kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

無政府社会と法の進化

無政府の法と社会

前書き
 この著作は、アメリカの無政府資本主義者であるフリードマンやロスバード、ベンソンやバーネットなどの指導的な研究者の研究を、おおまかに統合したものである。彼らが過去40年以上にわたって企て、すでに大きな結実をみている研究に加えて、私自身の視点から無政府社会を構想している。すでにアメリカでの研究者たちは、無政府主義社会が現実にどのように機能するのかについて、またそこでの生活上の問題についての、詳細な記述をほとんど完成させている。これによって無政府社会での、生活の諸様相が想像できるのである。
 むろん想像は想像に過ぎないが、日本語読者に、無政府社会が秩序をもって機能しうるものでありうることを理解してもらうことが本書のねらいである。歴史的に、主流の人間社会は過去数百年の間に、王政・貴族制から民主政へと大きく変化してきており、社会体制とは大多数の人々がその価値を信じることによって必ず実現するものだからである。
 本書の無政府社会の記述は、その法の私有化と進化というもっとも重要な着想においてフリードマンの『自由のためのメカニズム』ならびに『法の秩序(Law's Order)』に、また私的な行為としての刑罰論についてはバーネット『自由の構造』、ベンソン『法の企て(The Enterprise of Law)』、『奉仕と保護( To Serve and Protect)』に負っている。学術的にいうならば、彼らの先行研究に、この著作の基本的なアイデアのほとんどを帰することができよう。
 もちろん、具体的な記述や個別の問題点については、もちろん私の個人的な予想や問題意識も多種多様に織り込まれている。無政府主義論者は必ずしも一枚岩の論理を持っているわけではないため、ほとんどの場合、私自身が感じる蓋然的なシナリオを考えざるをえない。また、私独自の見解としては、進化論に基づく利己性の導出、ESSとしての左翼・右翼の理解、無政府におけるそれらの政治的な意見の存続、犯罪の最適量刑についての考察などがあげられよう。
 また、現行法制度と経済学の理解が本書の理解に役立つかもしれない。本書は、事前の法律知識を必要としないことを前提に書いたつもりだが、やはり法律や市場メカニズムゲーム理論の知識があるほうが本書で展開される社会制度の理解がより容易だろう。
 無政府資本主義の法と社会とはどのようなものなのか、その多くの点に関して、本書は断定するよりは、読者に疑問を投げかけている。読者諸兄には、本書を手がかりに賛成反対なり、疑問なりを感じて思考遊戯を楽しんでいただきたい。
 極端な自由主義者の私生活は孤独に陥りがちであるが、河合勝彦、長屋文裕の両氏とは個人的に常に示唆に富む会話を、またネットではkyuuri氏とのやり取りを楽しませてもらっている。また本書の校正に際しては、仔細に至るまで木鐸社の坂口節子氏にたいへんにお世話になった。感謝してここに記したい。

                                       2007年10月
                                          蔵 研也
               www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/ kurakenya@gmail.com




1、無政府主義
 これまで日本では、無政府主義といえば、左翼の極限的な主張であると考えられてきた。それは既存の秩序の全面的な否定であり、私有財産を前提とした商業活動や国家のみならず、婚姻制度や家族制度など社会倫理全般に及ぶ、あらゆる秩序の破壊をもくろむものだったと思われている。
 この線にそった主張でもっとも有名なのは、フランスのピエール・ジョセフ・プルードンである。すでに1840年にプルードンは、その著書『財産とは何か』において、「私的所有、それは盗みである」という私有財産論批判で、世界的に著名になっていた。しかし、彼は性格的には温厚で、誰の意見も丁寧に聞こうとしたといわれている。彼の晩年は国際的な社会主義運動が高まり、運動を中央集権的に推し進めようとしたマルクスなどに対して、「連合主義」をかかげて分権を主張した。またロシア人であるバクーニンは、この分権的な政治活動をより組織化することによってマルクス派に対抗しようとしたといわれている。
 しかし私は、これらの社会主義運動としての無政府には、そもそもあまり未来があったとは思わない。彼らの理論は権力を否定するという点で平等を目指したものだが、その人間観があまりにもユートピアンだからである。ヒトの個体は「自分」の遺伝的な繁殖を究極の目標として進化してきている以上、その基盤となる私有財産などを否定するような制度は、我われの道徳的な直感とは容易に合致しない。また同時に、私有財産制度の否定は、局所的にしか存在しえない生産知識の活用を妨げ、社会の生産性を絶対的に低下させてしまうことになる。
 私が親近感を覚えるのは、ロシアの夢想的アナキストであったミハイル・クロポトキンである。クロポトキン生物学者としても活躍したが、その思想はあえていうならホッブズよりはロック、さらにはルソーに近い。彼は1902年の著書『相互扶助論』において、自然界はたしかに進化論によって形成されてきたことは認め、しかし、それは弱肉強食というようなものではなく、相互に助け合うという形がもっとも一般的なのだという説を唱えた。今でいうなら、リン・マーギュリスらの主張する、細胞の共生発生説を髣髴とさせる進化理論なのである。
 しかし、クロポトキンは、犯罪というのは社会的な病理であり、無政府の社会ではなくなるだろうと主張するようなユートピアンであった。このような左翼的な無政府主義は、私の立場ではない。彼らが日本の無政府思想史に与えた影響は少なくないが、ここではかれらの思想には深入りする必要はない。

アメリカの無政府主義
 ヨーロッパ大陸の左翼的無政府主義が、政府に対する嫌悪だけではなく、社会的な因習に対する否定をも含んでいたことは間違いない。これに対して、新大陸の移民国家であるアメリカでは文化的な伝統は弱く、あるいは比較的に合理的なものだけが残っており、批判する必要はあまりなかったのだろう。よって、アメリカの無政府主義者は、資本主義的な交換経済やその基礎となる開墾に始まるような私有財産制を当然視した。そして、それを強制的な租税制度によって強奪しようとする、あるいは自由な職業活動を規制しようとする政府に対して反抗したのである。
 考えてみれば、アメリカの建国の父たちとは、イギリス政府の支配から独立を成し遂げた人びとである。政府への不信というものが根底にあるのは必然的であっただろう。だからこそ、ロックの思想に基づいたヴァージニア州憲法アメリカ合衆国憲法、などでは天賦人権説を謳った後、政府による基本的人権の蹂躙に対しては抵抗権があると明言するのである。
 しかし、合衆国憲法の由来となった天賦人権説や社会契約説は、ともにフィクションである。18世紀の時点では、神が人間を創造したと考えることも可能であっただろう。この時点では、天賦人権説のほうはフィクションではないとも考えられていた。しかし、ホッブズやロックの仮定した社会契約が現実には存在したことがないのは疑いもない事実である。すでに19世紀中葉には、アメリカの無政府主義者ライサンダー・スプーナーは『反逆にはあらず(No Treason)』をはじめ、多くの著作によって、政府の必要性も正当性も、そもそも存在しないと主張したのである。
 この後、1930年代に入ると、アメリカでも世界恐慌からの脱出のために国家の役割が福祉国家へと変貌を遂げていくことになる。それに反対する古典的自由主義を信奉する人びとは、あるいは夜警国家に戻ることを主張し、あるいはむしろ政府を解体して無政府資本主義を実現することが望ましいとまで主張する人びとも現れた。彼らは古典的な自由主義の復活を目指し、1970年代までには、すでに福祉国家主義者にのっとられてしまった「リベラル」という呼び方を放棄して、自らをリバタリアンであると称するにいたった。
 本書はこの伝統の上に立って議論を進める。

「資本主義」の含むもの
 ここで本書における語法について、若干の補足を加えたい。それは「無政府資本主義」という言葉についてである。前述したように、これまでの政治学的な分類によれば、「無政府主義とは政府のみならず、私有財産や企業活動なども含む一切の権威の否定」というものであったため、私有財産制度や企業制度を肯定しながら、政府のみを否定しようとする試みは、無政府資本主義と呼ばれることになってきた。
 この名称がミスリーディングなのは、「資本主義」という言葉である。左翼的無政府主義者は、政府も財産制度もない社会で、人びとは友愛と互助、自発的労働や強調によって生産や分配が行われ、人びとは平和のうちに暮らすことが可能であると考えた。彼らは、資本主義とは、利己的な私有財産を前提にしているだけでなく、労働もまたスクルージのような拝金主義者が金儲けのために行うという卑しいものだと見なす。よって、彼らの視点からは、無政府資本主義は、正当な無政府主義ではないことになる。
 しかし、資本主義とはスクルージのような金儲けの亡者のみが活動するような社会ではない。言うまでもなく、そこには愛情に支えられた家族もあれば、共感による地域コミュニティもある。さまざまなNPOやヴォランティア活動もあれば、神聖なる目的によってたつ宗教的な共同体もある。現代社会に明らかなように、資本主義はそれらのすべての活動と営利活動とが平和のうちに共存しているものなのである。仮にすべての人が聖人になったのなら、営利目的の企業活動を全面的に停止して、宗教共同体に戻ることも可能である。
 反対に、私が本書で展開する利己的な人間性を前提にすると、左翼的な無政府主義は機能しないだろう。そこで、英語ではanarcho-capitalismと呼ばれる無政府資本主義であるが、本書では単純にこれを以後、単純に「無政府主義」と記述することにしよう。そして左翼的な無政府主義との区別がはっきりしない場合にのみ、原則に戻って無政府資本主義と記すことにする。


2.前提1:進化論と利己的遺伝子
 社会科学に限らず、学問というのは多かれ少なかれすべて歴史的に形成されてきたため、ある学問分野を知るには、その祖先神たちの名前を知らねばならない。たとえば物理学であれば、ニュートン、マクスウェル、アインシュタイン、ボーア、ファインマンなどだろうが、彼らの個人的な著作が現代の学生に読まれることはない。通常、学生は、先人の理論を体系化した教科書を学習する。巨人たちの書いた元論文は科学史的な価値を持つだけである。
 しかし、社会科学のおかれた状況は、これとはだいぶ違う。学問はほとんど無意味に細分化されており、その分野の祖先神、あるいは巨人の言葉の引用に終始しがちである。引用される人物をみるだけで、およその内容までわかるほどなのである。社会学であれば、コントやマルクスウェーバージンメルグラムシ、さらに現代的にはフーコーアドルノなどを加えてもいいかもしれない。法学ではイェーリングやケルゼン、ハートなどの名が挙がるだろう。社会哲学では、プラトンアリストテレスからホッブズ、ロック、ルソーなどが即座に想起される学統上の祖先神である。
 無政府について考える本書の祖先神は、本来ならばプルードンクロポトキンバクーニンあるいはマルクスなどのはずである。しかし私は、本書の第一の前提は進化理論、あるいはその伝統を受け継いできた生物学的な行動科学であり、進化理論以前の学者への言及は、基本的には命題の補強においてのみ使う。なぜなら無意味な思弁としての道徳科学は古代から連綿と続いてきたが、人間の社会行動がどの程度利己的であり、また利他性はどの程度において存在しうるのかという科学的な探究は、社会生物学論争を経て、ここ30年ほどで急速に確立してきたからである。

利己的遺伝子
 1859年にダーウィンによって進化論が提唱された後、その人間への含意が広く知られるまでには長い時間がかった。ダーウィンから100年間はDNAによる遺伝子構造が明らかではなかったこともあって、進化理論における淘汰の単位が生物種なのか、あるいは生物個体なのか、さらにメンデルが主張したような遺伝単位なのかがはっきりしないままに、議論が行われていたからである。
 「種の利益」に反するために、野生動物は殺し合いをしないとか、「群れの利益」のために個体は警戒信号を発するのだとか、というような群淘汰的な考えは、今もマスコミには時折見受けられる。しかし、進化とは、自己複製を繰り返す無目的なDNAの断片の増殖の過程であり、それは第一義的には遺伝子自体の複製の効率に依存する。なぜ、それ自身を含む個体に不利な行動をもたらすような遺伝子が、種内に広がりえるのだろうか?
 アメリカの海洋生物学者ジョージ・ウィリアムズは1966年の著作『適応と自然選択(Adaptation and Natural Selection)』において、当時広く存在すると信じられていた群淘汰の概念は、現実には生物の行動の説明足りえないと主張した。ウィリアムズの論駁によって、利他行動のような、明らかに群淘汰、種淘汰の説明として持ち出されていた行動は、個体とその血縁個体に対する利益に還元されることになったのである。
 これは、つまり何を意味するのだろうか?
 社会倫理の常識によると、我われは利己的な行動を慎むべきで、利他的であることこそ道徳的であると教育される。だが、利己的ではない個体は、定義上、その繁殖に関して利己的な個体よりも不利になる。利他性をもたらすような遺伝子は、地質学的な時間のなかで、種内に存在する遺伝子の集合(遺伝子プール)から消滅していくのではないだろうか?
 これに対する答えの一つは、1964年にイギリスの進化生物学者ウィリアム・ハミルトンによって提出された血縁淘汰の理論である。利他的な行動はたしかに当該個体の適応度、つまり繁殖の可能性を下げるが、それ以上に血縁個体を利することによって、その行動を発現させる遺伝子を集団内に広めるという。この血縁選択の明らかな例は、子どもの養育である。子どもを養育するには資源が必要であり、個体の存続や次回以降の生殖活動には不利であることが普通である。しかし、倍数体(通常のオスメスの存在する)の生物個体にとっては、子どもは自分の遺伝子の半分を各親から受け継いでいるため、養育に値するのである。
 また別の重要な例では、アリ、シロアリ、ハチなどのように不妊の労働カーストを持つ社会性昆虫があげられる。不妊カーストの個体は自分の子どもを残さないが、それと近親関係にある女王の子どもを通じて、遺伝子的な繁殖目標を達成する。不妊カーストをもつ生物種は真社会性であると呼ばれるが、最近では倍数体の生物種でも、ハダカデバネズミなどのように真社会性を持つことがわかっている。
 オックスフォードの進化生物学者リチャード・ドーキンスはこの遺伝子中心の考えを進めた。1976年の『利己的遺伝子』において、個体や遺伝子の自己増殖を目的とする一時的な「乗り物」でしかないと結論付け、さらに『延長された表現型』では、ビーバーのダムなども、生物個体と同じように遺伝子の発現と考えることができるとした。私見では、近い将来に、各地の法や倫理、慣習も、ヒトの地域集団に固有の「表現型」だという作業仮説が社会科学でも支配的となるだろう。
 40億年にもわたって進化してきたヒトの個体について考えても、おのずとその個体は原則として利己的であるということになる。利己的ではない個体は定義によって自らの生存の確率を低めてしまい、繁殖の機会や可能性も失ってしまうことになる。利己的な個体を作り出す遺伝子でなくては、天文学的な時間にわたって、その遺伝的な存続を維持してくることは不可能だろう。
 そして、利己主義の延長線上には血縁淘汰を原因とする近親ひいき(ネポティズム)が明らかに見られるはずである。これはあまりにも我われの社会に普遍的であるため、歴史的に見ても、現代社会を見ても特段の説明の必要はないだろう。
 
利己的行動の進化
 これに対して、利他的な行動はどうなのか?それは進化する可能性がなかったのだろうか?
 これに対する答えは、限定的な肯定というものである。生物学者の間でおそらくもっともよく引用される例の一つを、自然科学誌である『ネイチャー』から挙げてみよう。中南米に住むヴァンパイア・バット(チスイコウモリ)は、大型動物の血を吸うことで主なエネルギーを得ているが、猟に出かけても、かならずしも満腹で帰巣できるわけではない。このような場合でも、まったく血縁度のない個体が血を分けてくれることがある。それによって、餓死の危機から逃れることがあるのだ。お返しに、次回自分がたくさんの血を吸うことができて、以前に助けてくれた個体が餓死しそうなときには、やはり血を分けてやり、お互いに互恵的な関係を築くことが報告されている(Wilkinson 1984)。
 個体識別を行うような高等生物の場合、長い時間をともに過ごすのであれば、助け合うことは割に合っており、協調行動としての利他行動が進化することはごく自然であろう。情けは人のためならず、という日本のことわざの教えるところでもある。生物学に限らず、互恵的な利他行動はコンピュータプログラムにおいても戦略として強力であることがアクセルロッドなどによっても報告されている。こういった進化論的な利他性の起源への私の理解は、マット・リドリーの『徳の起源』と基本的に同じものである。
 また実験経済学の膨大な実証研究でも、たしかに我われは自己の利益のみを最大化する経済的な合理人ではなく、相手との公平をも考慮に入れて活動する、実に社会的な存在であることがわかっている 。とはいえ、私の知る限り、どのような実験においても、自分の利益よりも相手の利益を優先するような行動が安定的に示されたことはない。
 利他行動はたしかに存在し、我われの社会規範の一部として確固たるものとして認識されている。だが、それはネポティズムであることが多く、そうでない場合でも共同行為によって長期的な利益を得ることができるという特殊な条件においてのみ、その存立基盤が提供される。これに対して、利己的な行動は、我われの社会において主流の行動であるという観察もあれば、直感も、さらに理論的な必然性もある。このことは、誰にとっても自分が1億円をもらうことは、日本国民全員が1円をもらうよりも、はるかに好ましいに違いないと断言することで十分だろう。
 よって、私の立場は、「人間は原則的には利己的であり、自分の利益を第一に考えるが、血縁が利益を得るような場合は自分が損をすることもいとわないこともある。また互恵的な利他行動(厳密には延長された利己的ともいえるが)は非常に頻繁に見られ、社会行動の基礎を成している。しかし他人に対する純粋に利他主義的な行動というものは、戦争や大災害、突発的な事件などのように非日常的な状況でしか発現しない」というものである。
 私は、利他行動というものの存在を完全に否定しているわけではない。戦時下や人命救助などの緊急時には、まさに自らの身を挺して行われる利他的・英雄的な行為は数え切れないほど報告されている。人間というものに対して斜に構えるのもいいかもしれないが、私は人間は確かにすばらしい公共性的な精神を持っている 。
 しかし同時に、それが政府組織あるいは警察組織で発揮されることはあまりないとも考えている。我われの望みとは異なって、それらは経済的な対価の獲得を目的とする従業員によって運営されている組織であり、日常的に同じような業務が繰り返され、その本質は営利企業とまったく同じだろう。そのような組織で利他行動が原則となりえるとは思われない。平時の我われは誰しも、なるべく少ない労力で、なるべく多くのリターンを得ようとする存在であるはずだからである。
 それは、大学でも、非営利法人でも、犯罪弁護活動でも同じだろう。したがって例えば、日本国憲法15条2項には「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とあるが、無政府主義者であり、進化論者である私は、これは不可能を当為命題化したものだと考える。人がそうであるべきだという規範的な命題が憲法に規定してあるからといって、そこで働く人びとの行動が実際にそうであると考えるのはユートピアンな理想か、パロディか、あるいは詭弁だろう 。
 アダム・スミスも『国富論』に先立つ『道徳感情論』において、人間が他人に共感することを秩序形成において重視している。私は、これは、物理学での強い相互作用に譬えられると考えている。強い総合作用は距離が離れると急速に弱まるが、ごく近距離のミクロな世界では強大な接合力を発揮して、原子核を結びつける。
 これに対して、スミスが『国富論』で指摘した利己主義に基づく経済活動は、物理学でいう重力に譬えられるだろう。重力はひじょうに弱い力だが、それにもかかわらず長距離においても減衰の程度が弱い。だからこそ、天体の運行を決めるほどのマクロ的な、広大な空間を支配する法則になっているのである。
 われわれの生産消費社会も複雑で広大なコスモスである。そこでは、家族や親戚、せいぜい小さな会社までは、強い総合作用的な利他主義も機能するかもしれない。しかし、生産活動や社会全体の財や資源の配分は、マクロな活動である。そこでは重力に譬えられるような、利己性に基づく経済活動のほうが圧倒的に信頼でき、重要なものと考えられよう。 そしてこの認識こそが、無政府資本主義へといたる基本的な発想なのである。

感情の進化:第一次的意思決定
 さて、本書では刑事法規その他すべての法律の私有化を考えるが、その前提として、我われの持つ愛や憎しみなどの「感情」と呼ばれる心理メカニズムが、どのような理由で備わっているのかを、ここで確認したい。犯罪行動や犯罪者への憎しみなどに代表される、感情メカニズムというものに対する理性的な理解が得られれば、感情の存在そのものをなくすということは不可能でも、社会制度を考えるうえでは有用だからである。
 まず端的にいえば、感情とは、理性的な意思決定という「情報処理負荷の高い」判断を待つことなく、即座に行動に出るために進化してきた心理メカニズムだといえよう。ライオンに出合ったヒトはライオンのもつ、大きな体や牙などの攻撃的な資質について、「理性的に」考えるよりも、恐怖感を持つことによって即座に逃げるほうが生き延びる可能性は高まったのである。
 このような感情のもつ機能に着目した、進化的な説明は、現代の進化心理学では一般的なものになっている 。 情報処理に関して、状況を単純化し、行動を適切に導くという考えである。このような感情のもつ進化的な機能について、経済学から説明したものに、アメリカの経済学者ロバート・フランクによる『オデッセウスの鎖 適応的プログラムとしての感情』がある。
 フランクの考えを、有名な囚人のジレンマ・ゲームに題材として考えてみよう。これは、二人の囚人が一緒に犯罪をした後に警察に捕まり、相互に連絡が取れない状況で、それぞれがもう一方を裏切って自白するべきかどうかをめぐるものである。二人がともに自白しなければ、双方が懲役3年となる。一方が自白し、もう一方が自白しなければ、自白したほうは懲役1年になり、自白しないほうは5年となる。双方が自白をすれば、双方が懲役4年の判決を受ける。
 この場合、相手の行動のいかんにかかわらず、常に自分は自白する戦略を採ることが有利になる。よって、双方が自白をすることになるが、その結果は、両者の懲役4年という結果になってしまう。双方が自白しなければ、双方ともに3年となるはずだが、両者がコミュニケーションを取れない状態では、相手の行動を制約することはできないため、相手が自白しないことを確信できない。これがジレンマ状況にあるといわれる理由である。
 この場合、両人に対して、自白をすることによって、なにか懲役刑によって受ける不利益以上のコストがかかるのであれば、この問題は解決される。たとえば、相手に対する強い連帯意識と、裏切りへの激しい罪悪感を持つ人は、それを回避するために囚人のジレンマ状況で自白をしないかもしれない 。このように、より一般的には、道徳感情はその場限りの利益に踊らされることなく、より長期にわたる関係を築くために存在するといえるだろう。
 また別の例として、愛がある。愛は不合理なものだといわれることも多いが、相手に愛情を持つことは相手との長期的に安定的な関係をもたらす。結果として、単なる一時的な性欲にのみ支配されるよりも、ヒトの子どもの長期間にわたる養育に関して適応的であっただろう。結婚にはつきものの大きな挙式費用、双方の家族を含めた儀礼に費やされる手間や時間なども、長期にわたっての相手へのコミットメントを深めるために発達してきた文化だといえるだろう。私見を述べるなら、女性のほうが一般に婚姻の儀式に興味があるのは、男性の日和見主義的な離婚を防止する必要があるためである。これは女性の側からみると、子どもを産み、育てることに男性よりも大きな投資をするからだろう。
 また別の例として、ある個人が傷害未遂の被害者だったとしよう。怒りの感情があれば、結果としては未遂に終わった行為に対しても強く非難し、相手に不利益を与えようとすることになる。そうすることによって、自分への傷害行為のもたらす復讐の危険性をはっきりと告知できるのである。こういった態度は、未遂行為を罰しないような、結果オーライの楽天的な個人よりも長期的には適応的であったに違いない。そこで、我われの心には、犯罪行為に対して強い怒りを感じ、再犯の防止や完全な贖罪を超えて相手を罰したいという感情が備わるようになったのである。
 この問題は、刑事罰のあり方についての後の議論に関係することになる。無政府社会の警備会社は犯人を処罰する必要があるが、そこでどのような形態の処罰が実行されるべきなのか、あるいは人びとがどのような処罰の形態を望むのかは、犯罪への怒りから生じる応報感情と独立ではありえないからである。

人権をゲーム理論的に定義する
 フランス革命アメリカ独立によって確立した現代の民主主義政治とは、天賦人権説のフィクションに基づいた、市民の前国家的な権利の回復運動だと考えることもできよう。人は人であるがゆえに神によって譲ることのできない前国家的な権利を有しており、それが政府によって蹂躙される場合には、それを回復することが許されると考えるのである。
 では神なき時代の、「人が人であるがゆえに認められる権利」とは何を意味するのだろうか?憲法学者は「人間の尊厳」などというような言辞上の言いかえを好むようだが、それでは自然科学的探究心は満足できない。また後述するように、シンガーなどの哲学者は、高等霊長類にも人権を認めようとする社会運動を提唱しているが、このことをどう考えるべきなのだろうか。
 人間は人権を持つが、チンパンジーは権利を持たない。これは我われとチンパンジーが500−700万年前には共通の祖先を持っていたが、たまたま中間種が絶滅しているので、交配ができないことによる。しかし、これは生物史上の単なる偶然である。よく知られている例では、イギリスのニシセグロカモメは、北極まわりを一周する間に、アメリカに近づくにしたがってセグロカモメ的な種へと連続的に変化して、ヨーロッパに戻ってきたときには完全なセグロカモメになる。そして、この間のどの近親集団も交配するにもかかわらず、ヨーロッパに並存するニシセグロカモメセグロカモメは交配しない。この場合、どこに種の境界があるのかは、まったくはっきりしないのである。
 これに比べて、人間とチンパンジーはたしかに現在は隔絶した種だが、その距離はそれほど離れているわけではない。ある女性がその母親の手をとり、母はそのまた母の手をとって、そのまた母の手を、と繰り返しながら、東京から大阪までずっとならんだとしよう。平均20歳で子どもが生まれてきたとすれば、500万年の間に25万人が存在したことになる。この時点で我われの遠い母親はチンパンジーの遠い母親と同じ個体になるのである。ここからその原始の母親は、今度はチンパンジーへと続く別の娘の手をとり、娘はその娘の手をとり、その娘はそのまた娘の、と繰り返すとしよう。25万代の後には現存のチンパンジーにたどり着くことになる。この二つの系列をあわせると50万人、一人が1メートルとすると、500キロメートルでちょうど端から端へと続くことになる。つまり、東京から大阪まで母娘が手をつないでいくうちに、現代の我われの誰もが、大阪に着いたときには遠い親戚である現在のチンパンジーを見つけることになるのである 。
 さて、チンパンジーと人間の交配は不可能だが、遺伝的に99.8%が同一である以上は、遺伝子工学の急速な進歩によって両方と交配可能な中間種が作られるようになる可能性もあるだろう。そのとき人権はどのように考えるべきなのだろうか。
 あるいは、近い将来に起こるだろう遺伝子的な人類の分岐についてはどうだろうか。我われは、何であれ子どもに高い能力を望むため、近い将来に受精卵の遺伝子操作を始めるだろう。その場合、急速にヒトの遺伝子プールは拡張し、すぐに相互に交配不可能な種に分化していくはずである。そのときも、人権はどのような主体に認められるのだろうか。
 この点を統一的に考えるには、現代社会のように国家が各人の人権を守るという枠組みよりも、むしろ無政府社会における契約による権利の保護のほうが適切である。これはまた、繰り返し立ち戻る主題である。
 さて現代社会に戻って考えると、人が自由に往来する権利、職業活動を自由に行う権利、自由に他人と交際する権利、自由に表現する権利などは、すべて前近代の国家が僭越で危険だとして人びとに認めてこなかったものである。それが近代に入ると、産業社会の成立とともに、資本家たちの間で王権からの自立を望む機運が高まり、結果としてこれらの権利は天与の人権として尊重されるべきだという考えが広まったのである。だから、ここでいう人権とはまさに人が人に対してもつ権利であって、それはむやみに他人の私生活や自由に干渉しないというものだといえるだろう。
 私は人権思想、あるいは法の支配に基本的に共感している。しかし、それはやはり我われの時代の価値観、あるいはイデオロギーであって、我われの思惟と離れて自然界に実在するものではない。我われの時代の技術背景に適合した、人間同士の明示的・黙示的な相互契約が人権であるとすべきである。
 そして自由権が確立したのは、まさに我われの利己的な心性からだと考える。王や領主の許可がなくてもどこにでも行き、好きな友人と話し、好きな異性と結婚する。自分がしたいようにしたいという素朴な欲求は、そういった自由を許す社会が産業を急速に発展させていくにつれて、それらの自由な行動を封建的権威者に対して人権として認めさせていった。あるいは、そのような人権を認めるのは資本家にとっても、その支配者にとっても領域経済の発展や税収の増大、国力の増大という私的な利点が明白にあったからだろう。
 私はここで、人権を単なる形而上の産物だとして否定したいわけではない。人権の概念は我われの直感に訴えるにとどまらず、その運用もまた合理的な国家制度を保障すると思われるからである。また立憲主義という考えは、政府の不必要な干渉に対して個人の自由を守る防御壁となってくれる。
 しかし、無政府の社会では、人権の観念は、人道主義、あるいは人間主義と同じように黙示的な存在に後退するように思う。無政府の社会では、人権を守るべきだと伝統的に考えられてきた主体である国家は存在せず、かつ基本的には特定の個人間には、明示的な契約が存在しないからである。
 各人の実質的な権利は、彼や彼女の契約する警備会社・仲裁会社によって保障されるのみとなる。それは国家という強制力はなくなり、警備会社がもつ物理力によって支えられているに過ぎないという意味で、これまでのように普遍的にすべての人が同じ権利を持つというものではなくなるだろう。
 高等霊長類やクジラの権利も、あるいは自分では意思表示のできない人間の権利も同じように、動物愛語のNPOの誰かが動物たちの代わりに警備会社と契約をして、契約の履行を要求するということになる。あるいは動物愛護や人権擁護のヴォランティア自身が警備団体をつくって、彼らによって守られることになるかもしれない。

積極的人権と利他主義
 20世紀以降、明らかに人びとの常識は変化してきた。国家からの自由という消極的自由に加え、国家による「欠乏からの自由」といった積極的自由もまた、基本的人権として承認されるようになったのである。このような自由の二元論は、オックスフォードの政治哲学者アイザイア・バーリンの『自由論』に典型的に現れている。バーリンは1958年に『二つの自由』を著し、自己決定の実質的な能力を高めるという意味で「自由」を解釈し直し、それ以来、現代国家には様々な社会福祉的な諸政策が要請されることになった。
 しかし、国家が何らかの政策を決定するということは、ある政策に反対する個人にもそれを押し付けるということを、不可避的に意味する。国家的な行為とは、つまり物理的な強制力に裏付けられた服従を、我々は余儀なくされる性質のものだからである。と同時に、国家が救貧政策を行うのであれば、現実には富裕階層からの税金によるしかない。この意味で、福祉国家とはつまり富裕層の財産権の侵害に基づいてのみ成立しえる制度なのである。
 産業革命以降、人間生活の物質的な状況は急速に改善され、それによって人びとの間ではある種の余裕が生まれた。その結果、国家を通じての社会的弱者に対する利他行動が人道的にも望ましいと考えられるようになったのだろう。この意味では、人びとの利他性の発露が積極的基本権を肯定させ、それに応じて現在の社会福祉国家を要請しているのかもしれない。
 これは利他的な行為への共感としては理解できるが、私は、これは誤った方向だと考える。なぜなら、政府が行う行為には、すべてに二重の問題が生じるからである。第1は、政府の直接的な活動自体の効率の悪さである。よく知られているように、政府セクターには効率化へのインセンティヴがないため、民間セクターに比べてほぼ半分の生産性しかない。第2の問題は、政府の行為から利益を得ようとする特殊利益団体によってロビー活動が行われ、結果、公務員への賄賂やその他の働きかけによって資源が無駄に使われてしまうことである。これを経済学ではレント・シーキングと呼ぶ。1990年以前のインドやトルコのように、社会主義的な貿易政策を採用する国ぐにでは、このようなレント・シーキングのために、実に国民生産の半分近くに及ぶ資源が投入されていたことが報告されているのである 。
 それだけにはとどまらない。生活保護制度などの純粋な救貧政策を除けば、諸処の社会政策はむしろロビー活動によって、より富裕な人びとにとって有利な制度に設計されたり、変更されたりしているのが現実である。例えば、年金制度は一見して社会的な弱者を救っているようにも見えるが、その主要な恩恵を受けているのは現役時代に高給を得ながら長生きしている、社会の上層階級である。農業保護政策にしても、農家の平均収入は都市部に住む貧困層の平均を上回っている。にもかかわらず、農家保護という理由で都市部の貧困層から安価な輸入農産物を禁輸し、それによって所得を都市貧民から農家へと移転している。
 これらの詳細はここには書ききれないが、医療制度や訴訟制度などの改革は我われの実質的な所得を2倍以上にするだろう。だからこそ、政府のない社会は、政府によって活動が規制されすぎている社会よりも自由で、物質的にも豊かで魅力のあるものなのである。
 前述したように、明らかに人間には利他的な行動様式や感情が存在している。であるなら、政府という強制装置を作って利他的な社会を実現するよりも、それを自発的に実現させたほうが、望ましいだろう。そこには、脱税の努力などは存在せず、寄付という負担をしたものがそれだけ自分の名声なり、評判なりをあげることのできる社会である。そこでは、強制的に他人から金を奪って、別の人間に分配する人びと、つまり政治家や官僚がいない。
 誰であれ、彼が考えるすばらしい社会を実現したい人がいるとしよう。彼は、まず自分でなにか人びとに購入することを納得させるようなものをつくりことになる。その対価として得た金銭を、その目的に捧げればいいだろう。これは本当にすばらしいことだ。なぜなら、集団の中に政府という収奪するだけの強盗がいる社会よりも、いない社会のほうが、それらの強盗団の一味(公務員)になる人びとが生産的に働く分だけ、社会全体はより豊かになるだろうからである。


3、前提2:自由主義の経済効率性
 本書の第2の前提は、自由主義的な経済は計画的、集権的な経済活動よりもかならず経済効率の点で優れているというものである。私は以下に、イギリスにおいて産業革命と期を同じくして自由権が確立し、それは経済的に最も効率的であったこと、そして、その後の社会主義計画経済が失敗に終わったことと、その理由についても簡単に説明する。
 次いで、無政府社会を目指すにあたり、なぜ分配的な正義よりも経済効率のほうが重要だと考えるのかの理由を述べる。ついで、現在までになされてきた無政府資本主義の基本的な特徴を説明する。
 さて、経済学はアダム・スミスを始祖と仰ぐ社会科学であり、その学統は18世紀に遡る。それはダーウィンの進化論に1世紀程度先んじており、私が1章で述べた基準からすれば、真剣に考慮するには値しないはずである。しかし、スミス以来の経済学の伝統は、人間活動の前提を、概ね個人的な利己性に置いており、それはたまたま進化論的な前提と一致する。そのため、本章は経済学の伝統の解説に当てることが正当化されよう。
 スミスは1776年の『国富論』において、利己的な諸個人の活動が「神の見えざる手」によって、調和的な生産社会に昇華することを説得的に論じた。それ以降、経済学者はこの命題を数学的に精緻化し、現在の一般均衡理論と呼ばれる経済学体系にいたっている。
 前章で仮定したように、たしかに人間は概ね利己的に行動するが、ネポティズムやさらにもっと純粋に利他的な行動も行う。よってこの点は厳密にいうなら、現代経済学の主流であるミクロ理論とはかならずしも完全には一致していないことを認めなければならない。我々は、たとえば国防の私的な供給の問題において、この点に立ち返るだろう。

夜警国家観の成立とレッセ・フェール
 現代世界における政府とは、国民の面倒を逐一みるような存在である。そして、そのことが当然に期待されてもいるのが一般的である。これは20世紀において、広まった国家観であり、福祉国家観、あるいは社会国家観とも呼ばれる。そこでの国家とは、国民をパターナリスティック(後見主義的)に見守るような、よき家父長としての父親のイメージがもたれているのである。
 19世紀に支配的であった国家観はこれとは異なり、夜警国家観であったといっていいだろう。この言葉は、国家活動は夜に見回りをするような警察に限られるという、後世の社会国家主義者からの侮蔑によって命名されたものだが、十分にその本質を言い当てている。
 18世紀以降の天賦人権の考えによって、国家の干渉からの自由権が確立する。自由権の限界を画する理論として有名なのは、ジョン・ステュアート・ミルによる1859年の著作『自由論』のなかで表明された、いわゆる「加害原理(harm principle)」である。この加害原理とは、「相手の自由権への侵害とならない限りは、個人の行動は自由とされ、許されるべきだ」というものである。この視点から現在に続く論争としては、売春や麻薬、その他の犯罪の合法化を許すかどうかということである。
 また、経済学においても、アダム・スミスが分業の利益を説き、さらにディヴィド・リカードが比較優位説によって国際貿易の有用性をモデル化して証明したことによって、古典派経済学は完成した。ここに、自由放任政策によって経済的な繁栄が達成されることが了解されたのである。
 人権思想における自由権の確立と、経済政策における自由放任原理とがあいまって、国家のなすべきことについては、きわめて限定的に考えられるようになった。国家活動は、治安の維持のための警察活動、私人間に発生する問題を解決するための裁判機能、そして外交と国防に限られると考えられるようになったのである。
 この視点からは、国際貿易も互恵的かつ自発的な行為である以上は、積極的に奨励されるべきだということになる。これは当時、より進んだ経済段階にあったイギリスに有利であるように感じられたため、後進国家であったドイツでは、経済発展の歴史的過程を重視するフリードリッヒ・リストなどの歴史学派が自由貿易反対の論陣を張ったのである。
 たしかに、長期にわたる技術の発達は、予備的な開発期間や周辺の科学技術の発展など、多くの要因に左右される。すでに有利な立場にあったイギリスに比べて、多くの産業が遅れていた18世紀のドイツ人は、イギリスと自由貿易をすれば、国内の産業の育成にダメージを受けると考えたのである。いうまでもなく、これは自民族中心主義的、愛国主義的、あるいは国民国家的な考えであった。
 しかし、これは誤りである。比較生産費の仮説は、貿易をする国はどのような状態であっても、両国ともに利益を得るというのが、その結論である。また現実にも、保護主義的な産業の育成が成功している例はほとんどない。
 よって、本書の第2の仮定は、自由主義は物質的に繁栄する社会を可能とするというものである。自由は各人の営業の自由を当然に含み、それによって我われは効率的で豊かな社会を享受することができるのである。

市場制度の効率性
 通常は主流派の経済学においても、こういった効率的な自由主義経済を支えるのは、政府セクターの提供する法制度が整っているからだとされるのが普通である。つまり、経済社会の発展の前提には、交換するべき財産権の定義であったり、契約の履行の強制力の存在であったり、というような政府のつくりだすインフラストラクチャーが必要だというのである。私は経済学を長らく専攻してきたが、ほとんどの経済学者はこれを疑問視することなく、完全に前提視している。よって、レッセ・フェールの原則を支持するという場合、警察・司法・国防については国家がなすべきだということになるのである。
 しかし、本質的な機能論として、インフラストラクチャーの構築に限っては政府セクターが行うべきだという必然性はまったく存在しない。
 法制度が確立した後に、人間社会が私的な活動によってより豊かな状態になるのであれば、法制度自体も私的な方法によって確立されるほうがよいと考えるのが、むしろ自然である。1章で述べたように、人間はすべて原則的に利己的なのである。この考えからすれば、警察・司法・国防に従事する人びとに関しても例外ではないだろう。それらを担当している組織が市場での競合者からの競争から守られる限り、彼らの作り出す制度は非効率的なものになっていると考えることには十分な理由がある。なぜ、警察・司法・国防も民間企業に任せないのだろうか?前述したように、我われの利己的な精神は、市場を通じてのみ互恵的な性質を帯びた利他行動へと転換することが可能となるのである。
 これはアダム・スミスの時代から、一貫して経済学者が共有してきた認識である。肉屋はたしかに利己的なのだろう。しかし、その肉屋の利己性が、明日もまた肉屋で我われが肉を買うことを可能にしているのである。我われは肉屋に対して、応分の対価を支払うことによって肉を買い、彼の利己性は我われの利己性と調和的で効率的な社会秩序を構成する。
 なぜ、国家の本質的な作用だからといって、警察・司法・国防のみがこの原則から外れるべきだと考えるのだろうか?私はこの考えが理解できない。重要なものであればあるほど、相互の利己心の調和のために市場での解決が必要となるはずである。
 つまり、それは本書にいう無政府資本主義の社会に他ならない。
 大きく話を変えると、かつての社会主義者が指摘したように、我われのもつ潜在的な技術力と、一人一人の嗜好についての情報を中央集権的に集めて、それを処理することも抽象理論としては可能かもしれない。この場合、各人が何を行うかも、何を受け取るのかも中央の計画局によって決定されることになる。
 ア・プリオリに考えるなら、このような計画経済が分権的な資本主義経済よりも生産性が低く、人びとの消費生活は貧しくなるということは、必ずしも自明ではない。おそらく、どのような理論を構築しても、集産的な方法を好む人たちは納得しないだろう。しかし、ここでは簡単に、その実例と理論を指摘しよう。
 
計画経済の貧困
 1945年に第二次世界大戦が終わると、社会主義のソヴィエトと資本主義のアメリカによって二つの国民が分断され、合計4つの国家が誕生した。東西ドイツ南北朝鮮である。実験の不可能な社会科学においては、もっとも実験というものに近い状態が実現したのである。
 1990年までに東ドイツは崩壊し、西ドイツに吸収されたが、東西ドイツの鉄条網をくぐろうとして射殺されたのはもっぱら東ドイツの人びとであった。物質的にも西ドイツは圧倒的に裕福であり、表現の自由、その他の我われが人権だと感じるものは西ドイツには実在したが、東ドイツではホーネッカーによる独裁が続き、人びとは共産主義エリートによって完全に支配される以外の道はなかったのである。
 それを極限的に再現しているのが、現在の北朝鮮である。人びとは冬季には凍死や餓死の危機に瀕し、世界でもっとも平均寿命が短い状態にある。朝鮮労働党が人民を独裁的に統治し、表現の自由から言論の自由まで、あらゆる人権が無視されている。北朝鮮の亡命者は、言語も同じでありながら経済的に豊かな韓国、あるいはアメリカでの暮らしを望んでいる。
 一方、朝鮮戦争直後はむしろ後発国であった韓国は、現在先進国の仲間入りをしている。韓国産の携帯電話や自動車の世界的な評価は高まり、物質的な豊かさはOECDの加盟にふさわしいものとなった。長年続いた軍部の独裁は、現在までに民主的に選ばれる大統領制に変化し、表現や経済活動の自由も保障されるようになった。
 同じ背景を持つ、二つの民族による2度にわたる実験が、単なる偶然の一致なのだろうか。いや、社会主義的計画経済は必然的に物質的な貧困と、精神的な独裁をうみだすのである。近年の躍進著しい中国やインドを見ても、このことははっきりとしている。中国では1976年に文化大革命が終わり、改革開放の時代を迎えた。それ以降の中国の政策とはつまり、資本主義の再導入だったのである。同じようにソヴィエトの崩壊を受けて、1991年にはインドもまた社会主義的な計画経済を放棄し、現在の飛躍的な経済発展を実現している。
 ハイエクは1943年の著書『隷従への道』において、計画経済では何がどれだけ作られるのかの決定において、かならず権力を握る一群の人間たちが出現することになり、言論や表現の自由職業選択の自由といった多様な人権は、すべて彼らによって奪われることになるのだと主張した。
 このような理解によれば、たしかに計画経済が人々の人権、とくに自由というものを踏みにじる傾向があるということは必然的になるだろう。とはいえ、自由の減少は少なくとも直接的には、計画経済の生産性の低さと消費生活の貧困を意味するわけではない。事実、1960年代のソヴィエトは粗鋼生産などの成長率ではアメリカを上回っていた。問題が単純であれば、あるいは計画経済は、強制力を行使できる分だけ、市場経済よりも高速で生産を拡張できるのだろう。
 しかし、一般的な計画経済の物質的な貧困には、少なくとも4つの主要な理由がある。
 まず第1のものは、経済学でも長らく論争されてきた「計算可能性」の問題である。あるいは「情報収集可能性」の問題といってもいいかもしれない。社会全体という規模で、何をどれだけ投入して、何をつくるべきなのかを計算することは現実にはできない。私や読者をはじめ、国民の一人一人が何をどの程度欲しているのか、これは消費財の数が数百万にも及ぶ現代経済では、およそすべての関連する情報を集めることは不可能である。あるいはそれを試みようとしても、重要な情報のほぼすべてが当局に届く途中で消失してしまう。
 同じように、誰がどれだけのものを使って、何を作るのかを決定するには、あらゆる技術に通じた計画局が必要だが、そのようなものは存在しない。ほとんどの生産技術は、企業内の集団や我われのような個人の持つ、まったく分散的・個人的な知識だからである。かくして計算問題は、現代社会において生産される商品の種類の爆発的な拡大によって不可能になってしまう。
 第2の理由は、インセンティヴの問題である。我われの労働力とは、物質のようにそこに実在するようなものではない。それは、我われの意思によって体や頭脳を使用して、何か社会的に有益なものを作り出すことをいうのである。だが、私が「本当は」どれだけの能力を持っており、「真に」作り出せるものはどれだけなのかは、私にしかわからない。いや、私自身にもはっきりとはわからないかもしれない。さらに重要なのは、私の労働力の供給なり、密度なりは、その対価によって変化するだろうということである。
 通常、人が働くのはそれに応じた対価を得るためだろう。計画経済では、我われの労働に対するインセンティヴについて「社会主義建設のため」とか、「社会全体のため」というような抽象的な目標を掲げていたが、そういった建前やプロパガンダだけでは長期間の人間の真摯な努力を引き出すことはできない。
 第3の理由は、政府というものが、必ずしも国民の利益を第一に優先して活動する組織ではないということである。国家は政府組織を構成する人間によって運営され、彼らには彼らの独自の目的がある。結果として、政府は非効率的な生産を実行し、国民の消費財生産は後回しにされることになる。
 この一見したところ、明らかな事実は今になって考えると不思議だといえよう。すでにホッブズが17世紀の時点で、国家は絶対的な権力を持つ怪物リヴァイアサンであるとまで記述しているのである。これを踏まえれば、計画経済を行うような絶対的な政府の内包する危険性は、ハイエク以前のはるか昔から指摘されていたことになるだろう。ここでも、ルソーやロックのような啓蒙哲学者の影響で、人間の内的な心性はタブラ・ラサとして無限に可塑的であり、教育によって「人びとのため」に献身的に働く役人を造りだすことができると考えられたのである。
 最後の理由は、知識についての哲学に関するものである。それは、未来において作り出すことのできる商品やサービス、生産組織など、社会において次つぎに生まれてくる新しい技術は、現在のところは知られていないということである。今よりも新しいものを創造するためには、人間精神の自由と、それに従った分権的な資源の活用が必要だということである。
 資本主義においては、サイエントロジーオウム真理教などの宗教的な方法を含めて、あらゆる新技術の可能性が、その方法を信じるものの資源を使って試される可能性がある。何かに資源を投じようという人間は、通常その方法をもっとも強く信じていて、その発展によって報われるような人間であるだろう。実際、産業革命以後の資本主義、つまり分権的な資源の活用は、思想の自由とあいまって爆発的な科学の発展と福利を人類にもたらしてきた。
 国家当局が、発光ダイオードは蛍光灯に永遠に取って代わることはないというなら、発光ダイオードの研究には、国家の資源はまわされないだろう。電気自動車は内燃機関の自動車に劣ると当局が判断すれば、電気自動車の研究開発には予算がつかないだろう。
 もちろん原理的には、計画当局がある特定の科学や技術に見込みがあると信じれば、そういった技術に対して不確かな資源しか確保しない資本主義以上に、多くの資源が投入され、結果的にはるかに全体の生産性は上昇するということはあるかもしれない。
 だが、こういったことは歴史上に起こったことがない。そこには理由があるのだろう。それは上述の第2の理由として掲げた、政府セクターには個人的インセンティヴがないことである。技術者の多くは、普通の人間なのであり、彼は自分の評価につながらないような努力をしようとはしない。また第3の理由をみてみよう。抽象論ではない、一人一人の国家官僚には、国家的な生産性の伸びや、見果てぬ未来の科学技術の発展などよりも重要な、個人的な利益があると考えるのが自然である。それは、国家官僚組織の階層を登るというゲームなのである。組織階層を登ることと、将来性のある技術への投資が一致すればよいだろうが、どうやらそれは経験主義的にはほとんど起こらないようである。

市場主義は民主主義とは異なる
 市場では数多くの売り手と買い手が交渉を行い、その両者に対して満足を与えるような取引が合意され、実現する。この過程においては、あるいは、ある買い手は買うことができないかもしれないし、ある売り手は売ることができないかもしれない。明らかに、結果の平等が実現される保証はどこにもない。
 これに対して、政治的な民主主義は原則として一人が一票の投票権を持ち、それに応じて政治に影響を与えることができる。この点だけを取り出してみるなら、明らかに国家への積極的な参政権に基づく政治的な人権は、ある意味で平等であると考えられるだろう。その後の当選した議員の一人一人へのロビー活動によって、現実には有権者の考えるようにはならないかもしれないが、とりあえずは市場での取引よりは平等であるように思われる。
 無政府資本主義を標榜するということは、治安や司法、国防までも市場にゆだねることを意味している。その際、多くの人びとは、こういった市場制度のもつ不平等、あるいは「金持ちびいき」について憂慮するのである。警察が民間企業であれば、金持ちしか守らないのではないだろうか?司法が民間企業なら、金持ちが優遇され、有利な判決を受け取るのではないか?などなどの疑問は無限に湧き上がってくる。
 よく言われることだが、この結論はある意味では正しく、ある意味では誤っている。それは金持ちのもつお金と貧乏人のもつお金に区別はないからである。警察について考えてみよう。金持ちは平均的には、より多くの金額を警備企業との契約に出費するだろうが、金持ちと同じ契約を結ぶ貧乏人は、その金持ちと同等のサービスを受けることができる。
 これに対して、現行の国家によって運営される警察では、建前上はみなが同じサービスを受けることになっている。しかし、実際には大物政治家からの口利きに代表されるような、多様な形でのコネが存在し、また社会階層に応じた差別的な取り扱いも横行している。だが、庶民はそれに文句をいうことはできない。警察は圧倒的な一元的物理力を保持しているのであり、まさに国家権力そのものだからである。
 別の角度から考えてみよう。私は大学に勤めているため、普通のサラリーマンだといえるだろうが、ここで、たまたま家族への犯罪の被害に対してたいへんな恐れを抱いているとしよう。私はどの警察を選ぶかの選択肢をもたないため、あとは個別に民間の警備会社と追加的な警備を契約するしかないが、現実にはそれだけの収入もない。実際に、現在の日本で警備会社と契約しているのは、ほとんどが高い収入を得ている人びとだからである。中間的な所得層は、契約ではなく、政治活動を通じて自己の意見を表明するしかない。
 これは私立学校に子どもを入れるほどには余裕がないが、公立学校には不満を感じるという状況と同じである。公立の小学校、中学校には選択の自由がないため、よりよい公立学校へ転向することはできない。転校の自由は、私立を選ぶことのできる高所得者層にのみ許されているのである。
 このアナロジーからは、なぜ私が警察や司法をも民間企業化するべきなのかが理解されるだろう。子を持つ親として、明らかに教育は重要である。あまりにも重要であるため、国家によって独占させるわけにはゆかないのだ。同じように、警察活動は重要である。公正な司法もまた市民社会には不可欠である。だからこそ政治による多数決、多数者による決定の少数者への押し付けなどという非効率で不正な過程を通すべきでなく、すべてを自発的な契約によるものに変更する、つまり警察を民間企業にする必要があるのである。

市場の効率性は功利主義とも違う
 最後に、このような国家機能の中枢機関の解体、あるいは民営化について、イギリスの哲学者ベンサムの提唱した功利主義の立場から考えてみよう。
 功利主義の目標とは、すなわち「最大多数の最大幸福」であるといわれる。国民個々人の幸福度を総和して、それを最大化するというものである。そして、それは個人の貧富にかかわらず、その幸福度を単純に加算するということを意味している。おそらく、この考え方によると、貧しい個人の1円は裕福な個人の1円よりも価値が大きいことになるだろう。なぜなら、経済学者が限界効用の逓減と呼ぶ現象、つまり個人が感じる物の価値はその物が多くなればなるほど低下する、という事実が存在するからである。貧しい個人に1円を与えるほうが、裕福な個人に1円を与えるよりも、幸福度の上昇は大きい。これは常識的なことであり、我われが金のない人、不幸な人には寄付をしても、決して金持ちには寄付をしない理由である。
 これに対して、市場による効率の最大化とは、経済学でいうところのヒックス・カルドア基準と呼ばれるものである。あるいは、アメリカの法学者リチャード・ポズナーのいう「富の最大化」を意味するといってもいいだろう。効率は市場における交換によって発生する、消費者と生産者の余剰を総計したものによって測られる。市場での競争的な活動においてある者が得をし、別の者が取引をし損ねて損をした場合にも、得が損を上回る限り、そして実際に損失が利得によって補償されなくとも、そのような活動を望ましいとするのである。
 いうまでもなく、このような基準では、豊かな者のもつ1円は、貧しい者のもつ1円と同じ貨幣価値をもつことになる。どちらの1円も社会的な価値が等しいというのである。これには、平等主義者のみならず、功利主義者も抵抗を感じるだろう。
 それでも、私がこの市場による「富の最大化」が是認されるべきだと考える理由を、以下に3つあげたい。
 1つ目は、今風の流行の言葉で表現するならば、富者が金持ちになれば貧者にもその富が流れ落ちてくる(trickle down)というものである。富者が金持ちになるということは、ほとんどの場合、経済全体の生産効率も上昇しており、最終的には貧しい人びとにもその恩恵がもたらされるという。これは厳密な歴史的な事実としては間違いなく真実であろうが、私がとくに強調したい理由付けではない。
 2つ目の理由は、効率が最大化されて得をするのは富者でもあるが、同時に貧者でもあるというものである。たとえば、日本のコメには高率の関税がかけられているが、これがWTOの勧告によって廃止したとしよう。明らかにコメを作っている農家は打撃を受け、コメを作っていない都会の消費者は大きな利得を得ることになる。農家には裕福な家も貧しい家もあるだろうし、都市部の消費者にいたっては農家よりもはるかに貧富の格差が激しいだろう。
 コメ関税の廃止は非常に多くの農家に負担を強いるが、さらに多くの、おそらくは平均的な農家以上に貧しい都会の消費者に利益をもたらすことになる。ほとんどの規制の廃止において、損失をうけるのが貧者であり、得をするのが富者であると考える必然性など存在しない。大きく複雑な社会では、規制その他の社会制度の影響は結局富者にも貧者にも同じ程度であると考えるのが自然だろう。とするなら、金銭的な効率化のもたらす効用の社会における変化を総和すれば、プラスになるはずである。
 ちなみに医療関係の規制のほとんどすべては、医師や製薬会社といった富者が、患者という貧者の負担において潤うというものである。タロックやブキャナンが明らかにしたように、政治とはそれ自体が特殊な市場であって、富者のほうが政治的な決定に対して影響力をより強く行使できることがほとんどだからである 。
 最後の、私がもっとも重要だと考える理由は、我われの社会では1世代内においても貧富の格差がそれなりに流動的であり、さらには世代を経るならば、十分な程度に流動的であるということである。今日の貧者である苦学生は後に社会的な成功や蓄財を経て、未来には裕福な家庭を築くかもしれない。あるいは、その子どもたちが、さらなる未来の富者となっている可能性は十分に高い。
 ビル・ゲイツにしてもタイガー・ウッズにしても、松下幸之助にしても本田宗一郎にしても、とりたてて豊かな家に生まれついたわけではない。本書で目標としているのは無政府社会であり、その社会に暮らす人びとは我われの一世代に限られるものではない。今現在の貧者への1円と富者への1円を区別するような強い理由は見当たらない。それらは未来の多数の世代を通じて、同じように社会の中において評価されるだろう。そして、世界の人びとが移民してまで住みたい国や社会とは、そのような長い時間のなかで形成され、評価されるもののはずである。
 さて、市場主義が人びとの最大限の努力を引き出し、結果的には我々や次世代の生活がより快適なものになるというのが、私の市場礼賛論である。しかし哲学的に考えれば、これにも例外がないわけではない。
 貧しい男がいて家族を養うことができなくなったとしよう。富豪が彼に2分の1の確率でルーレットを回し、結果がyesであれば、富豪は彼を銃殺する。noであれば、彼は助かり1億円を手に家族の下に帰ることができる。このような契約は許されるのだろうか ?
 ここでは、当事者は明らかに合意をしている。市場原理主義、あるいは自己所有権に基づく自己の身体の処分の自由の絶対性からすれば、そのような契約は肯定されるべきだと思われる。とはいえ、このような契約は我々のもつ平等的な人道主義、人権感覚に明らかに極度に反している。
 後述するが、無政府の警備会社はすべての契約を保護することはないだろう。むろん、基本的には個人の自由は極限まで尊重され、麻薬類のほとんどすべては自由化されるに違いない。しかし、他者加害をもたらさない行為の、すべてが肯定されるわけではないだろう。
 各警備会社は我われの人道感覚に応じて、非難や賞賛を浴びるような存在になる。圧倒的に多数の警備会社とその契約者たちが、上述の殺人契約が無効であり自分たちの資源を投入してまでも禁止されるべき必要があると考えるなら、それはやはり禁圧されるだろう。殺人契約はこの種の契約の自由の限界事例の一つであり、あるいは禁止されることになるかもしれない。この意味でロスバード主義的な究極のリバタリアンには残念なことかもしれないが、完全な自由が無政府社会の法とは一致しないこともあると考えられよう。

無政府主義の現在位置:警察と司法の民営化
 17世紀スコットランドの哲学者ジョン・ロックは、各人があるものに対して所有権を持つのは、そのものを自分の力によって自然物から作り出したり、有用なものへと改良したりした場合であると考えた。これは「ものへの労働の混入」と呼ばれ、確かに直感的にも、その結果として作り出されたものに対する所有権を肯定するのに十分な論理であると感じられる。これはロックの所有権論と呼ばれるが、この論理をつきつめると、所得という個人の所有物を社会的に税などの形で取り上げるということは、非道徳的であり、許されないことになる。
 この考えはアメリカの哲学者であったノージックが依拠した立場である。彼は1974年の著書『アナーキー、国家、ユートピア』において、治安維持のための警察機構以外の国家活動は自然権を侵すものとして許されないとした。彼がかろうじて肯定した最小限度の国家は、リバタリアニズムの文脈では「最少国家(minimal state)」と呼ばれる。
 ロスバードもまた、この所有権論に基づいて無政府主義を強力に展開した。ロスバードによれば、政府活動はすべからく個人の意思に反する強制を伴っている以上、すべてが許されないものであると主張したのである。この立場から、身体への所有権と、その労働の結果として生じる成果に対する、絶対的な処分権・所有権の自由を肯定する立場は、権利基底的なリバタリアニズムと呼ばれる。
 権利基底的なリバタリアンによると、政府は各人が人権として持っている財産権を租税の形で強制的に取り上げるという点において、すでに非道徳的な存在だということになる。これに加えて、兵役や陪審制度などへの強制参加もまた、国家の持つ人身の自由への侵害、すなわち自己所有権を侵害しているものであり、違法であると考えられる。
 また、国家という組織だけが持つ特権も問題となる。典型的な例として、現代の日本では、警察が私を誤認逮捕したとしても、事後的にみて、正当な理由があったと判断されれば民事賠償を逃れることになっている。そして私は、一般的な民事賠償に代えて、ほとんど名目的でしかない国家賠償法の規定によってわずかな金銭を得ることができるのみである。この点においても現存の国家は、私人の権利を蹂躙する特権を有しているといえ、この意味で許されざる存在だろう。
 また経済効率を考えるという帰結主義的な視点から見ても、現在の警察組織が非効率的であり、本来半額の費用でできることを組織的な浪費のために無駄な費用をかけて、非効率的に行っていることも間違いない。これは明らかに我われの社会の有限かつ有用な資源の無駄遣いである。この理由からも警察は民営化されねばならない。
 このような純粋な経済学的な視点から、1849年にはすでにフランスのグスタフ・ド・モリナリが『警備活動の生産(De la production de la securite)』という題名で、警察の民営化を訴えている。これが160年も前の著作であることを考えると、現在まで警察が国家独占であり続けていることは不思議な気がするほどである 。

 かりに政治経済においてよく確立した真実があるとするなら、それは以下のようなものである。
 すべての場合において、消費者の物質的・非物質的なニーズを満たすために役立つすべての財については、労働と貿易を自由にすることが消費者の最善の利益にかなっている。なぜなら、労働と貿易の自由はその必然的な結果として、価格を最大限に下げるからである。
 そしてまた、どのような財であれ、消費者の利益は生産者の利益に優先される。
 今、この原理を追及するために、次のような厳密な結論に到達する。
 警備活動の生産は、この非物質的な財の消費者の利益にかなうように、自由競争の法則の支配下におかれねばならない。
 そうすると、次のような結論が続くことになる。政府は、別の政府が競争に入ろうとするのを妨げたり、警備活動の消費者に財を自分たちだけから購入することを要求したりしてはならない。
 もし仮にこれが真実でないとするなら、経済科学の存立する原理は誤りだということになる。

すでに19世紀の中ごろ、政府の独占市場のもつ弊害はあらゆる商品について明らかだったのである。よって、モリナリは、警察は民営化されるべきであり、そうでない場合についても現代社会の告発そのままに

 もし、その反対に、消費者が警備活動をどこからでも好きなところから購入する自由がなければ、その結果は、職務の多くは恣意性と非効率の経営にさらされることになるだろう。正義は、時間がかかり、高くつくものになり、警察権は濫用され、個人の自由は尊重されなくなり、警備の値段は乱用的に高騰して、あれやこれやの消費者集団の持つ権力や影響力に応じて不平等に分配されることになる。

と書いている。この160年前に書かれたこのエッセイ、ならびに同年に出版された書籍『サン・ラザレ通りの夜会(Les Soirees de la Rue Saint-Lazare)』では、近所のスーパーマーケットが独占権を与えられた場合と、警察による独占とを比較している。モリナリは当時すでに、国家の運営による独占化された警察と司法の問題点を詳細に指摘していたのである。
 これと同じように、裁判所の民営化も当然のことだと考えられる。それは、現在のような国家権力に裏打ちされた裁判所が、いくつかの仲裁機関となって民営化されることであり、あるいは仲裁会社の自由な参入が認められることを意味する。
 裁判所が民営化されれば、人心に逆らって独善に走った法解釈をしても職業を保障されるという、現在のような特権階級としての裁判官はすべて存在しなくなる。よって、権利基底的な論理から考えても、民間の会社のほうが市場原理による独善への矯正の可能性が存在し、正確な知識と論理、正義感に訴える必要があるのである。
 世界中の裁判所で、判例はますます法律家の専門用語と、固有の奇妙な論理にあふれ、通常人の理解が不可能なものへと変化してきている。この原因は、彼ら裁判官が司法権という国家権力の一端を完全に支配していることに起因している。「解読」しなければ理解不可能な判例は、仲裁会社同士の競争においてはマイナスの要素となるだろう。仲裁会社の顧客が警備会社であれ、あるいは、もっと直接的に個人契約者であれ、現在のように単に意味不明の「判例論理」は人びとから支持されないため、衒学主義であるとして拒否され、結果として司法ははるかに人びとの価値観に対して開かれたものにならざるを得ない。
 また、警察の警備保障会社化とまったく同じような社会効率の改善もある。そこでは正義にかなうだけでなく、遅すぎると考えられる仲裁活動がなされれば、そのような企業は廃業を余儀なくされるからである。無意味な手続き的法廷活動や書類の複雑さ、実質的には飾りとしてしか意味のない法服などは姿を消して、我われははるかに迅速で安価な仲裁を受けることが可能になる。そして、同じ法体系を適応するために存在する複数の仲裁機関というのは、仲裁活動の公正さや効率性、それらに加えて法を解釈するというレヴェルでの競争があるということを意味する。
 とここまでは、多くのSF作家も理解してくれるものだと思われる。無政府社会における同一の法律を基準に、複数の仲裁会社がその解釈を行うのである。さらにロスバードは上訴のシステムについて、以下のような発案をしている 。

「明らかに、どのような社会においても法手続きは無限に続けるわけにはゆかない、つまりどこかで終止符が打たれる必要があるのだ。政府が司法を独占する現在の国家主義的な社会では、
最高裁判所が恣意的にその役目を果たすことになっている。リバタリアンな社会でも、合意された最終裁判所が必要であるが、どのような紛争や犯罪にも、原告と被告という二当事者がいるため、最初に二つの裁判によって到達された結論が既判力を持つと条文化されるのがもっとも賢明であるように感じる。このことは原告と被告の二つの裁判所が同じ結論に達した場合も含んでいるし、あるいはこれらの二つの裁判の結論の違いを上訴裁判所が審理する場合も含まれるのである。」

 私もまた、このような上訴手続には、納得できるものがあると感じられる。しかし、この法制度は、そもそも社会における法律が一元的であることに基づいている。しかし、私は第7章で詳しく説明するように、法は一元的である状態から、多元的な法の並存へと進化してゆくと考える。法体系の多元化は、異なった仲裁会社の準拠する法が、それぞれに異なっていることを意味する。そして各仲裁会社には、多様な正義感を持つ人びとの感じる正義、違った価値観の効率的な妥協点の実現という需要に応えるために、人びとにとっての正義の法を探しだし、実践しようとするインセンティヴがはたらくことになる。その結果、無政府社会での法体系は一元的ではなくなり、中世ヨーロッパの法体系が、地域的に限定された慣習法と、国際的に確立していった商法、また教会法とが並存していたのに似たような、「多元的な正義」という、直感的にはやや理解しがたいものになるだろう。
 さて、このような無政府社会の警察・司法制度の持つ利点と弱点について、次章以降でより詳しく考えてゆくことにしよう。この章の後半では、国家がない社会では私有財産制度のカバーする範囲が広がることになるが、そのいくつかの例として、道路、河川、電波、公害、について考えてみたい。

道路の民営化
 道路の民営化は古くからあるアイデアだが、GPSやグーグルマップなどのマッピングシステムや移動体通信が高度に発達した現在、よりいっそう現実味を帯びている。
 振り返ってみると、20世紀の後半にはほとんどの国において、信号のない有料の高速道路が建設された。その結果、高度な物流効率と人的な移動の可能性が実現して、大きな経済の利益を生み出したのである。現在、発展の著しい中国やインドでも、1950年代のアメリカのように高速道路網はたいへんな勢いで整備されている。
 現代の高速道路は国家が建設するのが普通だが、そうである必然性はない。大規模な物流のための高速道路は、19世紀初頭の産業革命時代のイギリスでも私的につくられたのである。当時は蒸気機関車が存在せず、公道は平坦ではなかったために、有料の高速道路(turnpike)が発達したのである。 
 現在では、日本でも高速道路のETCシステムが普及しているが、シンガポールなどでも自動車からの通信は実用化されている。このことからすれば、すべての道路を民営化して、自動車の走行については有料とすることは、自動車の初期購入費やガソリンやディーゼルなどの燃料費に比べても、大きなコストにはならないだろう。
 私有化された道路においては、現在よりも高い効率性が実現される。
 たとえば、都市における道路の慢性的な渋滞は、混雑時の道路利用料金を高めるだけで価格がインセンティヴになって、自動的に解消する。これは経済学でいうpeak load pricingだが、道路が政府の所有物である場合よりも、経済効率を考える私有財産制度の場合のほうが導入される可能性が格段にあがるだろう。現在でも高速道路公社は多様なロードプライシングを試しているが、それがすべての道路においてなされれば、自動車での移動効率は格段にあがるだろう。
 シンガポールロードプライシングでは、時間的にも比較的柔軟に価格が変化するシステムをとっている。おそらく、無接触型のICタグが一般化すれば、民営化された道路会社は、もっとも収益が上がり、それなりに顧客満足度の高い課金方式をみつけるだろう。
 また、道路が私有であるということには、環境主義者にとって望ましい側面もある。鉄道はその線路の土地や維持費まですべてが私有財産だが、道路は税金によって作られて維持されている分だけ非効率的に利用されている。道路が私有財産となり、道路の維持管理費用が利用料金に反映されるなら、多くの人は相対的に高くなる自動車の利用を避けて、公共交通をより頻繁に利用するようになるだろう 。
 また別の効率性の実現としては、行政による道路管理システムにおいて、もっとも非効率的な制度としての路上駐車の取り扱いがある。路上での駐車は道路の持つ流通機能への悪影響があるため、都市部の多くの場所では駐車が禁止されている。それを取り締まるために、警察や民間に委託された取締り会社の職員が大きなエネルギーを費やしているのである。しかし、これは道路が私有化されていれば、駐車時間への課金によって、今すぐにでも解決可能なのである。
 渋滞の発生原因となるような道路での駐車行為に対しては、道路会社が、時間当たりにして大きな駐車料金を、道路の通行料金とともに徴収するだろう。比較的にすいている道路では定額の料金が課されるかもしれないし、郊外などでは無料になるかもしれない。どのような料金体系になるのかは予測するのは困難だが、現在のように駐車違反を軽微な犯罪として扱いながら、場当たり的な取締りをするよりも、はるかに効率的な道路機能の維持ができることは間違いない。道路会社のインセンティヴが効率的な道路の実現であると同時に、利便性の高い道路の実現でもあるためである。これまでの社会システムでは道路は公共物であり、そのために駐車違反者という「フリーライダー」が得をするような状況になる。その反面、真に価値のある駐車行為までもが禁止されているのである 。
 次に、防犯という側面から、道路の私有化について考えてみよう。一体、どれだけの頻度での街灯がのぞましいのか、また人通りの多い場所での防犯のための監視カメラの設定が望ましいのか、という問題についても、私有化された道路では、それらのコストとそれによって実現される利益が道路会社によって比較されることになる。つまり、道路というもっとも「公共的な」施設が私有化されていることによって、結果的には防犯にも事故の減少にもなる可能性が高いのである。
 もっとも、現在でも日本の警察はNシステムという、自動的に自動車のナンバーを読み取る監視カメラを主要道路に設置している。これに対しては、国会の議決も通っていないプライヴァシーの一方的な侵害であるというような否定論がある。私はこの考えに基本的に同意するが、同時にたしかにこのようなシステムが犯罪発生後の解決に資しているとも認識している。この点に関して、路上での撮影に関しては、そのプライヴァシーの侵害性、あるいは肖像権に関してすでに最高裁判決が出ている 。しかし道路が民営化されて、いわゆる公共的な場所がすべて私有化される無政府社会では、このような肖像権は問題にならないだろう。なぜなら、人の家や庭に自分から入りこんで、同時にその撮影の違法性を主張する人はいないだろうからである。
 あるいはまた別の問題としては、日本に特有な道路状況として、多すぎる信号がある。信号はドライバーの運転時間を長くし、燃費を悪くするという費用を伴うが、その反面、事故を防ぐという利益ももたらしている。現状では、事故が多い場所には自動的に信号が設置されているが、それ以外の多くの社会的に無駄な信号もまた撤去されない。なぜなら、日本では、信号の設置場所を決めているのは警察であり、警察組織にはドライバーの満足度を高めたり、あるいは効率的な移動や物流を促進するためのインセンティヴがまったくないからである。
 民間の道路会社であれば、できるだけ多くのドライバーに利用されるように道路を整備するだろうが、ドライバーは信号が安全に寄与すると認めると同時に、その道路利用の快適さを低下させるということも理解している。私有化された道路では、現在よりも信