『量子の新時代』佐藤文隆 井元信之 尾関章
- 作者: 佐藤文隆,井元信之,尾関章
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2009/07/10
- メディア: 新書
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数式を使う、量子力学の使える点は、エレクトロニクス、コンピューター、半導体物理学の基礎として。だから、使えきゃ仕事にならん。そして、それはミクロな現象のハナシだ。量子とは、作用の最小単位のハナシ。単位に分割できない、最小値が存在する。モナドがイメージとしての物質を無限に分割していく姿から、作用量という抽象空間の状態ベクトルへ変ずる。
波動関数Ψとは、ヒルベルト空間の状態ベクトルという、抽象空間のハナシだ。抽象空間にいっぺん入って思考する。日常空間の空間概念だと理解できないわけだ。
で、理系は、ファインマンの言うように、量子力学(数式)を使うが、意味(日常意識への翻案、マクロへの投射)は行わない。オトナであると。
根源病患者のヒマ人が、アインシュタインであり、シュレディンガーであった。で猫は、我輩はと同じく、高等遊民的な戯れであると、観られていた。現を抜かすと。現を抜かす前に、研究せい(数式を使え、計算しろ)というわけだ。
「コペンハーゲン解釈」はオトナびとの妥協的解釈。理論と生活世界(フッサール)を架橋する(解釈する)。しかし「観測者とは何か」、「観測とは何か」を定義しない。理論突き詰めにはアマイ解釈(だからオトナの解釈だ)。
理論整合性だけを突き詰めると、多世界解釈に軍配が。しかし生活世界、日常意識からは解離した、トンデモない世界。ここでは科学者は、一般人に話すときは、ある種の曖昧さの戦略を取る。
「ボーム解釈」は、古典的物理学、常識的感覚の延長を目指す。それは「隠された変数」を要請する。「隠された変数」はベルの不等式、アスペの実験では否定される。無限後退的なカミの要請。
栗本慎一郎「意味と生命」は生命の量子論とも銘打たれているが、やっとこの2011年理解可能な、枠組みが見えてきた。しかし栗本先生は、アインシュタイン共感、あくまで隠された実在を求める、「ボーム解釈」流の志向性に見えるが、後日、観えてきたら、書くことにしよう。
理論整合性からは、「多世界解釈」であり、ミクロの実践、テクノロジーの分野では、量子コンピューティングは、確率の重なり合いの状態(ミクロ状態)を、壊さず(収縮させず)そのまま結果として、マクロ世界(日常世界)へ持ち帰る。
確率の逆数が情報量であり、熱力学の統計的、確率的表現は、情報に転写されていく。情報一元論へ。
エネルギー保存則は、情報の保存則へ変換。情報が失わなければ、確率も失われず、多世界解釈とならざるをえない。
この「解釈」という、コトバを味わって欲しい。量子力学こそ、科学者と、その他大勢、のアイダのハナシなのだ。
理解(生活世界の日常人)と制御、使用(科学者)の分離。もつれ合いw分離ともつれ。ここは、味わいどこだ。スルメのようだw
実は「理解」と「使用」は、面白い、苦味ある問題なのだ。
数学を理解しなければ、ヒルベルト空間を理解していないと、量子力学のホントウは「理解」できない。確かに。しかし、そこをブラックボックスとして「使用」できるのだ。その「使用」は、テクノロジーへの使用(ファインマンが表現した思想)が、「正統的」な「使用」であると科学者は言うが、「世界観」へ「使用」しても、いい訳だ。逆に科学者は、世界観については、「解釈」というコトバで、戯画的に落とし込んでる面がある(高等遊民、ヒマ人のやることだ)ので、ありえなーい!、と言う。
実は科学の諸分野においても、「理解」など到底不可能なのだ。素粒子物理学者が、発生生物学のことを、「理解」することなど、できない。ホントウは「使用」することさえ、無理なのだが、ある種のルールにおいて、「科学的な物言い」という場において、かろうじて「使用」できてるかのように、装えるだけなのだ。
どこをブラックボックス化して、「使用」するかは、自由度がある。みんな科学者はやっている。ブラックボックス化は、オトナには当たり前だ。
「世界観」に特化して、数式をブラックボックス化して、「理解」することは、可能である。
あなたは、どの部分を、ブラックボックス化して、今話してますか?、は面白い問いである。