デブリという存在

核燃料デブリは、いずこ。
これは誰もが知りたがっている最大の関心事だ。
これを探るべく、探査がなされている。
カメラ付きのロボットも、その一端を明かしたいと勉めている。
カメラが一月末に、福島原発第2号炉に投入された。
そして、新聞は
「(その映像が)デブリを捉えている」
といっているのだが、そんなに都合良く、溶け落ちたデブリが映っだのだろうか。
核燃料の燃え滓かどうか、むしろ燃え盛っている高温の核燃料がそこにはない。
むしろ虚ろにみえる大きな孔が映っていた。
だから、その孔の先に燃料はドロドロにとけておちてしまった、、、
のではないかと思える。
デブリがその先に映ってくるというか、映像化されることが、未だ不明だと思う。
 
溶け落ちた核燃料は、未だ強烈な核反応を引き起こしている筈だ。
それに、地下深くチャイナシンドロームで溶けて居るのでは。
さらに、潜っていってしまっているのじゃなかろうか。

デブリの取り出しは、現世のこととはとても思えない。
未来に引き延ばされた負の遺産なのだ。

この世のありとあらゆる事象の、すべての「分かり難さ」
このことは、ここから発している。
17Feb06

純粋言語とは(その2)

純粋言語についての続きである。
 読んでる本が面白いと、前号で書いた。ものが語りかける世界である。というと、人が語りかけることを受け止めるということは日常普段にあるとして、「もの」がとなると、難しい。それが、何の話しか分けがわからない、ということになるだろうか。
 震災のときの体験は人々の言葉を奪ったまま、自体だけが静かに深く潜航している。
そして、福島では、不気味さが余震という形で語り続けている。もう五年もたっているというのにだ。
 さて、知り合いが、ベンヤミンを読んでそれらについて語ったことを本にした。そういったときに例の震災が起きて、身の震えるような体験をしたそうなので、それが本を作るときに大きなモチーフになったようなのだ。
 その後、夢にまででてきて、波や家や車が、未だに語り出す。あのときの光景を前にしたとき、ことばを失ったとかいう体験をしたわけだ。
 そして、その後話し出したものが、みなとるに足りないものとなって、無惨に転がっていろところも経た。
 探せば、かの震災に関しての、膨大な書類が作成されただろうが、よくもまあ、恥ずかしいことばを並べ立てたものだ。沈黙していてよかった、とこのごろつくづく思わされるのだ。
16Dec15

純粋言語とは(その1)

瀬尾育生の『純粋言語論』を読んだ。
 「純粋言語」とは、とてもおどろしいものいいである。本書の後付けをみると、震災の一年後に刊行されている。わたしは、あれをみて身震いした。その後の福島を追うにつけ、それで心がざっくりと刳れてことばを失うほどである。宜なるかなというところか。
 さて、純粋言語とは、ベンヤミンの語る概念であり、それを瀬尾が敷衍して語るところである。そのモチーフを、わたしは震災の影響なのではないか、と思っているのである。すなわち、純粋言語とは、人がコトバを口にするという、いってみればそれ自体凡庸な出来事ではなく、ものが、まさに語りはじめるということである。
 そういうことで、瀬尾のいうところによれば、『ランプも山々も狐も私たちに向かって語っている』ということである。そのことは、こう読める。すなわち、まさに波や家や車が語りかけてきたあの光景をいっているのではないだろうか。あの光景のまえで、わたしはコトバを失った。
 失ったまま、あえて語り出すことばが、ことごとく軽く流れ去ってしまう。いわば波の上の出来事でしかない。語ったり、歌ったり、感動を呼びかけるコトバや歌もみな、空しく塵芥となって、波の上を流されていく。
16Nov28

いままた親鸞へ

いままた『最後の親鸞』に興味をかき立てられる。
広く団塊の一員と目される世代にわたしは属しているのだろうか。
日頃私の帰属はどこにもない、と、自負している自分であれば、団塊の仲間に属するなどということは、まさに恥でしかない。それでも、この世代が、高齢化社会の賭場口に立っているとするならば、これから社会はどこへ向かうのか、われわれは今後どうなるのか。そのことを考えないわけはいかない。
そんなとき『最後の親鸞』は語りかけてくる。
もう一度親鸞の言葉に身を寄せてみたい。

「悪」とは何か?

姜尚中の『悪の力』を買ってきて読んでいる。この本は、近頃起きた殺人事件の数々から書き起こしている。それにしても戦慄すべき恐ろしい事件の数々である。このなかから悪を取り出して考察するのであるが、驚くべき事件で、人々を震え上がらせた。
 そこから人間に潜む、悪の根源を極めようとする。だが、それはなかなか困難なことなのである。
 さて、姜尚中は、第一章の終わりでマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を引いて、いう。「精神のない専門人、心情のない享楽人、この無(ニヒル)のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」というように引くことで締めている。そして、第3章で、資本主義とその害毒を語るが、ここはなかなか読み辛い。

次の世代に向け3

核反応の連鎖が高熱を発する。
この結果、核燃料は解け落ちた。
そして、残念ながら現在は行方不明である。

問題なのは炉心溶融に至った後の溶けた燃料棒の挙動である。溶融した燃料棒は、「デブリ」と称される塊となり、自己崩壊熱のため3000℃といった高温体となって動く。
多摩大学名誉教授 那野比

と、してさらに、かく、いう。

デブリの挙動に関しては、高熱によって、燃料棒が入っていた圧力容器を突き破り、外側の格納容器底の水に反応して水蒸気・水素爆発を引きおこす。さらには 爆発で残ったデブリ中の核分裂物質の量が限界質量を超えて亜臨界に達し、断続的に発生する連鎖反応によって大量の超危険な中性子がまき散らされる。
多摩大学名誉教授 那野比

教授は、遠慮気味に、「亜臨界」としているが、臨界であっても、何ら不思議は無い。
とても怖いことなのだ。
15Apr21

次の世代に向け2

その後の新聞報道によると、こうらしい。
2号炉の中へロボットを投入。
これは配管のなかを伝って投入された。
したがって、蛇型をしている。

この蛇が、原子炉の中へ入っていった。
そして、内部の画像を送って来た。
それに因ると、デブリらしい画像は見当たらない。
何処へ行っちゃったのだろう。
これは誰しもが思う心配の種だ。

デブリがどこでどうなっているのか?
これが判らないと、何とも手の出しようがない。
これが現実なのだ。

再臨界がおきて高温のままで。落下している。
辺り構わず溶かしている。
ひょっとしたプラズマ状態になっている。

あらゆる懸念を払拭し難いのだ。
未だ未だ、解決することはなさそうだ。
私が生きている間には、無理かもしれない。
15Apr16