くりくりまろんのマリみてを読む日々 このページをアンテナに追加 RSSフィード


「マリア様がみてる」の感想などをまとめた、長文系のブログでございますよ。
ちょこちょこと不定期に書いていきますのでコメントやTBもお願いいたします。
にわかの歌詠みになりました。(*^_^*)
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09-25

[]Microsoft SQLServerクエリ アナライザ[Query Analyzer]に関するPico Tips 09:26 Microsoft SQLServerのクエリ アナライザ[Query Analyzer]に関するPico Tipsを含むブックマーク

プログラムの開発では、ああもう少し早く知っておけば良かったなぁと思う事柄が漸次出てくるものです。

シンプルなようでいてなかなか奥が深い、クエリ アナライザの使用に関するちょっとしたコツをまとめてみました。

(2005からはクエリ アナライザはManagement Studioに統合されています。)

サンプルの画像はSQLServer2005ですが、2000などでもほぼ同様です。

画像を多用しているため、開くと重い場合があります。

続きを読む

 2010/10/20 01:18 hello. you can tell who i am, i think. i dount know about computer well, whatever, this is a nice blog, i think! and i will try to watch the anime you write the criticism when i have time to do so.

see you again!

kurikurimaronkurikurimaron 2011/09/03 14:27 Thank you for the visit to my blog.
Especially, I recommend the 11th story "The White Petal". That is romantic, melancholic, and deep.

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10-10

可南子・夕子の「姉妹」性◆繊峇鼎─廚虜澆蟒茵 可南子・夕子の「姉妹」性◆繊峇鼎─廚虜澆蟒茵舛魎泙爛屮奪マーク

三角形の中の欠落点

可南子が父親を直接詰る場面で目立つことがあります。父・母、あるいは父・夕子の関係に対しての気持ちが縷々と述べられるのですが、自分自身の状態に関する気持ちについては直接に述べられません。父・母・可南子三角形、父・夕子・可南子三角形において、感情を伴った可南子自身の位置の述懐がほぼ抜けているのです。

父親が家を出なければならなくなる前からでも家庭に居場所が無いような居心地の悪さを感じていたでしょうし、人生早期からの経緯を含め、甘えが満たされない恨み言が含まれてもおかしくはない筈です。しかし母親や夕子に対して、そして一方的に責める相手である父親に対してをも思慮に満ちており、対象中心的と言えます。このことは、ただその場で言う必要があることのみを述べたからというだけではなく、可南子のそれまでのあり方をも示しているようです。下世話に言えば、可南子はグレてもおかしくはないのにそうならず、優等生的であったということです。(この点、愛着のある対象への甘えが満たされないが故に倒錯して攻撃に転ずるという、阿闍世コンプレックス論での典型的な形とは大いに異なるところです。)

控え目だが確実に存在する感覚

可南子の特徴と言えば、『涼風さつさつ』の購買部での挿話や『レディ・GO!』での動き方にみるような中庸を心得ない心性、それに祐巳の感じた冷静でしっかりした態度が挙げられるでしょう。

しかしその一方で、大分趣きの異なる面もあるようです。

『レディ・GO!』の終盤で可南子ツーショット写真祐巳希望するところは、伏し目がちの表情をしている挿絵と共にたいへん印象的です。それは、祐巳に向けられたものか、今はもういない夕子に向けられたものか不分明で両者の境界がはっきりしないものであるにしても、対象希求的な控え目な甘えの感覚の表明であったのではないかと考えます。可南子希望を無条件に叶えなければならなくなった祐巳からすれば拍子抜けした形でしたが、その大したことの無さが、むしろ可南子に特徴的なことと言えるのかもしれません。

ほとんど来る当ての無い母親のためにチケットを取っておくというのも、単に気遣いをしているというのみならず、やはり期待して(同時に、強く主張すること無く)待っているのには違いが無いのです。

健気で切ない感じがします。

可南子のある面を示すのに、「大和撫子」「控え目」というのが相応しいようです。

[▽続きます]

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10-01 ご無沙汰しております…

可南子・夕子の「姉妹」性 可南子・夕子の「姉妹」性,魎泙爛屮奪マーク

ある物語からの視点

可南子・夕子の話については、精神分析の分野で展開されている阿闍世(アジャセ)コンプレックス論が示唆に富むと感じます。主に、小此木啓吾著『日本人の阿闍世コンプレックス (中公文庫 M 167-2)』を紐解きながら進めてゆきたいと思います。

S.フロイトに師事し、日本精神分析が導入される道を開いた古沢平作が最初に唱えたのですが、そもそも「阿闍世」の字面自体、初見では読み方も不分明ですし、違和感があるものかも知れません。「阿闍世」とは仏典に登場する、古代インド王子の名です。題材となっている話のあらましは次のようなものです。

阿闍世は父母の愛に満ち足りた生活を送っていたが、青年期に至り、自らの出生の由来を告げ口する者が現れ、強い怒りを持つことになった。阿闍世を身ごもるに先立ち、その母韋提希(イダイケ)夫人は、自らの容色の衰えと共に夫である王の愛が薄れてゆく不安から王子が欲しいと強く願っていた。相談した予言者から、森に棲む仙人が三年後に亡くなり、生まれ変わって胎内に宿る筈と告げられる。ところが夫人は三年後が待ちきれず、早く子供を得たい一念からその仙人を殺してしまう。阿闍世は親のエゴイズムにより、一度は殺されていた子であった。首尾良く妊娠したものの、夫人はおなかの中の仙人の恨みが怖くなって堕ろそうとし、生むときも高い塔から産み落としたのだった。

この話を知った阿闍世は、理想化された母親への幻滅のあまり、あわや母親を殺そうとする。父母は、父母である前にただの男と女でしかなかった。しかし諫められて思い止まった阿闍世は、罪悪感のあまり酷い腫れ物ができ、悪臭のあまり誰も近づけないほどになってしまった。釈迦に救いを求めた夫人は深く悔悟すると共に自らを殺そうとした阿闍世をゆるし、献身的に看病した。阿闍世も母の苦悩を察して母をゆるし、このゆるし合いを通して母と子はお互いの一体感を得て回復する

小此木氏は文の冒頭で、大衆的に広く受け入れらている長谷川伸著『瞼の母』をも例に引き、これらの物語が訴えているのは「〕想化された母への一体感(甘え)、∧譴砲茲襪修裏切り(怨み)、1紊澆鯆兇┐燭罎襪靴猟未す腓ぁ廚箸いΦせちの変化の主題であり、日本人の心性の基本構造を形造っているのではないかと論じています。

転移」の概念からの類推

祐巳可南子につきまとわれたり、難詰されたのは夕子に「雰囲気が似ている」ことがきっかけであったことが後に分かりました。全然別人間であり、そして異なる時間・場所であるのに、過去重要な人物に向けたのと似たような感情を特定の人に向けたり、似たような状況が出来することがあり、「転移」と呼ばれる概念に近いものです。

ここに、作品中で直截に示されてはいないけれども、どうしても必要なもう一つの視点があると思います。

名前すら作品中では明らかにされず、描写が乏しいため読者からは言わば「抽象的な母」とも言える可南子の母親に関してです。可南子は自らの母親をある程度、そしてある部分を夕子に投影し、「転移」していたのではないかと思います。その転移の中での気持ちの変化が、可南子・夕子の話のアルファでありオメガでありましょう。

上記では殊更に太字で示してみた箇所があります。いかがでしょう、言葉だけを拾ってゆくとどことなくですが可南子・夕子の話に現われた事柄が散りばめられているように見えないでしょうか。しかしもちろん異なる部分も多く、より丁寧に見てゆく必要があるでしょう。これら二つの視点により考えてゆきたいと思います。

[▽続きます]

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11-27

『大きな扉 小さな鍵』第一印象集 『大きな扉 小さな鍵』第一印象集△魎泙爛屮奪マーク

満ちたり引いたり〜関係性への浸り方〜

「負けるために」

なぜ立候補したのか…は、難しいですね。ただ、実際に起こったことだけを見るならば、瞳子の動きの結果、祐巳が自らの立候補の理由をしっかりと述べられるまでに至った、ということは大きいと思います。瞳子のために祐巳がしっかりせざるを得ない、そのことをも瞳子は知っているのではないかと想像します。

救済の含意

「救われる」という言葉がはっきりと述べられているのには少し驚きました。『断裂と再構築の力動』で少し触れましたように、確かにこれまで救済の含意が感じられる「姉妹関係」は多く描かれてきました。また、例えば、祐巳の存在のために祥子は良い方向に変われるのだ、というのは割合直截な述べられ方です。しかし「救い」というふうに作中で言語化されているのは興味深いです。

乃梨子はここのところ、瞳子のことについては不遇です。また、落ち着いた祐巳に比して自らは少しのぼせているような描かれ方をしているため、一見して振り回さているだけのようにも見えます。しかし「救い」という形で祐巳・瞳子の間柄を認識しているのは、他の人物に比して特権的であるとすら言えると思います。乃梨子のほかにも祐巳・瞳子をそれぞれの立場で知り、心配している人物は多くいるのです。しかしそんな形で見ているのは、乃梨子だけのようです。

乃梨子の視点で語られているのにも関わらず、なぜ、どのように祐巳が瞳子の救いとなるのかは具体的に説明されてはいません。しかし乃梨子は確信しています。その確信が示されることで、瞳子・祐巳の話には「姉妹関係による救済」という主題が底に流れていることが明白になっていると感じます。

ここで、乃梨子が「ロザリオの授受なんて関係ない」としているのが注目されます。瞳子と祐巳の間には「姉妹」たりうる布置が既にできていること、そして、気持ちが通い合うこととは少し別のところに「姉妹」性が存在しうることが述べられているようです。

深く考えようとするとなかなかに難しい事柄です。話が進むに従って一層輪郭がはっきりとするものでもありましょう。しかしここでは、これまでに述べられていることで手がかりとなりそうなことについて考えてみます。乃梨子にとって、鋭敏に感じ取ることのできる部分とそうでない部分が共にあるようです。乃梨子の認める「姉妹」性に先立ち、はじめはあまり共鳴しなかった祐巳の姿勢から触れる必要があるでしょう。

巻頭部で「待つ」ということが述べられていることと併せると祐巳の「むしろ逆なんだけどな」という言葉には、何が来ても動じないようにしながら時期まで待つという、言わば「開かれた待ち」でいようと思い定め、しかもそれに自覚的であるとの意味が込められているようです。その「待ち」の姿勢には、何とはなしの祐巳らしさが伺える気がします。

あまり自らの手で現実を動かそうとはせず、周囲の状況に巻き込まれているかのようなこれまでの祐巳の傾向は、概ね弱弱しく、受身であるとの印象を与えるものでした。その傾向は端的には、ことあるごとに仕方なく泣いてしまう場面が多いということ、さらにはおそらく弱弱しい雰囲気のみを放っていたであろう、自己完結的なその泣き方に表われています。(…『薔薇のミルフィーユ』まではおしなべてそうだったのですが、『未来の白地図』の終盤で号泣する場面では大分違うと思います。この一事を取ってみても、祐巳は瞳子を通して変わってきたと言えそうです。)

その傾向に強さが加わったならば、積極的に立ち向かうのではなく、しかし同時に怯まずに「待つ」という姿勢につながってゆくのではないかという気がします。すなわち、登場以来の祐巳のある種の傾向の帰結、あるいは集大成として描かれているのではと思われます。

少し見方を変えると、祐巳の姿勢は姉妹関係における「包容する―される」関係の表われの方の一つとも言えましょう。殊に祐巳は祥子との間で「包容する―される」関係をめぐっての葛藤や関係の深化を経ています。とすると、祐巳は祥子との間で醸成してきたものを体現しているのだとも言えます。

翻って乃梨子が持っている文脈を考えると、その直載な姿勢と共に、そもそも乃梨子はこのような関係性の中に今まで生きて来てはおらず、それ故に祐巳の姿勢に感応しづらかったのではと考えます。

乃梨子と志摩子との間には「導く―導かれる」関係があるようです。もちろん志摩子に包容力が無いわけではありません。しかし乃梨子が志摩子を「完璧な人」と感じるとき、例えば「甘えん坊」を自認する祐巳と違って甘えの感覚は殆ど無く、例えば洞察力や見通しの良さに対する感興が心の中の大部を占めるのではないかと思います。一つの関係性を巡り、発する側と受ける側は一見正反対のようではあります。しかし同じ文脈の上にいる点でその実さほど違いがなく、時に容易に逆転するものなのかも知れません。遡って『ロザリオの滴』をみると、乃梨子は志摩子を洞察力と共に導きながら、導かれる側へと自覚的に自己投企していったのだと言えます。…「姉」は「妹」を教え導くものといった、姉妹制度の建前、あるいは外殻は、(一緒にいるための方便、あるいは借り物としての姉妹制度と共に)一度否定され、しかし改めてより内在化した形で乃梨子に受け入れられていったのではないかと思われます。

このような見方をするとき、通常とは逆の原因と結果の連関を見出すことができるかも知れません。すなわち、志摩子が実際に「完璧な人」だから乃梨は志摩子とそのような関係を結んでいることができるのだとは限りません。そのような関係をもととして次第に自己省察が深まって自らを至らないと感じ、さらには志摩子のありかたを自らとは対照的なものとして認識するようになったのではないかと思います。

祐巳が瞳子に対して洞察力を発揮したことがあったか、導き手たりうることがあったかと考えると、やはり学園祭の劇を巡っての一幕です。乃梨子はこのときから次第に祐巳を瞳子の「姉」と認識していることが伺えます。その出来事は乃梨子が持っている文脈と感応するものでもあったでしょうし、瞳子を救いうるという確信のもととなるものだったでしょう。すなわち、単に問題を解決したことではなく、一種の洞察力により瞳子に踏み込み得たことが乃梨子に感じ入らせたようです。

このとき祐巳は「姉妹」ということに関してほとんど意識していなかったというのみならず、自らの働きをも自覚することはありませんでした。その自覚のなさもまた、自分の好きなようにしただけという認識によるものだとすれば、祐巳のありかたが端的に現れたものと言えます。祐巳と乃梨子が信頼しあいながらも瞳子に関してはうまく噛み合ってこなかったのにも人物的な背景が感じられます。

以上のようにみると、キャラクターや人物相互の関係性のきめ細かな積み重ねの上に、瞳子や祐巳、乃梨子の現在が描かれているように思います。

[▽この項続きます]

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10-04

『大きな扉 小さな鍵』第一印象集 『大きな扉 小さな鍵』第一印象集,魎泙爛屮奪マーク

その本を最初に読むという体験は一生に一度だけ、最初にふと考えたことや感じたことを記しておくのも少しは意味があるのではないか。

そんな考えから、少し読んでは書くという形でしばらく書いてみようと思います。マリみてはとても軽く読んでしまえるので、却ってゆっくりと読んでみようと思うのです。全て読んでからこちらに来られる方が大半と思います。あまりにも見当外れのことを言っていたら広い心で赦してやって下さいまし。

巻頭部〜わずかに外している?〜

小さい鍵を少し捻ることで大きな扉をも開くことができる、といったサーボ機能のようなことが念頭にありましたから、のっけから少しつんのめりました。巻頭部には全くそのようなことには触れられていないのですね。

代わりに、畳みかけるように他の沢山のことが書かれています。

・いずれは開けられる:マリみてを読むときいつも感じられる、希望の提示しょうか。

・見つけにくい:ふとしたことが案外大切、という滋味掬すべきことが書かれるのでしょうか。

・向こう側から:鍵というたとえからはすぐに「開ける」ことばかり連想するのですが、ずいぶん厳しく、難しいことが書かれていると思います。

『仮面』に続いて『扉』と「心」もしくは「心の機能」を何かに仮託して表現する題が続きました。…そういえばマリみてには、一連の「心シリーズ」と呼べるものがあるのですね。

 悒僖薀愁襪鬚気靴董戮遼粗:祐巳の思弁的な内省。

◆愡厖咾燭舛竜找法戞祐巳の読んでいた本が夏目漱石の「こころ」。

2墜郢匳蘚仂譴痢慘檀さつさつ』の重要な題であり、数巻を経て「マリア様の星」で可南子が祐巳に語るところもあります。「祥子が祐巳の」「祐巳が可南子の」心をしっかりと認めるということが述べられており、話のはじまりと落ち着くところの両端で、異なる人物による同じ題材の体験について述べられています。「涼風さつさつ」の終盤と可南子の話は直接の関わり合いが無いにも関わらず、話がしっかりと収束しているように感じられます。

ただ、祐巳や可南子が祥子や夕子との関わりを通して得たものは自身の本来的・根源的な存在感のようなものではないかと考えると、無関係どころか大いに関係があると言えると考えます。

[▽この項続きます]

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10-02

瞳子と「演劇」を中心に ― 新刊『大きな扉小さな鍵』へ向けて 瞳子と「演劇」を中心に ― 新刊『大きな扉小さな鍵』へ向けてを含むブックマーク

明日は新刊の発売日ですね。今回の表紙は殊に不思議な構図です。瞳子からは鋭さは感じられず、憑物が落ちて少しぼんやりしているようにすら見えます。

一体にマリみてでは、話の大半が終わったあとでやっと何が主題だったのかが見えてくる気がするということが多いです。それは例えば、瞳子可南子の重そうな背景が隠蔽されてきたというような、不可知であることそのものに依存するとは限りません。明らかになってもなお、何が語られたのかがなかなか見えてこないなどということもあります。可南子については明るく(?)なって祐巳の前に現われてから、(むしろその可南子の明るさ故に、)やっとどんな主題を背負っていたのかが分かるような気がしました。

瞳子について今のところ、自分としては以下のような点が課題になっています。

変化の由来

瞳子は登場以来、変化しています。その変化は何に由来するものなのでしょう。例えば『未来の白地図』では不意に上機嫌な様子になっているところがありました。何か良いことでも良くないことでも、自分についての事情を「知る」ことのみが瞳子の変化にとって重要なことなのでしょうか。それともやはり、祐巳やその他の人物の関わり合いを通しての「自己理解」の過程が描かれているのでしょうか。マリみての読み方としてはおそらく後者が良いように思われますし、祐巳の影響は大きそうです。欠けたるものを祐巳に補われているのではないかという気はするのですが、あまり定かではありません。

仮面の二面性

関連して、「演劇」との関わり方の変化があります。「若草物語」の一件では、エネルギーを傾ける対象でありながら、欲望の対象としてではなくあたかも義務であるかのような関わり方として描かれました。(なお『子羊たちの休暇』でヴァイオリンを弾くところなどはどことなく似た感じもします。上手に弾くのには、能力だけではなくて熱心さも必要なはずです。しかし同時に、そつなくこなしているようでもあります。)それが『未来の白地図』で「小公女」を演ずるところでは、自己表出のおそらくはほぼ唯一の手段であるかのようです。(私はセーラのようではない、という「解題」が必要なほど込み入ったものでしたが。)では次はどうなるのか、と。またこの点を敷衍すると、必要があって習慣化し、何事かを隠蔽してばかりいるように見える「演技」の別の側面は、懸命な「自己表出」であるのかも知れないと思います。あるいは、そのように変化してきていると取るべきでしょうか。『仮面のアクトレス』では、瞳子の強固な意志が感じられます。

祐巳へ及ぼす影響力

瞳子「仮面」の硬さは、祐巳の持つ衒いの無いおおらかさの反定立ではないかとすれば、必ずしも良くないもの、妥協の産物としてのみは描かれているとは言えないと思います。

未来の白地図』と『仮面のアクトレス』では、一見弱々しいように見える祐巳の柔らかさは瞳子の硬さによって練り上げられ、鍛えられることで引き立ってゆくのではないかという印象がありました。祥子との間だけでは得られない種類の強さを身に付けているような。

祐巳瞳子にもたらす影響というだけではなく、その逆もあるのでしょう。

さてさてどうなりますことやら。

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09-16

断裂と再構築の力動 〜和歌三首にみるマリみて醍醐味断裂と再構築の力動   〜和歌三首にみるマリみての醍醐味〜を含むブックマーク

先日、旧くなったメールを整理していたら、とある方から四月頃に当ブログへ応援のメールをいただいていたにもかかわらず、すっかり見落としていたことに気が付きました。お詫びとお礼を致します。自己満足のものとは思いつつも、やはり嬉しく、励みになります。

個の心情を超えて

第一首 長らへばまたこのごろやしのばれむ 憂しとみし世ぞ今は恋しき(小倉百人一首では第84首)

第二首 風をいたみ岩打つ波のおのれのみ くだけてものを思うころかな(第48首)

第三首 君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな(第50首)

くもりガラスの向こう側』で提示された百人一首から取った和歌には、さまざまな含意を見てとることができるでしょう。祐巳は、さほど自らと深く関わりがあるものとして受け止めはしなかったようです。この自我親和性の低さは我々が和歌と接するときの普通の姿勢とあまり変わりがなく、自然なものと言えます。(たまたま選んだ取り札を自らに何らかの関わりがあると受け取る方がむしろ稀です。)しかし同時に、もう少し別の理由をも見出すことができるのではないかと思うのです。

占いですか」/「どうかしら」という祐巳祥子のやりとりからは、取り札を確かめる場面がどんな意味を持つのかは判然としません。ただ「占い」という語から連想されるのは、例えば"天の声"のような、外からいずれとも無くやってきて先験的に意味を付与するものとして三枚の取り札が示されたのではないかということです。「心情を移して(ママ)いるものでもあるまいし」という地の文と合わせると、今の祐巳や周囲の人物の気持ちのことを指しているのみならず、マリみてが持っている話の仕組み(あるいは少なくとも多くの場合に重要な構造となっている事柄)そのものが和歌に仮託されて表現され、他ならぬ祐巳もその仕組み、あるいは世界の中にいることが示されているのではないかと思います。作者の"天の声"が作中人物である祐巳に向けて発せられていると考えるのも面白いかも知れません。一度やや巨視的に捉えてから、祐巳についてはどうかと帰納的に考えると分かりやすいのではないでしょうか。

第一首は、現在からみた過去の関係から未来からみた現在が類推されており、現在過去未来を幅広く捉えた歌です。直接的には過去現在もつらいものであると言っているものでそれだけで重いものですが、つらい「今」は将来において回顧されたときはじめて恋しきものに逆転する、あるいはしうるという意味の転換・逆転が示されています。

これは、重い題材が扱われるときのマリみて通奏低音であると思います。『白き花びら』での、会って良かったと思える未来にすればよいという考え方と構造的に対応しています。佐藤聖は「そんな未来なんて、きっと来ない」と否定的だったのですが、どうでしょう、他の巻も合わせて見るとき、きっと来るであろうという予想を抱かせるに充分足りるようにマリみては描かれていると言えるのではないでしょうか。

一旦見方を広げてみると、第一首は必ずしも今現在の具体的な個の心情のみを仮託して表現したものと捉える必要はなくなります。そこで、このような意訳をしてみます。「物語が進むに従い、つらい状況にある今の人物の状況も懐かしいような気持ちでふりかえることができるようになるのではないか。かつての登場人物のつらい物語を振り返るときのように」と。かつての可南子を思い出して祐巳が懐かしさの感覚を覚えるところもあります。

さてそのような状況をもたらすものは何かといいますと、「別れ」であり「心が通い合わない」ということです。また、それを何らかの形で超克した結果、心境の転換が訪れます。すなわち、第一首はマリみての主たる力動を時間の概念を強調しながら俯瞰するものであり、第一首と第二首がその内容を述べているのだと考えます。

関係性そのものをさすと考える

第二首は片思い孤独を、第三首ではようやく逢うことができた後の喜びが歌われています。第三首は『義孝集』に「人のもとより帰りて、つとめて」との詞書がついた後朝(きぬぎぬ)の歌であり、一度逢えた途端に心境が転回したという面白さを含んでいます。「長くもがな」に、関係が成就することに伴う自らへの肯定感・積極性を含むところが注目されます。

ここでは恋愛に関するものという文脈を拡張し、「関係性が無いときの孤独」「再構築されることによる転回」の含意が最も強いと解したいと思います。

マリみてでは、関係性が断裂すること、そしてそれが再構築されてゆくありさまが、さまざまな態様をもって幾度も丹念に描かれてきました。

レイニーブルー」「パラさし

祐巳祥子、どもどもに仲直りして良かったという以上の変化をしています。また、そもそもの始まりの《無印》が祐巳にとっては第一首から第二首への転回ではなかったかと思います。

涼風さつさつ」の祐巳祥子

軽妙な筆致で断裂と再構築が描かれた点で、珍しいと思います。断裂と言っても主に状況によるものであり、内在的な孤独感は無いと言えるので挙げるのは不適切かもしれませんが。

「白き花びら」から「片手だけつないで」へ

出会いは別れの始まり」の逆の思想が描かれるとき、それもまた「断裂と再構築」の一つの形ということができるのではないでしょうか。過去の別れがあったため、聖は志摩子と支え合うようになったのだと言えます。「私の中で何かが壊れ、代わりに何かが芽生えていた」との独白から、聖の自らにに対する姿勢の転回点となったのは志摩子と「姉妹」になろうとした瞬間であろうことが伺えます。

可南子・夕子

そして極めて徹底した形で描かれたのは、可南子・夕子です。可南子は夕子から外的な事情によって引き離されたことそのものより、夕子がどのような気持ちでいるのかを知りえないことによる孤独として描かれたのが注目されます(後に「会うのが恐かった」と振り返っているように)。「特別でないただの一日」での情景は可南子・夕子の「姉妹関係の完成」として描かれていると思います。そして副次的に、可南子祐巳の間でも再構築が行われています。

…すると、必ずしも姉妹の成立のみが昇華をもたらすものではないこと、あるいは姉妹の成立にしても「断裂」の後に来たるものであるからこそのもののときもあると思います。

そしてやはり祐巳瞳子も、マリみての持っている力動の中にあるのではないか、祐巳のみならず瞳子も第二首にあるような孤独感のうちにあるのではないかと想像するのです。

素朴かつ直截な身体的表現

以上のような見方をすると、ほぼ例外なく、構築されたことの印であるかのように極めてはっきりとした身体的な表現が伴っていることに気が付きます。「抱き合って泣く」「手をつなぐ」というというのがそれです。なお「手をつないで走る」というのが、姉妹関係の始まり(「片手だけつないで」)、「友だち」関係の始まり(「マリア様の星」)、共に表われているのが興味深いです。

マリみてが発する希望 ― 人は変わり得る

やや広すぎる解釈かもしれませんが、第三首における「転回」の意味合いを強調するとこんなことも言えると思います。巻を通してマリみてを読むとき、人は変わり得るという希望をも感じ取ることができます。生い立ちや周囲の状況、そして本人自身の性質はいかんともしがたいものです。しかし「君がため」に大きく変わりうる。マリみてでは人物が苦悩を乗り越えるとき、周囲の状況が変わることによる解決は描かれません。主に一対一の、必然性が感じられる形での人間関係により自らが変容を遂げて行きます。姉妹関係のいくつかには救済の含意をも感じ取ることができる所以です。「君」とは祥子にとっての祐巳であり、可南子にとっての夕子であり、聖にとっての志摩子であり、志摩子にとっての乃梨子であり、さらにはまた、瞳子にとっての祐巳であるのかも知れません。

[▽この項終わりです]

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04-09

追体験の重奏 ― 「無印」への回帰と展開 追体験の重奏 ― 「無印」への回帰と展開 を含むブックマーク

こともあろうに、新刊発売から一週間以上経っているのにまだ読めていません。いわゆるネタバレは普段は気にせず、他の方々の感想を読んでから取り掛かることも多いのですが、今回はまっさらの状態で読み始めてみようかと思っているところです。発売直後の掲示板は独特の熱気があっていつも楽しそうですね。感想を読んでからの場合、皆が注目する箇所が先に分かっていて、実際に読みながらこのことを指していたのかと納得しつつ楽しむのですがそんな人は稀なのでしょうか。

理解ということの型

祐巳のなしている理解ということについてやや強引ながら分けて考えてみたいと思います。

関わり方自体が一つの理解の様式

無印》では祐巳の現在の状況が祥子の状況と重なり合い、「未来の白地図」では祐巳過去の状況が今の瞳子の様子と重なりあっています。,任蓮⊃搬隆恭个魑鬚蟒蠅箸靴過去と現在の時間の差は超克され、今現在の重なり合いと等値のものとなっていると言えるのではないかと考えました。時間の前後の概念を捨象すれば、具体的な詳細は違っていてもおよそ同じような体験に身を浸している、あるいは「他者の追体験をしている」ということになるでしょう。

それは、これまで長く抱いていた人物の像が機が熟して急激に色濃くなり、自分に近い生々しい存在として感じられることになる過程が全体として描かれていると言った方が良いと思われます。「無印」では祐巳は遠くからですが祥子を前々から知っていたわけですし、瞳子についても、もちろんそうです。予め知っていた期間は共に、マリみてで流れている時間軸で言うと長い方に属するのではないかと思われます。突然の出会いでもなければ運命的な出会いでもないわけですね。また瞳子の作った数珠リオについて祥子と訝しがる下りなどでは、瞳子を余裕をもって眺めることができる状態であることが示されています(祐巳が最も落ちついている幸せな時期であったと考えると、なかなか大変です)。

それがふとした出来事によって祥子瞳子にとっての苦悩が集約されているかのようなものに触れることになります。そこでは、内容が客観的に言って深刻そうであることの他に、祐巳から見た場合の生々しさ、距離感が縮まって感じられるという認識の様式が重要なものになっていると思います。距離感の縮まり方を強めているのが、立場も背景も全く違う同士であるにもかかわらずあたかも身をもって同じ体験をしているかのようなつながりなのだと思います。「無印」の温室の場面は、自分とは違う遠い存在であった祥子が、急に身近な存在として感じられた瞬間ではなかったかと思います。また「未来の白地図」の冒頭もそうです。

そしてどのようにしてそんな状態に至ったかと言えば、さほど強く祐巳が意図して物事に関わっていった結果ではありません。(瞳子が家に来たのも、突然前触れも無くやってきたと感じたと思われます。)この点を捉えれば祐巳は巻き込まれ型の主人公であることを示しているに過ぎないのかも知れません。しかしより肯定的に解せば、状況に巻き込まれているようでありながら動くことをやめない、祐巳の物事に対する接し方の良さが表れているとも言えるでしょう。瞳子に対してはつかず離れずの状態を繰り返しながら次第に印象を変えていきましたし、祥子に対しては肝心なところでは自分から追いかけたりしています。(正確な意味はほとんど知らないのですが、祐巳は「誘い受け」であるとか。関係があるのでしょうか。)機が熟したときに、なかなか得難い「追体験」という現象が起きたように見えるわけです。

ただ同時に、それは心が通い合うことに直接にはつながらないものなのでしょう。

深い踏み込み

瞳子演劇を中心に〜韻任蓮祐巳瞳子に対し局所的に深く踏み込んだのではないかと考えました。祐巳に満足感はありましたが瞳子からの直接の手ごたえは全くといって良いほど描かれておらず、その段差が面白いです。…しかし、瞳子祐巳の手を握り返す場面はまさに「手ごたえ」であるわけで、抒情的ですらある場面です。

包容力を示して全人格を受け容れようと…

そして前々回のコメントでほっぷさまがされている表現は、腑に落ちてくるものがあります。それは祐巳がしようとしているがなしえていないことであり、また「無印」で祐巳が垣間見せた姿勢ではないかと思います。

未終の「無印」 ― 大団円に含まれる心残り

祥子さまのために、自分はいったい何ができるのだろう。/「ロザリオをください」

祐巳は、二回申し出て断わられています。そして二回目に申し出たときは、祐巳は既に自分がロザリオを受け取ったところで全て解決するわけではないことを知っています。また、祥子からもやりとりは不要であると既に言われています。

この場面は祐巳瞳子に申し出、そして断わられる場面に重なってきます。

・その場だけを見れば「取り急ぎ」の感があります。何かをしたいが何ができるのかは分からず、さしあたりできることはロザリオのやりとりしかない、という状態です。

・しかし、単にそうすることが役に立つかもしれないという事情のみに依存しているわけではないのでしょう。やはりその背景には、関係を切りたくないというニュアンスも微かに伺われてくるようです。

ここでの祐巳の気持ちにつき、両想いでないことを辛いと思うという過程を経ながらふと祥子の内面に触れ、そして身近な存在と感じ、姉妹制度を通して人間的な繋がりを持ちたいと思う瞬間が描かれたのではないかと思われます。

祐巳は学園にすっかり馴染んだ生徒として登場していますが、個人的な気持ちのつながりが姉妹へのつながりへとなだらかに結びつくありさまは、やはり制度とも親和性があるように書かれていると言うべきでしょうか。ただ、このときの祐巳の気持ちというのはもっと考えなければならないかも知れません。姉妹関係を結ぼうとするとき、好きという気持ちはもはや語られていないことが注目されます。瞳子に対しても、決して好きとは言っていないのですね。「制度を通しての繋がり⊇好きという気持ち」であり、ずいぶん意味が拡張しています。…この点、どこか借り物のように姉妹関係を見る白薔薇の話とは対極的といえるでしょう。

前回のコメントよーすけさまが詳細に述べられている、これから成熟が必要な部分の原型が「無印」に表われているのではないかと思われます。

祐巳「でも、私、何も」

祐巳は、祥子に対して何かができたとは思えないまま姉妹となりました。一方、祥子は「してくれた」と述べ、ただ自動的に姉妹になるのではなく、何らかの実質が必要であることを知ったと言っているようです。

祥子「賭けとか同情とか」

祥子は最後まで、祐巳の行いが同情だと思っていたのかもしれません。しかし祐巳主観は「未来の白地図」におけるがごとく、同情ではないのに、というものではなかったでしょうか。祐巳が示したかったが示し切れずに終わったのは、もっと全体的な繋がりを持ちたいという気持ちだったのではと想像します。

無印」で未だ終わらざる物語を微かに含みながら姉妹となったかつての「妹候補」は、今はより大きな意思と現実的な問題を抱えて「姉候補」となっているのだと思われるのです。

[▽この項終わりです]

ほっぷほっぷ 2006/04/30 22:22 瞳子と演劇を中心にと韻任りくりまろんさんが指摘している部分で。
「瞳子は可愛い妹を演じていた」〜中略〜。これでは嘘つき・作り物のニュアンスを伴います。
別の要素があってあたかも親密であるかのように振舞う必要があったのではないか
どちらも、くりくりまろんさんは肯定しつつ修正、否定されています、けれども。
BGMでの瞳子の甘えるような態度が祥子の為である可能性。
この事は、視点の切り替えとして面白い話です。
瞳子の態度、言葉使いに私が感じたのは、幼さの名残であり、甘え、媚びる事で自分が大事にされたい、守られ愛される存在でありたいという、自己主張、表現であり、取り立てて祥子だけに向けられたものでないと想っていました。その後の言葉使いの変化は瞳子の内面の変化、幼さとの決別にすぎない、そう感じていました。
しかしながら、嘘、偽りの必然の構図として、1)自分を守るため。2)自分以外の対象を守るため。3)自分が利益を得るため。4)自分以外の対象が利益を得るため。とその複合パターンが想定できる。
そうであるなら、くりくりまろんさんが指摘している可能性は否定されるべきことではないです。
取沙汰される事が多い「銀杏の中の桜」の瞳子の行いも、読者がどう読み取るかの差が激しい部分を内包しています。
瞳子は自分の利益を求めず、志摩子、乃梨子の幸せの為、汚れ役を行ったとする読者。または逆に、瞳子は山百合会の祥子らに媚びる為、汚れ役を演じる行為自体を楽しみながら、行ったと感じとった読者。この2つの読み方が可能なのでしょう。
そこで、幸せなエイプリルフールを信じられる人とそうでない方2極化が生まれてるようです、ちなみに、私自身は「瞳子! あんた、その前に謝れよッ!!」の怒鳴り声の後に乃梨子の抜群の笑顔を想像してます。
なんか、まとまらないですがそれではまた。

ほっぷほっぷ 2006/05/02 13:17 追記、おそらく、くりくりまろんさんは、批判される事の多い「銀杏の中の桜」の瞳子の行いに対して、批判者側の視点に立ち瞳子が「祥子らに媚びる」ではなくやさしさを生み出す妹であった可能性として昇華させようとしたんだと想うんですが、作者がそういった描写をしていないため、カウンターバーとしては興味深く面白いのですが「或いはそうであったかもしれない」の域を出ない可能性話になっていると想います。
私としては、この時点の瞳子が山百合会の祥子らに媚びる為、汚れ役を演じる行為自体を楽しみながら行う、様な人間でも一向に構わないで、人間味があり可愛らしく思えます。認めているのは、最低限の節度を持ち相手を傷つけない思い遣り、そして驚きを与えるため不安感を持たせる演出。2面性がありながらも楽しく許せる範囲です。

kurikurimaronkurikurimaron 2006/05/02 23:32 ほっぷさんこんにちは。偏奇とも思える見方は、思いつきとして弄っているうちは面白くはあるのですが同時に少し心細かったりもするわけで、掬い上げていただきありがとうございます。
「人間味があり可愛らしく/可能性話になっている」…はなはだ同感です。さほど詮索しなくとも良いことかもしれませんし、本当の動機は特定できるようには書かれていないようです。
…瞳子観は述べられているように、読む人それぞれでしかも大きく違いそうです。
巻が進むにつれ瞳子の守りの姿勢が強くなっていくようであり、また隠れていた暗さが前面に出てきているかのようにも読めそうです。そうするとネガティブさが前面に出て来るほどに、かえって光が当てられることになる瞳子の成長力や明るさ、エネルギーがあるのではないかと探したくなりますし、それが僕の一つの偏向になっています。
近くで印象的なのは白地図に纏わる瞳子のエピソードでした。第一義的には夢が色褪せてしまう、未来が閉ざされてゆくということの喩え話です。しかし少しだけ詳細に見るならば、ただ過去の出来事に現在を仮託するためだけではなく、過去も現在も一貫して瞳子らしさを形作ってきたものに近接する話、すなわち瞳子の原体験に近い話として描かれているのではないかと思います。エピソードにおける時間が遠い過去であることは、その人にとって中心的であることを示すことがあります。
すると垣間見えるのは、怒られてしまうかもしれなくとも(すなわち世俗的な諸々の障碍があろうとも)、それでもなおユニークな何かを生み出そうとする傾向と意欲です。さらには瞳子は独特の強い感性の世界を持っていることをも示唆しているのかもしれません。白地図を好きなように、しかし綺麗に塗ってしまうというのは問題行動であると共に日常的な利害を超えた何事かであるわけで、滋味掬すべき話だと思います。
…となると、例えば「銀杏の中の桜」では「媚びるため」というのも否定はできないのですが、「楽しみながら」していた可能性も大いにあり、「志摩子・乃梨子のため」であったとするのも良いと思います。そしてさらに、自他の利害の文脈を超えて(そのときには結果的に自己犠牲という形になるのかもしれません)「生み出したい」と願っていたのではないかとも思います。この点を強調するならば「銀杏の中の桜」は問題行動であると同時に新たなものが生まれた瞬間が終盤で描かれており、整合性があるように感じられます。
しかもこれらの動機は必ずしも相容れないものではないので重層的にも解せます。重層的というのでは何物も説明していることにならないという批判は甘んじて受けます(汗)。

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03-27

追体験の重奏 ― 「未来の白地図」から 追体験の重奏 ― 「未来の白地図」からを含むブックマーク

一言の下にネタと切り捨てられかねない、しかしそれでも一つの見方として纏めてみたい、今日はそんな葛藤に満ちた題です。

柏木氏の言葉や後には山百合会も巻き込んでさまざまな考え方があることを知り、それでも祐巳は「私の妹に」と瞳子に言って断られてしまいます。祐巳瞳子に対する気持ちの俄かとも思える昂まりは、情緒の面に限って言うならば祐巳瞳子を家に引き入れるところに主に描かれています。

「かわいそうでならなかった」「肩を引き寄せて抱きしめていたのかもしれない」というのは、自分が守ってあげたいという強い衝動の表れであり、「頬がカッと熱くなる」というのも衝動を言い当てられたことによるのでしょう。祐巳瞳子の間の「姉妹関係」の端緒がどこから具体的に現れてくるのか楽しみにしながら待っていたのですが、それは祐巳の気持ちの変化であり、しかも祐巳が「姉妹関係」に関して持っている文脈のうちのおそらくは最も大きなものに沿っています。以前「薔薇のミルフィーユ」に関して「姉というものの無視し得ない属性がお母さん役にあるとするならば、その役に失敗したと思っている祐巳が今後姉としての自分を想像し現実の中で形作ってゆくことができるのか、とても覚束ない気がしてきます。」と書いたことがあるのですが少し訂正しなければなりませんね。挫折し、回復を経て、再びより強い気持ちが持てるようになったのだと言った方が良いでしょうか。なお「姉」を守るのに失敗したと思い深い後悔の念を持つ「妹」というのは祐巳が始めてではなく、可南子がそうでした。祐巳は(祥子を)愛したいという気持ちを傾ける機会を失って泣き、次いで(瞳子に対して)流れが堰き止められて大泣きすることになるのですから、このようなあり方自体、マリみてはたいへん優しい世界だなと改めて思いました。

さて…

パラさし」・「未来の白地図」にみる心身一如の思想

・手を引いたときの手は、ものすごく冷たかった

・今は何も言わずに冷えた身体を温めてやりたい。疲れた心を休ませてあげたい。

冷たい感覚を祐巳が知ることに大きな焦点が当たっています。

/瓦葛藤により、自ら体を冷やしてしまう。

葛藤そのものは直接扱われることなく、拾われて他所の家で温まってから家族のもとに帰る。

…という形で話を大掴みにすると「未来の白地図」の祐巳の家は「パラさし」での加東景の下宿先の家のようです。かつて祐巳は雨に濡れてすっかり身体を冷やしてしまいました。それが今瞳子の身に起こっているかのようです。身体感覚の生々しさを手がかりにしながら祐巳は自らの体験を瞳子に重ね合わせたのではないか。瞳子が辛い状況にあることに文字通り身をつまされ、今度は自らが瞳子を温めたいと思ったのではないか、ということが伺えるようです。

レイニーブルー」では三題とも、雨が効果的な心象風景として描かれていました。風景は感情と密接な関係にあります。しかし単に心象風景というにとどまらず、感情と身を置いている状況とが一体化して後々まで記憶に残るようなイメージとして構成されるためには、身体感覚が大きな手がかりとなるでしょう。(ちなみに「ロザリオの滴」の終幕、「だったらもう、私は寒くはないわ」は極めて身体的な感覚に重きを置いた表現です。寒さという身体感覚に志摩子の持っていた孤独感が集約されています。関係がスール制度に定位されることでぴったりとくっつくことができると言っているようです。)

中村二郎著『術語集〈2〉 (岩波新書)』の「記憶」の項から。

想起的記憶はまったく身体から切り離せるものであろうか。いうまでもなく、人間は心身の高次の統合体であり、いまや人間において、精神とは、活動する身体のことだと見なされている。そして、記憶が担うイメージ的な表象は、つまりは、身体的なものを基盤とした感性的なものだからである。

…少し込み入った文体ですね(汗)。記憶イメージとの関連性、イメージは身体に依拠していること、そして心身は一如であるという思想について述べられています。なおイメージというと通常は視覚イメージをさしますが、心理学の分野で研究対象となるときは五感全てを含み、視覚イメージはその一部をさすに過ぎないことがあります。おそらく上記では五感全てにまつわるイメージのことをさしているのでしょう。また「イメージは心と体を結ぶ言語である」とも言われます。

パラさし」で祐巳が落ち込んでいる様子、そして救われるところは、心身は一如であるという見方・立場を話の基礎に導入しているかのようです。「濡れた体で冷えた心を抱きしめて」「冷えた身体を温めて、〜それこそが、今の祐巳に必要なものだったのだ」等となっています。身体的なことは心の中の出来事の結果なのですが認識の世界ではいつの間にか一緒になっています。また二回目に訪ねたときは聖にぬいぐるみ扱いされながら心地よさと甘えの気持ちを自覚し、このとき(聖の側からですが)身体が温かい、ふわふわとしているなど、直截な身体的表現がなされています。冷たさとは対極にある感覚と言えましょう。

ただ同時に注目されるのは、「自分が笑えるくらいの余裕があることを知って、少し驚いた」「傷ついたのは心だけで、この肉体に直接のダメージはないんだ」「じゃあ、心って何だろう」と、心と体は別物であるという考えも述べられていることです。心身が冷え切っている状態をおおもとにしながら、それに抗うかのような理性の働き、自我の働きを認識することまでが描かれているのです。

未来の白地図」で祐巳の感じ取った瞳子は、体が冷えていながら祐巳の前に現れたときは気丈にも微笑んでいます。また、割合はっきりと受け答えをしています。瞳子にしてみれば初めて訪ねる他人の家に、いかにも悄然として現われるわけにはいかないといった気遣いがあったのかもしれません。すると祐巳は、瞳子の冷えた身体のみならずそれとは相反するような瞳子の態度・姿勢をも含めて感じ取ることで、いや増して瞳子の辛さを自身の経験に重ね合わせて知ることとなった、と言えないでしょうか。

そして記憶を呼び覚ますという点では、身体感覚が重要な手がかりになったのではないかと思われるのです。

直截には書かれていない構造

話の仕組みから以上のような推測ができるものと仮定しても、厳密にはもう少し複雑です。読み取れるようになっているだけで、祐巳が具体的に思い出したとは全く書かれていません。書かれていないのだからもちろん実際に思い出したわけがないという立場を取れば、上記引用文に言う「想起的記憶」とは異なってきます。

これは《無印》での話の仕組みと似ています。祥子の「内実の伴わない婚約を強制される」という状況と祐巳の「一方的にロザリオをかけられそうになる」という状況は重なっていました。祐巳が「ロザリオを下さい」と翻意するのは、身をもって祥子立場を理解することができたからだ、あるいは少なくとも無視し得ない要素の一つではあっただろうという推測が成り立ちます。…推測ができるだけで具体的には何も書かれてはいませんが、重要な構造ではありましょう。「未来の白地図」の冒頭は、「パラさし」と「無印」へのオマージュであり翻案ではないか、そんな想像をするのです。

想起ということを緩やかに解せば、祐巳は仮に意識には浮かばなかったとしてもまさに身体で覚えていたのであり、想起の過程を一気に省略し、かわいそうでたまらない気持ちが沸いてきたのではないかとも取れるところです。

付記:心の優位 ― 形あるもの・形のないもの

一方、「涼風さつさつ」では目に見える身体は本質ではなく、目に見えない「心」が本質であるという考えを説いています。身体と精神を二元的に捉え、さらに「心」を見つけることの難しさと歓喜が描かれているようです。

[▽続きます]

よーすけよーすけ 2006/04/06 23:53 祐巳が瞳子に対して姉妹の契りを申し入れたのは、瞳子に対して同情してという面は確かにあるかもしれませんが、しかし祐巳はそもそも瞳子が置かれた状況の全容を把握してはいませんし、瞳子がその中でどうしたいと考えているのかも知っていません。ただ単に親と対立しているという状況の断片を知っているだけです。また、それに関して瞳子本人や柏木から情報を引き出し得る機会がありながら、ことごとく躊躇してしまっています。
祐巳の瞳子に対する一方的な同情の下にある真情は、瞳子が何を考え何を求めているか自分が知らない、瞳子に強い関心を持っていながら瞳子の内面に踏み込む勇気がない、瞳子を把握しきれないまま瞳子が遠くなってしまう、ということに対する焦燥ではないでしょうか。
この焦りこそが祐巳に衝動的なロザリオの提示を行わせた最大原因であろうと私は思います。瞳子をどうにかして自分に繋ぎとめておきたい、それは瞳子のためではなく、祐巳自身の不安を解消するための行動であって、瞳子が喝破した通り「気の迷い」でしかありません。(直前に志摩子が祐巳に対して「焦ってはならない」と忠告しているのは、祐巳の焦燥感を感じ取っていたからでしょう。)
しかし瞳子も、それが祐巳の「気の迷い」であることを見通していながら、その衝動が単に同情と憐憫の情から起きたものだとしか考えておらず、瞳子そのものに対する祐巳の(状況と無関係な)関心や執着から発生しているということまでは洞察できていません。
祐巳は瞳子の拒絶を受けて初めて「瞳子を妹にしたい」という自身の欲求を自覚しましたが、なぜ瞳子なのか、なぜ瞳子でなければならないのか、という点については自身の中で未だに言語化できていません。それを明確にできない限り、瞳子に「それは同情や憐憫ではない」ということを納得させるのは非常に困難でしょう。
また瞳子の側も、見えやすい部分だけで相手の意図を推し量って、その奥を見ようとしない頑なな態度を改めないことには、祐巳の好意を受け入れる隙は生まれないように思われます。
この二人が相互理解を得るまでには、まだ長い時間がかかりそうです。

kurikurimaronkurikurimaron 2006/04/10 09:35 祐巳が瞳子から断わられる下りはあまりイメージが沸いてこなかったのですが、貴重なご意見をありがとうございます。おそらくよーすけさんの読み方は正確なのだろうと感じます。情報を引き出すこととロザリオの提示は、本来順番が逆なのではないだろうか、という疑問は少しは出てくるところです。

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03-22

瞳子と「演劇」を中心に ― 取り込まれゆく祐巳の要素 瞳子と「演劇」を中心に ― 取り込まれゆく祐巳の要素を含むブックマーク

透徹した対象への没入

翻って「ジョアナ」の瞳子がどのようであったかをみてみますと、一貫して「居場所があるかないか」ということに拘っているのがわかります。要らないと言われて矢も盾もたまらず出奔したが、やはり要る存在であることを再認識して自ら戻ったということになります。ただここにいう居場所というのは少なくとも表面的には、どうあっても仲間を求めているのではないことが注目されます。山百合会の劇への参加もかなり自発的であり、(祐巳可南子がいることも影響しているのでしょうが)劇についてならば押しかけるようなこともするのです。

演劇」と向かい合うとき、自らをあたかも機能中心の道具のように扱っている様子が「ジョアナ」からは分かります。機能というのが極端であれば、「役割」というのが相応しいでしょうか。役割としてしか見ようとしないのは自らに対してのみならず、認めてくれており、味方であるはずの部長に対しても等しく及んでいます。

そして練習も熱心と評され、役を掴むという成果も得ていることからは、注ぎ込むエネルギーという点では並みのものではないのです。すると瞳子自身の動機・充実感は一体どこにあるのかという疑問もでてくるところです。演劇という事柄の中に自己を捧げ主体を対象の中に溶け込ませているかのようであり、自らを「必要不可欠の駒」とするのは、その端的な表現です。

このとき瞳子自身の能力・才能・達成ですら、演劇に向き合うときの一つの機能、役割の一部になっていたように思われます。瞳子エネルギーを注ぎ込んでいながら、逆に演劇からは何も受け取ろうとはしない態度もまた特徴的です。通常であれば努力を惜しまないことや能力が高いということにより、割合純粋なものから俗的なものまで、多くの果実・見返りを期待してもおかしくはありません。また、それには周囲から認められたり、さらには能力を通して集団・仲間に加わることができるといった帰属にまつわることも含まれるでしょう。…しかし、あまりそのようなニュアンスも感じられません。

すると"先輩A"に対して怒り出すというのも、無神経である、あるいは気持ちを解そうとしていなかったとばかりは言い切れない気もします。持っている文脈が違っているので瞳子を見るときの"先輩A"の辛さや焦りがそもそも分からなかったのではないかと思われます。「見た目と地」だけで選ばれたという言葉は第一義的には努力や能力に対する冒涜なのですが、瞳子の感覚としては「役を汚された」というのに近かったのではないでしょうか。

「役割」を「私」に引き戻す

ただ、それでもやはり瞳子の「私」の部分は完全に消し去ることはできず、演劇との合一感が妨げられるとき傷つくのです。そして瞳子が忌むのは、何の力を発揮することもできず、ただじっとしていて情愛を受けるだけの人形「ジョアナ」が表すような無力感なのだろうと思います。(人形の寓意を見棄てられている惨めさに見るか、無力な感じに見るか、力点の置き方によってややニュアンスが異なってくるところです。)

ここで祐巳の言っていることや関わり方を見てみると、多くが瞳子の内心と合致しています。「損失だよ、損失」というのは自らの努力と能力を思い出すのと重なっています。

しかし当初の目的と違い、かつ瞳子の内心とも違う部分もあります。「すごいじゃない」と我が事のように喜び、「家に来て練習すれば良い」等と相当積極的です。我が事のように喜ぶというのは、それ自体は何の目的も持たない点で自己完結的です。(なお、「家に来れば」というのも多くは自らの楽しみのために言っているようであり、これが原因で後に「未来の白地図」で瞳子祐巳の家に来ることになったのだとすれば、祐巳の与える影響が思わぬところで出ているようで面白いです。)しかし常識的に妥当な判断を示す、あるいはできるだけ相手の立場に立って考えるといった努力とは別の、相当な難しさがあるのではないでしょうか。というのは「私」の部分が充実し、しかもそれを素直に重ね合わることで初めてできることだからです。

そして「部員たちに文句を言わせないくらいいい演技をする」というのは、「居場所があるかないか」ということを気にせず、本来的な意味で力を発揮せよという意味に結果的にはつながっていきます。弓子が「あなたの選んだ」お姉さまなのだからと祐巳に言ったような、主体性の回復を促し、これまでの文脈の転換を図るような言葉と言えるのではないでしょうか。

この点瞳子と「演劇」を中心にで、はちかづきさまが《祐巳には「しなくちゃ」ではなく「したい」という思いに突き動かされての行動がしばしば見られ》とされているのはけだし慧眼であると考えます。瞳子のために居場所を確保しようとしながらも、祐巳から全体的に伝えられているメッセージは、「瞳子自身のために演ぜよ」ということであり、「それによって私をも楽しませよ」ということです。

…中庭の方を見て静かに言った。/「何か、つまんなくなっちゃっただけです」という下りは、強い怒りでも悲しみでもない、何か忘れ物をしているがそれを思い出せないでいるような、微かな空しさの感覚が感じられます。瞳子の「私」の部分、埋没しかかった《本当の自分》が祐巳によって思い出され、補われていったのではないかという気がするのです。できごとの直接のきっかけはいろいろと言われたことなのですが、根底にはどのような関わり方をしているのか、という話でもあるのでしょう。

瞳子を見送ったまま視点は祐巳のもとにとどまり、「ジョアナ」でも瞳子が苦笑するところで終わっているため、祐巳言葉のほとんどは投げかけられたままであり、その後の内心の布置の変化は分からないのですが。

なお、祐巳が「何もできなかったよ」と後に乃梨子に語っているのは、必ずしも祐巳自己評価が低いためばかりとは言えないのかも知れません。したいという気持ちに基づく行動は、しなければならないことをして達成することより達成感やコントロールの感覚は低いものだからです。

重層的な人物像

内心での向き合い方と、外側から伺われる姿とは少しずつずれがあるようにも見えるところでしょう。祐巳は多くの場合は弱弱しく、さほど強力に物事に働きかけることはしません。しかし時に強い影響力を及ぼすし、内面では(「ロザリオの滴」で乃梨子志摩子に言っていた「欲張り」と同じような意味で)欲張りな面を持っています。

一方、瞳子の一番表層に見えるのは目立ちたがり屋の派手好き、といったところでしょうか。髪型にしたところで、周囲にそんな印象を与えている可能性はあります。しかし奔放かと言えばそうでもなく、慎重な面、あるいは物事との距離をうまくとろうとしているかのようなそつのなさも目立ちます。そして、ここに描かれている、物事に深く関わろうとするときの内面は相当ストイックであり、同時に純粋さと熱心さも持ち合わせています。瞳子祐巳ドラマは、この重層性が絡まり合いながら形作られてきたのではないかと思われます。そして、普段は違いがありすぎるためすれ違いがちな二人の性質が、同じ題材を巡って深い次元でふと重なりあった瞬間が、ここで描かれたのではないかと思います。

そして、これまでの瞳子の行動は、信念や熱心さは感じられるのだがその一方で瞳子自身の満足はどこにあるのかが今ひとつ判然としないような自己犠牲的なものが多かったのではないか、演劇においてその関わり方が端的に現われたのではないかと思われるのです。そして、演劇という場こそは力を投入すべき居場所ではなかったかと思います。

以上のことは、主に「事柄」に対してのものでした。しかしどうでしょう、例えば祥子との関係においても、一方的に支え、あるいは励まそうとしようとしていたようには見えないだろうかと思います。祐巳と違って祥子から何物も受け取ろうとはせず、しかし熱心さはあるのです。ミルクホールで祐巳が感じた瞳子の瞳の「まっすぐさ」は無私の純粋さにあったのではないかと思います。(この点、祥子に対して甘えるような態度は、本当は大して好いているのではないのだが別の要素があってあたかも親密であるかのように振舞う必要があったのではないか、さらには「演技」だったのではないかという見方があるとすれば、少々違うような気がするのですね。少なくともそれは祥子のためではないかということを、やさしさを引き出す「妹」であった可能性 で述べました。)そして瞳子祐巳の間で描かれなければならなかったのは、お互いの背景・立場を捨象してもなお残る、祥子への向き合い方の差ではなかったかと思います。

なお、瞳子祐巳の違いを何らかの生い立ちの違いに求めようとするならば、漠然とながらこんなことを考えます。祐巳は自由に泣いたり笑ったりできるような場にもともと恵まれてきていました。しかし「お邪魔でなかったら」「ご迷惑でなかったら」などと遠慮する瞳子はどこか居心地が悪そうです。何事かに対して自由に振舞ったり気持ちを傾けること自体が、どうかすれば周りに迷惑をかけることに繋がってしまうかような恐れがあるのかもしれません。何かに「抑え込まれている」といった感じがします。しかし一旦見つけた対象には、祐巳とはまた違った純粋さをもって向かっていくのではないかと。

瞳子=エイミーの含意

すると、「エイミーはつないだ手を、ギュッと握り返してきた」にはいろいろな含意を見て取ることができるでしょう。瞳子即ちエイミーであるという、現実にはありうべからざることを修辞的に述べた一文は印象的です。ここで複数の見方が成り立つとしてもそれらは必ずしも排除し合うものではなく、幾重にも重なった意味を持つと見ることもできると思います。

,海両賁未任祐巳の視点から衣装を着たたままの瞳子のことが述べられています。すると第一義的には、瞳子の演技がとても良かったことを示すのではないかと思われます。祐巳が見てどう思ったのか、あるいは広く客観的にどうだったのかは直接的には述べられていません。しかし祐巳から見てその時瞳子にエイミーという役が宿っていたことを端的に表しているのではと考えれば、(祐巳の視点であり、同時に客観性を持つ叙述としての地の文でもあるこの一文では、)瞳子即ちエイミーであると言えるほどの演技の良さを表していると考えられるでしょう。

一方、後から「ジョアナ」を読むにつけ、「ふてくされたような」顔をしていることや「エイミーに戻らなければ」という下りからは、エイミーの像とは程遠い瞳子自身が対照的に示されているのではと思われます。すなわち、役とそれを演じる者との乖離(または他者性)を強調した、反語的な表現です。あるいは手の方がより深い気持ちを表しているとすれば、「やさしい手」を拒みながらも奥底では握り返したいという気持ちもあるのではないか、少なくとも感謝の気持ちが込められているのではないかと取れそうです。

しかし最後に、さらに積極的な意味合いをも含ましめることができるのではないでしょうか。

瞳子にとって得がたい対象である演劇とのより幅広い関わり方ができたこと、あるいはできつつあることを端的にさした一文であるとも取れそうです。ここでは実際の瞳子が役からかけ離れていそうなことは必ずしも問題となりませんし、むしろその結びつきを一層強めるものなのかも知れないのです。

瞳子祐巳の「やさしい手」を拒み、「未来の白地図」でもロザリオを受け取ろうとはしません。しかしここではしっかりと手を握り返しているのは、二人が共有している場所が違うからと考えられます。そもそも「劇の完成」には最終的には熱心な観客がいてはじめて到達することができるものです。演劇という地平において瞳子は"エイミー"であり、祐巳もまた演者と対抗し、そして不可分一体の存在である熱心な観客でした。そして、瞳子演劇との向き合い方をより成熟したものにするためには祐巳の持つ「私」の要素を必要とし、抵抗を示しながらも受け入れていったのではないかと思われます。

おそらく「不可欠の駒」でありたいと願うような心性は急に消えて無くなるものでないでしょう。しかし、祐巳祥子という対象の主体性と自らの主体性が表裏一体のものであることを知り関わり方が変わっていったように、瞳子演劇に対する関わり方も主体性の加わった一層幅広い関わりかたに至っているのではないかと思われるのです。

似て非なる「〜でなければ」

以上のことからやや見方をひろげていくと、瞳子祐巳の間にあるのは、必ずしも「守り・守られる」関係・文脈上に乗っていゆくことができないという葛藤のみではなく、それを包含するような、もう少し広い関係・文脈ではないかと思われます。瞳子祐巳に対する思い入れは、自らがこれまであまり十分に生きてこれなかった面を祐巳の中に認めることにあるのかもしれません。祐巳と関わることで次第にそれが補われていくようであり、しかし同時に苦労・苦痛を伴うものなのではないかと思われます。「イン・ライブラリー」の「のりしろ」の部分をはじめ、他でも見られる苦情にも似た祐巳に対する言葉から何となく伺える気がしてきます。

ただ、祐巳の側からすればそのような関係にはありません。乃梨子の「祐巳さまは、瞳子じゃなくてもいいと思う」(しかし瞳子にとっては祐巳でなければだめ)というのはこのようなことをさしているのではないかと思います。ふと流した乃梨子の涙は、瞳子祐巳を必要とし、そのことが同時に苦痛でもあることをも知り、瞳子の代わりに泣いているような気がします。

一方、「未来の白地図」での他にやさしい子は沢山いるけれども瞳子ちゃんでなければ〜、という祐巳の思いは「妹」として自分の対象愛を満たし、傾けてゆけるのは瞳子のみであることが分かったと言っているようです。そして祐巳にとっての対象愛というのは守ってあげることであり、互いに「守り・守られる」関係というのはまさに祐巳祥子との間で醸成してきたものなのですから同じ文脈の延長上にあります。この点で祐巳の考えや振る舞いは納得のいくものです。

佐藤聖の「格好良さ」

上に述べたように祐巳の持つ性質に瞳子が触れながら何らかの影響を受けたとするならば、それは「祐巳が影響力を及ぼした」と言えます。しかし逆の側から見れば瞳子祐巳の要素の一部を取り込んだと言えるものでもありましょう。なお、自らが十分に持っていないものを見出し次第に取り入れていくようなことは他の「姉妹」関係の中にも散見され、たいへん重要意味を持つと考えます(ただ、興味深いことに祐巳祥子の間ではあまり無いようです)。瞳子祐巳の間は相当捩れてはいるものの、「姉妹」的な要素を基礎としては持つと言えるのではないでしょうか。

似た例として、「姉妹」ではないが祐巳から影響を受けた、あるいは祐巳の要素を取り入れた人物として佐藤聖がいました。祐巳は聖をいろいろな場面で必要とし助けられたのですが、何かれとなく世話を焼きながら、別の意味で聖も祐巳を必要としていたのだと言えます。そして聖はそんな関係の持ち方に極めて肯定的でした。

「Will」では「私は祐巳ちゃんになりたかった」と進学の道を選んだこと、次いで自らを「こんな格好いいやつ」とややナルシスティックと受け取られかねないことを言っています。聖の自己像は(良くも悪くも)自分は特別な存在だという強烈な特別意識に多くの部分が根ざしているのでしょう。負の方向に働けばなかなか救いがたいほどの疎外感をもたらし、しかし将来に向けて生きようとしたとき、自分は周りとは違う、すなわち「格好良さ」という陽性の認識に変容していったのではないかと思います。この点、割合はっきりと祐巳の自己像が語られているところがあり、聖とは極めて対照的です。「俗的で、取り立てて珍しくもない、小さな日当たりがあれば勝手に根付くタンポポみたいな雑草」(「涼風さつさつ」)というのですから。

そして、祐巳から見えざる補充を受けるのは「幸せな時間」であり、自分を作り上げているという感覚もまた、格好良いという自意識につながっているのだと思います。

[▽続きます]

ほっぷほっぷ 2006/03/26 15:21 こんにちは、新刊発売を前にして、くりくりまろんさんのコラム
瞳子と「演劇」を中心に 銑院8直しました。
,法「真夏の一ページ」で「ボーイミーツガール」の後、帰りがけにバス停で祐麒と祐巳が話し合っているところです。
「あの子、可愛いね」さらりと祐麒が言った。「幼稚園児を眺めて『可愛いなぁ』って思うことない?そんな感じに近いかな」「…別に、わかってくれなくてもいいや。俺自身も、誰かに説明できるほどはよくわかってしゃべっているわけではないから」
くりくりまろんさん曰く「直感的で曖昧なところこそ、何かの真実を示しているのではと思います。」
この言葉、興味深いです。ちなみに子供は心と体と行動すべてに未熟さを感じさせます、それを可愛いと感じることは自然なことです。それは、対象が無力であり守られるべき存在として必要性を想起させるからだと思われます。
何故、祐麒は瞳子に対して幼稚園児の様で可愛いという印象を持ったのか判然としませんから「直感的で曖昧」まさに至言ですね。
ところで、私ですがまりみて巡回中、あいばさんの処で黄バラ気質なる言葉と出会いDBではスール選びの判り易さに差異があるとの指摘を読み。
勝手に赤バラ気質「なんとなくだけど気になるから放って置けない。」というのを銘々しました。
それで、考えたんですが人は理解できない対象と向き合うことは苦痛や怖れを伴います。
未成熟なもの未分化のものを曖昧なまま、受け入れることはある種の才能や覚悟が要る。
何故なら人は、もう既に知っている事柄に対象を当て嵌め直して安心するか、理解できない事柄を完全に無視して興味の対象外にするか、その理解できない対象を攻撃して安心を得たいと図るのではないでしょうか?
そこで、愛情を傾けるべき妹(スール)対象との間に判り易い言葉に置き換えられないで「直感的で曖昧」な部分を内包したまま惹かれていく赤バラ的な様子は異彩を放っているのかもしれません。
ただ忘れてならないのは、姉妹(スール)は個性の異なるもの同士の関わり、相互理解、魅かれ会う様、助け合う様、それらが例えなくても一緒に過ごす時間の大切さを感じさせてくれる醍醐味があります。
そういった意味ではどう関わっていくかが見ものですから、楽しみな部分ですが出会いの差異はさほど重要でないのかもしれません。

ほっぷほっぷ 2006/03/27 15:39 すみません、続きを書かせてください、赤バラ、姉妹達においても、気持ちの触れ合っていくプロセツは秀逸であり、十分納得できるものです。
ただ、少々違和感を感じる部分があるとすればきっかけ部分です。
くりくりまろんさんは阿如崑仂櫃反爾関わろうするとき自己と対象との間に合一感がもたらされます。」と言及されています。
前半部分の「対象と深く関わろう」は、きっかけとして十分な動機があるべきではないでしょうか。
蓉子の場合、Answer冒頭の心象風景で祥子を怪獣に例えています。
そこには怪獣として惹かれるべき陽の部分、力強さ、カッコよさ、等は無く
見過ごされやすい陰というべき部分でのみ語られています。
抜粋ーいつも何かに怒っている。見えない何かと戦っている。戦う相手は、今日の目の前にある、何かでないことは、たぶん重々承知の上で。自分の存在を持て余している。この世界に順応できずにもがいている。
怪獣が、歩くたびに街は壊れる。けれど、傷ついているのは行き場のない怪獣の方なのかもしれない。
祥子の場合。無印での祐巳を見て気になり、「タイが、曲がっていてよ」と声をかけたことがきっかけとなってます。当時の祐巳は薔薇様候補として祥子自身から見ても心もとなく思ったことでしょう。
祐巳の場合BGNの瞳子の言葉に傷ついています。
「だって、祥子お姉さま。おっかしいのだもの、その方」
第一印象は最悪の位置からスタートしています。
、「なぜ、彼女を深く関わろうとする対象として選んだのか。」理解に苦しむ人も多いかもしれません。

kurikurimaronkurikurimaron 2006/03/27 22:33 ほっぷさん、見直していただけるとはうれしいような恥ずかしいような気持ちです。あいばさんのところは良く読ませていただいています。「少女創作ブログ」って…すごいですね。マリみてDBはちょくちょくと。
なるほど、あまりよろしくないものもそのままに呑み込んでいくようなある種の包容力というのが一つの通底流とも言えそうですね。蓉子は特にそうなのでしょうし、当初の祥子はさすがに違うようですが、最近では大変落ち着いた雰囲気を漂わせているようです。祐巳については、…そうですね、乃梨子が「貫禄」と言っているのは祐巳が誰でも受け入れそうな雰囲気を持っていることなのでしょう。
「タイ」の下りをはじめ、祥子から祐巳への関わり方については確かに僕も腑に落ちないところがあって長らく疑問です。ただ祥子の訝しさ、分かりづらさというのは一つの魅力ではあり、祐巳の視点に立って読む限り面白さの重要な要素となっていますね。
そういえば祐巳と祥子の関わりについても最初は祐巳の側からすれば最悪の部類であり、もはやマイナスから始めているかのようですし、瞳子についても殊更にそんな意図があるような。
祐巳の瞳子への思い入れについては、思いつきの域ですが急拵えで「未来の白地図」の始めの方に絞って書いてみようと思います。

ほっぷほっぷ 2006/03/28 16:20 くりくりまろんさん、読んでいただいたんですね。
「ある種の包容力。」と名づけましたかではそういうことで。
「ある種の包容力。」を示すにあたり、蓉子はきちんと覚悟しています、ひるがえって、祥子、祐巳は行き当たりばったりです。後者の2人が共に一度振られたのは面白いところです。
今回私が主題としたのが、赤バラにみる。判り難さなんですが。
「ある種の包容力。」を示して全人格を受け入れる態度を示しているのに。
マイナスイメージ先行というのは片手落ちなんですね。でもそこが壺なんです。そこで読者の側に考える素地が生まれます、「作中敢えて、語られていない部分を読者自らが探す感覚、膨大な余白部分に読者自らが書き込む楽しみが生まれてる、くりくりまろんさんはまさに体現者の先端を走ってます。
だから、妹候補達の美質を探し慈しみ応援したくなるのでしょう。
で祐巳の弱力性ー自分の像を肥大させずに満足を得る。
Г覇兄劼旅堝宛饗А室分が騒ぐことで物事を引っ掻き回すことは厳に慎みながら状況をしっかりと見届け、必要なことだけきっちり済ませるという態度。
等。作中特に賞賛され取り上げられてるわけでもなく、気がつき難い部分をくりくりまろんさんが取り上げてるのは流石です。
ちょと、話を戻しまして「ある種の包容力。」にまつわるエピソードを少し。
蓉子の場合、(Answer)危なかった。もう少しで、ロザリオを渡すところだった。祥子の「何か」を、一緒に見つけたい、そう思ってしまったのだ。ー中略ー
聖は皮肉っぽく笑った。「世話好きの蓉子に、お世話し甲斐のありそうな一年生」「世話好き、なんて言葉で片づけないで。私だって、誰も彼もの世話をやきたいわけじゃないわ」
祥子の場合、(紅薔薇のため息)「今、私が会いたいと思ったのは祐巳の笑顔よ。車の中で、私の手を握っていて欲しかったのは祐巳の手だわ。優さんじゃないの。それはだめ?」
祐巳の場合、(未来の白地図)瞳子ちゃんより素直な子は、たぶんたくさんいる。明るくて元気な子も。冷静な子も。やさしい子も。面白い子も。無垢な子も。でも、瞳子ちゃんじゃなければだめなんだ。その子が、瞳子ちゃんでないのなら、それらは意味のない賛辞の羅列にすぎない。
他にもあるかもしれませんが思い当たる所から選出、胸に滲みてくる名シーンです。もう、美質がどうとか、妹として相応しいとかないとか言ってるとこちらは恥ずかしくなります。

ほっぷほっぷ 2006/03/29 16:08 (妹に対して限定)の「ある種の包容力。」から選出したエピソードは、姉達が妹に何を求めているのかが、ぼんやり見え隠れしています。
ただやはり、感覚的すぎて言葉にし辛い。
辛うじて判る部分は、「あなたのこんなところが気に入ってる」のとか、運命、しがらみ、等を想起させる言葉がないこと。それらを使えば判りやすく楽だと想うんだけど使われていない。

ちなみにくりくりまろんさん鋭いです「当初の祥子はさすがに違うようですが」その通り「祥子様はやっぱり可笑しいんです」。
(無印)エピソードから。
その1−祥子さまは写真を手にすると、まず小さく首を傾げ、そのままゆっくりと祐巳の方に顔を向けた。眉間にしわを寄せている。でも「不快」というのとも、ちょと違う。祥子さまは、他には聞こえないほどの小声でつぶやかれた。
「どこで会ったかしら」
祐巳視点で今朝出会った事を完全に忘れてる事に断定されている件。
祐巳ちゃん突っ込むトコ違う。祥子様は目が可笑しいその写真はマリア像の前です、見てわかりますよね、ぼけないでください。
その2−祥子さま鈍感すぎます。志摩子さんにも一瞬でファンであることを見抜かれた、百面相祐巳が半年間事あるごとに見つめていたのにまったく気がつかないなんて。チョコレートコートの寧子と真純なんて本気で羨ましいと想うことでしょう、きっと言うはず「その鈍感さ少し分けてください。」
その3−自分の正当性に自信満々?「藁しべ長者、結構じゃないですか。あれは、確かラストはめでたしめでたしでしたわよね?」蓉子様は妹を取り替えるつもりかと聞いてるのにあんまりです。妹オーデションでは祐巳を藁にしようとしたなんて微塵も想っていない御様子。
その4言い負かされた祥子様「祐巳のことはずっと面倒みます。私が教育して、立派な紅薔薇にしてみせます。だったら問題ないのでしょう?」「思いつきで言うのはおやめなさい、祥子」「なぜ思いつきだとおっしゃるの」「あなた、祐巳さんとは今さっき会ったばかりじゃない。それなのに、どうしてそんな約束できるの」バチバチと。目に見えない火花が散る「本当はさっきまで、祐巳さんの名前すらしらなかったんじゃないの?」「それは・・・・」
そこで負けるな黄色い糸の江利子様を見習って堂々としていたらいい。
・・・とまあ、可笑しな事だらけです。

ほっぷほっぷ 2006/03/30 16:44 「ごめんなさい」特に祥子様ファンの方お遊びですからご容赦ください。
初期の設定の甘さを衝くとこういった見方も出来ますという洒落です。
お嬢様達の学園コメディとして狙ってた部分も多いと想われますし。
祥子様のお間抜けぶりにがっかりしないで火星に行ったと想い忘れてください。
長々と長文失礼しました。

kurikurimaronkurikurimaron 2006/03/31 13:53 …そういうところが好きなファンの人も多々いるような気がしますから、お気になさらなくて良いかもですよ。
・それらを使えば判りやすく楽だと想うんだけど使われていない
なるほど、特定できるものを提示しながら話が展開されるのではなく、あえて長い話の全体から次第に浮かび上がってきておぼろげに分かるように作られているのかもと考えると奥深いです(いつから祥子が祐巳に「夢中」になったのか、特定する必要もあまり感じないですし)。逆に例えば聖・志摩子などは、解釈・説明が容易かどうかは別として一つの軸に沿っていることが明確に示されているようです。
最初の出会いにつき、運命的なものを感じさせ、抒情性もある白薔薇さん家と比べると、祐巳・祥子については敢えて逆にしているのかもです。普段はしないのになぜかタイを直したということであれば、後に例えば「あのときはなぜか気になって」でも何でも、素敵なエピソードになりうるところです。わざと美化させないようにしているとしか。
・美質
主要な登場人物には必ず、何らかの形での類い稀な純粋さ、まっすぐさが書き込んであるような気がしますね。…あんまり言うとそれこそ恥ずかしいですが。(^^;

冬紫晴博士冬紫晴博士 2006/03/31 14:30 冬紫晴あらため冬紫晴博士です。「くもりガラス」読む直前です。手元にあります。
ちょっと気づいたこと。「(人形の寓意を見棄てられている惨めさに見るか、無力な感じに見るか、力点の置き方によってややニュアンスが異なってくるところです。)」というところから、思い出しました。
小公女で、セーラ(セエラ)がもっていた話し相手の人形の名前が、エミリーです。エミリーの愛称の一つがエイミーです。
「エミリー」は、「特別でない〜」「ジョアナ」においては「わがままでも愛されている女の子」のイメージとして浮かぶのですが、「白地図」での「エミリー」は、「小公女」においては、瞳子ちゃんがパーティーで寸劇を演じた場面のほんの少し後の場面で、普段は話し相手にしていて、もしかしたらものがわかっているのかもしれない、生きているのかもしれないと想像していたエミリーが急に「ただの、ワラの詰まっただけの人形」に見えて、当たり散らし床にたたきつけるという場面があります。
この辺りにも、作者が意図していたかはわかりませんが、おもしろいことに移住性があると思います。
「エミリー」は、わがままで愛される妹であると同時に、無力な人形でもあるのです。

冬紫晴博士冬紫晴博士 2006/03/31 14:32 すみません。「移住性」だって。「二重性」です。失礼しました。

kurikurimaronkurikurimaron 2006/03/31 23:56 博士号取得を機にHNを変えられるのですね。おめでとうございます。今後の研究生活に幸あれかし。
もう読み終えられているかと。僕は今日は無理です(泣
そこまで近接していると、なかなか無関係とは思えませんね。無力な感じを嫌っている可能性は高いと思うのですが…。ふと思ったのは、直前まで演じて見せるということは、少なくとも人形の像をすぐに否定した「ジョアナ」のときと比べて、(どんなものであるのかは明らかでないですが)自己像あるいは自己像との向き合い方に形を与えるに至っているのではないかということです。しかも直接的ではないにしろ祐巳にも伝えることができたというのは大きいと思います。
しかもそれを完成度の高い形でするというのは、すでに受容しているということなのか、受容はできないけれどもできないことを表現してみせたのか、何かすごい精神力を感じます。

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03-13

瞳子と「演劇」を中心に ― 初めに「私」ありき 瞳子と「演劇」を中心に ― 初めに「私」ありきを含むブックマーク

くもりガラスの向こう側」、あらすじが発表されているようですね。もやもやとした、不分明な憂鬱が描かれるのでしょうか。しかし向こう側も垣間見えるのだとすれば少し怖いような希望もあるような。題名自体がサスペンドな感じで不安を掻き立てます。

姉妹制度の知恵で問題を出したままほったらかしにしていた可南子・夕子の話に関し、小此木啓吾・北山修著『阿闍世コンプレックス』をテキストにして考え直そうと思い注文してみました。書店にはときどき行きますが何か目的があるときはネットで探すことが多いです。ほんとに便利ですね。

すごい話だったと思うものの、何がどのようにすごかったのかが今一つ腑に落ちず、言葉になっていません。そうか、「姉妹関係」の一つであったのだと思ったときは目の前がぱっと明るくなったような気がしました。しかし良く考えるとなかなか難しく、未だこれまたくもりガラスの向こう側にあるような感じです。今のところ、《可南子は夕子との間の姉妹関係が変容・成熟する過程を通して阿闍世コンプレックスを克服し、家族関係のしがらみを超えて自我確立させてゆく端緒を掴むことができた》という話ではなかったかという予断と先入観を持っています。…どうなりますことやら。

パラさし」にみる二人称への変化

マリみては多くの話が祐巳の視点で進められているのですが、時に他の人物のものもあり、視点が大きく切り替えられているように見えるのが面白いところです。淡々と見たままの事実を描写するものもあれば、込み入った考えや強い気持ちを表した独白もあります。そして独白の中には特に、外から伺うのは難しい、人物特有の内面の布置が比較的直截に見て取れるようなものもあります。(もっともいくら直截であるとは言っても、やはり読者による解釈も許されているのでしょう。また、強い気持ちが書かれていることとそこから人物の内的な特徴が見て取れることは必ずしもパラレルではありません。)読者は人物の数々の行動と言葉から特徴や内面をいろいろと推し量る中で、言わば「その人物本人の自我関与の高い」、あるいは自我が集約されているかのような独白に時に遭遇します。「ジョアナ」はほぼ全編がそうなのですが、前回引用部分の一節は、殊にこれに当たると思います。

前述したような瞳子の姿勢は他の諸々を省みない点で突き抜けており、透徹した純粋さを認めることができます。しかし一方ではやはり、極端に過ぎるのではとの違和感も感じられてきます。「レイニーブルー」・「パラさし」と「特別でない〜」・「ジョアナ」の話は割合似た形をしていて瞳子祐巳の傾向が端的に現れていると同時に、それ故に対照的なところが表われているのではないでしょうか。

対象と深く関わろうとするとき、自己と対象との間に合一感がもたらされます。あるいは合一を目指そうとします。(それは例えば「白き花びら」での聖の独白「なぜ、私たちは別々の個体に生まれてしまったのだろう」などと端的に表現されているところです。)合一感という点では等しいのですが、内面において祐巳は、自己に対象を強く引きつけ自己と対象との区別が判然としないような状態であり、一方瞳子は自己を滅して対象の中に埋没させていくような状態にあったものとして描かれているではないか、そんな違いが見て取れるのです。ここで自己というのは欲動の主体と言っても良いし対象と向き合うに際しての主体と言っても良いと思います。ここでは仮に「私」(わたくし)と称することにしましょう。

パラさし」の冒頭での「喜びに震える」「指先を心待ちにしている」というのは百合小説としての側面が強い表現とも取れる一方で、やはり祐巳らしさの一つとして書かれているのだろうと思います。心に祥子の像を抱ける限り、それは絶え間ない快さの源泉となることが示されています。それが「大切なオモチャを抱え込むように体を丸めていた」という自覚に変わっていきます。おそらく向き合い方の変化という点では、「パラさし」のハイライトは由乃と話しているときの「人間関係は一対一が基本だから〜ましてや祥子さまは祐巳の所有物でもなんでもなくて、人格をもった一人の人間」の一節にあると思います。ここで「瞳子ちゃんは関係ない」というのは、もちろん第三者を排除した狭い二者関係の中に閉じこもったのではなく、むしろ自己愛的な満足が中心の一人称の次元から二人称の次元に移る過程と捉えると良いのではないかと思います。

「私」と渾然一体の状態にある限りにおいて快さと安心感に浸っていられるが、しかし一旦喪失しかかる体験を通し、やはり自分とは異なる意思を持つ別個の対象であることが分かったという話だと思います。そうすることで相互交通性のある一対一の関係、「私」と「あなた」の関係が開かれるということが示されているようです。

「妹」に含まれゆく「姉」の要素

そして「パラさし」以降の祐巳の変化を眺めてみると、「子羊」の冒頭にあるような祥子との意思の疎通がスムースになったということのみならず、「好き」ということの意味内容が少しずつ変わっているようです。「レイニーブルー」では言わば自己愛的な「愛されたい」という気持ちに主な焦点が当たり、その延長上に「捨てられてしまうのではないか」という不安がありました。しかしそれ以後、対象愛的とも言える「愛したい」という気持ちも強調されており、独立した意思を持つ他者であることの認識に根ざすものではないかと思われます。

もちろんそれは「レイニーブルー」をきっかけにスイッチを切り替えたように変わったのではなく、六対四のものが四対六に変わった、あるいは自己愛的な部分を基礎にして対象愛的な部分をさらに広げていったのではと言う方が適切なのかも知れません。また、両者はもともと判然と区別できるものではないという見方もありましょう。ただ、「涼風〜」と「特別でない〜」の終盤のような「一身に愛される」ことが体現される一方、「真夏の一ページ」での出来事や「レディ・GO!」で垣間見える関係では祐巳から祥子に向けられた「愛したい」という気持ちが表現されているようです。それが「薔薇のミルフィーユ」に結実していったものと思われます。

なお、一体に「妹」という立場は「愛される」側として安定していて逆の立場はなかなか難しいように思われます。しかし「真夏の一ページ」や「薔薇のミルフィーユ」での相当の不全感を残しながら頑張る姿からは、やや逆説的ながら一歩進んだ「妹」らしさというのは「姉」のような振る舞いを含むことが示されているようです。そして、対象愛的な部分が汎化して今度は自らの「妹」へと向けられるのであろうと思われるのです。

[▽続きます]

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01-15

瞳子と「演劇」を中心に ― 対象と深く関わること 15:37 瞳子と「演劇」を中心に ― 対象と深く関わることを含むブックマーク

瞳子祐巳祐巳・弓子

「特別でない〜」と「ジョアナ」で異なる二方向から描かれた祐巳瞳子の話は、我慢強い相互理解の物語ではありませんでした。瞳子は状況をひたすらまくし立てながら自己完結して問題は自分で解決したので、一見、祐巳言葉のほとんどは虚空に消えていったかのように見えます。…ただ、瞳子の内心と祐巳言葉は多くが合致しており、祐巳言葉によって本心に気付いたという面も見受けられます。

作品の上では「特別でない〜」が先であり、その時瞳子はどう思っていたのかが「ジョアナ」で後に描かれるという形になっています。しかしむしろ凝り固まったような「ジョアナ」での瞳子の心象に、祐巳言葉と思いがどのように重なっているのかというふうに、逆方向の見方ができると思います。というのは、「特別でない〜」でみられる瞳子祐巳の関係は「パラさし」での祐巳祐巳の関係と構造的には類似のものとして描かれていると思うからです。

現象(実際に起こっていること)としては《普段より高揚している者(祐巳,弓子)から落ち込んでいる者(瞳子祐巳)に向けられた、確信に満ちた、やや一方的な語りかけ》です。

しかし同時に抽象的には《(瞳子に対する祐巳祐巳に対する弓子は)本人よりも本人について良く知り、見通しの良さを持った導き手であり、自己と対話をしているような意味合いを持つ》ものとして描かれているようです。

パラさし」では祐巳はさほど表立って弓子に反対はしていないものの、深く納得している様子ではありません。これは「特別でない〜」には書かれているが「ジョアナ」には書かれていない祐巳言葉を、少なくともその時は瞳子がシャットアウトしていることと軌を同じくするものでしょう。「パラさし」での祐巳には新しい知見を得たということに加え、蓋となるような障害(例えば「できの悪い妹」であるという考えにばかりとらわれること)のために覆われていた、本来的に内在しているもの(例えば自己に対する信頼感)を賦活させられたというニュアンスが感じられます。弓子の言葉が後からじわじわと効果を及ぼし祐巳のものの見方に影響を与えていったように、やはり瞳子祐巳言葉に感応していくものがあったのではないかと推測されます。それは自ら頭を下げに行き、一応の解決をした後のことなのかもしれません。すなわち一段奥の段階が「ジョアナ」の後に、祐巳が何もできなかったよと乃梨子淡々と語った後にあるのではないかと思われるのです。

向き合い方の変化が主眼の話だったのではないだろうか

パラさし」で描かれた祐巳祥子への向き合い方と、瞳子演劇との向き合い方を照応させてみたいと思います。風変わりな考え方かもしれませんが心の姿勢、あるいはエネルギーの傾け方という点に着目すると同一の文脈の上で見ることができると思います。ここでは「お芝居好きでしょ?そんなの見ていればわかるよ」という直感的かつ確信に満ちた祐巳言葉が手がかりとなりそうです。マリみてでは好きという言葉が頻繁に、そして多様な意味合いで用いられています。展開される話の基底には、「どのように」好きであるのかという問題がいつも流れています。日常的にも「好き」さらには「愛している」という言葉は、人に対してのみならず事柄に対しても用いられるところです。

また「レイニーブルー」と「ジョアナ」は、それぞれの場面に至るまでの描かれ方自体に注目しても、似た形をしています。

,修譴召譴両賁未泙任漏箙膵く了解可能な、言わば穏やかな好きという気持ちが伝わって来るようです。祐巳はもともと祥子の「ファン」であったわけですし、以降の祥子に対する向き合い方もおよそその延長上にあります。「女優業に専念する」などと言っている瞳子も、なるほど熱心に取り組んでいるのだろうと思わせられます。

△靴し引き金となるようなできごとによって対象を喪失しかけ、同時に怒りや憎しみの気持ちが表明されます(祐巳は珍しくも、はっきりとした憎しみの気持ちを瞳子に対して抱きます)。そして読者は内心の表白と共に、強い執着心にも似た思い入れをいくらかの意外性と共に知ることになります。

そして一旦対象を失った後に回復がなされます。「パラさし」において最後に祐巳にもたらされたのは対象の回復であったのみならず、そのできごとを通しての対象への向き合い方の変化です。「ジョアナ」において瞳子も同じような体験をしたのではないかと思うのです。

演劇部の劇」の現代性

どうにでもなれ、とうち捨てたはずなのに、確かにまだ私は「若草物語」に未練がある。

 エイミーをやりたい。

 口では「私なんかよりずっと上手にやれますわ」なんて言ったけれど、私以上にエイミーを掴んでいる役者はいない。あの劇を成功させるためには、私は演劇部に必要不可欠の駒なのだ。

瞳子が自分が不可欠の「駒」であることに改めて気付き、「あの場所」に戻りたいと思い直すところです。

このときの祐巳は何かの影響を瞳子に及ぼしていたというより、瞳子が自らの姿を映し込んで良く見えるようにするためにだけそこに立っているような、鏡(あるいはスクリーン)の役割をしていたと言えます。(ただ、「鏡」のように話を聞くこと自体、割合難しいことと言えます。)しかし状況が整い、このときの瞳子のように探索的な態度を短い間でも取ることができるならば、今まで見えていなかったことも見えてくることがあるようです。

「駒」という表現に注目すると、一見没個性的でやや非人間的な響きのある言葉です。しかし瞳子自身の状況を見る前に演劇の側から見た場合は相当の正しさを含んでおり、一つの理想形に至っているとさえ言えることは触れなければならないでしょう。

「地域でも一目置かれていて、結構本格的な劇をやる」、「生徒会が余興の延長線上で行う芝居とは違い、かなり本格的」というふうに、演劇部の劇が本格的であることが強調されています。「とりかえばや」の準備の時や、《無印》での衣装の詰め物をめぐる和気藹々とした情景などとはかけ離れた部分もあるのでしょう。本格的であるということはすなわち技術が第一に問われることであり、劇の完成度が極めて重要なものとしてほぼ唯一の目的となりえます。そのためには個人的な思い入れや勝手な解釈は背景に退かざるを得ず、皆が「駒」である必要があります。「役を掴んでいる」「必要不可欠の駒」という自覚は、この目的瞳子の中でしっかりと内在化されていることを示し、それだけで驚くべきものと言えるでしょう。(音楽の分野でもオーケストラでは指揮者は「音の演出家」と呼ばれ、時にはまるで楽器を扱っているかのように、指揮者が「オーケストラを鳴らす」という言い方がされます。ここでは指揮者の目指す表現を良く理解し忠実に実現するのが良い演奏家であり「駒」という言い方と親和性がありそうです。)

ただ、そうすると演劇における役者の主体性はどこにあるのかという疑問が生じてきます。『演劇入門』演劇入門 (講談社現代新書)を読むと、「俳優は考えるコマである」と題する一章が設けられています。「劇作家演出家としての私にとっては、俳優はあくまで実験材料でしかない」としながらも現代演劇では演出家に絶大な権力があることの問題点を指摘し、その上で現代の演劇では俳優の「作品創作への自覚的な参加」が殊に要請される…などと論じられています。

なお祐巳が「主役の一人」と言っているように、「若草物語」には唯一の主役がいないことは興味深いと思います。高校演劇であれば、特定の役者を中心に構成を考えるスターシステムとはもとより無縁なのでしょう。しかし、主役が複数いるような題材を選び、できるだけ枠を広げるような配慮があったのではないかと思います。「演劇入門」には「多くの現代演劇では主役ははっきりしないし、それは場面ごとに大きく変化する」と述べられています。瞳子が主役級であるのに「駒」と思っているのはこれいかにという対照性を浮き立たせるためのものだとしても、マリみてでの「若草物語」は古典的な題材でありながらつとめて現代的な演劇活動として描かれているのだろうと思います。

[▽続きます]

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01-03 でっかくない謹賀新年です

『未来の白地図』 ― 役との繋がり 00:53 『未来の白地図』 ― 役との繋がりを含むブックマーク

明けましておめでとうございます。更新頻度が矢鱈に低くしかも読みづらいブログに関わらず、目を通したりコメントを寄せてくださる方々がいるのは有難い限りです。

ラストスパートに入ったプリキュアに関連する方々の記事も昨年は沢山読ませていただきました。実際の放送を見逃しても記事だけでお腹一杯、満足ということもあったりして(笑)。"ARIA"は和みました。

役との関わり ― 共感・同一化・目標・乖離

何とも散漫なのですが、瞳子と「若草物語」「小公女」での役との関わりについて今考えていることを述べたいと思います。

・共感の対象:他人とは思えないような親しみを感じたり、自らとの共通点を見出していたのではないか

・憧れと目標:共感とはやや違い、物の考え方が共感できるなどといった自らとは違うが良い性質をその役が持っている、あるいは物語の中での自己実現の過程が示されているのではないか

・同一化の対象:物語で示されているのと同様の行動様式を知らず知らずのうちに取っていること・またはペルソナの形成との関連性

・乖離:自分は役が表しているような人間ではないという意識はどの程度なのか、さらにはいつ出てきたものなのか

…というふうに分けて整理しようとしたところ、とっちらかってしまいました。それにこのような考え方自体が合っているかどうか不明なところです。

まず分りづらいのは、瞳子と役との間の類似性が必ずしも役に対する思い入れとは繋がるものではなく、むしろ相反するものであるかも知れないことにあると思います。実際「見た目と地」と言われた途端に激しく抵抗していますし、役を掴むという体験とは相容れないものです。従ってエイミーは憧れる「他者」として捉えられていたのではと思います。…ただ正確にはエイミーというキャラクター自体への思い入れは明確には示されておらず、単に練習の成果としての思い入れかもしれませんし、もしくは「見た目と地」であることは分っているけれども更に役を掴むことができのだと解することもできるわけです。ただ、『特別でない〜』で「エイミーはつないだ手を、ギュッと握り返してきた」という描写からは役との間に何らかの人格的な繋がりがあることが暗示されているようです。

ごく大まかにはこんなことを考えます。

役の担っていた夢や良さというのは思い入れのもとになっていたが、その一方で次第に自らに対しては失望の念が強くなり、迫真の演技という形に昇華されて残っているのではないかと。なお、エイミーも将来は女優として大成する人です(ただし最初から女優になりたいと言っていたわけではなく、Little Women の続編で出てくる話かと思います)。

セーラは不幸な境遇にも関わらず割合前向きで、登場時の瞳子が何となく意欲的な頑張り屋の風情があることを連想させます。大体11歳くらいに不幸に遇っており、瞳子もこの頃に喪失にまつわる何事かがあったのではないかなどと思うのですが、書かれてもいないことを推測するのは禁物ですね。

セーラはいただいているTB瞳子ちゃんとセーラ・クルー;"I Tried Not to Be"の中で詳しく触れられていますがPrincessのようであろうとして自らを支えており、「施し」を惨めさを我慢して受ける場面があります(瞳子が途中まで演じたところです)。かつて瞳子は「薔薇様になりたい」と言っていたとのことであり、このあたりは何となくPrincessのようであろうとする姿勢と重なるのではと思われます。また、想像をいろいろとめぐらすのが得意なことは、「銀杏の中の桜」で制作・出演してしまう点を思わせます。

人形は基本的に愛玩の対象ですが、自らの否定的な分身としての意味を持つことがあるようです。セーラはかつては瞳子にとって共感の対象で、エイミーは後に目標になったのではないかというふうに時間軸に沿って縦に考えると良いかもしれません。名前に注目し、作中で頑張り屋のセーラに何もしないと叱られた人形(Emily)は長じてエイミー(Amy)となり、それは瞳子にとっての目標でもあったが、同時に影となるJoannaという新しい人形に向き合わなければならなくなったのではないかと。

なお、エイミーは後に手紙の中でJoannaをばかにしてごめんなさいと謝っており、瞳子が今まで見向きもしなかった側面に向き合わざるを得なくなることを暗示しているのかもしれません。「未来の白地図」の終盤からは自らの否定的な面に気付き始めているばかりか、浸り切りそうになっているように見受けられます。

冬紫晴冬紫晴 2006/01/04 02:12 瞳子ちゃんが途中まで演じたところは、「自分の格好がみすぼらしいことはわかっていたが、まさか乞食に見えて、しかも施しを受けるほどだとは思わなかった」ことから、プライドを傷つけられたというような場面です。その一方でそのときのセーラの態度は乞食らしからぬ、洗練された態度であったため、施しをした男の子の姉たちが「あの人は乞食じゃない」と言う場面です。この場面はずいぶん複雑ですね。
 セーラが「私はプリンセスだ、それも妖精のプリンセスだ」と自分に言い聞かせ、行動にそれが反映される場面は、他にあります。
 それから、瞳子ちゃんが演じたエイミーに関して、瞳子ちゃんは「演じたい」と思った理由が引っかかっています。エイミーという役に入れ込んでいた様子は少なく、「特別〜」や「ジョアナ」の記述をそのまま受け取ると、山百合祭における演劇部の劇を成功させるため必要な駒だから、とあります。
 もう一つ、瞳子ちゃんは「BGN」で祥子に、高校に入ったら祥子お姉さまと同じ部活に入りたかった、というようなことを言っています。これが本心からのものだったとすると、演劇に対する思い入れに疑問が生じます。「自称女優」といいますが、「女優志望」というのは彼女がそう言っているのではない、と思うのですが……どこかに記述があるでしょうか?

kurikurimaronkurikurimaron 2006/01/05 12:58 >途中まで演じたところ
複雑ですねー。瞳子ちゃんの立場に近いところと違うところが混じっているようです。今のところ手に負えないのでギブアップして寝かせておきます。
>女優志望
これは確かにどこにも書かれてはいないことですね。可能性は高いと思うのですが、これに限らず材料をつぎはぎに無理に合わせるのは控えないといけないかもです。
>演劇に対する思い入れ
「特別〜」「ジョアナ」では他でも見られる瞳子ちゃんの一つの傾向や癖が現れているのではないか、そして一方、演劇に対する熱意というのも確かにあるのではないかと思います。「高校に入ったら」の下りはこの時点では何かの芸事であれば何でも良いと思っており、次第に演劇に傾倒・集中していったのではないでしょうか。むしろその変化こそが描かれなければいけないことではなかったかと。
頂いたコメントをもとに少し頭を冷やして、次項で考えてみます。

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