彼の若い妻と男の子は休暇をハワイで過ごしているそうだ

彼の若い妻と男の子は休暇をハワイで過ごしているそうだ

【「ハワイは日本人だらけだ。わからん、なぜだ」と
  彼はしきりにぼやいた。その後に続く長口上はよく
  わからなかったが、つまり、たった百ドルで上等な
  飯まで喰わしてくれる温泉がいくらでもあるのに、
  どうして日本人はわざわざハワイまで休暇を過ごす
  のだろう、という彼なりの素朴な疑問であるらしい】

浅田次郎著『ま、いっか。』(57)

第2章 ふるさとと旅(5)
◇私と旅◇(その5)

彼の若い妻と男の子は休暇をハワイで過ごしているそうだ

《「 ◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇) ◇Japan's Finance Minister Taro Aso (Japan's Finance Minister Taro Aso (R) laughs at a comment by International Monetary Fund (IMF) Managing Director Christine Lagarde (L) as they take their places for an IMF governors group photo during IMF and World Bank spring meetings in Washington, April 20, 2013. Also pictured is Singapore's Deputy Prime Minister and Finance Minister Tharman Shanmugaratnam (2nd L). REUTERS/Jonathan Ernst) 温泉が危機的状況にある原因は、主に三つで あろうと考えている。 第一は海外旅行の隆盛である。私もこの十年 ばかりは年に数回も外国に行くようになって、 そのぶんゆっくりと、温泉で過ごす時間は減 った。 ことに若い人の感覚からすれば、実は国内の 温泉旅行よりも海外旅行のほうが断然お得で あろう。 わかりやすく言うなら、東京から九州や北海 道の温泉に行こうとすれば、同じ料金で世界 中どこへでも行けるのである。 第二には、団体旅行が少なくなってしまった ことであろう。私が子供の時分には町内会だ の組合などの旅行がひんぱんに催されていた。 大人になってからもしばらくは、勤務先の社 内旅行という行事がどこにもあった。国民全 体の意識が団体から個人に移ってしまったの だから、団体に依存していた大型旅館ががら 空きになってしまうのは当然の結果と言える。 第三は娯楽の多様化である。年に二回の温泉 旅行だけが楽しみであった昔とはちがって、 今日では旅に出ることもなく日々を面白く過 ごせるだけの趣味や快楽は、さほど金銭や時 間の余裕とは関係なく、誰の生活の中にも犇 めいている。 たとえば、テレビの番組にしたところで、と うてい見つくせぬくらいの快楽を二十四時間 にわたって給与してくれるのであって、もし 温泉に行きければ無数のチャンネルのうちの ひとつを選択すれば、居ながらにして擬似体 験をさせてくれる旅番組をいつもオンエアし ている。 二時間の長湯をおえると、彼は温泉めぐりの ユニフォームであるという藍の作務衣を着た。 「ハワイは日本人だらけだ。わからん、なぜ  だ」 と彼はしきりにぼやいた。その後に続く長口 上はよくわからなかったが、つまり、たった 百ドルで上等な飯まで喰わしてくれる温泉が いくらでもあるのに、どうして日本人はわざ わざハワイまで休暇を過ごすのだろう、とい う彼なりの素朴な疑問であるらしい。 彼が「hot spring」とも「spa 」とも言わず、 かならず「onsen 」と言ってくれたことが、 私にはたまらなく嬉しかった。 ちなみに、もし冗談でないとすれば、彼の再 婚相手の若い妻と男の子は、休暇をハワイで 過ごしているそうだ。 まさか温泉三昧で人生が変わってっしまった わけではあるまいな、と私は少し危惧した。 (『旅行読売』二〇〇六年五月号) 」》 ■一般の人にとって、温泉が危機が状況にあ るといっても、それほど、興味がわく話題で はないでしょう。 しかし、温泉を日本独特の文化と考えれば、 それが、「輸出された」と、聞けば、オヤと 思うのではないでしょうか。 石川県七尾市和倉温泉の温泉旅館「加賀屋」 和倉温泉の筆頭旅館の地位を占め地上20階、 約1、300名の収容人員を持つ全国最大級 の旅館です。 1977年(昭和52年)1月より、旅行新聞新 社が主催する「プロが選ぶ日本のホテル・旅 館100選」(全国の旅館業者の中から選定) の総合部門1位として認定表彰されています。 この年、以降「33年連続」で加賀屋が総合 「1位」を連続受賞しました。 NECビッグローブ社が運営する第4回「み んなで選ぶ温泉大賞」においても、加賀屋は 初回から連続して総合1位を受賞中。 「“大きくなっても小さい加賀屋でいこう” がスローガンです。そして、そのために必要 なのは、お客様の満足度は、働いている側の 満足度があって初めて成り立つ、ということ です」と女将の小田真弓さんのことば。 平成18年9月10日 、創業100周年。 そして、平成22年12月18日、 台湾北投温 泉に「日勝生加賀屋」を開業しました。 トラベル・サイトの“日本以上のおもてなし” に、こんな投稿がされていました。 (2013/04/16) 《――「日本以上のおもてなし」―― 日本では評価の高い加賀屋さんが、台湾では どのようにビジネスを展開されているのか興 味がありました。 大浴場や部屋、玄関などは想像通り 日本人 にも違和感なく満足いくものでした。 この辺は他の高級ホテルや旅館と大差ないか と思います。 しかし特筆すべきはやはり従業員の皆さんの おもてなしぶり。日本語を一生懸命勉強され、 精一杯の誠意を尽くそうとされている姿に胸 が熱くなります。 現地採用の方も全て日本の加賀屋さんで厳し い研修を受けられるそうで、だからこその誇 りも充分感じることができました。 加賀屋さんのおかげで台湾がとても好きな国 の一つになりました》 話半分としても、日本式のサビースが国際級 レベルにあることがうかがえます。 ☆加賀屋北投 Radium Kagaya International Hotel 和倉温泉「加賀屋」 ☆台湾/北投温泉/加賀屋/ペイトウ/和風旅館. (アップロード日: 2011/05/01) 【2010年12月18日 台湾 ペイトウ温泉に  オープンした日勝生 加賀屋へ行って来ました。  正面玄関の外で 一列に並んで繰り返しお辞儀を  しています。見物人もいました】 ☆加賀屋 (公開日: 2013/04/01) 【和倉温泉 加賀屋】 ★北陸 石川県 和倉温泉 旅館 | 加賀屋 公式ホームページ (つづく) (1372dys-863ent) ☆浅田次郎著『ま、いっか。』(集英社文庫) ま、いっか。 (集英社文庫) ・文庫:272ページ ・出版社:集英社 (2012/11/15) ・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫 する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。 老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味 たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽 妙洒脱なエッセイ集。 自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄 の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、 軽妙洒脱な生き方指南。 ◎浅田次郎。1951年、東京都出身。自衛隊に入隊、除隊後はア パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、 『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、 1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄 道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2006 年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞司馬遼太郎賞、2008年 『中原の虹』で吉川英治文学賞を、それぞれ受賞。時代小説の 他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も 含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 ・浅田次郎

浅田次郎著『ま、いっか。』(57)

◆◇◆立ち読み◆◇◆

鈴木智彦『ヤクザと原発 福島第一潜入記』文藝春秋刊(215)

・単行本: 256ページ ・出版社:文藝春秋 (2011/12/15) ・原発は儲かる。どでかいシノギだな。電力会社と交渉して、 ゼネコンと話付けて、地元の土建屋に仕事を振る。代紋なしで はとても捌ききれん。原発はタブーの宝庫。裏社会の俺たちに は、打ち出の小槌となるんだよ」。ヤクザが語る衝撃の事実。 日本最大のタブーがいま明かされる! 誰も書けなかった 命 懸けの衝撃ノンフィクション―。 ★ヤクザと原発 福島第一潜入記 ▼△第五章 原発稼業の懲りない面々(33)△▼

・東電は神様・(その2)

旅館駐車場の作業員の車は次第に高級車へと代わっていった
《「―――「本当はもう辞めようと思ってたのよ。重機の免許も あるし、二種免も持ってるから、他の仕事に就こうと思ってた。 でも社長から電話もらって、金もいいし、今更他の仕事さがすの もしんどいし」(40代の作業員) 彼自身、被災者であり、津波で自宅を失った。20キロ圏内にあ る地元に帰れないため、とある仮設住宅に入居しているらしい。 1F(東京電力福島第一原発)で勤務しているため週に一度は仮 設住宅に戻らねばならない。 これまで国産の大衆車に乗っていた彼は、私が勤務した1ヵ月後、 高級外車に乗り換えた。 「さすがにこんな車で仮設住宅に戻れねえかんな。車はしばらく ここ(旅館)においとくわ」 彼のみならず、旅館の駐車場に停めてある作業員の車は、次第に 高級車へと代わっていった。 現場作業を終え、Jヴィレッジに戻った際、タイペックを脱ぎ捨 てたあと、体育館でサーベイを受けるが、そこにあった張り紙に も「3月に小名浜コールセンターにて、身体サーベイをされたお りに、スクリーニングレベル超えで作業着と共に『車の鍵(メル セデスベンツ)』を回収された方を探しております。お心当たり のある方は、Jヴィレッジ総務班にお越し下さい」とあった。 「一度原発で働いたヤツは、なんだかんだいってもやっぱり原発 に帰ってくるんだ。もう他では働けない。いまさら野丁場(一般 的な建築現場)には戻れない」 同じ現場に配属された下請けの親方の言葉は、原発作業員の心情 を端的に表している。 ――」》 ☆福島第1原発残骸 ☆化学防護服 デュポン タイベック ソフトウェアIII型 ▼海洋は、陸上の汚染物質が最終的に行く着く場所、責任重大
■10年後沿岸部を汚染 第1原発貯水槽漏えい 規制委試算
【産経ニュース】(2013.4.19 ) 東京電力福島第1原発の地下貯水槽から汚染水が漏れた問題で、 原子力規制委員会は19日、第1原発東側沿岸の土壌で約10 年後、地下水に含まれる放射性ストロンチウム濃度が法令で決 められた限度を超えるとの試算結果を公表した。 汚染水が地下水に混ざって沿岸部に向かい、海水汚染がこの時 点で明確になるが、放射性物質は海水で希釈され濃度は下がる。 構内にある7カ所の貯水槽のうち、2号貯水槽から120トン の汚染水が漏れたと想定し、東に880メートル離れた海岸近 くの陸側の地点で放射性物質ストロンチウムトリチウムの 濃度がどう変化するか試算した。 試算によると、ストロンチウムは最も流出が早く進んだ場合、 沿岸土壌の地下水で約10年後に法令限度濃度の1リットル当 たり30ベクレルに達し、約30年後には同約1千ベクレルと 最高濃度になる。トリチウムは約7年後に最高濃度となるが、 その際の濃度は同約100ベクレルで、法令限度の同6万ベク レルを下回る。
★☆★福島民報のニュースサイト
◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)☆(181)

・新書:224ページ ・出版社:集英社 (2012/1/17) ・本書のテーマは、犧牲のシステムとしての福島と沖縄である。 なぜ、福島と沖縄のか。それれは、一九四五年の敗戦以後、今 日までの日本を「敗戦日本」と呼ぶなら、これら二つの地名が、 戦後日本の国家体制に組み込まれた二つの犧牲のシステムを表 しているからだ。 沖縄が戦後日本の犧牲でったこと。それは、沖縄戦という史上 稀に見る過酷な戦闘の戦場にされた沖縄に米軍が居座り、サン フランシスコ講和条約第三条によって、沖縄がその米軍の施政 下に置かれ、一九七二年に日本に復帰して以後も、今なお全国 の米軍専用施設の約七四パーセントが沖縄に集中しているとい う、このことをさしている。 ★[犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書) ▼△第二部 沖縄 △▼ ・第五章 沖縄に照射される福島〈9〉・

・本当は地域の役に立っているのか・(その2)

基地の撤去でより、大きな利益を生んでいる地域がある
《「――一やがて、双葉町は財政状態が悪化して破綻寸前とな り、二〇〇九年の早期健全化団体に指定される。翌一〇年には 早期健全化団体から脱却したが、翌一一年三月に原発事故で壊 滅的打撃を受けることになったわけだ。 原発に依存し、原発「中毒」になった結末がこれでは浮かばれ ない。そもそも。「原発がなくなったら立地自治体が困る」と いわれていること自体、自前の経済ではやっていけなくなって しまっていることではないか。 大田昌秀・元沖縄県知事は、在任中、基地返還による経済効果 をまとめる作業を行ったところ、「基地の撤去によってより大 きな利益を生んでいる地域がいくつもある」ことが確認された という。 典型例は沖縄本島中部北谷町のハンビータウン。そこが海兵隊 の飛行場として使われていたときの軍の雇用数はわずか一〇〇 人程度だったが、返還後には約ニ〇〇億円の投資がなされ、労 働人口は一万人に増えた。 北谷町が熱心に再開発に取り組んだところ、大手スーパーや郊 外型店舗が進出し、若者に人気のある街に、生れ変わったので ある。 ちなみに、宜野湾市普天間基地は、この旧ハンビー飛行場の 一一倍の広さがあるのに、雇用数はたったの一七三人。もし普 天間基地が返還されて跡地が有効利用されれば、現在の十数倍 の雇用が生まれるのではないか、大田氏は言うのである。 ―」》 ☆「美ら海(ちゅらうみ)」名護市辺野古 
■県内移設すべきでない ノーム・チョムスキー
琉球新報】(2013年4月22日 ) ・「沖縄のことは沖縄が決めるべきだ」 と話すノーム・チョムスキー氏 3月下旬、米マサチューセッツ工科大 世界的に著名な言語学者で、米国の外交政策を「覇権主義」と 批判するなど国際政治を鋭く批評する米マサチューセッツ工科 大名誉教授のノーム・チョムスキー博士(84)がこのほど琉 球新報のインタビューに応じ、沖縄の米軍基地問題などについ て語った。 チョムスキー氏は普天間飛行場の返還問題で「県民が拒否して おり、県内のどこにも移設すべきでない」と述べ、名護市辺野 古への移設計画を進める日米両政府を批判した。   同氏は哲学者、論理学者としても知られる。政治や社会問題を 扱った著作も多く、2005年には「世界最高の論客」に選出 された。 →→→☆☆☆社説全文へ続く ▼要は、戦後の日米間の主従構造が沖縄問題の根本にあるのだ。

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 毎日新聞の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品  の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。  20周年記念特別企画として糸井重里氏、南伸坊氏  ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、  264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。 ★万能川柳20周年記念ベスト版
・あの作家態度だけなら魯山人    福島 文野転斉
・残業を経験させろ財相に      横浜 大塚さん
・テレビではよく見る顔だ名は知らぬ 神戸 8みちばち
 

☆★☆≫ 詩歌逍遙 ≪☆★☆

         室生犀星 
・寂しき春・
したたり止まぬ日のひかり うつうつまはる水ぐるま あおぞらに 越後の山も見ゆるぞ さびしいぞ 一日もの言はず 野にいでてあゆめば 菜種のはなは 遠きかなたに波をつくりて いまははや しんにさびしいぞ  (抒情小曲集) ※室生犀星 (1889年8月1日 - 1962年3月26日) 詩人・小説家。本名照道。金沢生れ。十七歳のとき 「新声」に投じた詩が認められ、早熟の才を示した。 萩原朔太郎と「感情」を創刊。詩集「愛の詩集」、 「抒情小曲集」「寂しき都会」「青き魚を釣る人」 「忘春詩集」「鉄集」など。小説「性に眼覚める頃」 「あにいもうと」など。 ※Wikipedia:室生犀星

◆◇◆◇『侏儒の言葉西方の人』◆◇◆◇

芥川龍之介著 新潮文庫版》 侏儒の言葉・西方の人 (新潮文庫)侏儒の言葉(遺稿)◇
・「新生」読後・
  果して「新生」はあったであろうか? ※「新生」 島崎藤村の自伝的小説。妻に死なれ四人の子をかか       えた中年男岸本と、家事手伝いに来ていた姪節子と       不倫な恋愛を赤裸々に告白し、罪からの「新生」を       描いた作品。姪とのくされ縁と兄である姪の父への       経済的援助から自由になろうとする功利的目的と、       姪への運命への配慮がほとんど見られない藤村のエ       ゴイズムに対し、芥川は「ある阿呆の一生」で「老       獪な偽善者」という批判を下した。                          〈134〉

☆★☆言えそうで言えない英会話表現☆★☆

彼は自分のことしか話さない。
All he talks about is himself.
<NHKラジオ 「英語5分間トレーニング」岩村圭南 - 講師> ※この番組の放送は昨年4月1日で終了しています。 Wikipedia:岩村圭南

◎◆◎アートのたのしみ《サー・トーマス・ローレンス》◎◆◎

マーガレット ブレッシントン伯爵
(Margaret, Countess of Blessington) 〈1822年 Wallace Collection, London, England〉
☆サー・トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence) 〈1769年4月13日 - 1830年1月7日〉 イギリスの画家。ブリストルで生まれ。父は宿屋を営む。6歳 のころから、客の好きな物を描いてみせ、絵かきの片鱗を見せ ていました。父が事業の失敗したときには、トーマスの絵の才 能が家計を支えました。 絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出 て、ジョシュア・レノルズ創設のロイヤル・アカデミーの生徒 となり、彼の絵はたちまち評判を得て、1791年にはアカデミー 会員となります。ほどなく、ディレッタンティ協会の画家に任 命され、国王ジョージ3世のお抱え画家の地位を獲得します。 1820年からロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれた。逝去す るまで会長職を務めました。なお、彼は生涯独身を通しました。
☆Sir Thomas Lawrence『自画像』(1788年)
   〈デンヴァー美術館蔵〉 ◆Sir Thomas Lawrence 【アップロード日: 2009/12/09】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

☆That's All By Mel Torme (アップロード日: 2010/11/19) 【Mel Torme was an American musician and singer best known for his classic jazz vocals. He was also a jazz composer and arranger, a drummer, an actor in radio, film, and television, and the author of five books. He co-wrote the classic holiday song "The Christmas Song" ("Chestnuts Roasting On An Open Fire") with Bob Wells. In 1944 he formed the vocal quintet "Mel Torme and His Mel-Tones", modeled on Frank Sinatra and The Pied Pipers. His appearance in the 1947 film musical "Good News" made him a teen idol for several years. His 1949 composition "California Suite" became Capitol Records' first 12-inch LP album. His recording of "Careless Hands" was his only #1 hit, although "Again" and "Blue Moon" became his signature tunes. His singing at New York's Copacabana led a local disc jockey to give him the nickname "The Velvet Fog". His last hit was the 1962 R&B song "Comin' Home, Baby" which reached #36 on the pop chart. In February 1999, Torme was awarded the Grammy Lifetime Achievement Award. This selection is the title song from his album "That's All" released in 1965.】 ☆☆メル・トーメ ・ルヴィン・ハワード・トーメ(Melvin Howard “Mel” Torme) (1925年9月13日 ? 1999年6月5日) アメリカのジャズ歌手。ジャズ作曲家、編曲家、ドラマー のほか、俳優としてラジオ、映画、テレビでも活躍した。 愛称は「ベルベットの霧」The Velvet Fog 。 ★Wikipedia:メル・トーメ