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日本外交の反省と転換 このページをアンテナに追加

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2015-05-01

偉大な戦争のヒーロー

17:31 | 偉大な戦争のヒーローを含むブックマーク

イギリス大使としてこうした誤った政策に与したために、ジョゼフーケネディは、政治家としての一生を棒に振ることになった。そして彼は、心密かに抱いていた大統領になる夢を自分の息子に託さざるをえなくなった。後年、息子が大統領選に出馬したときにも、彼は表舞台には出られずに、陰で糸を引いていなければならなかった。

しかもジョゼフは、自分がそれほどまでの犠牲を払って食い止めようとした戦争で、長男のジョゼフージュニアを失ってしまうのである。長男のジョゼフ・ジュニアは、弟のジョンーケネディと同じように目鼻だちの整った美男子だったが、弟のように病弱ではなく、健康な身体に恵まれていた。九人兄弟の長男としての責任感も強く、将来はアメリカの大統領になると公言していた。母親のローズーケネディは、子供たちの思い出を綴ったその著『わが子ケネディ』(人前正臣訳)のなかで次のように言っている。

「私は大家族を持つ親たちに、一番上の子供に最も熱心に働きかけるよう強くアドバイスしたい。というのは、一番上の子供の方向に下の子供たちも従うからである」そんな息子を失ったことは、ケネディ家にとっては取り返しのつかないほど大きな不幸だった。

ジョゼフージュニアは、一九四一年に志願して海軍に入隊していた。ジュニアは、ジャクソンビルで飛行機の操縦訓練を受けたあとヨーロッパ戦線に送られ、二回戦闘に参加した。そして、五十回出撃すれば本国勤務に移されるという条件をすでに満たしていたが、彼は、荷物をまとめてアメリカに帰ろうとしていたときに、危険このうえない最高機密の任務のために、軍がパイロットを探しているという話を耳にした。

ジュニアはすぐにその任務に応募した。その機密の任務とは、暗号名をアフロデイーテといい、第二次世界大戦の末期に、ドイツ軍がイギリスに向けて発射した無線操縦のロケット弾VIロケットの発射基地を爆破するという任務だった。ジュニアの任務は、連合軍側の遠隔誘導ミサイルを積んだ飛行機を操縦してコースに乗せ、ミサイルが母艦からの遠隔操作に切り換えられたところで、パラシュートで飛行機を脱出するというものだった。もしこの任務に成功していれば、彼は、史上最大の作戦と呼ばれたノルマンデイ上陸作戦を指揮したアイゼンハワーほどではないにしても、あるていどは偉大な戦争のヒーローになれたぱずだった。

2015-04-01

溶原変換

15:30 | 溶原変換を含むブックマーク

常在菌として咽頭粘膜に安住していた毒素を作らないジフテリア菌が、毒素を作るようになってジフテリアという病気を起こすと、それまでの安定した粘膜という環境の状態は激変する。患者が死亡すれば、同時にそれまでジフテリア菌が依存していた存在環境も失われる。逆に患者が回復して、いわゆる免疫を獲得したとしても、やはりジフテリア菌はそのヒトの咽頭粘膜には安住しにくくなる。いずれにしても、それまでの安定した存続は望めなくなる。もし同一の宿主における安定した存在を願うとすれば、ジフテリア菌は毒素を作らないほうがよい。すなわち毒素遺伝子を保有したペーターファージが、プロファージとして感染していないほうがよいということになる。

少なくともジフテリア菌にとっては、ジフテリアを起こすことが何にもまして必要であるということはなさそうである。この意味でも、ジフテリアという病気を起こす主役はジフテリア菌ではなくて、べーターファージであるということになると思う。今までの話はジフテリアという病気の、いわば正体を知るためのものだったが、このようにファージが、分子生物学的には必ずしも必要とされない遺伝子を保有している例はいくつも知られている。

2015-03-02

沸き立つユーラシア

15:22 | 沸き立つユーラシアを含むブックマーク

二〇〇〇年に発足したユーラシア経済共同体(ロシア、ベラルーシ、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン加盟)は、これら各国と隣接地域の「統一経済圏」創設をめざしているが、そうしたユ上フシア概念を機構名称としている。ユーラシア大陸はロシアを含むアジア大陸とヨーロッパ半島(ユーラシアの地図を見れば、ヨーロッパは大陸ではなく、まさに左端にくっついた半島だと分かる)の全体を指している。だが、そうした旧来の理解を離れて、ここでは、ヨーロッパ半島を除いた全体を「ユーラシア地域」と考えたい。ヨーロッパは「近代」を生み出して世界史をリードしてきた特別な地域であり、それ以外の地域は非ヨーロッパとしての独白の歴史をもっているからだ。しかも、二一世紀の今日、まさにその独自の性格が注目に値するものになっているからでもある。

その「ユーラシア地域」が今、沸き立っている。「ユーラシア地域」は三〇〇年余にわたり、帝政ロシアと清が対立と力の措抗をはらみながら支配をつづけてきた。その基本的な構図は、ソ連と中華人民共和国の時代になってもさして変わらなかった。両者による対立と緊張がつづいていたことで、この「地域」は政治的、経済的に分断されていた。否、「地域」そのものが成立していなかったのである。それを根底から揺るがしたのは、一九九一年一二月のソ連邦解体によるロシアの体制転換と中央アジアやカフカース、ロシア各地に存在するチュルク(トルコ)系諸民族の独立・台頭、そして一九九〇年代から本格化した中国の「改革・開放」路線による、世界の工場化だった。

まず、国境の画定が先行した。七三〇〇キロにわたる中ソ両国の国境線は、モンゴルをはさんでユーラシアを貫く分断線だった。双方の領土要求がぶつかり合い、ユーラシア地域における緊張と対立の源だった。それが、ソ連のペレストロイカに続く解体と中国の「改革・開放」の進展のなかで一九九〇年代前半から、段階的に解決されていったのである。今日、中国・ロシア国境の四三〇〇キロ、中国とカザフスタン、キルギス、タジキスタン三力国との三〇〇〇キロの国境線は最終的に画定している。双方が承認する、法的に確認された国境線が確立されたのは、この地域では歴史上初めてのことだ。互恵の精神に立った双方の譲歩という「フィフティーフィフティ」戦略と、双方とも「敗者」にならない「ウィンーウィン(Win-Win)」戦略によるものである。

これによって、ユ上フシアに引かれている七三〇〇キロの国境地帯は、「緊張と紛争」の地帯から「安定と発展」のベルトに変身しようとしている。それは、一三−一四世紀の「パクスーモンゴリカ(モンゴル帝国支配による平和)」時代以来の状況である。その変化のなかで、国境を越える人と物の流れが、目覚ましい勢いで復活している。そして、中露国境貿易が活発化しノ甲国と中央アジア各国を結ぶシルクロードが甦っている。中露貿易、中国と中央アジア各国との貿易は、ソ連邦解体とともに急速に増えた。ユーラシア北部を走るシベリア鉄道、中国から中央アジア、ロシアを経てヨーロッパに至るユーラシア鉄道、上海から新疆ウイグル自治区を経て中央アジアそしてトルコに通じる高速道路などが整備されてきた。

ユーラシア西部からヨーロッパへと張り巡らされている石油・天然ガスのパイプラインも、ユーラシア東部へと建設されつつある。ロシアと中央アジアの石油・天然ガスは今日、東へ東へと流れようとしているのだ。インドと中国、インドとパキスタン、そして中央アジアとイランとの政治的・経済的関係も従来の対立・停滞からさまざまな問題をはらみながらも正常化、互恵の協力関係へと転換しようとしている。いまユーラシアに、注目すべきダイナミズムが生まれつつあるのだ。この沸き立つ「地域」を政治的・経済的にゆるやかに束ねているのが、上海協力機構(SCO‐Shanghai Cooperation Organization)だ。

2015-02-02

一転して労働力不足へ

10:27 | 一転して労働力不足へを含むブックマーク

87年以降、経済が拡大するにつれて、雇用面での不安は急速に薄れていった。まず、87年4月〜6月頃から残業時間が増えてきた。次に7月〜9月頃から求人数が増え始めた。そして、88年に入ると常用雇用が増えてきた。

雇用関係の指標は軒並み改善した。有効求人倍率(企業からの求人数を求職者数で割ったもの)は、「円高不況」の最中には0.6前後だったが、88年6月にはついに1を超えた。求人数が求職者数を上回ったのである。これは74年以来の現象であり、日本経済が労働力不足時代に入ったことを示している。

失業率も低下し、89年初めには2.3%となった。89年に入ると、ミスマッチを心配するどころか、労働力不足が景気上昇を制約するのではないかという議論まで現われてきた。企業の積極的な雇用態度はまだ続きそうである。

89年三月の経済企画庁企業アンケート調査によると、89〜91年にかけて雇用を増加させるとした企業の割合は、53%に達しており、減少させるという企業の割合(14%)を大きく上回っている。こうして雇用情勢が改善してきた最大の理由は、企業の中長期的な成長期待が高まってきたことである。

経済企画庁では毎年、企業が今後三年間についてどの程度の成長を予想しているかを調査している。これによると、円高前には4.5%だった期待成長率が、円高後の87年初めには2.7%まで低下した。企業の期待成長率が下方にシフトすると、企業は既存の設備こ雇用ストックを下方に調整する。これが雇用の悪化につながったわけである。

しかし、その後景気が回復していったので、企業の成長期待も次第に上方に修正され、88年初めには3.2%、89年初めには7%まで上昇してきた。こうして企業の成長期待が上方修正されると、雇用についても積極的な姿勢で臨むようになる。これが雇用情勢の好転につながってきたのである。

また、企業が円高後の構造変化に積極的に対応していこうとしていることも雇用面に好影響をもたらしている。経済企画庁の企業アンケート調査で、企業がどのような分野で雇用水準を高めようとしているかをみると、「販売・営業分野」「研究開発分野」の比率が圧倒的に高い。

円高後の企業は、内需中心の成長に対応して、国内販売を強化し、新製品・新分野への進出のための研究開発に力を入れてきている。それが雇用面でも現われているのである。

2015-01-05

日本の物価のふしぎ

11:54 | 日本の物価のふしぎを含むブックマーク

それでも、顧客がもっているはずの電子マネーやクレジットカードを使わずに支払いをしてしまえば、個人情報は手に入りません。消費者金融業者やTSUTAYAのように、なにかを貸すサービスを本業としている企業は、情報戦略の面ではかなり有利なのです。また、無料ビジネスの手法を試そうとする企業は、ITツールでの情報ルート整備を検討するだけでなく、金融サービスの要素をいかに入れるかも、可能であれば考えてみるべきでしょう。たとえば、なにかの無料サービスを提供する際に、それなりに価値がある機器を貸し出したうえで、あとで返却してもらうシステムにしておけば、高いレベルの個人情報を集めやすいはずです。

物価であっても将来予測はむずかしく、インフレとデフレ、どちらの予測が正しいかは結果をみるしかありません。しかし、資源価格の高騰が日本の物価にどう影響するかは、データで確認できます。じつは2010年まで、資源価格の高騰は。日本の物価にさほど影響してきませんでした。これをどう考えるかがポイントになりそうです。たしかに、原油などの資源の国際価格(国際的な商品相場)を、日本銀行発表の「日本銀行国際商品指数(米ドル建て)」でみると、1998年を境に、急勾配の上昇トレントに転じています。98年からみているのは、90年代で一番安い年だったからです。また日本銀行国際商品指数は、約3分の2は原油(精製してガソリンなどの石油製品にする前の石油)の値動きを反映し、銅、金、トウモロコシ、コーヒ大旦、豚肉などの価格も加味した指数です。

ところが、同じ1998年を境に、日本の消費者物価は下落傾向に転じています。両者のグラフだけをみると、「国際的な資源価格が高騰しているときは、日本の消費者物価は下落してデフレが生じている」という比較的はっきりした関係が読み取れます。それなりに経済の知識がある人ほど、この関係に驚くでしざつ。「資源価格の高騰は、資源がない日本のような国の物価を上昇させ、インフレにつながるはずだ」と思い込んでいるからです。しかし、それは石油ショックが起きたころには正しかったのでしさつが、いまは、明らかにまちかっています(少なくとも、1990年から2010年にかけての日本には、まったく当てはまりません)。

1990年代のうち、1998年までは、資源価格が下落傾向にあるなかで、日本の物価は少しずつ上がっていました。そして、1998年から2010年にかけて、日本銀行国際商品指数は3・5倍になりました。プラス250%という大幅上昇です。2008年までの数年間で特に急上昇し、リーマンショ″クの影響で2009年は一時的に下がりましたが、すぐまた2010年には上がり、上昇トレントを維持しているようにみえます。ところが同じ1998年から2010年までのあいだに、日本の消費者物価は約4%下落しています。物価についての代表的な指標のもうぴとつであるGDPデフレーターは、同時期に約14%も下落しています。とにかく、日本の物価は下がり、明らかにデフレが進みました。

なぜ、こんな不思議な現象が起きるのでしきつか。大きな理由は2つありそうですが、本書に関係が深いひとつだけを、ここで説明します。その理由とは、日本の消費者物価は、資源の価格よりも、労働コスト(賃金)に左右されやすいこと。このあたりは、日本経済についての基本データ、たった2つで簡単に説明できます。まず日本経済全体で、1年間で消費や投資などに使ったモノやサービスのなかで。海外から輸入したモノやサービスがどの程度を占めるかを、2009年度でみると、19・7%しかありません。これを「輸入依存度」といいますが、日本の輸入依存度は、ブラジルに次いで世界最低レベルです(かつては、10%を下回っていました)。たぶん、多くの人には意外な話でしょうが、経済の専門家のあいだでは常識とされてきたことです。