寄らば大樹の・・・どこか2

その日その日感じたことを書いていくみたいな。たまに変なこと書くときもあると思いますが馬鹿だなと思ってスルーして下さい。

家族八景耽読

降りしきる雨が三時間以上に及ぶと、出歩かず大人しく本を読んでいたい。
日本テレビ系のドラマ「家政婦のミタ」は大変視聴率がよろしいそうで。タイトルは別のドラマでの家政婦は「見た」と、このドラマでの松嶋奈々子演じる三田灯の名前の「三田」を掛け合わせているかのようで洒落ているというか安直だなとも思ったわけだが。私もちょっと見たんだけど、日テレ系ってこういう日の暗いような演出をさせたドラマ作るのがうまいよね、女王の教室とか。私なんかは「マルモのおきて」なんかのほうがしっくりくるんだが・・・。それと、「マイフェアレディ」みたいなドラマが好きだったりする。
そんな家政婦が活躍するドラマがあれば、筒井康隆の小説「家族八景」は中途半端な演出などみじんも感じさせない、人間が目をそらしたくなる醜態な様を直截的に描きだしているのだから。家政婦の立場とは嫌な世界を見続けつつ、奉仕していかなければならないと、私は大変可愛そうに思えてくるし、こんな職業あっちゃならないとさえも感じた。人間が病んでくる。そんな風に感情を抱かせつつ、そんなのお構いなしに家族八景は存在する。筒井康隆の作風、才能の恐ろしさを語るには十分な小説である。
家族八景とはタイトルから察することができるだろうか、8つの短編からなる小説であり、ここでの主人公、家政婦七瀬は人の心を読めてしまう特殊能力を持っている。今では漫画やアニメにおいてそんな能力設定別に珍しくないと思われるが、この小説が発表された1970年代の頃は革新的なアイデアだったのではないだろうか。なぜなら、そんな設定のSF小説は筒井氏より前に発表した人物を知らないからと私が勝手に思ってるだけ・・・。エスパーという単語を小説に用いた筒井氏の前衛的手法と心理学を駆使した点がこの小説の特徴になると。それと人の醜さをメイチで表現していることも。
さて、先ほど8つの短編からなるといいましたが、その中で「亡母渇仰」という短編の最後になる作品。この短編こそが、なんとも異彩を放つものである。いや、この短編には恐ろしさしかない。マザコンの夫がいて、それに嫁がいる。主人公七瀬はそんなマザコン夫の母親の看病をしてきたが母は死んだ。人は死ぬと人はわかっているはずなのに・・・マザコンにはそんなの通用しない、受け入れようとしないマザコンの幼稚性は嫌悪される。母親の葬儀で息子は周囲がドン引きするほどに泣き叫ぶ。七瀬はそれを大人であるのに大人でない「赤ん坊」だとその息子の心を読んだ。それにしてもこの母親が死んだ夫の反応は思わず「・・・いいかげんにしてくれ・・・」と一度本から目を遠ざけなくなる。この表現描写はなんとも恐いものだ。さて、嫁はこんな息子とよく結ばれたものだ。今この葬式で見せている夫の醜態を見て、なんてこんな後悔をしなければならないのか。自分の不幸さを恨みつつ、人々は同情するだろう。しかしそれも、七瀬に心を読まれてしまっては台無しになる。生前の母親に息子だけでは使い切れない財産があるとし、当の息子もそれを認めた。それをこの嫁は聞かされたからこの家の嫁に来た。財産目的だったことを七瀬に知られた。それなのに自分が選んだ道に今後悔しても、それは利己的だという七瀬の指摘は悲しいほどに的を得ているだろう。人間の下心とは恐ろしい。七瀬はどうやら美人だそうだ。おしとやかで、それでいて芯が強い健気さが世の男たちには魅力に映るだろう。しかし、葬儀の場で喪服姿をフェチズムとしている男がマザコン夫の親戚にいた。七瀬の喪服姿をくされた目で見つめ、七瀬に声を掛ける男。七瀬はこの男に誘われる。七瀬は自分の心を読んでしまう能力を家政婦という立場で試してみたいと尊大な経緯も、ついにそれに嫌気がして家政婦を辞めることになる。七瀬は拒否するが男はしつこく迫る。最後は誰かに呼ばれて場を離れる男だが、その下心の醜さは恐い。ここで「・・・いいかげんにしてくれ・・・」と二度本から目を遠ざけたくなる。しかし、ここからがこの短編で本当に恐いところ。
出棺の場面でマザコン夫は人となさないかのような、そんな描写はそろそろなれてきたことが変な気持ちにさせる。火葬場で亡き母を火葬する前に坊主が経を読む。そのとき七瀬にどこからか心の声が響いてくる。その声は死んだはずのマザコン夫の母そのものだった。なんということかこの母、実は夫の嫁と医者が共謀して死亡したと手続きされた他殺、はたや死んでいたのが息を吹き返すも生存を自分の体で伝えきれないために、心でおぞましいまでに叫びつづけねばならなかった。そんな心を読んだ七瀬はとんでもなく災難だったのだろうか。死んだ人間が実は生きていることなど七瀬以外は知りえていない。ここでこの母を助けてしまうと自分の能力を露呈してしまう。それはこの能力を限りなく嫌いだした七瀬にとって今後の自分の人生を危険に晒すきっかけとなる。私はそれでも七瀬は乱心したように母親の棺に駆け寄りその母親にすがりつくだろうと・・・。しかし、小説は違っていた。七瀬は耳を塞ぎながら火葬場から駆け出しただひたすら念仏を唱えることしかできなかった。走った際に転んで両耳を両手で塞いでいる恰好からそこからなかなか立ち上がれないという描写が、「なにをしているんだ!」という気持ちにさせ、もう本から目を遠ざけることなどできなかった。
七瀬は母親を助ける。そんな最後で終わらせず、母親は生きたまま焼かれた。私はそれが恐かったし、何より生きていることを知りながらそれを黙殺した七瀬が一番恐かった。
人間とは罪深きものと聞くときがあるが、それを肯定してしまうとこの家族八景の人物までも肯定してしまうことが恐くて躊躇する。しかし、この小説を読んでは、醜さは人間について学ぶことがあるだろうと、人間の性とも本質とも見てとれると示しているのだろう。それは正常人の心理や欲望とも精通する、人間性の本質を突き動かすヴェクトルを見て取ることがきるだろうと問いかけているような気がしてならない。そうなると目を背けたくなる醜さを考察できるような冷静な判断が私には備わっているだろうか。感情で訴えられたら、おそらく、感情で返してしまうかもしれないが・・・。人間の醜さを娯楽、趣向にするのではなく、醜さから人間を学ぶ。筒井氏はそれをこの小説で訴えているのかもしれないし、そうじゃなかったら、こんな人間の醜さは読むべきではない。
外は雨。ならば大人しく本を読んでいたその本が家族八景でした。他の7つの話は亡母渇仰に及びません。というか、この話があまりにも浮いている。なんだか唐突です。この小説を読むなんて。家政婦のミタの話題をヤフーニュースで知ってからそれがヒントになってこの小説をもう一度読んだのです。

家族八景 (新潮文庫)

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