夢を見る怖さ、「希望」なんて、

当分、このエントリーを追記を重ねた増補で更新します。同じ日付ですが、気にしないで、
♪下に、下にと、垂れ下がり更新追記でカキコします。
 近々、赤木智弘氏の本が発刊されるとのことで、念のため、このブログ内で、「赤木智弘」で検索したら、40件ほどもヒットしましたね、ほとんど、その時の、状況、前後のつながりで、瞬間湯沸かし的な反応で書いている部分が多く、自分の書いたものなのに、??????の危険性が大なので、ちゃんと再読する気力がないですね。
 取りあえず、何かあったときに引き出せるように整理しました。「赤木智弘」だけでなく、「赤木」で検索すれば、もっとヒットするでしょうね。最初の言及が去年の七夕ですか、一年以上、経っているわけだ。

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 追々再読しながら、何がここで問題視されようとしていたのか、コメントを含んだようなタイトルを各エントリー毎に付けてみます。時間がかかりますけれど、追記して行きます。
 ♪(1)男の家事労働を社会労働として、最大限評価する運動があってもいいのではないか。(弱者男性問題)
 ♪(2)「貧困」だからこそ、「教養」に餓えることもある。付記:最後の拠り所は教養の力、希望なんて…、
 ♪(3):は、結構、居直って書いている。この文章も自分で書いていながら、小っぱ恥ずかしい。
 保坂和志『途方に暮れて、人生論』の帯文は、『「希望」なんて、なくたっていいーー。』ですが、「希望」にしろ、「夢」にしろ、果たして人を慰撫するものであろうか?むしろ人を追いつめる、残酷なものでもある。そういうこともある、その二面性を常に覚悟すべきでしょう。
 だから僕は、善きものとしてだけ、希望とか、夢を語るナイーブさは、気恥ずかしくて、あまり使いたくない。何か疚しさが残る。そのようなむず痒さを削り落として、「希望なんて」、「夢なんて」という地平から考えたい。
 ひょっとして、「希望」や、「夢の果て」に、戦場がある気がしないですか?だからと言って、希望や夢を捨て去るには、僕たちは「人間でありすぎる」気がする。
 「理性」が戦争を生んだことは間違いない。スタンレーキューブリックの『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』のラストシーンの甘いハワイアンにのったきのこ雲の乱舞は、人間が欲望したものでしょう。
 犬、ネズミ、ネコ、カラスだって、食欲・性欲を満たす戦いはするけれど、無駄な戦いはしない。戦争という面倒なことはしない。
 恐らく、戦争は人間の病いなのかもしれない。勿論、適正な経済再分配がなされれば、戦争の危険が減るかもしれない。だけど、それでも、戦争は起こる、そのことも考えたいものです。平和は単に戦争と戦争との間のことで、出来る限り、その間を引き延ばす知恵が平和には欠かせないものなんだろう。
 200年以上も持ち堪えた徳川幕藩体制はすごかったのかもしれないし、戦後、60年以上も平和を維持できた戦後民主主義体制は、例え丸山真男の言う「虚妄の効用」であれ、これまた評価すべきであろう。強かに立ち回ったのは事実なのです。
 ♪(4)これがまあ若いツバメか老妓抄
 ♪(5)読者共同体という考えは面白いね、NHKブックスから、別巻として刊行する、今、現在の普遍性を持った日本語で語る論文を募集していますが、思いきって、今までの論壇とは全然違う回路で若手を取り上げるのは素晴らしい英断企画ですね。東浩紀北田暁大が責任編者として関わるみたいですが、僕は、まず編集担当者に拍手したい。だが、ジジィババは蚊帳の外w
 ♪(6)学者・論壇人からの逆照射する赤裸々な自己表白する森岡正博氏の『感じない男』は、そのような「外」へと繋がろうとする誠実さは感じました。例えそれが、最後のところで不徹底さがあろうとも、方向性は支持するわけです。なかなか学者が「切実さ」を前面にだすのは、勇気がいると思う。
 赤木さんは、言葉が追いつけなくとも「切実さ」に背中を押されて、とにかく、論壇誌にデビューした。せめて、論壇人の人たちは、赤木補完計画ぐらいの余裕と強かさを持って欲しいものです。
 ♪(7)「他者の承認」への欲求/「生の是認」への欲求か、
 ♪(8):そうした状況において、我々弱者ができることは、なるべく早いうちに伝統的な家族社会に入り込んでしまうことです。(赤木智弘
なるほどね、(1)資本、(2)国家、(3)家族、で、僕は今のところ、過半数以上の割合で「家族社会」に入り込んでいるわけだ。
 ♪(9)「生きさせろ!」安全基地はどこに、赤木さんのテクストを再読しながら、改めて思うことは、「家族への強い想い(欲望)」を感じる。真っ当な日々の家族の暮らしを築きあげたいと、(3)択の希望を持っている。戦争が、希望でなんかなくて、家族なんですよ、過日、女性誌に掲載になった「お嫁さん募集(専用主夫業も厭わないから)、お婿さん応募」かもしれないが、その結果はどうなったんでしょうか?
♪(10):「即身成物」

ヒステリー、強迫神経症的な「他罰構造」が内面化されている。ほとんどの人が何らかの都合のいい道具立て(誰でも一つぐらいは持っている)で、自分を被害者、被害者予備軍に仕立て上げることが出来、自己正当化の文脈で語ることが出来る。そうではなくて、自らを加害者性から無縁でないという痛みのポジションから発話することなくして、他者の角に触れることは出来得ないし、他者と共に暮らす歓びを遠ざけてしまうだろう。

♪(11)先日、こちらで、藤原新也著『黄泉の犬』を巡って、赤木さんとやりとりしたのですが、僕も藤原さんもそのような世代のオヤジとして弾劾されたわけです。時代の不幸が原因だという短絡的な断裁はわかりやすさという点において確かに有効です。僕はその位相とは違う、「存在の不安」そのものについて赤木さんとやりとりしたかったのですが、そんな実存的な問いは過剰な「豊かさ」からくるものであって、僕らには無縁だとせせら笑われたわけです。『現代の貧困』はそのような問い、又は「ワークシェアリング」、「ベーシックインカム」のようなできもしない提言より、既得権益に拘泥する『強固な幸福階層制度』(平和な社会)を揺さぶるしかないと彼は言っているわけです。希望は戦争と言ってしまう。
♪(12)カラス鳴く終の棲家か塀の中
♪(13):この引用文の前後は←をクリックすれば読めます。

作家の石田衣良のフリーターにしても、僕らの世代のフーテンにしても、ノーベル書房から発売された『乞食学入門』(北田玲一郎著・1968年刊)は売れましたね、フーテン、フリーターになることが恰好のいいこと、モテタのです。今で言う「セレブって、ダサイ」と思った時代背景があったわけですよ。それはメインカルチャーサブカル文化論と交錯するところがあると思う。

♪(14)【家畜元年にならないために】

人間の条件、「ベーシックインカム宣言」、つつまやしかに暮らすことに耐えられない人がいる、それが問題でしょう。皮肉なことに、病気になりホルモン療法を初めて、やっと平静な日々を楽しいと思うようになった。「去勢の日々」、そんな日常を受け入れる素地がないと、社会基盤に「ベーシックインカム」を築くのは、難しい。

♪(15)【ふらふらフープ】
読み返すと、僕のコメントを又コピペしたくなった。
◆赤木さんのテクストも上手にまとめてくれている。ぐちゃぐちゃになりかけた脳内が少しは整理されました。そんで、思わず、こんなコメントを書いてしまいました。

トラバありがとう!読んで、色々と啓発されました。
赤木さんに対する目がクールでありながら、暖かい、
僕は思わず、かような抑制された語り口で、赤木さんを批評する方はどんな方なんだろうかと思いましたよ。
孫世代なんですね、びっくりしました。
まあ、ジジィが孫に教わるっていうことは良くありますから(笑)。
このエントリーを僕の本文に紹介したします。
今後ともなにとぞよろしくお願いします。
世の中が不平等であっても、僕の生存が社会的にちゃんと確保出来るシステムがあれば、心おきなくふらふら出来るというものです。最優先はまず「生存」
やる気のある奴ががむしゃらに働いてそれ相応の報酬をもらうのは、大賛成ですよ。
でも、そうやって一生懸命に働いている傍で日が昇り、日が沈む、その間、唄って過ごす奴がいたっていい、
僕の過去のエントリーにも書いたことがあるのですが、考古学者の話でエジプトで発掘作業を行った時、その仕事を村の長に頼んだのです。そうすると、村人たちが働いている傍らで一人の若者が仕事をしないで、一日中、歌を唄っている。そんで、学者が村長にみんなにしめしがつかないんではないかと苦情を言ったら、村長が、いやいいんだ、彼は歌を唄うことで、この作業に花を添えている。
結果として全体の生産性をあげているわけですよ。
赤木さんと「豊かさ」についてやりとりしたことがあるのですが、そのような「ふらふらする人」がリスペクト(少なくとも忌避されていない)されている共同体は少なくとも「豊か」であるわけですよ。
僕たちが若い頃は少なくともそんな合意がありました。(フーテンが恰好よかったのです)
でも、今はフリーターは「危ない存在」としてリスペクトどころか、白い目で見られる。
それを実存的に「貧しい社会」と見ているわけです。僕はせめて、カネがなくとも、イエがなくとも、そんなアジールな人びと、放浪者、出家者を社会がなんとなくリスペクトする基盤があれば、表層として不平等が巷に溢れていても、そのような人生模様を楽しむことが出来る。僕はそんな社会を望みますね。
ユートピア社会と理不尽な社会とどちらが棲み易いかと考えると「ユートピア」って言えないものが残る。その残余を大事にしたいと思う。そこに生きる歓びがあるような気がするのです。

 こちらに貼り付けると編集もしやすいですからね、一応、かようなコメントをしましたが、又、書き足したり修正するかもしれません。
 トラバされたエントリーはこちらです。http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20061207/p1
♪(16):『誤解』、『誤配』ですか、赤木さんとのやりとりは、他の人でも噛み合わなくてすれ違う場合が多いですね、おそらく、それは、「切実さ」、「当事者性」を性急に出してしまうところから来るのかも知れない。
♪(17):長文で赤裸々に書いていますね。様々な事情が浮かび上がる。
♪(18):映画『ダーウィンの悪夢』で、夜警のおじさんの日当が一ドルで、それでも仕事があるからまだましと、毒を塗った鏃を示しながら戦争がこの貧困から抜け出る手だての一つになりうるとの映画のワンシーンを指摘していましたが、僕も赤木さんの「現代の貧困」の一節を思い出しましたね。
♪(19):弱者が「徴」を持つことで見える存在、社会的承認され、強者になってゆく。

弱者の問題は弱者であるというカテゴライズされた徴を持つことで強度を持ち、強者として現れる。当初、弱者であったものが、徐々に強者に変貌してゆくそんな相に意識的であったのが、赤木さんの弱者論にはあると思う。赤木さんの世代のフリーターは先行世代の自由に憧れて正社員にならなかった格好のいいフリーター言説と違って、本当に心底から正社員になりたかったのに、運悪く就職氷河期にあたり、就職出来なかった。浪人就職という企業慣行があればともかく、この国では新卒神話が生きており、経団連の調べによれば年長フリーターを積極的に採用したいとする企業はわずか2%だと言う。赤木さんは書いている。

♪(20):赤木さん、TBSラジオ出演
♪(21):★PARC自由学校2007年度講座にて講師出演
♪(22):「男性問題」から「老人力」、「平和力」、「戦争力」、「教養力」と「○○力」のバーゲンセールだぁ、(笑)。宦官についてまで色々書いている。
♪(23):風の旅人さんの『変わるべき体制とは何か』という赤木言説検証テクストがリンクされています。是非参照を…、
♪(24):雨宮処凛もメジャーになりましたね。あちらこちらで、活躍している。
♪(25):月刊『オルタ5月号』に赤木智弘×雨宮処凛の対談が収録されていますね。
♪(26):「けっきょく、『自己責任』ですか」
♪(27):

「ワシらうまいもん喰うてよ、まぶいスケ抱くために生まれてきとるんじゃないの。それも銭がなけりゃ、できやせんので。そうじゃけん、銭に体張ろう言うンが、どこが悪いの。おゥ?」

 「仁義なき戦い」の台詞であるけれど、恐らくそんな生き方はつまんないなぁというのが、今時と思うよ。まさに「優しさの時代」、願望をこめて、そう思いたい。悪くないかもしれねぇけど、銭で買えねぇものが欲しいよ。

佐藤真さん、合掌

 雑誌。『談』ブログで、ドキュメンタリー映像作家佐藤真さんの訃報を知りました。東京の北区の王子に住んでいる頃、佐藤さんがお子さんをチャリンコの乗っけている姿をよく見かけたし、偶々喫茶店での奥さん、お子さんと一緒の和む風景も見かけたし、北とぴあでの「アジア映画祭」で、司会の佐藤さん、ゲストの金井美恵子さんとの映画上映とトークは今でも記憶にあります。付録というか、佐藤さんのお子さんが通っていた保育園の父兄と一緒に撮った短編ドキュメンタリーも上映したのです。
 それから、名作『阿賀に生きる』は勿論、僕は佐藤さんの新作映画をチェックして二、三、見させてもらいましたが、最新作の「エドワード・サイード OUT OF PLACE」を僕のブログで広報しながら、とうとう見そびれてしまった。こちらにも、見るんだと書いているのに…。
 確か、「東京を撮りたい」との佐藤さんの強烈なエネルギーが自栽という帰結になろうとは、声も出ない。合掌。49歳。
 僕の三年前のエントリーを検索したら、こんなことを書いていました。

追記:ドキュメント映画監督の佐藤真は王子在住なのですが、長年『トウキョウ』を撮ることを夢見ているとのコメントを下のエントリーで、ぼくはしていました。佐藤監督にも『いつか王子駅で』(堀江敏幸著)をドキュメント風に、撮ってもらいたいですね。

 残念、無念。