kurakenyaのつれづれ日記

2010-09-12 ベキダ デアル

(デアル⇔ベキダ)??


(デアル<−>ベキダ)? 目次

1、デアルとベキダは別のもの

 存在のデアルと当為のベキダ

 宗教を見ると

 学問の世界では

 自然・個人・社会の三つの階層

 人についてのベキダ

 社会のベキダとは

 デビッドヒューム自然主義の誤謬

 カール・ポパーの批判的二元論

 ソーンヒルのレイプ戦略説

 「みんなやってるじゃん」という正当化

2、デアル>ベキダ:犯罪

 実在論vs観念論

 人間心理の由来

 残ったものが残った

 遺伝子を中心に世界を見る

 タブラ・ラサの仮説

 犯罪という行為概念の自然主義的基礎付け

 犯罪のゲーム状況

 進化的適応環境が心理機構に反映されるまで

 デアルがベキダをつくりだした

 4カードゲーム

 犯罪・懲罰がないのなら

 サイコパスの道徳意識

 デアルはベキダを意味しない:再論

X、デアル>ベキダ:道徳規範

 利他性をめぐる議論

 血縁選択

 互恵的な利他行為

 評判の意義

 人格の予測とサイコパス

 寄生戦略とサイコパス??????

X、デアル>ベキダ:右翼と左翼

 右翼と左翼の普遍性

 タカハト・ゲーム

 アドルノのFスケールと右翼の利点

 民族主義と遺伝的近似性理論

 新奇性の追及と左翼の利点

 遺伝的多様性と雑種強勢

 保守的な性 vs 性の解放

 離婚とヴァソプレッシン

 右翼と左翼は部屋においてあるものも違う

 行動遺伝学でも

 左翼も権威主義的でないのか?


X、ベキダ>デアル:世界観

 ベキダがデアルに影響する

 ミーム複合体

 自民族中心主義

 陰謀理論と危険な世界

 成功と失敗の自己責任

 犯罪への厳罰

 クロポトキンと普遍的な利他行動

 無限の人格的可塑性

 ポリティカリィ・コレクトな議論

 自己欺瞞の進化

 政治活動とシグナリングゲーム

 

X、ベキダ>デアル:政治体制

 自由意志と遺伝的性向

 啓蒙思想による保守的王制への批判

 産業革命と自由の価値の上昇

 ゼロサムゲームからプラスサムゲーム

 政治への過剰な評価

 ポパーの歴史批判

 自由な社会=「強制的」でない社会

 オープンソース的なNGO

 日本人小さな政府、自由



1、デアルとベキダは別のもの


存在のデアルと当為のベキダ

 環境運動の高まっている現代である。ある日、私は日立が提供しているテレビ番組世界不思議発見!」を見ていたが、そのCMでは、宮沢りえが「・・・そうだよね、私たちってみんな地球の上に生まれて、地球の上で育ったんだもんね。・・・このままじゃダメって思うことはとってもいいことだから」と語りかけていた。

 別に不思議なセリフではない。環境の重要さを語るような場面では、本当にありふれた表現である。しかし、ここには論理的に無関係なものが無意識のうちに組み合わされている。それは、「我々が地球の上で暮らしてきた」という命題と、「このままじゃダメ」、つまり「環境の破壊活動をやめて、これまでの環境を守るべきだ」という命題である。

 広いくくりではあるが、こういった論理的な展開は「自然主義の誤謬」と呼ばれる。

 なぜなら、美しい何かがあるのであれば、それと一緒に暮らしてきたのであろうがなかろうが、それは守るべきである。反対に望ましくないものであるのなら、それと一緒に暮らしてきたかどうかに関係なく、それはなくすべきだろうからだ。

 これについてウィキペディアの記述には、「詭弁」の項に、以下のような秀逸で明快な記述がある。


自然主義の誤謬(Naturalistic fallacy)

• A「私達はこれまでずっとこの土地で協力し合って暮らしてきた。だからこれからもそうするべきだ」

・・・Aの発言は、記述文(「XはYである」という形式の文)の前提から規範文(「XはYすべき である」という形式の文)の結論を導いている。このような形式の推論を「自然主義の誤謬」(自然主義的誤謬)と呼ぶ。この推論はあらゆる場合に間違い(偽)というわけではないが、あらゆる場合に正しい(真)わけでもなく、この種の論法が論理的な推論法としてもし有効であるなら、あらゆる改革や変更は許容されなくなる。Aの発言は「人類は多くの戦争と殺戮を繰り返してきた。だからこれからもそうするべきだ」という主張と論理構造が等しい。「である」という事実から「べきである」という指針を引き出すことはできないとの主張はヒュームの法則といい、この種の誤謬はIs-ought problem(である-べきであるの混同)とも言う。」 2008年8月24日時点

 啓蒙思想家のヒュームについては後述するが、この例「戦争は繰り返されてきた。だからそうすべきだ」には、見事にこの論証の問題点が表わされている。常識的な人間は、誰もこの論証に納得しないだろうが、同時にAの発言には納得するだろう。

 結局、最初に価値観が存在して、それに都合の良い事実が肯定的に紹介され、都合の悪い事実は、否定的に述べられるということである。繰り返されてきたことは良いことだ、という考えは保守的思考法の典型であり、それはそれで経験的には理由があるのだろうが、少なくとも「論理的」には正しい推論方法ではないのである。

 日常的に私たちが会話をする時、「何々であるべきだ」という表現と「何々である」という表現は、特別に意識されなくても、十分に使い分けられている。その使い分けには、小難しい議論を必要とする必要はない。両者は別の混乱を招くこともなく、ごく自然に意味するべきところで、きちんと混在して使用されている。

 ここで、「何々である」という表現は、「存在概念」とも呼ばれる。そういった言明、あるいは命題は、自然や、あるいは人や社会の存在状態についての真偽についてのものである。だから、基本的には、そこには特段の価値についての判断を含んでいないと考えられだろう。この存在概念を、本書では「デアル」と呼ぶことにしよう。

 これに対して、「何々であるべきだ」、とか、あるいは「何々するべきだ」とかいう表現は、「当為概念」と呼ばれる。道徳的な意味での善悪についての判断、あるいは行為や状態についての価値に関しての判断を含んだ命題=文章表現のことである。この本では、この当為概念を「ベキダ」と呼ぶことにしよう。

 さて、これらの概念は、それぞれ特定の分野でより頻繁に使われているのが現実のようだ。

 例えば、巷間存在する宗教はどちらかというと「人生の意味とは何か」とか、「人生いかに生きるべきか」などというようなお題目を唱えることが多い。これはつまり、宗教というのは、第一義的には、世界の状態についてよりも、人生のベキダがもっとも大きな論点になっているということなのだろう。

 とはいえ、各種の宗教では、「理想の社会はいかなるものであるべきか」という社会についてのベキダも語られることは多い。また「神が存在している」あるいは人間は霊的な存在である」といった、世界の構造についての命題が語られていることもある。


宗教を見てみると

 私は、どの宗教にも特別の興味は持っていない。一応ここでは、1986年に創立され、その後急速に大きな社会勢力となったという点で、それなりに新興宗教的であり、しかし現在ではエスタブリッシュメントっぽくなってきたとも思われる「幸福の科学」をとり上げてみよう。

 以下の内容は、すべてオフィシャル・ページの一段の下部レイヤーにある「ようこそ幸福の科学へ」からの引用である。まず、幸福の科学は独自の世界の解釈を持っており、それは人間が物質だけで構成されているのではなく、同時に霊的な存在でもあることを説く。

 そして霊界の構造については、「『永遠の法』〜エル・カンターレ世界観」において、

「一言で「あの世」といっても、霊界はいくつもの世界に分かれた多次元構造になっています。死後、多くの人がまず還る四次元幽界、互いに愛し合うことの喜びにあふれた五次元善人界、各界の指導者が住む六次元光明界、他者への愛と奉仕に生きる七次元菩薩界、人類史にそそり立つ偉人たちがいる八次元如来界、救世主の世界である九次元宇宙界――。神秘のベールの彼方の世界が明らかにされます。」

ということである。ここでは、世界のあり方についてのデアルが、科学的な方法において議論されるような検証・反証可能性などとはまったく別の、教祖大川隆法ことエル・カンターレの超越的認識という方法によって記されている。

 当然ながら、人の生き方であるベキダについても、十分な記述がある。「『黄金の法』〜エル・カンターレの歴史観」の前書きにおいて、

「全世界に散らばりし光の末裔たちよ、今こそ目覚めよ。地球的仏法真理が説かれる時代が来たのだ。あなたがたは国籍を超えて地球人として、地球的ユートピアを建設しなくてはならない。過去にあなたがたが仏の子であり、光の仲間であったように、今も、そして未来も、あなたがたは仏の子であり、光の仲間であるのだ。憎しみを捨て、愛をとれ。違いを嘆かずに、仏性相等しきを喜べ。希望の21世紀が近づいている」―これがエル・カンターレからのメッセージです。」

と記されているのである。つまり、どうやら仏教原理に基づくユートピアの建設こそが、信者である人類の行うべき行為、つまりベキダであるということらしい。

 幸福の科学のような小さなものではないところでは、中世のキリスト教が、その世界観として天動説というデアルを採り、そして神の命令として異教徒の排斥や隣人愛のようなベキダを訴えかけていたことは、一応指摘しておきたい。

 これはよく「コペルニクス世界観の転換」とかいう形で、話題になるからである。それは後述するように、ベキダからデアルが自由になって近代科学を生み出した重要な分岐点の一つなのだ。

 というわけで、他の宗教も大なり小なり同じようなものであって、多くを引用したり分析する必要はないだろう。ここに典型的に表れているように、要は宗教というものはほとんどが、精神世界の構造というデアルと、それに関連した行動規範のベキダを一揃え持っているものだということなのである。

 おそらくこれは、以下の大学の講義のように、ベキダを語らない学問への物足りなさもあるのかもしれない。私が不思議に思うのは、科学者を含めて本当に多くの人が、世界の構造と我々の行動規範には何らかのつながりがある、というような幻想を持っていることだ。


大学をみると

 世間で人気の宗教は、政教分離の原則もあって、国家からは免税措置は受けても、補助金をもらうことはない。次に、我々が国家的な文教予算を組んでまで促進するほど価値のある様々な学問を探究すると考えられている、大学での研究を見てみよう。

 大学で学問的な探究の対象となっているのは、圧倒的にデアルに関する知識や思索である。数学や論理学は論理関係の真偽を考察し、物理学、科学、生物学などの自然科学は明らかに自然の状態についてのデアルを探究する行為である。どちらも「人間、あるいは自然界かくあるべし」といったベキダを語らない。

 法律学経済学は少し状況が異なる。法律学では、特定の条文について「どう解釈するべきか」を論じ、また経済学でも、「ある目的を達成するには、どのような政策を採るべきか」が語られる。社会科学では、究極的な目的とは、平等原則からくる弱者保護であるとか、あるいは生産力の向上による豊かな社会の実現であるとか、なのだが、ともかくも「どういった価値的な前提を実現するためには、かくかくするべし」という、特定の価値感を前提にしての方策が語られるわけである。

 ところで、そういった根本的な価値観の妥当性などについて議論するのは道徳哲学であり、これは大学で論じられている純粋なベキダについての探究だろう。とはいえ、道徳哲学にしても歴史的にはともかく、現在ではその道徳体系を、平等原則などに代表されるような基本となる「公理」から演繹しようとする論理的倫理学が普通になってしまった。

 結局のところ、何が重要なことなのか、何が社会において最優先されるべき価値なのかといういった、当為概念の問題を議論しようとしても、水掛け論になって決着がつけようがないため、学問的に探究しても、何も罪上がるものがないからなのだろう。

 ここまで考えてくると次第にお分かりになってくると思うが、個人の行動準則であるベキダと、自然などの状態についての記述であるデアルとは、もともと全然別の概念だ。だから、この二つは純粋論理的に考えれば、相互に関係がないのだ。

 私の視点から興味深いのは、このことを早くからはっきりと認識していたと思われる哲学者に、ドイツ観念論のカントがいることである。彼は『人倫の形而上学の基礎付け』において、「定言命法」として内的な道徳規範を定立した。そして、その根本的な性質として、「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ 」と記している。

 これはつまり、道徳規範は常に普遍的に妥当するべきものであり、それ自体が目的だということである。仮に「〜〜するためには、〜〜するべきだ」というのでは、その「〜〜するべきだ」の部分は、その前の条件節に依存するため、普遍性を持ちえない。だから、そういったベキダは道徳率とはなり得ないというのである。

 正直なところ、私のカントの理解は非常に限定的なものでしかないのだが、少なくともここで重要なことは、カントが道徳律の内容は、現実の世界のあり方とは次元の異なった、まさに形而上学であるとはっきりと認識していることにある。

 彼は哲学者として若い時代に物理学、特に天文学の勉強をしており、いくつかの著作もあるが、これらのデアルをベキダと結びつけるというような考えは結局持ったことはなかった。おそらくは、これらの異質性の方にはるかに大きな印象を受けていたのだろう。

 カントは、ある意味保守的な生活態度を貫き、中世にドイツ騎士団の建設した東方植民都市であったケーニヒスベルク(現カリニングラード)に住み続けた。現地にある彼の墓銘には、『実践理性批判』の結語から、以下の文章が刻印されている。

「我々がより頻繁に、より堅実に熟慮するにつれて、二つの事どもがますますもって新しく、より多くの尊敬と畏怖を以て心を満たす。それらは私の上にある天体と、私の内にある道徳律である。」

カントは少なくとも、物理的な法則と道徳的な法はまったく異なった種類のカテゴリーに属することを、正しく明確に認識していた。

 ここで、デアルとベキダについての第一の結論を簡潔に提示しよう。デアルとベキダは相互に独立したものであり、どちらからもどちらを引き出すこともできない。後述するように、ある種のベキダをとればある種のデアルの認識とはつながりがちだし、あるいはある種のデアルの認識はベキダにつながりがちだが、少なくとも純粋に論理的にはこれらの概念は無関係なのだ。


自然・個人・社会の三階層

 ここで、ベキダとデアルの双方について、もう少し分析的に考えを進めてみよう。ベキダやデアルについては、三つの階層が考えられる。まず第一は、人間の行動を含まない自然界、第二は一人ひとりの個人の行動、そして最後は個人行動の集合としての人間社会についてである。

 まず第一に、自然界のレベルから考えてみよう。

 たとえば誰かが、「重力についてのアインシュタイン相対性理論は間違っているべきだ」といったとしよう。このとき、この文章は確かに形式的な文法規則は守っているが、その意味ははっきりしない。自然法則が人間の判断であるベキダとは独立に存在すると考える通常人の感覚では、その真意を測りかねるからである。おそらくは、自然への命令ではなく、何らかの理由から「相対性理論は間違っているに違いない」というような推測をしているのかと受け取るのが普通だろう。

 古代の人々は、人間と同じような人格を持つ神によって、自然界が直接的に支配されているのではないかと考えた。たとえば、カミナリ様という発想は世界各国で見られるもので、そこでは「神の怒りがカミナリなのである」とか、「恐ろしい存在が雷を起こしている」と考えたわけである。

 たとえば、日本でも「雷さま」や「風神雷神」がいるが、同じように北欧神話では雷の神はトールと呼ばれ、彼の怒りが雷なのだという考えが広まっていた。ゲルマン人に広く信仰されたトール(Thor)Thursdayの語源でもある。

 こういった古代の人々であっても、結局は自然現象は人知の及ばないものと考えていたようだ。いわんや自然科学的な思考を学んだ現代人であれば、自然と人間の道徳律は、まったく別のものだと考えているのは当然だろう。

 自然の摂理を説明するのに神々が必要ないとする現代科学では、自然法則や、自然現象がどうあるべきかについて語らないことは、ごく当たり前である。だから自然界については、もっぱらデアルが語られるのみであり、それらの外界についての知識は科学として確立してきた。

 生物についてはどう考えるべきだろうか。つる植物に対して、「他の木にまとわりついて、自分で立たないというのは卑怯だから自立するべきだ」といったとしよう。神経系をもたない植物に何かを教えることはできない以上、これは植物を擬人化されたお話の中でしか意味をなさなさそうだ。

 動物でも、カマキリに対して「他の昆虫を食べるのは野蛮であるからやめるべきだ」ということは文法的には問題ないが、そもそもカマキリに命令を理解するような知性はないだろうし、条件反射によって虫を食べないように仕向けることもできなさそうだ。当然、体構造上、草を食べて生きることができない以上、こういったベキダ文は意味をなさないことに変わりはない。

 おそらく、哺乳類程度の学習能力があれば、条件反射的な罰を与えることによってある程度「〜〜すべきでない」ということを教えることができるだろう。よってチンパンジーに「バナナを食べるべきではない」というような言明に意味が生じるかもしれない。

 しかし、それにしても「ライオンは肉食をやめて、草食になるべきだ」という人がいたとしても、ライオンは現実的には肉食以外では生きられないので、常識的に考えればそれは自然的な死の命令であり、あまり意味をなさないベキダとなる。

 では、「ゴリラは子殺しをするべきではない」とか、あるいは「チンパンジーは乱婚するべきではない」とかはどうなのだろうか?これらの行為は、彼らの自然な活動として、おそらく遺伝レベルで組み込まれていると考える学者が多い。そうだとするなら、現存する個体については、よほど大きな不利益を与えなくては抑えることはできないだろう。彼らの一部を育種していけば、そういう変化をもっと簡単に実現できるかもしれないが、ともかくも大きな精神的な苦痛を伴うことが予想される。

 後述するように、人間は個人個人が強いなり、弱いなりの遺伝的な行動性向を持っており、それは外部から、あるいは内心における規範感情によってコントロールすることのできる場合もあるだろうし、そうでないほどに強い場合もあるだろう。例えば、多くの小児性愛者は子どもにわいせつ行為を強要して犯罪者となっているが、それにしても犯罪に踏み切る人とそういった願望をコントロールできる人がいる。これは程度の問題なのだろうが、同時に個人行動のベキダの大きな論点である。


人についてのベキダ

 次に、個人の行動についてのベキダについて考えよう。

 まず単純なところでは、あまり対人的な行動ではないような活動がある。たとえば、「勉強するべきだ」とか、「早寝早起きをするべきだ」とかいうような、生活規律に関するものがある。

 こういったベキダを解釈するのは、だれの目にも容易なことだろう。例えば「早寝早起きをするべきだ」というのは、「早寝早起きすれば、健康増進につながる」のだから、「健康に生きたい」という願望を満たすための行動準則を意味している。

 あるいは「勉強すべきだ」とは、「裕福さが望ましい状態であるから、それを達成したい」という本人の、(というより多くはむしろ親だろうが)願望を表している。これには、「勉強すれば、一流の会社に勤める可能性が上がり、より金銭的に恵まれるチャンスが増える」という見込みを前提にしている。

 この「勉強すべきだ」の例については、もっと「道徳的に望ましい」考え方によることもできる。私はあまりこういった考えに同感しないが、「より多くの知識を持つことは人生を豊かにする」、そして「人生の豊かさは幸福につながる」から「より豊かな人生を送りたい」という願望から「勉強すべきだ」というのも、一応はアリだろう。

 人はだれでも、衣食住の足りた生活がしたいし、友人たちからもそれなりに敬意を払われたい。そういった願望は、数多くの日常的な生活訓としてのベキダを生みだすことになる。

 例えば、「偏食はさけるべきだ」、「太り過ぎはメタボになりやすいから気をつけるべきだ」、「飲み過ぎには気をつけるべきだ」、「睡眠不足は避けるべきだ」といった具合である。

 こういった数多くのベキダができなければ、普通の社会生活を送るのは難しくなるだろう。当然に友人の尊敬を受けたり、いわんや出世をしたりすることもできなくなってしまうが、これらは社会的な動物である人間の基本的な欲求そのものである。

 では、これらのベキダに対して、デアルは一体どう関係してくるのか。

 デアルは基本的に、ベキダという願望の実現のためのツールとなる。自然や自分を取り巻く客観的な状態や法則を理解しないままでは、多くの願望は実現が難しくなってしまうからだ。

 「太りすぎないべきだ」というとベキダに対しては、「長時間の有酸素運動が脂肪の燃焼には効果的だ」、「炭水化物よりも繊維質のものを摂取する方がカロリーが低い」というような知識、つまりデアルが役に立つだろう。

 これが社会的なルールを含むベキダになると、はるかに分析が複雑になる。

 犯罪はもっとも単純で、「窃盗をするべきではない」、「殺人をするべきではない」について考えてみよう。犯罪行為とは、被害者にとって重大な犠牲を要求し、その犠牲の上に行為者が利益を得るという行為である。

 では、どうして犯罪を慎むベキダは発生し、それが一般に状況にほとんど依存しない禁止規範なのはなぜなのだろうか。詳しく後述するが、これは犯罪状況をめぐるデアルが、ある種のベキダを持つ個体を有利にしたというものである。非常に簡単にいえば、デアルが長い時間をかけて、人間の心の中のベキダを作り出したのだ。

 これは、もっと弱いレベルになるが、犯罪の禁止ほどではない多様な社会規範にも当てはまる。例えば、「人を信頼し、裏切らないべきだ」とか、「ウソをつかず、正直でいるべきだ」から、というようなものである。

 これらについては、「期待に裏切らないこと」も「他人に正直でいるもの」も、直接には自分の利益にならない場合もあるだろう。また、それらを守らいない行為を罰するほどの不利益も存在しない。しかし、後述するように、やはり結局は本人のためになることがほとんどなのである。

 ここで興味深いのは、「裏切らない」という道徳律は、自分を取り巻く周囲の人々の行動に応じて、説得力が違ってくるということである。明らかに、周りの人たちのすべてが裏切り続けるような環境において、自分だけが他人を信頼し続けることは難しい。そもそも「信頼」の道徳律自体が崩壊してしまうため、結局は社会のみんなが損をしてしまう。

 つまり、構成員のほとんどが社会規範を守ることは、お互いにとって有益であるということなのだ。この点についても、次章以降でもっと詳しく説明しよう。


社会のベキダとは

 さて最後に、社会についてのデアルとベキダについて考えてみよう。

 もちろん、「社会」という個人を超越した実在が、現実に存在するわけではない。あるいはある種の現代思想では違った用語の使い方をするかもしれないが、私がここで、「社会」というとき、それは多数の個人の集まりのことでしかなく、社会状況はつまりは個人行動の集合のことだ。

 だから、社会の状態についてのデアルは存在し、それは人々の行動や価値観についての記述をある程度まとめたものだといっていいだろう。

 たとえば、「ソヴィエト社会主義国家であった」というときは、直接的には「政治制度が中央集権的であって、商品の生産が国家によって計画的になされていた」ということを意味する。

 ではなぜそういった社会が存在していたのかといえば、ある程度の数の人々、少なくとも支配者層やどれだけかの思想家たちがそういった体制を望んでいたからである。構成員の全員がバカバカしいと思うような政治体制が、長期間にわたって存続するわけがない。

 その反面、社会のあり方についてのベキダを語るということは、直接的には社会制度がどうあるべきかについて記述している。しかし、それは間接的ではあっても、つまり社会を構成する個人の信念に対してのベキダを語っているのである。

 王制や幕府制の時代、人々は為政者があれこれすることによって、どのようにか社会を変化させるべきだと議論し合った。専制政治であれば為政者は一人であるだろうが、現実のほとんどの王制では、王家や家臣団がそれなりに影響を持ちつつ政治がおこなわれていたのだろう。これらの場合、政治を担う人々の信念が変われば、政治は変わったはずである。

 現代に支配的な民主主義政治では、より多くの小さな権力者、あるいは有権者がいるため、ますます個人と社会は分離してしまっているように感じられる。しかし例えば、左派の人々が「日本は社会民主主義国家を目指すべきだ」と主張するとき、彼らは「日本」という意志をもった超越的な人格を考えているのではない。普通は、直接的には「日本国は福祉制度を充実してゆくべきである」といっているのだ。

 そしてそれは、民主主義制度を前提とするなら、結局のところ「日本人の一人一人が社会民主主義、あるいは福祉国家の理念に納得して、政治制度をつくっていくべきだ」といっているのだ。つまり、個人の考えを変えるべきだという、個人についてのベキダであるということになる。

 こういうと、何か当たり前のことを言っているように感じる人がいるかもしれない。けれども、私が若い時代に読んだようなマルクス的な共産主義思想は、社会主義の到来という超越的な歴史法則としてのデアルを語りながら、同時に、個人の価値観のベキダについても整合的に説明できるとしてきた。

 ある社会への移行が歴史的な「必然」であるにもかかわらず、個人はそれを実現するための先兵と「ならねばならない」というのは、いったい論理的にどういう関係にあるのか。これが論理的に奇妙なものであることは、カール・ポパーをはじめとして、これまでに多くの哲学者が指摘してきた。

 この本でも、デアルとベキダについての思索を通して、そういった論理についていろいろと考えてみたい。


デビッドヒュームとの「存在と当為の問題」

 18世紀の初頭に、スコットランド啓蒙思想デビッドヒュームは、デアルがベキダとはことなっていると指摘した。主著『人間本性論』には、以下のように記されている。

「私がこれまでみてきたすべての道徳体系において、常に私が気付いてきたことがある。それは、推論や神の存在の確証、あるいは人間のあれやこれやに関する観察を通常行うとき、著者たちはしばしば、「〜である」と「〜でない」についての命題を一般的に使う代わりに、必ず「〜べきか」あるいは「〜べきでないか」に関係した命題を使うことである。私は常にこのことに唐突に気付き、驚かされてきた。この違いはほとんど気付かない程度のものではあるとはいえ、結論はまったく異なっている。」

私の訳文が拙くて申し訳ないのだが、ヒュームはつまり、論理的であるはずの推論や、実際にそうであるかどうかについての自然的な命題にまで、「〜であるべきだ」からそうに違いないと主張することが多くみられると嘆いているのだ。これは存在命題と当為命題、あるいは事実命題と価値命題を峻別するものとして、別名「ヒュームの法則」とも呼ばれる。

 このような命題表現についての論理的な相違についての指摘は、20世紀に入ると、より明確な形で、イギリス分析哲学者G・E・ムーアによって「自然主義の誤謬」と命名された。彼によれば、デアルとベキダはまったく異なった概念であり、デアルからベキダは導けないというのである。

 ムーアの問題意識の背景には、19世紀の終わりのには、社会ダーウィニズムの流行がある。それはダーウィン的な進化論を社会全般に当てはめる傾向であり、そこでは、「良い」というような規範的な命題はすべて、「生き残りを可能にする性質のことである」とか、「社会が生き残れるような規範」であるというように、最適者生存の立場から解釈されたのである。ムーアの指摘は、「良い」という概念は自然の状態によって説明することはできないという、社会ダーウィニズムに対するアンチ・テーゼだったのである。

 実際のところ、ムーアはその著作『倫理学原理』において、ヒュームよりも、もう少し広い射程を狙って論理を展開した。直接的なベキダ文だけではなく、「〜〜はいいことだ」といった価値判断文についても、それは検証できな主観についての命題であり、客観的に共有できるデアルの命題とは異なることをはっきりさせたのだ。

 しかし、この問題はそれ自体が哲学的な広がりを持った問題なので、ここでは深入りしない。ただ、ムーアが指摘したことによって、確かに一般的にデアルはベキダと混同されて使われており、それが論理的に誤りであることは広く認められたことが重要なのだ。

 この後、エイヤーやヘアーなどの英米系の分析哲学者たちは、この伝統を受け継いで、デアルは事実についての命題だが、ベキダは情緒的な、あるいは規範的な命題であるとして、両者を別の次元のものだとして取り扱ってきたのである。


カール・ポパーの批判的二元論

 私が大学時代以来、大きな影響を受けてきた20世紀の哲学者に、ウィーン生まれのカール・ポパーがいる。彼は『科学的発見の論理』において、科学と疑似科学の判別に際して「反証主義」を唱え、現代へと続く科学哲学の企てとして広く知られている。

 ポパーは同時に、全体主義社会主義に反対する自由主義的、人道主義的な社会哲学者でもあった。1943年に書かれた『開かれた社会とその敵』(未来社)における彼の主張は、本書の主張と相当に重なっている。その第5章は「自然と規約」と題されているが、ここでいう自然は自然法則であり、規約とは規範のことである。以下に、少し引用させてもらおう。

「原初的部族社会ないし「閉ざされた」社会に見られる呪術的態度の特徴の一つは、普遍のタブーや掟や習慣などをもつ呪縛された円陣内で生活が営まれ、しかもそれらが日の出や季節の循環やそれと似た明瞭な自然の規則性と同様に不可避なものとして感じられるということである。またこの呪術的な「閉ざされた社会」が現実に崩壊してはじめて、「自然」と「社会」の相違についての理論的理解が展開できるのである。

 ・・・この展開の分析にはある重要な区別を明瞭にす把握することが前提となると信じる。それは、(a)自然法則ないし自然の法則、たとえば太陽や月や惑星の運動や季節の継起等を記述する法則とか重力の法則または熱力学のようなもの、と(b)規範法則ないし禁止と命令、すなわちある様式の振舞いを禁じたり要求したりする規則、例えば十戒や下院議員選挙の手続きを規定する法規やアテネの国制を制定する法律など、との間の区別である。

 これらの問題の論議がこの区別をあいまいにする傾向によってしばしば損なわれる」

のである。

 ポパーの分類によると、科学的な知識の蓄積される以前の原始社会では、自然法則と人為規範とが同一視されてしまう傾向がある。これは「素朴一元論」と呼ぶ。これに対して、

科学的な知識が確立した「開かれた社会」では、自然と規約、つまり本書でいう存在と当為の概念は峻別されるようになる。これは「批判的二元論」と呼ばれる。

 そしてさらに、ポパーは自然主義の誤謬について批判的に論理を展開するのである。

「私は大多数の思想家、とくに多くの社会学者と一致して、(a)の意味での法則すなわち自然の規則性を記述する言明と(b)の意味での法則、すなわち禁止や命令のような規範、の間の区別が根本的な区別であり、これら二種の法則はほとんど名前以外の何物をも共有していないと信じる。だが、この見解は決して一般的に受け入れられているわけではない。それどころか、多くの思想家たちは(a)の意味での自然法則に適って制定されたという意味で「自然な」規範 - 禁止や命令 – が存在すると信じている。彼らは例えば、ある種の法規範は人間本性と、それゆえ(a)の意味での心理的自然法則と合致しており、また他の種の法規範は人間本性に反するものもあろうと言う。そして人間本性と合致していることを示すことのできる規範は、(a)の意味での自然法則と実際には大して異ならないのだ付け加える。」

 ここで、ポパーは確かにデアルとベキダはまったく異なったものであることを断言し、さらにどちらからどちらかを導き出すことはできないことも注意している。しかし、彼の指摘にたがわず、彼の指摘の後60年間以上もデアルとベキダは混同され続けてきたし、お互いに思想汚染を与え続けてきたのだ。

 本書のテーマは、この不思議さを読者と分かち合うことにある。


ソーンヒルのレイプ戦略説

 さて、ここで少し読者を試してみたい。デアルとベキダは違うという、純粋論理に対してどの程度納得できるかという点についてである。おあつらえ向きの話題が、10年ほど前にアメリカ生物学者とフェミニストの間で起こっているのである。

 進化生物学者であるランディ・ソーンヒルは、レイプというのはメスにもてないオスが、それでも子孫を残すための行動戦略なのではないかという仮説を立てた。彼は共同研究者らとともに、ガガンボモドキからオランウータンに至るまで、多くの生物を調べて、その結論を人間にも応用したのである。

 彼は『人はなぜレイプするのか』(原題A Natural History of Rape レイプの自然史)のおいて、ヒトにおいても、レイプの被害者の数は妊娠可能性に応じて高まっており、犯人もまた普通には女性と配偶することが難しい男であることを示したのだ。

 それまでのレイプ理論は、社会学がそれほど普及していない日本人の視点からは、理論とは呼べないほどに奇妙極まりないものだった。例えば、フェミニズムのレイプ理論などでは、「レイプは男性が女性に対して行う抑圧行動である」というような奇天烈なものもあった。この説明では、妊娠可能性の高い女性であっても、あるいは、社会的に高い地位にある比較的高齢の女性であっても、あるいは幼児であっても同じようにレイプの危険性があることになるが、このことが事実に反するのは経験的には明らかだ。

 しかし、このソーンヒルのレイプ戦略説に対しては、「レイプを容認するものだ」とか、あるいは「レイプの犯罪性を否定するものだ」といったフェミニストからの感情的な反論が相次いで90年代の後半を通じて大きな社会論争に発展したのである。

 しかし、それから10年が過ぎた現在から見ると、ソーンヒルの指摘が生物学的に正しいことは明らかである。レイプの被害可能性は、性的な魅力に比例する形で生じるため、効果的なレイプ対策をするためには、レイピストたちの趣味を知り、それに対抗する形で対策を講じる必要があるのだ。

 フェミニスト理論家たちは、単純な論理的過ちを犯していた。それはレイプが生物学的に見て、オスの心性に進化的に根ざしているというデアルの言明が、そのまま、それは自然だから倫理的、価値的にも肯定されてしまうというベキダへのすり替えであった。

 繰り返しになるが、戦争や犯罪を含めて、何かが長い間存在してきたという事実は、そのままでは、そうありつづけることが望ましいということを意味しない。それらはまったく別の種類の言明なのだから。

 ちなみに、この論争には、もっと微妙な論点もあった。それは、レイプは倫理的に許されない犯罪であり、忌まわしい行為であると多くの女性が思っているにもかかわらず、実際にレイプされた女性は妊娠する確率が、通常の性行為よりも高まる事実である。

 明らかに被害女性の感情とは一致しないのだが、どうしてそうなるのろうか。

 これに対して、従来の説明では、偶然といってみたり、あるいは心理的な過剰興奮などの機能が誤作動してしまうことで、妊娠確率が高まるのだとか言ってきた。

 これに対して、ソーンヒルなどの進化生物学者たちは、「メスがいやがるようなレイプに成功するオスは、その意味において有能なのであり、メスにとっては自分の意識とは別に、そういうレイプ戦略をとるオスとの子どもを持つのが有利だったのだ」と説明した。

 こういった説明が、女性の権利を推進しようとするフェミニストたちの感情を逆なでしたことは間違いない。あるいはこれは進化的な事実なのかもしれないが、それを聞いて愉快に感じる女性は、どこにもいないだろうからだ。

 この問題は、後述するようにベキダがデアルに影響しているとも言えるだろう。フェミニズム研究者の多くは、「レイプはなくなるべきだ」と考えていたのだが、そこから安直に「レイプは自然に存在したものではない」と結論付けていたのである。

 しかし、これは「戦争は望ましくない」から「戦争行為は自然に存在していたはずがない」ということと論理的に等しい。戦争のように、明らかな利益を伴い、かつ倫理的な判断も時に揺れ動くような行為であれば、倫理が実在と混同されてしまうことは少ない。しかし、強い倫理的な感覚は、実在の認識にも影響してしまう。

 つまり、自然主義的な誤謬は、多くの人間が自然と嵌ってしまう思考のワナなのである。


「みんなやってるじゃん」という正当化

 哲学者たちがこうしてデアルとベキダを区別するようになったとしても、普通の人間にとっては、そういったことはどうでもいいことだ。だから、新聞やエッセイなどでは、自然にみられるものは良いものであり、普通にみられないものは悪いものであると主張するのは相変わらずである。

 例えば、遺伝子組換え作物について考えてみよう。「遺伝子を組み替えることはそもそも自然ではない、だから危険があるかもしれず、悪いものである」というのが反対派の立場だろう。とはいえ、農作物や家畜の育種の歴史とは、人間にとって都合のよい遺伝的な奇形を探し出し、それを育てるようにしたというだけのものだ。レトロ・ウイルスを通じての生物個体間の遺伝子の交換はトランスポゾンと呼ばれるが、これは生物界全体に頻繁に起こっている。つまり別段、遺伝子の組み換えが不自然なわけではない。ただ、人為的なだけなのだ。

 もちろん、組み換え農産物には、これまでには存在しない中毒を引き起こすタンパク質などが含まれていることは十分に考えられる。とはいっても、そういった状況は、自然発生した突然変異株の自然交配による育種においても、まったく同じなのである。

 あるいはもっと極端な事例として、ヒトのクローン技術について考えてみよう。日本では本当のところ、それほどでもないのかもしれないが、欧米でのクローン技術への反感は非常に根強い。いわく、クローンは「自然ではない」から「許されない」とか、「人間の普通の繁殖方法ではない」から「悪い」とかである。

 こういった感情的なクローン技術への反対は、1970年代には体外受精に対してなされたものとまったく同じである。「体外受精は人の生殖の摂理に反しており、自然ではない」というのだ。クローン体外受精が同じような論理構造を持っていることからすれば、現在の体外受精と同じように、将来的にヒトクローンへの心理的抵抗は消滅していくだろう。

 とはいえ、こういった「自然なもの」、「すでにあるもの」は「良い」、あるいは「許される」というのは、どう考えても奇妙な考えだ。これだと、周囲の社会で奴隷制度が普通の状態であれば、奴隷制度は許されることになり、果ては奴隷制度は存続される「べきだ」ということになる。あるいは、19世紀の中国で纏足が普通であったからには、纏足は良いものになってしまう。

 デアルからベキダは導くことは、ごく一般的にはできない。

 がしかし、実際には多くの人々が、これまで社会で行われていることは基本的に否定しないことが多いし、あるいは行われてこなかったことに対しては否定的な態度をとる。おそらく、このメンタリティ保守主義というものの本質なのだろう。

 あるいは、親に行動を注意された子供は、親に向かって、「だって、みんなやってるじゃん」という言い訳をする。では、なぜ、社会で行われてきたことや、あるいは周りの人々がやっていればいいことだと感じるのだろうか。

 それは後述するように、我々の進化過程と、それに伴う行動戦略にある。

 先回りして簡単にいえば、ある行動様式が支配的であれば、同じ行動を取るべきであるという状況は、確かに存在していたのだ。いや、それがほとんど常態であったというべきなのだろう。だからこそ、「みんな、やってるじゃん」という言い訳が自然と口に出るのだ。

 デアルはベキダを直接的、論理的には意味しない。しかし結局、人間の神経回路自体が40億年の進化の産物である以上、大脳によって「直観」されるベキダには、過去の外部環境であったデアルに影響を受けざるを得ない。というより、人間のベキダとは、過去の環境のデアルからの彫琢によって形成されてきたのである。

 次章からは、まずデアルがベキダを形成したこと、つまり進化心理学に基づく道徳律の基礎付けについて説明してみよう。

 

2、デアルがベキダの基本をつくった

 

実在論vs観念論

 デアルとベキダというような哲学的なことがらについて語る時、最初に避けて通れない論点がある。それは「そもそも、一体どういったものが、思考の前提として最初に依拠できるものなのか」という抽象的な問題である。これは、哲学的にいえば、科学実在論と観念論の対立であるといってもいいだろう。

 科学実在論は、素朴実在論とか、あるいはもっと単純に実在論とも、呼ばれる。これは「我々が感覚的に認識する世界は、それを認識する自分がいてもいなくても、実際に物質として客観的に外界に実在している」と主張する。いうまでもなく、世界、あるいは自然についてのもっとも常識的な立場である。

 実際に生活している人々のほとんどすべてが、この素朴実在論を取っていると思う。まさに、自分が死んでも世界は続くというのは、常識そのものだ。仮にこれに本気で反対する人、懐疑する人がいたとしよう。その人はよほどの真摯な哲学者であり、かつ特殊な信念を持っている、あるいは変人と呼ばれるだろう。

 ちなみに、そういった人は「唯我論者」と呼ばれる。「認識主体があってこそ、外界は初めて存在するのであり、認識する主体がなければ、それが実在するかどうかは判断不可能である」というような考えである。これは、なるほど、哲学の議論としては面白いので、哲学史においても重要な位置を占めている。そして誰もが人生のどこかで出会う興味深い考えであるだろう。しかし、それを長い時間かけて考える価値があると考える人は、ほとんどいないように思う。

 私はたまたま、この自然的実在の相対性について、個人的な思い出がある。

 たまたま高校に入学したときときに、田舎の高校にしては珍しいことに、イスラム教を信仰するというクラスメートがいた。私は彼との放課後の小さな論争で、「神などいるはずがないし、そう考える必要性もない」と主張した。当時の私の感じていた、無神論者としての「常識」を披歴したのだ。

 もちろん、イスラムの彼は反論したが、それは彼の実感によるものであり、論理を重視する私の心にはあまり説得力がないように感じられた。これはこれで宗教的な態度としては、ごく当たり前のことなのだろう。

 驚いたことは、その時、仲裁に入った別のクラスメートが「神を信じる人には神がいて、神を信じない人には神はいないんじゃないか」といった。だが私は、この考えにはイスラム教信仰以上に、さらに徹底的に納得できなかった。

 「外界は客観的に一義に実在していて、それらが認識主体であるチッポケな僕らの信念によって異なっているはずがないじゃない!」と感じたのだ。

 ところで、唯我論とは「自分がいない自然世界は存在しない」とか、あるい「認識主体なき外界を観念することは無意味である」とかいうものである。これは「主観に応じて、異なった自然が存在する」という相対主義とは異なっている。とはいえここには、明らかにここには通底する懐疑主義的な論理がある。

 その後、大学に入ってからは多くの哲学的な議論に触れる機会を持った。今の私はかつてそうであったほどには、実在論を素朴には主張しなくなった。とはいえ、これ以外の思考方法は、今も私には決して説得力があるようには思われなかったし、知的に興味深いだとも感じられない。なので、ここでこれ以上、議論することはやめにしよう。

 さて、このような極端な思想である唯我論に比べると、はるかに一般的に支持されている考えには、いわゆる「観念論」がある。この観念論では、主観的なもの、あるいは精神的なもの、言語的なものが第一義的に重要であると考える。自然的な外界とは独立した精神性という考えは、カントヘーゲルなどのドイツ観念論でも展開されている。

 特に興味深いのは、前述したカントによる、倫理的な当為命題であるベキダについての認識である。カントは、倫理的な命題体系の世界は、客観的な外界とは別の完全に独立した世界であると考えた。世界の自然状態に対して、超然と存在する抽象的な当為概念の体系を考えようとしたのだ。これは、私のような素朴科学論に帰依する人間にとって、実に興味深い発想だ。

 以下に説明するように、私の立場は、徹頭徹尾実在論に依拠している。そして、私の議論と世界観の中には、観念論的な要素はほとんどまったくない。これは私が中学生の時から帰依しているダーウィニズムの窓から見える世界観と、観念論の提示する世界観がひじょうに異なっているからだ。

 私の信念では、観念論が与えてくれるものはそれほど多くないし、その多くは言語の使い方という至極小さな問題に注視しすぎて、はるかに重要なものを見逃しているように思う。

 ヘーゲルは「世界精神」という概念によってときにベキダを含んでいるような観念的・思弁的な概念の運用に基づいて、実在的なデアルを説明しようと試みた。私は、そういった方法は採らず、その反対に、実在すると感じられる外界のデアルによって、観念的な世界を構成するベキダを説明しようとする。それは自然の実在を、言語や概念、直観などという人間のもつ観念に優先するものとして、論理の基礎に置く考えである。


人間心理の由来

 さて、私が本書を書いている究極的な狙いは、人間の感じるベキダの起源と現状について検討を加え、それによってどういった社会が可能なのかというデアルについて考えてみることである。とすれば、ヒュームムーアが断言したように、「ベキダとデアルは無関係なので、混同して使用してはいけないよ」というだけでは、ミもフタもない。

 そこでまず私が目を向けるのは、「人間がどのような経緯から現在のような存在に至ったのか」という、自然科学的な人間の由来の問題である。これによって、その行動を決定する心理についても、なんらかの洞察を得ることが可能だろうと考えるわけだ。

 そして、科学者の常識として、「人間とは、遠い昔に自然発生した、おそらくRNA(リボ核酸)によって構成される自己複製体が、悠久の進化を経て到達した自己複製マシンだ」という考えを受け入れる。これは現代科学においては極めて常識的で、日本の知識人において異論の少ない正当な考えになっていると思う。

 この点について詳しく説明する必要はないかもしれないが、一つだけ強調しておきたいことがある。それは、日本でも西洋でも、多数派の人々は実利を与えてくれない科学に興味はなく、「人間がより単純な生命体から進化した」などと信じてはいないということである。

 実際、ほとんどすべての宗教で、人間は特別な存在とされている。キリスト教イスラム教ユダヤ教、仏教など、すべての宗教で、人間の精神、あるいは心理は、地質学的な時間をかけた進化の過程によって形づくられたとは考えられていない。むしろ、安直に絶対神によって創造されたというのが普通のようだ。

 仏教その他の宗教では、人間の由来自体がはっきりせず、そもそも進化という視点自体が存在しない。輪廻転生などの思想は、時間の始まりも終わりもなく、博物学的な動物種の類似性や相違についてなんらの関連もないようで、それらの存在のヒントも与えてはくれない。

 私のように中学生の時代から徹底的にダーウィニズムに洗脳されて育った人間には想像もできないが、1859年以前の思想家たちは、自然に対しての、あるいは社会に対しての思索をする際に、人間の由来と性質は聖書などの宗教書や、自分自身の社会学的な観察に基づく他はなかったのだ。

 例えば、フランス革命アメリカ独立戦争の思想的な基礎付けを与えた、18世紀の啓蒙思想家には、ホッブズジョン・ロックモンテスキューやルソーなどがいる。彼らは聖書を否定しない範囲で、人間の原始的な社会状況について、理性を使って想像している。これはこれでキリスト教原理の枠内においては、理解可能な知的態度だといえるだろう。

 例えば、ジョン・ロックは聖書の歴史的な記述を歴史的科学的真実であるとみなして、考察をすすめている。これは20世紀の教育を受けた私には奇妙奇天烈な発想だが、地質学も未熟で、放射性同位元素による年代測定法もなかった当時には、やむを得ないことだったのだ。むしろ驚くべきなのは、聖書の記述を前提としながら、現代に残るような社会哲学を展開できたその天才である。私はこれに対して、驚くほかない。

 あるいはまた、ヘーゲルは1807年に『精神現象学』を著し、世界精神というような観念を導入し、歴史的な社会変化についての思索をなしている。この世界精神はきわめて抽象性の高い概念であり、また個人意識を超越しているという点では全体主義社会主義的でもある。

 こういったドイツ観念論は、当時としては意味をもったのもしれないが、自然的な人間の由来に鑑みれば、私には無意味に抽象的概念を濫用しているとしか思われない。むろん、神の意志についてのみ語る神学者に比べれば、世界精神というあらたな思考の概念を使って世界史を分析しようというのは、ある意味で理知的であり、評価に値するとはいえるかもしれないのだが。

 多くの宗教を同列に論じることはできないだろうが、キリスト教原理主義においても、幸福の科学、あるいは統一教会においても、心身二元論的な立場をとっている。つまり、霊的な存在としての人間は独自の存在であり、自然科学から学ぶことはないと考えるのである。おそらくこの心身二元論は、すべての振興カルト宗教に当てはまる、ごく一般的な主張である。

 心理学においてさえ、進化論が入り込んだのは1990年代に入ってからである。

 例えば、1930年代のフロイト心理学は、生物学、あるいは進化論にインスピレーションを受けたものであったが、彼の進化論の理解はほとんど独断と思い込みでもいう程度のものであった。その結果、彼は後年、人間にはタナトス(死への願望)が存在するというような、ひじょうに独自性の強い主張をしている。

 実際のところ、今日の科学史家の共通の認識では、初めて人間心理が進化の産物であると考えたのは、他ならぬチャールズ・ダーウィンであった。彼は著名な『種の起源』において生命の進化機構を説明したが、その後『人間の由来』を著し、人間と他の野生動物の類似性について詳細な記述を残している。そこでは、人間の心理機構の多くが、動物にとって進化的な利益があることによって発達したという明確な視点が提示されているのである。

 ところが、不思議なことに、ダーウィンの進化論的な心理学は、100年もの間、日の目を見なかった。おそらく動物の利他行動の研究が進んだ1970年代を経て、ついに人間の心理や倫理もまた進化論の光によって説明できるのではないかという考えが、再び広まり始めたのだ。

 後述するように、1975年にはエドワードウィルソンの『社会生物学』が、翌76年にはリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』という二つの大きな啓蒙書がかかれた。これによって、現代の心理学社会科学は長い方法論的な迷走から解き放たれることになった。


「残ったものが残った」

 ここで、ひじょうに簡単にダーウィン進化論について説明しよう。

 生物の個体は、多くの子どもを産むが、そのすべてが生き残って子孫を残すことができることは不可能である。この場合、外的な環境、あるいは種内の性的な競争により優れた資質を持つ個体が、生き残ること、子孫を残すことにより成功する。その結果、そういった優れた資質は、種内のより多くの子孫に共有されてゆくことになる。

 より多くの子孫を残せる個体は、より適応的である、あるいは適応価が高いといわれる。古典的な例を挙げるなら、シマウマを狩るライオンの学習能力の高さや足の速さなどがあるだろう。

 ライオンの場合、風下から気付かれないように近づく技術が高いことによって、あるいは、より速い速度で走ることによって狩りの成功率は上がるだろう。その結果、より多くの子どもを育てることができるため、そういった資質、あるいは遺伝子は次第に種内に広がる。その結果、種としてのライオンはよりうまく狩りができるようになるだろう。これが、種の進化なのである。

 この考えは、時に「適者生存」と呼ばれるが、実際には「生存」が重要なわけではない。つまり「生存」するだけでは何の意味もなくて、「繁殖」の成功が重要なのだ。だから、生物学者が「適応価」について話すとき、それは原則的に残した子どもの数になるのである。ある個体が短命であったか、長生きしたかはほとんどどうでもいい。

 この考えは、様々な意味で「劣った」個体が繁殖に成功しないことを意味している。そのためだろう、「競争」が美徳であるとは思わない人びと、あるいは「平等」が重要な価値であると考える人びとにとっては、あまりウケの良いものではないことは事実である。

 次章で詳述するように、「人間は平等であるべきだ」という考えは、我われの道徳観においてあまりにも大きなものである。そのため、ダーウィン的な進化論は間違っている「はずだ」という考えは、この150年間、絶え間なく主張され続けてきたし、現在もそうである。間違いなく、今後もそうであり続けるだろう。

 あるいは科学哲学的、抽象的にはダーウィン進化論が誤りである可能性は存在しているといえるだろう。だが、私が知る限り、ダーウィニズム以外の進化論は論理的・実証的に破たんしているので、以下ダーウィン的な進化論を前提にして議論を進める。


遺伝子を中心に世界を見る

 よく知られているように、生物の遺伝子デオキシリボ核酸(DNA)によってコード化されている。人間のDNAは30億もの塩基対によって構成される膨大なものだが、実際にタンパク質をコードしているイントロンと呼ばれる部分は3万ほど、あるいはもっと少ないと考えられている。

 このわずか3万の塩基対の配列はヒトであれば、ほとんどが同じである。そうでなくては、ヒトとして発生して活動することはできないのだ。しかし、これらのうち300ほどの遺伝子座は個人によって異なっている。そして、これらの異なった遺伝子は対立遺伝子と呼ばれ、ヒト集団内の個々人の遺伝的な差を生みだすことになる。

 人びとの関心を引いてきたのは、一つの遺伝子の違いによって引き起こされる致命的な病気である。たとえば、東欧系ユダヤ人に保因者が多いテイ・サックス病は、ガングリオシドという脂質が神経細胞内に蓄積することによって、歩行失調その他の神経活動の麻痺を引き起こし、死に至るというものである。

 これは、酵素を生成する劣性遺伝子がホモ結合することによって引き起こされる病なのだが、β-N-アセチルヘキソサミニダーゼAという酵素を作り出すHEXA遺伝子のなんらかの異常によって引き起こされるのである。

 この病気は中年期以降に発症することが多かったため、保因者は青年期にすでに結婚して子供をつくっていることが多い。そのため、この遺伝子を療法の染色体に持つホモ結合が生じれば、個体にとっては致死的であるにもかかわらず、その子どもはすでにある程度大きくなっていることが普通であるために、遺伝子プール内を生き残ってきたのである。

 もっと、興味深いのは鎌型赤血球の生成遺伝子のホモ結合である。これはサハラ以南の黒人に多い遺伝子であるが、ホモ結合すると致死的であるが、1つの染色体にだけ持てば、マラリアに対して耐性をもつことができる。このような場合、ホモ結合の大きな危険を割り引いても、その遺伝子は集団内に広がるということになる。

 総じて言えることは、個人に悲惨な死をもたらすような遺伝子であっても、別の理由から若い時期により多くの子供を持つことを可能にするようなものは、結局は集団のなかに温存されるということである。あるいは、個人に安楽を与えるような遺伝子でも、それがその個体の生殖的な繁栄につながらないのであれば、地質学的な時間の中では結局は淘汰されてしまう。

 進化論では、遺伝子の多くは、人間が個人として望ましいと思うような性質をもっていない。なぜなら、個人は遺伝子の作り出す入れ物に過ぎず、個人の安楽や死、長寿などの性質は、その個体を作りだした遺伝子の繁栄とは厳密には一致していないからだ。

 さて、19世紀にダーウィンが進化論を定式化したとき、自然淘汰の単位については漠然と種であるとか、あるいは集団、さらには個体であるとか、考えられていた。これを決定的に遺伝子中心にしたのが、イギリスウィリアム・D・ハミルトンと、アメリカジョージ・ウィリアムズであった。

 彼らの理論をまとめてみよう。動物が利他的な行動をする際、相手はほとんどが近親個体であり、近親個体には自分と同じ遺伝子が近親度に応じた確率で入っている。例えば、通常の生物では、親と子ども、同じ父母を持つきょうだいは2分の1の遺伝子を共有している。おじやおば、祖父母では4分の1、いとこでは8分の1となる。よって、自分の受ける不利益を上回る十分な数の親族を助けることができるのなら、そのような利他行動は進化することになる。

 後述するように、人間の場合には、利他行動は親族以外にも広くみられ、それには多様な理由があると考えられている。しかし、親戚同士の助け合いはもっとも普通にみられるのも間違いない。

 さて、遺伝子中心にみると、自分が死んでも、二人以上のきょうだいが助かるのであれば、そういった行為は生物学的な進化基盤を持つことになる。このことはダーウィニズムも現代的な形で完成させたひとりであるJ・B・S・ホールデンが50年以上も前に指摘している。

 少し前述したが、このことのもっとも重要で興味深い例は、多くの遺伝子の果たす役割が多面的なことに関連している。この多面発現で予想されるのは、ある遺伝子が個体の死亡リスクを高めたとしても、それを上回る繁殖の可能性によって適応価を高めるのであれば、そういった遺伝子は集団内に広まるだろうというものである。

 例えば、男性ホルモンであるテストステロンは筋肉の発達を促進させるため、おそらくは男性同士の争いにおいて大きな価値をもってきたはずである。しかし、高濃度のテストステロンは更年期以降において前立腺ガンの発ガン率を高めてしまう。つまり、男性が男性らしくあることには戦闘力を高めるという利益とともに、死亡リスクを高めるというコストがかかっているということなのだ。

 あるいは、遺伝子の組み換えによって、センチュウを長生きさせることができたことは、多くの科学雑誌で紹介された。シカゴ大学生物学者は、センチュウの寿命を約2倍にまで伸ばしたし、ヒトでも4番染色体に長寿のカギを握る遺伝子の一つがあることが確かめられている。

 しかし、この遺伝子は同時に、繁殖を抑制するものであるようだ。適応価は大きく下がっているのである。長生きさせる遺伝子があったとしても、それが10分の1以下の子供しか残せないのでは、そういった遺伝子が集団の内部には広まることはない。

 遺伝子の視点からみると、個体が長生きすること自体には何の価値もない。より繁殖を成功させることができるのであれば、個体が若くして死んだとしても、遺伝子は集団内に広まってゆくからである。これは個体を中心に見ることは、少なくとも生物学的な視点とは相いれないということを意味している。

 ドーキンスはこの遺伝子中心の視点を、「生物個体は遺伝子の乗り物でしかない」という刺激的な表現を使って、世に広めた。1976年の『利己的遺伝子』は、人文主義的な人間存在の意義を、ますます低いものとしたように思われる。人間という種の特殊性に基づく意義という考えは、すでに19世紀のダーウィンによって十分に貶められていたのではあるが。

 

タブラ・ラサの仮説

 ヒトは生まれてくるとき、なんらの先天的な行動傾向ももたず、その後の学習によってすべての行動を覚えるのだとしよう。こういった考えは、心が白紙のままにうまれてくるというタブラ・ラサの仮説と呼ばれる。

 このタブラという言葉は、英語のテーブルの語源となったラテン語である。いろいろなことを書き表す黒板のようなものを指していて、つまり、まっさらのノートというような意味がその原義である。

 この仮説は、前述したスコットランドの啓蒙哲学者であり、経験主義者であったジョン・ロックが主張したことでよく知られている。その後、ロシアパブロフによる条件反射の研究などを経て、アメリカで行動主義心理学として花開いた考えである。

 行動主義を完成させたジョン・B・ワトソンスキナーたちは、人間心理をブラックボックスとして取り扱うという方法をつきつめ、単なる反応の連鎖こそが生物の本質であると主張した。ついで、条件付けによってどんな子どもでもどんな人格にでも訓育することができると考えたのである。ワトソンによる、1930年の代表作『行動主義』における以下の文章は、彼の極端な立場を表わすものとして、心理学史においては非常によく知られている。

 「12人の健康な乳児と彼らのための、よく計画された、私の特定するような養育環境を私に与えよ。私は、彼らのうち任意の一人を、私の選ぶどんなタイプの専門家にも育て上げることを約束しよう。それは医者であれ、弁護士であれ、社長であれ、そして、そう、たとえ乞食であれ、盗人であってもであり、そして子供の才能、好みや趣向、能力や適性、その祖先の人種にかかわらずである。このことは私のもっている実験結果を超えた主張であることは認めるが、それは反対意見の推進者たちも同じであり、彼らはそれを数千年にもわたって行ってきたのだ。」


 さて、当時に比べて圧倒的に多くの学問的な知見が集まった現在となっては、こういった考えの詳細を論じて、個々的にその主張に反対する必要はもはや存在しない。現在の心理学研究の主流となった進化心理学では、生物学的な進化論からヒトの行動の意味を説明しようとする。そこでは、配偶行動をはじめとする、多くの重要な人間行動は先天的な傾向によって導かれると考えられている。

 ちなみに大分さかのぼったところでも、言語学者のノーム・チョムスキーは、言語の発達は、単なる条件反射では説明できないことを1950年代に最初に主張している。ヒトの脳に言語を獲得するための先天的な言語回路が存在していないならば、条件反射の身では、わずか数年でのヒトの言語の習得は不可能なのである。

 彼の考えは、進化論的言語学者であるスティーブン・ピンカーによる『言語を生み出す本能』などに引き継がれている。実際に、脳にはブローカ野やウェルニッケ野などの言語活動に特化した部分が存在していること、そしてその発生・分化は遺伝子レベルの基礎付けがることは、現在ではよく知られている。

 あるいはまた、別々に育てられた双子研究をみてみよう。こういった研究は、アメリカデンマークなどで行われてきた。一卵性双生児が異なった里親に育てられた場合、その性格や行動の違いと類似性を測ることによって、人間活動の差に対する影響を、遺伝要因と環境要因に分けて考えることができる。

 一卵性双生児は遺伝的には同じであるが、養子縁組によって里親が異なっている場合には、その生育環境が異なることになる。成人後の人格の類似性はもともとの遺伝的な素因によるものであり、その違いは基本的には環境要因によって形作られると考えられるのである。

 これは現在、行動遺伝学と呼ばれる研究分野になっている。結論的には、人間一人ひとりには遺伝的に自然な個性があり、それは単に環境によってのみ決まるのではないことがわかっている。知性や多くの性格因子の遺伝率、つまり集団の変異のうち、遺伝によって説明される部分は50%程度になる。つまり、ヒト集団のなかの様々な個性、あるいは人格や能力のバラつきは、その約50%程度の遺伝的に誘導されているのだ。

 後述するように、右翼・左翼などの政治的な態度についても、遺伝率はそれなりに高いようである。とするなら、人間の倫理観にも先天的な基礎付けがあり、それは遺伝的に、脳内のニューロンの結合様式や伝達物質の量や受容性、あるいはホルモンの分泌などに埋め込まれたものであるという前提をとることはごく自然な話になる。

 ここで理解してもらいたいのは、こういった行動の遺伝性という概念を考える際には、個人の行動や個性が遺伝によって完全に決まってしまうということではないということだ。「ある程度」というところがミソなのである。これはまた自由意志についての部分で後述するが、全体の議論に大きく関連してくるので、忘れないでもらいたい。。


犯罪という行為概念の自然主義的基礎付け

 明らかに、われわれの社会には「殺すなかれ」、「盗むなかれ」、あるいは「犯すなかれ」といような基本的な犯罪への禁忌意識がある。私はこれらの道徳規範は、ほとんど直観的なものであって、神経科学的な、あるいはハードウェア的な配線が先天的に発生することが遺伝レベルでプログラムされていると感じている。

 あるいはそんなものは社会的な構築物でしかないという人もいるかもしれない。こういった感覚が先天的なのか、あるいは後天的なのかについては、また後に考えることにするが、こういった倫理観や道徳感情が広く一般に存在することだけは間違いない。

 さて、こういった道徳規範の存在に関連して、世の中でよく聞かれる素朴主義的な質問には、「なぜ人を殺してはいけないのか?」というものがある。いろいろと人文主義的、人道主義的、あるいは宗教的な返答があることは間違いない。しかし、これらの説明はすべて、私が合理性の基準から考えて納得できるものではなかったと断言したい。

 曖昧な説明に代わって、私はここで、多くの日本人にとってほとんどまったく聞いたことのないだろうような、功利主義的な説明をしてみたい。これは主にアメリカで発達した、法の経済分析という研究分野における、法律の功利主義的、あるいは経済学的な基礎付けである。あまり聞きなれないかもしれないが、その論理はクリアであり、ベキダという概念の基礎付けとして知的に興味深く感じられるはずである。

 まず典型的な犯罪行為として、殺人や傷害行為をめぐる道徳について考えてみよう。

 私をAが殺すという行為について検討する。その場合、Aは私を殺すことによって精神的に満足を得ると考えることができる。ここで、このAによる殺人による満足、あるいは快感に価格をつけることを考えてみよう。これは100万円に値するかもしれないし、あるいは1億円になるかもしれない。

 しかし有限なある金額をもらうことによって、Aは私を殺すことをやめることに同意するという金額が存在すると考えられるだろう。これは、Aにとって、私を殺すことと、その金銭をもらうことの価値が等しいこと(経済学者のいう無差別であること)を意味している。

 反対に、私にとって私が殺されないことには、間違いなく主観的には無限の、あるいは客観的にも自分の生涯所得全体の最低限度の価値がある。Aが得た快楽の金銭換算値と、私が被る被害の金銭換算値には大きな差があるのが普通である。とすれば、犯罪者の快楽額から、被害者の損害額を差し引きすると、結局は大きなマイナスになるだろう。つまり私とAによって構成される小さな社会全体からみると、私が殺されることは、利得よりも損失の方が大きいということになる。

 ミもフタもない表現なのだが、これが殺人が罪とされる理由である。

 同じ論理は傷害行為にも当てはまる。怨恨であれ、通り魔のような愉快犯であれ、傷害犯は相手に傷害を与えることで何らかの精神的な快感を得ている。それを金銭評価するなら、せいぜいが数万円から数百万円程度の価値しか持たないだろう。言い換えれば、それだけの金額をもらうのなら、その引き換えに犯人は傷害行為をやめることに同意するだろうということである。

 これに対して、傷害を受ける個人としては、傷害犯人の快楽よりもはるかに大きな被害を受けるのが普通である。いいかえれば、被害者は傷害を回避するために、犯人の快楽換算額以上の支払いをする用意があったはずだということである。

 ということは、被害者と加害者の二人についての社会的な利得は、傷害という行為によって全体としてマイナスになっている。これを功利主義的にみると、傷害行為は社会全体の幸福を減らしたことになるため、われわれはそれを犯罪として罰するのである。

 最後になるが、窃盗については、もっと理解しやすいだろう。通常、もともとの所有者にとっての窃盗物の価値は、窃盗犯人にとっての価値に比べてはるかに大きい。仮に、窃盗犯人にとっての価値が、所有者にとっての価値よりも高いのであれば、犯人は所有者に売買を持ちかけることで、合法的に所有者の同意を得て、当該物を入手できるはずだからである。

 窃盗犯人のほとんどは、窃盗物をすぐに闇市場に売り払ってしまう。通常、その価格はもともと所有者が買った値段に比べて、はるかに低いものでしかない。さらに、窃盗行為には時間も労力も掛かるのであるが、それはもっと別の生産的な仕事をすることにも使えた時間と労力なのである。窃盗行為は、犯人にとっても時間のかかる、しかし社会的には破壊的な行為となっている。このため、窃盗物を犯人が得ることは犯人の快楽になっているが、それ以上に所有者にとっての損失と窃盗行為は犯人の労力の総和は大きな価値を持っている。つまり窃盗行為は、社会全体の価値を毀損する行為であり、望ましくないものだといえるのである。

 話はこれにとどまらない。殺人にしても、傷害、窃盗にしても、そういった行為が起こることが予想されるのなら、潜在的な被害者は、それに対抗するために、武器を持ったり、あるいは夜中の外出を控えたり、厳重な戸締りのための器具や防犯装置を購入する必要が生じてしまう。これらは、それ自体は何も生産的なものではなく、単なる純粋な社会的な損失である。

 実際、犯罪率の高いアメリカでは、日本でいうセコムのような警備会社と契約するのが、ごく一般的な家庭でも常識となっている。しかし、セコムの活動は確かに顧客の生命や財産を守るというサービスを供給してはいるが、そもそも犯罪行為をしようとする人間がいないとしよう。その場合、現在そういった警備会社に勤めている人たちは、工場で何かを生産するなり、高齢者介護をするなり、といった、何かもっと他の積極的に生産的な仕事に就くことができる。つまり、警備会社のサービスは消極的なものでしかなく、警備活動などが、そもそも必要ないのであれば、社会の総福祉を上げることができるはずなのである。

 以上のように、犯罪と呼ばれる行為は、ある程度は加害者にとっては満足度の増大につながっているかもしれないが、それ以上に被害者が迷惑を被っている場合なのだといえるだろう。これは、加害者と被害者の両方の利益を金銭的に考えたものだが、もっと常識的に加害者と被害者がほとんど同じような境遇にあると考えれば、そのまま精神的な満足度の増減についての功利主義哲学として理解できるものなのだ。


犯罪のゲーム状況

 ここでの記述的な説明を、もう少し厳密にゲーム理論をつかってあらわしてみよう。A、B二人のプレイヤーによる社会において、それぞれが犯罪的な行動、ここでは盗み、をする場合としない場合について、各人の得る利得を考える。

                         プレイヤーAの行動

 盗みをする

 盗みをしない


プレイヤーBの行動

 盗みをする

 

(−10、−10)

 (−20、10)

 盗みをしない

(10、−20)

  ( 5、 5)


 表の中にかっこであらわされた数値は、それぞれAとBの利益値を示している。Aが盗みをしてBが盗まない状況は、4つの数値行列のうち、左下に表れている。Aは盗みをするために10の利益を得るが、Bとしてはそれ以上の20という大きな損失を被ることになる。Bが盗み、Aは盗まないのであれば、状況は反対になる。

 AもBも窃盗をはたらけば、お互いのものを取り合うために、それぞれが20を失って10を得るため、結局は二人ともに10を失うことになる。最後に、二人ともが盗みをしないのであれば、その時間を別の生産的な活動に充てることができるため、両者は5の利益を得ることになる。

 犯罪の状況論理とは、まさに加害者と被害者の利得を足し合わせた場合に、負の値をとるということにある。加害者はなんらかのものを得るのだが、その正の値は、被害者の負担する負の値によりもはるかに小さいのである。

 この場合、両者が事前に話し合って、盗みをしないという協定を結ぶことが、双方にとって有利になるだろう。このために、犯罪をしないということが暗黙の社会契約であるという考えや、犯罪行為を社会契約上の契約の不履行とみなされることがあるのだ。

 犯罪行為は罰されるということが事前に約束されていれば、各人が犯罪を行うインセンティブはなくすことができる。ここで示した場合であれば、盗みに対して、例えば10の罰を与えることが事前に約束されているということになるだろう。窃盗行為が必ず罰されるというのであれば、AもBも窃盗の後に罰を受けることによって結局は0の利益を得るよりも、普通に働いた方が5の利益を確保できるだけマシになるのである。

 10の利益のある犯罪に対して、10単位の罰が与えられるという刑法的な社会契約を実行することと、盗まれた被害者やその他の第三者が、加害者に対して10単位以上の復讐をすることとは、犯罪抑止効果の点からみると、同じであろう。このことが、後述するように、実際には社会契約という論理的な解決法をとる代わりに、われわれが道徳感情と、それに伴う犯罪への憎しみと応報感情によって、犯罪の発生を抑止している理由なのだ。

 さて、殺人について考えてみるのは、思考実験としては窃盗よりも興味深い。AがBを殺すというのであれば、Bの被害は通常は無限大だといえる。この場合、Aが感じる満足が有限のものであれば、つまり、有限の金額の金銭に置き換えられるというのであれば、それだけでAとBの利得の総和は無限にマイナスとなる。

 総和の値がマイナスの大きな数字であればある程、その行為の反社会性は高いと考えられるし、同時にそういった行為に対する道徳的な非難と物理的な懲罰の程度は上昇する。このように、通常の個人生活のなかで、他人との共同生活に対して破壊的であるものが犯罪なのであり、そういった行為が起こらないように罰する必要が生じるのだ。

 さらにここで注目に値するのは、実質的な社会的損害が生じていない場合には、犯罪は違法ではなくなるという、一般的な法制上の特例である。これは前述の利得行列でいえば、Aが窃盗をして、Bが窃盗をしない場合の利得が、それぞれ20と−10であるような場合である。

 例えば、AがBの別荘に入ってパンを盗んだが、Aは遭難していたために餓死しそうな状態にあり、反面、Bは別荘にはおらず、その別荘である山小屋に多くのパンを蓄えていたとしよう。この場合、刑法では「緊急避難」行為として、このような住居侵入や窃盗の違法性は阻却され、犯罪として罰せられなくなると考えられている。

 具体的には、日本の刑法では、第37条に「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。」とある。

 要するに、緊急の場合には、犯罪に当たるような行為であっても、もっと重要な利益を守るためであれば、それを実行することは道徳的な非難を受けたり、罰を受けたりしないということである。これはまさに、刑罰や倫理観がその根底に功利主義的な論理を持っていることによるのである。

 似たようなことだが、同等の利益(法律用語では法益と呼ばれる)を守るために、犯罪に当たるような行為を行うのもまた許されている。例えば、自分を殺そうとしてきた相手を殺してしまうというような、正当防衛である。

 刑法36条には「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」とある。これもまた犯罪とされるべき行為が実質的にもたらす利益を考えると、しないよりもした場合の方がより大きいという例外規定なのである。

 このような緊急避難や、あるいは正当防衛の制度について考えると、法が犯罪行為を規定し、処罰しようとすることは、功利主義的な考察によって説明できることが納得できるだろう。ついで、このようなデアルという論理が、どのようにしてベキダという感覚に転化していったのかを検討しよう。


進化的適応環境が心理機構に反映されるまで

 ここまでに述べた説明は、功利主義的な哲学に基づくものであり、いわば状況論理を考察したわけである。だから、個人が「道徳的直観」を持って、殺人が悪いと感じることの説明というよりも、むしろ、「どうして殺人が悪いことなのか」についての論理的な説明である。

 では、こういった論理は、1、一体なぜ我々の直観、あるいは実感にまでなっており、2、さらに強い感情を伴うのだろうか。ここで、進化的な議論の出番になる。

 まず1について考えてみよう。

 人間がゴリラチンパンジーから分岐して独自に進化してきた過去500万年以上の歴史を考えてみよう。その進化的な生活環境というのは、せいぜいが数十人程度の小さな集団であったと考えられている。

 貨幣のない状況においても、殺人や傷害、食べ物や衣服の窃盗などは価値破壊的、非生産的な活動であるため、集団内部の軋轢を高める。どういった集団においても、殺人や盗みといった活動が恒常的に存在するのであれば、それに備えるための物質的・心理

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