一年がすぎました

 実に一年ぶりの更新です。

 昨年夏、スイス、イタリアから戻りまもなく父を看取りました。
日本での仕事も終え、やっと今晩は一緒に食事をしよう、と実家に行ったその夜の入院。それからわずか一週間、あっというまに旅立ちました。

 まるで待っていてくれたかのようなタイミングで、最後の日々は毎日病院で父とすごすことが出来ました。
最後を母には見せたくなかったのでしょう、母が仮眠に帰った夜中のことでした。
指で感じていた弱い鼓動がことん と終わり、抜けていったのがわかりました。

悔やまれることはたくさんあり苦しみましたが
遺された者のエゴがやすらかに魂を送れるものではありません。
父には感謝以外のなにものもなく、片時も離れなかった伴侶を失った母が元気にいてくれることがなによりの父への供養かと思います。

先日ひと月早い命日に一周忌の法要をすませ
あたらしい気持ちで夏を過ごしたいと思いました。
八月は日本が悲惨な状態で敗戦した月
魂が還ってくるお盆もかさなってもの思う月。
そして、父の生き様をあらためてこの身で思う月となりました。

 戦後、まだ少年のあどけなさが残っていただろう父は、手のひらを返したような国に声も出なかったのではと想像します。誰に頼ることなく家族を牽引するために、憧れや夢想といった若者の宝を身体の中に押しとどめて必死に実を生きたのだと思います。
 母と出会って比較的遅い結婚を決めたとき、やわらかい灯火を心にともしたのではと想像します。母をよく音楽会に連れて行ったとか。幼い私に音楽はじめ芸術の喜びを教えてくれたのも父でした。
 家族を養い、仕事をしながら自身の理想の家を何年もかけて造り、その後は謡曲や書道、巡礼に心を注いだ父。今から思えば父の心は職人技や芸術などの有形無形の創造の方面にむいていたのだという気がします。時代や現実がそれをもしゆるしたならどんな世界を生きていただろう。だからこそ父の資質に似て生まれてきた私に、音楽はじめさまざまな稽古事をさせてくれ、それとなく無形の世界の深淵に導いてくれたのだと思います。
 とはいっても私の生業は社会的には安定しない仕事、世の父としての心配は絶えなかったかもしれませんが、今となっては私が語りという形のない世界に身を浸していくことは、父と生きることなのかもしれないと感じています。

 親族がなくなるたびに不安定になっていた母、父が逝ってしまったらどれほどに と思っていたけれど、人工股関節をいれてまで数年間頑張り抜いた介護、可能な限りやりきったという気持ちがあるのでしょう、父との新しいおつき合いを穏やかにすこやかにはじめた母の幸いを嬉しく感じています。
 先日結婚前にデートしたという喫茶室フランソアに母を連れて行きました。母はなんとなくこそばゆいような面持ちで、その当時は影も形もなかった私が、小さくなった母の前にこうして居ることの方が不思議な感じがしました。

 父の不在で迎える初めての自分の誕生日を母と過ごし、二人があって自分がここにいることを再認識し、この日母は着物を着て写真を撮ってあちらへのみやげにするのだと、炎天下スタジオまでの道のりをものともせずに歩きました。少女のようなかわいさでした。








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