弱者切捨て

 弱者って誰のことだろうかと思う。今回の選挙で小泉さんを支持した都市型無党派層は小泉さんの政治は弱者切捨ての新自由主義であるのに、現時点では弱者であるフリーターとかが小泉さんに一票を投じたねじれを指摘しているが、でも、肝心の当人たちは弱者とは思っていないのではないか、むしろ弱者とは保護されている人々なんだ、既得権益者とは何ら違いがない。システムとして弱者として刻印された人びとは例え、生活保護受給者と言えども、障害者であれ、既得権益者に過ぎない。月額13万円以下を支給されている年金受給者も弱者を僭称しているに違いない、やつらと一緒にして欲しくない、やつらが弱者なら我々は弱者ではない。もし、弱者/強者という分類をするならば、既得権益者とそうでない人びとと分けて考えるか、プレイヤーとしてゲームに参加しているかどうかで判断して欲しい。フリーターであれ、ニートであれ、彼らは弱者としての認識はないと思う。賞与も、退職金も、年金も、そんな既得権益に端から縁がない。社会的に法制度として保護されている弱者ではないのです。でも、明日になれば強者になり得る可能性はある。だからこそ、彼らの頭には弱者なんてない。法的に受給の対象になっているのが、「弱者」で、われわれは何ら保護されていないから「弱者」でないと思っているのです。
 賭金をかけてゲーム中に「お前はどうせ負けるのであるから、早々に白旗を揚げて『弱者』であると受け入れて、おとなしく勝った者から為政者経由でお金をくすねる合法的な算段をしたほうが現実的でマットウだ」と言ったら、彼らは怒るかもしれない。そんな権力にすり寄ったおもらいさんより、危険を冒して犯罪による略奪の方が人としての美意識に適っていると抗弁するやも知れない。過去ログで海外での万引きを煽る反資本主義運動、世界各国に飛び火がエントリーされている記事を紹介しましたが、グローバリズムの行き先が一方で同時多発の犯罪を誘引する引き金にいつかはなるという懸念があります。 本日、内田樹による毎日新聞掲載の記事『「風の行方」/うけた「勝者の非情」』をさっそく内田さんはブログアップしていますが、

「弱者は醜い」という「勝者の美意識」に大都市圏の「弱者」たちが魅了されたという倒錯のうちに私はこの時代の特異な病像を見る。

 という身も蓋もない言い方を内田先生はしている。
 そのような倒錯の弱者たちの怒りはゲームの勝ち組に向かうのでなく、そのレースの外から眺める人々(彼らの目から見れば国や公共団体に守られた人びとは全部既得権益者と思えるはず)に向かう。金がなくとも戦っている人は弱者ではない、既得権益に守られて戦っていない人は強者ではない。そんな美意識と新自由主義はしっくりと馴染む。
 僕の知人の年取ったフリーターはオカシナ話ですが自分自身を弱者とは思っていない。むしろ、組織に守られた人々を弱者と思っている。サバイバル・ゲームは進行中で何ら死ぬまで答えは出ていない、このコロシアムにフリーで参加出来ることが“生きる歓び”だと、年金受給年齢を目の前にして気炎を吐く。彼は勿論、年金は一銭も貰えないだろう。でもそれは承知の上なのである。彼は五十年も生きるつもりはなかったが生きてしまったのです。まあ、それは予想外であったが、覚悟の上でしょう。
 恐らく彼の耳には「弱者切捨て」だと小泉批判をした旧守派、野党のメッセージが都合のよい「既得権益」を守る薄汚いものに思えたに違いない。彼には勝ち組、負け組みなんて言う「俗情」はないので、小泉に投票はしなかったと思うが、さて誰に投票したのでしょうか、
 小泉劇場から発信されたメッセージを受信した一見弱者に見えて白旗をあげたくない妄想の「勝ち組願望予備軍」が小泉さんに一票を投じたことはほぼ間違いない。今回の選挙は法律によっ守られていない弱者が法によって守られている弱者に対してNOを突きつけたと言える側面があるのではないか。そんな倒錯から脱出するためには「働ける人が働き、必要な人が必要なだけ取る」というある社会学学者のメッセージが有効である気がしますが、どうでしょうか。