純愛ブームを読み解く

kuriyamakouji2005-03-30

書物の未来へメディア文化を読み解く技法―カルチュラル・スタディーズ・ジャパン
◆『書物の未来へ』(青土社)の著者・富山太佳夫さんは本の書評だけでなく、新聞記事、チラシまでやってみたいと、
毎日書評賞受賞のおり語ったらしいが、チラシは兎も角、新聞記事を親記事にしてブログでコメントを付す作法で書いているブロガーは結構、多いみたいですね。マスをネタ元にするわけです。自前のネタを用意して日々更新は、大変です。ホリエモン騒動がきっかけでネットとマスの志の差異みたいな批評がなされているが、ニューエコノミーでなくオールドエコノミーに属しながらオールドエコノミー既得権益の恩恵を被っていないオヤジはホリエモン×北尾(それはそうと、北尾光司はいまどうしているのでしょうか?)の圏外にいることは間違いないから、どうしても野次馬になってしまう。そんな立ち位置なので、宅配されている毎日新聞に思い入れがあって購読しているのでなく、単にこちらに居を構えて亡父が購読していた新聞をそのまま読んでいるに過ぎないという無節操さなので、図書館で他紙を読み比べてみるといった精読はやっていないがときたま粗読して目に飛び込むコラムに考え込むことがあります。そんな時、新聞を見直します。
◆3/28付けの夕刊の<文化欄>での、阿部潔関西学院大学社会学教授)の【地球サバイバル〓―「情報社会は人々の結び付けをどう変えるか?―】は人とのコミュニケーションの可能性が益々困難になり、関心領域の断片化、細分化が進み、その狭い範囲での「分かり合える仲間」の島宇宙が形成され、その島(意味世界)から離れた人とはそもそも相互理解は不可能でそういう断念から出発して他者理解をしている。そして、阿部潔はそうした「分かり合えなさ」を、コミュニケーションにおける「深度」でなく「強度」によって乗り越えようとする現象が例えば「純愛ブーム」に現れていると分析している。

古典的とも言える「純愛」に夢中になる今の若者たちにとって、暗黙の身体化された前提とは「人は互いに分かり合えない」という醒めたものであろう。だからこそ、物語に中で展開される「ありえない」までに一途で曇りのない恋人たちの強い結びつきに共振し、自分の周りの人々と共にその世界に惹きこまれることに、快感を覚えるに違いない。「強度」を媒介にしたコミュニケーションは、「深度」に基づく相互理解の不可能性を出発点としている。情報社会が生み出したコミュニケーションの逆説を生き抜こうとする現代人の姿が、そこに垣間見える。

しかし、阿部さんは「感じる」というか「感動の共同体」を基盤に置くと、「他者」を掻き消してしまう暴力の契機が潜んでいるとして待ったをかける。

気楽に泣いたり笑ったりする感動でなく、言葉を失い呆然と立ち尽くすほかない衝撃を惹き起こす「他者」との出会い。そこで発せられる叫びや痛みを、文字通り「感じ取り、受け止める」こと。そうした他者との邂逅が、今まさに求められている。

と結語していますが、「深度」/「強度」という二分法はとても使い勝手の良い概念ですね。ただ、僕としては仮説として相互理解の不可能性を出発点としているから、その立ち位置では、「強度」という非合理性でしかコミュニケーションはのぞめないとしたら、あまりにも短絡的だと思う。「深度」も掘り進めば底のところでは、非合理性に接続するはずである。合理性だけの「深度」では「他者」と出会わないのではないか、恐らくそれは自力から他力への接続が要請されるシーンでしか「他者」と出会うコミュニケーションはあり得ない。その場合のコミュニケーションはディスコミュニケーションを内包しているものだと思う。僕は阿部さんの二分法を乗り越えたいと思います。問題は「深度」、「強度」の中味です。底のところで二つは重なるはず。そこから出発したコミュニケーション論を訊きたいと思いました。「感じる」は「深度」にも「強度」にも届くものを持っていると構築した上でぼくは考えたいと思います。
◆本の書評をズルしているので試みに新聞記事の批評のようなものを書いてみました。時事ネタでなく、論壇人の人達のメッセージに対するコメントと言ったようなものでしょうか、浅学のものが書くといった愚を犯したかもしれませんね。でも、新聞の読者投稿とは違った切り口で、これからも書いて見たいです。
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