フリーターは新自由主義の夢を見るか?〜「赤木論文」を読んで

kurotokage2007-09-17


 「論座」という雑誌に「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」「けっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで」という赤木智弘さんによる2本の論文が載り、話題となりました。
 若年貧困層の現状と展望について書かれたこの論文は、刺激的で心情的に理解できるところのあるものでしたが、私はなんとも言えない違和感を持ち、一定の理解はできても賛同はできませんでした。

 しかしchaturangaさんのエントリー「希望は、赤木智弘?」(チャトランガ夫人の恋人)を読んでその違和感がかなり晴れたので、私なりにこの「赤木論文」について思うところを書いてみたいと思います。

 ちなみに、私はweb上に公開された2本の論文を読んだだけで、赤木さんのブログなどはほとんど読まずに書きます(「論座」に掲載された「赤木論文」に対する反論も)。それ以前の、フェミニズム関連の論争で赤木さんの主張を読み、赤木さん個人に対する興味を失ったことにも原因がありますが、それ以上にweb上での言論よりも雑誌という形で世間に発表された言論を重視する必要があると思ったためです。

流動性は根本的な解決ではない

 「赤木論文」の一番の問題点は何か。それは“流動性”に拘るところにあると思います。
 社会が流動性を持てば、世代からくる格差が解消され、今の若年貧困層にもチャンスが回ってくる。しかしそれは単にチャンスが回ってくるだけであり、現在のフリーターやホームレスといった立場の人間が上へ這い上がれるという保障はありません。

 戦争などによって社会の状況がリセットされ、理想的な流動性が生まれたとしても、それはすぐに“個人の能力”による格差で固定されます。今現実に這い上がりつつある赤木さんのような、(赤木さんの主張を前提とすれば)世代による格差によっては下に追いやられても実力によっては上へ這い上がれる人間にとってはそれでも良いのでしょう。
 しかし「世代による格差でも能力による格差でも上へ上れない」人間にとっては、どちらも同じことでしかありません。むしろ現在中小企業の正社員やフリーターなどの「何とか食っていける」という立場の人間にとっては、上へ這い上がることどころかホームレスなどのより下の立場へ落とされることも覚悟しなければならない。
 “格差社会”の根本的な問題が解消されなければ、そういった人間はやはり捨て置かれたままです。

 つまり、“戦争”の先にある“流動性”のさらにその先にあるものは、けっきょく、「自己責任」でしかありません。

若者は本当に流動性を求めているのか

 多くの人は、世代からくる格差よりも個人の能力による格差の方が“健全”だと思うかもしれません。しかしそれは物差しの単位が変わるだけであり、下に追いやられる人間にとっては健全であるかどうかなど初めから問題はありません。

 では今最下層に追いやられている人間の多くが、「流動性が生まれれば俺は這い上がってやる」と考えるかと言えば、それも怪しいものです。
 長い間、上の人間からの指示どおりに単純な労働をこなすことを続けてきた者が、「這い上がってやる」という“意欲”、というより、自分自身の能力に対する“自信”を持てるか。私の周りの人間や私自身を振り返ってみても、それはほとんど無いと考えます。

 むしろ、下層に追いやられる若年層こそがより強く“安定性”を求めるのではないかと考えられます。何とか食っていける中小企業の正社員や一定以上の収入を確保できているフリーターや派遣労働者は、岩にしがみつくようなギリギリの立場だからこそ、それに対する執着は強いのではないかと。彼らはまだ下のある中間層とは違い、その下は食っていけないレベルのフリーターやホームレスしかありません。
 私自身、長年のフリーターを経て、バイトからの登用という形でなんとか正社員となり約一年半経ちました。正社員といってもほぼ毎日残業でありながら年収300万以下、そもそも会社自体がいつ潰れてもおかしくないところです。それでもなお私は今の地位を手放したくない。学歴も、他人と比べて秀でた能力もない私は、今フリーターになって再び正社員になれる自信はありません。
 そして多くの若者もそうでしょう。「はてな」などのブログ界隈を眺めていると勘違いしそうになりますが、半数以上は大学にいっていおらず、ほとんどの人間は秀でた能力など持っていない、容易に「代替可能」な存在です。“這い上がれる自信”を持てる根拠などないのです。

 また、毎日長時間の単純労働に従事している人間にとって、退勤後や休日の趣味に費やす時間こそが、生きる上で欠かせない糧となります。ゲームをしたり漫画を読んだりコンパに行ったり。そういった他人から見てどうでもいいようなことを幸せと感じ、大切にし、日常を維持します。
 しかしひとたび戦争などの社会の状況をリセットするような事態となったとき、そういった趣味などを続けられる保障はありません。そういった日々のささやかな“幸せ”を手放したくないと、多くの人は考えているのではないでしょうか。

 “若者の右傾化”、というより正確には“保守化”は、そういったことに基づいていると私は考えます。

問題は何か

 “格差社会”と呼ばれるものの何が問題なのか。それは“格差”そのものが問題ではないはず。年収1000万と500万の格差など、ガチガチの共産主義者でもないかぎり問題とはしないはず。年収500万と100万の格差は問題だけれども、格差があること自体はやはり問題ではないはず。それは年収100万という自立して食っていくにはとても苦しく、なおかつその状況に対する保障がほとんどないことこそが問題であるはず。問題は“格差”ではなく“貧困”ということ。
 そこに“流動性”が何の意味を持つのでしょうか。貧困層に追いやられる人間が入れ替わるだけであり、やはり一定の貧困層は存在しつづけることになります。それでは何の解決にもなりません。

 必要なのは最下層でも“希望をもてる生き方”ができる社会保障。その社会保障に必要なコストは富裕層から持ってくることになるので結局“格差”も問題になるわけですが、ともかく“流動性”はそれが確保できた後に求めるべきものではないでしょうか。

左派批判は良いけど、それは的を射ているのだろうか

 赤木さんは左派が若年貧困層を放置していると批判をおこなっていますが、本当にそうなのでしょうか?私は「世界」や「週間金曜日」といったガチガチのサヨク雑誌を読んでいますが、そこでは特に近年、非正規雇用や若年貧困層についてたびたびとりあげられています。そもそも社会保障の充実の必要性は、左派が昔から訴えてきたことではないでしょうか。
 私はサヨクだけど左派の歴史について疎いので自信はありませんが、その左派批判は的を射ているのか疑問を感じます。

 しかしそれ以上に疑問なのは、左派の求める“平和(反戦)”が、本当に若年貧困層の救済と対立することなのかということです。
 赤木さんの言う“戦争”というのは現実的な意味での“戦争”ではなく、流動性を生むために社会をリセットする上で必要な要素としての象徴的なものだということで、それは“隕石落下”でも“宇宙人襲来”でもいいようなものでしょう。なら、それは左派の言うところの現実的な“戦争”とは“違うもの”であり、初めから話がすれ違っています。
 もし赤木さんの言う“戦争”が現実的なものを意味するなら、それは「戦争は格差を解消しない」というツッコミで終わるものです。違うのであれば、左派の“平和(反戦)”と相反するものではありません。

 若年貧困層の救済のため本当に必要なものが“流動性”ではなく“社会保障”であるなら、“平和”や“安定”は必要不可欠なはず。不安定な社会状況でそういった制度を維持するのは困難なことです。

希望は、平和。

 考えてみれば、低学歴・低所得の人間なんて沢山います。大卒は半数以下、一流大学出のエリートはほんの一握りでしかありません。中間層も、今の勤め先が潰れたりクビになったりすれば再就職の困難な人達です。社会保障の充実を必要とする人達は、決して少数派とは言えない、というかむしろ多数派でしょう。
 であるなら、“戦争”などの方法ではなく、選挙の積み重ねという方法でそういった方向に社会を導くことは不可能ではないはず。

 赤木さんが若年貧困層の代弁者であろうとするなら、また、赤木さんに希望を見いだし彼をオピニオンリーダーとするのであれば、“戦争”という脅し文句まで使って求めるものが“流動性”であってはならないのではないでしょうか。