多田道太郎の『日本語の作法』

 昨夜の月は上弦の月だったが、今夜の月も、高く天頂に輝いているのだった。『蕪村句集』に、

寒月や門なき寺の天高し
寒月や枯木の中の竹三竿(さんかん)*1

 先日、朝日新聞の日曜読書欄で小池昌代さんの金谷武洋・著『主語を抹殺した男 評伝 三上章』をめぐる書評を読んだ。
 多田道太郎の『日本語の作法』*21984年(角川文庫)を読んでいると、「かくされた文法」と「外来語」で、すでに三上章の考えにもふれられているのだった。〈はなし言葉とかき言葉、和語と漢語、現代語と古典語。〉そういった日本語の面白さやむつかしさをめぐる軽妙なエッセーである。日本語についてささやかながら一冊の本を書くことができたとして、多田道太郎氏は「あとがき」に、

 ことばの海はひろく大きい。日本語だけの海もひろい。向こうは何も見えない。私は、日本語の海岸の、ごく狭いところで、波や白砂とたわむれてきただけである。
 近ごろは海も汚れてきた。ゴミは捨てられる。岸は埋めたてられる。こんなことで日本語という海はどうなるのだろうか。そんな不安の声がたかい。
 ところで、海の向こうについて私の知っていることはわずかである。  しかしこの本では、つとめて海の向こうから日本の海岸を望もうとしてきた。波は見飽きない。美しい景色というのは、ものの一時間も見ていると見飽きる。波は飽きない。それは恒常のなかに変化があるからである。変化――と見えるもののうちに恒常があるからである。
 遠くの沖から海岸をみると、波の諸相は、変化のうちに悠久(ゆうきゅう)の姿をみせる。つらなる一本の線のうちに、これが日本語だと思えるものがうかんできた。  224頁

*1:竹三竿―深草瑞光寺元政上人の墓。「只竹両三竿ヲ栽エテ塔ヲ建テズ」(草山集)。  尾形 仂校注。

*2:asin:4022611596