驚き(一枚の写真)

 前日のかぜたびさんのコメントに反応して思い出す小さなエピソードがありますので書いてみます。

写真も、小説などの文章表現も、絵も、そこに描かれている「世界」が審判されるものではなく、その世界の一部である表現者と世界の、相互の入り込みの深さみたいなものが、日常の三次元空間を歪ませ、軋ませ、別次元の視点への覚醒を促すのかも知れないと思いました。
 「風の旅人」をつくるために写真を選んだり、組んだりする時は、ただひたすら、自分のなかに生じる「おおおっ」という軋みに従うだけで、その軋みが大きければ大きいほど、好きな作品だと感じているだけですが・・・・。

 ある若い人がプロの写真家ではないのですが、本好きでそれも本を読むことにとどまらず装丁、組版、印刷などその工程にも興味があり、時々街の小さな印刷所(っと言っても名刺、チラシなどで何とか営業を続けているそんなところ)を覗いて職人である店主と語らうのを楽しみにしていた、そんな子なのですが、そんな職人仕事を拝見して、心に響くものがあったのでしょう。オヤジさんの写真を撮ったのです。
 その工房でのオヤジの姿を現像したとき、次第に浮かび上がった彼の姿に圧倒されて、彼女は自分の手で撮った写真だという観念を離れてある種の「畏れ」を感じてしまった。そんな高揚した気分のまま、ある写真展に応募したら結構な賞をもらった。でも、具体的な経緯は知らないがモデルとなったオヤジは亡くなった。彼の葬儀にこの写真が遺影として飾られた。
 淡々と語る彼女のエピソードに僕はその写真が見たいと言ったのです。
 「遺族にあげたので、無いの」、「ネガはあるんだろう、現像すればいいではないか?」、「暗室内で浮かび上がった驚きは再現出来っこないよ」、まあ、そんなやりとりですね。「わたしの中で、もうそれは終わっているの…」、ということなのです。
 そのような軋み、驚きを再現出来るとしたら、それは文句無く「作品」として大きな力を持ち得るものなのでしょう。彼女はそのことに関してあまりにも自覚的であったのでしょうか。鈍感であれば、「自分探し」の身勝手さで「わたし、写真家になりたいの…」、「小説家になりたいの…」っと簡単に言ってしまうのでしょうね。そんな風に言えない彼女、彼らは生き辛さを抱え込むかもしれないが、でも、それがマットウだと思う。