天才がのぞいた虚無と等質の虚無

仙台フィル 復興定期より、以下のコンサートを聴く。

2011年5月20日(金)
午後7時開演(午後6時30分開場)

出演
指揮    :下野 竜也
クラリネット:日比野 裕幸

モーツァルトクラリネット協奏曲 イ長調 K.622
ベートーヴェン交響曲第2番ニ長調 作品36

モーツァルト。圧巻は2楽章。目の前で何が起こってるかわからない。とにかくこれでもかという最弱音に、音楽は向かっていく。それは何か、世界がそこに向かって形を変質させ、さらにその先にある静寂に突入していったようであった。アニメ「風の谷のナウシカ」で、オウムの怒りが大気に満ちるが、しかし、その後、風の谷でとまった事のない風が止まってしまう、そうしたときの虚無のような。

別に、アニメのことを引き合いにだす必要もない。でも、その記述はここでは控える。自分らはアニメではない現実を生きて、ここにいるのだから。

さて、

しかし、(あるいは「なので」)、最弱音で、そのことに背筋がざわざわという感じでもない。「なんだこれは」という単純な問を、単純な問のまま保留しているに過ぎない、自分の心の状態があった。

終楽章は上質のスイーツを味わうごとく、品格と躍動感の見事な結晶を奏でていた。でもその中でもやはり、2楽章の、「なんだこれは」という単純な問は、保留したままだった。

ソリストの日比野さんが仙台フィルに入団したのはいつのことだっただろうか。自分は高校生の時、仙台フィル、そのときはまだ名前が宮城フィルだったか、の定期に通っていた。ブルックナーのロマンティック、スメタナの我が祖国、リストの死の舞踏でソリストが花房晴美、ラヴェルのダフニスとクロエ、そして両手の協奏曲でソリスト藤井一興、そんなプログラムが記憶に残る。それは日比野さんの入団前ではなかったか。

仙台フィルに入団後の日比野さんはまた、当時の学生の自分たちにとっても、距離の近いプロフェッショナルな存在であった。地方の若者を決して上から目線でなく、音楽を志すものへの敬意をもって接してくれた。自分が日比野さんからかけていただいた言葉は機会は少ないが、どれも、鮮明に印象に残るものばかりである。

本番がどうしても苦手な学生に即興をさせ、本番の苦手意識を克服させたレッスンの話、とか、世の中にはリムスキー=コルサコフのシェヘラザードオタクがいる、とか、音程のいいピアニストと悪いピアニストがいる、とか、自分がハイドンの協奏曲のソリストを務めたときに「よかったよ」と声をかけていただいたことも忘れられない。また、モツレクの一部が空耳アワーとしてどんな風に聞こえるか、などとてもここにかけない内容のことも、おもしろおかしく、楽しく語ってくれた。

また、日比野さんは演奏会でその姿をよく見かけた。仙台フィルの団員がリサイタルをする、それを聴きにいくと、必ずといっていいほど、日比野さんが客席にいた。

日比野さんはこの春、仙台フィルを退団し、自分の母校でもある宮城教育大学に音楽科の教授として赴任し、後進の指導にあたっている。そこにどんな葛藤や決断があったのかは自分はわからない。

しかし、くしくも、この日、日比野さんをソリストに迎えての復興定期の演奏会は、日比野さんの新しい門出を祝した、壮行演奏会のような意味合いも感じずにはいられなかった。

演奏後、日比野さんは何度もステージに呼び戻された。客席ばかりではなく、団員からも盛大な拍手をうけていた。日比野さんが、客席に礼をし、またステージ上の団員に向かっても、同じように深々と礼をしたとき、自分は溢れそうになる涙を抑えることが難しくなってしまった。

>あの人が振るだけで、オケが鳴り出す。
>  ・
>  ・
> あの人はきっと、音楽を、人を尊敬してて、それが自分に返ってくる。
> はるか遠く・・・ 本物の巨匠なんだ―――

とは、二ノ宮知子作のマンガ「のだめカンタービレ」の中の、登場人物の一人である、千秋真一が、師匠のシュトレーゼマンについて語ったセリフである。

この日、自分は日比野さんの演奏に触れ、日比野さんの入団から退団までの日々、そして今後の門出をおもうにつけ、日比野さんこそ「音楽を、人を尊敬してて、それが自分に返ってくる」ひと、そのものなんだなあ、ということを実感させられた。

さて、圧巻の2楽章について、自問に自答しよう。

内田光子ドビュッシーエチュードはCDもすばらしいけど、動画になってる(自演解説付)のも、光子節炸裂(しかもドイツ語)で興味深い。彼女はモーツァルトの音楽には、何か「怖ろしい」ものがある、といっていた記憶がある。

モーツァルトという天才がのぞいた虚無と等質の虚無を抱いている 」とは、ピアニスト神谷郁代に送られた賛辞である。

クラリネットソロの日比野と仙台フィルによって奏でられたモーツァルトの協奏曲は、2楽章で、まさに、モーツァルトという天才がのぞいた虚無の領域に、達したのではないだろうか。

そしてそれは、この日のソリストであるクラリネット日比野の、音楽を尊敬し、人を尊敬し、それが自分に返ってくる音楽家としての生き様が、仙台フィルの団員によって共感され増幅され達した、音楽が垣間見せる怖ろしい深遠だったと思う。

たとえばペンデレツキが「広島の犠牲者への哀歌Tren ofiarom Hiroszimy」で、あまりにも直接的に表現しようとした音楽世界に、モーツァルトの緩徐楽章が、背後から完全に気配を消して、冷え切ったナイフを首筋の急所にあてるように、迫った、迫力があった。

クラシック音楽を演奏することについて、プロフェッショナルであるということの、凄みを感じた。

「音楽史を変えた五つの発明」を読んだりしてた。そういえば。

ベートーヴェン。この日出演した仙台フィルファゴット奏者の水野さんのツイッターでのツイートが興味深い。

仙台フィルファゴット奏者 水野さんのツイッターはこちらから。
http://twitter.com/#!/kazbs

>リハーサルの録音聴く限り、熱いベト2になりそうな。オーバーブロー、上ずりには注意しつつ、下野ワールドを楽しみたい。
(水野さんのツイートより)

オーバーブローを心配するようなリハーサルは、多分功を奏したのではないか。仰られるとおりの、熱のこもったべト2でした。感動!名演!

いろんなところで最近ちょくちょく書いたり言ったりしてるのだが、自分は不惑を迎えて、ようやく、といっていいのか、ベートーヴェンの音楽にやられている。ベートーヴェンのその音楽の、ものすごさ、を、いままでにないくらいひしひし感じ始めている。10代には、歴史的知識としてのベートーヴェン以上に、感受できなかったことが、なんだか、肉感的に迫りだした。最近ではカラヤンベルリンフィルの7番のシンフォニーを聴いて感動して泣いてしまったりなど。

交響曲を、では、1番から聞き込もうと決心し、1番、2番と聴き進むが、2番って、難解じゃないですか?どうですか?

難解ってどういうことかというと、2番の1楽章は長い冒頭は思い浮かぶものの、肝心の第1主題が思い出せない。2楽章のメロディーを思い出そうとすると、1番とか5番とかがでてきてしまう。3楽章も。4楽章は、この演奏会での演奏を聴いてようやく入ってきた。

この日の指揮者であるマエストロ下野はステージトークで「日本で二番目にマニアックな指揮者の下野です。自分がプログラムを選んでいいといわれて、この2番を選びました」といっていたり、また、水野さんのツイートからの引用になりますが、

>昨日の終演後の男性楽屋で「良い曲だね、ベートーヴェンの2番」の声が。こういう言葉が出るのは珍しいこと。マエストロ下野に感謝。
(水野さんのツイートより)

客席にいた一聴衆に過ぎない自分にそれをいうだけのものがあるのか、生意気なんですが、「なるほどね」と思う。

なんか、特に1楽章など、現代建築みたいな曲に思います、ベト2。構造も計算されているし、それを支える論理もしっかりしてる。しかし、出来上がってくるものが、凄くモダンなものがあると。交響曲の1番から2番への、技法上のいろいろな発展は、それなりに注意深くならないと、ちょっと聴いただけでは聞き逃してしまう差異なのかもしれないが、交響曲第2番の、演奏者ではなく、聴衆として鑑賞したときの、微妙なメロディーの覚えにくさと、しかし動機(旋律の小さな区切り)の有機的な関連など、ベートーヴェンらしさの萌芽が一気に熟成してることが感じられる。

さらに、水野さんのツイートから、いくつか引用させていただく。

>一回目はゲネプロもない中での緊張状態、二回目はインターバルが40分位しかない肉体的疲労との戦いの本番、疲れたのは確か。でも楽しかった!否定的に見られた(聴かれた)らキリがないけど。
>聴いて下さったお客様の評価は分かれるでしょう。現実あれこれありましたし。評論家的、審査員的、減点中心な聴き方だったらNG出ても…

自分にとって難解なベト2の魅力になんとか迫りたい一心から、自分はポケットスコアを目で追いながらベト2を聴いたわけである。そういう聴き方は或いは評論家的、審査員的、減点中心的な聴き方につながるとみられるかもしれない。しかし、いやいやどうして!

これにNG出すなら近年の定期の(もちろん震災前ですよ)、あの回の、○日目とか、どうなの、とかあったし、演奏としては破綻のないものの、ソリストの音楽性みたいなのが自分はたぶん、どうしても生理的に嫌で、変な気分を抱えて、帰ってきたこともあった。

もちろん近年の定期の自分にとって最もすばらしかったものも上げておく。河村尚子ソリストに迎えたシューマンのピアノ協奏曲は指揮の山下さんも、オケの仙台フィルも、そしてもちろんソリストも本当にすばらしかった!

でもいろいろあるのが、ライヴの、生演奏の醍醐味じゃないでしょうか。

今回のベト2は、下野さんの棒、解釈、思いっきりのよさ、それでいながら丁寧さ、そして、仙台フィルのアンサンブルの妙と、それらが一体化した熱が伝わってきた。

スコア見ながら聴いてて、現実あったあれこれを指摘できない自分の、ソルフェージュ能力なんてたかが知れてますが。音色とか音程とか微妙なタイミングのずれとか、あったのでしょうか?いや、真面目にわかりませんでしたし、仮にあったとしても、それをカヴァーしてお釣りがくるほどの、指揮もオケも、さすがプロといえる、表現のクオリティーがあったと思う。復興定期を聴いて今夜が二度目だが、ゲネプロなどのスケジューリングをはじめ、さまざまな環境や条件も、思わしくないだろうに、プロフェッショナルであることの底力を、たとえば震災前の定期での演奏以上に、感動的に感じさせられている。

最後に。ではどんな聴き方がNGを出すという聴き方につながるのか。(そんな聴き方なんて想像したり仮定したりしたくはないけど)。それは、ひとえに録音文化がもたらした功罪の、罪に起因するとおもう。演奏家の演奏技術が飛躍的に向上し、また録音文化も熟成し、ライヴでもとめられる完成度と録音物に求められる完成度の浸透圧に差がなくなった結果、確かに「古き良き名演」という言い方を、よく耳にするようになった。

河村尚子のクオリティーの高さの側面のひとつは、この熟成した録音文化の時代にあって、それに耐えうる演奏の精度の高さに加え、まるでフジコへミングに匹敵するライヴ感が、演奏にあること、と自分はおもう。

「自分はこんなにさらってきました、いつでもCDみたいに演奏できます。」みたいな演奏なんて、家でCDを聴いてることで、事足りるのである。そんな演奏をわざわざホールに聴きに行きたくない。いろいろやっちゃうことの可能性とのうらはらに、ライヴの面白さがある。そして、そこで何かが新たに立ち現れてくる奇跡がある。

さらにいうなら、今回のベト2にNGをだすひとは、自分が生理的に嫌だとおもったソリストの定期の会を、すばらしいとか、言うのだろう。でも、そういう評価の差も、あり、なんじゃないか。わが街にプロオケがある!なんて幸せなんだろう。仙台フィルのみなさんに、(演奏家だけじゃなく支えているいろんな人の有形無形の力も含めて、)感謝するとともに、今後も沢山のすばらしい演奏に出会えることよう、こころから祈りつづけたい。

音楽史を変えた五つの発明

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