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kuro-nicle

February 19(Fri),2010

[][][]・可能世界空間論――空間の表象の探索、のいくつか

―情報技術はもはや、身体まで到達しつつある―その可能性を身体的に、感覚的に、ヴィヴィッドに介入してくる展示だった。

工学デザインとして折り紙を持ち込み、「立体形状の折紙化」「自由折紙」「剛体折紙」の三つの折紙理論と対応するデザインツールを提示する舘知宏。一枚の面から出発するその構造体ともいえる力学系は、一端にかかる力が瞬時に全体に影響を及ぼし、その力学的影響は形状の中に内在したまま保存される。そのパラメータと全体という関係性からは、自らの位置と空間全体と連続することを想起させる新しい試みとなっている。

柄沢祐輔と松山剛士は、ポール・クルーグマン経済的な都市自己組織化理論を逆照射し、「中心の変化する都市」をヴァーチャルに提示する。都市自体が物理的に変化することを提示することはコンピュータによって可能になるといえる。それは、「都市計画」といった近代的概念をどう乗り越えるかという問いでもあり、「ゾーニング」「市場」といった政治経済的他律要素によって一主体から見ると「勝手に」自動生成する都市をさらに把握、その上をシミュレーションしようといった試みであるともいえる。情報環境の成長によって政治的、そして建築技術的にも成長が見込まれる現代において、その目的の明示化、ツールとして知を集合させることが一元的に近い状況になることが必須であるのかもしれない。

その情報環境の成長は、「デザイン」という行為を容易に飲み込んでしまう。田中浩也、岩岡孝太郎、平本知樹の提示する「オープン・(リ)ソース・ファニチャー ver.1」は、その個人的営為の可能性を踏まえた上で人をアルゴリズミックに動かすことを基本とする。さまざまな大きさの基本形を物体化し、それを個人の意図ではあるが他者からするとランダムな組み合わせを表出させる。さらにそれによってつくられたフラクタルな造形には、家具、プロダクト、空間というさまざまな機能をも個人によって付加される。

エキソニモによる展示は、モニターを媒介にした現実空間への介入である。ARとも呼びうるものであろうか。モニターには展示会場だけでなく会場のあるICCの場所が映し出される。被験者はカーソルを動かし、キーボードで入力することで現実を変化させる。そしてその現実は幾層にも亘るレイヤーから構成され、さまざまなレベルから世界に介入するのである。

February 07(Sun),2010 LRAJ議論編レポート

[][][][]・LRAJ議論編レポート

Live Roundabout Journal 「メタボリズム2.0」@INAX:Ginza 

出演:藤村龍至 濱野智史 酒井康史 池上高志 磯崎新 連勇太朗 岡端喜 李明喜 藤本壮介 東浩紀 倉方俊輔 南後由和 黒瀬陽平 橋本純

全てのプレゼが終了し、次に議論に移る。

議論に入る前に第一部の振り返りを兼ねたライブ映像を観覧。映像は横浜国大のY-PACが担当したという。かなりスリリングでクオリティの高い映像。

その後,後半討議導入として濱野氏が全体のイントロを振り返る。

メタボリズムの検討、考察では、モノ的成長を人工的に行い、歴史の新陳代謝を促進させることをはじめ、プロセスプランニングの「切断」からメタボリズムへ。しかし国家の論理と同じロジックになっていて、批判的モチーフがなかったと確認。

一方で情報のメタボリズムがあるとすれば、批判的メタボリズムをどうやっていけるか、主体がないと議論はできないであろうという意味で今までは議論してきた。そしてこれからどうするか、である。

「見えない都市」/磯崎氏は、集合知手的なものにならない時代の都市である。しかし情報系のツールによって情報を蓄積、過剰に都市が見えていく。見える都市が拡大する時に現代の建築家が都市なりを提案していくか。都市とウェブの対比から何が問題なのかを討議する必要があると提示した。


討議中も編集画面が映し出され,同時多発的な状況が会場内に作りだされる。


次に南後氏からもキーワードが提示される。

まず、「時間」。メタボリズム右肩上がりの成長の中での官僚などとの親和性の高さであり、0から1に時間が変わる。そこの間に関係性があって、それを微分する事が可能になっていると説明。アーキグラムセドリックプライスは技術を使用して環境を制御するコンセプトであり、技術=環境としてインタラクティブな関係があった。そこではモノが動かなければならなかったが,モノと人の関係ではなく情報と空間の関係を三角形で考える可能性があるという。

次に「成長」。メタボリズム単線であり、負のフィードバックになく、淘汰のシステムがなかった。

社会工学」というキーワードでは、黒川の社会工学研究所、東京計画1960などでは量的なリサーチをしていた。つまり、データ解析,配置が60年代。いまでもMVRDVなどがやってるが、その違い。すなわち、シミュレーション、解析をしていた。都市を設定した上でシミュレーション。しかし現在はピンポンなどの問題で境界をもうけずに最初からコンテクストではなく場だけを用意して自己組織化をしていく。

また、「グーグル」は無意識を可視化する、というキーワードを挙げる。

東氏はグーグルはそもそもベンヤミンのいう複製機械であって、 工学的無意識であるという。映画で無意識が見えるようになったようにテクノロジーはそういうことを可能にする性質を本来的に持っている。リアルタイムで読み取れる。技術は映画も録音もそう。いろいろ可視化される小さな気づきがみえるようになる。そのなかにグーグルがはいっている。これは一世紀前から起こっていた。

それと設計はつながらない。結局自分のデザインをどう正当化するかになっている。デザインも自分の盲点から無意識にでてくることを可視化するわけでもなく、無意識に自動生成することはない。

その前提の上でこの意識化されたものをデザイナーをどう活かすかということを問題提起した。

藤村氏はインプット/アウトプットというキーワードに触れる。松川昌平氏はすべてコンピュータにして淘汰可能と主張し、正当性に置き換えるものであり、どう納得するかしかないとする。ログを残し可視化しているからクライアントは納得する。人びとの意識を可視化するという問題どう活かしていくか、前半のプロセスと後半のプロセスをつなげるにはどうすればいいかを提起。

磯崎氏は中銀カプセルタワーニューヨークタイムズにて破壊されると書かれたという。メタボリズムの具体化である「モニュメント」であり、「モニュメント」を商業論理で壊すのはどうかという記事であった。

磯崎氏は記者からインタビューされ、当時黒川紀章たちに反対していたのではないかと聞かれたという。しかし実は磯崎氏は批判的ではなく個人的にも家族的にも付き合っていたのは黒川氏であったという。

日本を覆う建築の中で約90%の建築家は両方に関わらないといけない。残り数%の公共施設を磯崎はやっていた。黒川は大きなスケールでやってきた。建築家として対立していたのではなく「棲み分け」をしていたというのである。

そしてどう中銀を評価するのか。新陳代謝は都市の住居とかをコモディティ、商品としての論理を組み立てたのがメタボリズムの基本的な姿勢であって、内側から押し進めていくテクノロジーを期待していたのがメタボリズムである。しかし自分はアーティストの仲間が多かったので商品はつくりたくないといったまでで、テクノロジーのレベルはもっているが、商品に関しては違うという。

あれは60年代の思想が一つのモニュメントとして都市にでてきたことが50年経ってはっきりしてきた。その前の時代がモニュメントになれば記憶になって意味がかわっていく。家賃が取れない、使い物にならないというのはどうでもよくて、文化的施設になって売り出したときの意味が変わっている。

という説明をインタビューでしたのだという。一般的に建築ロジックで、不動産の売り買いの論理で、建築家はそのよきに売り物にならなかった何かを頼らなければならない、そのロジックがみえるようになっているいい例である。つまり、メタボリズムは歴史的概念であって、テクノロジーのメソッドとして永久に残るものではない。一つのイデオロギーであり具体的建築的デザインとして採用をして、この時代の、マークのついたコンセプトである。前衛は日本の60年代後半に消滅した。歴史的概念として議論することが間違いだとした。

つまり氏は「メタボリズム」を出してきた事自体が気になっているのだという。

ここで東氏、そもそもモノをつくるとはなにか、と。モノを作りたい人が集合知でモノをつくるのは矛盾している。建築集合知でつくれる。社会はそうつくられている。集団でつくる/個人でつくる=商品なのかアートなのか、という問いは通俗と前衛という価値判断があるのでするべきではないよいう。

この世には集団であるのと個人でつくられるものがある。集団的無意識を反映してつくることもできるし、個体でつくることもできる。いい悪いはない。ベストセラーをつくりだせる人はずっと出し続けられるのである。

そこで藤村氏は、アトリエ派とゼネコン派の対立ではなく、ある計画のビジョンというよりも集合知的なおもしろさが都市にはある。濃いものを取り出すことはできないだろうかということだと説明。

対して東氏は問題は集合的クリエイティビティが組織されたから建築に限らず個人でつくることに意味がないのではないかと人びとが思っている事が問題なのではないかと問う。クリエイティビティが組織されるのは危機的に聞こえる。今までは個人というフィルターをとおさなければならなかったものがそうでなくてもよくなった。そう言った意味での建築家はいらなくなるのかもしれない。

黒瀬氏はランドマーク、つまり文化の無意識としてランドマークが立ち上がったのだという。ベストセラーの作家は欲望と相互作用であり、今はうまく像を結ばない、と美術側からの視点としても提示。

都市は建築にとって、藤村氏にとっては最大の与件であって、それを都市像までおとさないと建築家は向かい合えない。藤村氏はプロセスがあればよいということになる。アートにとって与件とはないか。我々の環境とは何か。浅田彰が環境技術という言葉を作ったが、コンテクストとして可視化するのにはどうすればいいか議論するべきであるとする。

藤村氏は集団とこの違いには、Bマイナス的都市をつくった人たちから次の人たちが生まれてくることがあるとする。

ここで磯崎氏。中国で抗議されたことがある。磯崎は中国建築家フォトショップだけでデザインしている。ザハよりもザハっぽい。超高層の課題でBマイナスをつけたものがあった それが現在、中国で建っている。それを言うと「バカにされた」といわれたが、氏はそうではないという。数時間でここまでつくってしまった、デジャブがこれだけのスケールで建ってしまったのであり、ほとんどヴァーチャルな都市空間で、ニューヨークでカーテンウォールの構想が生まれた時のように思ったという。ただそれと同様にただ驚いただけであって、いい悪いではないという。

つまり、「逆転」が覆っている。ポップアートが現代に評価を得ているように,Bマイナスもそうなるといって逃げたが,許してくれなかった。こういう街ができちゃったとおもってしまったほうがいいという。

藤村氏はBマイナスがAになるという話と東氏の技術的洗練によってあらかじめAができるといったものではないとした。

対して磯崎氏はBマイナスは先生がつけた点数であって、当時の標準として、コピーでしかないという評価。それができるプロセスフォトショップであり、中国超高層は全部そう。レムが一番いいと思った。推してできあがると中国ブロガーはそれをパンツだといった。できあがったものはディテール,工法などはない。貼付けたエレベーションだった。つまり、AをつけたがBマイナスになった。燃えたあと、これはいい建築だと思った。すなわち、表層だけで出来上がりになってしまった。つまり、事実は事実で中国で注目されている話になる。

南後氏はここで「作る」に立ち返るならば,都市のビジョンを建てることが成り立つのか。あくまで建築を通して考えていけばいいのではないか、という。

濱野氏は集団/個人の問題系で、個人名でつくったものは批判できるが、東京を批判できない。別のあり方を提起するときに社会的機能としても必要なのでは、という。自動生成してそれで良し、という話でもない。

藤村氏も、作家の作品性とは別に集合知での設計の中でも善し悪しがあると述べる。

東氏もそれはあるとするが、システムを設計する事になるはずで,形態の話にはならないとする。もし形態の話をするなら、それは作家性の話である。匿名建築はつくれる。そんなときにコミュニケーションを設計できる人がいい設計者である。

藤村氏はここで、形態の話は別にいい、とする。

磯崎氏がジェネレーションは50年ずれている、そのときの建築家像はどちらかというと組織がいない状態であって個人はアーティストの一部として活動していたという。

氏は悪い影響を与えたと思っているという。ビエンナーレなどで建築家として出て自分はアーティストだと思ってしまう。模型とインスタレーションアートだと言ってしまう。それで建築雑誌に載って自分はいい建築家だとおもってしまうのがよくない。中国ではコピーでいいじゃないかと。あの国ではわかならい。

そして都市の回帰とは数層のレイヤーが必要とする。原広司氏が「都市を住宅に埋蔵する」と言った瞬間に解けているのである。都市からの撤退は批判された。都市との対峙が正義であって、都市と建築の間の関係が抜けている。メタボリズムレガシーシステムだ、という。

黒瀬氏はシステムなのか、形態なのか、と問う。形態は美。部分的にシステムに置き換えて批判可能にする。それがここでの問題。わかる天才はデータベースをもっている。淘汰の可能性をもっていた。アレゴリーとシンボル、キャラクター、体系化された教養造形言語として使えるものがキャラなのではないかという。

南後氏は美と形態の問題において、60年代丹下健三率いるリサーチによって法が変わったことを挙げ、マンハッタングリッドを挙げる。法制度ではなく、リアル、ヴァーチャルインターフェイスをどうつくっていくか、という提起をする。

ここでディスカッション時の登壇者ではない池上氏から意見が上がる。メタボリズムというのは本当に理解しているのか、きちんと考えないと行けない、と。

対して藤村氏は入力と出力、メタボリズムの時代にもっていた設計と都市の関係を読み直すと何ができるか、と返答。建築と都市の関係は切れていた。しかし、新しい技術の立ち上げから何がみえるか。可視化された条件に対して、淘汰させてアウトプットする後半の統合プロセスにはロジックがない。情報で入力が豊かになっているという仮説がある、と。

しかしここでなぜかピンポンに無茶ぶり。李氏は建築ができることとコミュニケーションのレベルは分けなければならないとする。そのプロセスが可視かされているのが現状。ピンポンの当初ではデザインにどう活かすかということにしていたが、多摩美でそれがファンタジーである事がわかった。建築が経験レベルは不特定多数建築は経験のレベルで立ち上がっていく。設計の部分ではわずかな部分。しかし何もないわけではない。設計の範囲とそうではない部分のギャップを埋めるためにファンタジーをとりいれてきたのではないか。これこれで建築を繕う、ではなく、つくられていくなかでツールとしてピンポンを投入。ピンポンではコミュニケーションとして捉えている、と。

東氏がメタボリズムは未来の提案、生活様式の提案などをしていた。そこでグーグルなどが入ってきて、それからどうなんだ、と。

磯崎氏も藤村氏に対して建築とは何か建築物なのか、建築なのか。と問う。

さらに東氏がなぜメタボリズム2.0を選ばなければならないのか、と質問。外側に向かって何か言うのであれば、ビジョンがないといけない。新しい提案としての意味があったはずで、藤村さんがどういうビジョンがあるかを知りたい。

藤村氏は改革でやりたいことはなにか、コンテクスチュアルなものをつくりたい、と返答。人びとの欲望をよみこんだ建築をつくりたい、と。

池上氏は現世の無意識を満たすことに意味があるとする。先を考える。それがメタボリズムがあった。むしろ今の人がいやがることをやるとかならおもしろい、と。そのときにいいものは百年後にいいとは限らない,建築グーグルでハッピーになっているのか、そうでないのか、痛烈に問う。

藤村氏は今と未来のコンテクストに対応できる可変性はデザインできるのではないか、と返答。

ここで議論が少々錯綜するが、メタボリズム2.0は工学主義であることが明確にされ、濱野氏のプレゼの浸透性が確保できなかったことが藤村氏によって原因とされた。磯崎氏は「自己批判なんだね」と。

その後磯崎氏が発言。社会工学にひっかかると。高度経済成長期に東大は都市工学を、東工大社会工学をとった。都市工学は都市だからわかってたが、社会工学はよくわからないがおもしろそうだったという。また、未来学会があった。これが社会工学の先祖みたいなもので、うさんくさい。未来学は個人的に脱落感があるという。60年代東工大の路線を正当化するものではないのか。自己批判すべきだ、という。

東氏が社会工学に批判的なのは自明。しかし磯崎氏も未来学的なことをやっている。

都市についても未来についても何も語らない、ということになり、未来についての語りが危険であるとされるが、それを復活させたいという欲もあると語る。

磯崎氏が職業柄そうせざるを得ない。建築を選んだ時点での宿命であるとする。それに対して都市の問題を考えていくと、荒っぽく、その中で未来学がでてきた。小松左京から未来学会にはいらないのはなぜだと言われたが、日本沈没みたいに未来学もなった。未来に対する投機をもっていた。プロジェクトというのは建築家の基本的な思想だった。プロジェクトというのは先延ばしすることである。

東氏はメディアプロデューサーとしての立場があったという。未来学は歯車の狂いの象徴、何か変な事になった。呪縛をどう解除するか。

磯崎氏が行き詰まった70年代半ばはロッキード,列島改造の失敗があり、政治的に沈没した。これが日本にとっての状況であり。アメリカベトナム戦争ネオリベラリズムに日本は乗り遅れた。客観的な状況での日本の展開とのズレが今では印象的、事実がそうだった。メタボリズムというのを60年代の運動を積極的に評価しているのか,そうならばいずれそうなる。それならばこのままいくと同じになる。

東氏は濱野の議論は夢に結びつくとする。自己反省は必要。批判精神ばかり先走るのもどうかという。

藤村氏は磯崎の違和感を学習したいという。集合知への議論を今考えなければならないから。絵を描く事も必要だし,今何を考えなければならないのかを。

最後に、濱野氏が国家ではないので、集合知的なものに懸けるしかないと思っている、藤村氏が絵を描く事,絵を描く事の問題なのではないかと。磯崎氏が社会のロジックは工学で解けるようになってしまった、と議論は時間の問題もあり閉幕した。

質問では、磯崎氏の伊勢神宮の話があったが、濱野氏の情報環境は始源なのか起源なのか、という問い。答えは「始源」である。メタボリズムをつかってしまったことを反省しなければならないとした。

批判する立場の藤村氏と周囲の人が絵を描き、つくればよい。批判とつくる、二つのロールが必要、とシステム論的な意見が出る。

次の質問は建築はどういう役割か、というもの。

磯崎氏はつくるのは建築家だが、社会的に意味のあるものとしては、別の評価する軸が必要。二重構造であって、作るのは自分だが,それをどう評価するかはまた別の自分であるとした。

東氏がまとめに入る。

巫女と全て見えること、60年代建築かとは違う方法でイメージを提示する。表層で終わってしまった。

もう少しまともに生物的につくれる時代。(=メタボリズム2.0)よりビジョンを提示する枠組みで生命をつかいようがあるのではないか。(思想地図4 中川) 生命論的にまだつくれるのではないか?

池上氏はオートポイエシスの閉じたものを開放することで、p、おもしろくない集合知がおもしろくなるのではないかろする。

磯崎氏は生物の何をメタファにするのかはわからないが、多田氏という免疫学の先生の初期のアイデアがあったという。免疫細胞アノニマスであったのにも関わらず器官の形にまでこれた。それは都市にどう応用可能か、と例を提示。

藤村氏は建築ではむしろ建築によって、建築に学ぶべきこと、構築性であるとか、メディアをもっと自己研究をするべきだとした。

橋本氏はメタボリズム社会工学と対になっているといい、JAの特集であるメタボリズムが生まれたとき、菊竹氏は木造建築を改築していたが、社会的評価を得られなかった。日本建築流動性に、メタボリズムは変わらない部分を持ち込んだ。コンクリート以前のコアを考える事もできた。集合知を都市をつくることの基本にあり、それは今までもあった。背景としてうまれてきただけだ、とした。

February 06(Sat),2010 LRAJセッション編レポート

[][][][]・LRAJセッション編レポート

Live Roundabout Journal 「メタボリズム2.0」@INAX:Ginza 

出演:藤村龍至 濱野智史 酒井康史 池上高志 磯崎新 連勇太朗 岡端喜 李明喜 藤本壮介 東浩紀 倉方俊輔 南後由和 黒瀬陽平 橋本純

第一部

第一セッション 「イントロダクション」 藤村龍至×濱野智史

メタボリズム2.0」というタイトルには、都市と作家性の乖離があり、都市からの撤退、撤退のパラダイムのままという問題意識がある。

つまり、60年代と現代状況の重ね合わせによる対比ができるのではないか、1960年代のメタボリズムには「社会工学」という思想の背景があり、それが2010年ではメタボリズム2.0では集合知という背景があるのでは、という仮説。

それと接続させながら、藤村氏の「超線形設計プロセス論についてとその応用」がプレゼンされる。

魚の発生過程のような建築をつくれはしないだろうか、という疑問から始まり、「UTSUWA」ではゴールイメージをもたない、条件の洗い出し,蓄積が説明される。一つの形態へ粋,描いていたわけではない結果へ。次第に形を提示,フィードバックを重ねることによって意味を重層させる。

また、「ビルディングK」のプレゼンにおいては街並の中でより自然に近づいているのではないか、と。続いて、住宅、オフィスビルと作品を提示し、コンテクストの条件を拾いだす、コンテクストと形態の不適合を取り除くことを説明。

超線形設計プロセス論の原則はジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない、である。それはプロセスのドライブであって、一つひとつの手続きを繰り返して重ねているにすぎない。プロセスごとに問題が発見される。最終的には20ほどのパラメータが発見されている。

提示したパラメータでは検索過程と比較過程と区別される。

「超線形」の効果は固有性をより正確に読み込んでいける、複雑性をより確実に構築することができる、スピードがあることである。

次に教育の応用について。カナダ、ブリティッシュコロンビア大学大学院での例。Do Not Think, Do Not Imagine, Do Not Look Backの3つをプリンシプルとして提案し、講義をおこなたという。

さらに過去の議論で濱野氏の指摘で明快になった点があるという。それはアルゴリズムで設計するのでなくアルゴリズミックに人間を動かすということ。ウィキで外部リソース、グーグルでいいと思ったページにリンクをはるという行為で人間を動かす事で結果を得る。「超線形」はむしろ、そのシステムに似ているのではないか、と。

そこで、情報社会的な意味での実践に共通点があるとする藤村氏は、アルゴリズムとアルゴリズム的な設計を対比する。アルゴリズムは、種から発想されるグレッグリンの活動は、自動生成、切断が取り出せる。対してアルゴリズム的設計は、グーグルから発想され、MVRDVの実践として集合知と蓄積というキーワードが取り出せる。この対比を人間と機械の関係として考えていく。

濱野氏がまだ到着しないため、藤村による濱野プレゼが行われる。プレゼン内容はこの一年を振り返るものである。

2009年2月に浅田彰氏、磯崎新氏などによるアーキテクチャ議論があった。情報化進展に伴って、批判先にイデオロギーがない、アーキテクトの不在が問題化する。そこで濱野氏から自生的秩序の淘汰の中でアレグザンダーやメタボリズムは積極的に新陳代謝を促進させることを志向したが、メタボリズムの生物メタファではなくプロセプランニング論に着目する。

メタボリズム1960年と2010年は、以下のように対比される。すなわち、自生的秩序としての都市とインターネット、新陳代謝の対象はモノと情報、マテリアルとヴァーチャル、そして情報環境には「成長」と「切断」がなく、「永遠のベータ版」と「淘汰」が存在する。

さらに、1960年に存在した磯崎新という批判的アーキテクトは2010ではいかにして存在するのか、リアルとヴァーチャル、フィジカルとメタフィジカルの落差、身体性との関わりはどうなるのか、都市、社会のヴィジョンは、メタボリズムのヴィジョンはどう描けるのか、という問題が提起される。

「設計/デザインを考える」ではグーグル建築家としての藤村龍至、組織でもなくアトリエでもないこと、模型という人力のアルゴリズムを使用していること、中間項であることが確認されている。そこでは、メタボリストとしての藤村、リアルとヴァーチャルをの落差を埋める媒体としての模型などが挙げられた。

そして、最後の課題として都市のヴィジョンというものに対して「AAR」で批判された濱野氏の論考は、限界を突破するにはどうすればよいかという可能性を模索するものでもあった。

ネットワークを介した自動生成都市であるが、都市にはコミュニケーション相手はいない。そこで濱野氏は「クライアントを構成せよ」という。集合知と民主主義2.0の可能性である。

ここで会場に濱野氏が登場する。

主なものをピックアップしていくプレゼンが開始。モノの成長は情報化の爆発に現代にすりかわり、それをメタボリズムとしてのモノの成長が今のヴァーチャルの乖離をどうとらえるか。

設計者の主体を捉えることも課題である。

また、都市のレイヤーではグーグルなどによって様々なツールが開発されている。「グーグルストアビュー」はショッピングモール内でされている。ストリートビューをSC内で行ったようなものだ。「Foursquare」はリアル足跡、つまり自分がどこにいたのかを表示することができる。「microsoft photosynth」は、個々人の写真で3Dを構築するという集合知的なツールである。

AR(拡張現実)は現実空間にオーバーレイして情報を映し出す。

濱野氏は、この概念は既に磯崎新氏によって提出されているという。「見えない都市」である。記号の流れで都市空間は無数の計画的可能性に満たされる。非実体的な動的モデルを前提に都市を設計する必要があり、見えない都市が見える化してくることが重要であるという。

つまり、ツール、集合的無意識を踏まえて新しい都市をえがけるか、である。

ここで濱野氏のプレゼンは終了し、第一セッションコメントが東浩紀氏から。

濱野氏のプレゼンにかなりの興味を示し,東氏の問題意識と似ているとする。集団的欲望数理モデルで把握できるだろうとする一般意志というものがルソーの社会契約論であるが、それでは静的なモデルになってしまうという。政治過程には欲望の変貌があり、集団的合意形成では欲望的が大事であってコミュニケーションが大事ということになる。つまり静的な一般意志モデルと、ダイナミックなコミュニケーションの対立があり、そこで氏が考えているのがダイナミックなコミュニケーションから生成する無意識を集合できるのではないかということ。ツイートから絶えず生成する無意識を把握できるのでは、ということである。濱野氏が挙げたいくつかの例は新しい数理的均衡への点であって、今までの一般意志とは違った一般意志2.0みたいなことを言えるのではないかと発言した。

さらに、表層と深層の二項対立で考えるのではなく、それがいかにダイナミックに混ざるモデルで考えなければならないとした。


第二セッション 「媒体から方法へ」 酒井康史/連勇太朗

休憩を挟み、酒井康史氏と連勇太朗氏という慶応義塾大学SFCの学生によるプレゼ。

SFCの「環境デザイン」という講義で藤村氏と接触したという。

この講義ではプログラミングを教えた上で設計をするという。オーセンティックな設計製図ではない教育を受けた学生である。

ここからコンピュータをベースにした設計手法に示唆に富んでいるのではないか、と藤村氏。

まず、酒井氏のプレゼン。自身の修士論文を発表した。

プレゼンの序盤はファンズワース邸は幾何学的、サヴォア邸 幾何学だが複雑など模型写真を提示しながら印象を述べていく。

図形の粋を出ているか,単純な形に窓などの要素が入ったらどうか、球とはどっちが単純なのか、様々な形でどれが複雑なのかどう複雑なのか、円柱、円錐、様々スタディしていく。仕切り、ドア、切妻、回転だけでかわるのではないか。自己相似形はどうか。

フィッシャー邸、イームズ邸なども登場した。

ここから、「どういう複雑さを得るのか」「複雑かどうか」それを定量的に表現できないか、というのがというのが氏の研究である。

様々な形状の形態をグラフに分布させる。つまり、ある形状を一点に立った時に全体を把握できるかを縦軸、多視点から、すなわち任意の2点でみたときに同じようなのか、それとも認識が変化するのかを横軸としたグラフにプロットする。

角度を変えると複雑性が増え、全体形を把握するのが困難であるが、その計算は認識を3つにわけることで行っている。つまり、「みえるか いけるか つながるか」であり、「みえる」については見える/見えないの2つの認識があり得る。それが3つで8種類の認識状態が生まれ、各点の結果として出る。そして次に点と点の間に「壁」がある場合「見えない 行けない つながらない」となり、0/1で表現すると111となる。

ファンズワース邸と 、イームズ邸と が似ている複雑性であるという解析結果がでたという。

ここで酒井氏が行った研究は、「コンピュータライゼーション(自動化)とコンピュテーション(計算をする履歴)/本人のHPにスケッチあり」であり、情報化のポイントはコンピュテーションである。つまり、人とコンピュータの二項対立をしない。最終的にはスケッチが大事である。


次に連氏のプレゼ,「アーキコモンズという方法」。

2つのプロジェクトを紹介する。アーキコモンズとは造語であり、建築建築の関係性(コモンズ)、関係主体間の共有構造を意味する。

プロジェクトは、WSのプロセスとそれに連動した空間の変化が特徴である。内部、あるいは内側に入り込む。コミュニケーションの連鎖を通して共有するものをつくっていくか。

アーキコモンズはプロセス共有状態、情報蓄積状態、技術系の開放状態という3つの状態に分けられる。

1つめのプロジェクトは長野県の民宿で行った「はばうえプロジェクト」である。観光局から依頼を受けて行ったという。

スキー客の減退から夏の利用者増加のために行ったものである。スキー客ではなく26歳以上の女性がターゲットであり、スキー客用の価値体系から新設ターゲットの価値体系への移行をWSを繰り返して行う。

氏は2枚の写真を提示する。数畳の部屋で、仏壇が消える前と消えた後の写真。ここで表れているのは共有意識で仏壇が消えた、ということである。地方で仏壇が消えるのは大きな事であり、お互いが共有する価値体系の中で空間が変わっていく。

また、「はばうえスケール」なるものをつくり、寸法の価値体系をつくることも行っている。オーナーとデザインをアウトプットする中でモジュールをつくっているのである。

空間を構築するのではなく構築した事でどういった正解を得るか、というプロジェクトであった。この民宿は、「新民宿宣言」として現地で利用されているという。

2つめのプロジェクトは「北沢プロジェクト」である。

オーナーがウェブを使える人であったらしく、ウェブを民宿でやったことを木造賃貸アパートで可視化していくプロジェクトとなっている。

スタッフなどの携帯からは個人が重要だと思った周辺情報の写真が送られてくる。持続して情報を蓄積し、オーナーと価値だと思ったものを共有できる。技術系の開放という意味で、ホームセンターで買えるものを使用しているという。

ここで示唆しているのは、建築家の仕事のプロセスコンピュータを使って形式化されていることである。外部化できるようになり、いかに関係主体間を連鎖していけるかを徹底して、ウィキ,ツイッターのようなツールで個人ではなく関係性の総和で建築をつくれないか、ということである。ここでは、コミュニケーションプロセスをいかにつくっていくか、ということの布石になることはできないかという主張があった。

終了後、濱野氏のコメント。レッシグはネットで重要なのはプロセスを共有できることと言ったが,著作権と対立するとも言った。しかし、普通に聞くとアーキコモンズはアーキコミュニティである。

コミュニティという響きにあるイメージを取ってコモンズにしているということであり、コミュニティは人の集まり、コモンズは知の集まりであるということを指摘した。

次の南後氏は、酒井氏は経験値を単純幾何学モデルにして生成、解析する、東京都現代美術館の池田亮二氏の展覧会とのつながりを指摘した。連氏については、コミュニケーションの連鎖で対応しとけばいい、というよりツールの幅を広げていく、よりコミュニケーションの連鎖が担保されているとコメントした。

これは第一セッションの「超線形設計プロセス」に対して連氏は出来上がってまでも視野にいれていることの差異であった。両者のプロセスとどう重なっていてどう違うのか。

倉方氏は連氏のプロジェクトはまちづくり系の話であるができたものをどう合意形成するかという話であった。テクノロジー関係ではウィキでの情報共有、コミュニティ、物理的近接性がキーとなり、コモンズはそれを排除し、ミクシーのように近接性ではない粘着度は高くなる。コモンズが内包する意味には非常にネイチャブルなパターンがあると発言。

酒井氏は0と1に表せるものに対して1つの結果を落とし込む。アレグザンダーの「形の合成に関するノート」ではつながりの可能性と同時に0と1の還元による新しい合意形成がみえると発言。

しかし、基本的には藤村氏は作る話であり、メタボリズムはどう持続していくかという話であった。つまり建築はどう考えても動かないものであり、合意形成の上に建ったとしてもそれ自体を支える基盤が変化する。それを踏まえて磯崎氏の論考などを踏まえる必要がある。つまり、メタボリズムは動ける/動けないという問題系で頓挫したのだから。ビルディングの話なら可変性、アーキテクチャであれば可変性をどう持ち得るかという議論をしなければならないと指摘した。


第三セッション 「弱い「あいだ」のあり方」 藤本壮介李明喜/岡瑞起/池田高志

まずは池上氏のプレゼから。

複雑系の科学をしている研究者である。時間軸を投影する。建築を含めて科学には時間軸がはいらない。そこに時間を入れて考えるのが複雑系の真骨頂であるという。

いくつかの映像を提示。建築物の破壊されている映像のようだ。構造物を壊すということは構造の問題ではなくタイムスケールの問題として考える事ができる。

そこからタイムスケールとキーストーンの話に移行。生態系を構成するバイオマスの取り除いたときのインパクトの強さがあるが、どういうものが生態系によってとってインパクトが大きいものなのかわからない。それがキーストーンである。

生態系の全体から生まれるのか、種の特徴なのか。どういう種の生態がいなくなると生態系が壊れるのか、ということである。個体数が遅く動くものと早く動くものの間にある中間にあまり動かない生物がいるとすればそれがキーストーンの候補になっているのではないかということをやったという。

つまり、時間スケールの問題であり、早く移り変わるものと遅く移り変わるものが独立ではなく繋がっているため、1つのタイムスケールをいじることで様々なところへ波及することができるというものである。

2つめの議論はつながらない時間軸をつなげることである。

Way Things Go というアート作品を提示。ピタゴラスイッチであるが、ローカルにあるものをその時々でつくっていく。ピタゴラスイッチは1万回やったら9999回は失敗することをやっている。つまり、アートや人工物は成立が稀なものを追求している。本当は繋がらないものをどうやってつなげるかを考えようというのである。

3つめはモーメンタリーナウ。「今」に対する感覚意識である。

「ロングナウ」という言葉をダニエ・ヒルズという人は言ったが、「長い今」ということ、100年後に生命はどうなっていくかを考えた。今はコンピュータが作り出したものに制約されて何十年後を考えない。一万年刻む時計 をつくり、砂漠に埋め、未来に対する遺産を作り出した。

建築に対してどのくらい長いタイムスケールを考えるか、時間のコンセプトを集約して意識的であるべきだと建築へメッセージを送った。

濱野氏はコメントで自著の「アーキテクチャの生態系」で後半では時間がテーマになっていることに言及。グーグルなどでは時間性を実現したサービスがあり、時間の問題を意識化することで、時間性を実現した都市、人工物を考えていくことが重要だとした。

次のプレゼはピンポンから「強いネットワークから弱いネットワークへ」。ピンポンはデザインを前期デザインと後期デザインと捉えている。前期デザインとは線形世界のストリーテリングであって、後期デザインは非線形な世界での経験の創造である。

後期デザインの実際例として、ウェブの実践がある。ページランクとセマンティックウェブである。

ピンポンは、ページランクでも、ヤフーの審査制ではなく、リンクをはる行為を判断にするグーグルでのアルゴリズムに着目する。結果として、ページの重要度にユーザーが参加している点である。肯定的であれ否定的であれ数学的には固有値であり、ページの重要度が7つの濃度の重要度として表れる。

もう1つのセマンティックウェブとは、情報に意味を付加することでコンピュータが自動的に処理するものである。「ピンポン」などの文字列を自動的に処理できる。すなわち、メタデータとオントロジーでできる。「ピンポン」では、メタデータ:スポーツ、オントロジー:国や組織で様々となる。その中で、様々な差異を無視して作成した固定的なオントロジーを強いセマンティック、コンテクストで変化するオントロジーを定義できないものを弱いセマンティックとしている。

これらを基盤として、特に「弱いセマンティック」を背景として実践を行っていく。

ウェブ工学 人びとが作成する wordnet

環境におけるログを集合させ、抽出、意見ではなく記述として扱い、意志の軌跡を可視化、環境に重ね合わせるという手法をとる。

より動かすためのデザイン案として、多摩美術大学のWS、「つくる図書館をうごかす」がある。

ツイッターで収集、行為のログをマッピング、ピンポンマップで可視化する。そのピンポンマップと実際の場所を往復し、アイデア作成,デザインを行った。

パラメータは現実の行為、非現実の行為、時間区切りであり、38個のパターンが表出。時間構造との可視化を行い、軌跡を見る。一般意志ひとつの表れではないかという。

現状の導線が3つしかないが、6つ新規で見つけ出し、多摩美図書館の書籍の増補ページをつくることと兼ねて学生がデザインして導線を作った。

次に紹介されたはこだて未来大学のプロジェクトは、ピンポンの長期的なプロジェクトである「オグメンテッドキャンパス」の第一弾である。

ピンポンでのプロジェクトはツイッターを利用した新しいものであるが、このツールを使用することでWS以降も使えるツールとして実装する。

デザインとつかうことのあいだはシームレスにつながる。はこだて未来大学では専用の地図情報の入ったアプリが用意され、位置情報とともに投稿された行為を収集、分析、ピンポンマップで可視化。地図とTLが同時にあらわれる。エンジンとピンポンウィキを組み込む。最終的に実空間と情報空間をつなぎ、デザインする。

はこだて未来大学の後は東大でも行うという。弱いネットワークを上位の弱いネットワークにつなげていく、それが「オグメンティッドキャンパス」である。ピンポンは、この弱いネットワークから生まれる経験を創造することが空間デザインであると捉えている。

濱野氏はコメントで、弱いキーストーンをどうデザインしていくか、という池上氏のプレゼとの類似性を指摘した。

藤本氏のプレゼの冒頭は池上氏と同様に複雑系に興味があったというものから開始。弱い秩序に興味をもち、コルビュジェのドミノに変わるものはないかと模索しているという。

段差のお化けのような住宅は、座る机になったりと、場所で板と板で局所的に意味が機能していく。コルビュジエのドミノのように明瞭に、強くて定義していくのでなく、人が関わる事で建築全体のシステム、意味合いが変化していくものはつくれないか、ということである。

熊本につくったバンガローは、コミュニケーションが生まれるどろどろの場所の塊みたいなものが立ち上がってくるイメージであったという。

北海道の医療施設では、古い集落をちゃんとした方法でつくれないか、か弱いネットワークを模索したものである。四角い箱をランダムに置いていくのだが、ランダムさ故に精密に関係を追いかけていける。しかしデザインしたようには見えない。

入れ子状の住宅である「House O」では、内外が緩やかにつながる。三重になった空間のそれぞれには、絶対的な部分が何もなく、相対的な関係だけでできている秩序がある。

透明不透明が常に入れ替わる。屏風絵をみると、それぞれのタイムスケールの出来事を白い雲がつなげており、この建築でもその枠組みのようにいろいろなタイムスケールをつなげる存在として,建物はそこにあり続けてどうしようもない存在であり、雲のように周りにある関係を関係づけていけるもののように、その間にある関係を更新し続けていけるのではないかという。

東京アパートメントは、ダーウィンの進化論のように、イメージのはあるが次よくわからない、なぜだかわからないができてしまった空間をつくりだしたという。


東氏はピンポンのプレゼに対し、グーグルのページランクはリンクするときは肯定否定両方され、フロイト無意識のように肯定否定がない、ゆえに正確に無意識を取り出しているという。反応したという事実だけだからである。

池上氏の時間性に関するとデリダはそういうことをよくいっている人であって、フッサールは人間の意識が複数ののリズムがつながりつつはなれている外れつつつながっている構造で人間はできている、現象学の批判者であったという。

橋本氏は床とか壁とか制度的に強いものをどうにかしていくのが若い人の傾向であるというコメントをした。

池上氏はプラベートからパブリック、有限の幅を持ったものとしての時間としても関係があると述べた。


第四セッション 「ただプロセスのみが時代を超えていく」  磯崎新

プロセスプランニング論の情報環境における批評性、文脈に対するフィードバックというキーワードが藤村氏から述べられた後,磯崎氏からのプレゼが始まった。

思想地図に収録されたシンポジウムの後,北京の清華大学に訪れた時に、学生が氏の80年代の本の海賊版をもっていた。北京において、80年代の学生は古いことばかり習ってでてくるが、重要なポストに位置するという。再教育の場でのプレゼ、つまり北京で講演を行った際に、完全にずれてしまっている現状を前提に主内容のプレゼを始めた。

まず氏は、都市は定義に過ぎない、都市は実体ではないという。つまり、その深層にあるものと時代変化として区別すると、

⑴都市/計画/国家/city/19世紀

⑵大都市/規則/資本/metropolice/20世紀

⑶超都市/交換/情報/hypervillege/21世紀

となり、これらを考えないと都市にならないのではないかという。

こうみてみると、北京は19世紀都市コンセプト(国家)が残っている、化石のような都市であって、深圳はジェネリックシティのなれのはてであり、上海は古い時代から新しい時代への経過のある都市である。無茶苦茶な街だが現代的に機能している。つまり、人口何千万人かは市の当局もわからないが、みな携帯をもっており、同じ格好をしている。携帯を有効につかっているのはハイパービレッジである上海である。

ここで最初の議論に戻ると,時間はコントロール、ビルディングはボックスとして捉えられている。そのタイプとしては、

⑴パリ/国家ヒューマンスケール/ボックス/歩行

コルは昔のシステムは考慮しない輝ける都市を提案したが,コルのこれは19世紀の改良であって、都市ではないのではないか、というのが氏の解釈である。

⑵スーパースケール/マストランジット/超高層/スピード

サンテリア、未来派は21世紀のメトロポリスを言い当てているコルより新しい、と氏はいう。建築物が駅、飛行場など都市のノードになると組み立ててたから重要であるという、解釈である。オスカーニーマイヤーのブラジリアでは、ジェット機の形が選択される。

ここで、1950、60年代メタボリズムに翻る。菊竹清訓氏の「海上都市」で全て説明可能であるという。磯崎氏自身の空中都市は渋谷上空に計画されていた。「システムが自走(自壊)する/1962年」とプロセスだけが信じられる、プロセスプランニングのコンセプトに至ったが、関係あるが入りたくなかった理由がこれであるという。

同じ時期に黒川紀章は、フェリックスという造形でメタボリズムの基本的イメージを提出、クリストファー・アレクザンダー は「都市はツリーではない/1965」で結果としてはツリーにしかならないと述べた。東京計画1960なども挙げられるが、「ウォーキングシティ」が最も分かりやすく、アーキグラムのロン・ヘロンの未来都市プロジェクトを挙げた。

しかし、「同世代にユートピアについて書くことは犯罪である」と言い切ったセドリックプライスがいた。メタボリズムなどは20世紀が求めたユートピアをつくっているが、それ自体が犯罪である、と。プライスアーキグラムと同伴はしており、磯崎氏とメタボリズムグループと同様に批判を仲間に行っていた。

メタボリズムに対しての批判」は60年代に同時代的に既にあったことを再考するべきであると氏はいう。

以上の問題は全て2段階、すなわち⑵の都市把握の範疇であった。第3段階は

⑶フラックス/場所はウェブ/空間はネットワーク/ビルディングはモナド=点/時間は瞬間に還元

となる。

この都市像の中で、「建築の解体」世代で生き残るコンセプトはアーキズームの「ノンストップシティ」であるという。彼らはインテリアだけが都市デザインであり、交通的にも環境的にもコントロールされたという意味を明瞭に示す。彼らがフィレンツェ大学の学生時に、アルノ川の氾濫があり、予想外の天災が日常にはいるそのような事件に遭遇していた。これをビジュアルに展開していたという事は今日重要な問題を孕んでいるのでは、という。

その後,90年代に入り,阪神大震災、オウムの事件が起こる少し前に,「海市プロジェクト」が開始される。ICCギャラリー最初のWSであったが、めぼしい成果はでなかったという。

その後は2009年にサンリンプロジェクトを行い,上海エキスポの横に都市計画コンペに参加している。

これはセミラティス、パタンランゲージを日本の都市空間を調査してどう組み込むかを考える。リゾーム型システムはどう保証されうるか、コンピュータを介して組み立て、記号的にこの地区の素人、市民が自分の意見をアクセスしてそれが具体的なプランに変換していくということをネットを介してできないか

やろうとしたときに「グレートウォール」という中国全体のブログをチェックするシステムが始まった。グレートウォール92というワインのトップブランドがあるが、特に意味はなく、オバマがジャンバーの広告をとりさげたことによってコンセプト自体が炎上してしまった。

それでもしなくてはならないことであるので、ブログを寄せ集めて炎上した。次にパタンランゲージのようなこともしたが今まで出たコンセプトしか出て来ないから炎上、キャラクター的なもものをしたが、不思議なものしかでてこない、普通がなく 炎上。次にニコニコ動画のキャラクターの自動生成はどうかということをやったが、炎上。60年代の「見えない都市」に、フラックス、モナドを入れたものもやったが、蒸発。また炎上し、計画でもコントロールでも中国を組み立てる事ができないということで都市から撤退した。

「都市の変貌は大きな亀裂から始まる/1962」コンピュータが違う形をつくるのではないかいとフラックスストラクチャーで最適解をコンピュータで求めることを行う。漢字アルゴリズムは亀裂からはじまっている。上海はコンピュータにやらせた。アナログではないデジタルで。サイバネティックエンバライメント(1967)当時の情報理論は大阪万博で実現されたが、そのコンセプトを今に応用できないかと。上海万博の横に宇宙博物館、CCTVはいずれアイコンになるものが必要であった。

他に、直近のプロジェクトを紹介。ボローニャ駅/2010。長州/エコロジカルビジネスディストリクト/マスタープラン/2010

ejust project /2010はクラウド→雲でレイヤーリングし、屋根,システム,交通、ランドスケープの動きの中にシステムデザインとビヘイビアをむすびつけるコンセプトであり、アラップと共同した。

コメントで倉方氏は磯崎を介さずにどう集合知を形成するか、建築も主体があって竣工年があってというものではないことを建築に持ち帰った。原因があって立ち上がってもそれは過去の原因 アルゴリズムによって出来上がったものに新しい意味を与えられる事。

それに対し磯崎氏は伊勢神宮論を語る。起源を語るな、起源オリジンは隠蔽されている。ビギニングを反復することができる、ビギニングを語る事はできる、と。

倉方氏は人は何かの根拠を求めるとし、今日の連氏などは使い方でもって更新していく。動かないものに対してアーキテクチャの解釈はできないか、別の方法でどうできるかと問う。フィジカルな前提が情報技術が実装された現代で可能なのか。

設計論をつなぐ時に解析はできるが、その知見を建築でどう構築していくかであるとする。しかし藤本、磯崎のような成功してしまっているものとどうつなげていけるか、と議論を収束させていく。

December 31(Thu),2009 <お笑い界>におけるアーキテクチャとキャラクター消費

[][]・お笑い界におけるアーキテクチャとキャラクター消費

最近のお笑い番組をみていると、昔は落語や漫才、漫談といったスタイルしかなかったものが、マスメディアとともに多様化してきている。特に若手芸人に関しては消費されるスピードと質が、テレビ番組によって変化しているかのようである。

それは根源的に<無から笑いを生み出す職業>だった芸人がテレビ番組に寄生し、それによって生かされているようにも見える。若手芸人の目標でも、<テレビに出る>というマスメディアに触れることを第一の目標にしていることが多いのではないだろうか。しかし、どこそこの番組でよく聞くように、芸人の消費のスピードは年々速度を増しているようであるし、一度テレビに出たからといってその地位が永続するわけでもないくらい、次から次へと多くの芸人が出てくる。その中から1日数時間×数チャンネルの時間に出るのを奪い合うのだから、当たり前だが明るみに出ない芸人の方が多い。

最近はネットにおける情報の淘汰がなされているが、グーグルなど検索システムの上位ランクを位置づけるように、テレビの番組というのも淘汰の仕組みをもっているのではないか。つまりアーキテクチャ。さらにそのアーキテクチャによって芸人という存在がどう変化してきているのかを今日は考えてみたい。

もちろん、劇場などテレビの出現以前からある芸人の活躍の場というのはあるだろう。しかし、仕事を得るには<知名度を上げる>ことが手っ取り早いのはいうまでもない。そこで、概観という形ではあるが大きな影響力となっているテレビ番組と芸人の質を考えていくことにする。芸人の質においては、芸の基本であり、芸人のイメージを特徴づけることが容易な漫才を主体に考えていく。というのも,ぼくは芸人はまず何もなしの状態から笑いを生み出す<しゃべくり>を基本とした能力が必要不可欠だと思うからである。

まず、現状の特徴として一定のコンビが<キャラクター>に依って漫才を成立させているということが言える。具体例を挙げると一方の芸人のキャラクターがコンビを表象するものや、コンビにとって代名詞ともなり得る漫才の文脈に依ってのキャラクター化である。しかし基本的には<ボケ>と<ツッコミ>の役割は一定である。つまり<常識はずれのこと>を言うボケに対して観衆が感じる<常識的な反応>をツッコミが言葉にすることで<共感>という形の笑いをとる。

次に、その淘汰の行われる仕組みとして「M1グランプリ」(以下「M1」)が挙げる。

年末の大きな話題となっている「M1」では、若手漫才コンビの競争が繰り広げられる。「M1」は、テレビを中心とした芸人として一定の位置を保っている島田紳介が中心となっている番組である。優勝賞金1,000万円、結成10年目までなら有名無名関係なく出場可能という中から一組のコンビが選ばれる大きな淘汰が行われるだけあって、ここで決勝戦まで登り詰めたコンビが、その後有名なテレビ番組に多く出演していることはよく知られていることだろう。

2001年から始まった「M1」では、自由に応募のあった中から敗者復活戦組を含め9〜10組のコンビのネタが本戦である年末のオンエアで放送される。そこには、島田紳介、松本人志を筆頭にした中堅、またはそれ以上の大御所と呼ばれる芸人が審査員<審級>として若手芸人を審査する。ここに上がる芸人の淘汰には不透明な部分が多い。その善悪は判断しかねるが、やはり漫才の大きなイベントだけあって、多様な種類の芸風をもったコンビが現れる。素人から玄人まで、本気/記念含めかなりの人数の応募があるという。

特に、9〜10組の本戦は点数での評価が高い順に3組が決勝に出られるということもあり、芸人同士の<差異化>の傾向が高まるのは当然の帰結である。これは「M1」でないとしてもステレオタイプは存在しない。<お笑い>とは日常の差異や物の見方の差異から生まれるからである。


まず最初に表層に現れる芸人像として先行するのは<キャラクター化>による区別ではないだろうか。私たちが<漫才>と聞いて連想する漫才はテレビという地表では少数派ともいえるかもしれない。つまり、現在の芸人はメディアという表象のシステムにおいて、<イメージ>というものを持っている。

さらに前提として、持ち時間に制限がある上に相対的な審査をされるとなると、より密度が重要視される。基本的に漫才は<ボケ→ツッコミ→笑うタイミング>という図式の繰り返しとその文脈によってコンテンツ化される。つまり、密度の高さには速度の高さも必要となり、決勝に残ったコンビはいずれもテンポを意識しなければならないと考えられる。テンポの遅い、あるいは<ツカミ>から客を笑いに乗せるまでが遅いコンビは自動的に笑いが少ないため相対的に淘汰される。本来的な「漫才」という形式で成立し、かつ<ボケ→ツッコミ→笑うタイミング>が多いコンビほど上位に残る可能性が高いと仮説を立てる。

つまり、基本的なテーゼとして、1つでも多くの「笑い=環境」をも自己生成する力が高いコンビほど漫才力は高いと判断されるのである。ここでは、歴代の「M1」王者などいくつかのコンビを検証し、その法則性を探ることで、いまどういった種類の芸風、漫才があるのかを概観してみたい。

まず、歴代の優勝者から見ていこう。歴代王者は第1回の2001年の中川家を筆頭に、ますだおかだ、フットボールアワー、アンタッチャブル、ブラックマヨネーズ、チュートリアル、サンドウィッチマン、NON STYLE、そして2009年のパンクブーブーである。

この中で、2003年優勝のフットボールアワー、2006年のチュートリアル、2008年のNON STYLEに見られる傾向は、<コンビのうち片方の芸人のキャラクター化>である。

フットボールアワーは顔からはじまってそのまま<気持ち悪い感じ>を演じる岩尾に対して、一般的には<イケメン>であり常識的で抑圧的なツッコミをする後藤のコンビである。チュートリアルはフットボールアワーとは逆に自転車のサイクル・ベルや冷蔵庫に異様な反応を見せるキャラクターを演じる<イケメン>の徳井に、それに引きながらも<一般的感覚を持ちながら>ツッコミ的発言を投げる福田のコンビである。NON STYLEの石田は全身白のスーツで装い、<視覚的に>キャラクター化をした上で同じパターンの意味不明な発言で井上のツッコミを引き出す。

すなわち、まず<第1の分類>として、キャラクターをコンビの中に内包する枠組みが挙げられる。他にも、はんにゃやオードリーが挙げられるだろう。

しかし、ここまでは今では一般的な形として消費されているが、優勝者となるとこのような形式に回収されない漫才もいくつかみられる。

2009年に優勝したパンクブーブーは、2004年優勝のアンタッチャブルと同じスタイルのコンビである。つまり、全うなボケと秀逸なツッコミのコンビである。両者ともにボケはキャラクター化まではいかないある種の<話術>の上でボケをしており、それに加速度的に過剰になっていくツッコミで、どちらかというとツッコミが<キレキャラ>としてキャラクター化しているのである。これはかなり高度なテクニックである。常識を外れたボケを言うのに比べ、ツッコミは常識を超えたツッコミで観客を超越したところに笑いがあるからで、この漫才は観客に<キレすぎだろ>と思わせる。地味であきれてしまうようなボケとそれに対する観客の思考のはるか延長上にツッコミを置くことで、空間全体のテンションを飛躍させてしまう。ブラックマヨネーズも形式としては同様といえるが、コンビの両者が<自虐的な>キャラクターを備えている上、終盤にさしかかると小杉がキレ始め、吉田が理不尽にキレることで喧嘩のような漫才になることが異なる。これは、パンクブーブーなどが半分漫才で半分コントのような様相であるのに対して、ブラックマヨネーズの場合は最終的にはコントのような様相になる。

これらは、単純なキャラクターを芸人が演じているものではなく、専門的な<話術>が大きくコンビとしての質を左右する。これが<第2の分類>である。

残ったのは中川家、ますだおかだ、サンドウィッチマンである。

それぞれ詳細に見ていくと、中川家は明らかに<モノマネ>と兄弟の常識的な構図の反転が特徴がある。兄の剛は礼二の兄であるにも関わらず弱い立場として存在することによって、よりコントラストを強調し、礼二の独壇場を形成する要素になっている。ここで起こっている現象は次長課長などにも同様のことが言えるが、コントラストを強調するというよりもボケがキャラクターとしてほとんど<無化>しているのに近い。さらに、モノマネの内容は有名人や歌手などではなく、そこらへんにいる人、つまり匿名の記号として演じているわけで、ニュアンスなどはほぼ自身のキャラクターに依存する。すなわち、これらのコンビの場合<モノマネをする>キャラクターが表象する部分が大きいのであって、この意味で中川家や次長課長はキャラクターを包含する<第1の分類>に該当する。

ますだおかだの岡田は、現在バラエティ番組で<すべりキャラ>としてなる以前の漫才からキャラクター的に変わっていない。しかし、前述したようなキャラクターありきの漫才がコントのように<見せて>笑わせるというよりも増田が岡田のキャラクターをネタにして観客に終始話しかけているスタイルが色濃く出ている。まるで岡田をネタに増田が話の中心にいて観客を巻き込むような構図になっているのである。おそらく、笑いの内容も然ることながら、観客を巻き込んだことも優勝の要因であろう。しかし、これも岡田のキャラクターありきのコンビであり、<第1の分類>にわけることができる。

そして2008年の「M1グランプリ」において敗者復活戦から奇跡的な優勝を遂げたサンドウィッチマンは、今までの漫才の常識からコンビ自体が逸脱している。形としては漫才という形式になっているのだが、笑いの源となるボケ自体の自由度が高くなっているのである。このためツッコミの伊達の返す言葉が予測不可能になる。つまり、漫才の常識とも言えた<ボケに対する『なんでやねん』などの直接的なツッコミ>というパターンを逸脱し、線的に進行し、積み重ねる形だった漫才の方向性は予測不可能になるのである。

「M1グランプリ」の審査においては若干の疑問も残るが、スピード、キャラクター性として完結した漫才を見せたキングコングを抜いて優勝したという事実がその衝撃を物語っている。

また、「M1グランプリ2009」において島田紳介が満点を付けた笑い飯については特筆すべき点がある。このコンビは数年間優勝候補と目されていながらも優勝を逃してきた。その理由が<Wボケ>と呼ばれるこれも本来の漫才を逸脱したテクニックだ。といっても、このコンビは厳密に言うと<Wツッコミ>でもある。島田が2009年に来て「完成して感動した」と言い放ったのは、<漫才における最速>を完成させたからであろう。

笑い飯は「M1」に出始めた頃から「エンジンのかかりが遅い」と言われ続けてきた。しかし2009年、笑い飯はとうとう与えられた時間内に自分たちの世界を高密度で表現した。それはおそらく、一本の漫才で多くのネタを仕込むナイツよりも密度が高い。ナイツは浅草漫才出身だけあって、ボケとツッコミという<伝統的なパターン>かつ<小さな間違いボケ>を守りながら速いテンポで何本もボケとツッコミを繰り返すのに対して、笑い飯は<ボケ+ツッコミ=笑い>の方程式を各自が一回毎に担っているのである。これは<ノリツッコミ>と似た要素を持っているが、「お前変われ」というキーワードによって(時には言わずとも自らが生み出す時流によって)機転が効き、加速的に漫才をドライブさせる。観客はナイツの漫才においてテンポよく笑うが、笑い飯においては連続して笑っているというサンドウィッチマンと似たような現象が起きている。

しかしこれらのような<漫才的テクニック>の高いコンビは漫才に特化した形に落ち着くことが多いため、表層的には<第3の分類>として分けておく必要がある。

これらのことを総合すると、第一に言えるのが「M1グランプリ」という番組としての枠組みの中で商品化された芸人たちが競い合っているのは笑いの「質」というよりも笑いの「数」である。そのためにスピード感、持続のための変則性などが用いられる。そして第二に笑いの「差異」と「深度」である。下ネタまでは行かない、自虐や変態などダークなイメージなど、一般常識から離れた距離感を漫才全体で保つバランス感覚が必要になる。下ネタになると全国放送だと客は引くようだ。

つまり、順位の決まる競争によって明らかに漫才の質は変化しているのである。特に、NHKの「爆笑オンエアバトル」(以下「オンバト」)が点数によってオンエアされるかどうかを審査する番組と違って<1位>を決めることが目的にあることによって芸人の淘汰は激しくなり、多様な表現方法が自動的に、独自の個性に対応させて生産されているのである。

同じような枠組みだった「オンバト」という番組は、<お笑い第5世代>と呼ばれた、現在では「一発屋」であるダンディ坂野やテツ&トモなどを生み出した。これらの芸人は1つのキャラクターのみで消費されることを特徴とする芸人である。「M1」のようにゼロサムゲームでない「オンバト」で淘汰の比較的少ない番組において消費されていた芸人が通常のお笑い番組全般で淘汰され切ったことは「比較的おもしろければよい」という程度を通り越して、お笑い番組全体の出演芸人が絞られてきていることに影響している。

そしてさらに興味深いのが、「M1」で優勝の座を勝ち取ったコンビをはじめ、多くの芸人が、バラエティ番組の極端な傾向によって限定されている場合があることである。

黒瀬陽平氏が「ねとすたシリアス」の第1回後半で指摘しているように、<一発屋>と呼ばれる芸人たちは単に<パッケージされたボケ>としてカメラに人格を丸ごとぶつけているだけである。レッドカーペットなどの番組ではそれに今田がツッコミをいれる。つまり、「番組全体で」漫才となっているのである。ここで投入される大多数の芸人が<第1の分類>された<キャラクター化>した芸人である。ここでは「M1」よりもより短い時間でネタを出し、そのまま流されるという<消費サイクル>が番組として表れている。

だから極端な話として、ある番組でますだおかだの岡田が<スベる>ということすらも<パッケージされたボケ=キャラクター>となって司会者からツッコミが入れば番組としては成立してしまうのである。同様にこの構図が顕著なのは、「クイズヘキサゴン」であろう。ここではパッケージされたボケ、つまりとんちんかんな答えを言うキャラクターとしてつるの剛志、上地雄介、スザンヌらが島田紳介と「環境的に」漫才を繰り広げる番組だ。

つまり、ここで司会者以外の出演者はコントを演じているということになり、それを明確に分けたのが「レッドシアター」などである。その上で番組自体が尺の長い漫才のように成立している。

司会者がツッコミとなり、ボケがキャラクターではなく本来的なボケとして<しゃべくり>する芸人として構成される番組もある。「行列のできる法律相談所」や「ダウンタウンDX」、「踊る!さんま御殿」などのもはや巨匠クラスの芸人が司会を務める番組である。

このような名司会者と呼ばれる重鎮が仕切る番組はわざわざ司会者が「どんなんやったっけ?」と言って一発屋のボケをさせるように文脈をつくる場合もあり、芸人以外の芸能人が多く出演するため、全体としてトーク番組的要素にレッドカーペット的要素が少し入り交じった<お笑い番組>というよりも<バラエティ番組>という緩い枠組みになっている。

しかし、チュートリアルやブラックマヨネーズといった<話術>においての実力がある場合、芸人自体が単体として出演する場合もある。それは、芸人以前に本来的にもつ人間的部分を<キャラクター>として番組の枠組みにいれる<芸人の本来的使命の駆使>である。この系統で番組に出演したとしても番組という全体の<部分、役割>でしかない。

つまり、<第1の分類>に近いのであり、<バラエティ番組>の場合、お笑いがメインではなく、<芸能人>と呼ばれる人が呼ばれるわけで、どんな形にせよ、ここまでいくともはや<芸>をする人というよりも番組全体のイメージに貢献する<芸能人>的要素の強いように思われる。

以上以外に、環境の自己生成をする力、つまり個別のトーク力がプリミティブな状態で、かつ全体の規制が弱く、個々がフラットに表出される番組として成立しているのが「人志松本のすべらない話」だ。

この番組では、メインの時間が始まる前に、収録前の芸人の様子が必ずと言っていいほど持ち出される。そこで芸人の口から共通して発せられる言葉が<緊張>だ。それは前述したトーク番組的枠組みに依拠することができないため、自律的なトーク力1本が試される上に、テレビ全般がレッドカーペット的な司会者の存在する番組への慣れの反動ともとれる。

ここでタイトルにもなっている松本人志が、決して<司会者的役割=番組の中でのツッコミ>となっていないことに注意したい。ダウンタウンが司会として出演する番組はあるものの、司会の中心は相方の浜田雅功である。浜田は、どちらかというと島田紳介に芸能界の役割は近い。

松本は全体の仕組みを操作する立場にいるかのように存在しているが、実はここでは他の芸人同様、淘汰される立場に自ら入っているのである。松本は、この立場を存続させることによって漫才、コントなどで名作を残してきた「松本人志」という存在を持続させているのではないだろうか。島田紳介や明石屋さんまは、司会者という立ち位置を芸能界の中で定めることによって安定した。しかし松本は、常に人を笑わせる源泉として存在し続けることによって未だに芸能界の中での存在感を維持しているのかもしれない。

話を芸人一般に戻すと、<漫才の分類によるキャラクター>は最終的にテレビ番組という新しい淘汰の仕組みによって<番組というアーキテクチャのタイプ>によって棲み分けが行われているということである。

<第1の分類>は大きな存在としての<司会者>のいる番組に向いている。一発屋なキャラクター性が強く、観客は既視感があり、はじめのうちは爆発的に人気が出たとしても消費のサイクルに最初に乗ってしまう<環境依存型芸人>ということができる。今のお笑い界にはこの分類の芸人が最も多いのではないだろうか。

逆に、「すべらない話」や<バラエティ番組>に向いているトーク力のある<第2の分類>である。<自律型芸人>として地位を得られれば、くりーむしちゅーやブラックマヨネーズ、チュートリアルのように冠番組をもつ芸人もいる。

<第3の分類>である「漫才型芸人」も散見されるが、漫才やコントなどをすることによって<第1の分類><第2の分類>どちらも対応可能とみなせないこともないが、やはり本場は<漫才>なのであって、バラエティ番組などではそこまで存在感がないといえるだろうか。

さらにもう1つ、「M1」で取り上げられなかった<コント芸人>という分類がある。これにも淘汰する仕組みとして「キングオブコント」などのコントを主とする大会もあるが、テレビ番組上では<第1の分類>に入り、持ち前のキャラクターでコント番組やバラエティ番組などで活躍する場合が多い。

以上<お笑い界>の1つの指標としてテレビ番組という淘汰のアーキテクチャを検討したが、芸人の絶対量の増加とテレビ枠の限界のためにお笑いの中でも専門分化している傾向が強まっている。さらに、それによって<芸人>が中心的位置にいるというよりも<芸人がキャラクター化した情報>を番組として消費する例が大多数となり、ますます<テレビ番組>という枠での淘汰、消費が行われているといえる。



ここからは余談に近いが、それらを横断的に出演できる芸人も少ない。横断的な笑いをつくろうとされている番組に「ザ・イロモネア」や「ピンモネア」がある。ここでは確信犯的な笑いの誘いももちろんあるが、アクシデントによる笑いが起こることも目立ち、正当な評価をどこまで行えているかは不明である。

「ザ・イロモネア」のモノボケやショートコントを全てクリアすることは、表層的に分化している芸人を統合するきっかけではある。しかし「ザ・ピンモネア」においては最終ステージの<謝罪会見の場>で笑いをとることは、一発芸やサイレントなどに比べて圧倒的に難しい。つまりこれは、<謝罪>という観客が最初から芸人に対して何の準備もできない目線でみてしまう環境でいかに芸人が笑いをとれないかを露呈させてしまっていると捉えることもできるだろう。もし話術によってどうにかなるとしてもピンとしてそこまで到達することが困難である。全てをこなす包括的な芸人が少なくなったのが、今のお笑い番組の中で松本人志以上のインパクトがないと感じる理由なのだろうか。

また機会があれば、これを土台に歴史的パースペクティブをつけてもう少し広くお笑い界を考察してみたい。

December 19(Sat),2009

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日経アーキテクチュア 商空間・インテリアデザイン

すぐSC特集を開く.郊外,デジタルサイネージ,ゲーテッドコミュニティなど,現代的な主題が集まるSCを,批評家,建築家などがリサーチするという特集だ.

東浩紀氏,藤村龍至氏,李明喜氏,浅子佳英氏,速水健郎氏,濱野智史氏といったメンバー.このこのブログでも何度も取り上げさせてもらってる,知の最先端たち.

デジタルサイネージ,郊外,身体性と興味深いテーマが挙っていたが,ぼくが一番に興味をもって読んだのが「公共性」である.これはいま修論に関係しているから,という理由であるが,これまで建築ジャーナリズム上では批評の対象にならなかった商業建築が公共性を生む場として成立した過程にテーマを収束させている.「(こうして)SCは,単なるショッピングの”施設”ではなく,アミューズメントを含む,生活空間の”場”として考えられるようになった」(P66)と編集者・ライターの速水氏がいうように,現代社会において,何も住宅とその周辺だけが生活の場ではないと思う.都市はもはや非日常ではなく日常の一端として成立しはじめているのではないか.まあだいぶ砕くとそういう仮説.

コネクタビリティ,アーキテクチャのレベルでの設計,思い出の基盤としてのSC,プロセスの祝祭性,流通過程を含む商品のディスプレイなど,情報化以前の問題を当時の建築家は考えていたものもある.というか,それが残存の理由になっているのではないかなあと思うのだけれど.

とにかく,情報環境,公共性など,どういう観点でみるにしろ,SCがおもしろい,ということですね.

SCだけなら、トレンディネットのサイトでも見れる。

December 12(Sat),2009 歴史=物語の現在

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「歴史=物語(イストワール)の現在:情報・芸術・キャラクター」 池田剛介×黒瀬陽平×濱野智史×千葉雅也 @東京藝術大学系 在日フランス大使館旧庁舎解体前プロジェクト「NO MAN'S LAND」

冒頭に司会的役割の千葉氏から,それぞれの問題的を収斂させていく旨が説明され,ゲストからのプレゼンは始まる.

導入を意識した濱野氏のプレゼン「歴史の未来」.10年のコミュニケーション基盤の変化によって歴史はどう変化するか,というのが氏の問題意識だ.「思想地図vol.4」において,仲正昌樹氏の「「構成」の想像力」とゲストの黒瀬氏の「新しい「風景」の誕生」を対比的にみる.前者はアメリカのファウンディングファーザーなど歴史を位置づける起源ありきの歴史であり,後者はトラウマの歴史であり,起源が成立しないという解釈.

また,「artscape」の連載に記述した「歴史の未来」において,デジタルアーカイブ論とデジタルによる歴史の強化とは別の議論の必要性について展開している.情報の適度な淘汰,つまりアーカイブしないアーカイブのアーキテクチャ的実験が行われている,と.twitterは選択同期であり,ひとつのストリームをつくっていく.ニコ動は疑似同期であり,「いまここ」を同期しないながらも現実として同期されてしまう.物語的な形式とは異なる時間の誕生である.

また,「ユリイカ」の増刊号,初音ミク特集においての記述では歴史は使わなくても流通し,歴史をめぐる戦いとなり,アーキテクチャレベルのやりとりが歴史になるのではないかと考察する.インフラ設計のレベルでの闘争である.そこで,大きな物語でも小さな物語でもない中間項の,ハブとしての歴史が必要なのではないかとプレゼンをしめくくった.

次に黒瀬氏のプレゼン.コンテンツ派としてキャラクターセクションという位置づけに対して反論.氏は美術家であるが,思想地図vol.1のアニメ論文で位置づけられたのかと.

思想地図vol.4では美術論だが美術家は反応しないという.ここではアーティスト像を提示し,時間の適度な淘汰があり,淘汰するものがアーキテクチャ,そしてアーキテクチャもつくっていくのがアーティストではないかという.現代的なアートの意義として,欲望の吸い上げによるメタジャンルであり,それがアーキテクチャと一致している.

ここからは思想地図の解説.椹木野衣氏の「日本・現代・美術」と「セカイ系」について.「セカイ系」は,物語の前景であるプライベートと中景である,国家,社会が挟まることなく遠景と直結する超越論的構造をもつ.そこで現れた批評は作品としてではなく時代を反映しているかからいい,というものであって,アニメ評論は物語論であり.構造を分析に留まる,と.これを椹木氏とぶつけると,氏の評論そのものがセカイ系的であるという.国としての美術的な蓄積がないことには美術は翻訳語でもともとないものであり,そもそも日本には根付かないということをいう人もいた(誰かは聞きそびれ)その中で村上隆はスーパーフラット,椹木野衣は悪い場所としてコンテクストを立ち上げようとした.

立ち返る場所が敗戦,原爆であり,全てがトラウマに回収されるが,戦争を直視しても何も生まれない.椹木の場合,コンテクストをもった批評をし,それが物語になってしまった.歴史のない場所に歴史的機能をどうつくるかということに対し,まず物語を語ることに注視すると,まず物語にならざるをえない.参照する歴史がない上,物語も小さく,蓄積されていかない状況をどうするか,風景の方向ではなく、どうやって物語を語っていくか,限定的客観性をどう建ち上げていくか,ということになる.

ここで,1人のアーティストを挙げる.大竹伸郎氏をアーキテクチャ型作家の起源として.

このアーティストはゴミを集めて作品をつくる.椹木氏はそれを西洋のジャンクアートと差別化しようとしているが,このアーティストは楽器的モチーフを扱い,ゴミの扱い、まとめ方など非常にアーキテクチャ型である.ゴミを選別するのにも湿ったゴミはだめなど厳密な基準をもっている.また,楽器的モチーフなのは記憶のモチーフの基準であり,ゴミという匿名の記憶のやどる異物でそこの記憶の再生装置もつくり,それを一つの作品でやってしまうのである.つまり,検索エンジンと再生装置を実装している.

貧しさの問題として使えるリソースがどこにあるかわからない日本という環境で,それを探すところから演算出力しなければならないのがアーティストである.歴史を生成するアーキテクチャをどう捉えるか.

3人目,池田氏のプレゼン.まず 自身のサイトから作品を紹介.「plastic flux」という白いパネルが下にあり,透明の樹脂で水滴表現をしている.コップの結露のような,雨の時のような,日常的なものを大きなスケールで表現している.

今回の議論においては「大陸移動」の問題設定が重要である.パネルごとに大陸を描き,それを強引に接続している.パンゲア、超大陸という神話的古さと未来のビジョンをどう重ねるか.

21世紀は環境の世紀であるが,思想レベルで言うとあまりにもベタである.20世紀的な創造力が閉じ込められているのではないか,という.さらに,そこをリセットして語れないか,と.大きな物語の崩壊の後に,小さな物語の下にアーキテクチャとして大きな物語がある.そして環境問題は資本主義などイデオロギーを超えて語られてしまうのが問題である.

そしてスタジオジブリ「崖の上のポニョ」の混乱の話に.前半で近代的物語構造が使い果たされ,ポニョとソウスケが一体化,それを経て後半にいくのだが,それだけでなく後半を描けているのがおもしろい.普通,人魚姫が最後に決定的な選択を迫られ,悲劇に終わるというパターンであるが,ポニョは決定的選択をせず純粋な変形形態をして無目的に振る舞い,ソウスケが振り回されると同時に観客も振り回される.ソウスケは合目的的な人間として描かれているが,ポニョと一体化して錯乱していると読むべきだ,と.

フランス的モチーフでいえば,ミシェル・トゥルニエのロビンソン・クルーソー.合理主義的なフランス人が野蛮人をいかに文明化していくかをフライデーに焦点を当て,論じる.ロビンソンが無人島にたどり着くことで他者構造を失い,有限なパースペクティブに制限されていく.つまり,ナルシシズムの有限性に視野が閉じ込められていく.

ラカンの象徴界でもいいが.他者が居なくなることで他者構造がなくなっていく、という読み.他者構造そのものが世界を貧しくしていき,無人島の事物が独立していく.そこでフライデーが現れ,それを他者としてではなく自分と一体化したものとして受け入れる.フライデーは禁じられている喫煙をしたり家を燃やしたりなどをする人間であり,合理主義的な象徴のロビンソンも崩壊を来す.

近代型の人間性をどう乗り越えていくか,別の物語性に引っ張っていくかなど21世紀的なモデルとして考えていけるのではないか,という.他者構造は他の人からは別の視点があるのかもしれないということだが,崩壊は前しか見えず,事物は統一性がバラバラになっていくということである.

3者プレゼンを終え,千葉氏が口を開く.大きな枠組みとして歴史/物語があり,二つの態度に分けられる.それは起こっているのを反復として捉えるか,あるいは新しさとして受け入れるか,である.しかしここではバランスが必要である.

大きな物語の崩壊で大きな物語の消失点の滅失からのポストモダン化があり,トライブが競合する中,消極的にひきこもりとして論じる東浩紀氏と乱立状況としてバトルロワイヤルとして宇野常寛氏.これは関係性のゲームであり,これ自体がわかりやすい物語であり,崩壊という大きな物語なのではないか.

「モダンのクールダウン」の稲葉振一郎を挙げる.近代が終わったのは乱暴であり,キリスト教中心の世界観がローカルを結ぶということもあり得た.近代において、崩壊の同時プロセスがあり,近代は大きな物語が普及/腐朽する.ポイントは個人主義だ.バラバラの個人が私小説を語り,その立場において国民国家的なものを引き受ける.

講演の行われている場所がフランス大使館であることを述べながら,都市化による群衆化,ボードレール,パリの憂鬱.群衆、孤独が等価にして互換性がある.

ベンヤミンは1939年の亡命期にボードレール論を書き,ショック体験が日常になってしまった時代であり,メタ心理学展開のきっかけになった.群衆の中でのショック状態の偏在.トラウマの特権性がなくなり,トラウマが日常化した.ショック体験が標準になっているなかで、叙情文学はどう成立するのか,と提起.非常に先駆的なのではないか,複数化されたショックにおいて, トラウマがトラウマとして機能していない中で,どのような想像力があり得るか.と.

促された濱野氏は,決定的切断の不在,トラウマティックなものとしてN個の切断があることを挙げる.悪い場所の記憶喪失問題を認知症的物語論とよびたいという.麻痺であるといえる上で受動し続ける.近代的人間を凌駕する自然史的ボリュームがある.脳はシナプスの可塑性であり,脳神経の死滅再生による変形をする.ハードウェアが変形する情報生態論の必要があるという.

それに対し千葉氏が,記憶の無限化の達成がデジタル化によってあるかと思いきや記憶のサーバである地球がぶっ壊れるという地球環境問題に言及.否応なく海面が上がるなど呆然とさせるほどの感覚であり,カタストロフィーが訪れるという近代的想像力ではなく,マテリアルカタストロフィーともいうべき常に進行している状態である.

また,トム・コーエンの気候変動の哲学に言及,CCC,「人文学における批判的気候変動」は人文学的にどうかというプロジェクトであり,批評そのものの気候変動である.呆然とさせるスケールに応じた触発があって,そこにアーティストは反応するのではなく,仁義なき気候変動に対する感受性をもつべきである(?)

対して黒瀬氏の発言.脳と環境はパーソナルとグローバルのハードウェアであり,日本のアートシーンにも反映されているという.市民権を得ているものとして,「脳」では癒し,メンヘルアート,茂木健一郎のクオリアなどが挙げられ,コミュニティアート,つまり町おこし的なイベントが「環境」として挙げられる.両者ともサプリメントであり,生活とサプリメント,二つの感覚で挟まれて呆然としてしまう.ならばそのスケールを外してしまえばいいのではないか,と.方法論はノンスケールであり,一旦アーキテクチャに落とす.

それに対して千葉氏は切断によってボケてしまう,図書館が水にひたれば記憶はなくなる,と.

濱野氏がウェブ学会の鈴木健氏の発表を引用.ディビクラシー,つまり民主主義は個人主義だったが意思決定権の市場モデルでやろうというというもので,断片による決定であり,人間ではなくあらゆるセンサーに判断させる,というもの.例えば,「腹減った」人に少ない食料を分配する場合,脳に演算させるより胃液の分泌でやった方がいい,ということ.また,環境問題の事例として,英語圏メールサーバーが破綻し,研究者のデータとメールが流出した「Climategate事件」を挙げる.10年で温度計が気温が高いところに移動されていたのが発覚した.区別をなくす環境が求められる.

次に池田氏.黒瀬の起源の問題で,アーキテクチャの問題とつながっているのではと指摘.椹木氏の起源はメタデータなのでは,と.日本を設定した単一の起源を分解,組み替えていく.前提を単純化し,椹木氏の日本現代美術は近代的なのでは,パースペクティブがあり,日本をシミュラークルとして成立させている.データベース型の美術史をどう考えるか.

千葉氏は脳,環境と近景と遠景において,中景をつくり直すことの必要性を述べる.セカイ系というのも虚構の時代の末期に表れたのではないか,消失点の設定をアーキテクチャとして設定できるのではないか,と.アーカイブ、歴史の連続性を蓄積して移行と言うモデルをやめようという話.無限データ集積を理想とし,サービス乱立の中では淘汰、アーカイブの制限が必要になる.つまり,アーカイブ無限論が有限化されていく.

虚構の世代の枠でもまだで、精神分析なのではないか,トラウマで揺すぶられる記憶が揺すぶられ,神経症的なしかたで心をとらえることをやめる.

池田氏は,「認知症」というレベルを持ち出し,20世紀型の人間構造が物語を規定し,欠如を補完している,認知症脳レベルがくずれてあとの時間をいきのびるのをどうイメージできるのか,とコメント.

次に黒瀬氏が虚構の過渡期を椹木氏は認める,と.セカイ系定義でなぜairかというのはゲーム性の持ち込みである,と.物語構造の話ではなく精神分析的なのをやめるべきだと思っていて,批評は物語だとかに回収されないようにゲームという言葉を出した.プレイすることによって物語にみえてくるのではないか.どうやってプレイしていくか、そのために構造を変えていくか.

千葉氏がポストセカイ系か超セカイ系かという議論をふっかける.全景と遠景を保っているのか,情念提携を中景として提示しているのか.それに対し,黒瀬氏は後者である,と返答.

濱野氏はChim↑Pomを見たときニコ動だと思ったという.セカイカメラはこの10年ではじまる新しい風景である,と.

池田氏が中景が必要な話になってくると共同性を取り戻さなければならないという話になるのか,と発言.中景がスコープによっていかにもかわってくる.

千葉氏が濱野氏に中文字の歴史が必要なのではないかと投げかけ.

濱野氏は図書館,広告など最近のトークなどの話を持ち出し,中間の空間、など「間」が課題であり,答えがどこかにあるわけでもなく,みんな意識してやるべきだと発言.

池田氏は自分の有限性をいかに通過するか 単に自己に閉じこもって自己充足するかではなく、それを引き受けた上で錯乱していくか,と.

ここで千葉氏がセカイ系宣言.社会性のない状態でどう社会をつくるか.

問題は日本に限られていない,と池田氏.認知症の問題で,ショーン・ベンのショートフィルムを引用,老人がマンハッタンにいて狭くて暗い部屋で,窓に花があるが枯れている状況.しかし突如として光が降り,実は9.11でビルが崩壊、光が入り,花が咲く.この映画監督が9.11に対するこのような反応は無責任ではあるがポジティブに想像力を評価してもいいのではないか,レスポンスがある.と.世界の出来事と花を媒介に出会う物語のモデルを考えてもいいのではないか.

黒瀬氏は挙げているのは近代からみた距離感であり,そこにノスタルジックなものがあると反論.

千葉氏は「レスポンス」という英語は1つだが,その訳である日本語では「責任なき応答可能性」と表現できると指摘.また, 環境問題を含めて生物的次元の生存,つまり生殖や死といった生存欲望について.ドゥルーズの話でフライデーがきたときに 他者性がなかったのだから 同性愛が生じる可能性はなかった,と.構造的なことをいいながら同性愛を排除しているのではないか,他者構造崩壊後のセクシュアリティは可能かということを考えたい.消えるという話になるとメジャーなものは担保され、再編成される.

池田氏が大竹伸郎について,ノスタルジックに見えかねないが,そうではなく未来のものだといっっており,神話的ビジョンが環境問題を通じて未来になっている.過去未来が時勢をうしないながら一体となって担っている.方法論化して抽象化する,その無時間制としての可能性.時間概念の複数制 さまざまな有限性アーカイブの乱立からポリクロティズムがうまれるのではないか,と.

濱野氏はフーコーの知の考古学,P255がおもしろい,という.MAD的乱雑さであると.それはフーコーは普通の学問でなく、その時代の知を把握していた権力を把握しなければならないといい,それを現代はプチフーコー的にやってしまっている,順番の逆転が起きているという.つまり,時間の複数性をベタな現実がやってしまっている.

黒瀬氏は批評言語の更新をしなければならないという.横浜トリエンナーレの要人の使う言語においても時間の複数性とかいってるがその言語が古く,そこを更新しなければならない,と.

千葉氏は叙情性に言及し,トラウマに脚をすくわれるノスタルジーとは別種のノスタルジーがあると考えていると議論を締めた.

December 10(Thu),2009 建築、知,そして伝えるということ

[][]・d-labo 長尾真×濱野智史「図書館は見えなくなるか?データベースからアーキテクチャへ」4弾「これからの知」 @東京ミッドタウン7F

ちなみに、一回目は複雑系の池上高志氏、二回目には翻訳などをしている山形浩生氏。行かなかったのが今更だいぶ悔やまれる。

講演の主題は「知」についてである。図書館は知のアーカイブを担うが、知のありようそのものが動いている状況で、図書館はどのように変化していくべきか。

まず 国立国会図書館館長、情報工学者、長尾真氏が話す。長尾氏の時代はネット、図書館はない。本すら十分にな買った中で問題解決には知識を集めてもどうしようもなく、深く考えるということになる。しかし、近年情報がふんだんにある中で考えることをしなくなった。知識の累積のなかには直面する問題の答えがどこかにある。考えるより探す方が楽な時代になってしまった。

自分たちの場合、基本的な定理から証明していっていた。1日2日かけて鶴亀算の解答が思い浮かぶという経験があったという。今は探せば必ずあり、それを見た方が早い。ある意味で非常に嘆かわしい、と。図書館が全部の本を所有し、提供する。しかしどこに解答が載っているかまでは図書館は提供できない。電子図書館が実現するとそこまでいくが、それは本当にいいことなのか。知識の体系化は必要である。ただし知りたい人は同じ問題でもそれぞれの観点がある。これからは利用する個人にとって上手い形で知識の体系がみせられる、ダイナミックに変われるようにしなければならないと展望する。

続けて,利用者にとっては便利。だが、それでは満足できなくて考えなければならないことが出てくることを指摘する。現代の場面場面は歴史にはない答えが要求される。それを自覚しながら図書館を活用していかなければならない。

知識と知の違いとして、「知識」とは学問的な体系であり、誰がいつ見ても同じ。一方で「知」はそれを含みながら場面場面、価値観によって変わってくる.図書館からいかに「知」を引き出せるようにするかが問題である、という。

対して、濱野氏が感想を述べる。濱野氏は29歳であるが、最近はググってばかりと自分を戒める。しかしネットは大学から利用しているのであり、それまでは図書館っ子だったという。都立図書館は15歳からしか入れなかったが、15歳になった途端に入り浸るように。

アーキテクチャの生態系という著書は社会学的というよりもネット上のコミュニティなどの仮想的社会を研究したものである。しかし、自然科学に比べると方法論が明確ではなく、ネットの研究もどういう方法論があるか、方法論をつくりながらこれを書いたという。法則の存在しない、構造化理論がない。例えばこれをここで売ればうれる、という知であれば、社会現象の場合、多くの人が模倣して消える。つまり、再帰性であり、社会現象の法則の発見は賞味期限が発生してしまう。そういうように社会学はずっと迷走してきたという。中でも、主観として解釈と統計法則に分かれる。歴史を踏まえた上で技術決定論(技術が社会を変える、技術は社会から独立している)と社会構築論(社会が技術を変える、技術は社会に埋め込まれている)があるが、濱野氏は両方ともイエスといえる、という。ブログやツイッターで変わることもある。大きなサービスは日本人向けに改変し、普及していく。その説明がアーキテクチャの生態系マップである。アプリケーションの積み重ね、サービスの追加、ウェブサービスの発展、ネットと自分たちのビジュアライズしたものは今までなかったのではないか、という。

李氏は両者が出席した先日のウェブ学会を引き合いに出し,これからの社会を考えているのかかを問うた。

長尾氏はウェブ学会は世界のトップを行く議論であり、1991年に発表した「情報社会の生態学」を執筆していたことを話した.情報が生まれて発展し、どう成熟、衰退するかを研究をしなければならないと10数年前から考えていたということになる。しかし、社会学の基礎的トレーニングが必要.なので中断という形になってしまったという。

理学系でいうと場の理論.アインシュタインなど、場のつくられ方が技術によってうまれて、そこで何が起きるかは場のありようで決定する。同じような場でも民族などで変わってくる。知のありようも場の設定(ブログのメカニズムなど)で社会の人たちがどう使い,知をつくっていくか.今後への期待があると語った.

濱野氏は自己紹介を兼ねて思想地図の「メタデータ論」、著書の「アーキテクチャの生態系」を紹介。

今の場の理論=アーキテクチャは「場の量子論」であり、ダイナミズムの働きのどこに注目すべきかに対し,ウェブサービスの設計の仕方にキーがあるのではないかという。

思想地図vol.2の「メタデータ論」では、膨大なデータがあふれているのをどう構造化していくかを模索している。ワインバーガーの「ネットはいかに知の秩序を変えるか?」において、著者は整理の三段階を以下のように整理している。 

 1、日常の整理

 2、(整理対象が膨大)物理空間の体系か,ルートのメタデータを整理、図書館10進法

 3、(ネット時代)両方情報空間にある場合、ソーシャルブックマークの「タグ」システム

フォークソノミー(民族)からフラクソノミー(流転)へと移行しているというのである。

現代的には,めちゃくちゃな分類がニコニコ動画にある。それのおかげで活発なクリエイティブが発生する。中でも分類システムを管理するシステムのアーキテクチャが他とは違う,というのが鍵で、

 1、タグそのものが自然淘汰できる。勝手にできる。他の人が消せる。 

 2、チャットに似てる タグゾーンがチャットゾーンに化す タグロック タグの進化淘汰

 3、アクセスでタグが違う。かってに違う解釈での見方が発散していく。

つまり、今まであったトップダウンとボトムアップの流転がフラクソノミーである。

ニコ動を知らない長尾氏に濱野氏が実際に見せて説明.以下がその動画.

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3015373

ここで休憩に入る。休憩中に、絶版だった長尾氏の著書である「電子図書館」の再販決定が李氏から通告される。出版界と図書館がwin-winになるにはどういうビジネスモデルが必要といったことも書かれているという。

その後、集合知についての議論へ。

濱野氏はここ10年くらいの特徴としては,進化,淘汰が大事なのでは、と考えている。科学哲学の退化(カール・ポパー)反証可能性を経て実在的にダーウィン的に進化していく。淘汰が起きる知のあり方をアーキテクチャ上で今、展開しているのではないか、さらにメタデータの知のあり方に言及したからこそ成功したのでは。また、今の集合知の状況は進化論的アプローチが進化になっているのでは。

それに対し、長尾氏。カオスの中から知を絞り出す、集合の世界からでてくるものであって、個人からは出て来ない.どういう深みをもっているかはわからないが、知識というのは集合的展開の知識とバックの知識、例えばレヴィ・ストロースの「構造」がどこまで肉薄していけるか。できる可能性はある。知の構造化、そういうことは行われているのか?と濱野氏に質問.

それに応える形で濱野氏は知という点ではわからないが、今までは人が主体で知を生み出していたが,これからはメタデータの次元の方がプレゼンスを獲得していく。レヴィ・ストロースは一人ニコ動であり、融合していく可能性がある.ウェブ学会でも可視化はあるが、ビジュアライズで終わっている.膨大な集積を構造化できるのだから、これから人文的な研究をやっていけるのではないか、と。

ウィキは多様な項目があるが、辞書的にいうと分野分野で均等に説明がない.そういう概念変化が時間でどうしてきたか、記述がなされなければならない。

李氏は、ウィキペディアは時間構造がリニアでしかないが、ニコ動の場合、ベースにリニアにありながら、関わる人の関わり方によってリニアではない構造をもつ。それが生態的進化につながっているのではないかと提起.多次元空間として捉える必要がある。

濱野氏はサイバーの肥大化でリアルと遊離していくか、という問いに対して、「AR」「世界カメラ」などを例に挙げ,必ずしもすべてが遊離していくわけではないと説明。リアルだから全てが収束していくわけではないが、解釈がねじ曲げられている場合、目撃している現状が現実性が多次元性になる可能性があり,現実という価値はどうなっていくのかは倫理的には注意すべきであると考えている.コミュニケーションによって相互理解などは健全であると。

集合知に戻すと、フーコーの知の考古学では、知はある種の権力を批判するためには同じ土俵ではなく,その時代の知を違うアプローチの読み取りが必要であるといっていて、バラバラに霧きざまらなければいけない。それと同じようなネットサービスの現実がやってしまっている。そのときにどう知を体系化するのか。

それに対し、長尾氏はフーコーの考え方だと、知は人にとって何かと問うと,ゲーム以上でなくなるのではないか。生きている上でどういうものであるべきか。好きなように遊ぶというのはいいかもしれないが、そういうところではフランス哲学はそういうところにいっているのではないか。

また、考えることをやめることに対し、濱野氏はググってくる学生に対してグーグルの上位5位以内に入るものは何かという問いを出せば良いと反論.時代によってやり方があると.

人間は外在する情報から器をつくる。そうなると、知のアーキテクチャはいくつもあっていい。逆に若い人に図書館を使えというのも無理な話。リアルとヴァーチャルが併せ持った環境を制度を提供する側は提供するべきで,使う側はそれらから選ぶ.リテラシーの個人差が縮まり,そうなってくるとコミュニケーションは生まれる.アーキテクチャが当たり前に用意していて、ニコ動などが今なのではないか。

アーキテクチャをつくる人は今や建築家だけでなく、広範になっている。場を設計する人の範囲が拡大していく。レッシグのコード。そのときにどういう知が必要か.それには設計者に対する利用者の知が重要である.

個人で見た場合,それをどう享受、理解できるかが問題になってくるのではないか。全体の知の世界との解決法が問われる時代である。

最後の質問はツイッターからの質問を李氏が拾うやり方。:ダイナミックに知を編成するplayingのある図書館についてのイメージはあるか.

―第三ステージの図書館をつくって、うまい検索をかける自分のつくったオンソロジーで知のネットワークに検索をかけることによってダイナミックな図書館ができるのではないか。人によって図書館の活用のされかたがみえるのではないか。

もう一つ,会場から:本という完結性が崩れていくのではないか?

―本の単位ではあるが、電子図書館では章、セクションなど取り出しの単位は自由になりうる。そういう図書館世界がつくれる.本の単位ではなく、ファクトリーリーバルに展開していける。書物の解体、個人に対する再構築が最もおもしろい。

考えるから検索するへ。書籍というのが一つの人格であるならば、コミットメントがあることで、点から点へのサーチではなく面的なプロセスを含む「わかる」になるのだが、点から点になってしまうのでは。知となり肉となる。知は吸収しすぎるとおかしくなる。全て徹底的に調べ,それからは何も見ない.考えて考えて誰もやっていないことを生み出す,熟成の過程が必要である。

最後に,電子図書館構想のリアルさを李氏が語り,議論は閉幕した.

「わかる」とは何か (岩波新書)

「わかる」とは何か (岩波新書)

電子図書館 (岩波科学ライブラリー)

電子図書館 (岩波科学ライブラリー)

アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系

NHKブックス別巻 思想地図 vol.2 特集・ジェネレーション

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