、自分の価値の追求に優先している」、のどちらか、あるいはその両方でしょう。

 国家なり、別の組織が、僕の子ども教育に強制力を持って介入するのであれば、僕は反対します。では、子どもへの遺伝子操作は当然に国家が禁止するべきなのでしょうか?僕はこういった他人任せの価値観押し付けには、リバタリアンとして断固反対します。

 

3、について

 リバタリアニズムを提唱する学者思想家アメリカには数多くいますが、日本にはほとんどいません。僕が難しいと思うのは、僕自身が上記2.1において、「集団には差異がある」という考えを持っていることです。

 これは、リバタリアニズムと言う西部戦線を戦いながら、politically incorrectという東部戦線にも火をつけることを意味します。(僕は別にヒトラー尊敬もしていないし、アレキサンダーやチンギスハンのような征服者よりも軽蔑もしていない。)こういった無意味戦線の拡大は戦略としては、やはり止めておくべきでしょう。日本でも、日中戦争をしているのに、パール・ハーバーを攻撃するのはやめるべきだったと思います。(もちろん、僕は戦争反対だし、枢軸のように最後に敗北する気もないので、これはあくまでも例示のため。)

  ここでも忌憚なく言えば、ドーキンスフリードマンも個人の差は存在すると思っていると僕は彼らの記述の節々から感じます。しかし、そういってしまうと、ドーキンスの場合、1.1の立場への共感が減ってしまうため、またフリードマンの場合、3.1の立場への共感が減ってしまうため、無意味な戦いを避けているのでしょう。

 ドーキンスは、「進化論を容認するキリスト教キリスト教原理主義を区別し、科学者は前者と共闘すべきだ」とするマイケルルースなどを、科学の「ネヴィル・チェンバレン派」と呼び、そういったキリスト教への融和的な態度を拒否しています。

 これには賛否両論ありますが、つまり「宗教はすべて非合理的な迷信であり、科学とは合理主義のある種の現れである」と言う立場からは、両者は両立し得ないと主張しているのです。

 僕はこれに共感するところがあります。同じように1.1の立場からは、ほとんど論理必然として2.1が出てくると思います。もし出てこないと主張するのであれば、そう主張するほうが事実の立証責任を負うはずです。しかし、人々の中にある平等思想への思い入れは、2.1を否定する傾向を持つのでしょう。


物理学論理

 繰り返すなら、2.2からもアナルコ・キャピタリズムは完全に論理的に肯定できます。しかし、おそらく心理的な性質の問題としては、徹底的に既存の常識西洋における神の実在や、政府の存在の正当性や効率性)を疑うなら、デフォールト仮説としては2.1に近づくのではないかと感じます。

 しかし、おそらく僕が最初に2.2のような常識に納得できていたのであれば、3.1にも行かず、むしろ3.2の普通経済学者として、「政府規制緩和策はこうあるべきだ」という程度で納得できていたのだと思います。

 もちろん、2の問題について考える必要などはそもそもまったく存在しません。2を省略することは可能であるに止まらず、メンタルにも健全であり、結構だと思います。

 例えば、僕には理解しきっていないし、考えきってもいない(あえて府番するなら)0番目の問題があります。それは

0.1、相対性理論量子力学は認めるとして、ストリングなどがそれらを統一するのか?

0.2、相対論量子力学は当然だが、ストリングなどはすでにもう終わっているので、新たに異なった統一理論をさがすべき

 この問題は、あるいは僕がもっと時間をかけても面白いのでしょうが、すでに今の僕にはその能力も気力もありません。

 また、さらなる余談としては、0よりももう少し、僕自身の興味がある問題としては、虚数軸と呼ぶべきような問題群i「ゲーデルの定理と論理的知性」、「存在と当為の認知神経的な関係」、「形式論理的な理性・知性と意思決定の関係」などがあるのですが、これらも残り少ない人生ではほとんど追及する時間がなさそうです。


 

結論:読者の皆様へ

 というわけで、1から3の問題について、ダラダラと書いてみました。このサイトを読んでいる人は、ほとんどが3.1について共感してくれているからこそ、このサイトを知ったのだろうと思います。当然、2.1については、おそらくどうでもいいか、あるいは反感を持つことだろうと思います。

 エヴァンジェリストというものが、「目的のためには方法を選ばない」というのであれば、2.1の立場は、ふさわしくないことは間違いありません。この点は残念にも感じますが、しかし自分が信じていないことを人に語ることはできないので、やむを得ません。

 また、経済学という学問にしても、さらにその極端な思想であるリバタリアニズムにしても、情動的な要素よりも、理知的な要素のほうが強いと、僕は勝手に思っています。(日本では特に「自由」は、それ自体が情動的な価値を持つようには思えないので、)純粋理性的に理解してもらえるなら、2.1はおかしな意見ではないとも思います。

 という程度で、それでは、今後ともよろしくご意見などお願いいたします。

坂東α坂東α 2009/06/07 23:49 >小生がイギリス人と日本人を間違えることはない
 これは、ある個人に関してなら到底見分けるの無理だと思うのですが。せいぜい確率が高い、程度でしょう。ま、いいや。

 水掛け論になるのは事実なので、この件はそこまで引っ張る気はないのです。「ハンガリー人はアジア系が色濃いけど、ヨーロッパの中でも数学得意じゃね?」とか言い出してもきりがないので(笑
 グールドが主張したように、精神的な傾向は可塑性が大きい上に、環境の影響を切り分けるのが困難なので、脳科学と分子生物学の発展を待つしかないでしょう。
 私は政治的に正しいからグールド的な見方を支持しているのではなく、科学の発展が裏付けるであろうと一応信じてます。

 長谷川先生の授業における男子学生の反応を見ると、懸念は当然という気がしないでもない。

kurakenyakurakenya 2009/06/09 16:23 なるほど、そういった態度が「開かれた社会」なのだろうと思います。
僕もそうありたいものです。

今後ともご感想などよろしくお願いします。

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