日輪(85)

kuromura2009-01-13

 じんと空気が震え、東の空が白くなった。黒い山なみの向こうから、長脛彦がやってくる。ぴかり、ぴかーり。朱色の剣をきらめかせて、急ぎ足でやってくる。
 
 古い絵馬堂の天井を眺めている。天井の絵馬には蟹と長脛彦の戦いの様子が描かれているが、色も落ち輪郭もさだかではない 
 その昔、西国の涯にあった大樟の、齡ふるうちに虚(うろ)となったその根元の暗がりに、いつか巨大な蟹が棲みついたという。

 もともと暗闇が好きな蟹は、雨が降れば穴から出て活動する。大樟の虚(うろ)から出た大蟹は、西国に水害やひでり、争乱を引き起こし、あまたの人を殺めたということだ。 東の国の長脛彦は日の子。蟹はこの世の中の暗黒の化物。新しいいのちの働きを否定する力。長脛と蟹の両者は、覇権を争って長い間戦うが、蟹は長脛の剣に恐れをなして、西の海に隠れる。

 絵馬堂の前のその樟の木は‥‥樹齢二千年ぐらいだろうか。風雨にさらされて朽ちた樟の虚(うろ)には、いま清らかな霊水が湛えられ、その中には新しい若木が生じている。それは再生した樟の新しい生命。
 長い悪夢から醒めた樟の生命が、青白い幼木に宿り、はるか頭上の空から降ってくるまばゆい光を見詰めて、ゆらゆら立っている。

 長脛彦の剣は新しい光。今でもはるか遠くから、蟹はいないか。化け蟹はどこにいると、その長剣を振り回してやってくる長脛彦の声がする。
 この世界は、昼と夜、光と暗黒に分かれている。そしてこの二つの極は、今でも互いに争っているのだ。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 

 夕方になると、これまでにない赤い夕焼けが、あたり一帯にずうっと広がって、まるで、遠い空の静かな火事のようだ。わたしは絵馬堂の縁で柿を食べている。そしてあの西の空では、「昼」を追われた蟹が赤く燃える日輪をかじっている。