外から意味を問う病

機動警察パトレイバー2 the Movie [DVD]WATARIDORI~もうひとつの物語~ コレクターズ・エディション [DVD]書物の未来へ日本につける薬解説屋稼業
◆最近、bk1にあまり書評投稿をしていないが、「毎日書評賞」を受賞した富山太佳夫著『書物の未来へ』(青土社)は随分評判がよいのですが、富山さんにとって書評は読書の一部らしい。一番楽しいのは本を読むこと自体で、その喜びを引きずっていると次の本は読めない。だから書評を書くことで、自分なりにその本にけりをつけるんだそうです。成程、そういう手順なんだと一応の了解をしましたが、書評を書くスタンスは千差万別であろうけれども、大まかな共通項は作品批評を社会の視点で物語ることが多いのではないか、人文、社会科学書などは別段異を唱えるべきでなくむしろそうあるべきですが、こと小説に関してそんな批評はまずいんではないか、でも、そうでない視点で小説書評を書くことはぼくの力の手に余る。自己PRカラオケと徹すればよいのですが、「新潮二月号」の保坂和志『散文性の極致』を読むと、冷汗もんです。

小説は、―小説という概念が生まれる以前の小説の起源としての散文であるところの―アウグスティヌスの書き方に顕著にあらわれているように、その小説の中で特異な思考の組み立ての手順が実現されることであって、それによって、その小説が書かれる前には読者が考えていなかった問いやこの世界に対する不可解さ―控え目に言えば、その小説を読む前にははっきりとは感じたことがなかった気分―が浮かび上がってくる。それらは小説を通じて実現されるのであって、小説の外から持ち込んでくるのではない。/ある小説が、その小説が書かれる前から社会の中でじゅうぶんに認知されている問題を、社会と同じ視点から書いても、問題の質的転換は起こらず、すでに問題とされている問題が強化されたり、固定されたりするだけだ。(231頁)

◆読むに値しない小説は社会の視点と同じフレームで書かれているものであるなら、そもそも、読む小説が少なくなってくる。ゆっくりと古典を再読でもよい、読むしかないか、カフカでも、ドストエフスキーでも読みますか?結構、新中古書店に行くと、全集ものが百五円で美本で売られているので、ちょうどいい。もっぱら、小説は古典耽読で楽しみましょう。保坂さんも小説をこのところ書いていないことだし…。書いてもらいたいものです。画像はここ数日に観たDVDです。

ポップ・書評・解説

◆とみきちさんのブログで「書評の立ち位置」なるページがあり興味深く読ませてもらったが、日垣隆さんは『日本につける薬』でプロとして、書評の依頼を引き受ける条件としてこんな箇条書きをしている(81頁)。

?本は自分で買い、自分で選ぶ、?自分の信用を賭けるに足る、心から薦めたい本しか取り上げない、?書評で取り上げる著者の他の本は、すべて読む、?その本のなかで主な舞台になっている場所に私が行ったことがない場合は必ずそこへ足を運ぶ(それは自分の体験的欠落なので当然自腹)。/以上である。おかげで、たいていの編集者は二の足を踏む。

◆いや〜あ、たか〜いハードルですね。でも、ホンマカイナと思ってしまうけれど、ぼくは素直なので信じます。(旧ブログより2004.4/28)
ところで、鹿島茂さんが、『解説屋稼業』(bk1拙レビュー)何て、とても刺激的なタイトルで、いわば、「ポップ、書評、解説」を横断するものですが、そう言えば、書評本は、当たり前で、珍しくないが、文庫本の巻末にある解説を集めて「解説本」が上梓されたのは、どうやらこの本が始めてらしい。去年、話題になった例の「あらすじ本」は勿論、書評でもないし、解説にちょいとばかし近いものかなと、思ってしまうが、やっぱしそんな安易なものではなく、「解説」といいようがないのであるが、著者による「解説屋の解説」による解説文法を紹介します。どうも、このジャンルは日本人の発明品らしい。そうであるなら、手書きPOPも、腰巻(帯)も日本独特の発明ではないか?

?解説はオードブルであると同時にデザートでなければならない。つまり、読者が本文を読む前に、その概要をつかむための紹介的役割を果たす一方、本文終了後に、感想を確認したり、理解を深めたりすることのできる批評であることが要求される。
?解説は、本文の解説であるばかりか、著者の本質への理解を含んでいるべきである。なぜかというに、その解説によって、読者が著者の本質を捉まえ、著者の他の本にも興味を持つことが最も望ましいからだ。
?解説は、それだけで一本のエッセイとして読めるような構成力を持っているべきである。いいかえれば、解説のみを読むためにその文庫を買うという読者がいるぐらいであることが理想的である。しかし、解説は解説者の私的エッセイであってはならない。 
?解説は、著者を勇気づけて気持ちよくさせ、なおかつ読者をおもしろがらせる必要がある。たんなる著者へのおもねりはかえって読者をシラケさせる。<< 
◆講釈はそのくらいで、実践ではどうかと、藤本ひとみ『侯爵サド』の解説を本書で読んだが、この女流作家のことはまるっきり知らないのに、鹿島茂さんの「解説」で俄然、読みたくなった。
ところで、「季刊・本とコンピュータ」で保坂和志さんは本の帯(腰巻)について、もっと、時間をかけるべきだと言っているが、その通りだと思う。通常、2,3日のやっつけ仕事らしい。帯はいわば、出版社で作成したPOPのようなもので、書店の現場感覚ではその重要性は認識されているが、意外と編集者達は軽く考えているらしい。そんな隙間をついて、書店員が手書きのPOPを作成しているとも言える。そうそう、保坂さんも解説は結構、書いている。書評と解説はやはり違うのでしょう。評論とも勿論、違う。なんだろうなぁ…。