S.E.S.『ノルゥサランヘ』の日本語カバーに挑戦!

 まず、S.E.S.について知らない人のために簡単な説明をしたいと思います。1997年頃から2002年頃まで活躍した韓国の3人組のガールズ・グループでした。その『ノルゥサランヘ』("Nuh Reul Sarang Hae")という曲は、そのグループのセカンド・アルバムに収録された曲の一つでした。1999年か2000年頃当時の私は、東京の上野広小路にあったHMVで、韓国からの輸入盤でS.E.S.のセカンド・アルバムを買いました。当然のことながら、歌詞カードは英語アルファベットの横文字とハングル文字だらけで、一曲だけ漢字のタイトルになっていましたが、日本語はまったく使われていませんでした。この手のCDには珍しく、メンバーのアニメチックな似顔絵のステッカーなどがCDと一緒に入っていました。理由は後で述べますが、このCDが韓国の子供たち向けに売られてもいたことを、そのステッカーの存在は物語っていました。
 S.E.Sと言えば、一時期、国民的アイドルと呼ばれるほどの人気が韓国ではありました。そのファースト・アルバムが、意外にも韓国の子供たちの間で評判になり、売れてヒットしました。そのCDは、子供向けに制作されたわけではなかったのですが、なぜか売れたそうです。彼ら韓国の子供たちからすれば、S.E.S.は、最新のヒップホップを踊って歌える帰国子女ふうの格好いいお姉さんたちだったのかもしれません。その人気はまたたく間に広がって、子供たちの親たちに、そして、家族全体に、即ち、家族ぐるみでS.E.S.のファンになってしまうことが、当時の韓国では珍しくなかったそうです。その後、S.E.S.には紆余曲折(うよきょくせつ)があって、結局、その一時期が、そのグループの最盛期となってしまいました。
 でも、私はいまだにS.E.S.のセカンド・アルバムの韓国からの輸入盤を持っています。S.E.S.は、日本にも進出して日本語で歌ったオリジナル曲のシングルCDを出していて、それも私は買ったことがあります。けれども、やっぱりハングル(韓国語)で歌った曲の方が何か気持ちが伝わってくるような気がします。母国語だからということ以上のものがあるように、私には思えます。たとえば、伴奏などの音楽とその構成、ダンスの振り付けや、曲に挿入されるラップなどは、K−POP的であり、J−POP的でないことがわかります。だから、S.E.S.にとっては、そのK−POP的な音楽やダンスの環境が適切で、のびのびと歌えて踊れたのだと、私には感じられました。
 私は以前、日テレの『夜もヒッパレ』という番組で、2回くらいS.E.S.の出演を見たことがありますが、いずれの機会も、歌と踊りが上手いなあと感じました。しかも、S.E.S.のリーダーのパダさんは、当時日本で活躍していたSPEEDの大ファンだったそうで、SPEEDの歌い方をよく研究しているように思われました。
 以上が、私の知っている範囲内での、S.E.S.についての簡単な説明です。今回は、その『ノルゥサランヘ』という曲の日本語カバーを披露したいと思います。この曲の歌詞の日本語翻訳については、ネットを探すと必ず見つかると思います。それはそれで良いのですが、この曲はもともとハングル(韓国語)でしか歌われていません。私の独善的な考えとしては、当時日本語に訳されて歌われなかったのは残念だったように思われます。K−POP的なラップが、当時の日本のポップス界には通用しないと判断されたのかもしれません。それとも、当時の日本のポップスと比べて、韓国側の制作スタッフが、売れることへの自信をまだ持っていなかったからなのかもしれません。「こんな曲じゃ、日本人に笑われるだけだ。」と考えていたのかもしれません。
 しかし、現在私がこの曲を聴いてみても、ややシンプルな曲の構成ではあるけれども、それほど古くささを感じさせません。曲中にいろんな仕掛けがあって、そのメロディーや伴奏や歌詞で、いろいろと楽しませてくれる、というのが私の感想です。それを逐一示す代わりに、私は日本語カバーという形で大雑把にまとめて示してみようと考えました。



     『きみが好き』



(Yeah ! Yeah ! Yeah ! Yeah ! ...)


(*)
きみが好き 心から oh , oh , 想(おも)うくらいに 
きみが好き 誰よりも oh , oh ... 幸せなのぉ


キラッと 窓ガラスに ヒカリ 射してきてる 感じよ
信じられない! きみに 感じる
その大事さ 教えてくれた きみに
夜が長びいても 夜明け遅れてても
会いたいよ 二人は いつまでも
どんな辛さも 我慢できるわ!
へっちゃら なの!


(* くりかえし)


(ラップ)
今まで 感じられずにいたよ 
胸の奥から 鼓動を聴いた
お日さま きれいで まぶしすぎるよ (Wow)
ぬくもりを 与えてくれた!
カワイすぎる きみの姿を 
いついつまでも 見ていたい!
そう、よく わかっているよ だから、
よかったら 一生 暮してみようよ!



オレンジの香りで 笑みがこぼれる時の きみが
夢中にさせるの 愛しているのよ
今 考えられないほど びっくりしている
今の二人にとって 今の二人よりも

大事な 誰かがいないならば
一つの家で 暮しても良いわと 考えているの!


(* くりかえし)


(ラップ)
雨のしずくが流れるみたいな 心を濡らす音楽の様に
いつだって 力になってくれている!
気持ち ふさいんで 寂しい時には
すっきりと ぼくを させてくれるような そんなきみを 


(Ah ... Ah .... そばに 居てほしい… Wow , wow .... )
(ラップ続き)
誰よりも 大切に 思っているよ だから、
いつまでも一緒に きみと居たいのさ!


きみが好き! 心から oh , oh , 想うくらいに 
きみが好き! 誰よりも oh , oh ... 幸せなのぉ


(ラップ)
これから二人の幸せばかりさ
仲たがいが 時にはあるけど
いつだっても 笑顔で返すよ
愛し合っているからね
(いぇーぃ !)



 細かいことかもしれませんが、この曲のタイトルを正確に訳すならば「あなたを好きです」くらいになると思います。日本語の文法では、「〜が…です」という文の「〜が」は主語として見られがちのようですが、意味上は、動詞の対象をそれは表しているそうです。例えば、「ぼくは頭が痛い」という文は、形式上の主語は『頭』ですが、意味上「頭が痛い」のは当然『ぼく』なのであって、『ぼく』が主体すなわちこの場合の意味上の主語であることは明らかです。よってカバー曲のタイトル「きみが好き」は、『きみ』が『好き』という動詞の対象に当然なります。くどいようですが、『きみ』が動詞の動作の主体(を表す主語)ではないことを、あえてここで断っておきます。
 ハングル(韓国語)から日本語への翻訳なので、逐語的に訳せるはずだと一般的に思われるかもしれません。実際に誰かが訳したものを見ても、そのような考え方に従って訳されているものが多いようです。それはそれとして良いのですが、訳された日本語が元のハングルとは違う意味で読めてしまう場合があるので注意が必要です。特に今回は、ラップがあるので、だらだら言葉が続く場合は気をつけなくてはいけません。例えば、「胸の奥の深い/ところで、ドキドキしている心臓を感じて」という訳文と、「胸の奥の深い所で、ドキドキしている心臓を感じて」という訳文では、意味がだいぶ違います。私の場合は、朝鮮語の辞書をよく引いて、ハングルの言葉の意味用法を正しく理解する必要がありました。その上で、日本語に訳された文の意味を間違わないようにすれば、意訳をしても全体的にそれほどはずれた内容の表現にならないと考えられました。
 よって今回は、オリジナルの歌詞のよくわからない箇所の一語一語をしつこいほど朝鮮語の辞書で調べました。それで、余りにハングル文字を見続けていたために、ある時ふとテレビ画面のテロップに目をやったら、それがハングル文字に見えてしまいました。よくよく見ると三、四行の日本語の仮名漢字のテロップだったのですが、その一,二行がまるまるハングル文字の羅列に見えてしまいました。たまたま、そんな経験をしたのですが、一つのことに余り熱中するのもどうかな、と思いました。ほどほどにした方がいいのかな、とも思いました。
 それはそれとして、歌詞をどう翻訳したのかについて触れていきましょう。「きみが好き 誰よりも 〜 幸せなのぉ」などは意訳して歌詞らしくしています。ハングルのオリジナル歌詞を直訳すると、そのフレーズは「私は幸せで、他の誰も、うらやましくないです。」みたいになります。その字面(じづら)のとおりに歌詞を作ってもよかったのですが、サッパリした感じを出すために意訳しました。また、オリジナル歌詞を直訳すると「私たち二人は 永遠に一緒に 同じ空間の中で 痛みが多くても 平気なの」という意味のフレーズも、「二人は いつまでも どんな辛さも 我慢できるわ へっちゃらなの」と意訳して歌詞っぽくしました。
 そんなふうな感じで、歌唱されている部分については何とか意訳して、自然な日本語の歌詞らしくすることができました。その一方、ラップの歌詞部分は、若干の苦労がありました。前にも述べたように、言葉がゾロゾロ続いていくパートがあるために、その意味を日本語で伝えるので精一杯になってしまい、韻を踏むだけの余裕がありませんでした。ハングル(韓国語)のラップを日本語のラップに変えるなどと、そんな偉そうなことを言っても、そう簡単ではないことを思い知らされました。そうした外国語のラップを日本語に翻訳する作業は、いろいろと困難を伴います。でも、それは決して無駄な作業にはならなかったと思います。なぜならば、そうした困難や苦労によって、何らかの新しい世界が広がるからです。何らかの新しい価値観を知ることになる、と言ってもよいかもしれません。そのような考えに基づいて、大体の意味内容がわかる程度に書いてみました。この曲は、そうしたラップの歌詞があることによって、曲の感じが楽しく面白くなっていると私には思えたので、歌詞から省(はぶ)いたりはしませんでした。
 ネット上のS.E.S.の動画を見てもわかるように、そのラップのパートは、このグループのダンスの見せ場にもなっています。韓国音楽の一つの流れは、音楽と歌と踊りが一体化していることがその特徴としてあげられます。かつて韓国のCOOLという3人組ユニットが「俺たちのやっているのは、韓国風ヒップホップだよ。」みたいなことを言っていました。本場アメリカのヒップホップとはちょっと違う、韓国の伝統的な歌と踊りと音楽を一体化させた芸能を引き継いだ現代風のものが『韓国風ヒップホップ』なのだそうです。しかし、実際にはその三つを同時に演じるのはかなり難しく、観客の前でのライブを口(くち)パクでやらざるを得なくなってしまうことの一つの要因となってしまったようです。その意味では、S.E.S.の曲のそのような構成は、そうした事情からバランスをとったやり方の一例だったと言えます。
 なお、ラップの途中で、歌唱が入るフレーズについて説明しておきます。オリジナル歌詞には書かれていないそのパートは「ネギョテ イッスゴジッパゥワー」のように聞こえるでしょう。日本語に直すと「私のそばで (あなたが)居て欲しい」くらいの意味になります。「ネギョテ」は「ナ エ ギョテ」と同じで、「私の そばで」という意味になります。しかし、「居て欲しい」の思う主体は『私』だから、ちょっと文法的におかしいのではないかと思う人もいるかもしれませんが、「私のそばに居て欲しい」と私があなたに言うこと、もしくは、私がそう思うことは、日本語で考えてみても間違っていないと判断できます。よって、「そばに居てほしい」というふうに訳した歌詞にしてみました。
 今回の日本語カバーをしてみて、私にとっては改めて気づいたことがありました。この曲を作詞・作曲した韓国の人はもちろん素晴らしいと思います。けれども、それだけではありませんでした。以前ケーブルテレビの衛星放送などで何度か視聴したことのある映像を、今回私は、ネットの動画で改めて繰り返し視聴してみたわけです。すると、S.E.S.というグループの歌と踊りは、あの頃の日本のポップス界では、そんなには注目されていなかったことをふと思い出しました。にもかかわらず、実際はかなり実力のレベルが高くて、上手かったんだなあ、と私は、今回その映像を見ながら改めてそう思いました。