プリンスにとってレボリューションとは何だったのか?

80年代には続いてきた個別音楽史の流れがそれぞれ飽和によって繁栄を見ることになる。特にアメリカ黒人音楽の流れは続いてきた個別セクト性を失なわずにしてその最も優雅な繁栄を見ることになる。黒人音楽のセクト性とは何か。社会の中で疎外されていた人間的価値の流れがそこでは、人間同士の上下関係ヒエラルキーもまた鏡に映したように、部族的なユニットに回収され、生と性の享楽は激しくタイプがぶつかり合い、旺盛なる賛歌へと弁証法的な上昇を実現する、舞台的なストーリーへと完結されていく。

黒人音楽のセクト性とは未来的なものがそこでは原始的なものへの郷愁である。あるいはそこでは未来がないとも言える。徹底的に閉じた世界観でもある。部族的な階級関係のユニットにはそこでは進化がない。世界はキングとクィーンの中心から由来して放心円状に広がるものに過ぎない。故に階級闘争とは必須である。

80年代に黒人音楽が完成させた一大オペラとは優雅を極まった。80年代の中盤になって頭角を現してきたプリンスの音楽とはその最も象徴的な機能を果たすこととなった。そのユニット名をプリンス&レボリューションと呼ぶ。プリンスにとってレボリューションとは何だったのか。プリンス。本名ロジャーネルソンとはアメリカの50年代の終わりミネアポリスに生を受けて育った。小柄で神経質そうな男である。両親はジャズミュージシャンだった。彼は80年代の時点ですべてのエンターテイメント音楽を総合し直す。音についてそれはよく勉強している。ロックとジャズを融合させるのにファンクをベースとしたオーケストラを使う。

バンドの構成において、ギタリストやドラマーの主要な所に女性を徴用したのも、彼が最初だった。彼が小柄な指揮者であることはそこでオーケストラの中において妙に冴え渡る。彼は自分だけでなく多くの他の才能を発掘することにも長けていた。他のアーティストに多くの楽曲を提供するし、自分でプロジェクトを組んで新しいアーティストのユニットを発明していた。プリンスファミリーと呼ばれる。中でもシーラ・Eの存在は重要な盟友となった。シーラ・Eの素晴らしさとは、プリンスの存在なしには欠かせないものであった。女性とプリンスの奇妙な関係とは、セクシャリティのスタイルとして定式化していった。

時に人間の猥褻さそのものの露出をも革命の一部として組み込む。見事なエンターテイナーである。最終的にこの音楽の革命家を自称する男を飲み込んでいったのは、アメリカに在ったカルト宗教のシステムであった。エホバの証人の広告塔としても彼はよく務めを果たした。このように革命家を自称することが飲み込まれてしまう、歴史の終焉したマンネリ化したスタイルの中で反復してしまうことの屈辱が、またアメリカ人の中で確認されたに過ぎない。アメリカはまだまだ歴史の進展からは遠いところにいた。巨大な田舎社会の正体である。

プリンスのような存在がなぜ部族社会性を清算しえないのか。取り残された音楽的才能の傍らで巨大な田舎社会であることをアメリカが示している。この巨大な惰性体としてのアメリカに時間の新しい息吹をふきこむ、亀裂を入れるものとは、プリンスとはまた別の、新たな主体性のスタイルには違いないのだが。

ファイン・ヤング・カーニヴァルズの『Johnny Come Home』

1.
ロックという表現形式がイギリスであらゆる階級を覆い尽くした頃、それが即ち80年代であったが、音楽のジャンルも多様を極めた。ニューウェイブと呼ばれる動きはロックという形式の単純化の運動を、レゲエ、スカといった原始的な形式化から再び接近していったわけだ。

音楽の形を単純化することによって再発見する、これが全体的な運動の原理である。これまであったあらゆる音楽形式はそこに叩きこまれうるし、電子楽器を使った新しい抽象化の波もテクノポップとしてその列に加わった。ロックというジャンルはその最終的な多産性を80年代に迎える。それは若者たちの運動として担われる。

政治的な運動としての連続性をそこで引き受ける波もあったが、多くはやはり脱政治化する流れの中で、自己をみつめ、内面をみつめ、性を見つめる、生活を見つめるという素朴なリアリティの中で引き受けられていく。


2.
管楽器を中心としたジャズを単純化し短絡的なリズムによって接続することでスカビートの古典回帰的な運動を見せたのが、マッドネスやスペシャルズといったバンドであり、スペシャルズは黒人との混成バンドだが、マッドネスの場合は白人バンドだったものの、もうその頃既にイギリスでは概念のはっきりしていたニートや無職者、ひきこもりといった問題系をリアルにイギリス社会で表現するに至っている。

70年代終盤にその第一波が訪れたロンドンニューウェイブの多様性の波は、きらめくように様々な音の筋を誘き寄せては、80年代という時代の後半戦まで引っ張っていった。

プリテンダーズのようなロカビリーへの新技術による回帰を使った白人バンドもこのニューウェイブにはあった。もっともプリテンダーズの場合は、クリッシー・ハインドという革新的な女性にロカビリー的なものを再生させたという特殊な局面もあっったものの。

他にも影響の元はアメリカの黒人音楽にあり、ディスコでありダンスでありモータウンでありといった音の種類も、イギリス人に影響を与えると、そこでアメリカの黒人に強いられていた成金的で成り上がり的な派手で金のかかった演出性は消え、労働者階級の地味な実態を素直にソウルビートに乗せて表現するようになる。

そこで生まれたのは労働者階級と被さるマイノリティーの新しい音楽であり、ゲイ、レズビアンの自己表出運動として彼らはアメリカの黒人音楽を使っていた。


3.
アメリカの国内では資本主義的な上昇志向の運動としてその本来的なマイノリティ性を削がれた形だった黒人のダンスビートは、イギリスではコミュナーズのような階級的マイノリティーの自己表現として、白人も黒人もアジア系も問わず混交した形で、それらは自己肯定的な音楽の束としてムーブメント上に現れた。

黒人青年のファルセットに白人のリズムセクションといった井出達で80年代後半のロンドンのシーンに現れたファインヤングカーニバルズの音楽もそこで衝撃的だった。アメリカの黒人音楽の表面的様相とは異なり、彼らは主体の貧しさを隠さないのだ。

彼らは労働者階級であることを隠さないし無為であることも隠さない、リアルな実存に到達しようとする。片一方でパンクムーブメントが直接的な政治性を失っていっても、その素直に実存と生活を見つめる目によって、逆の方面からまた新たな政治性が発生している。そしてこんどの政治性はリアルであるというのが、当時活躍したコミュナーズやファインヤングカーニバルズの位置づけであり、その流れはその後のアジアン・ダブ・ファウンデーションズなどのハイブリッド系ヒップホップにも素直に繋がっているというのが音楽史的な流れにあたる。

ロックが発掘する倫理上の古典化−Big Audio Dynamite

イギリス人にとって左翼的なセンスとは何なのかと考える時、パンクロックの短い歴史がそこに重なる。パンクにもある種パターンがあった。それらは幾つかのパターンである。クラッシュの形に収斂した若者たちの叛乱のイメージとはその一つである。

20世紀の後半にロックの層が下方へ拡散するにつれて、それぞれの階層を代表するような表現の形式がそこには新しいスタイルとして生まれた。アメリカでは社会の下層にも、そして黒人の層にも広がったロックの表出形態は、しかし政治的なスタイルとしては実らず、それは短命なものに終わるかマイナーなものとして隅に追いやられたものの、イギリスでは政治的なプロテストとして明瞭なムーブメントの形成にまで至った。パンクロックの成功とはその結果である。パンクロックは決してアメリカをその誕生の地に選ぶことはできなかった。

最初のアイデアはニューヨークのCBGBでライブをやっていたニューヨーク・ドールズのマネージャー、マルコム・マクラレンが同じものをロンドンで別の文脈でやってみようと思いついたのが切欠だったのだとしてもだ。パンクロックが成長する背景には、マルコム・マクラレンの小さな思惑を遥かに凌いでいる社会的な背景に要請が伴っていたのだ。その表現形態は、自らを表出するチャンスを、70年代から80年代にずっと狙っていたのだ。

生活上の倫理観が政治的なスタイルまで帯びる、あるいは向う側にある革命のヴィジョンまで引き寄せるという事が、アメリカではなかなか実らなかった。あるいはそれは抑圧されてきた。アメリカでは抑圧されてしまうある種政治的なヴィジョンへの夢が、イギリスではしっかり生きていて、生活にも根ざしている。それはイギリス社会が後進しているということなのか、あるいはアメリカの何かが決定的間違えているのか、あるいはアメリカとはやはり確実に社会の客観性として革命後の世界を生きているからなのかとか、理由は考えられよう。

アメリカでは生活上の一つの知恵の持ち方で終わってしまう倫理上の発見が、イギリスの文脈に置き換えられると政治的に増幅されうる巨大な理念的ヴィジョンへとそれが接続されることができる。アメリカに生きるのとイギリスに生きるのとでは希望の持ち方さえもが異なってくるということか。

クラッシュの音楽、そしてミック・ジョーンズが拾い上げるような倫理的な諸相とは、逃走の波に逃げ遅れた社会の痕跡として、イギリス的な田舎社会の後進性を担っているのと同時に、未来へ繋げられる希望のヴィジョンもまだ失わずにそのまま生き永らえている。忘れられてしまうようなものが社会の基本的な構成単位としてしっかりとそこでは機能していたのだ。アメリカ社会では見失われがちな価値観がそこには残った。

クラッシュの若い激しいエネルギーが通過していった後に、もう一度取り残された田舎的風景か都市的廃墟の片隅で、原点としての倫理的単位を音楽の要素として、再びミック・ジョーンズのグループは取り上げ、そして普遍化することに成功しているのだろう。これはロックが老いても尚失わないものとしての肯定的なヴィジョンの記録であり、現在進行形の革命である。


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ミック・ジョーンズは、イギリスでパンクロックの草創期を生きた群像にあってクラッシュのギタリストだった人物だが、クラッシュの音楽がその生成とサイクルを一通り終えた後に、その史的役割を終えるようにして消失していくのとともに、ジョー・ストラマーらの他メンバーから解雇され、別の音楽活動に移っていった人物である。

しかし、ミック・ジョーンズの音楽的貢献はどこへいっても深く、マイナーな映画監督だったドン・レッツとともにビッグ・オーディオ・ダイナマイトを結成すると、その音楽は演劇性と物語性を増すものとなった。ロックの枠組を広げオーケストラ的な編成を為すロックへと音楽の相が変貌していくのだが、そこには一貫した理念が続いていたというものである。

ミック・ジョーンズの汲み上げる音楽的な背景と物語性が、イギリスでは以前から続く民衆の生の社会主義的な観点から構成される世界像であることは一貫していて、見えない社会主義、あるいは来るべき社会主義へと向けて社会の底辺部からビジョンを接続させる試みに、音楽が試されている。



イギリスの伝統的な社会主義文化を継承するのが結局、ミック・ジョーンズのような人物像であることについては、イギリス社会の厚みとして存在している物語群像の数々が民衆的な地平の地べたへとヒーローの行為を呼び戻すものとして空気のように取り巻いていることへの、物語装置の厚さが、彷徨える魂を必ず隣人としての民へと回帰させる仕組みによるものである。

音楽を作るためには母国語の物語の中にその装置を探し求めなければならない。イギリスの風土において必ず民衆の中にそれを呼び戻す装置が強固に機能している。

一方ではケン・ローチの映画のように社会の内在的な厚みを再構築する営みにその芸術性は捧げられ、もう一方ではデレク・ジャーマンのように社会的な閉塞の度合いを相対化する為に更なるマイノリティーの存在を社会的底辺から招き寄せ内在的な出口を探り出す芸術の使命となり、それらは民衆であるかマイノリティーであるかの違いがあるとはいえ、呼吸をする生きた存在と他者の姿が、装置の厚みを潜り抜けた末取り戻されるようになっている。

イギリスの風土においては音楽の存在もまた同様に、原点であり地べたの存在へと再び魂を呼び戻す装置が社会的な厚みとして完成されている。かくして社会主義的な感性とは、イギリスの民衆において根強い歴史的な厚みの存在である。

パンクロックの破壊性が再びその歴史的伝統に戻ってきて違和感がないとは、ミック・ジョーンズ個人の意志によるものというよりも、彼の探し求める物語が取り巻くもっと分厚い社会的装置が必ずや彼のような表現者を同じ懐のうちへと回帰させてしまうのだ。

80年代にチェルノブイリ事故の影響を受けて作られたビッグ・オーディオ・ダイナマイトの楽曲は、当時のヨーロッパを覆った曖昧な不安の位相を鋭く現前化しているものだ。曖昧な不安が目に見えて取って触れるほどの近しさをもって瑞々しく我々の視線の懐に、そこでは晒されうる。

書くのが難しいこと。。。

一つ短編小説を4回分ほど書きかけていましたがどうもテーマに自信がなくて削除しました。なんでもかんでも小説にできるわけでなく私小説的な書き方にも限界があるのはわかっているので難しいですね。それを書いてみて、再現してみて本当に意味のあるものを書けるのかということを、吟味しなければならない。ちょっと時間がかかるかもしれませんが、とりあえず短編というテーマで、しばらく追っていけたらとは思っています。しかし窮屈になると逆に書けなくなるので、特に縛りは決めていません。思いつくことなど自由に流していきます。

馬鹿にならない嘔吐の症状

というか貧血の病で8月からぶっ倒れて入院していたんですけど。原因はというと7月の7日に某大学探検部OBの友人宅へと浜松まで埼玉からバイクで出掛けていたんだけど炎天下のなかなかハードな道中で、午前中に出発してちょうど300キロほど走ると浜松で、夕方に到着した。元探検部の高橋君は地元で家業を継いで仕事してるんだけど、浜松の料亭に連れてってくれて魚料理とビールを御馳走になっていた。しかし僕の身体の疲労は隠せずピークに達していたみたいでその夜は例によって一晩中胃が苦しく朝になった時には外へ飛び出て道路の側溝に血の吐瀉物をえんえん吐いていたという有様でした。

それでも大丈夫だろうとその日は一日高橋君の車で彼の新しくはじめた事業の内容を案内してもらって、プリウスに乗り込み高速でまず名古屋へいって、彼がはじめたロッククライミングのジムを見学して、体験もさせてもらっていた。岡崎でまず一軒ジムを出してみて成功したので今度は二軒目を名古屋に出したということで、高橋君の真面目で立派な仕事ぶりには一日脱帽状態でした。

それで夕刻に浜松のうなぎをご馳走になってから僕はバイクで国道1号を伝い夜中に箱根の山を超え、闇の西湘バイパスをぶっ飛ばして帰ってきたんだけど、翌日になっても身体の調子が余り回復せずと。胃からも相変わらず出血が止まらない状態と。どうやらこの小旅行を切欠に体内の血が足りなくなっていたという貧血の状態がはじまっていて、そのまま酷暑に向かった夏を過ごしていたんだけど、ついに8月に入ってから意味不明に風呂あがり倒れてしまったんだ。

それで入院になって身体を徹底調査したところ、しっかりとした貧血の病気であることが発覚したということ。治療にもけっこう時間がかかってしまいました。嘔吐とかしてる時は血が混じっているとか見過ごしていると後で大した病気になるときがあります。本当気をつけましょう。

やっと一本終りました

さて長々と一本の小説を書いてきたわけだがそれもそろそろここでお終いにしたい。時間がかかりすぎたというかもっと短編に絞って書いたほうが僕にとって効果的かもしれないとは思う。次に書くものも決まっていてやっぱり小説なんだがもっと簡潔に回転できたらと考えている。書いている間に変なトラブルというか予想外の事件でネット上から遠ざかるなんていうことも数回あった。終りの直前には入院を一ヶ月半もしていた。そこで断続的になったものを最後の方は無理に終わらせるため会話が明らかにギコチなくなっているがこういうのは後からじっくりと書き直していくしかないでしょう。テーマを実際の旅行記に重ね合わせようとして失敗しているという感じである。しかし小説にテーマを過剰にかけるのは難しいので、シンプルに小説らしい唯物的で客観描写に戻していければ幸いといったところか。次に書く小説の題材はもう決まっているから。こんどは余り長くなり過ぎないように気をつけよう。