kurakenyaのつれづれ日記

2010-09-13 国家は、いらない

1、公共選択理論と立憲民主主義

官僚の天下り

公共選択理論

ブキャナンフリードマンの立憲民主主義

自由の経済的、倫理的価値

平等を指向することを前提にしても

2、生活インフラを考える

電気とガス

水道行政の非効率性

3、異常な地価

そもそも日本の土地はなぜ高いのか

借地・借家法

相続税も固定資産税

誰が被害者なのか

  

4、農産物保護制度

外国産の安い食材

農業従事者は必ずしも弱者ではない

関税と直接補助のちがい

食料自給率安全保障

農業保護と農家の保護

農業のもつ神話

5、累進課税制度

累進性の低い税制

官僚中心の退職金優遇

現行の年金制度を維持するよりも

6、金融商品を見てみても

多様なサギ話

情報の取得コスト

お気楽投資を目指すなら

生命保険

市場しか新しい産業はつくれない

7、放送の許認可制度と電波の競売

 デジタル・テレビを誰が見たいのか?

 EUの電波競売

 

8、知的所有権を再考する

 知的所有権

 音楽や映像、著作や絵画

 誰が法制度の受益者なのか

 音楽の場合

 映像の場合

 知的「所有権」制度について

 国家が著作権を保護するべきか

9、医療制度

医療制度の現状

診療への不満と医師不足

医師の報酬をみると

厚生労働省の総医療費抑制政策

適正な医師の数はわからないが

医療過誤のリピーター医師がなぜいるのか

現実的な政策

医療は自由に参入させて質の担保は格付け機関

10、どうしても政府を作るのなら

倫理観から出発する人びと

利己的な個人を前提にする

修身済家治国平天下、あるいは哲人政治

インドの経済成長の現実

拡大する格差はどうするのか

「あなたが平等主義者ならなぜそんなに裕福なのですか」

再分配のみの小さな国家

タロックの5%の意味

政治活動の意義

Introducition

 利益誘導は、常に「公益」の皮をかぶって主張される

 私が大学の教養部に通っていたころ、友人と渋谷のハチ公前のスクランブル交差点をセンター街の方向へ渡ろうとすると、「カンボジア難民救済にご協力お願いしまーす!」という声とともに、募金箱が我々の前に差し出された。当時、私は募金にはほとんど興味もなく、金銭的な余裕もなかったので、無視して松濤方面に向かった。

 友人は募金箱が去ると、「募金には都の許可が必要なんだ、彼らは許可も得ずに、本当は自分の財布を人の前に出してお金をただで人から集めようというやつらなんだ」と笑いながら話してくれた。確かに、その後私が読んだ多くの記事では、友人が正しいようであり、1980年代のいくつかの募金活動は完全な「私的な利益」のために詐欺的に利用されていたようである。

 つまりこういった完全な詐欺は、慈善活動をしようとする人々の心に咲いたあだ花である。しかしこれは、人々の心には確かに他人のことを思いやる、あるいは社会全体の利益という意味での「公益」への希求がそれなりにあることを示唆する。この例では、詐欺募金が公益性がないことには間違いないが、現実の政治活動はそれほど簡単ではない。

 さてその後、私が専門課程に進学したころ、中曽根政権に入ると、NTT民営化、国鉄分割民営化などといった大きな行政改革が断行された。さらに近頃は小泉政権郵政民営化道路公団民営化である。

 いうまでもなく、これらの改革内部に勤める官僚上がりの経営者が推し進めたものではない。官僚上がりの経営者は、できるだけ現存の組織活動の「公益性」を訴えかけることによって独占を維持すること第一を考えるだろう。その方が、競争がなくて、高給が約束されるからである。

 国鉄は、大きな公益を担っているから民営化にふさわしくない、日本電信電話公社国際電信電話公社も高い公益性を持っている。郵便制度の公益性の高さはだれの目にも明らかであり、高速道路もまた明白に公益に関わっている。

 問題は、この「公益」なる言葉が使われるとき、それはあまりにも曖昧なので、誰にとっても都合のよいものに解釈されてしまうということにある。このような事情から、公益企業の改革というのは内部改革ではあり得ないのだ。

 公益という概念は、実にあいまいに使われている。電気料金が高いといえば、電力会社は、人々にあまねく高品質の電気を送電するという公益性を持ち出して、規制緩和に反対する。ガスについても、爆発の危険性があるし、公益性は明らかに高い。水道供給についても、あまりに生活に密着した公益性の高さ故に、一般企業には任すことはできないのだという。

 公益性を測る基準というのがはっきりしない以上、それはだれにとっても自分に都合がよいように使えるマジックワードになってしまう。いわく、放送局には公益を守る義務があるので、その対価として放送免許が与えられるのは当然だ。あるいは、農業は国民が食べるものを作っているのだから当然に公益性が高く、特段の配慮をするべきだ、などなど。米をつくっている農家は、自らの公益性について、日本の食文化を守るものだと自負するほどに高く評価するのが普通である。

 医療は公益性が高いので、診療価格も国家が決めるべきだというのは常識である。映画や音楽の著作権も公益性が高いため、大きな保護が必要であるという。銀行業もまた、国民の生活基盤であるために公益性が高く、国民が詐欺にあわないために監督し、同時にあまねく利用できるように保護したりするべきだという。

 同じように政府セクターに勤める役人に聞けば、一様に彼らは公益を守っているのであるから、自分の部署や所轄の公益法人を廃止することはできないという。

公益、あるいは公共、という言葉はあまりにも漠然としており、論者によってその使い方が自由すぎる。農業保護が公益で、既存のテレビ会社も公益を増進しているという。右翼や政治家が好むイラク戦争は「国益」に合致するという言葉と同じように、定義があいまいな言葉は濫用されて、無意味化すると同時に、使い手の都合の良いように使われてしまう。

本書では、公益という概念を否定しているわけではない。しかし、あまりにも多くの既得権益者が自分に都合の良い言葉として公益を主張している。その結果、民主主義の過程で、公益を主張する力の強い人々に多くの利益が誘導されてしまい、庶民の生活は大きく貧困化しているのだ。これを本文で説明したい。

あらゆる団体が、その利益を国家の政治過程において追及するために、公益性の高さを喧伝する。だが、その公益性が認められた場合に利益を得るのは、ほとんどがその団体の構成員か、組織の従業員である。一般国民は「公益」の名のものに搾取されるだけである。

いい加減、我々の全員が基本的には利己的であることを認めて、それとコンパティブルな制度設計を目指すべきだ。たとえば、トヨタの自動車の安全性には確かに公益性があるが、それを高めることはトヨタ自動車の利益と一致している。だからこそ、世界の車はより安全になる。あるいは積水ハウスの安全性は確かに公益的だが、それは積水ハウスの販売が上昇して会社関係者の収入を上げるという意味で、完全にコンパティブルだ。これら市場の企業は、公益と私益を一致させている。

反対に、官僚や特許を得た企業が国民の利益を第一に考えるという行為は、我々の心性とはコンパティブルではない。ずばり不可能なのだ。だれもがまず自分やその家族、友人のことを第一に考える、そしてわずかな資源のみを公共的な部分に振り向けるという、ごく当たり前の過程を採用すべきだろう。そして政治家や役人の裁量性を極端に減らすことを考えるべきだ。あるいは、私のように、完全な無政府を標榜するのもありだろう。

 ここ20年以上も、政府自民党は、どのような公益法人と、あるいはどのような部局が不必要であるのか、という質問を出して、所轄の各省庁の官僚に調査書を提出させてきた。だが、これは明らかな茶番である。たとえて言うなら、強盗の犯人に向かって、テレビで「強盗したやつは出てこーい!」と呼び掛けるようなものだ。それで公益に隠れた私益をむさぼる連中が自分の公益性を否定するというのは、まさにすべての犯罪者がのこのこ自首してくるのと同じほどにバカげた妄想である。

 我々は、政治制度全体を、運営する官僚個人のインセンティヴと一致する形にしなければならない。官僚が無私の心を以て、一般国民のために最善の政策を考えるという前提は、道徳的には美しくても現実的ではない。

そもそも、そんな人間はどこを探してもいないからだ。それは我々がすべて基本的に利己的な存在であることに原因がある。これは進化論的な事実であって、理念論や道徳教育などで変化するものではない。

 ともかくも、現代のような複雑な社会で公益などという言葉が使われるときは、よくよく気をつけなくてはならない。ほとんどすべての場合、それは公益を増進すると主張して、その実、自分たちの利益の盤石化をねらうだけの政治的なレトリックだからである。


後書き

 無政府主義者に転向するまでの私は、ミルトン・フリードマンの影響を最も強く受けた夜警国家的な市場主義者であった。フリードマンの1979年の『選択の自由』には、すでに福祉国家が弱者を虐げていることが詳細に指摘してあったため、私は平等の理念のためにも、むしろ小さな国家の方が望ましいことを理解したのである。

 その後、公共選択理論オーストリア学派の経済学、スタンダードミクロ経済学を学んでも、福祉政策のほとんどが実際には弱者を助けていないことは明らかであった。これらを受けた記した本書は、私なりの記念すべき30年後の『選択の自由』日本版だ。内容・深みが大きく劣るのは私の能力上やむを得ないが、できるだけ多くの人たちに読んでうなずいてもらえる秀作になったと自負している。

 最後に、本書の内容は主に2007年の春に書いたが、洋泉社の依田弘作氏のおかげで日の目を見ることになったものである。依田氏のおかげで、大変に読みやすい章建てと見出しがついたことは望外の喜びである。深く感謝して筆をおきたい。

2007年10月


1、公共選択理論は何を教えるか

 現在の自民党の改革路線というのは、2001年に首相となった小泉純一郎元首相が旗印にしたものだが、彼の政策はその後の安倍政権を経て、現在の福田康夫首相に続いてきた。彼の主張した「聖域なき構造改革」は「小さな政府」を目指し、具体的には郵政民営化道路公団民営化、中央から地方への税源移譲など、「官から民へ」の改革がなされたという建前であった。

 郵政の民営化に関しては、2005年の総選挙では自民党の中でも反対勢力を「抵抗勢力」と呼び、自民党から追い出すパフォーマンスで国民の支持を得た結果、圧勝を収めたのである。

 さて、小泉内閣をさかのぼること約20年、中曽根康弘首相は1982年から87年までに大規模な民営化政策を行った。日本電信電話公社(現NTT)の民営化、日本国有鉄道(現JR各社)の分割民営化、日本たばこ専売公社(現JT)の民営化など、多くの官業を民営化したのである。

 日本のように官業が数多くの分野で残っている国では、それらの赤字構造が定期的に問題化し、それを処理するために民営化が取り沙汰されるということなのだ。それが地殻のねじれのようなエネルギーとして溜め込まれ、定期的な地震活動よろしく噴出さざるをえないというわけである。

 しかし、小泉改革の対象となったのは、彼自身の長年の公約であった郵便局の民営化と、道路公団の民営化だけであった。政府による直接業務の非効率には、それ以外にも、まず本丸である、国民生活金融公庫農林漁業金融公庫などといった公庫や国際協力銀行日本中央競馬会などの特殊組織に代表される70以上もの特殊法人がある。

 さらに、その外側には武家屋敷として、自動車運転安全センターなどのどうでもいいような無意味有害な認可法人が86もある。その他、国からの補助金を受けている城下町には公益法人は1000以上もあるのである。まさに霞ヶ関官僚の天下りのために、虎ノ門には今なお広大なお化け屋敷が広がっているのだ。

官僚の天下り

 さて、官僚の天下りは、一体どの程度広がっているのだろうか。

 公益法人や特殊会社、独立行政法人などに役職員として天下りした国家公務員は、2006年4月現在で、2万7882人いる。このうち役員クラスは1万1888人であり、天下り先の団体は全部で4576である。2006年度上半期で省庁からこれらの天下り先への補助金や事業の発注などによる交付額は約5兆9200億円であった。これは民主党が要請し、衆院調査局が実施した結果、報告されているのである。

 この調査は毎年実施されている。前回調査では05年4月時点で天下りは2万2093人、交付金額は約5兆5395億円であった。この間も、小泉総理大臣の任期中である。つまり、小泉改革の真最中にも、天下り官僚も天下り先法人も増えているのである。

 これは驚くべきことだ。「改革」を謳った小泉首相の在任時に、官僚の利権は年間4000億円も肥大化していたのである。これだけをみても、改革というものがいかに不徹底であったこと、また改革の流れなど政府関連機関の肥大化には、なんの歯止めにもなっていなかったことがわかるのだろう。

 こういった実態を受けて、2008年には「官民人材交流センター」という、天下りを一元的に取り扱う組織が誕生するということになった。これによって、各官庁による直接的な後者などへの天下りを抑止し、後者や民間企業とその監督官庁との権益の結びつきを弱めようというのである。

 実際、このような政治家主導の天下り禁止には、既得権益をもつ官僚組織は大反対している。例えば、この官邸主導による国家公務員法改正案に対しても、財務省が反論書を提出している

 各省庁による天下りあっせんの禁止について、「一律に規制の対象とするのは適切でない」、さらに独立行政法人公益法人などを除外するよう求めている。もちろん、他の省庁も同調するとみられている。

 また、その冒頭では「再就職に関する規制を先行して強化すると、官民交流を阻害するのではないか」と、ある種の正論をはいているほどである。改正案では、天下りあっせんをした職員に対しての懲戒処分が提案されているが、これに対しても刑法的に見て「十分な理論的根拠が明らかでない」と反発している。

 というわけで、天下りの規制はうまくいかないに決まっている。過去にも官僚の天下りは問題となり、官庁を退職してから2年間は再就職が禁止されたはずである。しかし、現実には、2年間が過ぎればやりたい放題になってしまっているのだ。「官民人材交流センター」でも、各省庁からの横槍が入って、実質的には「再就職には問題がない」というお墨付きを与えるだけになるに違いないのである。

 このような懸念は、多くの民間企業の側にも存在する。日本経済新聞の2007年5月9日の記事では、54%の民間企業では、しょせんは各省庁からの横槍が入って、天下りの禁止は機能しないだろうと予測している。

 またどのみち、抜け道も数多くあるだろう。たとえば、地方にも半官半民の第三セクターの企業は大量にある。まず、地方の出納局や副知事、助役として天下った後に、地方の三セクの役員に天下るのは、特に難しいことではない。

 おそらく、これ以外にもたくさんの抜け道があるだろう。補助金づけの地方自治体は中央とのパイプ役を必要としている。またゼネコンなどが国土交通省幹部との、また製薬会社や日本医師会厚生労働省幹部とのパイプが必要であると考えるのなら、必ずや脱法的にルートができ上がるだろう。

 こういったすべては、許認可権限がうみだす悪しき政治的特殊利益である。これをなくすためには、我われの行政システムが徹頭徹尾、構成・透明で利益誘導のできないものである必要がある。しかし、そんな官僚組織はプラトンのイデアの世界にしか存在しない。だからこそ、例えば、ドイツなどでも42歳以降の中央官僚は他の企業に就職できないという法律があるのである。

 残念なことに、歴史法則として「権力は必ず腐敗する」。年金不安の問題でも、社会保険庁の年金データベースはまったく統合されないままに多くの人たちが年金額を減らされていた。しかし、だからといって職務が保障されている役人である職員の誰かがその責任を取るわけでもなく、給与が下がったわけでもない。

社会保険庁の役人にも、地方公務員にも社会保険料を着服した輩が少なくとも、100人以上もいて、約4億円が詐取されているのである。政府が民間企業よりも信頼できるとは到底いえないことは、この件からも自明だろう。

 民間企業には解雇という制度があるが、公務員でも分限免職という制度があり、その身分を奪うことができないわけではない。公務員への異常な優遇は止めて、民間と同じように中途採用も解雇も適宜おこなえばいいだろう。待遇の保証や天下り先が確保されていなくても、公務自体に意義を見出す人もいるはずである。そういう公共精神にあふれた人たちに公務をやってもらうべきなのである。

 戦後の安定した経済体制も、すでに70年にも届こうとしている。70年といえば、江戸時代において、大阪夏の陣によって戦国の世が終わり、江戸を中心とする幕藩体制が完成してから、やがて元禄文化が爛熟し始めるまでの時間である。当時、幕府は急速に財政難に陥ってゆき、やがて徳川吉宗による享保の改革が必要とされていったのである。現代社会のように変化の速い時代に、この長期間に制度疲労が起こっていないとするなら、それのほうがよほど奇妙なことだろう。

 実際のところ、官僚組織による自己利益の追求は、誰の目にも明らかだ。2007年3月発表の内閣府の発表した、公務員制度についての特別世論調査の結果をみてみよう。

 国家公務員が国民のニーズに応える働き働きぶりをしているかどうかについて、56%の人が「国民のニーズに応える働きをしていない」と回答している。うちわけは、「あまりしていない」が45・8%、「全くしていない」が10・2%である。これに対し「十分している」は3・1%、「ある程度はしている」も32・1%にとどまっている。

 さらに、働きぶりを評価しない人に、制度の問題点を複数回答で尋ねたところ、「『天下り』が多い」が75・5%で最も多く、「働きが悪くても身分が保障されている」(65・1%)、「給料が民間に比べ高い」(56・7%)と不満が続いている。

 また調査結果によると、天下り問題の解決策については、全体の44・1%が「企業などに再就職することは認めるが、出身の役所とは接触できないよう規制する」と回答している。また「定年まで勤め上げるようにする」が26・8%、「再就職が可能な企業などの選択を制限する」が19・6%であった。

 しかし、これらの対策は実質的に、官僚個人の経済活動や政治活動の自由を奪ってしまう。その実現は人権上も、あるいは社会公正の点からも望ましいことかどうか自明ではない。また現実的にも、官僚たちの強力な反対にあって実現することは不可能だろう。

 ここで重要なのは、こういった「官僚の天下り」といった現象に対しての、単なる対症療法を考えることではない。そうではなくて、そもそも高級官僚の天下りがなぜ多いのかを考えてみるべきなのだ。つまり、官僚の権力の源泉は、官僚組織が民間活動に対して、権限によって恣意的に経済活動の自由を規制していることにある、という事実に着目するべきなのである。

 我われのリベラルな願望は、自分のためには決して利益を優先せず、純粋に公益のために活動するような組織、あるいは人物たちを求めている。まさに、これはかつての共産主義者たちが抱いていた願望そのものである。

 我われの政治制度の設計にあたっては、現実の人間に不可能を要求したり、存在するはずのない人間を選抜しようとするべきではない。私たちの誰もと同じように、ごく普通の人が官僚になるのだという前提から出発するべきなのである。

公共選択理論

 1962年に経済学者であるジェームズ・ブキャナンと政治学者であったゴードン・タロックは、『合意の計算』という一冊の書籍を出版した。広く知られるようになったこの本は、「政治的な合意」が形成される際には、有権者による投票活動だけではなく、政治家にロビー活動をおこなう利益団体が大きな役割を果たしていることを指摘したのである。

 以降、このような学術研究は次第に発展し、公共選択理論と呼ばれるようになった。この研究はまた、ブキャナンとタロックを中心にヴァージニアにあるジョージ・メイソン大学やヴァージニア工科大学などの大学で進められたため、ヴァージニア学派と呼ばれることもある。

 今となっては、こういったものの見方に対しては、別段の驚きも感じないかもしれない。しかし当時としては、政治活動とは何か特別に理想主義的なものであり、利益団体が自分達に都合がいいように政治家や官僚を誘導していると認識するのは、大きな視点の転換だったのである。

 それまでの政治学では、「政治はいかにあるべきか」を問うことはあっても、現実の政治がいかなる過程でおこなわれているか、については多くの関心が割かれていなかった。これは、今でも多くの政治学者の陥っている現状でもある。

 ブキャナンとタロックは、有権者、政治家、官僚、利益集団のそれぞれが自分たちの利益を最大化しているという、経済学的な視点から現実のアメリカ政治を分析した。これをゲーム理論的に表現するなら、政治活動のプレイヤーのすべてが基本的には利己的であると仮定し、彼らが非協力ゲームの状況で行動戦略を選んでいると考えるのである。

 有権者は利益集団を形成し、政治家に投票することで何らかの特殊な政策を支持します。農家は農業保護を約束する政治家に一票を投じるだろう。政治家は、当選を確実にするために特殊利益集団から集票し、あるいは同時に特殊利益団体からロビーイストを通じて金銭的にも援助を受けるのだ。

 官僚はどうだろうか。中央政府地方政府の役人は、それぞれ自分達の業務が増えると同時に、より大きな予算がついて、より大きな部署になり、分業で仕事が楽になるように法律を誘導する。権限が大きくなることもまた、後の再就職、天下りには有利になる。

 実際、こういった多様な思惑が、政治的な意思決定をめぐりって交錯し、全体の妥協としての法律と運用が定着することになる。このような視点は政治経済学の一部として目覚しい進展を遂げ、ブキャナンは1986年にノーベル記念経済学賞を受賞した。

 それから20年がたった現在では、民主主義的な政治にはひじょうに大きな非効率があることは常識となっている。例えば、アメリカでも砂糖やピーナツ、綿花などの価格には、政府の公定価格があって、農家は外国からの競争から保護されている。しかし、これらの農産物のどれひとつとして、アメリカのような先進国家で作られる必要性などはないのである。

 しかし、だからといって、民主主義に代わる制度があるわけでもない。明らかに独裁制、その他の政治体制が望ましいはずがないからだ。そこで、ブキャナンは後述するように、「立憲民主主義」を掲げ、憲法改正をおこなうべきだと主張しているのである。

 もちろん、このように政治家や官僚の行動が「すべて」自分中心であると考えるのは生きすぎだろう。実際、タロックは『行きづまる民主主義』において、「人間は95%利己的で、5%は利他的である」という程度の前提が現実的ではないかといっている。

 その意味するところは、我われの誰もが自分や家族の生活を一番に考え、ついでさらに親戚や友人にも関心を寄せるということである。そして、もっと一般的な人びとの生活を改善するような慈善活動には、収入のせいぜい5%程度も寄付をすればいいところだというのだ。

 この利他性についての議論はまた、本書の最後に議論することにしたい。それにしても、官僚が利己的というよりは、我われ庶民のことを第一に考えているなどというのは、それこそトンデモさんでも主張しない事実になってきたご時世である。反対に、トンデモさんたちには、官僚の陰謀論のほうが人気があるだろう。

 現在、政府はいくつかの公共サービスの担い手を、民間業者と官庁を競わせて決めるという「市場化テスト」をおこなっている。当然ながら、これは権限を縮小されかねない官僚の反対でまったく導入が進んでいない。

 日本経済新聞2007年5月8日付けの記事では、市場化テストは、国民健康保険の窓口業務などを始め25事業あるが、民間事業者と契約しているのは6事業だけで、残りは進んでいないという。

 これを受けて、より多くの民間業者が市場化テストに参入しやすいように、委託を複数年度化することにした。厚生労働省が反対しているハローワークの無料職業紹介にも来年度から市場化テストを導入すると同時に、テストに非協力的な場合には役所に対して一定のノルマを課すというのである。

 ハローワークにいってみてください。パソコンの求職欄を見るために多くの人びとが詰め掛けているが、その対応は完全に普通のデスクワークそのものである。この業務をおこなうのが2万2千人もの公務員である必要などは到底存在しないことは明らかだ。

ブキャナンフリードマン立憲主義

 ブキャナンはもともと財政学者であり、アメリカ財政の健全化のために、憲法の改正が必要であると主張してきた。それは、アメリカ政府の赤字を禁止するということ、さらにある法律が支出を伴う場合、その支出に見合った収入を確定することを義務付ければならないというものである。

 これは、19世紀の経済学者である、ベーム・バヴェルクの影響を受けたものである。たしかに、政府支出に見合う税源を同時に確保しなければならないのであれば、財政赤字はなくなるだろう。これは、それ自体が望ましいことだ。

 日本のように財政赤字が1000兆円を越えているような超赤字国家では、その重要性はますます高まるというものだ。だから、このような形で、民主主義政治の身勝手さに、一定の憲法的な歯止めをかけるというのは、たしかに必要なことだろう。

 しかし、それだけでは、人びとの自由を守ることはできない。いや、その逆に、税金を払えばすむような政治問題を、職業選択の自由を束縛するという、より悪い形態の政治活動を生み出してしまう可能性が高いのである。

 例えば、農業保護のために税金が支出されていたとしよう。税金をバラ撒くことができなくなった場合には、農家を保護したい政治家はどうするだろうか。おそらく、農業への参入規制や、農産物の生産の割り当て制度を創設するような法律によって、実質的な農家保護をおこなおうとするだろう。

 政治家にとっては、補助金をつけて農家を保護しても、あるいは消費者に生産物を高く売り付けるような法律をつくって農家を保護しても、農家の所得が上がる限りにおいては同じだからである。

 しかし、このような制度は、補助金制度よりも、はるかにたちの悪いものである。補助金制度であれば、有権者は予算をみることによって、そのような政治活動の規模を知ることができる。それに基づいて判断することで、ある政策が方向性として支持されるとしても、その規模が妥当なのか、あるいは過剰なのか、過小なのかを考えることができるのだ。

 これに対して、法律による参入制限や、生産量の調整の場合には、消費者は割高な商品を買わされることによってコストを支払っているが、そのコストはまったくはっきりしない。そういった場合には、コストを推定するために経済学者の活動が必要になるが、その方法は複雑であることが多く、結果も曖昧にしか示せない。

 結果として、有権者はある政策が国民に課するコストを明確に知ることがないままに、政治家や官僚の善意におまかせするというしかないことになる。なるほど、この結果は、財政赤字にはならない。しかし、小麦の輸入に250%の関税がかかっている日本では、私の食べているパンもパスタも国際価格の3,5倍になっているのである。

 つまり、私にとって関税は税金と同じなのだ。しかし、関税は私が直接に払っているわけではないために意識されないが、税金は集めるというのはあまりに直接に意識されるために、政治家はむしろ関税による農産物保護を好むのである。

 自由を重要な価値だと考える私にとっては、このような職業選択、それに含まれる職業活動の自由の制限は、税金よりもはるかに危険な制度である。なぜなら、個人の活動を制約するというのは、本質的に税金を徴収するよりも、いっそう抑圧的・権力的で許されないことだからだ。

 このことを私に教えてくれたのは、20世紀後半を通じて大きな影響を与えた自由主義経済学者である、ミルトン・フリードマンであった。フリードマンは、1979年にそのベストセラー選択の自由』において、アメリカ憲法の修正案を提示している。そこでは、職業活動の絶対的な自由を保障するために、職業選択の規制の禁止、外国貿易の制限の禁止、特定の生産活動への補助金の禁止、などの広範な禁止条項を議論しているのである。こういった禁止条項がなければ、政治は無限に肥大化して、市民の生活を貧しく不自由にしてしまうのである。

 フリードマンの主張は、イギリスサッチャーアメリカレーガンに採用され、1980年代の、「小さな政府」に向けた経済改革を方向付けたものである。当時、イギリス人であるサッチャーは、もっとも尊敬する経済学者としてフリードマンの名前を挙げていたほどである。

 我われ日本人についても、良くも悪くもアメリカ人ダグラス・マッカーサーのおきみやげというべき日本国憲法のおかげで、職業選択に自由が保障されている。日本国憲法の22条1項には、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」という規定があるのだ。

 しかし残念なことに、この「公共の福祉に反しない限り」という限定がついていることで、ひじょうに多くの職業規制が許されてしまっている。もちろん、多くの人びとは、職業活動の制限などは、政府のなしうる当然の裁量の範囲内のことだと考えている。しかし、そのような思考は、我われの社会全体を貧しく不自由なものにしてしまっているのだ。

 ブキャナンフリードマンの提案する、民主的な政治から自由を守る立憲政治というのは、実質的な職業選択と、職業活動の自由を、憲法レベルで保障しようとしたものである。法律学者のように、使う言葉は美しいが、実質的な判断になるとほとんど何の意味も果たさないような、無意味な言葉遊びではない。

自由の経済的、倫理的価値

 19世紀には職業選択の自由は、自由権のなかでも中心的な位置を占めていた。19世紀に完成した近代社会とは、それ以前の封建主義的な土着社会、あるいは慣習的な社会秩序の否定の上に形作られていったのだ。

 近代以前の封建社会、あるいは階級社会においては、自分の出自によって、職業が決まっていた。しかし、こういった出自には関係なく、個人レベルでの職業選択の自由を保障することは、適性のある個人が希望する職業につけることにつながり、経済活動が活性化する。また、転職も自由なので、斜陽産業から新興産業への労働力の移動も円滑になる。

 その結果が、近代的、効率的な経済生産をもたらした。自由な職業選択とそれに伴う生産活動の自由は、機械産業から石油化学工業、さらには自動車産業にいたるまで、資本主義の高度化に不可欠だったからである。

 例えば、自動車の製造は政府によって始められたのではなく、ゴットリープ・ダイムラーやカール・ベンツなどの、発明家によって始められたのである。当時の各国政府は、軍馬の改良にはいそしんでいたが、自動車などが交通の中心になるとは予想もできなかったのだ。

 同じことは、飛行機にも当てはまる。1903年に飛行に成功したアメリカライト兄弟は単なる趣味人であった。フランスでもサントス・デュモンが1906年に、ライト兄弟とは独立に飛行に成功した。彼らは純然たる民間人であり、政府部内には、その頃、飛行が可能であり、飛行機が重要な役割を果たすことになると考えた人などいなかったのである。

 この例に明らかなように、自由は、我われの世界の外延を広げてくれる。これに対して、政府の計画が我われの生活を豊かにするというのは、全体主義の好きな社会工学者の陥りがちな幻想でしかない。

 しかし、20世紀に入ると、この考え方には変化が生じた。世界恐慌の結果、そういった経済状態を立て直すために、政府が直接に多様な規制や財政支出をするようになったのである。これはアメリカでは1930年代フランクリンローズヴェルト大統領がニュー・ディールとして始めたものである。

 同じ頃、ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』をあらわし、政府が経済に介入するのは当然だという考えは、経済学会でも一般的になっていった。このような政府の役割の増大は、同時に、政府は国民の福祉の向上のために多様な政策を積極的におこなうべきだという考えとも親和的であった。その結果、戦後の思想潮流は平等を目指し、大きな政府を容認する民主社会主義勢力が支配的となったのだ。

 その後、1980年代に入ると、大きな政府のもつ自由の抑圧性、そして職業的な自由の規制から生じる経済の沈滞が問題になってきた。イギリスでは保守党のサッチャー首相が、またアメリカでは共和党のレーガン大統領が、そして日本でも中曽根首相が、「小さな政府」による効率的な経済を目指したのである。

 彼ら自由主義的、あるいは保守的な政治たちは、多くの国営企業の民営化、あるいは多様な規制の緩和をおこなった。このような経済の自由化は、ソヴィエトを中心とする社会主義国家の崩壊によって、インドやアフリカなどにも広がり、世界的にもっとも盛んになったのである。

 それ以降、21世紀の現代世界は、スウェーデンをモデルとするような民主社会主義勢力と、アメリカをモデルとするような自由主義的勢力が均衡しているといえるだろう。これを反映しているのが、例えば、1997年から2007年までの間、政権を担当していたイギリス労働党の首相であったトニー・ブレアの政治運営である。彼の政策は、労働者階級の保護というよりは、企業の競争力にも配慮した、いわゆる「第三の道」路線であり、中道的なものであった。

 2007年のフランス大統領選挙もまた、世界の縮図をあらわしていた。アメリカ型の自由主義を標榜したサルコジは、北欧型の平等主義を標榜したロワイヤルに53%対47%という僅差で勝利したのである。フランスの労働規制は週35時間労働と労働者の解雇不能に代表されるように、ひじょうに厳しいものである。それは現在の労働者を保護しているかもしれないが、同時に若者の失業率を上げて、フランス企業の競争力を低下させているという点が論争となったのである。

 日本でも、江戸時代に存在した士農工商という身分制度を廃止し、「四民平等」を強権的に実現した明治時代の政策は、基本的に近代社会を構築しようしたものである。西南戦争をはじめとして、これは既得権益層である武士の大反対を押し切っておこなった、社会の大改革だったのである。

 それ以後、明治時代の職業活動は基本的に個人の自由に任されていた。職業規制はあまり存在せず、政府の殖産興業政策ともあいまって、紡績、鉄道、電力、製鉄、造船など多くの活動が民間起業家によって隆盛した。

 しかし、明治時代の到来から70年が過ぎると、状況は急速に変化していった。日中戦争が深刻化する中で「進歩官僚」たちによる社会主義的な1940年体制が確立した。国家総動員法などの立法を通じて、新聞や電力、鉄道などの大幅な合併が強制されていき、次第に職業活動の自由は大幅に制限されることになり、それは当然視されるようになっていったのである。

 しかし、今でも自由のもたらす、経済成長に対する意義はまったく失われていない。現代世界の超大国はアメリカだけになったが、アメリカ社会の自由の精神はグーグルやセカンド・ライフなどのあらたなビジネスを次つぎと生み出し続けている。これとは対照的に、精神的な自由が抑圧されている中国では、現在のようなキャッチ・アップの段階ではうまくいっても、先進的なサービスや商品を生み出すことはできないだろう。

 また倫理的な基準からしても、むしろ十分に経済的に発展した豊かな社会においてこそ、職業活動の自由は重視されるべきなのである。なぜなら、職業生活はほとんどすべての人にとって、もっとも長い時間を割いておこなう活動であり、自己認識や人間の尊厳、主体的な自己実現など多様な価値を体現しているものだからである。

 漫画家になりたいという人がいたとしよう。彼が自分を実現するためには職業の自由が必要である。その結果、日本のコンテンツ産業は隆盛するかもしれないし、あるいはしないかもしれないが、どちらであれ、そもそもそういった考慮自体が社会主義的なのである。豊かなで自由な社会では、だれであれ自分の好きなことをする権利があるのであり、それは経済とは関係のない次元で、人間の精神にとって比肩することのできない価値なのである。

 このことは、最低限度の生活を超えれば、人間の精神的な満足感は、食料よりも、思考や芸術などの精神活動、あるいは自己認識などに、はるかに多くを依存することからも明らかだろう。

弱者保護の理念を認めてみても

 さて、ブキャナンとタロックによる名著『合意の計算』は、政府という意思決定主体の内部力学を、利己的な個人の行動から説明しようとした。

 政府は国民に法律を強制できるため、各種の利益団体が政治家に働きかけて、自分達を利するが、一般国民の利益には反する法律を通そうとする。これによって、一般国民の経済活動の自由が奪われ、利益団体には税金が投入されることになる。その結果、社会全体は技術に可能なはずの生活に比べて、はるかに職業活動の自由が規制され、税金が増えて貧困になるというわけなのである。

 しかし、これは政府だけの問題ではない。政府からの特許を得て、活動をする団体はすべて基本的には国民の利益を害して、団体の構成員の利益を図る。どのような団体であれ、政府の特別な許可や保護があるのであれば、消費者を搾取することは、いわば公認されているからである。

 日本の場合、これには運転免許センターや水資源開発機構、社会保険庁のような公営の法人もある。しかし、それだけではなく、地域独占を政府から公認されている電気やガスなどの株式会社も含まれるだろう。とりあえず、以下に日本にはどのような制度的な歪みがあって、それが日本人の生活をどのように貧困化しているかを、トピックをあげながら見てみよう。

 なお、私は無政府資本主義者だが、この本では弱者保護を目的とする福祉国家を肯定するという前提に立って議論をする。そのような前提を取ったとしても、現状の日本の政策はあまりにもチグハグで、不必要かつ有害なのだ。

 これには、環境問題のような善意の勘違いもあるし、農産物保護のような利益団体の活動や愛国主義などが入り混じったものもある。ともかく、日本の諸問題をいくつか挙げてみたい。それらの制度から大きな利益を受ける人びとがいて、彼らはある意味で弱者であると考えられていたり、過剰な保護に値すると考えられていることがわかるだろう。

 最終章では、これらの諸悪を肯定するような心理について考えよう。我われの品性が低いから、そういった利益団体を利するような政治制度を作り上げてきたのだろうか。私の考えでは、もちろんそうではない。

 社会には多様な事実や状況があり、その曖昧さの中で、誰もが自分の取り分を正当化する。そういった人間の一人一人が有権者として政治制度をつくるのである。そこでは、強者がより大きな金額を政治に使うことができれば、彼らに有利な制度が出来上がるのは必然的だろう。

 また同時に、我われの心の中にあるリベラルな幻想が、一つ一つの制度がある特定の弱者に見える人びとを保護していると認識し、正当化している。しかし、その結果が全員の首を絞めることになっていることには、ほとんど注意が払われることはない。

 終章では、我われが肥大化した福祉国家を目指すべきではないこと、せいぜい所得の再分配のみをおこなう「小さな国家」を目指すべきだという考えについて、もう一度検討してみたい。

2、生活インフラを考える

 この章では、地価と並んで日本経済の非効率性のシンボルとしてよく知られている、公共料金の高さについて考えてみる。まずは電気料金、ガス料金、そして水道料金をとりあげよう。

 以下に述べるように、水道料金は完全な公営であるため、最悪の状態になっている。しかし、電気・ガスなどは民間会社が供給しているので、それほど悪い状況にはないように思っているかもしれない。しかし、現実の電気・ガス会社は、地域独占を認められているのをいいことに、自分達の高い給料と系列会社の優遇をそのまま価格に転嫁して、消費者を搾取しているのである。

 公共選択理論が示しているように、政治的な意思決定には、かならず利権を持つ団体が大きな利益団体としてカゲにヒナタに議会工作をおこなう。その結果、我われは、地域的に独占を保証されたこうした公益会社から、諸外国の倍額を超える料金支払いを余儀なくされてしまうのである。

電気料金

 OECDによる各国のエネルギー価格調査によれば、2004年における家庭用電力料金は、日本と比較するとアメリカ45%、フランス72%である。産業用の電力ではより大きな差があるが、ここでは生活インフラについて考えるのでとりあげない。

 さて、これは私のアメリカでの生活実感とも符合する。私を含めて、多くの日本人はアメリカの電力料金が日本の2分の1から3分の1くらいであると感じている。

 ところが、電力会社のホームページでは、とんでもない主張が一般公開されている。

 「当社の電気料金は、主要国の電力会社と比べ、単純に為替レート(2004年1月時点)で比較すると割高に見える場合もありますが、各国の物価水準や所得水準を反映した指標(購買力平価、1時間あたり賃金)で比較すると、おおむねほぼ同等、もしくは割安となっています。」

 私は一般的な態度としては、官僚であれ、企業であれ、少なくとも彼らの活動の目的自体の善意を疑うことは少ない。しかし、ここまで露骨な情報操作にはあきれを超えて、明らかな悪意を感じる。誰であれ、外国生活をした人で、このような電力会社の弁明を信じる人はいないことは保証できるからだ。

 電力会社の主張はつまり、所得水準の高い日本では、高い平均時給に換算してみれば、電気料金は高くはないというものである。これは、電気がサービス業のように、ほとんど労働力のみによって生産されるのであれば、それなりに納得できるかもしれない。しかし発電するための機材も燃料も国際商品であり、おそらく配電設備の構築やサービスのみが時給と関係している。生産性の高い日本では、電気はそれに比べて割安だというのは、あまりにも消費者をバカにした意味のない主張だろう。

 本題に戻って、なぜ日本の電力料金は高いのか。単純な結論でつまらないのだが、地域独占を許された地域会社には、競争が実質的に全く存在しないためである。地域独占企業であるのに、従業員は高級取りで、会社の福利厚生も過剰なほどに存在している。系列企業には入札制度がないか、入札制度があっても公開義務もなく、電力会社からの天下り社員によって割高な受注を受けることができるのである。

 つまるところ、電力会社とは、テレビ局と同じように、政府から特別許可を受けた独占者なのだということなのである。

 これに比較して、例えば、フランスでは電力会社は国営だが、外部からの監視を厳しくして電気を安く提供している。反面、私企業が電力を供給するアメリカでは、公共事業体として州政府からの外部監査がひじょうに厳しく、従業員の給与から公示の入札まで多くの公的な監視が存在している。

 アメリカの企業の研究でさえも、競争がない地域の電力会社では競争がある地域の会社よりも非効率な部分が多いことが知られているのである。いまや古典となった1966年の研究において経済学者レーベンスタインは、それをはっきりしない原因に基づくものとして「X非効率」と名づけた。

 競争のない日本の電力会社は、つまり単なる特許会社である。電線を二重に引くのはばかげているように思う人も多いだろう。しかし、新規の参入企業が既存の電力会社とは独自に配電網をつくるようにならなければ、この問題は根本的には解決しないのである。

 東京や大阪などでは、多くの私鉄の路線がJRと並行して走っている。純粋に技術的に考えれば、複数の路線が独立してあるよりも、一つにまとめたほうが効率は高まるに違いない。しかし実際の人間の組織とは、独占が許されれば、できるだけ自分達の都合がいいように料金を設定するように、徐々に組織慣習を形成するものなのである。

 このため、一見して非効率であっても、電力業界に新規参入がなければならない。新規の参入企業があって、はじめてコストを低減する必要性が、組織レベルで発生するからである。

 近い将来に実現するだろうと思われる電力供給の多様性の第一候補は、家庭用燃料電池によって発電しつつ、熱源としても利用するというコ・ジェネレーションである。これは日本でも松下電器やホンダなどの多く企業が参入を試みている。現在の天然ガスを改質して、ガスの供給ラインを使って、熱と電気を各家庭で分散的に発生させるものである。

 北欧で実用化されている、この分散型の電気と熱のコ・ジェネレーションでは、熱の使用や電気の使用に応じて、他方もまた生産されることになる。そこであまった電気や熱をローカルコミュニティで共有することによって、その有効利用を促進できるのである。

 現在のところ、コスト的には大きな問題がある。しかし、自動車用の燃料電池の進歩は家庭用にも転用できるので、近いうちに技術的な進歩によって損益分岐点に到達するといわれているのである。いわばこれは、現在のガス会社が電力会社にもなるという競争のあり方だといえるだろう。

 あるいは、複数の会社の複数の電圧のコンセントがあれば、消費者は家電製品の購入に際して、当初は小さな混乱を生むかもしれない。しかし日本のように豊かな社会では、電気の供給についても潜在的に多様なニーズがあるはずである。

 ある電力会社の電力供給は、安定しているが料金は高く設定されており、また別の電力会社は停電が多くて供給が安定していない代わりに、料金が安いということがあっても、不思議ではない。このような複数の電力会社は、十分に並存するべき理由があるのである。

 停電が多かったとしてもかまわないという人が実際にいるだけでなく、一時的な停電があっても電源安定化装置があればすむような場合も多いのである。これは、現在急速に進歩している多様な二次電池やキャパシタによる蓄電技術の改良によって、将来はもっと小さな問題になるはずである。

 日本の配電システムは、ひじょうに高度に安定しており、平均的な停電時間も諸外国の3分の一程度と圧倒的に低いことで知られている。そのかわりに2,3倍の高価格で電気が売られているのである。これは過去の通産省(現経済産業省)による公共投資行政指導の結果である。しかし、電力会社の従業員以外のほとんどの人は、もっと停電してもいいから、半額以下の安い電気を欲しているのではないだろうか。

 例えば、私をはじめ多くのネット愛好者はIP電話を使うことが多い。私は特に無料のスカイプお気に入りだが、スカイプは回線品質が低く、安定性もあまり高くはない。「ぶち切れ」というのもしょっちゅう起こるが、そもそも切れてもかまわない電話のニーズというのは、誰にでもあるだろう。大事な電話は安定した固定電話でかけるが、どうでもいいような要件では無料の不安定なサービスを選好するというのは、おかしな話でもなんでもない。

 現在の電力の供給自由化のスキームでは、新規発電事業者は顧客のところまで、地域独占の電力会社の配電網を借りることができるだけである。そして、これでは結局のところ、いろいろな難癖をつけて、発電事業のみの企業は十分に市場に参加することができないままに、価格は高止まりすることになる。

 今後は電柱の共有化や新たな電柱の速やかな許可によって、配電網をゼロから構築することすらも許すべきだ。また新規企業だけでなく、水道やガス会社などにも送電網を構築することを許し、実質的な競争を確保しなければならない。でなければ、ヤフーの会社説明によれば、つぶれることのない東京電力の電力会社の社員の平均給与は800万円である。そして、競争がない限り、この800万円は永久に高い電力料金に転嫁され続けるのである。

ガス料金

 電気料金と並んで、日本のガス料金もまた極めて割高なことで知られている。

 前述のOECDの調査報告から、2004年の家庭用ガス料金を単位熱量あたりで見てみよう。アメリカでは日本の約32%、イギリスは33%、フランスでは43%である。日本のガス料金は、西欧の3倍も高いのだ。

 また、経済産業省の「都市ガスなどの内外価格差について」というレポートを見れば、1999年の時点で、上記の国々に加えて韓国との価格差でも3、5倍になっていることがわかる。

 これもまた、私の生活感覚と符合している。アメリカではガス料金も低く、一般庶民が生活するために必要となる熱源も安く供給されているのである。なお、ここでも産業用ガス供給では、この差ははるかに小さなものになるが、それでも二倍に近い大きな開きが存在する。日本は、物価が安くて生活がしやすいという生活大国には程遠いのが現状なのだ。

 日本の住宅では部屋ごとの個別冷暖房が普通だが、欧米や韓国、中国ではセントラルヒーティングが一般的である。これにはより大きなエネルギー消費を必要とするため、あるいは原理主義的なエコロジストは反対するかもしれない。

 しかし、日本ではリビングだけを暖めるため、フロ場やトイレなどに入る際には大きな温度差があり、それが心臓に負荷をかけることになっている。このため、屋内移動による心筋梗塞によって先進国にしては多くの命が奪われているのである。

 これは欧米や韓国、中国で暮らした人であれば、誰でも感じていることである。日本ではガス料金が高すぎて、局所暖房が当然になってしまっている。しかし、これは世界の先進国の生活からは大きく劣ったものであり、特に体の弱ってくる高齢者には厳しい住居環境なのである。

 韓国から帰ってきた知人が、「韓国から東京に帰ってきたら、風邪を引いたよ。ソウルだと家の中じゃ、Tシャツで過ごせるからね。」といっていた。これは人間がゆったりと生きるという、もっとも大事なことが難しい日本の現状なのだ。

 この理由が、日本のガス会社が許可制であり、地域独占であるためだということは間違いない。前述の経産省「都市ガスの内外価格差」レポートには、ガス調達コストは日本でもイギリスでもほとんど同じであることが示されている。アメリカと比較して1、5倍程度、フランスの2倍程度である。

 ガス料金の内訳をみると、日本のガス料金の3分の2以上は、運営費や人件費などが占めている。つまりこれは、ガス会社の株主利益や従業員の給与、関連会社の利益などのことである。日本では、ガス会社が地域独占を許可されているため、非効率的であり、さらに高額な請求をしても顧客が逃げる道は、これまた地域独占の電気会社しかない。

 これは比較的に競争の存在する産業用のガス価格が、家庭用の半額以下であることにも明らかだろう。結局、建前はどうであれ、ガス会社の地域独占を許している日本国の政府は、低所得の庶民ではなく、ガス会社の利益を守っているのだ。

水道行政では

 日本の水道料金はどうなのだろうか。

 水道は市町村レベルでの水道局が運営しているため、水道料金は地域によって大きく異なっているが、全世帯の平均的な月間下水道料金はおよそ4000円程度だといわれている。日本人は水を比較的に多く使っている国民だが、支払っている水道料金も世界平均に比べると多いのだ。

 東京都の平均的な家庭用上下水道料金は、固定料金プラス1立方メートルあたりおよそ200円である。これに対して世界銀行による1999年の世界の物価調査によれば、アメリカの価格では1ドル120円換算で60円、カナダで49円である。OECD諸国の中では高いといわれるドイツでは217円、イギリス138円、フランス140円程度となる。

 日本の水道料金は当然に総じて高いことがわかるだろう。しかし、一般人の生活を優先するということで、日本の水使用料金は家庭用については安く設定されてもいる。東京都では、工場や病院などの大口の需要家の場合にはトンあたり700円の課金となっていますから、もともとの水の価格が高いのである。

 その説明としては、ダムなどの過去の先行投資を回収するために、水の料金が高くなるというのであるが、しかし、そもそも必要でもないダムを作ってからその投下費用を回収するという方式のために、水の料金設定が高くなっているのだ。この意味では、今後の人口減少社会で不必要だと批判されているダムを、今後も作り続けるという国土交通省の計画は実に摩訶不思議である。

 この点は保屋野初子による『水道がつぶれかかっている』に詳しく報告されている。そのなかの一つには、長良川河口堰の利用がとり上げられている。もはや利水の必要がないと主張する三重県に対して、河口堰の膨大な建設費用の負担を押し付ける水資源開発公団の実態が告発されているのだ。

 この点に関しては、猪瀬直樹もまた『日本国の研究』の中で生き生きと詳述している。長くなってしまうが、彼の素晴らしい文章を、まるまる引用させていただこう。

高秀秀信第五代総裁(86〜90年)は、三重県の対抗を意識してだろう、以下のように語っている。

「卑近な例として、バスの運行があります。団地の将来計画ははっきりしていますが、とりあえず百軒入ってきた。それでは五百軒になるまでは市営バスを走らせないかということです。何年もかかって団地が形成していくので、そのぶんはその企業会計ではなくて、政策路線としてのバス路線と考えて市が補うというか、私はそうすべきではないかと思います。」

 団地がずっと百軒のままなら、どうするのか。三重県の場合、当面、五百軒になる見通しがない、と悲鳴をあげていたのである。高秀発言には、財政負担に押しつぶされる自治体への配慮は感じられない。歴代の水資公団総裁による座談会は、気楽な内輪の会話だからよくホンネが出ている。「想定通り二十年なら二十年先に水需要が発生しなかったらこうしますということは、なかなかこっち側からいいにくい話です」と勝手なことを言っている。

 水資公団はスタート時の定員は六百名だったが、現在は二千名、事業費は二千億円(年間)の大所帯に膨らんでいる。二千億円は維持管理費であり、建設費用ではない。長良川河口堰の場合、水資公団は財政投融資からの借り入れで建設費を払う。いったん立て替えるだけで、すでに記したように治水分の四割は建設省が出す。残り六割は三重県と愛知県が負担する(約30%の補助金がつく)。三重県と愛知県は二十三年ローンで水資公団に返済する。水資公団は、自分の腹は痛まないから平気でこんなことがいえるのだ。

 高秀元総裁は、日本中を運河にしたいらしい。

中部地方などは豊川と矢作川と木曽川を結ぶべきではないかと思いますし、また、極論をいえば、木曽川水系と琵琶湖を結ぶとか、これは地方の実情、地域的なものがありますから、そう簡単なことではないと思いますが、これからは複数水系でどうやって安定化を図っていくかでしょう」

 水資公団の規模が大きくなればなるほど、受益者の事業費負担も増える。結果として長良川河口堰のような固定資産、施設が残る。その維持管理が水資公団の仕事である。施設がどんどん増えれば、公団の人員も増える。事業費も余計にもらえる。

ここには、天下り官僚の身勝手な組織拡大への欲求が、あからさまに表現されている。この現状に怒りを感じない人はまずいないだろう。

 また『水道がつぶれかかっている』では、神奈川の宮ケ瀬ダムに一兆円をかけて、水が3トンしか使われていないことも指摘されている。実際、こういった状況は日本ではなんら珍しいものではない。

 日本全国いたるところで、まったく不必要な水資源の確保のために財政投融資を通じて、郵便貯金が使われてきた。水道事業が公営であるために、水道価格に上乗せし放題のムダな支出が過大となっているのである。

 いまや必要でもない水資源を確保するという名目で、10兆円を超えるムダが累積赤字となっている。なお、現在は水資源機構と改称しているが、もちろん、これは単に看板をかけかえただけのものである。

 長良川河口堰は必要もないのに、反対運動を押し切ってつくられた。徳島県の吉野川の河口堰の反対運動にしても、岐阜県の徳山ダムの反対運動にしても、住民の反対を押し切って、政府は水を管理するための施設を建設しようとしている。

 それが地方の建設会社の利益になるからなのはいうまでもない。しかし、それもこれも、上下水道は独占的に地方時自体によって供給されているために、その建設費用を、最終的にはすべて消費者に転嫁できるからこそできることなのだ。

 現在、シンガポールや香港などの都市国家や、観光都市として大発展中のドバイやバーレーンなどの砂漠の都市では、海水をろ過して真水を作り出している。その費用は1トン当たり60円だが、東京都のダムからの取水価格は1トン当たり180円!なのだ。

 もっと詳しくみてみよう。現在もっとも低廉な海水の淡水化法は、日本の東レがつくった逆浸透膜を使ったもので、トンあたり0.707ドル、つまり85円である。興味のある方は、東レのホームページをご覧いただきたい。逆浸透膜というのは、海水に高い圧力をかけて、海水を塩分を通さない特殊な膜を通すことによって、脱塩するというものだ。

この浸透膜はカリブ海の小島であるトリニダード・トバゴで活躍しているということであるが、アラブ首長国連邦をはじめ、世界的に急速に利用されている方法である。これまで離島や砂漠では、真水をえることができなかったが、この方法は海水から真水を作り出せるためである。

 2007年6月1日の日本経済新聞の記事にも、東レの逆浸透膜では1トン60円で真水が作られること、この費用が過去10年に半減したこと、下水を浄水すれば、30円かかること、河川水の場合では25円であること、などが記されている。

 なお、発電所などからの廃熱で海水を温めることによって、この費用はトンあたり50円程度にまで下がるという。現行の方法でも価格差はすでにトンあたり120円にもなるが、この差は将来の科学技術の進歩によって、ますます大きくなっていくだろうことは明らかである。

 いつの日にか、1トン20円、あるいは10円で真水が作れるようになれば、もう少しマスコミも、あるいは多くの人びとも、日本の水道行政のもつ非効率を認識し始めるかもしれない。しかし残念ながら、それでも東京湾から10円で真水が作られることはないだろう。政治システムのゆがみのために、永遠に東京都民にはダムから取水した水が200円で供給され続ける制度が確立しているからである。

 フランスでは、水道会社は民間会社であり、今やひじょうに高い競争力を持っている。また、実際にドバイやパーレーンなどで水供給システムプラントを建設しているのは、伊藤忠や三菱商事などの日本の商社である。

 例えば、丸紅は3600億円をかけて、アラブ首長国連邦で発電と海水の淡水化事業のプラントを作っている。このプラントは巨大なもので、10施設もあれば、関東地方全体の発電と給水ができる規模のものである。

 いまや、こういったノウハウを利用して純然たる民営の水道会社ができるべきなのである。東京湾や大阪湾、伊勢湾の海水から真水を作り出したほうがはるかに安い水を供給できるのだ。東京の水はまずくて有名である。あるいは、民間会社のほうがおいしくて塩素臭の少ない水を供給するだろう。自由な競争がなければ、それが可能であるのかどうか、人びとがそれをどのくらい望んでいるのかもわからないのである。

 また、日本の水道業界はJIS規格に守られているため、上水道の水圧も低く、シャワーも快適には浴びられないような有様である。電線と同じように、複数の水圧の上水道網でさえも、存在理由があるだろう。

 中国ではヨーロッパの水道会社にインフラの整備をまかせている。例えば、四川省の成都では、フランスビベンディと丸紅の合弁会社が上下水道事業をおこなっている。そもそも水道事業が、市町村という非効率的な区分けに従った公営事業である必要性など、効率性を考えればどこにもない。

 もろろん、過去のダム建設行政のツケは償却するという形で認めざるを得ない。しかしそれはそれとして認めるべきであり、今後もダムを作り続け、自然を破壊し続けながら、我われの社会をより貧しくしてゆく必要などどこにもない。

 現在のドバイは海水の真水化技術の低廉化によって、800メートルを超える世界最高のビルに象徴されるように、中東経済の中心都市としての大発展を遂げつつある。各国の中でも降雨量の多い日本の水道料金が、砂漠の真ん中に位置する高層都市のドバイよりも、あるいは島国のトリニダード・トバゴよりも高いというのは奇妙だ。

これはつまり、建設会社と水道局などの役所の利権優先で走ってきた日本社会の持つ、にわかには信じがたいバカげた矛盾の発露なのだ。

光熱水費を総合すると

 さて2000年の総務省の家計調査年報によれば、1世帯平均の電力料金は9555円、ガス料金は都市ガスとプロパンガスを含んでの平均で5920円、上下水道料金は6002円である。これらを合計してみると、月に2万1477円で、年間25万7724円になる。

 これが仮に半額であれば、たいへんに生活がしやすいのではないだろうか。家計の所得が下がれば下がるほど、光熱水費の支出割合は増えるはずである。後述するように農業保護もやめて、食費も含めて半額で生きることができれば、マクドナルドで働く月収10万円台のフリーターにとっても、日本ははるかに暮らしやすい国になるだろう。

 年金生活者や生活保護の受給者にとっては、光熱水費と食料が半額であるというのは、生活のクオリティがまったく違ってくるほどであろう。実際、アメリカでは日本と同じ所得が得られるのであれば、たいへん優雅に生きることができる。ほとんどすべての生活必需品の価格が半額以下だからである。

 私がカリフォルニアにいたころ、日本の大学から一年のサバティカル(学術休暇)をもらって、サン・ディエゴに研究のために家族で滞在していた方と知り合った。私は、そのお宅に高校生の子どもの家庭教師として、週に一度ずつうかがっていた。

 そこで、その方の奥さんの言葉が印象に残った。「日本では、生活するための費用がすごく高かったけど、ここでは3分の1ぐらいですね。ほんとうに助かるし、生活がゆったりとしていてすみやすいところだわ」としきりにおっしゃっていたのである。

 私は、大学院生であり、限界的に貧しい生活をしていたので、そのことに気づかなかったが、たしかにアメリカの生活に文句をいう日本人はほとんどいなかったと思う。もちろん、アメリカ人の日本人やアジア人に対する待遇に文句をいっている人や、犯罪の危険性について危惧しているはいたが、物質的な生活が豊かであることは誰にも否定できない事実であった。

 上述の、電気、ガス、水道のどれをとっても、まったく異なった供給者が行っている。ある特定分野では、日本のほうが、アメリカイギリスよりも、あるいは少なくとも旧大陸にあるフランスよりも安いものもあっていいはずだ。しかし、現実にはそうはなっていない。

 この原因が詳細にどこにあるのかは、私のような素人には簡単に診断できることではない。しかし、すべての活動を完全に民営化して、競争にさらすことが必要であることだけは間違いないだろう。

 NTTと第二電電などによる通信料金の高止まりを打ち破ったのは、ヤフーを日本に導入して既得権益を完全に否定した孫正義であった。彼はそれまでの通信会社のおよそ半額でADSLサービスを提供することによって、今ではソフトバンクモバイルまでを買収によって獲得し、巨大な通信企業集団を作り上げたのである。

 日本でも、フランスの水会社のビベンディイギリスのデムズ・ウォーターのような外資企業が、東京に新しい水道網を作り直す必要があるだろう。あるいは、新しいガス管をゼロベースから引きなおして、異なった熱量のガスを供給する企業が必要なのだ。

それくらいのことを許さなければ、永遠にダムは作られ続け、自然は破壊され、その建設費用は水道料金の上昇に転嫁され続けられるだろう。そして時給で生きなければならない庶民の生活は、独占を許された公営企業に搾取され続けて永遠に苦しいままだろう。

3、異常な地価

 前章では、日本の基礎的な生活費の高さについて考えてみた。日本の政策は、庶民の生活を豊かするというよりは、電力会社、ガス会社、あるいはダム建設を営んでいる人びとを保護しようとするものであった。

 そしてそれは、残念なことに、政治活動が理想的ではありえず、現実の交渉プロセスに依存して場当たり的に決められてしまうことの、いわば必然的な帰結なのである。この章では、日本の物価を押しなべて高いものとしているなかでも、よく知られている宅地の価格について考えてみよう。

そもそも日本の土地はなぜ高いのか

 2007年現在、景気の上昇基調を受けて、大都市圏では地価の上昇が起こっている。財務省の発表では、東京都区部の住宅地の1平方メートルあたりの平均価格は51万7500円、多摩全域平均では20万6200円である。もはや23区に新築住宅を構えることは、セレブでなくてはできないことは明らかだ。まず、多摩地区などに代表される東京近郊で住宅を購入する一般人について考えてみよう。

 建物として、4人の家族が暮らすための小さな100平方メートルの3LDKを考える。100平方メートルの家のために、建築規制を考えると、100平方メートルの土地が必要だとして、すでに2000万円を超えることになる。

 一人のサラリーマンの生涯所得は2億から3億といわれるため、この土地を買うだけで10%、建物が2000万だとすれば、20%の生涯所得が持ち家のために使われることになる。30年を超えるようなローンを支払うことを考えれば、この住居費の購入負担はおそらく30%から最大では40%になるかもしれない。

 実際、これが東京のような大都市に住む多くのサラリーマンの現状である。大阪はややましで、名古屋はさらにましだろうが、平均賃金も低いので、負担感としては同じようなものだろう。読者の周りにも、このようにして組んだローンの返済にあえいでいる方がいないだろうか。

 さて、国際的に比較してみよう。日本不動産鑑定士協会による世界地価等調査の結果を見ると、ニューヨーク郊外の住宅地と比較すると、東京の住宅地は、バブル期には100倍、現在でも50倍近くである。地価が高い都市だといわれるロンドンに比べても10倍になっている。

 実際、アメリカ人の常識感覚からすると、土地自体には価値などなくて、不動産というのは建物の価値を意味する。これに対して、日本の常識では、土地そのものが価値であり、住宅などの建物には価値がまったくないというものである。実際に、日本では建物のついていない更地のほうが、高い値段で取引されてきたのだ。

 このような状況に対して、日本はそもそも人口密度が高い国だから仕方がない、あるいは、日本は狭い国だから土地が高いのは当然だ、という意見がある。私も子どものころは、この手の説明を信じていたが、これはしかし、たちの悪い都市伝説である。

 なぜなら、商業地の価格やオフィスの賃貸料金を見ると、ニューヨークロンドンと東京でも2倍というほどの違いはなく、上海や香港、シンガポールなどのアジアの都市では東京よりも高いほどだからである。

 明らかに住宅地に限っての、異常なまでに高い土地価格には日本独自の制度的な理由があるのだ。このことについて、特に以下に述べる借地借家法の問題などについては、学習院大学岩田規久男をはじめとして、多くの経済学者が研究を続けてきた。

 経済学会内では、以下の指摘のほとんどが同意されているが、法学者その他の多くの人たちは無視し続けてきた。その当否について、ここで読者に判断していただきたい。

借地・借家法

 日本の地価の研究では、今では経済学者というよりも、『超整理法』をはじめとする『超○○法』の著者として有名となっている野口悠紀雄がいる。彼は1995年の『土地問題の強者と弱者』において、日本の住宅地価格が高止まりしているのは、借地・借家法の硬直的な運用と、相続税が土地に関してひじょうに低いためだと指摘する。

 ここでまず、借地・借家法の運用の問題について、簡単に説明しよう。

 日本が戦争に負けて東京が焼け野原になった後、地主から土地を借りてすんでいた借地者は社会的な弱者といえる存在であった。そのため、土地所有権者からの立ち退き要求がなされれば、路頭に迷ってしまうということで裁判所が極端に保護したのである。

 この点は民法の教科書では定番の話なので、法律に詳しい人はよく知っていることだろう。すでに日本民法の一部となっている借地・借家法では、所有者は「正当の事由」があれば、借地人に対して立ち退きを要求できることになっている。

 しかし、戦後の借地権者の保護政策から、この「正当事由」はきわめて限定的に解釈されるようになっていった。結局は、所有者が自ら住むという場合でさえも、正当事由には含まれないと判示するに至るのである。

 さらに戦後のインフレが進む中では、借地料に関しての訴訟事件も頻発することになった。ここでも、借地料についての判決はインフレが進む以前の賃貸料を基本的に維持する方向であったため、賃貸料金は、新規契約相場に比べてひじょうに低い水準にとどまってしまった。

 このような裁判は、確かに訴訟当事者に対する判決としては妥当だったのかもしれない。しかし、その経済的な代償は大きなものとなった。

 いかなる理由があっても借地契約を解除できず、その賃料がインフレによって相場の10分の1だとしよう。所有者の立場からすれば、これでは所有権はほとんど意味のないものになる。

 結果として、借地契約は新規には結ばれなくなった。借地契約は解除できず、しかも賃料も固定されてしまうのだ。そんな不利益な契約にサインするような土地所有者は、どこにもいないからである。

 反面、過去に借地契約を結んで借地人となった人たちは、その土地の実質的な支配権を手に入れるということになる。現在の土地取引の実務では、この借地権の価値は、地価の7割から8割を占めるということになっているのである。

固定資産税も相続税も

 地価が高いということは、それにかかってくる固定資産税が高いことを意味しているとしよう。これがもし仮に本当であれば、おそらく今ほどには宅地の価格は上がらなかっただろう。

 このことは逆説的なのだが、間違いないのである。固定資産税がひじょうに高ければ、昔から一等地に住んでいるが、所得に低い人たちにとっては、都心の宅地つき一戸建て住宅に住むことは、固定資産税負担から難しくなるからである。

 この場合、資産税を払いきれない低所得の居住者は、土地を処分して郊外に引っ越していくか、マンションに移住せざるを得ないだろう。結果として、都心の宅地は常に大量に供給され、需給バランスの関係から価格は低下するはずである。

 もちろん、こういった制度を採れば、地価は下がるだろうが、低所得の人びとは、都心の住宅を手放さざるをえないわけである。一見しては弱者イジメになるため、どの政党も固定資産税を上げようなどとはいわないのである。

 都心の宅地は、渋谷区などでは、すでに1平方メートルあたり200万近い価格になっている。例えば、これが1平方メートル150万円であるとしても、200平方メートルの土地の一戸建て住宅に住んでいる場合、すでに3億円の土地の上に住んでいることになる。

 これは大変な額である。大学卒のサラリーマンの平均的な生涯賃金が3億円に届かないわけだから、この土地に住むというのはとんでもない贅沢といえるのである。しかし、その固定資産税額はいくらなのだろうか。

 固定資産税は地方税である。固定資産税の評価額は実勢価格の8割になるため、三億円の土地では2億4千万円が課税額となる。税法上の本則では、その1.4%が固定資産税であるため、本来の固定資産税は336万円にもなる。建物にも一応固定資産税がかかるため、おそらくは約350万円の税負担になるわけである。

 これは、通常のサラリーマンには到底支払えない額だろう。したがって、この原則を貫けば、都心の宅地からは急速に通常のサラリーマンがいなくなり、当然に低所得者の高齢者もいなくなってゆくはずである。

 それに代わって、金持ちが引っ越してくることになるのだろうが、年間350万円の税金を払える人はそんなにはいないだろう。ということは、固定資産税が本則どおりに適応されれば、都心の宅地地価は、現在の価格よりも低い価格で取引されざるを得ないことになる。

 しかし、現実には、都心の宅地は200平方メートル3億円以上で取引されている。その理由は、固定資産税額が低すぎるために、土地を売ろうとする人が少なく、結果的に供給量が少ないからだ。供給量が少ないのに、東京には1億以上の年収を上げる人びとはゴロゴロといる。

 彼らは、土地の値段が3億円でも別にかまわないだろう。年に1億円以上を稼げるのであれば、3億円の土地を買うことに別に問題はない。これが、都心の宅地の新しい住人達は、すべて会社の社長であるか、あるいは芸能人などのセレブである理由なのである。

 では実際には、都心に住んでいる高齢者はいくらの固定資産税を支払っているのだろうか。本来の固定資産税は336万円だが、200平方メートル以下の小規模宅地については、その6分の1に課税額が減免されている。とすれば、56万円の固定資産税を支払っているということになるのである。

 もちろん、これはこれで少なくはない金額かもしれない。しかし3億円の土地に住むことに対しての税金だと考えるなら、いかにも小額だといわざるを得ない。56万円を年金から支出することは、多くの年金生活者にとってもそれほど難しいことではないだろう。

 こうして、都心の宅地には3億、4億の土地に住みながら、年収が年金の3百万円程度だけであるという「社会的弱者」が大量に暮らしているわけである。もちろん、彼らはその固定資産税が高すぎることに不満を感じており、政治家に「安心して暮らすこともできない」と発言することになるというわけなのである。

 次に、土地に対する相続税の実質税率もまた、同じようにひじょうに低いことを見てみよう。

 前述の野口悠紀雄の論文では、重要な指摘がなされている。首都圏で相続によって取得された土地つき一戸建ての場合、その住宅面積に関しては全住宅平均とはそれほどの差はないが、敷地面積は平均して280平方メートルであり、これは平均値の150平方メートルに比べておよそ2倍にもなっているのである。

 これは都心部でも同じで、23区内においても187平方メートルと平均値よりも50−60平方メートル大きくなっている。これは都心部にある住宅を相続した場合に、それなりの庭が付いているのだろう。

 では、例えば平方メートルあたり150万円の地価の土地を200平方メートル、つまり3億円相当を相続したとしよう。山手線の内側に200平方メートルの一戸建ては、すでに十分に立派な住まいである。ここで「富者には厳しい」はずの福祉国家で、相続税による是正は行われないのだろうか。

 土地に対する相続税は最高税率が70%ということになっているため、元首相であった田中角栄の邸宅の目白御殿などのように、都心部にある広大な敷地を相続する場合には、たしかにこれに近い税率がかかることもあるだろう。

 しかし、まずは評価額の制度によって、公示額の8割が課税額(路線価格)とされる。そして重要なのは、相続税法では、200平方メートルまでは「小規模宅地」であると認定されことだ。これよりも小さな宅地については、その課税額が20%になるのである。つまりは、3億円の公示額の16%である4800万円が課税額となってしまうのだ。

 ここから子ども1人が相続人であれば、5000万円の基礎控除プラス1000万円の6000万円が控除額となり、めでたく相続税はゼロになる。かくして東京に生まれた人は相続によってそれなりの生活、あるいは不労所得が約束されることになっているのである。

 なお前述したように、借地法の問題点が経済学者によって、長年の間あまりにもはっきりと指摘され続けたために、1992年には定期借地権が新設されることになった。これは、新たな借地契約には、50年を期限として、それ以降は所有者が契約を更新しないという契約を結ぶことを認めたという法律である。

 これを受けて、現在では定期借地権つき一戸建て住宅もまた、郊外の戸建希望のサラリーマンにとっては、住宅取得の新たなオプションとなってきたようである。しかし、そもそも50年は解除できないような契約を望む土地所有者は多くはない。土地の供給はかなりの郊外に、それも限られた量しかないのが現状である。

 しかし、この法律の一番の問題点は、過去に始まった借地契約に対しては有効ではないことである。よって、かつて締結された借地契約には効力が及ばず、新法以前の借地契約者は、土地の所有権価格の7割を持ち続けているのだ。

 東京都心部の住宅地の低度利用は、山手線を一周する間にも一目瞭然だ。本当に多くの低層住宅が存在することに、あまりにも明らかに現れているからである。これに対して、例えば、パリでは街区のすべてが高層のアパートであり、一戸建ては存在しない。これは150年前にナポレオン三世が多くの住人を無理やりに移住させて大改革を行ったからである。しかし、よく考えると、都心部に庭付きの2階建てなどという贅沢は、そもそも弱者保護という名に値しないことに異論をさしはさむ人がいるのだろうか。

 東京の都心部には相変わらずに保護され続ける一戸建てが存在し、過去からの住居権を優遇税制で保護されている。その一方で、ここ30年間の間に新たに都心部に移り住んだサラリーマンは、片道1時間半もの通勤時間を満員電車に揺られて会社に通い、その所得の3割もが住宅ローンの支払いに振り向けられているのである。

誰が被害者なのか

 さて、日本の住宅地の価格が高いことから被害を受けているのは誰だろうか。それは、東京などの都市に地方から移り住んだ人たちであり、典型的には、地方に生まれて東京の大学に進学して、そのまま東京で働き続けるサラリーマンだといえるだろう。

 もともと東京に生まれた人は、その親の世代以前から住居を持っているため、平均的にいえば、大きく得をしていることになるのである。東京