現代の貧困をめぐって。


論座」(2007年1月)の特集「現代の貧困」に掲載された、赤木智弘氏の論考「「丸山眞男」をひっぱたきたい」をめぐって、ブログで話題になっている。


「研幾堂の日記」の山下氏は、当の赤木論考を読まないで何方かのブログでの紹介文を下敷きに批判を書かれているようだが、これでは「誤読」の部分が多いと思う。赤木論考の書き方やそのタイトルも「誤読」を誘惑する体裁になっているわけでもあるのだが、山下氏は原文を読まれた上で批判するという初歩的な手続きを疎かにして、「推測」で論難されているようだ。(★追記:赤木論考への批判は、実はそれを読まれた上で危機感をもたれ、あえてレトリックとして「誤読」的に怒っているのかとも、僕は内心思いながら批判させていただきましたが、12/11付けの「研幾堂の日記」で、山下氏はその辺りの意図を書かれています。★12/11,10:36)それと山下氏は赤木氏のブログ「深夜のシマネコ」での、本人による「論座」掲載論考の補考を読まれたのだろうか?
しかしそのような山下氏の批評の欠点はあるにしても、当の赤木論考の意図を離れて、山下氏が言わんとすることには理解が及ぶのだが……。


それでとくに山下氏の「誤解」している、赤木論考のタイトルに関わる丸山眞男に言及した部分を下記に引用しよう。

 刈部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。
 戦争による徴兵は丸山にとつてみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとつては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。
 丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。
 社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。
論座」(2007.1)p59より

と「プレカリアート(不安定階級)」の立場から、赤木氏は「「丸山眞男」をひっぱたきたい」と書いているのだが、

また、にしても、その平等的で、平和な社会をもたらした思想の代表者が、丸山真男とは、一体、何のつもりであろう。戦争の情念を一方に置いたから、その対極の平和の情念には、丸山真男が思い浮かんだ、ということだろうか。となると、筆者は、恐らく、その手の筋に、随分と教導されて来た人物であろうか。あるいは、丸山真男批判は、少し前の誰かに言わせると、インテリへの亜インテリのルサンチマンだそうであるから、このような物言いが思い浮かんで、ルサンチマンにまみれたフリーター若年層に合わせるとびったりくる、ということだろうか。とにかく、変な趣向の取り合わせである。
http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20061207

と山下氏が書かれている部分は、「誤読」を含みながらも核心において微妙に交差しているようでもある。たしか赤木氏は「ルサンチマン」を思想の梃子にするというようなことを、ブログのどこかで書かれていたように記憶する。
★追記:ルサンチマン」から生み出される<切実さ>は僕にもあるが、それは自分も他者も不幸にする「偏頗な思想」だと言わざるを得ないから「間違っている」。因みに、ここで遣われている「ルサンチマン」は、ニーチェが指摘した<ルサンチマン>とは位相を異にしている。★(12/8,19:02)

因みに赤木氏の「左翼」批判およびその心情を読まれるのもよいと思う。→http://www.journalism.jp/t-akagi/cat58/cat61/
同氏の「左翼」や「労働組合」への批判は、「既成/旧左翼」には当たっているだろうが、現況の「新左翼/新々左翼?」には、当たらないように思うが……どうなのだろうか?
いずれにしても赤木論考を論難するにしても、間接的に読むのではなく本人の直接の意見がWebで読めるのだから手間を惜しむべきではない。もちろんプレカリアートの心情を、とうぜんながら赤木氏が代表しているとは思えないだろうから、もう一人のプレカリアート「フリーターが語る渡り奉公人事情」のワタリさんの意見も参考にされるのもよいと思う。
なお二度に亘って言うこともないだろうが、プレカリアートがこの二人に代表されるわけではもちろんない。


もう一つの「歩行と記憶」の葉っぱ64さんのブログでは、「彼の思考は借り物ではない。シンクロできないけれど…」とコメントしながら、赤木氏の主張の勘所を要領よく紹介されている。その葉っぱ64さんのブログから引用させて貰う。

彼は格差問題を多くのサヨクが理解しているような、富裕層と労働者層間の貧困、すなわち、労組などに属する労働者が包括的に弱者側に属する、古くからの左翼的イメージの問題ではなく、
A「富裕層」とB「安定した労働者層」とC「不安定な貧困層」の3つに別れる経済問題として捉えているのです。彼が攻撃の的にしているのはAの「富裕層」ではなくBの「安定した労働者層」なのです。左翼論壇はA「富裕層」に対してBとCの連帯を主張するわけですが、そんなのは有効でもなく、欺瞞だと言うわけです。そうでなくて、「安定した労働者層」×「不安定な貧困層」の問題だと叫んでいるわけです。
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20061207

赤木氏は挑発的に「戦争」によって、BとCの階級差が無効になることを反語的に言っているように僕は読んだが、事態はそのようにはならないと僕には思われる。一時的にその階級が流動的になることがあったとしても、戦争状態の永続化はBとCを悲惨にするだけだろう。そしてAは戦争ビジネスで繁栄する。だからその戦略は間違っている。
★追記:さいきんは「貧困ビジネス」なる「社会的企業」を装う悪質なビジネスがあることを、件の「論座」特集掲載の湯浅誠NPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局長による告発記事で知ったが、僕はこの記事を全文公開したいくらいに怒っている!★(12/8,19:02)


また赤木氏はブログで、

とにかく、ワークシェアリングだの、ベーシックインカムだの、同一職種同一賃金などという、できもしない戯言はやめにしよう。バブルが崩壊して10年以上、なんにもできなかったのだから、これからだってできないと考えるのが妥当です。
 でないと、戯言をいうだけでカネを得ている人間が増長するだけでしょう。http://www.journalism.jp/t-akagi/2006/12/post_171.html

と書かれており、そのシニズムは強いのだが、「ワークシェアリングだの、ベーシックインカム」が一般的な議題になってきたのは、やっとこの数年ではないだろうか。僕は「これからだってできないと考えるのが妥当」だとは思わないし、時間はかかるだろうが、AやBの既得権益を解体して赤木氏や僕らの「生存の肯定」のために「富の分配」「労働の分配」「資源の分配」を実現することは喫緊の課題だ。そのためには「ワークシェアリングだの、ベーシックインカム」は可能的/必然的選択肢の一つだと思う。
どこかの経済学者が言うような経済政策によって「経済成長」を果たし得たとしても、A・B・Cの分断は固定強化されるばかりであろう。つまりエリート養成(勝ち組)と底辺労働者(負け組)の分断と再編、それが政府案の「教育基本法改正案」の狙いの一つでもある。

因みに、現状の僕はフリーターの赤木氏よりはそれなりに恵まれていると思うが、零細な自営業者(僕のこと)はいつ請負仕事がなくなるか潜在的に不安な日々を過ごしているのだし、Bの「安定した労働層」というのも本質的には幻想だ。いつでも会社はかんたんに解体・倒産する。(自慢じゃないが(自慢か?笑)、僕は同じ会社で二度の倒産を経験している。)だから彼ら(Bのこと)にとっても「ワークシェアリングだの、ベーシックインカム」を導入することは、収入や生活の質をダウンさせても「生活の安定」を目指す一点において共闘できるはずだし、その「決意」をもつべきだと思う。
しかしその「生活の安定」は、赤木氏が言うような「国民全員が苦しみつづける平等」ではないことだけは、確かだ。