attendre attendre attendre...

憂鬱で長くて大切で必要な時間。




夏からこれまで、これまで知らなくてこれから知らなければならない膨大な事に一気に出会った。
年末になりスピードは緩やかになったけれど、出会いのリピートは続いている。
芸術活動でそれなりに生きていくための具体的なコミュニケーション。


それは徐々に、突然一気にやって来た。


大人の事情に自然に目を背けて、きっと今よりずっと怖いもの知らずだった自分自身の御陰で、社会の無言で分厚い壁から外に出れた気がする。


2年が3年になり、4年が6年になり、
始めたら止まらない回転の遠心力に必死に負けないでいたら、
そのループ自身に身を委ねられそうなギリギリのところに今いると思う。
地球の回転を感じないみたいに、そのループのスピートが自分のスピードに合えばいいと思う。


ここ一ヶ月くらい、外的要因で制作が進んでない。
憂鬱で長くて大切で必要な時間だ。
このタイミングだからこそもらえる時間だけれど、
このタイミングだからこそ想像以上に苦しい。


制作してないとこんなに苦しいのか。
はやく気が狂う程つくりたい。はやく。


つくっていないと、息が苦しくなる。
はやく気が狂う程、はやく。


きっとはじまったら、この時間が羨ましくなるだろう。
それ以前に、この環境が全部なくなることだってあり得るんだ。


頼りない藁を一気に百本くらいつかまないと、夢は自分のものにならない。
余裕がある領域というのは逃げ水に似ている。近づけばその分逃げてく。


年末のどことない年末感に浸りながら、これからの期待に向けて泥のように眠りたい。


待つ、待つ、待つ。
待つのってちょー苦手だ。

Le sentiment d'ici.



九月になりました。


暑い暑い日本の夏を経て、
フランスの秋がやって来た。


日差しは肌を突き刺すほど真っ直ぐなのに、
風は体を突き抜けるくらい冷たい。


明日から、参加する展覧会が始まる。いっぱい始まる。
ここまで来るのは随分不安があったけれど、
いざ明日にまで近づくと、台風の目に居るみたいに穏やかな状態だ。
きっと明後日から外側に向かって嵐になるだろうか。
突風が過ぎ去ったら、またひとり分の雲としてゆっくり漂っていたい。


一度の人生において、前例のない事が毎日やってくる。
前例のない事が、楽しい事でありますように。



ココロして、ココにいよう。
意識していないと、楽しい事はすぐ終わるから。

Ma zone grise.

グレーとの付き合い方


グレーゾーンという領域がある。
白黒はっきりさせる事は必要だったり、時にはそうでなかったりもする。
そうでなかった時に必要なのがグレーゾーン。



最近ようやくこのグレーに足を入れる事ができるようになった気がする。
ここでいうグレーゾーンは一日にできる活動量とそれに対する自分のキャパシティ、
それを翌日につなげるための体力の配分。



こんなに必要で単純だろう事が、いままで全然できなかった。
自分の限界が見えなくて、ダメになったらそこが限界と思っていた。



明日はまたやってくる。
今日と明日と明後日はつながっているんだなー
すこし大人になりましたとも。

明日にしよう、そうしよう。

le chemin dans ma vie... c'est mon chemin...

たいていの人はたくさんの顔を持っている。

ひとつの人格の中に複数の顔があって、
その顔がうまく扱えなくなった時、
後悔したり、疲れたりする。

たいていの人と書いたのは、私だけではないと信じているから。

わたしはたくさんの顔を持っている、と思う。

それは
だましたりするためじゃない、
たいていは平和を保つため。
時々自分を守るため。



このブログは、タイトルでいうとフランスに来ている間、
わたしの見ているフランスをレポートするために始めたのだけれど、
最近は時間をかなりあけながら、どうやらフランスでの心を書いている気がする。

ちゃんと目でみたものを綴らないと。
なんだけれども。。


最近のわたしは、
どう暮らしていくのか、
何者になりたいのか、どうつなげていくのか、
そればかり考えている。
何者というのは、大袈裟で大物な何かではなく、何者なのかという事。


この歳になりますが、
まだ着地点が見えません。
いや、着地点が見えるなんてそんな日は来ないかもしれませんが。


あがいているとは感じていて、
でも、どこまで試していいか分かりません。
ただ、試さない理由が見つからないので、ここまできました。


もし、わたしがこうでなければ、
今のわたしが無い物ねだりをしている向こう側のわたしに立ったとして、
そこに立ったわたしが、今のわたしを想像したのだと想像します。


結局はわたしがどこに立っていようと、ふとあわせたピントが今の自分に合う事はないということ。
そうなのならば、意識的にピントを合わせるべきです。
とぎすませるべきです。


思考も精神も、モチベーションも、すべて波打っている。

安定は求める対象としてあって、
不安定なのはそれ自体楽しむためだ。




フランスを続けるために、いま日本がとても恋しいんです。


そうだ、みんな前進してる。
わたしもそうしないと。


Paris lumineux

「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」


このキャッチコピーが時折ぐっと心に刺さる事がある。


人生はうれしい分悲しいし、つらい分楽しい。
不安な分期待があり得るし、安定は時折退屈にかわる。


この世界に「いいな、いいな」はありったけ存在していて、
そのひとつにでも近づければ、それは私個人のちいさくておおきい幸せ。



と思うようにしないと。


うれしい瞬間も楽しいこともあるけれど、
不安定な最中はそれも吹っ飛んでいく。
0か100、真逆なのに紙一重だよ。



何がしたいの?


つよい人になりたいとか思ってたけれど、
やっぱりすてきな人になりたい。
だめだだめだこのままだと。





今日みた展覧会のHans Op de Beeckの映像作品、
衝撃的によかった。いや、本当によかった。

Etre en deuil, sous le ciel de Paris.

メトロの改札をぬけて電車に乗り込む。
この日はパリ全域の交通機関が切符無しで解放されている。
そう、レピュブリックからナションに向けて歩く人々のためだ。


というのはあとで知ったのだが、ホームや車内は静かでただならぬ雰囲気だった。
みんな何か同じ目的でその場にいるような、緊迫したような、怖くて重たい空気を感じた、私だけだろうか。



パリの街は喪に服している。


すべては7日に起きた事件からである。
私としては、まだ事件背景を深く理解していないので、自ら何かに参加するという事はしない。
それに、集団の中にまぎれて、同じものの中に入っていく事になじみがない。
ただ、ここにいて感じる事は、フランス人は個人の主張を外側に打ち明ける行為がものすごく自然であるという事。
みんながはっきり言葉にしていう。


その言葉を内側に閉まっておく事が自然である日本人の私には、私個人には、
それらの外に吐き出された言葉や行動に驚きを感じる。


そして、フランス人同士の結びつきが強まる事で、私はフランス国内にいながら外にいる感覚がする。
その深い傷はフランスの人にしか感じられない場所にあるのかもしれない。


今日はまったく違う目的でパリ中心にでたら、まさに大勢で歩く人々と同じ道に出た。
みんな同じ方向にただただ静かに歩いている。
時折始まる拍手が拍手を呼び、道中が静かな拍手でいっぱいになる。
自分がまさに渦中にいるような気がした、街が喪に服している。



事件が起きたCharlie Hebdoの新聞社。
これまでその存在も知らなかったけれど、聞けばその看板である風刺画は時折かなり過激なもののようだ。
これまで風刺画を嫌う気持ちはこれまで持った事はない。


ただ、表現の自由と、風刺画の掲載内容の自由の度合いを同時に考える時、
どこまでが表現者に許される方法なのかは議論があっていいと思った。
だから今日まで、フランス人がみんな新聞社の名前を掲げる事に違和感があった。


でも、そうでない事が今日少し分かった。
フランス人の友達に、あの新聞がフランス人にとってどういう存在なのか、
なぜ「私はシャルリ」をみんながかかげるのかを、聞いたから。


フランス人たちもみんながあの新聞を賞賛するのではない、表現も度を過ぎたものはいいとは思えない。
ただ、みんなが悲しいのは、描かれた表現を、武力によって否定された事。
紙の上のメッセージが、命を奪って返された事。
そして、そうされた事によって、フランス人として、フランス全部が否定されたような、悲しみや傷を負った事。
その象徴としての、「わたしはシャルリ」。
革命以来の大切な自由を、守られるべき表現の自由を願っての、「わたしはシャルリ」。
これだって一つの見方な訳だけれど、私は賛成する。


この緊迫した街中を歩いて、
待ち合わせを、外で銃撃があったからキャンセルするという異例の状況に遭遇して、
私は3月11日の東日本大震災の事について、考えずにはいられない。


あの時の本当の混乱や緊迫は、私は全部知らないんだって思い知らされた。
どんなにニュースを見ても、そこが自分の国でも、その時の緊迫感を肌で感じなかったんだって、今更知った。
日本人でありながら、あの大変な事態を共有できない、していない事に、今になって穴があいたみたいに感じた。
だからといって、後悔できるようなそういう事ではないのだけれど、何か遠いところに来てしまっているような感じがする。


そう思わせられるくらい、今日のパリは緊迫感があった。



ふと、いろいろ考えちゃったけれど、
明日は確実に来るし、その明日する事はごくありふれた日常的な事で、
まだまだ自分のことでいっぱいいっぱいな私がいる。
頑張らなくちゃといいきかせる。






写真は霧のヴェルサイユ、
吸い込まれそうな、のみこまれそうなわたし。




頑張ることはできる。
でも頑張り続ける事は結構むずかしいな。

Bonne année 2015.

あけましておめでとうございます。
少しおくれましたが、新年のごあいさつ。


たくさんの方に支えられて、助けられて、なんとかここにいる一年。
不安も孤独も、大好きな場所にいる幸せと、
つながっている空に紛らわして、ちょこちょこやってきた一年。
今年も踏ん張って、広がって、ちょこちょこやります。
楽しい人生には今年だって楽しくないと。
帰国の機会がありましたら、今年こそは顔出しにいきます!
みなさま、今年もどうぞよろしくお願いします。




年明け早々、パリは昨日から悲しい街。
メディアはCharlie Hebdoの銃乱射事件の事で一色。
起きてはならない事が起き、心も体も重たくなった。


こうしたイスラム過激派の動きが、
イスラム教徒全体に対する否定的な見方が強まるとすれば、
それはとても良くない事の始まりだと思う。


ここフランスにいるから、事件のほとぼりの冷めない渦中におり、
ここ自由を重要視する国で、人々の共通の関心事や、議論がおこるのは当然の事。
だって事件はまさにここで起きたのだから。


でも、同時に世界の別の場所では、内線・紛争の絶えない場所では、
毎日何百人もの人が想像を絶する環境の中死んでいる人がいるということ。
人の死は、規模や残酷性で比較されてはならないし、
たとえ、1人でも100人でも、その個人にはい一つの大切な人生があるという事なのだけれど、


どうも今現在起きている人間の行為は、世界は、
狂ってきているように思う。


宗教、人種、思想、皆違っていいと言いながら、その違いがもとになって争いが起きている。
この違いの穴埋めを、武器無しで、血をなくしてはできないのだろうか。


こんな大規模な話ではなく、私は個人的につらくなったり、逃げたくなったとき、
宇宙に浮かぶ地球が地軸を傾けて、回転して、公転している様を想像する。
すると、どんな悩みも地球の表面にみえるどんな点より小さく見えて、
悩みが消えてくような感覚がする。というか、自分が小さすぎて。


なんで、誰しもが望む平和は、こんなにも手に入らないのだろうか。
もっとたのしい方向にいきたいのになあ。





という訳で、あまり落ち着ける年明けではないけれど、
私はとりあえず元気です。
みなさま、今年もよろしくおねがいします。