金子ふみ/添削されるに就いての私の希望

何が私をこうさせたか―獄中手記余白の春 (中公文庫 A 22-2)
金子文子 わたしはわたし自身を生きる―手記・調書・歌・年譜 (自由をつくる)古本探究
マイミクさんがミクシィの日記で「金子ふみ子」について書いてあってとても気になっていたんですが、偶然と言えば、偶然、「出版流通」の関心で小田光雄の『古本探究』を読んでいたら、18(p152)で「春秋社と金子ふみ子の『何が私をかうさせたか』の章立てがあった。
小田は19歳の時、昭和43年に学芸書林から刊行された「ドキュメント日本人」3の『反逆者』所収の抄録で読んだという。《関東大震災後に大逆の疑いをかけられ、刑務所で縊死した彼女の貧しさと苦しみに充ちた短い生涯に圧倒される思いがした。それに加えてその文章は当時の私とそれほど変わらない年齢の女性によって白鳥の歌のようにつづられていたからだ。p152》
恥ずかしいことに僕は金子ふみ子の『何が私をこうさせたか』を読んでいなかった。
マイミクさんや、小田さんの金子ふみ子に対する熱い思いに示唆されて図書館で瀬戸内晴美の『余白の春』も一緒に借りて来て読んでいます。

添削されるに就いての私の希望
          金子ふみ
 栗原兄
一、記録以外の場面に於いては、かなり技巧が用いてある。前後との関係などで。而し、記録の方は皆事実に立っている。そして事実である処に生命を求めたい。だから、何処までも『事実の記録』として見、扱って欲しい。
一、文体に就いては、飽くまでも単純に、素直に、そして、しゃちこ張らせぬようなるべく砕いて欲しい。
一、ある特殊な場合を除く外は、余り美しい詩的な文句を用いたり、あくどい技巧を弄したり廻り遠い形容詞を冠せたりする事を、出来るだけ避けて欲しい。
一、文体の方に重きを置いて、文法などには余り拘らぬようにして欲しい。
       ー金子ふみ子『何が私をこうさせたか』(春秋社)よりー

自戒を込めてブログの記事もかような文体で書きたいものです。でも文体の背景に誰のものでもない「かけがいのなさ」が秘められていなければならないでしょう。例えそれがふみの言う「虚無」というものであろうと。