竹内好の残したもの(終わり)

8.竹内好と60年安保闘争(前半) の続きの後半です。
わかりやすくて、論理的な文学者って信用出来ない。先日のNHKETV特集の吉本隆明の放映で吉本さんが盛んに言ったことは、指示表出/自己表出の枝と幹のことで、論理的な応答は枝の対話でしょう。枝は枝である限り、見える。土中深く穿っている根っ子は見えない。だけど、酔っぱらった竹内さんからそんな根っ子が時として「アナーキーな呻き声」を挙げるということなんでしょう。
中島岳志のレジュメを引用。

※日本に芽生えた主権意識
 ・これが定着するには、どうすればいいのか
  →抵抗の主体の土着化
    →愛国・ナショナリズムの重要性
 ・「革命的ナショナリズム」が再び「反革命」に転化しないためには、どうすればよいのか
  →明治維新の再検討(1968年の明治維新百年に向けて)
  →魯迅研究
※アジアにおける「抵抗としてのナショナリズム」の連帯=新しいアジア主義
  →日中国交回復の夢
  ・「転生」した新しいアジア主義が、再び「反革命アジア主義」に転化しないためには、どうすればいいのか
  →「アジア主義」の再検討
   ・<出会い損ねた滔天と天心>とい問題
    →抵抗の主体が思想を欠如させることによって体制化するという問題
   ・あるいは大川周明反革命化(体制化)の問題
    →抵抗の主体が思想を獲得してもなお、体制化してしまうという問題
   ⇒竹内は、安保闘争の最中だからこそ、明治維新の再検討、「方法としてのアジア」論、そして「近代の超克」論(=京都学派の問題)・農本主義者との対話を同時並行する必要があった。
    ⇒「反革命の中から革命を引き出してくることだ。…それ以外に方法はない」
  ・「思想が創造的な思想であるためには、火中の栗をひろう冒険を辞することができない。身を捨てなければ浮かぶことができない。」(「近代の超克」)
  ・「戦争吟を総力戦にふさわしい戦争吟たらしめることに手を貸し、そのことを通じて戦争の性質そものもを変えていこうと決意するところに抵抗の契機が成り立つのである。『侵略戦争反対』を便所に落書きするとか、『英機を倒せ』というシャレをはやらせることは、抵抗ではなくて、むしろ抵抗の解体である。思想を風俗の次元にひきおとすことである」(『近代の超克』)
   →「世界史の哲学」…総力戦に世界史的意義を与えようとする「決意」を評価
    ⇒「大東亜戦争を吾等の決意」(1941年12月)
カール・シュミットへの接近(?)
   →「主権者とは、例外状態において決定・決断を下す者である」(『政治神学』)
    ・「制定する権力」と国民の主体性
    ・決断の重視…「永遠の革命」、「優等生=ドレイ」からの脱却
      →「生む自然」という問題…丸山真男との呼応
       ・natura naturans=能産的自然
※戦中の竹内好
    ・「道は無限である。彼は無限の道を行く過客に過ぎない。しかし、その過客は、いつか無限を極小的に彼一身の上に点と化し、そのことによって彼自身が無限となる。彼は不断に自己生成の底から沸き出るが、湧き出た彼は常に彼である。いわばそれは根元の彼である。私はそれを文学者と呼ぶのである。」(『魯迅』1943年)
     →「有と無の絶対矛盾自己同一」「多と一の絶対矛盾的自己同一」。有と無の弁証法
     →自己否定を通じた永遠の自己革新=主体形成=決断・決意
      ⇒「作られるものが作る」という京都学派の哲学との呼応
        ・しかし、外部を認めない…「或日の会話」を書いた丸山との連続性、京都学派の部分的借用
   
※方法としての京都学派、方法としての天心
  →竹内好の可能性と問題  

こうやって、レジュメを読むと、現代に通じるあらゆる問題につながっていることがナットクできる。
(1)抵抗の主体の土着化の問題は「民俗学」にアクセスを余儀なくされる。
(2)抵抗の主体が思想を獲得してもなお、体制化してしまうという問題は新自由主義者達の誕生を見たわけだ。
(3)「戦争吟を総力戦にふさわしい戦争吟たらしめることに手を貸し、そのことを通じて戦争の性質そものもを変えていこうと決意するところに抵抗の契機が成り立つのである。」アントニオ・ネグリの「マルチチュード」であれ、白井聡の『未完のレーニン』であれ、そこに接続する。
(4)「思想を風俗の次元にひきおとすことである」、一方、サブカルに対しては冷たいねぇ。他方、国民文学運動に関しては積極的ですねぇ。このあたりは、僕的にははてな?が残る。
(5)「決断の重視…「永遠の革命」、「優等生=ドレイ」からの脱却」は「ゼロ年代の想像力」の宇野常寛あたりが使う「決断主義」とどう違うのか?
(6)最後のところの丸山真男」(「生む自然」)という問題、京都学派との連続性は、僕自身が不勉強でよくわからなかった。
  外部を認めないとは、内部/外部という二分法ではなくて、外部を含む超越系の指向性を持ったもので、<アジア主義>とは地理的、地勢的概念ではなくて、<非ヨーロッパ的なもの>が竹内の<アジア主義>なんでしょう。