京師賀茂祭之事 後篇

「京師賀茂祭之事 前篇」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110516

 賀茂祭は京都の大学生にとっては印象深いお祭りです。…行列のバイトがあるからです。私自身はしたことがありませんが、友達は何人かやっておりました。
 ですが、主役たる「斎王代」(古来の賀茂斎王の役)は京都の名家の御嬢さんから選ばれます。腰輿(およよ)という輿にのってたくさんの随身と共に行列します。映画「鴨川ホルモー」で主人公がサークルに誘われる最初の場面として葵祭のバイトの後が選ばれているのは、京都に学生時代を過ごしたものとして大変納得できます。

 さてこの賀茂祭、いつ頃からこの形式で行われてきたのか。三宅氏の論考を引用します。

(1)『類聚国史』五、弘仁十年(819)三月一六日条に賀茂祭を「中祀に准ずる」とあること
(2)『内裏儀式』に賀茂祭の規定(「賀茂祭日警固式」)があること
(3)『類聚国史』一〇七、弘仁九年(818)正月二一日条に「初めて斎院司を置く」とあること
(4)『本朝月令』所引の「或記」に延暦一二年(793)の出来事として「北野山中」に行幸した桓武天皇が「大火に遭ひ給ふ。祈り申す。始めて鴨上下両神の大祭の事を奉ず。供奉の諸司を率ゐ、斎内親王を奉る」とあること(『年中行事秘抄』『年中行事抄』にもほぼ同文がみえる)
(5)『一代要略』『皇年代略記』に大同元年(806)開始説がみえること
  (三宅和朗 『古代の神社と祭り』 2001年 吉川弘文館 114・115ページ引用)

 三宅氏はこれらの史料から賀茂祭は9世紀前半には確実に実施されており、8世紀末に開始を溯ることができるのではないかとされています。なるほど私も国家的祭祀の始まりである弘仁十年(819)を始まりとして差し支えないと考えます。
 その後、賀茂祭室町時代の文亀二年(1502)を最後に中断し、江戸時代に入って元禄七年(1694)に再興され、明治の初めに現在の五月十五日を祭日とし現在に至っています。

 賀茂祭の目的は前篇の松尾大社と両賀茂社のところで記したとおり、京の守護神である両賀茂社の神に、王権たる天皇が王城鎮護を祈る祭りと位置づけることができるでしょう。

 賀茂祭は五月十五日の一ヶ月以上前から続いていますが、一般的には五月十五日に行われる路頭の儀・行列・社頭の儀を賀茂祭葵祭)としています。
 路頭の儀は内裏から下鴨神社、続いて上賀茂神社へと勅使一行が進む行列です。斎王がいたころは、斎院が七野社あたりにあって、勅使は一条大宮で待ち、斎王と合流して進んでいたようです。さてこの賀茂斎院は現在櫟谷七野神社(いちたにななのじんじゃ)と呼ばれる小さな神社のあたりにあったとされています。現在の地理でいえば大宮通廬山寺道を上がったあたり、「西陣」と呼ばれる地域です。私、この辺りは何回も通ったことがあるのに全く気付きませんでした。次回京都に行くときに訪ねたいと思います。

 さて、勅使と斎王が進むこの行列が今一般的に「葵祭」として有名な行列ですが、観衆の目を引くのは今も昔も同じで、昔から身分の上下を問わず桟敷をつくって見物していたそうです。『源氏物語』の六条御息所の怨念の契機となる「車争い」は、この行列を見るために起きました。
 
 社頭の儀は勅使一行が両賀茂神社境内に進んで始まります。幣帛を供え勅使が橋殿で宣命を奏上すると、神職は本殿へ持っていき橋殿にかえる。そして神職は神から天皇への「返祝詞」をよみ、勅使と神職が一緒に拍手(かしわで)を打つ。その後奉納の神馬を引き回し、近衛の武官が東遊を舞う…とされています。(実際に見たことがないもので)儀式から解るとおり、神意と天皇の意の一致によって王城鎮護を願うものなのです。

 葵祭というとどうしても行列の華麗さに目を奪われますが、かくのごとくの宗教儀礼について考えると大変深い意味のあるお祭りなのです。
 
  腰輿(およよ)にも 葵の匂う みやびかな  空山房

≪参考文献≫
四手井綱英下鴨神社糺の森』 1993年 ナカニシヤ出版
岡田精司 『京の社―神と仏の千三百年―』 2000年 塙書房
三宅和朗 『古代の神社と祭り』 2001年 吉川弘文館
所 京子 『斎王の歴史と文学』 2001年 国書刊行会