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2010-12-17
■[断章]
ダダイズムの詩を作るためには
新聞を手にとりなさい。
鋏を手にとりなさい。
自分の詩に与えるつもりの長さがある記事をその
新聞から選びなさい。
その記事を切りぬきなさい。
それからその記事を構成する言葉一語一語念入りに切りぬきなさい
そしてその言葉を袋に入れなさい。
袋を静かにゆさぶりなさい。
それから切ぬきを一枚ずつとり出しなさい。
袋から出てきた順番にしたがって
心をこめてコピーしなさい。
詩はあなたに似たものになるでしょう。
そして今やあなたはこの上もない独創性と魅力的な感受性をそなえた
作家になったのだ、たとえいまだ俗衆に理解されないにしても
- 作者: トリスタン・ツァラ,宮原庸太郎
- 出版社/メーカー: 書肆山田
- 発売日: 2010/04
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2010-12-13
■[断章]
詩にとって詩であることがすべてである。詩について語ることの意味はどこにあるのかきわめてわかりにくくなっている。詩について語ること自体が困難なのだ。現在、詩は詩についても語ることを困難にするように存在している。鮮やかな個性も存在しえないし鮮やかな旗印も存在しえない。また鮮やかな言葉の色彩も匂いも存在しえない。なぜ書くかという問いが詩なのではない。何ものか物象の関係の次元にあるものから書かされているから書くのだ。詩人はじぶんが書いているのだと思い込んでいる。し、書かせているのはせいぜい編集者だと考えている。けれど無人称の何かによって書かされている痕跡ばかりは歴然としている。その拡がりと規模のためにかりに風俗とか大衆現象とか呼んでみてもじつは適切ではない。もっと無人称の何かに書かせらているのだ。
『修辞的な現在』 吉本隆明
- 作者: 吉本隆明
- 出版社/メーカー: 思潮社
- 発売日: 2005/05
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2010-12-05
■[断章]
知られるかぎりのランボーの最後の詩作品は、極点ではない。たとえランボーが極点に到達したとしても、その極点の交感には、おのれの絶望という手段を介さなければ到達はしなかった。彼は可能な交感を抹殺してしまい、もはや詩作品は書かなかったのである。
『無神学大全 内的体験』 ジョルジュ・バタイユ
- 作者: ジョルジュ・バタイユ,出口裕弘
- 出版社/メーカー: 現代思潮新社
- 発売日: 1989/10
- メディア: 単行本
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2010-12-01
■[感想]
- 作者: 谷川俊太郎,大岡信
- 出版社/メーカー: 思潮社
- 発売日: 2004/12
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少し前に両名の別の対話集(『詩の誕生』)を読んだのだが、個人的にはこの『批評の生理』の方が面白く読めた。
タイトルにもあるとおり「批評」が大きなテーマとして据えられており、大岡、谷川の両名が互いの詩を「批評しあう」というのが本書のメイン企画となっている。
異なる視点をもった両者の対話は実に面白い。(本書を読んで大岡信がより批評家寄りの人間であることを再認識させられた)
本論とは多少外れる部分ではあるが興味深い対話が展開されていた。
もう一つ僕にとって重要だったのが、創元選書版の小林秀雄訳『ランボオ詩集』だった。小林秀雄訳ランボオというのは、旧制高校の寮で文学に関心のある人間だとたいてい最初に夢中になる本の一つなんだけど、これは翻訳以上のものという感じなんだね。とくに、本の冒頭の長文のランボオ論三編、なかでも戦前にかかれた(一)と(二)に、みんないかれてしまう。ランボオに惚れていた若い連中の大半は、実は小林秀雄の眼鏡を通してみたランボオに惚れていたんだ。
この小林ランボオをいうのが、絶対糺問者とか、言葉の局限を生きた人とか、その果にミューズを絞め殺して十九歳ですでに文学を捨てアフリカへ立ち去った野人とか、まあそういうところを強烈に印象づける論でしょう。詩人であろうとするならば、言語の世界と切り結んでそれを踏みにじって捨てていくような、野蛮な生命力に満ちた男らしい人物でなければいけない。そんなふうにアジテートする。これは強烈なパンチです。詩を書きたいと思っている少年にとって、自分と同年ぐらいの天才がすでに美の世界を究めつくしてアフリカに去った、その行為そのものが素晴らしい詩的な行為である、というふうに書かれると、どうしていいのかわからないってことになる。
これは大変的確な論であると思う。
いま思えば私もまた小林秀雄の語るランボーに魅せられていたのだろう。
思えば真面目に文学少年をしていた中学生時代、当然の習いとして中原中也を読み、また必然の流れとしてフランス象徴主義に流れていった。
そして先にも挙げたようにランボーとの邂逅を遂げた。
ただ私がはじめて読んだのは「創元選書版の小林秀雄訳」のものではなく新潮文庫版の堀口大学訳『ランボー詩集』だった。
そしてその初読から受けた感銘はさほどのものではなかったように思う。
少年時代の私に強烈な印象を与えたのはその後、手に取った河出書房新社発行の『文芸読本 ランボー』という本だった。
この本に収められた小林秀雄を筆頭とした種々の評論はまさしく「絶対糺問者とか、言葉の局限を生きた人とか」といったランボーのイメージを印象付けるものだった。
アンドレ・ブルトンは『シュルレアリスム宣言』のなかで彼のことを次のように評している。
「おそるべき通行人」ランボーは十代にして詩人としての極致に至る。
その後彼はいとも容易く詩を捨て去ると、19歳で商人としてアフリカへと旅に出る。
そして29歳の若さにしてこの世を去っている。
ランボーの生き様はよくある「夭逝の天才」たちの人生とは弱冠異なるものだ。
彼は詩人である以上に実践者であり行為者であったのだろう。
詩人であることと行為者であることが共存する点がランボーの最大の魅力なのではないだろうか。(中原中也がランボーよりもヴェルレーヌに惹かれていたのも何となく理解できるように思う)
表現者として未熟な少年たちにとって、表現者としてだけでなく行為者としても完成された同年代の存在は衝撃以外の何ものでもない。
大岡の述べるようにランボーと出合った文学少年たちが「どうしていいのかわからないってこと」になるのは当然ともいえることだろう。
十代の私もまたランボーから受けた衝撃に半ば呆然としてしまったものだ。
ところで話は変わるが、少し前の記事に書いたとおり先月、私は29歳の誕生日を迎えた。
ランボーだったらもうじき死んでいる年齢だ。
文学少年だった頃から十余年、未だアフリカにも旅立てないでいる私は再び「どうしていいのかわからないってこと」になっている。
- 作者: アンドレブルトン,Andre Breton,巖谷國士
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2010-11-27
■[断章]
真夜中はまだましだ。目が醒めても、また眠れる。一時や二時も、寝返りをうつことはあっても、すぐ眠ってしまう。また、朝の四時とか五時は、夜明けが地平線のすぐ先まできているので、希望がある。しかしながら、午前三時という時刻は、まったくいけない! 医学者の説によれば、その時刻は人体の干潮に当たるという。魂がぬけ、血液の流れは緩慢になる。死をまぬがれてはいるものの、最も死に近い状態にある。眠りは死の一端であるといえるけれども、しかし朝の三時のそれは、かっと目が冴えて、さながら生き埋めになっているようなものだ! 目を開けて夢をみている。もし起きあがる力があるのなら、そのうつつな夢を猟銃で射ち殺すだろう! だが、そんな力はない。干からびた井戸の底に釘づけになっているのだ。月は天空をめぐりながら、呆けた顔で彼を見おろす。日が昇るまでには、まだ遠い。
『何かが道をやってくる』 レイ・ブラッドベリ
- 作者: レイ・ブラッドベリ,大久保康雄
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2010-11-18
■[断章]
語り伝えによれば、様々な
現実の、架空の、奇怪な
出来事が生じたあの過去に、
一人の人間が、一冊の書物に
宇宙を要約するという、途方もない
もくろみを抱き、精根を傾けて
高雅で晦渋な手稿を山と積み、
推敲を重ねて最後の詩行に達した
神に感謝を捧げようとして
ふと眼を上げると、空にかかる
磨かれた円板が映り、この月を
忘れていたことに気付いて動顛した
この話は架空のものに過ぎないが、
わたしたちの、生を言葉に換える
仕事にわずさわる者すべての、
魔力をよく表わしていると思う。
- 作者: ボルヘス,J.L. Borges,鼓直
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2010-11-14
■[感想]
Youtubeを見ていたら寺山修司の実験映像『消しゴム』があった。
【Eraser - shuji terayama】
アップされた動画からも分かるようにスクリーンの映像が消しゴムによって消されていく。
断片だけでは分かりにくい部分もあるが、消しゴムによって抹消、修正されるスクリーンは、そのまま記憶と過去の謂いとなっている。
映像を映し出す「スクリーン」に対する懐疑は他の寺山作品でも度々描かれている。
『蝶服記』では蝶や傘が映像を遮り、『迷宮譚』では映像がドアに照射される。
そして『ローラ』では登場人物がスクリーンに飛び込み、『審判』は観客にスクリーンへの釘打ちを要求する。
寺山にとって「スクリーン」は書かれるべき余白をもった書物の一ページに等しいものなのだろう。
彼は物理的行為によって空白の「スクリーン」から虚構を現在化させている。
その反読書的な手法は実に寺山らしいものである。
『消しゴム』についていえば一連の実験映像のなかでも最も直截的な表現をとっているといえるだろう。
文字を消し去る「消しゴム」のイメージは映像以外の寺山作品にも散見される。
そして寺山の「消しゴム」に対する興味は実生活にも及んでいた。
彼は「消しゴム」の蒐集家でもあった。
『消しゴム』と題されたエッセーにおいて彼は自身の蒐集癖を次のように語っている。
私は、ときどき自分で、「生まれてから、いままでのあいだに、何語消したか?」と思うことがある。その消されたフレーズだけをつなぎあわせれば、一篇の(いや、数十篇の)詩ぐらいにはなっていたかも知れないような気がするのだ。
だが、消しゴム集めに熱中しているのは、そうした「消されたものの伝説」に、とりつかれている、からではない。書かれたものの寿命を守るための「消しゴム狩り」に協力しているからでもない。要するに消しゴムが好きなのである。
消しゴムは、何かを消した分だけ自分もすり減る。つまり、「消しゴム」は、同時に「消えゴム」でもあって、何千行かの文字を消そうとすれば、自らも消失しなければならない、という宿命をもっている。
(中略)
数学の方程式を消しながら、だんだん手足が消えてゆくミッキー・マウス。学習ノートの上で、生気を失ってすり減ってゆく苺やリンゴ、といったものは、ユーモアというには、あまりにも象徴的すぎる、と考えることもできるだろう。
(中略)
かつて私は、世界をすべて消しつくそうとする怪人ゴムゴム(「棺桶島を記述する試み」)を登場させたことがあるが、今や、その機能よりも、形に熱中している、というのが本音である。
この他にも『字奇譚』など幾つかのエッセーでも「消しゴム」の話題は取り上げられている。
なお『棺桶島を記述する試み』に登場すると書かれた「怪人ゴムゴム」は、実際には作中でその姿を現すことはなく名前だけが登場している。
そしてその名前も「怪人」ではなく「怪物ゴムゴム」と表記されている。(これは彼の記憶違いによるものだろうか……)
作中、中心的に描かれているのは「怪物ゴムゴム」から逃げようとする青年である。
彼は、自分が文字のように消されるということは一種の文法違反なのではないか、とも思ってみた。
だがそれは、同時に一つの夢でもあった。慢性胃腸カタルの青年が、消しゴムに消されないために逃げ、地球を四十九周するうちに不滅になってゆくというのはすばらしい空想ではなかろうか? 「われ逃げるゆえに、われ在り」。そしてわれ在る限り消えず。私はこの際、世界の「消しゴム学会」に提案して、何とかこのことについて消しゴム学位論文をとりたいとも考えた。
どんな高邁な思想を書きとどめた文字だって、消されてしまえばおしまいだものなと、彼は思った。
ここに書かれた青年の独白は作品自体のテーマとも密接に関わるものである。
『棺桶島を記述する試み』からは、若き日の寺山の懊悩――彼の感じていた個人的な詩性の限界、文学表現の持つ有限性の問題――を見ることができる。
「どんな高邁な思想を書きとどめた文字だって、消されてしまえばおしまいだものな」という言葉からは、寺山が至った「書を捨てよ、町へ出よう」という信条や、後の演劇映像表現への志向が感じられる。
書物(書くこと)の限界については自伝『消しゴム』のにも書かれている。(寺山には『消しゴム』というタイトルの作品が多数ある。これも彼の「消しゴム」に対する関心からきているのだろう)
私は自分のしてきたことを書きたかったのではなく、自分のしてこなかったことの一切を消してしまいたかったのである。あらゆる書物は、あらかじめ書かれてしまっていた――と、盲目の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは言った、なるほど、そうかもしれない。作者の仕事などは、しょせん、「書かれてしまった書物」から、じぶんのために残しておきたい部分を選び、あとは消しゴムで消し去ってゆく作業でしかないかもしれないのである。
だが、「書く」と「消す」、「夢」と「影」のはざまで、少しずつ輪郭を失ってゆくものに私は思いを馳せる。自叙伝などは、何べんでも書き直し(消し直し)ができるし、過去の体験なども、再生をかぎりなくくりかえすことができる。できないのは、次第に輪郭を失ってゆく「私」そのものの規定である。
自叙伝を書きながら、私は次第に記述者が何者であったかを忘れてしまって、いつのまにか手だけを残して、自分をも消し去ってしまっていたのであった。
それは「自叙伝らしくなく」という副題が付けられたもう一つの自伝『誰か故郷を想はざる』や、自己の歴史の改竄をテーマとした映画『田園に死す』などからも見て取ることができる。
彼の綴る歴史は実像と虚構が入り混じり、作品ごとに過去の思い出は食い違いを見せている。(当然、寺山は自分の母を殺してはいない)
しかしこのことは「書くこと」の本質でもあるのだろう。
書かれる以上、事実の完全な再現は在り得ない。
作者によって書かれると同時に事実は虚構として再表現されてしまう。
それは「フィクション」とルビを振られた「歴史」となってしまうのだ。
その「歴史」の始まりについて『誰か故郷を想はざる』では次のように書かれている。
私は一九三五年十二月十日に青森県の北海岸の小駅で生まれた。しかし戸籍上では翌三六年の一月十日に生まれた
ことになっている。
勿論これも彼の作り出した虚構に過ぎない。
年譜を参照すると、役場への届出が遅れたことは事実のようだが、出生地については「青森県弘前市紺屋町」が正しいようだ。(このことについて書かれた文芸批評も読んだことがあるのだがタイトルなど失念してしまっている)
しかしその死までは虚構化することが出来なかった。
寺山は一九八三年五月四日、杉並区の河北総合病院四一〇号室でこの世を去っている。
絶筆となったエッセー『墓場まで何マイル?』の最後には次のように書かれている。
私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば、充分。
「消しゴム」によって自身の歴史を消し去り、次々と虚構へと書き換えていった寺山修司。
彼は消し去る以上に多くの「ことば」を残している。
あとに残された膨大な量の彼の「墓」は、たとえ「怪物ゴムゴム」をもってしても消し尽くすことはできないだろう。
- 作者: 寺山修司
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- 作者: 寺山修司
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