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日本外交の反省と転換 このページをアンテナに追加

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2014-09-01

死後の尊厳

11:34 | 死後の尊厳を含むブックマーク

一方、日本人独特と思われるものとして、感情的に「体を傷つけられたくない」、「意義は認めるが、自分が提供するのは何となくいや」などの反対理由や、さらに「心身は不可分、来世のために五体を残したい」という人もあり、また「肉親が生前に献体を希望していても遺族として反対する」と答えた人が半数以上もいたということである。

ニューヨーク支社に派遣され、白人社会の中で生活しながら国際的に第一線で活躍している一流日本商社のエリート社員の献体に対する意識調査の結果がこのようである。封建的な因習にしばられ、家族制度が根強く残っている日本国内の各地方の方々に、献体の意義を正しく理解していただきヽすすんで献体をしていただくには、よほどの努力が必要であることを改めて痛感した。

「日本ではなぜ献体の希望者が少ないのか?そしてなぜ家族が献体に反対することが多いのであろうか?なぜ本人の意思(遺志)を尊重して献体を果してあげようとしないのであろうか?」この謎にぶつかり、暗中模索を続けた私は、これに対するいくつかの原因を考えるに到った。羞恥心と凱厭。自分自身あるいは身内の者が、死後多くの人々、たとえば見も知らぬ多数の医学生や研究者に裸体をさらけ出すことに対する恥ずかしさ、死後にまでメスを入れられることに対する憐欄、とくに「身内の者に死んだ後までそんな恥ずかしい思いや痛い思いをさサるなど、残酷でとてもかわいそう」という気持がふっ切れない。

ある種の権威主義的感覚。日本人の献体の精神に対する理解のなさから、「献体なんてそんな恥ずかしいことがさせられますか。家の恥ですよ」とか「社会的に地位も実力もある私がなんで死に恥をかかねばならないのか」という前項にあげた羞恥心とは異質の、個人のプライド(自尊心)、品位、面子にかかわる権威主義的感覚からくる複雑な感情であり、日本人独特の「恥を知れ」の「恥」の意識の反映のような感覚がある。

死後の尊厳。述べたことももちろん個人の死後の尊厳にかかわることではあるが、そのほかに、裸体をさらすだけでなくつぶさに調べられて他の人と較べられ、太っているのやせているの、と品評されるのではないかという猪疑心、さらに肉体は切り刻まれて自己のアイデンティティーが消滅してしまうという気持から、死後に自己の尊厳を傷つけられると恐れる気持。

2014-08-04

泥臭さに浸るな

09:45 | 泥臭さに浸るなを含むブックマーク

わたしが以前ともに仕事をしたことのある英国人のSEがそういう男だった。しゃれたブリティッシュースタイルのスーツに身を固めて、朝出勤してくると当日中に解決しなければならないバグ(コンピューターシステムの不具合のこと∵リストに目を通す。そして、コーヒーをすすりながら、端末の前に座ると調査を開始する。その集中力たるや、本当にすごい。数分の休憩もとらず、トイレにも立たず、昼食時まで端末のキーボードを猛スピードで叩きながら調査を続ける。人が声をかけてもほとんど聞こえていない。頭のなかでは、コンピュータのコードと数値が目まぐるしく展開されているのだろう。

昼食時も手を休めない。近くのカフェでサンドイッチを買ってくると、それをほおばりながら端末を叩く。まさに一分一秒もむだにしないのである。わたしが感心して見ていると彼は時計を見て帰り支度を始めた。ちょうど五時。終業時刻だ。だが、とうてい朝渡したバグーリストが定時までに片づくわけはないと思ったわたしは、彼にバグが片づくまでは帰れないと警告した。日本人の感覚では、すべての問題が片づくまではたとえ徹夜になっても作業を続けるのが常識だからだ。しかし彼は、首を横に振る。なんでもデートの時間らしい。わたしは、さすがにそれは無責任じゃないかと思って表情を険しくしたが、そんなわたしに彼は、朝渡したバグーリストを手渡し、「すべて片づいた」とひとこと言って、さっそうと帰っていった。

なんともクールな男である。まさしくプロフェッショナルだ。超人的な集中力、就業時間中は一分といえどもむだにしないプロ意識、定時までに目標をなんとしてでも達成する高度な技術力と強靭な精神力。「デートがあるから」という理由も、じつにしゃれていてよい。比して、多くのSEはどうだろうか。その日の仕事に明確な目標を置かず、時間を無駄遣いし、結果的に大量の残業に追い込まれ、そのくせたいした実績は残せない。SE諸君は、ぜひこのクールな英国人を見習ってほしいものである。

日本人と欧米人の職業に対するスタンスに大きな違いがあることは、いまさら言うまでもないだろう。極端に言うと日本人の職業における美徳は「時間」。欧米人の美徳は「効率」といえる。たとえば、仕事で同じ成果を上げるにしても、欧米ではできるだけ短時間で達成したほうがより評価される。しかし、日本では必ずしもそうでもない。自分のノルマを速く達成したからといって、他人よりも早く退社すると白い目で見られる。おなじみの横並び気質というやつである。

2014-07-15

ケアプランとケアマネジャー

10:44 | ケアプランとケアマネジャーを含むブックマーク

個々の要介護者にもっとも必要とされる介護は何か、痴呆性の問題も含め、もう一度深く検討する必要があります。厚生省では二〇〇〇年度中に高齢者の介護の実態に関する調査を実施しており、その結果を踏まえ具体的な改善方法を検討中です。公正、適切な認定基準になるよう、早期改定が望まれます。

また、認定から漏れた人たちへのサービスの問題があります。介護保険の対象にならなくても福祉サービスを必要としている人は存在します。たとえば元気な高齢者であってもデイサービスを利用して仲間と楽しく遊びたい、料理をつくるのが億劫なので配食サービスを頼みたい、などです。要介護に陥ることを防止する予防対策と合わせて、福祉を求める高齢者に応えていくことも必要です。本来は、介護保険を必要としない社会が望ましいのですから。

介護保険で要介護認定が行われると、要介護者にもっともふさわしいケアプランを作成することになります。ケアプランの作成を担当するのがケアマネジャー(介護支援専門)です。鳴り物入りで養成されたケアマネジャーも、複雑な支給限度額の管理に追われ、良質なケアサービスをいかに確保するかまでは手が回っていないといわれています。

ケアプラン作成の介護報酬単価も低く、人材確保にも支障が出ているようです。適切なケアプランが要介護者の介護内容を決定します。もちろん、まだ十分なサービスメニューも量もなく、ケアプランを作成しようにもサービスを選択できないという事情もあります。

介護保険の成否を左右するのは、ケアマネジヤーがどのような役割を果たせるかということです。要介護者や家族の相談にのり、適切なケアプランをつくるためには、豊富な知識に加えて実務経験が必要です。そのため、介護支援専門員の試験を受けるには、医療や保健、福祉などの一定の実務経験が受験資格となっています。

2014-07-01

指定金銭信託(単独運用)

10:41 | 指定金銭信託(単独運用)を含むブックマーク

指定金銭信託はおカネの運用について、たとえば貸し出しに回してくれとか有価証券の買い入れに充てるとか、また銀行へ預金ナるといったようにごくおおざっぱに指定するだけで、細かいことは信託会社に任せるものです。だから信託会社は大体任せられた範囲なら、A会社におカネを貸してもB会社の株を買ってもかまいません。もちろん、委託者は信託会社を信頼して財産の運用を任せるのですから、信託会社は貸出先や買い入れる株式、社債などについてどう運用したら一番有利かを考えて、運用するよう努めます。これには信託会社の永年の経験と知識が役に立ちます。指定金銭信託は金銭信託の大部分を占めています。

これはさらに信託されたおカネをそれだけ個別に運用するか、運用方法を同じくする他の信託されたおカネといっしよに運用するかによって、単独運用(指定単)と合同運用(指定合同)に分けられます。そこでまず信託の基本的な形である「指定単」から説明することにします。

これは委託者一人一人にっいて、受託から運用を個別に行うものですから、口座によって運用成果も必ずしも同一でない実績配当の原則がつらぬかれています。しかしその半面手数もかかるので、大口の投資家に適しており、戦前は保険会社などが利用していました。ただし戦後の資金不足期にはその自由な商品のゆえに一時非常に盛んになり、ピーク時の昭和二十六年頃は金銭信託の大半を占めたこともありました。その後経済の安定化に伴って乱用の批判もあり、受託の金額や期間また配当率を自粛することになり、高利回りのみを目的とする利用はほとんど見られなくなりました。

しかし契約の一つずっを個別に管理する指定単の仕組みは、年金信託など社会福祉関係商品にいかされていますし、金融自由化の進展や経済情勢の変化により、指定単にふさわしい新商品の開発も期待されるところです。

2014-06-16

研究と評論

13:36 | 研究と評論を含むブックマーク

さてデイトキーパーを目差すジャーナリストにとっては科学的方法に基づく、客観的報道が第一の機能であった。しかしいかなる社会においても意見の主張、あるいは評論を欠いたジャーナリズムは、存在しないであろう。ゲイトキーパーを目差すジャーナリズムにおいても、客観的報道とともに評論は、欠くことのできない重要な分野を構成している。考えてみると、私自身今日まで研究と評論という二つの分野に足をかけて生きてきた。研究者の生活と評論家の生活とは、そもそも矛盾しないものなのだろうか。

私自身この問題を考えることになったのは、一九七五年六月、「東京新聞」などに掲載される論壇時評を、担当することになったときである。論壇時評とは、総合雑誌の主要な論文を取り上げる批評欄である。一口に月刊雑誌の批評欄といっても、月刊誌に掲載される論文の数は多い。それにこれらの論文の著者は親しい友人とまでいかなくても、互いに面識のある人が多い。学会の関係もある。そこで自然多くの評者は、できるだけ多くの論文をとりあげて多くの著者の顔を立て、同時に適当にこれらの論文をほめてお茶をにごすのが習慣になっていた。当然読者が読んで、おもしろい批評欄ができるわけがない。そのため私は論壇時評などはそれまでほとんど読んだことがなかった。

そこで論壇時評を始めるに当って私は第一に少なくとも論文の著者よりは、読者を大切にしようと思った。つまり著者や編集者に気がねした内輪ぼめの批評では、百万を単位に数えなければならない新聞の読者に、いかにも不公平だと思ったのである。そこで私はたとえば論壇時評には当時とり上げられたことのなかった、「文芸春秋」の論文を積極的にとりあげた。

その頃の「文芸春秋」は言論界のタブーになっていた問題を次々にとりあげて、部数も百万台に向って、どんどん伸びていた。私はまた週刊誌やサトウーサンペイ氏の漫画なども取り上げた。固い雑誌論文が、遠慮して明らかにしないような批評を、週刊誌やサトウ氏の漫画は、ズバリと述べている場合が多かったのである。また私は時評を書く前には、毎月必ず外国の雑誌をまとめて読み、日本の論壇が避けていた問題や視点も、とり入れることに努めた。