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こころ-夢の河辺で-

2009-03-31 キャンバス(90)

 妻が、庭に水を撒くときれいな虹が架かった。子供が歓声をあげて庭を駈け回る。犬がけたたましく吠えて後を追う。

「おいおい、濡れちゃうぞ」

「暑いから平気だもん」

 洗濯物が干してあるので、そこらじゅう清潔ないい匂いがする。

 私はキャンバスに向って絵を描いている。

「何を描いているの」

 傍に寄って来た子供はまだはあはあ云いながら、その目はどこか遠くを見ている。

「山だよ」

 ごみごみした都会を離れて、私たちは二年ほど、山が見える高原で暮らしている。ここは白樺の林の中。すぐ傍に小さな湖がある。 ここで私は、ずっと山の景色ばかりを描いている。 目に映るのは、うすい色合いの錐形が連なる山々。白い雲が円く取り巻いて、あそこはまるで神の国のよう‥‥。 

 私はふと、キャンバスから目を離し、絵筆を置いて、あたりを見回した。なんだかへんに静かだ。

 洗濯物を干したまま、妻はどこに行ったのだろう。傍にいた子供や、あんなに吠えていた犬もどこに行ったのか‥‥。

 どこか遠くでピアノの音。白い蝶が一羽迷いこんできてキャンバスに止まった。

 しかし、妻はどこに行ったのだろう。子供は、犬は‥‥。 

 家族の姿がないキャンバス、青い山の向こうはやはり青い空。水色の絵具が溶けていく空のかなた。かすかに氷の稜角が見えるが、それは山の冷たい氷壁。

 突然思った。

(私は何のために生きてきたのだろう)

 これまで私は山ばかりを描いていた。ここは、私の終の住処なのに、ついさっきまでいた家族の姿はなく、一人ぽっちだ。私がここに住んでいるのは何のためだろう。

「ぼくたちも描いてよ」

 その時、遠くから子供の声がした。温かさが戻ってきた。

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