Kawakita on the Web

2007-07-27

[] 萱野稔人氏×北田暁大氏トークセッション「権力と正義」 参加  萱野稔人氏×北田暁大氏トークセッション「権力と正義」 参加を含むブックマーク

権力の読みかた―状況と理論『国家とはなにか』
 ジュンク堂の池袋本店だけでなく新宿店でもトークセッションが開催されるようになったようで、本日開催された萱野稔人氏×北田暁大氏トークセッション「権力と正義」(萱野稔人氏『権力の読みかた―状況と理論』出版記念)に行ってきました。


※要注:以下のものは、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


両者の国家論のスタンスについて

  • 北田氏は『責任と正義』で「正義・公正(Justice)」の観点から国家の問題を論じた。
  • 萱野氏は『国家とはなにか』で「暴力」の観点から国家論を展開。
    • 簡単に国家はこうであるべきという「べき論」に行くのではなく、国家の機能分析の議論を展開している。
両者が重なり合う論点
  1. 国家を考える上で「物理的な暴力」「身も蓋もない暴力」を理論構成に組み込んでいくと問題意識。
  2. 両者とも再配分型のリベラルな国家のあり方を肯定するが、理論構成上はロバート・ノージックを重視。
    • ノージックは自然人たちの私的な処罰権・物理的な暴力をどう抑制し制度化していくかという国家論を契約論的な伝統に基づき展開。
    • ノージックの結論部分であるリバタニアニズム的見解に否定的。でも論理構成上ノージックを重視。
  3. 国家のしたたかさを真剣に受け止める。
    • 近年「想像の共同体」としての国民国家(Nation State)を批判・脱構築・相対化していく議論が広まった。
    • 国民国家は近代の産物であっても、それ以前から国家は存在しており、脱構築・相対化の作業の重要性は認めつつも、それとは異なる固有ロジックで国家というものが作動してしまう面があるという認識。
    • 存在論的国家論がずっと忘れられてきた。忘れている人に限って「国民国家を超える」「国家など存在しない」と主張してまいがち。
「暴力」から考える国家
  • 国家とは一定の領土の中で合法的な暴力を独占している、国家だけが戦争・逮捕・刑罰等の物理的強制力を用いる権限を持っている、という定義。
    • 暴力が行使される前は交渉の余地はあったとしても、いったん発動されてしまった暴力に対しては抑止する手段が最終的にそれを上回る暴力しかないとすると、好むと好まざるとに関わらず暴力の問題に直面する。
    • 暴力を暴力で抑止するという基本的な運動の上に国家が成立っているとするならば(実際それで成立っている)、はたして簡単に「国家を超える」ことが我々にできるのか。
    • 国家が集中的に独占・管理することでより暴力が組織化されて計算可能な方がよいか、個々人・各組織でバラバラに管理されていて暴力が予期不可能な方がよいか。明らかに通常は前者のほうがよい。
    • ホッブスの「自然状態」はフィクションだという物言いがあるが、それは現に事実上国家が独占的に暴力を管理している状態だから発生していないだけで、フィクションではなく実際に起こりえること。
  • 「国家を超える」のが思想的に正しくて国家の中に留まっているのは思想的に遅れているというところに価値基準を立ててしまうと、おそらくダメ。

国家による承認・アイデンティティの問題について

  • 同性婚事実婚を制度的に求める人たちは結局国家というものを前提としてしまっている」「制度上の社会的なマイノリティとしてマジョリティに対抗しているように見えても国家の正統性を再生産してしまっている」という批判がラディカルな立場からなされる。
    • マイノリティの社会的承認が重要な政治的課題であるとして、国家からの承認が国家を前提としているという批判スタイルははたして可能なのか/妥当なのか。
    • 国家による承認ですぐにナショナリズムを思い浮かべがちだが、国家は単に暴力を保持しているだけではなくて正統性を調達する必要性も持ち合わせている。自身の行動が「公的」であるという定義権も集中させている。
    • 現実に公的であることの定義権を(ある程度)独占している国家をあたかも存在しないかのように脱構築を図るのは、むしろ国家の剥き出しの暴力装置としてのあり方を黙認してしまうことになるのでは。
  • 国家による承認を二つのレベルにわけて考えるべき。
    • ひとつは権利の承認。国家は物理的な暴力を背景に、裁判所で法律を背景に判決を下し、社会に権利の体系を維持・構築していく。その最も基本的なものが所有権。誰にどんな権利が付与されているかを体系付ける。
    • もうひとつはナショナリズムにも関わってくる国家がその人に存在の価値を与えるという意味での承認。国家がその人の生命の価値を認めるアイデンティティの問題(典型的には靖国問題)。
    • 権利が社会の中に設定されることを最終的に保障する「もの」は何か。個人の所有権を最終的に保障する「もの」は何か。所有権を無視する場合は制裁を加えるという「暴力」。
  • 資本主義とは所有権を前提とした社会関係。所有権が国家の暴力によって維持されているとすれば、国家と資本主義の関係を見直さなければならない。
    • 資本主義がグローバリゼーションを通じて発展していけば国家は弱体化・消滅するだろうと言われてきた。しかし資本主義を成立させるための権利関係を保障するのが暴力しかないのであれば、資本主義は国家が今のところ必須と考えられる。
    • 所有権を確定し、所有権が侵された場合に処罰を行うのは誰なのかという問題をどう考えていくのかが社会契約論のスタート地点。
    • 議論の構成はロック的・ノージック的なものと近接しているが、結論としてはリバタリアン的な市場原理主義的な帰結には否定的な立場をとるとするとどういう論理展開となるのか(おそらく矛盾ではない)。

国家と再分配について

  • 福祉国家とは税金を取り社会保障として再分配すること。最近は財政難・社会意識の変化などで機能していないという現状がある。
    • 「再分配」を行わない国家は存在しない。国家自身のために使用する場合でも、例えば軍事基地を作る場合でも、それがすでにひとつの再分配として機能する。
    • 現在ネオリベと呼ばれる最小国家が富の再分配を行っていないわけではなく福祉国家と再分配の方法が異なる。福祉や公共事業での再分配ではなく、システム管理やテクノロジー育成、治安維持のための再分配を行っている。
    • 国家がどのような再分配を行うかということで常に政治的な議論・闘争が生まれ得る。
  • 国家がより福祉政策の方を実施するようになるには
    • 国家は国家にとって得策である限りにおいて福祉政策を行った。戦後の経済復興期において、共産・社会主義圏に対抗する意味もあり福祉政策を行い富を再配分し、国民がこれまで購入できなかった新たな生活必需品を購入し、企業が儲かりさらに税金が入りというサイクルが回っていた。冷戦構造が崩壊しそのサイクルの有効性がなくなってきた時点で政策転換が起こる。
      • 萱野氏は国家を暴力の集積装置としてとらえており、事後的に国家は正統性を調達するだけで必ずしも福祉政策・公共事業が帰結されるわけではない、でも方法はどうあれ再配分を国家は必然的に行いうる、という考えのように見える。
    • 国家を単なる暴力の集積装置のみではなく公的な正統性を維持していかなければならないものとしてみることで、福祉政策的なものを正統化できないか。
      • 北田氏は国家は暴力の集積装置でありつつも、国家はその正統性を主張し生成し続けていかなければならないという点が、国民の最低限の生活保障(social minimum)を担保するための福祉政策・公共事業の一定の根拠になりうるのではないかという点を論じていたように思える。
憲法第9条と萱野国家論について
  • 日本国憲法第9条の非戦/非武装という考え方は「暴力」を基本とする萱野国家論とどう接合されるのか。
    • 憲法第9条はあくまで対外的な規定。日本という国家の領土内での公的な暴力の独占という意味からすれば特に矛盾しない。
    • 非戦・非武装の規定をもっている国家は日本とコスタリカ。
      • コスタリカは集団安全保障の外交勢力バランスを利用した方が自前で軍隊を整備するよりも国防上効果的だからという地政学的な要因に負っている。
      • 日本は弟二次大戦で敗北し、アメリカ軍の占領下またはアメリカ軍の基地を国内に配置する安保体制という歴史的条件が前提となって、自前で軍隊は保持しない・紛争解決に武力を用いないという規定を持っている。
    • 第二次大戦後、連合国は旧枢軸国がまた暴走しないようその国の軍事力を管理しようとした。
    • 戦後レジームからの脱却」とは軍事力を管理される側からまた管理する側・軍事を公共事業にできる側になりたいということ。
    • 軍需産業はテクノロジーが集約され不況の影響も受けずに需要を生み出すので、資本主義の中でカネのなる産業であり再分配としても機能しうる。
    • 非戦・非武装は一定のコンテクストの中で成立しているものであり、国際社会の中では「合法的な暴力の独占」という事態は変わらない。

会場に東浩紀氏がおられ、以下の所見・応答がなされていました。

  • 本日の議論では国家が「軍事・治安上の保障」「経済的・福祉的な保障」「感情・承認の保障」を満たすことが一体となって話が進んでいた。
  • これら3つを果たして国家だけで満たすべきなのかという観点から、個々テーマでどうやって保障していくかという方向で議論を展開したほうが有効ではないか。
  • その3つが要請されるようになったのは近代国民国家になってから。なぜ3つがまとめて国家に要請されるようになったのかを歴史的に考えることが重要かもしれない。

※要注:以上のものは、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


本トークセッションについては参加されたid:syakekanさんが簡潔にまとめられてます。

id:NEATさん情報提供。萱野氏が本トークセッションについて言及されているそうです。

NEATNEAT 2007/08/02 01:28 よほど印象的だったと見えて萱野さん自身もこのトークイベントに言及されていますね。

・萱野稔人 交差する領域 2007.8.1 第15回 〈権利〉と国家と資本主義
http://kayano.yomone.jp/?p=8

kwktkwkt 2007/08/02 01:35 NEATさん、情報ありがとうございます。さっそく追加しました。

syakekansyakekan 2007/08/02 01:35 凄い!KAWAKITAレポート復活ですね!

kwktkwkt 2007/08/02 01:39 syakekanさん、コメントありがとうございます。
本トークセッションはわかりやすくかつ大変勉強になる内容でしたね。