ドストエフスキー/ゴーゴリ/水村美苗/辻邦生/カポーティ

手紙、栞を添えて (朝日文庫)クリスマスの思い出貧しき人びと (新潮文庫)外套・鼻 (講談社文芸文庫)冷血 (新潮文庫 赤 95C)
19世紀の小説はやっぱし、いいですね。 『貧しき人々』(ドストエフスキー)、『外套』(ゴーゴリ)を読んで、小説とは近代小説のことであり、現代小説は小説なのであろうか、と思ってしまう。どうも、近代と現代を断面させる小説の切り口を内面/自我と手前勝手に仮説工事をしても、あんまり説得力がない。ぴぴさんから借りた『他者と死者』(内田樹著)はラカン精神分析理論を手掛かりに、レヴィナスの「他者論」を読み解く本らしいが、読了するまでに、正月を迎えるでしょう。イメージとして、近代小説の<私>は他者とは切っても切れない内面であって、現代小説の<私>は他者とのつながりを断った断とうとする病んだ自意識の自我であって、内面をシャットアウトした自意識の外面(表層)っていう理解をしているのです。だから、近代小説を読むと、す〜と、世界が広がる感じで、小説の余韻を楽しむことが出来る。手元に、水村美苗と辻邦夫の往復書簡集『手紙、栞を添えて』があります。水村さんが辻さんに宛てた手紙の一葉から、

[……]/『外套』の主人公、アカーキイ・アカーキエウィッチは、役所で書類を清書する以外に脳のない五十男です。貧乏で、風采があがらず、誰からも馬鹿にされ、無視されている。そんな男がある時、思いきって外套を新調することを決意します。長年貯めた小銭をかき集め、つましい夕食をさら切りつめてのことです。ところが外套はなんと出来上がったとたんに盗まれてしまい、その衝撃の中に男は死んでしまう。その後しばらく夜のペテルブルグに、通行人の外套をはぎとる幽霊が出没します。/この哀しくも滑稽な短編小説が、なぜこんなに人の心を打つのでしょうか。/男がつぎはぎだらけの外套を抱えてオドオドと仕立屋を訪ね、もう修繕不可能だと宣言され、うちのめされるところ、それでいて外套を新調するのを決めたとたん急に心が晴れ晴れするところーーこのような状況が、こうも読者に切実に感じられるのでしょう。つまり、なぜ、『外套』は優れた小説なのでしょうか。/実は、この問いほど答えるのにむずかしい問いはない。/念入りな心理描写、正確な細部、必然性をもつ筋の展開ーーそのような要素をいくら並べても、「なぜ」ある一つの小説が優れているかを語ることはできないからです。ただ、「いかに」その小説が優れているかを語るのは不可能ではない。/そのいい例が、なんと、ドストエフスキーの『貧しき人びと』なのです。『貧しき人びと』は、一瞬のうちに、しかもきわめてユーモラスに、『外套』の真価を語ってくれます。その方法は単純かつ深遠です。『外套』の言葉からもっとも遠くかけ離れた言葉を引き合いに出すのです。/「ウラジーミルは身震いした。情熱は狂わしく彼の身内にたぎり、血は燃え上がった。『伯爵夫人……あなたはこの……狂乱がどんなに底なしのものかご存知ですか?……』『ウラジーミル』伯爵夫人は彼の肩に身をもたせながら、夢見心地で囁いた」。/ラ! あな恥ずかし。/『貧しき人びと』 の主人公にとって、小説とはこのような恋物語でしかありません。右の如き文章を長々と引用したあと彼は言う。「すてきじゃありませんか」。ところがその同じ男が、『外套』を読んだとたんに怒りだすのです。彼には『外套』という小説が、どうしても自分のことを書いているとしか思えない。彼は憤慨する。自分の人生をあんなふうに無遠慮に、赤の他人に書きたてられるなんて!/男のこの怒りこそ、『外套』が男の「現実」に切りこんだ証にほかなりません。「小説」(フイクション)の反対語は、「現実」ではない。それは「絵空事」です。「小説」というものは、まさにそれが「絵空事」ではないこと、すなわち、「現実」に切りこむことによって命をえるのです。[……]ー(文庫版144〜147)

上記のカキコは旧ブログをネタにしたものです。その折、shohojiさんから、カポーティの『冷血』について圧倒的なリアリティの怖さについてのコメントがありましたが、エンターティメント系のように推理、時代、SFといったジャンルごとの共通の了解、文法を前提においたプロレス的リアリティでなく、演出と舞台装置に依りかからない、言葉だけでの、リアリティの獲得は近代であろうが、現代であろうが、関係がなく、言葉を依代とするだけですと、その呪術行為に作家は賭けるしかないのでしょう。