「歴史=物語(イストワール)の現在:情報・芸術・キャラクター」 池田剛介×黒瀬陽平×濱野智史×千葉雅也 @東京藝術大学系 在日フランス大使館旧庁舎解体前プロジェクト「NO MAN'S LAND」
冒頭に司会的役割の千葉氏から,それぞれの問題的を収斂させていく旨が説明され,ゲストからのプレゼンは始まる.
導入を意識した濱野氏のプレゼン「歴史の未来」.10年のコミュニケーション基盤の変化によって歴史はどう変化するか,というのが氏の問題意識だ.「思想地図vol.4」において,仲正昌樹氏の「「構成」の想像力」とゲストの黒瀬氏の「新しい「風景」の誕生」を対比的にみる.前者はアメリカのファウンディングファーザーなど歴史を位置づける起源ありきの歴史であり,後者はトラウマの歴史であり,起源が成立しないという解釈.
また,「artscape」の連載に記述した「歴史の未来」において,デジタルアーカイブ論とデジタルによる歴史の強化とは別の議論の必要性について展開している.情報の適度な淘汰,つまりアーカイブしないアーカイブアーキテクチャ的実験が行われている,と.twitterは選択同期であり,ひとつのストリームをつくっていく.ニコ動は疑似同期であり,「いまここ」を同期しないながらも現実として同期されてしまう.物語的な形式とは異なる時間の誕生である.
また,「ユリイカ」の増刊号,初音ミク特集においての記述では歴史は使わなくても流通し,歴史をめぐる戦いとなり,アーキテクチャレベルのやりとりが歴史になるのではないかと考察する.インフラ設計のレベルでの闘争である.そこで,大きな物語でも小さな物語でもない中間項の,ハブとしての歴史が必要なのではないかとプレゼンをしめくくった.

次に黒瀬氏のプレゼン.コンテンツ派としてキャラクターセクションという位置づけに対して反論.氏は美術家であるが,思想地図vol.1のアニメ論文で位置づけられたのかと.
思想地図vol.4では美術論だが美術家は反応しないという.ここではアーティスト像を提示し,時間の適度な淘汰があり,淘汰するものがアーキテクチャ,そしてアーキテクチャもつくっていくのがアーティストではないかという.現代的なアートの意義として,欲望の吸い上げによるメタジャンルであり,それがアーキテクチャと一致している.
ここからは思想地図の解説.椹木野衣氏の「日本・現代・美術」と「セカイ系」について.「セカイ系」は,物語の前景であるプライベートと中景である,国家,社会が挟まることなく遠景と直結する超越論的構造をもつ.そこで現れた批評は作品としてではなく時代を反映しているかからいい,というものであって,アニメ評論は物語論であり.構造を分析に留まる,と.これを椹木氏とぶつけると,氏の評論そのものがセカイ系的であるという.国としての美術的な蓄積がないことには美術は翻訳語でもともとないものであり,そもそも日本には根付かないということをいう人もいた(誰かは聞きそびれ)その中で村上隆スーパーフラット椹木野衣は悪い場所としてコンテクストを立ち上げようとした.
立ち返る場所が敗戦,原爆であり,全てがトラウマに回収されるが,戦争を直視しても何も生まれない.椹木の場合,コンテクストをもった批評をし,それが物語になってしまった.歴史のない場所に歴史的機能をどうつくるかということに対し,まず物語を語ることに注視すると,まず物語にならざるをえない.参照する歴史がない上,物語も小さく,蓄積されていかない状況をどうするか,風景の方向ではなく、どうやって物語を語っていくか,限定的客観性をどう建ち上げていくか,ということになる.
ここで,1人のアーティストを挙げる.大竹伸郎氏をアーキテクチャ型作家の起源として.
このアーティストはゴミを集めて作品をつくる.椹木氏はそれを西洋のジャンクアートと差別化しようとしているが,このアーティストは楽器的モチーフを扱い,ゴミの扱い、まとめ方など非常にアーキテクチャ型である.ゴミを選別するのにも湿ったゴミはだめなど厳密な基準をもっている.また,楽器的モチーフなのは記憶のモチーフの基準であり,ゴミという匿名の記憶のやどる異物でそこの記憶の再生装置もつくり,それを一つの作品でやってしまうのである.つまり,検索エンジンと再生装置を実装している.
貧しさの問題として使えるリソースがどこにあるかわからない日本という環境で,それを探すところから演算出力しなければならないのがアーティストである.歴史を生成するアーキテクチャをどう捉えるか.
3人目,池田氏のプレゼン.まず 自身のサイトから作品を紹介.「plastic flux」という白いパネルが下にあり,透明の樹脂で水滴表現をしている.コップの結露のような,雨の時のような,日常的なものを大きなスケールで表現している.
今回の議論においては「大陸移動」の問題設定が重要である.パネルごとに大陸を描き,それを強引に接続している.パンゲア超大陸という神話的古さと未来のビジョンをどう重ねるか.
21世紀は環境の世紀であるが,思想レベルで言うとあまりにもベタである.20世紀的な創造力が閉じ込められているのではないか,という.さらに,そこをリセットして語れないか,と.大きな物語の崩壊の後に,小さな物語の下にアーキテクチャとして大きな物語がある.そして環境問題は資本主義などイデオロギーを超えて語られてしまうのが問題である.
そしてスタジオジブリ崖の上のポニョ」の混乱の話に.前半で近代的物語構造が使い果たされ,ポニョとソウスケが一体化,それを経て後半にいくのだが,それだけでなく後半を描けているのがおもしろい.普通,人魚姫が最後に決定的な選択を迫られ,悲劇に終わるというパターンであるが,ポニョは決定的選択をせず純粋な変形形態をして無目的に振る舞い,ソウスケが振り回されると同時に観客も振り回される.ソウスケは合目的的な人間として描かれているが,ポニョと一体化して錯乱していると読むべきだ,と.
フランス的モチーフでいえば,ミシェル・トゥルニエロビンソン・クルーソー.合理主義的なフランス人が野蛮人をいかに文明化していくかをフライデーに焦点を当て,論じる.ロビンソンが無人島にたどり着くことで他者構造を失い,有限なパースペクティブに制限されていく.つまり,ナルシシズムの有限性に視野が閉じ込められていく.
ラカン象徴界でもいいが.他者が居なくなることで他者構造がなくなっていく、という読み.他者構造そのものが世界を貧しくしていき,無人島の事物が独立していく.そこでフライデーが現れ,それを他者としてではなく自分と一体化したものとして受け入れる.フライデーは禁じられている喫煙をしたり家を燃やしたりなどをする人間であり,合理主義的な象徴のロビンソンも崩壊を来す.
近代型の人間性をどう乗り越えていくか,別の物語性に引っ張っていくかなど21世紀的なモデルとして考えていけるのではないか,という.他者構造は他の人からは別の視点があるのかもしれないということだが,崩壊は前しか見えず,事物は統一性がバラバラになっていくということである.
3者プレゼンを終え,千葉氏が口を開く.大きな枠組みとして歴史/物語があり,二つの態度に分けられる.それは起こっているのを反復として捉えるか,あるいは新しさとして受け入れるか,である.しかしここではバランスが必要である.
大きな物語の崩壊で大きな物語の消失点の滅失からのポストモダン化があり,トライブが競合する中,消極的にひきこもりとして論じる東浩紀氏と乱立状況としてバトルロワイヤルとして宇野常寛氏.これは関係性のゲームであり,これ自体がわかりやすい物語であり,崩壊という大きな物語なのではないか.
「モダンのクールダウン」の稲葉振一郎を挙げる.近代が終わったのは乱暴であり,キリスト教中心の世界観がローカルを結ぶということもあり得た.近代において、崩壊の同時プロセスがあり,近代は大きな物語が普及/腐朽する.ポイントは個人主義だ.バラバラの個人が私小説を語り,その立場において国民国家的なものを引き受ける.
講演の行われている場所がフランス大使館であることを述べながら,都市化による群衆化,ボードレールパリの憂鬱.群衆、孤独が等価にして互換性がある.
ベンヤミンは1939年の亡命期にボードレール論を書き,ショック体験が日常になってしまった時代であり,メタ心理学展開のきっかけになった.群衆の中でのショック状態の偏在.トラウマの特権性がなくなり,トラウマが日常化した.ショック体験が標準になっているなかで、叙情文学はどう成立するのか,と提起.非常に先駆的なのではないか,複数化されたショックにおいて, トラウマがトラウマとして機能していない中で,どのような想像力があり得るか.と.
促された濱野氏は,決定的切断の不在,トラウマティックなものとしてN個の切断があることを挙げる.悪い場所の記憶喪失問題を認知症物語論とよびたいという.麻痺であるといえる上で受動し続ける.近代的人間を凌駕する自然史的ボリュームがある.脳はシナプスの可塑性であり,脳神経の死滅再生による変形をする.ハードウェアが変形する情報生態論の必要があるという.
それに対し千葉氏が,記憶の無限化の達成がデジタル化によってあるかと思いきや記憶のサーバである地球がぶっ壊れるという地球環境問題に言及.否応なく海面が上がるなど呆然とさせるほどの感覚であり,カタストロフィーが訪れるという近代的想像力ではなく,マテリアルカタストロフィーともいうべき常に進行している状態である.
また,トム・コーエンの気候変動の哲学に言及,CCC,「人文学における批判的気候変動」は人文学的にどうかというプロジェクトであり,批評そのものの気候変動である.呆然とさせるスケールに応じた触発があって,そこにアーティストは反応するのではなく,仁義なき気候変動に対する感受性をもつべきである(?)
対して黒瀬氏の発言.脳と環境はパーソナルとグローバルのハードウェアであり,日本のアートシーンにも反映されているという.市民権を得ているものとして,「脳」では癒し,メンヘルアート,茂木健一郎クオリアなどが挙げられ,コミュニティアート,つまり町おこし的なイベントが「環境」として挙げられる.両者ともサプリメントであり,生活とサプリメント,二つの感覚で挟まれて呆然としてしまう.ならばそのスケールを外してしまえばいいのではないか,と.方法論はノンスケールであり,一旦アーキテクチャに落とす.
それに対して千葉氏は切断によってボケてしまう,図書館が水にひたれば記憶はなくなる,と.
濱野氏がウェブ学会の鈴木健氏の発表を引用.ディビクラシー,つまり民主主義は個人主義だったが意思決定権の市場モデルでやろうというというもので,断片による決定であり,人間ではなくあらゆるセンサーに判断させる,というもの.例えば,「腹減った」人に少ない食料を分配する場合,脳に演算させるより胃液の分泌でやった方がいい,ということ.また,環境問題の事例として,英語圏メールサーバーが破綻し,研究者のデータとメールが流出した「Climategate事件」を挙げる.10年で温度計が気温が高いところに移動されていたのが発覚した.区別をなくす環境が求められる.
次に池田氏.黒瀬の起源の問題で,アーキテクチャの問題とつながっているのではと指摘.椹木氏の起源はメタデータなのでは,と.日本を設定した単一の起源を分解,組み替えていく.前提を単純化し,椹木氏の日本現代美術は近代的なのでは,パースペクティブがあり,日本をシミュラークルとして成立させている.データベース型の美術史をどう考えるか.
千葉氏は脳,環境と近景と遠景において,中景をつくり直すことの必要性を述べる.セカイ系というのも虚構の時代の末期に表れたのではないか,消失点の設定をアーキテクチャとして設定できるのではないか,と.アーカイブ、歴史の連続性を蓄積して移行と言うモデルをやめようという話.無限データ集積を理想とし,サービス乱立の中では淘汰、アーカイブの制限が必要になる.つまり,アーカイブ無限論が有限化されていく.
虚構の世代の枠でもまだで、精神分析なのではないか,トラウマで揺すぶられる記憶が揺すぶられ,神経症的なしかたで心をとらえることをやめる.
池田氏は,「認知症」というレベルを持ち出し,20世紀型の人間構造が物語を規定し,欠如を補完している,認知症脳レベルがくずれてあとの時間をいきのびるのをどうイメージできるのか,とコメント.
次に黒瀬氏が虚構の過渡期を椹木氏は認める,と.セカイ系定義でなぜairかというのはゲーム性の持ち込みである,と.物語構造の話ではなく精神分析的なのをやめるべきだと思っていて,批評は物語だとかに回収されないようにゲームという言葉を出した.プレイすることによって物語にみえてくるのではないか.どうやってプレイしていくか、そのために構造を変えていくか.
千葉氏がポストセカイ系か超セカイ系かという議論をふっかける.全景と遠景を保っているのか,情念提携を中景として提示しているのか.それに対し,黒瀬氏は後者である,と返答.
濱野氏はChim↑Pomを見たときニコ動だと思ったという.セカイカメラはこの10年ではじまる新しい風景である,と.
池田氏が中景が必要な話になってくると共同性を取り戻さなければならないという話になるのか,と発言.中景がスコープによっていかにもかわってくる.
千葉氏が濱野氏に中文字の歴史が必要なのではないかと投げかけ.
濱野氏は図書館,広告など最近のトークなどの話を持ち出し,中間の空間、など「間」が課題であり,答えがどこかにあるわけでもなく,みんな意識してやるべきだと発言.
池田氏は自分の有限性をいかに通過するか 単に自己に閉じこもって自己充足するかではなく、それを引き受けた上で錯乱していくか,と.
ここで千葉氏がセカイ系宣言.社会性のない状態でどう社会をつくるか.
問題は日本に限られていない,と池田氏認知症の問題で,ショーン・ベンのショートフィルムを引用,老人がマンハッタンにいて狭くて暗い部屋で,窓に花があるが枯れている状況.しかし突如として光が降り,実は9.11でビルが崩壊、光が入り,花が咲く.この映画監督が9.11に対するこのような反応は無責任ではあるがポジティブに想像力を評価してもいいのではないか,レスポンスがある.と.世界の出来事と花を媒介に出会う物語のモデルを考えてもいいのではないか.
黒瀬氏は挙げているのは近代からみた距離感であり,そこにノスタルジックなものがあると反論.
千葉氏は「レスポンス」という英語は1つだが,その訳である日本語では「責任なき応答可能性」と表現できると指摘.また, 環境問題を含めて生物的次元の生存,つまり生殖や死といった生存欲望について.ドゥルーズの話でフライデーがきたときに 他者性がなかったのだから 同性愛が生じる可能性はなかった,と.構造的なことをいいながら同性愛を排除しているのではないか,他者構造崩壊後のセクシュアリティは可能かということを考えたい.消えるという話になるとメジャーなものは担保され、再編成される.
池田氏が大竹伸郎について,ノスタルジックに見えかねないが,そうではなく未来のものだといっっており,神話的ビジョンが環境問題を通じて未来になっている.過去未来が時勢をうしないながら一体となって担っている.方法論化して抽象化する,その無時間制としての可能性.時間概念の複数制 さまざまな有限性アーカイブの乱立からポリクロティズムがうまれるのではないか,と.
濱野氏はフーコーの知の考古学,P255がおもしろい,という.MAD的乱雑さであると.それはフーコーは普通の学問でなく、その時代の知を把握していた権力を把握しなければならないといい,それを現代はプチフーコー的にやってしまっている,順番の逆転が起きているという.つまり,時間の複数性をベタな現実がやってしまっている.
黒瀬氏は批評言語の更新をしなければならないという.横浜トリエンナーレの要人の使う言語においても時間の複数性とかいってるがその言語が古く,そこを更新しなければならない,と.
千葉氏は叙情性に言及し,トラウマに脚をすくわれるノスタルジーとは別種のノスタルジーがあると考えていると議論を締めた.