和製ミーガン法の導入に反対

いろいろまとめてみました。

「性犯罪者の再犯率は高い」は本当か

まずは以下のサイトをご覧頂きたい。

マスコミによる再犯率関連報道では、「警察庁によると、強姦と強制わいせつで検挙された容疑者のうち、何らかの前歴を持つ者の割合はここ数年、50%を超え、30%台後半にとどまっている他の刑法犯とは大きな開きがある」と報道しているが、

  1. 再犯率再犯者率の混同
    報道に使用されたデータは再犯者率ばかりだったが、これを再犯率と誤認している
  2. 罪種を絞り込んでいない再犯者率データの使用
    「41%」や「50%超」と言う再犯者率の値は、「検挙者中に何らかの前歴を持つ者の割合」であるが、この中には性犯罪以外(例えば万引き等)の前科も全て含んでしまっている
  3. 強姦と強制わいせつの、同一罪種の再犯者率
    強姦(8.9%)や、強制わいせつ(11.5%)、強姦+強制わいせつ(10.6%)は、他と比べて決して高い再犯者率とは言えない。

「日記みたいなモノ。」のサイト運営者の方が警察庁広報課に問い合わせた際の回答

  • 「性犯罪者の再犯が50%超えると言うデータは、警察庁の方では出していない」
  • 「読売新聞の12月31日の記事にも、『警察庁によると、強姦(ごうかん)と強制わいせつで検挙された容疑者のうち、何らかの前歴を持つ者の割合(再犯率)はここ数年、50%を超え』と言う記事があるが、少なくとも警察庁としてはそう言う発表をしていない。読売新聞の言う『ここ数年』がどの位の期間を指しているか分からない。もしかすると、TVの『50%超』という報道はその数値を使ったのかもしれない」

読売新聞(2004年12月31日)・繰り返された性犯罪、不十分な抑止対策
http://www.yomiuri.co.jp/features/nara/200412/na20041231_02.htm

警察庁によると、強姦(ごうかん)と強制わいせつで検挙された容疑者のうち、何らかの前歴を持つ者の割合(再犯率)はここ数年、50%を超え、30%台後半にとどまっている他の刑法犯とは大きな開きがある。

読売新聞らしい言説ではあるが、今回の奈良での事件を政治利用しているとしか思えない。

ミーガン法を導入すればどうなるか

  • macska dot org 2004-06-08 いわゆる「ミーガン法」について
    http://macska.org/index.php?p=2
    • 刑期を終えて(あるいは保釈の条件を満たして)釈放された人に対して一生ペナルティを与え続けるというのはおかしい。殺人犯ですら釈放されればそんな扱いは受けないのに、性犯罪に限ってそれを行う理由はない。
    • ミーガン法のために真面目に更生して一般社会にとけこもうとした元受刑者たちに対するリンチ的な嫌がらせや差別が現に横行している。
    • National Institute of Justiceという、米司法省の下にある組織が2000年に出した報告
      • 住居から追い出されたり、入居を拒否されたりした 83%
      • 脅迫や嫌がらせを受けた 77%
      • 家族が心理的に傷つけられた 67%
      • コミュニティや知人から仲間はずれにされた 67%
      • 職を失った 57%
      • 仮釈放の監視員からの圧迫が強まった 50%
      • 暴行を受けた 3%
    • 「性暴力を減らすために」という口実が、伝統的に政府による市民監視や市民権への攻撃に使われてきており、いずれ全ての犯罪について前科者の情報を公開する制度の第一歩となりかねない
    • 現実の運用において不当な適用がなされる可能性が高い。
  • macska dot org 2004-12-12 ミーガン法ふたたび
    http://macska.org/index.php?p=57
    • ミーガン法の本来の目的というのは、社会に危険を及ぼす可能性のある元性犯罪者の存在についてコミュニティに知らせることで各家庭が予防措置を取れるようにするというもの。
    • 実際のところ、釈放された元犯罪者の住居や職を奪い、社会復帰の機会を根こそぎ奪う(あるいは、偽名で逃亡するよう迫る)結果となっている。
    • より重い懲罰が必要なら本来刑務所でそれを行うべきであり、釈放しておきながら一生社会復帰の機会を与えないというのはおかしい。

今の日本で導入されれば結果は推して知るべし。

問われているのは自分たちの社会

僕たちの社会でいわゆる「ミーガン法」を立法意思通り導入することは可能だろうか。

  • macska dot org 2004-12-12 ミーガン法ふたたび
    http://macska.org/index.php?p=57
    • ミーガン法とは)コミュニティ内で前科者を受け入れる事を前提として、子どもへのリスクを減らし共生をめざすことを意図した制度(強調・下線はkawakita)
    • コミュニティから前科者を暴力的に追放するための制度となっているのが現状
    • もし実際の子どもに手を出すような事があれば、逮捕されてそれを全て失いますよ、と。そうすることで、自分の欲求実現のためには子どもに手を出さない方が良いという現実感覚を身につけてもらうしかない。(強調・下線はkawakita)

ここで登場している「現実感覚」とはちょっと違うかもしれないが、社会の側にも(軍事用語であるけれども)「CBM(信頼譲成措置)*1」による「現実感覚」が必要とは言えないだろうか。宮台真司氏の以下のコメントを参照。

 我々は「相手を信頼できるか信頼できないか」みたいな幼稚園児の二分法で行動しすぎる。「北朝鮮は信頼できないんで、交渉すべきじゃない」って馬鹿じゃないのか(笑)。そんなの当たり前。信頼できるできないの二分法で行動しない。それがCBM、つまりConfidence Building Measuresの本質です。これは単なる利害ネットワークじゃないことにも注意するべきです。
 仲正さんと私とが思想信条も宗教も全く違ったとする。信条の内容からいえば互いに殺し合っても不思議はないとする。でも何度か一緒に飯食ってるうちに、何とはなしにミメーシスを憶え、どうにも仲正さんを殺せなくなる。これ以上裏切ってはいけない気分になる。そういうことが重要なんです。別に肝胆相照らして分かり合うのも必要ない。利害ネットワークで縛りあうのも必要ない。信頼と不信の幼稚園的な二分法は何とかなりませんか。
 皆さん「コミュナルなもの」って言う場合も勘違いしてませんか。思想信条の一致や価値観の一致という以前に、時間や空間の共有という事実性から来るミメーシス(感染・模倣)がある。意見に共鳴できるとか分かり合えるとか一体化できるとかいうことじゃない。意見の一致どころか、相手が何を考えているのか全然分からなくたって、毎日一緒に飯食っているうちに相手を殺せなくなっちゃう。そういうメカニズムがある
 「視界の相互性」もそうやって獲得されていく。社会学者自身が全然分かっていない。「視界の相互性」は分かり合いでも一致でもない。「相手からこんなふうにオレが見えてるんじゃないかな、それは本当のオレとちょっと違うが、まあいいか」みたいになっていくだけ。自分の発するオーラがどんなものか想像可能になれば、自分がどう出りゃ相手がどう出るか分かる。そうなると戦略的なコミュニケ―ションだってできる。
 それがCBM。これは本当に重要です。先にお話ししたように「勘違い」に基づいて一緒に同じ方向に走っちゃうってことだって、CBMに役立つ。信頼できるかできないかの二分法じゃない。事実性を積み上げて互いに殺せない関係にもっていくっていう発想が、我々には欠けている。幼稚な輩ほど「こいつは敵だぞお!」と一体になりたがる。民俗学的な共同体的作法。これでは肝腎の利益を失ってしまう。
(強調・下線はkawakita)

このコメントは「外なる他者」の北朝鮮に対する日本の外交姿勢を批判したコメントであるけれども、「内なる他者」たる逸脱者・犯罪者に対しても同様のことが言えるのではないか。
さらに少年犯罪の被害者とその少年の関係を描いた映画『息子のまなざし』の解説に以下のようなコメントがある。

【修復的司法へのタイムリーな但し書】
■カメラは、映画は、理解と納得が大切だという規範ではなく、ミメーシス「を」もたらす事実性、ミメーシス「が」もたらす事実性を、ひたすら推奨している。包摂「を要求する」啓蒙主義的な観念性ではなく、包摂「をもたらす」事実的な身体性に注目している
■だから、通念に基づく決断ではなく、反通念的なミメーシスがもたらす逡巡こそが推奨される。人々を通念の海に浮かべるコミュニケーションではなく、一緒に体を動かすこと、食べること、視ることがコミュニケーション不可能性を乗り越える所作として推奨される
現実にそのようなことがあるのかどうか、正直分からない。でも映画は、あるかもしれないと感じさせてくれる。そのことが、包摂が、修復的司法が、コミュニケーションを通じた理解と納得によってもたらされる、とする私たちの通念を、確実に揺るがせてくれる。
■昨今、加害少年の処遇をめぐり、排除と重罰化を主張する立場に対して、コミュニケーションによる感情の修復と、社会関係への再組込を主張する、修復的司法の立場が紹介されるようになった。この映画はタイムリーに、私たちの修復のイメージを拡げてくれる。
(強調・下線はkawakita)

昔は包容力があったと言われる日本社会。僕らは「異者」と感じる人々を排除すれば問題が本当に解決するのか再考しなければならない。

 セクシュアリティとセクシュアル・アイデンティティの個人化が進展する中で、今回の警察庁の提案やミーガン法のような法制度は、一定の役割を果たすだろう。それは、性的欲望の在り様における混沌とした状況の中で、操作的に「異常性欲者」「性的倒錯者」を可視化させることで、人びとを「私たちは、あの『変質者』に比べるとまだマトモだ」というように安心させる機能を果たすことになる。そうして「異常者」カテゴリーを操作的に創り出し、またそれを監視によって可視化することによって、そのカテゴリーの範疇外にいる人々は、自身のことを「正常な」性的欲望の持ち主であると自称することが可能となる。しかし、この「正常さ」はあくまで「異常者」との差異化によって得られた不安定な認識であるため、「正常さ」という認識をより安定的なものとするためにも、今後「異常者」「性的倒錯者」の範疇は(精神病理学的な範疇とは関係なく)拡大していくだろう、ということも否定することはできない。そして、私たちはその動きについて絶えず敏感でなければならないだろう。
(強調・下線はkawakita)

こっちもそれ以上に問題だ

子供のことを真に考える気持ちがあるのならこっちも考える必要あり。

別のポイントを挙げると、これは性暴力や子どもの虐待について何らかの取り組みをしている人にとっては常識だと思いますが、子どもへの虐待の加害者として一番多いのは、両親及び同居している大人でしょう。得体の知れない異常性愛者(が今回の事件に該当するかどうか確証がありませんが)が起こす事件など、それに比べればはるかに頻度が低いですが、その部分に集中して運動を起こすことで、「一番危険なのは自分の家の中」という事実から目を逸らし、「子どもの虐待とは、一部の異常性愛者が起こす問題」という決めつけに加担する危険もあると思います。

奈良県の小学生殺人事件をきっかけに、性犯罪者の前科情報を地域で共有するというような提案が警察主導でなされ、賛同する人も多いようである。

けれども、統計を見てみよう。昨年の青少年白書(内閣府発行)によると、少年に対する性犯罪の被害件数は約7千件であるのに対し、児童虐待の相談件数は約2万件である。
ことの性質上、申告されず関係機関が認知しない暗数がいずれにも相当数あるであろうが、やはり桁が違う(暗数では虐待のほうがはるかに多いであろう)。

そういうわけで、子どもたちを性犯罪者(性的非違に関する名指しは、テロリストという名指し同様、常に政治的なのだが、ここでは措いておく)の脅威から護ることより、親と呼ばれる者の恣意的権力から救うほうが緊要課題ではないか。