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こころ-夢の河辺で-

2010-10-22 獣の眼(中)

 ――生きるということがどのように行われるか――もし誰かがおまえにそう尋ねて見る気を起し

たとしたら、おまえはその時こそきっぱりと答えるだろう。そうだ、生きるということは順応して

いくことなんだ。

 もちろん、おまえがこのようにきっぱりと自分の考えを云えるようになるまでは、おまえ自身の

心の中で、さまざまの懊悩の発展を経験しているのだ。檻に入った当時のあのヒステリックな感

情が次第におさまり、おまえが自分の置かれている状況をやや冷静に眺めることができるようにな

りかけた頃、おまえはいくつかの脱出の計画をたてた。しかし結局、そのどれをも手をつけないま

ま放棄してしまったのだ。けだし、おまえはそのような冒険を冒すにはあまりにも自分をも偶然を

も信頼できなかったのだ。それにもっとも肝心な問題点は、おまえの体が現実に獣の体であるとい

うことではないか。すべては、それが解決すれば後にもう何の努力も要しないことは自明のことな

のだ。

奇妙なものだ。希望とは! おまえはまだそれによって生きていた。

 朝、太陽が東の空に輝き、おまえの汚わいにむれた寝床を照らす時、おまえは夢から目覚め、

確かな眼でおまえとおまえのぐるりを見まわす。おまえは獣、そしてもはや逃れるすべもない獣、

おまえは午前の時間を、二米四方の運動場に出て、さわやかな空気を吸いながら歩き、彼方のか黒

い森や、池のほとりの美しいたたずまいに眼を向ける。午後の時間は、おまえが見せ物になる時間

だ。おまえは最初それに耐えられないと思ったが、それは馬鹿な考えだった。おまえはそれに耐え

られるどころか、時にはおまえ自身の敏捷な体の造りと、どう猛な性質を示してやるために、大勢

の見物人の前で、高く跳ね上ったり低くうなりながら鉄柵にわざとぶっつかったりしたものだ。勿

論、気が向かなければ眠ったふりをして、ちらりちらり見物人達の様子を眺めていたらいいのだ。

それも結構いい閑つぶしになるものだ。それで時にひどく感動することもある。驚かされることも

ある。

 いつか、見物人の中におまえの学校特代の友人の顔を認めた時だ。その時は思わず飛び上って、

奥の部屋へ駈けこもうとしたほどだった。しかし、それもほんの短かい間、すぐに、おまえを分か

る事など、それがどんなに以前のおまえを知っているとしても、誰にもできる筈はないのだと思い

返して苦笑したのだった。

 おまえは、わざと彼の前にすわってその友人の顔を真正面からじろじろ観察してやった。恐らく

彼は臆病なのだろう。すぐに眼をぱちぱちさせはじめ、やがて、申訳なさそうにひきさがったが、

おまえはその後ろ姿に向ってあらんかぎりの悪口雑言を費やしたものだ。

 おまえは、おまえを見ている人間を逆に見て愉快でならなかった。彼等は、自分達が見ているも

のが単なる獣以外のものであるとは思ってもみないのだ。それは、どうにも我慢できない苦痛と快

楽の練り合せだ。子供連れで、子供にもまさるような立派な阿呆面で口をぽかんと開き、おまえの 

前に立っている人間達。おまえは、わざと見物人の大勢いる前でびっこをひいて歩いて見せる。と

たん彼等は叫ぶ。あ! ほら、びっこをひいている。足を痛めているんだな! 可哀そうに!

 多分――おまえは傲慢なのだろう。そして、その傲慢さが、どのくらいのものかというと、おま

えの苦痛と同じくらいの奴なのだ。というより、いわば苦痛という金を出して傲慢という物を買つ

たといえるかも知れない。そして、おまえはこんどはその自分が買った傲慢という品物を人々の上

にふりかざして、それ相当の代価で売りさばこうとしているのだ。

 さあ! 買った、買った。――

 おまえは、大道商人のようにおまえの商品を見せびらかして叫ぶ。だが、敵もそうおいそれとは

買わない。さんざんひねくり廻したあげく、こいつはもっとまけられる筈だぜ、なんて吐かす。し

かし、そんなのはまだいい方で、中にはこっちがいい鴨だと思っているのが、案外と手強い商売敵

だったりして、どうだいこっちの品物の方がずっと上物だぜ、一つ買わんかね、とふところからも

っとしぶとくひんまがった奴を取り出したりするのだ。

 飼育人の場合も、ちょうどそれだった。もっとも、この場合は立場上自然な成行として飼育人の

方へ勝をゆずらねばならない気味もあるにはあったが、それにしても、平等な条件のもとに立ち合

ったとしたら、恐らくおまえは――降参しただろう。

 彼は、獣に過ぎないおまえを人間的に苦しめようとしたものだ。

 例えば、食物をおまえに与える時にしてもそうだ。彼は決して普通のやり方はしない。まず、肉

片を取り出すと、何か変な歌を歌いながらおまえの鼻先でそれをふらふら振る。おまえはもう慣れ

ているので、横を向いたまま空きっ腹を我慢している。突然、彼はその肉片をもったまま行こうと

する。おまえはハッとして立ち上る。彼はにやっと笑い、又お前の鼻先にもどしてゆすってみせる。

ついに、おまえは、我慢できずに唸りだす。と彼はぽとりとそれを落す。檻の中へではなく、檻

の前だ。彼はそれに土をたっぷりとなすりつけ、ゆっくりと立ち上り、急に勢いをこめてそれをお

まえの顔へ叩きつける。――とまあこんな具合だが、これはほんの一例だ。理由もなく棒でこ突き

まわしたり、聞くに耐えない悪態をつきながら唾をはきかけたりするのは普段のことで、そのため

に随分、彼を憎みもし、また自分でも情けない思いをしたものだ。

 こんな場合、通常世間ではどんな方法で心のうっ憤を処理するのだろうか。咬みついてやること

も出来ない、罵り返すことも出来ない、報復する手段もないおまえの存在全体は、その上まったく

彼の意志にかかっているのだ。

 おまえは、彼をじっと観察し、研究しはじめた。そしてやがて、おまえは彼についての考えを次

のように結論づけ、おまえ自身納得したのであった。

 彼は、世間のすべての人間に劣等感を抱いて、常に他人から虐待されており、そのうめ合せとし

て、おまえを仮に人間と見たててそうした仕うちにでるのだと。それからは勿論、おまえは彼を

憐れみ許すことにした。そう考えてしまえば以前のような憤懣はまるで感じなかったし、肉体の

上に加えられる苦痛は最初から問題ではなかったのだ。……

 しかし、実際にどうにもならない苦痛はやはりあるものだ。そして、そうした苦痛は、えてして

自分の外側からやってくるよりも、自分の内側にちょうど何かの病気のように居すわっていて、

時々、ちょいちょいと針のようなものでつつくのだ。すると、おまえは急に息苦しくなり、毒がま

わったように七転八倒、ついにはその苦しみから逃れるために自分で自分の首を締めようとしては

それもできず、誰か俺を殺してくれ! と叫びだす始末だ。この得体の知れない病気。(だが、一

体こいつはいつからおまえの中に住みついたのか?)たしか、おまえが「閉じこめられた獣」にな

ってから……いや、それともずっと前から隠れていたものが、こういうことになったので急に暴れ

始めたのだろうか………。

 時には晴れたまま、そして多くは曇ったまま、毎日訪れる日暮、落日。日中の騒音が徐々に夕も

やの中にとかされ、おまえだけの不思議な夜がやってくる時、それはまるで一晩ごとに新しい扮装

でやってくる青白いこびとのようだった。見物客の見世物になることは、おまえにとってなんでもな

い。彼等はおまえの外形だけに関係することだから。飼育人の手ひどい仕打は、おまえには偶然の

災悪以上の意味はなかった。しかし、おまえは自分の中に巣食う精神がおまえ自身をさいなむ時、

おまえは自分をどうすることも出来ないのだ。(いったい、あいつがおまえ自身の精神だろうか? 

それなら、どうしておまえを苦しめたりするのだ)

 夜のとばりが、おまえの住居をつつむ頃、そいつは、溜息のようにおまえの中で動きだす。そして、

最初は聞えるか聞えないかの囁きが、おまえの耳に不思議な話をそそぎこむ。……やっと一日が終

ったね。………やっぱりなれた事とはいえ、こうして済んでほっとするよ。さあ、ここで煙草でも

ふかしたいんだけど……おっとっと、禁物、禁物、外の世界とはわけが違うんだった。ここは檻の中、

でもまあこのところ、健康そうでなによりだと思うよ。健康って奴はいいものだからね。無邪気で、

明るくって、ただちょっぴり退屈ではあるけど……え?…ああ、退屈って云っただけさ。……やが

て、そいつは際限もなく喋りだす。最初のゆっくりがだんだん早くなる。ついにはべらべらまくし

たてる。それとともに、おまえの心はえぐられるような痛みを感じる。血がどっと流れだす。と、

おまえは気が狂ったように叫びたてる。獣め! このけからかしい獣め! すると、そいつは得た

りとばかりげらげら笑いだすのだ。

 これはいったいどういうわけなんだ。おまえの精神、少くともおまえの中に住んでいるそいつが、

おまえをからかう。からかうだけではない。そいつは、おまえの記憶や想像をつつきまわして、外

の世界のことを無理やり思い出させたり、血のしたたる鶏頭を食べる現在のおまえを鼻で笑ったそ

のあげく、おまえがうろうろと檻の中をかけまわったり、食物を見るたびにのたうちまわるのを見

て、有頂天になっているのだ。いったい、そんな恩知らずがあろうか。考えても見よ。もとはとい

えば、おまえが不潔な食い物でも食べ、せまい檻の中で忍耐していればこそ、奴も生きながらえてい

るのではないか。

 それなのに、奴は奴そのものの存在の根拠でもあるおまえを苦しめることを趣味にしているん 

だ。きっと奴は、この上ない高慢野郎に違いない。それで、あいつはおまえと一緒に住んでいる癖 

に、おまえとはまるで違った生れででもあるかのようにおまえを見くだしているのだ。そして、自

分はそれこそくわえようじで下賤な仲間が早く死んでしまえばいいなんて思っているに違いない。

 が、一体、そんな喜び方があろうか。そんな苦しめ方にどんな意味があるというのだろう。……

しかし、もうこうなったら、おまえは自分の中に、やがてはおまえの生命そのものを亡ぼすものを

飼っているのだ! そして、そいつがおまえの精神という奴だ。かって、お前が人間であった頃、

おまえをそのように人間として支えていた理性や、美的感覚、そいつらが今、おまえを殺そうとし

ているのだ。

 それは、おまえは獣であり、そして閉じこめられた獣に違いない。だが、少くとも、ここで生き

抜こうと努力しているおまえを、そいつは鼻で笑って、蹴飛ばそうとしているのだ。おまえは、見

る影もない獣に過ぎない。だからこそ、おまえは自分の現状に適応しようとしているのだ。生きよ

うとしているのだ。なのに、そいつ――おまえの精神は、その努力をあざ笑い、その空虚な観念の

世界の中へおまえを浮かび上がらせ、そこでおまえを抹殺しようとする。そいつは過去の中から持

ちこまれた亡霊のくせに、現在のおまえの首をしめようとしている。……

 おまえは、早くから寝わらの上に横になることにした。そして、眠りが早く訪れるように、残り

の夜の時間をせまい檻の中での荒々しい運動にすごした。

 そして、おまえは殆んど夢も見ずに眠る。一匹の獣として、完全に獣だけの存在として……そし

て、おまえは徐々に成功したのだった。そうした暮しを続けるうち、おまえの中から、過去の亡霊は

力を失い、もう最初のうちほど苦しめられることがなくなった。習慣と怠情がおまえを支配し、無

為のうちにおまえは肥った。――

 朝、けだるい眼覚めとともに、明るい太陽が東に昇り、うす紺碧の空をよぎりつつ午後に近づく

間、おまえはぼんやりとかすんだ眼を漠然と外へ向けている。やがてあたりに人影が立ち、ざわめ

きがおまえの前を流れていく間、おまえは温かい日差しを浴びて眠ったり、ふと何気なく立ちあが

って通行人の顔を眺めたりして過ごした。時には以前人間であった頃の事を思い出すこともあった

が、それも、ちらと頭をかすめる影のような思いで、かっては現実であったものも、今は幻想のよ

うに弱々しく実感をなくしたまま遠ざかっていた。