とっても元気で生きています。2年ぶりのアップデート

潮の流れ?とでも言うべきでしょうか。最近放置していたブログを通しての連絡がポツポツとあるので京都から「生きてます、元気です」の発信です。

前のエントリーで旅行三昧の生活を送っていると書き込みました。現在夫のポストが京都なので2016年と2017年は春から秋はボストン近辺で、冬は京都での生活を送っています。日本にいてもアメリカにいてもノマド生活です。携帯ケースの中にはCharlie card(boston), Metro card (NY), icoca(京都)のカードが入っていて、それぞれの場所に行きつけの美容院があるという生活(自分でも信じられない)です。大きな旅行としては2016年の暮れにはニュージーランドを旅行し、2017年の暮れには台湾に行きました。相変わらず食べる量は少ないですが、とっても元気に過ごしています。

さて、術後12年になろうとしているのですが、最近昔の「食道癌仲間」の一部に別の原発癌(特に胃癌)が発見されていて、自分の健康を過信してはならないとも感じています。一昨年は放射線医から、昨年は腫瘍内科医から「もうこなくていい」といわれ、外科医の検診もレントゲンと問診だけになっています。でも、そろそろもう一度CTをとり、内視鏡検査をして貰った方がいいかもしれません。これは悪名高き米国医療保険ではカバーされていないので、日本の人間ドックを私費で受けるべきかもと重いお尻をあげたところです。

近況はFBのMayumi Lincicomeでレポートしています。よかったらFBメッセージでご連絡後、友達申請をお願いします。

とっても元気に生きています。そして現在4ヶ月間だけ京都に住んでい

ずっとブログをほったらかしにしています。

もしかしたら、検索をする人がいて私の生存をチェックしていらっしゃるかもしれませんので、アップデートです。

2015年から16年にかけて、とても元気にしています。今年は生存10年になりますが、この10年で一番元気で体力もあります。たぶん夫の仕事の関係で12月2日より京都に住んでおり、毎日様々なお寺を訪問しているからに違いありません。iphoneの万歩計はあまり信用できないのですが、簡単に10〜15キロ歩いています。

運命の悪戯でしょうか。2015年から16年は旅に次ぐ旅。それを元気でこなしています。

6/10 - 6/21はクロアチアからイタリア

6/28 - 7/16はオーストラリア

10/29 - 11/12は英国とベルギー

そして12/2 - 3/31(16)は京都

最近は時代の波でフェースブックに日常を写真中心で簡単にアップデートしております。

つくづく日本の食べ物は、食道摘出患者には食べやすいと思います。

前にブログを書いてからおよそ1年。相変わらず仕事は忙しく、旅行の多い生活をしていますが、元気です。食道癌治療から7年以上が経ち自分の中では癌経験の風化が進んでいます。

でも、昨日40歳の友人の死に直面。癌との壮絶な闘いでした。同じエントリーをid:kuwachann-2_0にも書いています。

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メラノーマと壮烈に闘った友人が昨夜亡くなった。

ここにも書いたけれど、友人は夏に殆ど亡くなりかけた。ところが鍼治療で奇跡的に回復を遂げ、秋学期(9月−12月)は1度も休むことなく講義を行った。

民間治療や代替治療は様々に批判されるけれど、8月の半ば頃から始めた鍼治療のおかげで膵臓機能が戻り、食べられるようになり、背中や腕のメラノーマがドンドン消えて行った。ホスピス治療で死を待つしかないと言われた人がどんどん元気になる様は文字通り奇跡だった(奇跡という言葉は本当に体験した人でなければ理解できない。)

9月には戻った食欲のおかげで体重が増え、体力がつき、ジムに通い出し、12月には奥さんの実家のある台湾に里帰するためのチケットも購入した。また体力が戻ったおかげで新たな治験に参加しだした。ところが10月に大きな腫瘍が脊椎を押していることが分かり、半身不随になる可能性があるにも拘らず手術。大手術だったのに手術の日に1泊した後は教授会議に出て、翌日は授業を行った。

しかし、この頃からメラノーマの新しい腫瘍が体に広がり出し、吐き気が襲うようになった。メラノーマの姑息治療は表に出て来た腫瘍を外科手術で切り取って行くしかない。それをしないとQOLが悪くなる。この頃になると2週間置きぐらいに腫瘍を切り取らなければならなくなった。また体重も減って来た。12月の第1週から弟2週にかけての台湾の奥さんの実家への里帰もかなり危ぶまれる状況になったのだが敢行。

飛行場への送り迎えをしたのは私。往きのドライブの時も体力的に大丈夫かちょっと懸念した。でも5年ぶりの2人での里帰を楽しみにしている高揚感が手に取るように伝わって来て「これがQOLというものかもしれない。いいじゃない、それで」と自分に言い聞かせた。しかし台湾についてからは嘔吐がひどくなり、何も食べられない。痛みが増すばかり。およそ1週間余の滞在中2日間は病院に行って点滴を受けモルヒネを打ってもらう。10日後(12月11日)に迎えに行った時はすっかりやせ細り、乗り換え移動のためには車椅子を使わなければならなかった。

その後10日間ほども今後の治療と姑息の外科手術で病院と医者を忙しく往復する生活が続いたのだが、年明け早々にウースターの病院に緊急入院(MRIを撮りに行ったのだがあまりに状態が悪く強制入院)。ここはかなり大きな医療センターなのだが、対応しきれないとのことで4日後に救急車でボストンのBrigham & Womenへ運ばれた。結局胃自体と胃と腸の間が腫瘍で塞がれて食べ物の摂取ができない状態にあることが判明。そして様々な検討の結果、病状は治療の限界を越えているということでウースターのホスピスに運ばれた。

10日間のハワイ旅行の後、ホスピスを訪問した時の彼はすっかりやせ細り、寝ている時間が増えていて、お見舞いに行くと言うよりは奥さんのサポートが訪問の目的になった(ホスピスでは点滴は行わない。)

こんな状態だったのに、1月14日から始まった春学期の講座を彼は敢行した。第一日目には教室に行ったのだがあまりに状態が悪いので学科長がスカイプを使って教えることを示唆。彼の作ったパワーポイントを使ってティーチングアシスタントが教え、彼が質疑応答を加えるという形の授業方式をとった。

この形式での授業を1月30日まで行ったのだが、最後にはモルヒネのせいでずっと起きていられない、言葉の発音がはっきりしなくなるという状態になり2月からはアシスタントが授業を続行。

結局亡くなる1週間前まで講義を続けたことになる。

去年の終わりだったか、教会に久しぶりに行った時「人は時々親切にするように、命じられることがある」という話を聞いた。私と夫の場合、彼と彼の奥さんを助けることはまさにそれ。何の恩があるわけでもないのだが、お手伝いをできる機会を与えられたことを名誉とさえ感じる。

なくなる2時間ばかり前に奥さんから「電話でいいたいことがある?もう何も喋れないけど、まだ彼聞こえるから」と言われた。

「〇〇、友人関係をもてたことを感謝します。おかげで私達は沢山の勇気と元気をもらいました。〇〇(奥さん)のことは出来る限り面倒みます。有難う」

自然に出て来た言葉はこれだった。

最後になるけれど、彼は亡くなる3日前まで1週間に2、3度の鍼治療を行った。鍼治療を行った日は痛みが軽減されペインキラーの量を半減することができ、安らかな眠りを得ることが出来た。

ここ2週間で放射線科の医者と腫瘍内科医の2人にお会いした。食道摘出をしてから6年半。体重、体温、血圧の測定、血液検査の後は殆ど雑談。スマートフォンのアプリケーションの話やキルケゴールの話が出て「忙しいお医者さんとこんな話していいのかしら」と思っちゃったぐらい。でも、以下はちょっと医学的な部分。


放射線科の医者にはなかにし礼さんが選択した陽子線治療について聞いてみた(私はIMRTの放射線治療を彼から受けた。)まだまだ解明、研究されなければならない治療法ではあるけれど、多額の助成金が出ている分野であり、彼もその研究に参画しているとのことだった。


私の場合体重が全然増えないのがネックといえばネック。年齢的にも筋肉が落ちて来る年代なので、アンクルウェイト(腕や足首にマジックテープでくっつけて運動に負荷をかけるもの)を薦められた。


腫瘍内科の先生によると、新しい食道癌の患者が増えていて現在彼の監視の下、2人の患者が手術待ちであるとのことだった。


ところで、雄三さんのサイトに出ていた記事が気になった。『どうせ死ぬなら「がん」がいい』(宝島社新書/中村仁一共著)を上梓した近藤誠氏へのインタビュー記事だ。

確かに患者は様々な治療法を年齢、体調、病期などと共に秤にかけて最適な方法を選ぶべきだ。化学治療が命を奪うことも、縮めることがあることもある。治療を拒否することも選択肢の一つに入っていなければならない。しかし、以下の食道癌についての記事には絶対に賛成できない。

早期発見努力をせずに、例えば肺がんであれば少し呼吸が苦しいとか、食道がん胃がんは食べ物が通らないとか、そのような自覚症状が出てがんが見つかった場合は、それは「がんもどき」ではなく、本物のがんですね。それに対しては体が一番楽な治療、つまり外科手術は避け、臓器を残す非手術的な治療を選ぶことです。

選択の道は2つあります。例えば食道がんだと、1つは、食べられなくなっても完全放置することです。そうすると、最後には水も飲めなくなって餓死することになります。健康な人が食べたいのに食べられないというのは悲惨ですが、体が衰弱して食べようと思っても無理というときには、心理的な飢餓感は少なくなるようです。この道を選ぶのはなかなか難しいのですが、体は楽なまま死ねます。

まず、食道癌に関しては、内視鏡手術技術が進み「早期発見」であれば内視鏡手術で治療できる。私のような開腹手術も腹腔鏡をつかったりして侵襲性が小さい形が開発されている。また物が食べられなくなっている状態だとすでにリンパ節に転移している可能性が非常に高い。

また以下の放射線治療に関する情報も古い。放射線治療だけでは不十分あったことがすでに様々な形で伝えられている。

もう1つの道は、放射線治療を選択する道です。食事をすることができるようにもなりますし、長生きできる。それに臓器を残すわけですから、QOL、生活の質の面でもいいですね。12時間もかかる、開胸・開腹手術をしなくても済みます。しかも、比較試験の結果を見れば、外科手術より放射線治療のほうが成績がいい。

癌にかかった時に一番嫌だったのが、こういう類いの「癌ひとからげ」の情報だった。そこに引用されているデータは古く、暴力的に一画的だ。大事なのは患者一人一人が個々の癌に特化した最新の情報を得た上で判断して行くことだ。


放射線治療抗がん剤治療、臓器摘出手術を経ても元気で生きている「元患者」がここにいます。もし、早期発見(と言っても2期と3期の間でしたが)がなかったら、今私は生きていません。

中村勘三郎さんに合掌

中村勘三郎さんが亡くなった。ブログのここにも書いたように、2004年に平成中村座がボストンに来た時舞台のお手伝いをし、お話をする機会があった。

早期発見だし、まだ若いから絶対に回復なさると信じていたのでとても悲しい。

同年代というのは大きなインパクトがある。

私が勘三郎さんのことを知ったのはNHK大河ドラマの新・平家物語平敦盛を演じられた時。今ウィキで調べてみると72年、彼が17歳の時だ。すごく生意気な感じで、その頃のグループサウンズとか同級生でかっこいい男の子と較べるとやぼったくて「ふ〜〜ん」というぐらいの感じだった(時代劇だから当たり前なんだけど。)

でも2004年にお仕事した時は「芸を極めてすごい人なのに、私みたいな普通の人に気さくに話しかけて下さる凄い人だ」と舞い上がった。「同級生の年齢なのに精進して芸を高めると、こんなになるんだな〜〜」とふつ〜の私はうちのめされたのだ。

ボストンでは七之助さんと「連獅子」を演じられた。ライオンの親子の関係を実の親子が演じるわけで、決まった型の踊りの中から吹き出して来るお二人のパーソナルな緊張にとてもドキドキした。

癌サバイバーであることを当然のことのように捉えて生きてる今日この頃。自分の手術の経過を思い起こすと、私だって肺水腫で肺炎になる可能性はいくらでもあった。

毎日を大切に生きなきゃ。

10日程前久しぶりに行った教会で友人のCさん(81歳女性)と会った。

Cさんは3年前に2番目のご主人を亡くし、この8月に50代の娘さんを突然に亡くした。彼女の最初のご主人は若い時に病死、もう一人いたお嬢さんも大分前になくしている。

この4月には彼女自身も末期の喉頭がんの診断を受けている。

8月にお嬢さんのメモリアルサービスでお会いした時、彼女の私への言葉は「I am totally broken(私、打ちのめされちゃった)」だった。4月に自分の末期癌が分かった時、彼女は治療をしない選択をし、自分の遺産、不動産を娘さんに遺すよう手配を始めた。その手配が終わった時に娘さんを失ってしまったのだから当然だ。

10日前に会った時は8月に較べるとずっと元気になっていた。
病状を聞いたら
放射線の姑息治療(QOL向上のための治療)をしておよそ3週間目。腫瘍はすごく小さくなって楽になったんだけど」との答え。
「じゃ、今週仕事のない日に私が放射線医のオフィスにドライブして上げる。そしたら車の中や医者のオフィスで色々お喋りできるじゃない?」と安易に提案したところ、「とんでもない!私、まだ一人で運転できるわよ。せっかく時間を一緒にすごすんなら楽しいことしましょ。お茶をご馳走するから家に来てよ」と言われた。

そこで大統領選の翌日彼女の家を訪ね、一緒にお茶をした。家の中は掃除が行き届いてきれいだ。「放射線医がびっくりするほど効果があって、腫瘍が殆ど消えちゃったのよ。放射された部分がかなりヒリヒリするから食べるのは大変だけどね」「それに、御陰さまで元気があるのよ。だからまだ自分で掃除もできるし、ご飯もつくれるし」「あ、ところで肺にも転移しちゃったの。今2センチぐらい。口内の治療が終わったらこの治療をするかもしれない」

その日は今年初めての雪が降り始めたので早めに失礼したのだが、会話の殆どは「オバマが勝って良かったよね。アメリカのミドルクラスも捨てたもんじゃないね」などのごく普通のものだった。

癌が彼女の体内で猛威をふるい出す日は近いのかもしれない。でも彼女はきっと一歩一歩自然体で向き合って行くにちがいない。そして私は彼女と過ごして行く時間から沢山の勇気と元気を貰って行くに違いない。

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台湾人の彼女は37歳。仕事に空きのある日は彼女の車の運転の練習につきあっている。

「Student Driver」のマグネットスティッカーをベタベタ貼って彼女は運転を開始する。助手席に座って「車線変更の時はちゃんと後ろを確認してね」とか「あ〜〜スピード出し過ぎ」と優しく言ってあげるのが私の役目。

彼女のご主人は去年の秋メラノーマのステージ4の診断を受け手術を受けた。その後の治験薬治療がうまくいかず、転移はどんどん広がっている。

彼女のご主人は大学の助教授。去年の秋やっとテニュア(終身雇用資格)のある仕事に赴任でき、結婚して10年目でやっと子供や家族の可能性を考え出ることができるようになった。進行してしまった癌が発見されたのはそんな時だった。

現在はフェーズ1の新しい治験薬を試みているのだが、副作用、あるいは転移の進行によって彼が車を運転できなくなる日が来るのは目に見えている。だから今彼女がスキルとしてまず身につけなければならないのは運転技術/免許証。

彼女と私はこの練習時間をつかって美味しそうなランチを出してくれるレストランに出掛けることにしている。

昨日のことだ。何時もケラケラ笑ってばかりいる彼女が真顔になった。

「化学治療の前にスパームバンクに精子を預けてるの。年間保管費がおよそ10万。そろそろ更新時期なんだけど、人工授精をして妊娠しようかと思ってるの」「私は英語もあまりできないから、夫がなくなれば台湾にもどって子供を育てることになると思う。保険の心配もしなくていいし」「でも子供はここで生みたいの」

「友人はね、子供がいたら再婚してくれる人がいなくなるからやめろって言うんだけど」「親からはバカだって言われてる」

私には「最終的にはアナタが決定することよね。でも生むんだったら、育児をどうするか、社会制度をどう使って行くかをちゃんと考えなきゃだめよ。シングルマザーのプロにならなきゃ」としか言えなかった。

10年間結婚していて、そのパートナーを癌に奪われる。その人の子供が欲しいという気持ちは当然だ。

「生きる」って一体何なんだろう。「愛する人の子供が欲しい」という気持ちを貫くことこそが生きるってことなんじゃないだろうか。

ふと、昨日ツイートで流れて来た村上龍の言葉を思い出した。
「それが退屈だと知らずに、平穏だと勘違いして退屈な人生を生きている大勢の人たちがいる。最悪なのはそういう人たちだろう」