沢知恵さんのこと

〜類希なアウェー力(りょく)〜2016/11/19 福島県須賀川でのライブを聴いて

 沢さんのライブを聴くのは二度目である。その二度目で、なにより強く実感したのは、類希なアウェー力(りょく)のことだ。たとえ敵が武器や魔法を駆使してきたところで、こちとら、そうしたものは必要ありませんと言わんばかりの戦闘力というか、無人島でなにもないところからでも、なにかをスタートさせてしまうような、源からのパワーというか。

 二度とも入場無料のライブだった。ではライブに関わる費用はどうなっているのかというと、ともえ基金という沢さん自身が設立し運用している基金から捻出されている。

 ともえ基金は沢さん自身の基金でありながら、沢さんの活動を費用の面から全面的に支援している、という形をとっている。その沢さんの活動には、瀬戸内海でのハンセン病の療養所でのコンサートや、少年院でのコンサートが含まれる。

 今回のコンサートも入場無料である。また、コンサートの司会をつとめ会場を提供した教会の神父さんから、基金への寄付の呼びかけもあり、沢さんのCDの販売もあった。自分は初めて訪れた沢さんのライブも基金での入場無料コンサートだったのだが、そのときはCDを購入し、基金にも、わずかばかりの寄付をさせていただき、今回はCDを購入した。

 沢さんは、韓国人のお母様と日本人のお父様がいらっしゃるハーフであり、お父様は牧師さんで、戦後に牧師として韓国に留学し、留学先で知り合った韓国の女性にプロポーズをし、結婚をして日本につれてかえってきた。すごい時代のすごい恋愛のすごい結婚をして生まれたという、沢さんの出生の背景に、なによりまず、胸があつくなる。

 沢さんは、東京芸術大学の楽理科に学び、在学中に歌手としてデビュー。そして、戦後はじめて韓国で日本語で歌った歌い手であるという、歴史的な存在という側面にも自分は触れたい。

 誤解を恐れずいうなら、ともえ基金といい、ハンセン病の療養所や、少年院でのコンサートや、コリアンハーフであることなど、という背景や情報の、意味が重く、一見、そういう(この、「そういう」というのはどういうことなのかは、後述します)人なのかと思ってしまうが、なんとコンサートに行き、生の沢知恵のうたを聴いてご覧なさいよ、あなた、沢知恵は、なによりミュージシャンとして、歌い手として、表現者として、プロ中のプロであるその、歌の、パフォーマンスに圧倒される。三ツ星レストランのシェフが炊き出しで腕を振るっているような情景が幼稚園に併設された教会の、おそらく毎日、演奏として弾かれるわけじゃない、年老いたアップライト(!)のピアノを携えて奏でられるのである。そのすごさに、なんか顔がにこにこしてきつつ、感涙し、圧倒される。 

 自分はクラシック音楽のピアノを習ってきた。いまも年に一度か二度程度ではあるが、機会があればレッスンにいっている。また、クラシックのピアノの演奏会も複数足を運んでいる。

 沢さんと、クラシックのピアノのソロ・リサイタルを比べても、っていう意見もあるかもしれないけど、先日聴いた「現在、現代最高のショパン弾きのひとり」ともいわれるピアニストのオールショパンのプログラムは、音響のある音楽ホールでスタインウエイで奏でられたが、パフォーマンスの精度は、沢さんのほうが、よりプロフェッショナルだった。

 クラシックのピアニストが音響のある音楽ホールで、多くはその人のチケットを買って、中には熱心なファンもいて(自分はそのピアニストのコンサートに足を運ぶのはそのときで5回目であったし、そのピアニストの現在発売されているCDは全部もっていて、その全部にサインをもらっている)というのは、沢さんのおかれた状況に比べれば、なんというホームグラウンドな環境であろうか。

 沢さんはライブの途中のMCで「私のコンサートに今まできたことがある人!」「コンサートにはきたことはないけど、名前は知っている人!」「今回が初めて、無料だし、つきあいもあるし、まあきてみたというひと!」というアンケートを聴衆になげかけ、やや自虐的なトークが自然な笑いを誘い、ライブに和やかな雰囲気を添えていたものの、そのMCでのアンケートの項目の最後が一番多い、無料コンサートなわけである。

 クローズドの前日のコンサートではおそらく相当弾きにくかっただろう古い古いアップライトピアノは、この日は沢さんの歌声をしっかりサポートして、なかなかごきげんであった。そう。どんなピアノでも弾き手でかわる。目が覚める。そんな(おそらく普段はプロフェッショナルな弾き手によって弾かれることなど滅多にない)ピアノでもあったわけである。

 なんというアウェーな環境だろう。しかし、それをプラスに変えるような、沢さんのパフォーマンス。すごい。かつて一国の元首が一アスリートに投げかけた言葉、「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!」どころではない、沢さん本人が、「ええ。今日はすばらしい聴衆との出会いがありました」(口調は将棋の羽生さんを想定)と、必要最小限にクールに、でもかっこいいという意味ではものすごくクールに、いってないけどいわんばかりの、アウェーな環境ってなに?といわんばかりの、圧倒的な音楽だった。すばらしかったですよ。

 表現者の背景の意味の重みを考えたとき、「そういう人」というのは、どういうことか。先日、別なコンサートを鑑賞した。コンサートには費用がかかるものであるが、復興支援ということで、無料になったものだ。そのコンサートは地球上の貧富の格差をスライドで紹介しつつ、すすめられた。冒頭の一曲目は、多くのシンガーのレパートリーであり、沢さんも取り上げることのあるアメイジング・グレイス。録音されたカラオケ音源を伴奏として歌われ、一曲歌い終わったあとに、「ここで拍手があるとうれしいです」とMCが入る。(沢さんが聴衆に拍手をリクエストするMCは、自分が足を運んだ二回のコンサートではなかった。)そのコンサートでは、貧困格差について、聴衆に疑問や、感動を与えるエピソードやスライドがあり、それに沿うように音楽がある。自分はそう感じた。

 それがレヴェルが高いとか、低いとか、そういうことが言いたいのではない。それはそれだ。もちろん本音として、自分がどう思っているかは、もうこの文章の行間にも滲みでてしまっているかもしれない。

 好き嫌いはおいておいて、そのような音楽のあり方はあるだろう。テレビCMには音楽の、主従の、従としてのあり方の、極北も、ごくたまに、自分は見かける。J・S・バッハのカンタータBWV147をBGMに使用したNTTDoCoMoのCMは、ため息がでるほどエッヂが利いていて、衝撃があり、感動があり、美しかった。

 考えてみれば歴史や社会の背景と全く切り離された表現などあり得ない。だからこそ、表現者の多くは、それらを意識しつつ、囚われすぎないバランスといったようなことに美徳を見いだすのかもしれない。より強度の強い、必然性の価値を見いだしたりするために。表現が独りよがりの自己満足にならないための、客観性といってもいいような精度を得るために。価値の根拠となる美意識は当然沢さんにもあり、それは多くの表現者にも共通のプロ意識を支えているひとつではないか、と自分は考える。

 沢さんが個性的なのは、表現者としての、自身や表現の、歴史や社会の背景を、わりと露わに引き受けている、背負っている、点だ。ふつうは「自分は、こんな背景があります(それは時に、不幸や障害があるほど、人を惹きつけたりもする。言葉は悪いが、同情という形をとったりして。)」ということは、それを美徳としないならば、程良くオブラートに包んだりする。もしくは徹底的に隠す。そうでなければ、もしくは、全面的にアピールし利用し、そうした受け取られ方と引き替えに、音楽の、表現としての純粋性が、二の次になってしまったりする。

 この、ここのバランスは思ったより難しいのではないか。

 表現には、社会的背景や、歴史的背景がある。それを知ることによって、表現をより深く味わうことができる場合がある。逆に、先入観や予備知識が表現の感受の妨げになる場合もある。

 沢さんからは、表現の背景や歴史が、くっきりと伝わってくる。それが必要最小限、つまり、過多でも過少でもないことは、沢さんのライブパフォーマンスを体験すると、よくわかる。気がする。そして、そのクオリティーを支えているのが、並々ならぬ沢さんのプロ意識から生み出される、パフォーマンスの精度だと自分は思う。そしてそのことは同時に、類希なアウェー力(りょく)の発露を生み出すことにもなっているのではないか。

 物語は表現の隙間を埋めていく。時に浸食する。表現が物語の奴隷になってしまうことは、ある。よくあるのか、たまにあるのかは、わからないが、物語られることに、人は惹きつけられる。「これはなんなのか?」というわからないことを、自分自身以外に、解説してもらうことは、安心である。

 沢知恵の歌の入り口には、物語がある。そしてそれは、やはり、人を惹きつける。しかし、それは最小限だ。

 沢知恵の歌の入り口にある、物語を通過すると、その奥には、歌がある。歌は歌でしかない。歌以外のなんの代替物としてではない、歌としての歌がある。

 沢の歌は、沢自身の物語から出発して、近くや、すこし近くや、少し遠くや、遠くや、ずっと遠くや、ずっとずっと遠くまで届いていく。ずっとずっと遠くに届く頃には、沢自身の物語はもはや、気配ですらない。しかし、そうなっていくということは、歌が、ほかの誰でもない、沢自身の歌となって、遠くの誰かに届いていくということだ。そして、その歌は、沢自身の歌であると同時に、みんなのうたにも、なっていく。

 そのプロセスに想いを馳せるとき、自分は灰谷健次郎の、「ひとりぼっちの動物園」の冒頭に添えられた詩を、また、思い出す。
 
 あなたの知らないところに いろいろな人生がある
 あなたの人生がかけがえがないように 
 あたなの知らない人生も また かけがえがない
 人を愛するということは 知らない人生を知るということだ
               (灰谷健次郎「ひとりぼっちの動物園」より)

 歌でしかない歌である、遠くまで届いていくと同時にみんなのうたにもなってしまう、紛れもない沢の歌は、歌でしかないのだけれど、祈りの形や、愛の形の相似を、垣間見る。

沢さんのウエブサイトはこちら↓
http://www.comoesta.co.jp/index.html