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こころ-夢の河辺で-

2012-05-18 何のために詩を書くのか

 私は、昔から文章の細部にこだわる癖があった。客観的に正確に書けているかが気になり、自分で書いたものを何度も読み直して手を入れてしまう。その結果、形容詞が重複して冗漫な文章になったり、主題から外れて迷路に迷い込んだり、いつも順調に終わったことがない。あらためて読み直しても、当初の文章から荒削りな新鮮さや、自然な流れが失われ、肝心の主題もぼやけていて、なんのために推敲したかわからないことがある。

 普通の文章でもそうだから、詩になるともっと大変だ。詩の言葉には飛躍があるので、推敲の段階では、当初の意識の流れを忘れ、言葉だけを追う形になってしまう。つまり、もとのイメージから離れたところで、いわば言葉の空回りの中で推敲をしていることになる。これではなんの意味もないどころか、作品の仕上がりにはマイナスだ。私は、詩の推敲には、気をそらすための別の時間が必要だと思っている。

 私は、詩やエッセイを同人雑誌などに掲載するときは、たいていペンネームで通しているが、なかには、本名を使わなければならない時もある。

 依頼原稿の場合だが、そうした時、編集者意向で、末尾に(詩人)と印字されることがある。これといった職業や役職を持たない私のような人間には、やむを得ないその場しのぎの呼称かも知れないが、どうしてここで詩人なのかと考えこむこともある。単にロマンチックな人を詩人という言い方もあって、なんとなく恥ずかしい気がしないではない。

 そもそも詩人とはどういった人たちを指すのか。歌われることを目的とした歌謡曲の作詞家はいいとして、誰からの依頼でもなく、その時々の、自分の気持ちのままに、独り言に似た言葉をつらねるというだけで詩人と呼ばれてもいいものだろうか。

 古くはヨーロッパ社会の各地を彷徨って、神や英雄の伝説の叙事詩を詠い広げた吟遊詩人、政治との関係が深い中国の漢詩人たち、さらには日本の琵琶法師にも、それなりに詩人としての社会的役割があり、存在理由もあっただろうに。今の私にはそういったものがあるとは思えない。

 何のために、私は詩(あるいは詩的な文章)を書こうとするのか。なぜ私は、言葉で構成された詩の世界に惹かれるのだろうか。

 私は詩の世界に、音楽や絵画のような日常生活では得られない価値を求めているのかも知れない。音楽の旋律は、私の脳髄を直接刺激する。また、絵画はその色彩と構成で私の審美感に働きかける。そして、詩は、言葉の感覚や概念から、連想によって、読み手の脳内にある世界像を形成する。

 詩は間接的ではあっても、音楽や絵画と同じ美の世界を読み手に与えているのだろう。言葉で白と書けば、読み手はそれぞれの経験の中の白い色を連想し、花と書けばそれぞれに知っている花を思い浮かべながら、詩のリズムに、自分のリズムを重ねようとすることだろう。

 詩には、音楽や絵画のような物理的な実体はない。音楽や絵画は、良いも悪いも作品それ自体で完結しているようなところがあるが、詩は、読者の感性を通し、読まれて初めて作品として成立する。詩は読み手の心の中で初めて詩となる。

 ピアニストや絵描きは芸術家またはアーチストと呼ばれる。しかし、詩の書き手は詩人詩人という呼び方は死人に通じ、なんとなく嫌で恥ずかしい。しかし、よく考えてみれば、この恥ずかしさは、誰かに読んでもらわなければ成立しない文学ー詩の宿命から来るのかも知れない。

 詩を書きたいという気持ちは、誰かに自分の気持ちを伝えたいという衝動から来るものだろう。いわば、仲のいい友達に自分の気持ちを打ち明けるのと大差はないのだが、詩を書いて公開すれば、不特定多数の人が自分の隠れた心を見ることになる。友達は別としても、日頃の付き合いのない人がどういう反応を示すかが、気になるところだ。

 自分の書いた詩をほめてくれる人はいいとして、中に貶したり悪口をいうひとがいると、自分なりにいいと思って出したのにと、どうしても納得できない気持ちになる。人は今の自分以上の判断はできないから、どうして自分の作品が悪いのか分からない。だから、自分の作品の欠点を気づかせようと、言ってくれる人の悪口には耳を傾けなければいけない。

 良い詩悪い詩にかかわらず、自分に係わりのない人の言動には、口出しをしないのがこの世のならいである。だから、他人が出した詩集について、あれこれ云ってくれる人はまずないと考えたほうがいい。反応がないといって嘆く必要はないのである。

 せっかく身銭を切って世に問うた詩集が、なんの反応もなく、無視されることはなんとも辛いことではあるが、自分の詩が至らないのだとあきらめるより仕方がない。

 そもそも、自分が書いた詩が世間に認められたからといって、急に何かが変わるわけではない。大金持ちになるわけでも、偉くなるわけでもないし、なにより自分が変わるわけではない。

 ただ、自分を理解してくれる仲間ができたということで、多少の寂しさは紛れるかもしれない。自分に近い仲間を集める…もともと詩はそんな動機から書かれているのだから。

 

 詩は、単なる言葉の連続ではない。あるリズムを伴って頭の中に入ってくる囁きであり、叫びであり、訴えである。ー―このリズムは人間の呼吸や心拍と密接な関係があると私は思っているがー―リズムを伴った言葉は、ある種の快感をもって人間の心に浸透し、その思念は共感と共鳴の輪で人々を結びつける。自分は一人ではないのだ、という思い、連帯の感情が人々の中に芽生え、時には政治的な運動へと導くきっかけともなる。

 プロパガンダを目的としない詩、自己証明、あるいは自分なりの世界を構築したいとする唯美派的な詩もあるが、これとて世間一般の思想心理と無縁に存在するわけではない。

 詩は、現代人の心理、生理、運動、呼吸などと深く結びついており、それらを度外視しては語れない。詩は、人間の言葉による究極の表現活動であり、自然の摂理や世界の構造、人の心の深部を語り、人間同士を結びつける言葉の輪であると思う。

 近年、当地では、詩を語る会、詩の朗読会や詩のボクシング連詩の会などが相次いで開かれているが、これらは詩人の組織というよりは、詩を書く人たちの交流の場であり、同じ趣味に結ばれた仲間の活動というところだろう。この人間関係には、仕事上の係わりや近所付き合いとは違った、全人格的、本音での結びつきがあり、それが、詩を作ることに役立つかも知れない。

 人が書いたすばらしい詩に触れるのは楽しい。そのたびにこんな詩を書きたいと思う。自分で詩を創るのは苦しい作業だが、詩を書いている時間は、自分にとって一番充実した大切な時間ではないかと思う。

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