「他者の歓待」〜おおや先生からの宿題1

おおやにきさんからTBがあり(無視されると思っていた)、しかもながながと批判と判例等の法学の知識を頂戴したが、法哲学者からこうしてWebで応答して貰えるというのは「思想的立場」は違っても、ありがたいもので勉強になるなあ。

さらに言えば、とにかく「他者の歓待」とか言う人がたに限って前述のような暴力的な他者を想定しない傾向があるのは不思議でならない、というのは単なるレトリックであって理由は判然としており、つまり根元的な他者が暴力によって、というのは典型的には近代国家の集中され独占された暴力によって、排除されたあとの世界にいながら、そのような暴力に自分は加担していないし恩恵も受けていないと思い込む、あるいはむしろ根元的暴力について何一つ考えていないからであろう。この、近代国家の上で近代国家を否定するという身振りのいかがわしさについてはリバタリアニズムとも共通する、と私自身は考えているところだが、まあそれは余計。ついでに他者論からベンヤミンで結論がそうですか、はあとも思うが、これは愚痴であるので説明は拒否する。まあ出たら読まれれば良いだけの話。
http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/archives/000268.html

このような批判の論点は、ここでは明示していないがたぶん憲法9条護憲派にも繋がるのだろう。
僕は「近代国家の集中され独占された暴力によって、排除されたあとの世界にいながら、そのような暴力に自分は加担していないし恩恵も受けていないと思い込」んでは、もちろんいない。まぁ僕はおおやにき先生のようには優れてはいないが、それほど愚かでもないので、じゅうぶんにその恩恵を受けていることを知っているからこそ、少数者や被差別者の抗議を受けとめようと思っている。いや、その抗議に晒されているのだ!
「根元的暴力について何一つ考えていないからであろう」という根元的暴力とは何を指しているのだろか? それを僕は「存在すること」だと思っている。僕にとっての他者、他者にとっての僕が、共存するためにそのような暴力的存在をどのように調整するかということが、簡単に言えば「法」の課題だろうと思っているが、またおおや先生に叱責されるかもしれないなあ。
そして僕がベンヤミンの「神的暴力」を持ち出したので、実態的な暴力のレベルを僕は理解できていないヤツだ、「はあ」と呆られてしまったのでもあった(笑)。これは、他者からの侵襲性をどこまで容認するのか、という議論への僕の戦略的なズラシではあったのだが……(苦笑)。
ところでデリダは、「他者の歓待」は「善良な感情」から生まれるのではないという。

戦争、排除、外国人嫌いでさえ、私がが他者にかかわっていること、したがって、私がすでに他者に対して開かれていることを前提としています。閉鎖は、最初の開放への反動でしかありません。このような観点から見れば、歓待は最初のものなんのです。それが最初のものであるということは、まさに、私自身である前に、私がそれであるもの、自己ipse である前に、他者の侵入が、私自身へのこのような関係を打ち立てたのでなければならないことを意味します。言い換えるならば、私は、他者の侵入が私自身の自己性に先行したかぎりでしか、私自身への、私の《自宅》への関係をもつことはできないのです。(……)私はある意味では他者の人質なのであって、このような、自宅に他者を迎え入れつつすでに私が他者の招待客であるという状況、こうした人質の状況が、私自身の責任性を規定します。私が《ここに私がいます》と言うとき、私は他者を前にして責任があるのであり、《ここに私がいます》は、私がすでに餌食であるということを意味するのです(《餌食である》は、レヴィナスの表現です)。これは、緊張の関係であり、このような歓待は、まったく安易なものでも平穏なものでもありません。私は、他者の餌食であり、他者の人質であって、倫理は、こうした人質の構造に基礎づけられなければなりません。
デリダ『言葉にのって』p96〜97、ちくま文庫 ISBN:4480086137

法律家(実証法学)にとって、上記のデリダの他者論は〈寝言〉に聞こえるかもしれないが、近代法と言われる法思想の根底にある「利己性=自己保存」と「他者との共存」をめぐる〈権力〉の課題とは、ぜんぜん無縁ではないだろう。
と、今日はこれぐらいにして、引き続きおおや先生からの宿題を考えていきたい。