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旅行人編集長のーと このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-04-24

[]地図のこと 23:14 地図のことを含むブックマーク 地図のことのブックマークコメント

 長い間しまいっぱなしだった古い資料や地図などを処分している。旅行人でガイドブックなどを制作するための地図ではなく、僕の、取材や個人的な旅に使った地図なのだが、それでも長年のあいだに箱いっぱいどころか、書棚やファイルのあちこちにさまざまな地図が保存してあり、ほとんど未整理にままなので、結局のところ、こういう古い地図が再度役に立つということはほとんどなかった。

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 さて、その地図の箱を開けたら、初めてインドを長く旅したときに使った地図が出てきた。そこにはおよそ1年半の旅のあいだにたどったルートが描かれていた。気分次第で目的地を決めていたので、ルートは脈略がなく無駄が多い。旅行人を始めてからは期間はほぼ1カ月で、それも取材だったので、こんな無駄なルートでまわったりはしなかった。昔は一ヵ所にいたいだけいられたから、本当に旅はほぼ無駄なことばかりだった。それが楽しかったのだけど。

※地図の画像はかなり大きく拡大して見られます。

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 その次の地図は、1984年、初めて中国を旅したときのもの。この地図は中国で買った。3カ月の割に移動距離が長い。この時代は旅行者が入れる地域がまだ限られていて、行けるところはめいっぱいまわろうとした(が、力尽きた)。

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 当然といえば当然だが、旅をするまでは地図などほとんど興味もなく、実際に使ったこともなかった。せいぜい町の地図で初めての仕事先に行くぐらいだったが、旅に出ると、いやおうなく地図をにらむ時間が多くなる。

 インドで使った地図は、たしか日本から持参したものだが、幹線道路や支線などのちがい、あるいは町のおおよその規模がわかる程度だった。地図とはそういうものだろうと、このときの僕は考えていたのだが、その認識が大きく変わったのは、アフリカへ行ってミシュランの地図を使い始めたときのことだ。

 今の日本人の多くは、ミシュランといえばレストランガイドがピンとくるだろうが、僕はこのとき(1990年)タイヤメーカーのミシュランしか知らなかった。タイヤメーカーのミシュランが地図なんか作っているのかと意外な気がしたものだ。

 だが、そもそもはタイヤを売るために、自動車にもっと乗って欲しくて、レストランガイドや地図を製作したものらしい。それだったらたしかにつじつまが合う。

 それで、そのミシュランの地図を見るとガイドブックのような情報がそこに載っているのだ。道路は舗装路、未舗装路、建設中、風景のいい場所、雨季になると通れない場所まで記載されている。ホテルやレストランがある町かもわかるし、キャンプ場も載っている。地図1枚でこれほどいろいろなことがわかるのかと驚いたものだった。

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 もっともそれは、情報が少ないアフリカの旅だったせいだろう。アフリカでなければキャンプ場の場所など必要ないし、町にはホテルやレストランなどあるのが当たり前だからだ。インドでこんな情報をいちいち記載していたら、地図はホテルとレストラン情報で埋め尽くされてしまう。しかし、アフリカの旅でミシュランの地図ほど頼りになるものはなかった。

 そのような思い出の詰まった地図もろもろを、このたび一気に廃棄してしまうことにした。捨ててしまうと記憶からも消えてしまうだろうが、持っていても再び見ることはないだろう。使うのなら新しい地図の方がいいし、今やスマートフォンタブレットに出てくる地図を見ると、GPSによって現在位置がわかるのだから、もうそろそろ紙の地図の時代も終わりだろう。

 それでも紙の地図を広げて、ぼんやり眺めるのは楽しいものだが、僕としては、地図をぼんやり眺められるような旅をまたしなくちゃなと思う。まあ、また紙の地図を現地で買うことになるんだろうが。

前川健一前川健一 2016/04/25 01:27  どこの図書館でも、ガイドブックと地図は消耗品として、しばらく保管して、その後廃棄処分になるので、昔のことを調べたくなっても資料はありません。私の場合、タイの地図は捨てないだけでなく、古いのも買い集めています。バンコクの地図なら、1928年のものから持っています。こうしておけば、「ああ、ここは、昔は道路はまだなく、運河だったのか」などという街の変化がわかります。定点観察者は、こうして資料が増えていくのです。私はガイドブックライターではないので、最新の地図はむしろあまり用はないのです。

蔵前仁一蔵前仁一 2016/04/25 09:10  そうですよねえ。私もそういう意味でいつか役に立つかなと考えていましたが、どうもそういうことはやりそうもなく、そういった古い資料で場所を取るので往生しています。旅に使うには新しいものの方がいいので、このさい処分することにしました。近ごろはものの多さにうんざりしてます。

2016-02-15

[]僕の高校時代──1971〜1975(13/完)サクラ咲く 15:20 僕の高校時代──1971〜1975(13/完)サクラ咲くを含むブックマーク 僕の高校時代──1971〜1975(13/完)サクラ咲くのブックマークコメント

 神に祈りは通じた。

 待ちに待った合格通知が郵便で届いたのである。

 父や兄からは、補欠に入ったのなら、まず間違いなく合格だろうといわれていたが、世の中何が起きるかわからない。不安におののきながら合格通知を待っていたのだが、本当に届いたときは、うれしいというより、どっと安心した。終わりかけた世界がいきなり復活して花が咲き乱れた気分である。

 もちろん補欠で十分である。入ってしまえば同じことだ。最低の準備で最小の勝利を得るという最大効率の受験作戦が奏効したわけだが、この作戦がこれほど心理的につらいものだということは計算外であった。

 こうやってあとでふりかえると、教師も僕も無理だと考えていたのが、結局のところ父の思惑通りになってしまったわけだ。父よ、あなたは正しかった。だが、僕は本当に苦労した。その父も、息子どもをさんざん困らせて18年前に他界した。

 これで僕の長い長い、とてつもなく長かった受験生活は、すべて完壁に終了した。3カ月間の受験生活という意味ではない。僕の受験生活は、高校受験から、いや中学受験から始まっていたといってもよい。もう二度とごめんだ。金輪際、死んでも繰り返す気はない。勉強もしない。正確には、進級するための最低限の戦略的勉強はするが、それ以上の勉強はしない。僕はそう決めていた。

 というわけで、その後の人生では、避けられるテストは極力避けて生きてきた。おかげで自動車の免許でさえ40代半ばになるまで取得しなかったほどである。ろくに就職試験を受けなかったのも、このときのトラウマのせいかもしれない。

 だいたい有名私立である慶応だったら、法学部だろうが経済学部だろうがどこでもかまいませんという態度で受験しているのだから、実は初めからまじめに勉強する気などないのだ。江川入学させたほうが、大学の将来のためにはよほど正しい選択だったかもしれない。

 いや、僕だけではない。当時の世の多くの受験生が、何を学びたいかではなく、いかに有名大学に入学できるかに腐心しているのが実情だったのだから、質の悪い大学生が多くなるのも当然である。

  そもそも就職試験もろくに受けないのだから、それじゃいったい何のために苦労して有名大学に入ったのだということになる(そんなアホは漫研友人以外にあまり知らないが)。

 だが、そんなことはもうどうでもいい。こんなのを入学させるもさせないも大学の勝手だ。だからこそ僕は入学できたのだ。法学部という学部に学究の徒としての夢や希望を抱いて入ったわけではなく、もちろん司法試験を受けて弁護士になろうとか、裁判官になろうとか考えていたわけではさらにない。鹿児島から脱出するためには、大学へ入学することが、自分の取りうる唯一の現実的な手段だった。

 そして、誰からも干渉されない自由を手に入れることが、僕には何よりも必要だったのだ。ようやくその自由を手に入れた。これからは心おきなく、自分で選び取ったことだけをやっていける。ようやく自分自身の人生が始まるのだ。そう思うと、うれしさで心が爆発しそうだった。

 余談だが、僕の出身高校は九州大学への合格率が非常に高い高校として知られていた。だが、九州大学でわが高校の評判はあまりよくなかったという。なぜなら、わが高から九州大学入学した学生は、異常に落第率が高かったのだそうだ。きびしい高校生活から解放され、大学に入るとぜんぜん勉強しなくなっちゃうんですね。だからぼろぼろと落第した。もちろん僕もぜんぜん勉強しない極めつけのアホ学生だった。

 大学に入ると、すぐに漫研に入部した。

 そこで先輩が僕にこういった。

蔵前、いいか。試験はな、1つのAより3つのCだ」

 つまり最優秀成績Aを獲得するヒマがあったら、及第点すれすれのCを数多く獲得して、漫画を描けということである。これが漫研の格言だそうだ。なんて素敵なクラブなんだろう。

 先輩は、ノートがある課目、簡単にCが取れる課目、卒業論文なしでも単位をくれるゼミなど、さまざまな知恵を僕に授けてくれ、ますますアホ学生への道を突き進んでいったのだった。おかげで大学はなんとか4年と1カ月で卒業した。

 親に多額の金を仕送りしてもらって、贅沢な学生生活を満喫できたのだから、感謝こそすれ恨む筋合いではない。

 しかし、休みに実家に帰るたびに父と口喧嘩し、苦労して東京の大学まで出してやっているのに、まったくおまえはなんでそう反抗ばかりするかと父からはいつもいわれたが、そこに行けといったのは父ちゃん、あんただと反論した。

 僕がやるべきことを、父はつねに独断で決めてきた。たぶんこれは僕の父だけでなく、この時代の父親というのは多かれ少なかれそのようなものだったろう。だから反抗期の波は強烈に高くなる。

 さて、長い話もいよいよこれでおしまいである。最後に、20代終わり頃に起きた奇妙な夢の話をして終わりにする。

 実は、僕は高校卒業後も、しばしば高校生活の悪夢に悩まされていた。自分では楽天的な人間だと思っているし、特に悩みがあるわけでもないのに、ときどき高校の授業やテストが夢に出てきて、みじめな点数しか取れずに教師にきびしく叱責されるという夢を見るのだ。もうサイテーという気分で目覚めたものだった。それが高校卒業後、何年も続いた。

 それがいつだったかよくはおぼえていないのだが、ある夢でまた高校の授業が出てきた。僕の最も苦手だった教師が、理不尽なことで僕を叱責していた。

 いつもであれば、絶望的な気分のまま夢が覚めることになるのだが、その夢で僕は初めてその教師に反論した。

 先生のいっていることはおかしい、納得できません。

 教師は「何を生意気なことを」とさらに怒る。

 僕は、「うるさい!」と教師にいって教室を出て行ったのである。

 そして目が覚めた。

 それ以来、二度と高校時代の悪夢に悩まされることはなくなった。

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 最後までお読みいただきありがとうございました。初めにも書いたが、この話はある雑誌のエッセイ用に書いたもので、ボツになって眠っていた原稿です。それに若干加筆して掲載しました。

 この話の続編にあたるのが、『あの日、僕は旅に出た』(幻冬舎)です。こちらもぜひお読みいただければ幸いです。

あの日、僕は旅に出た

あの日、僕は旅に出た

小川小川 2016/04/17 20:32 「僕の高校時代」非常に楽しませていただきました、ありがとうございます。
私は1954年生まれで北海道の田舎から大学進学(浪人を含め)で上京した口で、当時の思い出が蘇って「爆読」してしまった次第です。高校進学で下宿したことまで一緒で、自分のことではないかと思うくらいでした。「ボツ」になったとのことですが、今後是非出版していただきたいと思います。

2016-02-14

[]僕の高校時代──1971〜1975(12)2度目の入試開始 16:59 僕の高校時代──1971〜1975(12)2度目の入試開始を含むブックマーク 僕の高校時代──1971〜1975(12)2度目の入試開始のブックマークコメント

 いよいよ入試がスタートした。てはじめに受けたのが四谷にある上智大学である。ここの試験問題はまったく研究していない。試験場の雰囲気に慣れるのが第一の目的だったから、とにかく試験を受けてみることが大切だった。

 しかし、出てきた英語の問題用紙を見て肝をつぶした。新聞紙大の紙に何ページにもわたって問題が並べられていたのである。長い英語の文章が何問も印刷されているのを見て、すぐに敗北を悟った。こんな問題を解ける実力が自分にないのは先刻承知である。長文の英語読解にはヤマも何もない。お手上げだ。

 しょうがないから訓練のためにやさしい問題だけをやろうと思い、それを選んでいるうちに時間が終わってしまった。

 翌日に臨んだ世界史のテストにはもっと愕然とした。出題されたのは中国史のうち殷についてだった。僕の学習した参考書では、殷とは伝説の王朝ということになっていて、ほんの数行しか触れられていなかったのだ。問題を見ると、殷について様々なことが明らかになっているらしい。僕が勉強をさぼっている間にも学問の進歩が続いてたことがわかって有意義であったが、もちろん結果は不合格。それでも雪の降りしきる中、一応合格発表だけは見にいったのがけなげというか未練であった。

 次に受けたのが、池袋にあるツタのからまる立教大学。ここは高校時代の偏差値では合格圏内にあったのだが、もちろんそんなことは今や何の参考にもならない。要するにヤマの中から出題されるかどうかの勝負であったが、ここも見事にはずれた。不合格。

 この大学に落ちたときは、ちょっとショックだった。自分の学力が、高校時代よりもさらに落ちているのではないかという不安感にさいなまされた。

 しかし、めげてはいられない。入学試験は次々にやってくる。次は青山学院大学だ。本音をいうと、僕自身の学力から見て現実的な志望校はここの国文科だった。合格の可能性が最も高いということと、当時、僕が愛読していたある文芸評論家がここで教鞭を執っていたのだ。

 しかし、国文科などという学部に進学することを父が許す可能性はほとんどなかったので、この大学は父に内緒で勝手に申請したのだった。したがって、これまでの大学はともかく、ここだけは絶対に合格したかった。

 試験の感触はまずまずだった。合格できるかもしれないと手応えを感じながら試験場を出たら、他の受験生の話す声が聞こえた。

「ねえねえ、「武蔵野』ってさあ、誰が書いたんだっけ? あたしわかんなかった」

「ばかだな。島崎藤村だよ」

 この会話を聞いて自信が確信に変わったといってよいであろう。

 もちろん結果は合格であった。

 とりあえず一校の合格をとりつけたことで、鹿児島に帰らずにすむことと、来年も受験勉強をしなくてすむことに僕は一安心したが、国文科では父が学費を出してくれる保証はない。本命はこれから挑む慶応大学早稲田大学である。

 まず慶応大学法学部(政治学科)の試験があるが、ここが本命中の本命。この学部にうからないと慶応入学はほぼ無理なのである。3カ月の勉強もこの学部試験の研究と対策のためだけにあったといっても過言ではない(興味もないのに、面接に備えて福沢諭吉の『福翁自伝』まで読んだが、これは意外にもおもしろかった)。

 私立大学入試では数学が苦手で選択しない受験生が多いが、実は、僕の3カ月にわたる研究の結果、ここの数学はアホみたいに簡単であることが解明されていた。気まぐれに過去数年の数学の問題をやってみたら、なんと高校1年生でも簡単に解けそうな問題ばかりが出題されていたのだ。

 それに比べると他の選択科目は難易度がはるかに高い。いくら数学が苦手だといっても、これは数学を取らないと損である。要はそのことに何人の受験生が気がつくかだ。普通は気がつきそうなものだが、それはやってみなければわからない。数学と聞いただけで気が遠くなって、高校3年になると数学を受験課目からはずし、まったく勉強しなくなる私大受験生が多いのだ。そういう人は当然過去の試験問題も見ていないはずだ。

 さて、本番の試験日がやってきた。こちとら去年もここにやってきてるから場所にも戸惑いはない。トイレの位置もわかっている。まったくベテランの強みである。学力の問題ではない。受験とは運と作戦の問題なのだ。

 さあ、数学の問題が配られた。

 問題を見たとたん、私めは、やった! と思いましたね。慶応大学法学部数学問題作成委員会は、ここ数年の傾向を違えることなく、今年もきちんと超やさしい問題をおつくり下さったのである。世界史および日本史および地理選択の受験生よ、去れ!

 慶応の試験が終わると、僕はなんだか気が抜けてしまった。数学は予想的中でほとんど満点だったと自己採点できたが、それは数学受験者のほとんど全員が同じだろう。問題は得点配分の多い英語の出来不出来にかかっていたが、これができたようなできなかったような、いまいち自分でも判然としないのだ。自己採点しようにも問題の数が多すぎて、自分の答えを全部覚えていない。まあまあではないかというのが自己分析の結果であるが、どうも中途半端。受かったという確信があれば、もう早稲田の試験を受けたくはないし、ダメだと思うのならもう一度気合いを入れ直さなければならない。

 どっちつかずで、いまひとつ気合いが入らないまま早稲田大法学部の試験に挑んだが、これがぜんぜんうまくいかなかった。早稲田の問題は出題数も多いうえに難問やら奇問が多すぎた。世界史などは特にそうで、ヨーロッパの、ある歴史に重要なかかわりを持つ川の名前を答えよ、というのならわかるが、その川の東にある川の名前は何か? という問題には頭を抱えた。こっちはカルトクイズをやってんじゃないんだ!(などと書いたが、これはあくまで僕が受けた当時の印象にすぎず、正確にはこういう問題が出たわけではない)

 まだ早稲田教育学部の試験が残っていたが、この時点で僕はすでに7学部を受験しており、へとへとになっていた。もう試験を受けるのが嫌になり、結局さぼってしまったのである。

 さあ、これで本命の慶応法学部がうかっていなかったら大騒ぎである。何してんだ鹿児島に帰ってこいといわれる可能性が高い。そうなったら家出じゃ! と覚悟を決めて合格発表を見にいった。

 これほど緊張した合格発表はない。まさしく人生の岐路といっても過言ではない。頼むから僕の番号よ、合格者リストにあってくれ!

 合格者リストを見た。

 ない……、僕の受験番号がない……。

 本当か? 本当にないのか? 僕は泣きたい気持ちで、一度といわず二度も三度もリストを凝視し、自分の受験番号もさらに確認したが、やはり…………ない。ないものはないのであった。

 がっくり、なんてものではない。世界のすべてが終わったに等しかった。頭の中は真っ白である。

 どうしたらいい。

 そのとき、合格者発表の横に、さらにリストが続いているのが見えた。

 そうだ。まだ補欠リストがある。急いでそのリストを目で追っていくと……、

 あ、あった!

 さっき何度も確認した僕の受験番号が、確かにそのリストに載っている。

 ああ、あったあった。補欠なのか、僕は。

 補欠ということは欠員があったら補うという意味だよな。いったい欠員とは何人出るものなのだろうか。自分のところまでまわってくるのか。こうなったら、慶応法学部すべり止めにしているような優秀な正式合格者が、第一希望の大学にうかってくれることを神仏に祈るしかない。自分の合格のために、他人の合格を祈願することになろうとは夢にも思わなかった。そして、補欠でも何でもかまわないから、どうか入学できますように。

前川健一前川健一 2016/02/15 01:30  もしも、父親が「どこの大学でもいい。大学に行かなくてもいい」というように、息子の進路に関して完全に自由だったとしたら、霧島の少年はどういう進路を選んだと思います?

蔵前仁一蔵前仁一 2016/02/15 15:31  鹿児島以外の、もっと楽に入れる大学に行ってたと思います。

2016-02-13

[]僕の高校時代──1971〜1975(11)花の浪人生活 16:25 僕の高校時代──1971〜1975(11)花の浪人生活を含むブックマーク 僕の高校時代──1971〜1975(11)花の浪人生活のブックマークコメント

 東京である。

 ついに上京した。

 もう高校に行かなくてもいい。親から遠く離れられたとたん幸福感が僕の全身を包んだ。あまりにも幸福だったせいで、肝心の予備校に行くのさえ忘れてしまったほどだ。入学手続きだけはしたものの、最初の1カ月だけ通って、あとはもう行かなかった。

 その最大の原因は、浪人であるにもかかわらず勉強などしたくなかったからであり、花の東京で遊びほうけたせいである。高校時代も喫茶店に入り浸ったり、オールナイトの映画を観たりしていたが、こそこそと隠れてである。だが、この東京では誰一人としてそれをとがめる者などいない。

 考えてみれば、生まれて初めて僕はそのような自由な空間で息をしていたのである。映画だって堂々と白昼のロードショーを観ることができる。しかも鹿児島と違ってよりどりみどり。喫茶店のメニューも鹿児島では見たことのないものが並んでいる。なんだこのグラタンというのは(僕はグラタンなど東京に来るまで知らなかったし、シューマイですら初めて食べた)。田舎者まるだしだが、とにかく自由で楽しかった。誰からも何もいわれない!

 高校時代から特に念願していたことがあった。それは阿佐ヶ谷にある「ぽえむ」という喫茶店でコーヒーを飲むことだ。東京というより、新宿阿佐ヶ谷に強く憧れていた。そこには、当時熱狂的ファンだった永嶋慎二の描く『フーテン』の舞台があったのだ。黄色い文字の喫茶店に入ると、そこには永嶋慎二の原画が飾ってあり、漫画の主人公のようにコーヒーを飲んでタバコを吸った。そして、新宿の映画館で夜を明かし、眠たい目で、朝焼けに燃える空を眺めて、ああ、これが『フーテン』の空だと感動した。

 それから、高校時代に買えなかった漫画を買いあさった。東京の本屋では、鹿児島で手に入らない漫画がいくらでも書棚に並んでいた。真崎守も宮谷一彦も売ってるし、山上たつひこの『光る風』を発見したときには躍り上がった。高校時代には欲しくても金がなくて買えなかったキング・クリムゾンピンク・フロイドレコードを買い、思い切ってテープデッキも買った。金はあっという間に、それらの漫画やレコードや、映画のチケットに消えていき、いくらあっても足りなかった。

 高校時代に同じ下宿だった劣等生仲間も、やはり大学に落ちて上京していた。田辺も一緒だ。こいつらも予備校入学はしたものの、ほとんどさぼりっぱなしで、金がなくなるとお互いのアパートに集まっては料理を作り、空腹をしのいだ。

 なにしろ漫画やレコードを買うために節約できる金は食費しかない。計画を立てて金を使うなどという性格ではないので、結局1カ月の半分はまともな食事にありつけず、1年間の浪人生活で、僕は体重が8キロ減った。

 料理と書いたが、実はまともな料理など誰もできなかった。だいいち材料を買う金も満足にないのだから、大量のモヤシを買って妙めるだけだ。それとご飯である。モヤシさえも買えなくなると、ご飯にマーガリンをまぜ、醤油をかけて食った。本来はバターが望ましいのだが、バターは高くて買えなかったのだ。先に仕送りが届いた者が食材を買って、次に誰かの仕送りが来るまでをしのぐというのが暗黙のルールになっていた。

 それでも金がなくなって、ついに僕はアルバイトを始めることにした。勉強をしようなどとはまったく考えない。好きな本や漫画を買い、レコードを買ったあと、いかに腹を満たすかだけが問題だった。始めたアルバイトは、FM放送の聴取率調査である。指定された家を訪ね歩き、何の番組を何時間聴いたかアンケート用紙に書き込んでもらうのだ。協力してくれた人には、会社から渡された粗品を差し上げることになっていた。

 しかし、空腹の身で何軒も訪ね歩くのはつらい。だいたい僕が担当した地域にはFMを聴いている人などほとんどいないのだ。アンケート用紙を回収しても空欄ばかりである。礼をいって粗品を渡すのがばかばかしくなってきて、粗品を先に渡し、ハンコだけもらってあとは自分で適当に書き込んだ。これだと2度行く手間が省ける。どうせほとんど聴いてる人などいないのだし、それだと番組製作会社の人もがっかりするだろうという配慮のもと、僕が気に入っている番組にチェックを入れておくことにしたのである。まったくいいかげんなバイトであった。すまぬ。

 高校時代からずっと考え続けていたことだが、最大の問題は自分自身で金が稼げないことだ。自分の生活費さえ稼げれば、もう誰かの命令に従わなくてすむはずだ。だが、それができない。自分には到底不可能なことだと思い続けていた。それが何より悔しくて残念だった。親から仕送ってもらった金でレコードを買ったり、映画を観たりするのは常に罪悪感がつきまとったし、親の金で生活する以上、最終的には親の意向に逆らうことはできない。その資格がない。

 だが、金がなくなって簡単なアルバイトをやってみると、あっけないほど簡単に現金を手にすることができた。もちろんそれは少額で、それだけで生活していくことはできないが、それでも自分で金を稼げたことには違いない。僕がやったFM聴取率の調査など、特にむずかしい仕事ではない。どんな人間だって体力さえあればできることだ。単に教師や親の眼がなかったから可能になったに過ぎない。その意味で、僕はささやかな自由を獲得した気持ちになった。

 アルバイトのおかげで、ようやく食料事情は一息ついたが、気がつくと次の入試まであと3カ月というところまで迫っていた。おお、月日のたつのは早いものだ。今回は模擬試験などまったく受けていないので、偏差値も何もわからない。合否の予想さえつかないのだが、全然勉強していないのだからうかるわけがないだろう、普通。腹は減ったが幸福な生活を棒にふりたくないので、僕はおそまきながら勉強することにした。

 といっても、入試まであと3カ月しかない。時すでに遅しと高校の教師ならいうところだろうが、逆に、たった3カ月だけ勉強すればいいのだと考えることもできる。さんざんさぼった末の3カ月など、高校3年間に比べれば、ほんのひとときである。

 それから僕は、およそ3年ぶりに本気で勉強した。1日数時間こたつのなかで眠り、起きあがってそのまま勉強するという生活である。むろん残り時間は豊富ではないから、すべての範囲をまんべんなくやることはできない。そこで、ここが試験に出たら絶対合格できるという「絶対合格範囲」を設定して、そこだけをとことんやることにした。つまりヤマをかけるのだ。ヤマがはずれたら即敗北という潔い態度である。

 とはいえ、受験というのはテストに出題される傾向がはっきり見えている。そのための参考書もあるし、過去数年間の試験問題を見れば、いよいよそれははっきりする。漠然と高校の履修範囲をあまねく勉強したってしょうがないのだ。

 何も僕はトップで合格しようとか、東大医学部を目指そうなどと思っているわけではないので、最強の学力で試験に臨む必要はないのだ。出た問題を、最下位で合格できる程度に解ければそれで満足なのである。最低の勉強しかせず、ぎりぎりで受かるのが最大効率ではないか。

 しかも、受ける大学はひとつではない。今回は10学部くらい受験するつもりだったので、自分がかけたヤマから出題する学部が絶対にひとつはあると踏んでいた。世間では、巨人長島茂雄が現役を引退し、後楽園球場で涙の引退セレモニーを行った。あの、あまりにも有名な「巨人軍は永遠に不滅です!」というセリフを絶叫したあれだ。

 そして、甲子園では鹿児島実業が定岡投手を擁して破竹の勢いで勝ち進み、優勝候補の東海大相模を撃ち破った。僕らは驚喜しながらテレビの画面に向かって声援を送ったが、準決勝で防府商業に敗れ去った。鹿児島県勢が甲子園で準決勝まで勝ち進んだのを見たのは、これが初めてのことだった。

 入試に向かって、僕の最初で最後のスパートがかかった。夜も昼もなく、下宿仲間とも会わず、僕はひたすらこたつで参考書を読み、単語を暗記し、年号を頭の中に叩き込んでいった。落ちたら最後だ。今あるすべてを失う。そんなことは絶対にいやだった。不安感と微かな希望のあいだをさまよいながら、僕はひたすら勉強を続けた。

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浪人時代の大森の下宿。吸っているタバコハイライトだった。

YozakuraYozakura 2016/02/13 22:18 蔵前さま
 面白い!面白い!断然、面白い!今、既掲載の青春自叙伝を、過去へ順繰りに遡及して読了
しました。貴方がこれまでに、旅行人などの情報媒体に発表した「何処の国に旅行して、
何をどうした、沈没した、云々----」と云う駄文よりも、何よりも面白い!
 この調子で、漫画家になるまでを綴って下さい。待っています。

前川健一前川健一 2016/02/14 16:02  こまかい話ですが、阿佐ヶ谷の喫茶店は、「ポエム」ではなく、「ぽえむ」です。
http://www.nikkahan.co.jp/corporate
http://www.nikkahan.co.jp/wp-content/uploads/2013/05/asagaya.jpg
 この店の2階を改造して夜はカフェレストランをやっていた時代も知っていますね。1970年代後半のことです。遊びに行ったら、厨房に案内されて、なにかを作らされたこともありました。階下のぽえむで、いつもコーヒーを入れていた若者には、のちに上々颱風(with タイのダーキー)のコンサート会場(木場)で会いました。1995年代だったか。「前川さん、久しぶり」と声をかけられたのですが、私は彼の顔をすっかり忘れていて思い出せずおどおどとしていたら、「阿佐ヶ谷のぽえむの・・・・」と言われてやっと思い出した。

蔵前仁一蔵前仁一 2016/02/14 17:06 前川さん
 そうでした。ひらがなで「ぽえむ」だった。うっかりしました。訂正します。ありがとうございました。
 上々颱風のメンバーもいたんですか。私は誰とも知り合わなかったなあ。もっともそんなに通ったわけでもないのでね。

2016-02-12

[]僕の高校時代──1971〜1975(10)大学受験に失敗 15:38 僕の高校時代──1971〜1975(10)大学受験に失敗を含むブックマーク 僕の高校時代──1971〜1975(10)大学受験に失敗のブックマークコメント

 直前に受けたテストの偏差値をみれば、僕が慶応大学に合格できないことは(父以外の)誰の目にも明らかだった。それでも僕は東京に出ることを心から望んでいたので、無理なこととは知りつつも、できれば合格を願っていた。慶応一本に絞って3学部を受験し、むろん全力を尽くした。

 僕がこのとき受けた3学部の中で、最も合格の可能性の高かったのが法学部政治学科であった(現在では慶応法学部政治学科は驚異的な難関学部になっているらしいが、この当時は慶応の中では最も偏差値が低く、低能大学アホウ学部オセイジ学科などと揶揄されていた)。

 可能性が高いといっても、空を飛ぶ飛行機と走っている新幹線に飛び乗るのはどちらの可能性が高いかを論じるようなもので、どっちみち可能性はゼロに等しいわけだが、それでもそれにすがりたいのが受験生の切ない気持ちというか虫のいい願望なのである。

 しかし、その法学部の試験の答案をほとんど書けないまま終了すると、僕は全身の力が抜けた。合格できないことはあまりにも明らかだったからだ。無理なことは初めからわかっていたが、これほど手も足も出ないとは思わなかった。新幹線に飛び乗る可能性のほうが高いぐらいだ。

 受験生が試験場を出ていくのを、僕はぼんやりと見送った。他の連中はみんな合格し、不合格なのは自分だけなのだというみじめな気分になり、笑いながら出ていく連中の中に混じって帰路につくのがいやだった。劣等感が巨大な固まりになって僕を覆いつくした。

 ようやく受験生の波も引き、人影がほとんどなくなったのを見計らって、僕は門へ向かった。

 うつむきながら門をくぐると、突然外からまばゆい光が浴びせられた。驚いて顔を上げると、そこには何台ものカメラが並んでいた。訳がわからない。何を撮影しているのだ。フラッシュがまたひらめく。

 はっとして後ろを振り向くと、そこには学生服を着て、帽子を目深にかぶった大柄な男が立っていた。それが誰なのかすぐにわかった。

 作新学院のエース、江川卓であった。

 そういえば、江川慶応を受験すると聞いていたが、同じ法学部だったのか。

 彼が門の外へ出ていくと、報道陣が一斉に彼を取り巻き、大柄なその姿が隠れて見えなくなった。僕はそれをしばらく眺めていたが、彼には同情心が湧いた。彼が不合格になると予感したわけではない。むしろ合格するのだろうと思っていた。しかし、いかに甲子園のスーパースターであろうとも、ここでは一人の受験生に過ぎない。試験が終わってすぐに報道陣に取り囲まれ、試験ができたのかできなかったのかと質問されるのは、どんなに不愉快なことだろうと思ったのだ。試験の結果など発表の日にわかることだ。それを今取材することに何かの意味があるとはとても思えなかった。ばかやろうとつぶやいて、僕は大学をあとにした。

 発表は見るまでもなく、予想通り落ちた。そして江川もまた落ちたことを、その日の夕刊で知った。スポーツタ刊紙の一面トップに、白抜きの巨大な活字でこう印刷されていた。

江川、三振」

 僕は自分が侮辱されたような気分になって、その新聞を破り捨てた。そして悲しくて泣いた。落ちたことが悲しかったのではなく、鹿児島に帰らなければならないことが悲しかったのだ。

 江川はすぐに法政大学に進学したが、僕には合格した大学はなかったので浪人決定である。しょうがない。問題は、受験勉強をどこでやるかである。鹿児島か、東京か。

 いったん帰省し、これからどうするかという話が家族で持ち上がった。そのとき、兄がこう主張した。

東京予備校に行かないと、絶対に東京の大学にはうからない。もし慶応に行かせたいのなら、絶対に東京に行かせるべきだ」

 僕が落ちた慶応に一発で合格し、この年に卒業して家業を継ぐことになっていた兄が、父に強い調子でいってくれたことが決定打となった。おかげで僕はめでたく東京予備校に行けることになり、以来、僕は兄に頭が上がらない。

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鹿児島西駅(現在は鹿児島中央駅)にて。特急富士で友人と上京する。

前川健一前川健一 2016/02/12 15:52  まさか、次回の「見事合格慶大生」で最終回にしようという魂胆じゃないでしょうねえ。世界98万5000人のクラマエファンの願いは、「霧島少年の東京ふしだら日記」20回。私の旅物語とともに、いましばらく連載しましょう。

蔵前仁一蔵前仁一 2016/02/12 17:43 これは没になった原稿を載せているので、新しく書いているのではありませんから、その原稿が終わればこれも終了です。一部書き足しはありますが、書き下ろしはありません。ご了承下さい。

もと利尻のこだまもと利尻のこだま 2016/02/21 13:03 びっくりしました。
こんな連載が既に発表されていたのですね。

もう高校編は終わりなのですか?

なぞ:上京する列車ははやぶさではなく日豊線周りの寝台特急富士なのですね。ディーゼル機関車DF50が寝台客車ナハネフ23を引っ張って時代を感じさせる貴重な写真ですね。西鹿児島駅という響きも懐かしいです。
楽しみながら少しずつ先を読んでみます。どうもありがとうございます。

もと利尻のこだまもと利尻のこだま 2016/02/21 13:03 びっくりしました。
こんな連載が既に発表されていたのですね。

もう高校編は終わりなのですか?

なぞ:上京する列車ははやぶさではなく日豊線周りの寝台特急富士なのですね。ディーゼル機関車DF50が寝台客車ナハネフ23を引っ張って時代を感じさせる貴重な写真ですね。西鹿児島駅という響きも懐かしいです。
楽しみながら少しずつ先を読んでみます。どうもありがとうございます。

蔵前仁一蔵前仁一 2016/02/28 10:00 特急富士に乗ったことは、すでに記憶にはありませんが、アルバムに書いてあったので間違いないと思います。大阪まで行き、新幹線に乗り換えたようです。