橋下さん、文化とは「見えないもの」コレクションなのです。

あたしンちに覆面リサーチ - 葉っぱのBlog「終わりある日常」からの続き
http://shaunkyo.exblog.jp/8763066/

「見えないもの」を「見える」ようにしないと、こぼれ落ちてしまうんだろうねぇ。
余白に対する想像力が劣化したとも言える。だからこそ、年功序列型から能力主義成果主義)を導入してもちゃんと稼働しなかったわけだ。
『軋む社会』を書いた本田由紀が、盛んに「ハイパーメリトクラシー」(超能力主義)と言っていたが、恐らく、ハイパーメリトクラシーは「超絶コミュニケーション力」が要請されて、他方、そのような労働市場においてリーダーは「見えないもの」を透視する想像力が要請されるわけですよ。
単純に切り取った映像によって判定する目はそのような緊張が強いられた現場で、果たして信頼性が担保されるものであろうか。
友人がこんな記事をミクシィでアップしていました。了承を得てコピペします。

ここは近鉄によって開発された住宅地で、閑静な高級住宅街であります。 […]ミスドで一時間ほど仕事して、大和文華館にいってきました。大和文華館はこんなところ(駅から5分)。
http://www.kintetsu.jp/kouhou/yamato/about/index.html
いまやっているのは「白磁の美−東洋における造形とその展開−」。
所蔵品展ですし、各展示品の解説も使い回し(それもなんどもなんども)ではありますけど、すばらしい。
和文華館の収蔵品はほんとどれもとぎすまさた美意識と深い知識に裏打ちされて集められていて、単品単品すばらしい。
そして、それらが何度出展されて(収蔵品展を年に7回もやってるので当然)も、企画における位置づけによって、また新たな意味が読みとれるんですね。学芸員の力を感じます。
それは先週飛び込んだ(タダ券が無駄になりそうだった)奈良国立博物館でも思いました。
いまやっている企画展は「西国三十三所ー観音霊場の祈りと美」
http://www.narahaku.go.jp/exhib/2008toku/saigoku/saigoku-1.htm
全国で4つある国立博物館(東京・京都・奈良・九州)のうち、奈良博は設立当初から仏教関係を専門としているのですが、今回のこの特別展では「さすが」と改めて思いました。
仏像の解説の的確さと専門性の高さと深さがすごいんですよ。長年の蓄積と鍛錬、数と質を見て、見て、見て、見て、見ていないと絶対にできないと思います。
長い年月をかけて育てないと、こういうすぐれた専門員は育たないもの。しかも、事務や営業の雑用にばかり時間を割かせていたのではダメで、現物に触れて、それを裏付ける研究をずっとせねばならんのです。
そして、これらの仕事は次代に引き継がれ、また人々に還元されていくもの。
どこかの首長が卑劣な行為をしたあげく、「成果があがっていない」と申してましたが、国際児童文学館は「図書館」じゃない、ということを全然全くわかってませんね。
彼が撮影したのは、児童文学館の閲覧コーナーで、ここは貸し出しなどを目的としているのではなく、児童文学館の研究の一環として、子どもたちの読書態度を観察する実験場という位置づけなのですが、それを全く理解していない。
国際児童文学館は、国内外の児童文学研究の拠点であって、この閲覧コーナーでは全く見えない、研究・レファレンス・資料収集が主な仕事であって、この仕事が日本国内外の児童文学研究および国語学習に還元されていく「センター」としての役割こそが期待されるものなのです。
高度な専門性を持った専門員がここで育成され、その知識が全国の研究者や学校図書館員や小学校教員・国語教員に生かされていくべきで、閲覧コーナーで成果が計られるものでは全くない、という大前提をもっと報道してくれよ、と思います。

この一文は橋下さんの目に触れさせたいと思いましたよ。 「閲覧コーナーで成果が計られるものでは全くない、」 そのとおりで、僕も含め、そのようなカメラに写らない「見えない」ものが大事だということが、時としてスルーされてしまう。恐らく、メディア、報道のそこがウイークポイントでしょう。 だからこそ、言論人がそのことに対して意識的に言葉を「ことほぐ」営為が要請されると思う。もちろん、一枚の写真であっても、映像であっても、写真家、映像作家として真剣勝負している作家性がそこにあれば、信頼に足りる。単なる「通りすがり」の 匿名の隠し撮りなら、「なにをかいわん」です。府民の一人としてなめられたと言うか、不快です。少なくとも僕は橋下知事を評価している部分があったが、今回の件が事実なら、まあ、事実でしょう。本人が「いけしゃあしゃあ」とおっしゃっているから、フォローの仕様がない。今回の件で橋下さんの正体がはっきりと見えたわけで、言論人達が躊躇なく攻撃しやすくなったと思うけれど、どうなんだろう。
しかし、「見えない」ものを語る影響力のある西の言論人って、思い浮かばない。党派性のある言論人ならいるけれど、それじゃあ、ダメだと思う。 もし、東の知事が作家としての矜持を持っているなら、当然、不快感を持ったと思うけれど、どうなんだろう。こういう時こそ、たかじんは、「喝!」って言わなくっちゃぁと思います。
成果主義」において「見える化」というのは大事だと言う共通認識はあると思う。博物館にしろ、美術館、専門図書館、特に会社の企業資料室において仕事の「見える化」は大事だと思う。小説やドラマ、映画などでクリシェとして資料室に異動になる文脈は窓際族、リストラの序奏ですもんねぇ。まあ、でも例外としてそんな資料室の人が名探偵振りを発揮するドラマもありましたが、藤田まことの「必殺仕事人」のような立ち位置になってしまう。
(追記)図書館の館長、職員は自治体では、司書という資格を持つことが条件ではない。企業資料館でもそうでしょう。そのような専門性が要請されない文化風土があることが問題なのかもしれない。クソもみそも一緒にされるわけです。橋下知事の「クソ教育委員」という発言があったが、大阪府民の学力低下の基底にあるものは、そんな「教養に対する敬意」のなさが、子ども達に感染しているのでしょう。そりゃあ、「バカ笑い」、「バカ騒ぎ」も個人的には嫌いではない。だけど、そのような「クソ風土」の上で選ばれた「クソのオレじゃあないか」とアイロニカルな視点が欲しいねぇ。まあ、教養のない僕が言うのもなんですが、でも少なくとも「教養のある人」に惹かれてしまいます。大阪で存命中の「教養人って誰だろう?」思い出さないんだよねぇ、教えて下さい。

確かに、成果を人々に「見える」ようにすることは重要でそれを怠っていた点はどの施設も多いに反省するべきですが、「見せる」ことができるのは、多分、文化施設においてはごくごくわずかであって、その「見せる」ための見えない努力・継承・継続こそが、「見せる」を可能にしてることを皆も知るべきだと思います。
「氷山の一角」とはよくいいますが、その一角をささえる甚大な蓄積こそがわたしたちの誇るべき文化というものだという認識をみなで共有しなければ、「見えない」ことの有意義性が認められず、残るのは奥深さのない、浅薄なものばかりとなるでしょう。

文化とは「見えないもの」コレクションと言ってもいい。
だけど、こちらの図書館は見える成果を上げたのに、大阪府はお金の支出をストップしました。見える/見えないと言っても、橋下さんの基準は、見えないところがあるのです。見える成果をあげても恣意的に切る可能性がある。そのことが一番、問題なのでしょう。聖域なき改革は、果たしてそうなのか。
参照:http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20080907/p1
上に立つ器 - 美徳の不幸 part 2
★「http://shaunkyo.exblog.jp/8763066/(こちらの図書館はエル・ライブラリーとして新たにスタートしました。年会費を募って歩き始めたのです。)
その引っ越し作業の画像をあげました。