新・演奏会の感想の前に 2011〜(スタッフブログ’10 週末更新中 改め) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-09-23 「絶頂」サイコーだった!

「絶頂」サイコーだった!

「絶頂」最高でした。すばらしかったです。これちゃんとペイしてるのかな、と心配になりました。企画の言いだしっぺの誰かが、赤字を被ったりしてないかな、と。自分は絶頂のチケットを10枚買うべきだったと。それは言い過ぎです。自分の自由になるお金、小遣いの範囲では、それはさすがに厳しい。申し訳ない、想いの話です。しかし、すくなくても、習い事として弦楽器をやってる高校生の息子を、たとえ試験期間中であれ、つれていくべきだった。そうすれば、チケットが自分の分だけではなく、もう一枚の売り上げには貢献できた。

「絶頂」コンサートのチラシを見たときに、自分はなんだかヒステリックにディスってしまいました。その文章はこちらです→( http://d.hatena.ne.jp/kusanisuwaru/20180820/1534763095 )。地元新聞に「絶頂」コンサートの記事がでたときに、仙台がまるでいままで現代音楽不毛の地みたいになってて、そこに新しい風を吹かせたいみたいな、ものを自分が勝手に感じ取ってしまい、またしてもイライラしてしまいました。

その、ディスりや、イライラは、正直今も、本質としては自分のなかから、無くなっていません。それは自分のなかの嫉妬心や、劣等感に由来する部分も多々あるなあ、とは振り返ることができるものだから、です。でも、それゆえに、逆に、自分のディスりや、イライラが、「絶頂」コンサートに起因するとは、考えにくい、という見方もある。

演奏の質が最高だったのですよ。一流。だから有無を言わせない。それは美人だったら、礼装が求められている場に、ジャージで来てたとしても様になってしまう、みたいな、有無を言わせなさでした。自分はそれが美人であるかどうかわかる前に(つまり演奏を聞く前に)、そこジャージじゃないでしょう、ジャージはおかしいでしょう、と、わーわーわーわー言ってしまったようなものです。いま思うとかなり恥ずかしい。

さらにしかも、そのジャージのたとえだって、おかしな自分の勘違いのたとえかもしれない。なぜなら、それは「場」を前提としたの話なので。つまり、クラシック音楽とか、現代音楽を、どうとらえるかという前提は、ある人にとっては、礼装を求められる会場か、全天候型の陸上競技場なのか、ぐらいの差がある話でありますから。

演奏の質が一流ということは、どういうことか。やはりプロオケに就職できるレヴェルというのは半端じゃないなと。はんぱねー、ですよ。ドラフト1位ですよ。野球と違って、募集は1名とかの場合があるから、(っていうかほとんど?)ドラフト1位しか入団できないオーディションです。全国コンクールで優勝したぐらいでは、それは、プロオケの、必要条件の一つになるかもしれないけれど、まだまだ十分条件ではない。楽器がうまいだけでは、その楽器のプロ中のプロとして生き残っていけない。楽器がうまくて、さらに、金の取れるパフォーマンス(演奏)が、プロフェッショナルなレヴェルで、提供できるとの信頼を得て、入団募集の1名とかに、その楽器のエキスパートが多数しのぎを削って、そして選ばれたひとだけが、プロのオーケストラに入団できる。

そうしたレヴェルのカルテットが奏でる、シュニトケリゲティは、すばらしく至福な時間を提供してくれました。まいった。すばらしい。ブラボウ。これは確かにいままで仙台になかった新しい風かもしれない。自分が仙台、「これが現代音楽」だと思っているものとは、ある意味一線を画す、洗練や、質の高さや、志や、熱量がある。

だから、演奏を聴いたいま、「絶頂」について紹介していた地元の新聞の記事に、今まで納得できなかった納得が、心に湧き上がってくる。なるほどね。

絶頂に携わった方からすると、演奏家作曲家の方々からすると、それは、まあ、今まで仙台現代音楽不毛の地、もしくは、それはさすがに卑下しすぎというか、極端な物言いに針がふった言い換えを自分はしてるけど、でも少なくとも、「絶頂」を通して「これから」、「仙台」に、「現代音楽」という文脈はあるのだな、ということを改めておもい、自分の中にある、嫉妬心や劣等感や、イライラを差し引いたところで、もう一度、クラシック音楽祖先とした20世紀の音楽、21世紀の音楽、新作初演の、あり方について、整理整頓して、俺も音楽に携わるものとして、背筋をのばしなおさなければ、という気持ちにはなっている。

学校教育の場で、合唱や吹奏楽のコンクールの場で、「現代音楽」は、もう、ある。あるのだ。

そして、自分の文脈では、仙台の今までにも、今も「現代音楽」は、あったし、ある。そしてこれからもあるだろう。

でも俺の、あったし、ある、ということと、「絶頂」を通して「これから」、「仙台」に、「現代音楽」という文脈には、おそらく多少なりから、決定的の、どのくらいかは分からないが、なにかの、断絶がある。その断絶のひとつは、その表現が、どれほどプロフェッショナルなものであるのか、という厳しい自問も含む。自分は唸り、頭を垂れてしまう。

自分はこの「絶頂」コンサートが行われた、エルパークのまさに、ここの場所で、1990年代のことだったと記憶しているが、高橋悠治の「寝物語」を、ライブで聴いている。地元の音楽家のパフォーマンスで。

1980年代には、自分が高校生の時だったが、湯浅譲二本人が、音源を持ってきた「ホワイトノイズによるイコン」「ヴォイセスカミング」などを、本人のレクチャー付きで、仙台市内のホールで初めて耳にした。「絶頂」を記事にした地元の新聞の人に、そのとき高校生だった自分は、その湯浅譲二の個展を聴きにきた観客の一人としてインタビューを受けた。「興味深かったけど、果たしてこれが音楽といえるのか」という、いま考えると糞つまんない感想を述べてしまい、まんまと新聞に掲載された。俺の黒歴史である。

新聞は、現代音楽が、いままでなかったもの、あたらしいもの、と語られる文脈を、安易に採用してはいないか。現代音楽が、かつて現代音楽だったものが、その時代の音楽に変移する経年変化を、きちっと抑えることのできるジャーナリズムを持ち合わせはしないのか。歴史に照らした重層的なものを、微塵も意識しない表現は、いつまでも現代音楽現代音楽としか呼ばせず、奇をてらったもの、ゲテモノ、異物、としか認識されないことから、脱しないのではないか。ベートーヴェンは、当時の、ものすごく攻めた、気鋭の、とんがりまくった、現代音楽ではなかったではないか?違うか?

俺にとって仙台という街は、現代音楽と出会わせてくれた街だ。J・ケージの「4分33秒」を、仙台で、ライブで聴くのも、今回の「絶頂」で二回目だ。一回目は仙台フィル打楽器奏者の方が、スネアドラムを構えて演奏したものだった。また、それ以外にも、J・ケージのCredo in Us は、地元の人たちと一緒にステージで演奏した。

自分が大学で混声合唱団の演奏会のピアノの客演をしたときの演目は間宮芳生コンポジション第10番で、その演奏会の録音を間宮芳生本人に聞いてもらったことは、自分の中のかけがえのない音楽経験の一つとなっている。

だから、自分と「現代音楽」を、いろいろな形で、複数回出会わせてくれた「仙台」の街で、なんというか、繰り返すけど、「絶頂」を通して「これから」、「仙台」に、「現代音楽」という文脈があったとき、そこに自分が勝手に感じてしまう、断絶に、違和感が、あったのだ。今もある。

でも、その「違和感」をもちながら、「絶頂」コンサートを聴きにいったら、感動したのだ。演奏の質が高くて。そして、「絶頂」を通して「これから」、「仙台」に、「現代音楽」という文脈について、こころから、「そうそう!そうだね!」とはなれないまでも、その、演奏の質や、こころざしや、熱量で、その文脈に圧倒された。

すばらしかったです。

さて、それでも、言いたいことがある。つづける。絶頂のコンサートの賛辞が、つぎつぎSNSで拾われているながれに、心苦しくてはずかしくて、水を差してるかもしれないことを重々わかりたいとはおもいつつ、しょーがねー万年永年中2病のおっさんの言説をつづける。

振り上げた握りこぶしはグーのまま振り上げておけ相手はパーだ: (枡野浩一/「てのりくじら」より)

という、歌人の、枡野浩一さんの短歌の一首がありますが、俺はいま、まさにそんな心境だけど、つづける。

現代音楽が、不協和音象徴される難解さ、聞きづらさを根底に備えてる、そのようなものを紹介するのか、そのようなものと思わせつつ、そうじゃないものもあるということを紹介しようとするのか、そのどっちもなのか、チラシもパンフレットも、司会の秀作さんと演奏者の方のやりとりも、ぐるぐる、ぐるぐる、回っていた。

おれは、そのように感じた。

リゲティシュニトケと、大久保さんの新作と、ライヒは、表現のアプローチとして、違うし、そこを、その、表現のアプローチの違いを、どう際立たせるかといったところに、今回の第1回の絶頂コンサートの妙があったのではないか。

リゲティシュニトケは、吹奏楽部の中学生がアンサンブルコンテストの参考に聴きにきても、ものすごく参考になる演奏だった。というか、こういう演奏を生(なま)できいて、豊かな音楽経験を、音楽を志す10代の若者は積んでほしい。そういう意味では、この日のちょうど一週間前の、仙台フィルの定期に足りないものが、この「絶頂」にはあったとおもう。仙台フィルの定期も素晴らしかったけれど、「絶頂」のコンサートを聴くと、仙台フィルの定期は、あんなものでいいのですか、と憎まれ口をたたきたくなる。話題がそれた。本題に戻ります、ただ、大久保さんのウエブ上での発言に何回かキーワード的にでてくるように「拡張」がある。リゲティにもシュニトケにも。そして、その「拡張」はやがて歴史に回収されていく。それは時の流れの醍醐味であろう。リゲティシュニトケが、不協和音象徴される難解さを兼ね備えたまさに、現代音楽というなら、ドビュッシーラヴェルにだって、同じように不協和音があり、難解さがある。というのは暴論だけど、おれはそこまで暴論ではないとおもっている。オール現代演奏会です!と銘打って中身がドビュッシーラヴェルのみ、だったら違和感がある。そして、今や、ショスタコービッチとストラビンスキーと、武満徹プログラムを組んで、オール現代というのも、もはや、若干、違和感があるような21世紀ではないのか。1970年なら、それはまさにオール現代だっただろうけれど。そこまでではないにせよ、チラシもパンフレットも、司会の秀作さんと演奏者の方のやりとりに、感じた、ぐるぐるには、そうした違和感の、微量なものが混じっているように、おれは感じた。

司会の秀作さんがおっしゃっていた、だから、「今日の演奏会には、ベートーヴェンとかがなくて」、「全部デザートみたいな」というのには、違和感があった。ベートーヴェンは、当時の現代音楽だ。そして、リゲティも、シュニトケも、その作品が発表された当時は、ベートーヴェンが当時そうであったのに、拮抗するように(これはものすごいことだ)、時代やそれまでの表現に対して「拡張」があった。しかし、シュニトケも、リゲティも、21世紀には、現代音楽というより、20世紀の音楽になっていくだろう。というか、そうなるべきだと自分は考えている。

大久保さんの新作も、興味深く視聴させていただいた。ナム・ジュン・パイク、だったか誰だったかは、忘れた。曲名もセレナータ第2番だったかも、定かではないが、ステージに出てきて、ついたてになっている壁にパンツを掲げて、ステージから去るといったパフォーマンスが20世紀の作品にあったと記憶しているが、今回の演奏会で、一番そうしたコンセプチュアルな要素の高い作品に思った。

演奏者はこの曲の楽譜を完璧には再現できない。演奏の再現性の100パーセントの可能性を、最初っから一部放棄しているところに、この作品の魅力を感じた。示される楽譜に人間の反応がどうしても追いつかない瞬間が、はさまる。演奏は楽譜を、忠実に再現できないことが、もう予め準備されているかのようだ。これを人間が演奏せず、電子回路に音を出させるなら、楽譜の完璧な再現になるだろう。しかし、楽譜を完璧に再現することは、この作品は、志向しない。あくまでも、人間程度の処理速度による、電子回路による正確な再現はさせない、ということだ。クレタ人のウソみたいな、なんという、この曲の仕掛けだろう。音楽の著作権が問われるときに、演奏の再現性が問題になることがある。勝手なアレンジをするな、である。そうしたことにも、若干問題提起をしつつ、人間がこの作品にかかわるところに、ミソをもってくるところに、たとえばライヒへのオマージュを感じた。電子回路がシミュレートするアルゴリズムによってランダムに示される音も、おそらく作曲家のセンスによるセレクトが働いていると感じさせるものだ。つまり半音階のすべて、とかではない。それが、この曲のサウンドの核となっている。これは、ある意味、演奏家の、演奏技術としての、従来の習熟を必要としない。これは真面目な弦楽四重奏なのか。つまり、サウンド面は、作曲家がセレクトしたいくつかの音の組み合わせが、ふわわわーんと鳴り響いているだけにすぎないのだ。作曲家ならずとも、鍵盤楽器の鍵盤の、黒鍵の音だけを、ランダムにバンバンならしてみると、あらふしぎ、なんだかある国の民族音楽(たとえば、漠然と中国の、)みたいに聞こえる、みたいなのと、似ている。この曲は、サウンド面は、ある選ばれた音が、ランダムにバンバンならされるだけだ。そこにプロの演奏家としての演奏技術を感じさせる場面は、表面的には、ない。

ここでも、ライヒ作品のオマージュを感じさせるシステムの共通さ、を自分は思った。ライヒの初期の代表作である「ピアノ・フェイズ」は、前半「ミ ファ# シ ド# レ 」の5つの音しか使わない。後半にはそこに「ラ」と最初の「ミ」とオクターブ違いの、オクターブ上の「ミ」が加わり、最初の「ミ」と、「ファ#、ド#」が削られる。。サウンド的には、それらがランダムにバンバンならされたような混濁と、示されてくりかえされる音型の、ルールに従った厳密な反復と変化、があるだけである。ルールに従った厳密な反復と変化の実現にのみ、演奏者の技術は注がれる。

大久保さんの新作の弦楽四重奏が真面目な弦楽四重奏でないならば、ライヒにのピアノ・フェイズも、真面目なピアノデュオ作品ではない。それを裏替えせば、大久保さんの新作の弦楽四重奏曲は、ライヒピアノ・フェイズのように、まっとうなシステムとサウンドのあり方があり、そこに、電子回路がシミュレートするアルゴリズムを映像で提示するという「拡張」がある。大久保さん、俺の言ってること、あってますかね。

さて。ライヒの「ディファレント・トレインズ」。生で聴いたのは初めてだ。最高だった。ありがとう。この曲を生で聴ける日がくるなんて。悔しいし恥ずかしいけど、これは今まで仙台にはなかった志や、熱量だ。まいった。ごめん、ありがとう。すごいよ。これ。

俺が一番最初に購入したCDは、ライヒである。ライヒの初期作品集がそうだ。それまでクラシックレコードはそれなりにもっていたけど、時代の録音物がレコードからCDに変わっていった時代が、自分の10代だ。そんな中の俺のファーストCDがライヒ。なんでこんなにはっきり覚えているか。家にCDを再生できる機械・機材がなかったのにCDを購入したからだ。高校の同じクラスのいかにももうCDプレーヤーを持っているクラスメイトに、カセットテープと、セロファンの封も開封してないライヒのCDを渡してダビングをお願いした。

そのくらい俺にとって、ライヒは衝撃的な作曲家だった。名前が似ているから、当時、好きな果物のはライチになったくらいだ。今日、昼食にビックボーイでサラダバーを頼んだとき、ライチをみて、ひさしぶりにそのことを思い出した。ライヒライチも、なんだかごめんよ。

ディファレント・トレインズも、CDが出たてぐらいの時期に、購入した。大学のとき、作曲家間宮芳生先生が夏期集中講義の講師として、おれが通っていた大学にきてくださり、講座を持っていただいたが、間宮先生の著書で、(ライヒをはじめとする)ミニマル・ミュージックは造花のようだ、と否定的に書かれていたが、そんな間宮先生が紹介したライヒの作品が「ディファレント・トレインズ」であった。間宮先生に、ミニマルミュージックは造花とおっしゃっていたのに、なぜ、と直接きいてみたところ、この曲は、違う、とのことだった。

今回、ディファレント・トレインズを生で聴いてみて、ああ、これはARオーギュメンテッド・リアリティー)なんじゃないか、と思った。全部音源で再生してもいい。でもそれは、CDなどによる録音を聴いているのと同じ状態である。複数のカルテット、インタビューの断片、汽笛、サイレン、鐘の音、などをパートとすると、生のカルテットが担当するのは、そのうちの一つである。それらが、あらかじめ録音された音源と一緒に演奏される。そこに意味がある。大久保作品との、作品ありようで、通じるものを、ひしひしと感じる。

秀作さんのMCもすごくよかった。「30分近い作品なんですけど、ずっと鳥肌が立ちっぱなし」。うん。ですよね。ですよね。だから、今回の演奏会、全部がデザートじゃないです。ライヒがメインディッシュとして明確に構成されてるように、自分は思いました。アンコールがデザートの4分33秒。これは、演奏者が何もしなくても、聞こえてくる音は必ずある、その音に耳を澄ます、という作品。会場から、演奏者が何もしないと、かすかに、道路からのクラクションが聞こえてきて、まさに4分33秒。お腹の鳴る音も、咳払いも、4分33秒がシステマティックというよりはあまりにも根源的に哲学的に提示した結果の、この曲のサウンドそのものです。楽譜もちゃんとあって、4分33秒で画像検索してみてください。たどりつきます。そして3楽章構成になっていることがわかります。この日の4分33秒は、ちゃんと楽章間を、アタッカにせず演奏されました。前菜がシュニトケと、リゲティ。なんてこりこりの前菜でしょう。全部デザートじゃないですよ。

秀作さんのMCに答えた川又さん、瀧村さんのインタビューもよかった。ライヒのディファレント・トレインズについて。「この曲、曲としては悲しいとか暗いとかは、全然ないんですが、演奏し終わったあとに、ずどーん、としたものが残る」「音楽の力を感じる」

1stヴァイオリンの川又さん。ヴァイオリン激ウマでした、すごい。しかもインタビューに答えてるときは、気風のいいシャキシャキのお姉さん風なルックスですが、楽器を構えて横からみると、美しさがスーパーサイヤ人。何度か見とれてしまいまいした。すみません。

ディファレント・トレインズのときは、ヴィオラの飯野さんが突出してノリノリだったように感じました。ヴァイオリンの女性のお二人は、シュニトケリゲティの時に比べると、ディファレント・トレインズでは、すこし表現を抑えているように。自分は飯野さんのように、全員がノリノリになる感じが好みだなって思ったりしたり。

あと、カルテットすべてを通して、1stヴァイオリンに対して2ndヴァイオリンが、バランスを取っているように感じました。そのような様式美、ということかもしれないですが、これも自分の好みとしては、ときに1stの存在を脅かしてしまうような2ndヴァイオリンというバランスのとり方も、あってもいいのでは、と思ったりも、また、したり。

あと、「絶頂」というネーミングとか、これが今日のカルテットの名前なのか。せっかくこんなに素晴らしいのなので、ヴァイオリンの女性のお二人の意見的にどうなのか、自分はカルテットに名前があって、そのほうが紹介しやすかったら、そういうのもあってもいいのかな。と。

あと、漢字の二次の熟語のかっこよさは確かにあるので、第二回は「拡張」とかでもありかなと。そしてカルテットには名前を。旅にでるときはほほえみを。すべての鳥に鳥の名を。(←この2つの文章は、敬愛する歌人の正岡豊さんのマネです。)

第二回もぜひ。ぜひ開催してください。