日本ではなぜビジネスライクな防衛論が語られないのか。

 乱暴な話であることは自分でも理解しています。あと、かなり強引である事も。それと、いつもの通りソースは提示しませんし、これはあくまでも私個人の感覚を元に導き出したもの、という事でご理解ください。最も、世の中に個人の認識以外から生じる文章というものが存在するかは疑問ですが。

 さて。
 本稿はTwitterで某方が漏らしたお言葉に対しての返答のようなものだったりします。その方は、日本の防衛が『愛国心』というような抽象的概念で語られる事が多いことを不思議に思われていたようです。もちろん国土防衛に愛国心の裏づけは必要ですし、その啓蒙にはちょっとやりすぎではないか、一抹の胡散臭さも感じつつ、それそのものに対しては否定する論を持たないのですけれども、確かに理論的見解というものが行われていない現状というのはある気がします。
 ただ、このあたりの事を考えますと、例えば沖縄に駐留する在日米軍がなぜ沖縄にいなければならないのか、という辺り、この話はおおよそ理論的に解説がなされてきたはずなのですが、それはあまり一般的にはなっていないのかな、という気もします。
 彼の元首相はその説明を受けて、それが必要だとその時は思ったらしいのですが、あとで振り返るとよくわかっていなかったらしいという例のアレ、ですね。
 
 さぁ、では何でこんなことが起きているのか、ちょっと考えてみましょう。


 おそらくその原因は我々日本人が持つ軍事への罪悪感から来るのだと思います。
 我が国が現在持っている憲法日本国憲法はその中で戦争を放棄しています。これは私も誇るべきものであるとは思うのですが、これについては右左双方より過剰な反応を招いているようにも思えます。
 まず右派は、この憲法アメリカによる押し付けであり、戦争を放棄させたのは民族自決の権利を剥奪されたものだとしています。
 対して左派は、この条文によって日本は戦争をせずにやってこれたのだ。平和はこれによってなされてきたのだと主張します。

 私個人としては、どちらも無茶な気がします。

 例えば、確かにこの憲法は占領国たるアメリカから押し付けられたものかも知れませんが、それにより我が国はアメリカに国防を押し付け、これまでの経済発展を行えたのだと思いますし、そもそも当時政財界/識者の各位が奮闘努力して組み上げたものだと信じています。先の大戦、つまり第二次世界大戦ですが、これは兵士と下士官、下級将校らの奮闘によってなんとか国を維持できた戦争だったわけで、高級将校や為政者、知識人らの無能によって失われたものだったとも思います。もちろんその背後には国民一般の欲望もあったかと思います。で、その反省から戦争が放棄された。8月15日も敗戦記念日ではなく終戦記念日とされたものと私は認識しています。それまでの戦争は、例えば日清・日露、第一次大戦、それからシベリア出兵に日中戦争というものは戦争が世間から遠く離れて展開しており、もちろん多くの家庭では父や子、兄や弟を失っていたのですけれども、すくなくとも全てを失う人は少なかった。対して太平洋戦争、一部は大東亜戦争と言いたがっていますけど、この戦争はかなりの人が全てを失う戦争でした。もちろんそんな中でも何をかを掴んでのし上がった人なんかもいる訳ですけれども、それでも大多数は家を焼かれ、家族を失った訳です。それが悲劇的体験となり、戦争からは何も得られないと心に深い傷を負ったのでしょう。そう、戦後生まれの私は感じています。
 ですので、私はそもそも集団の和を強調する割には誰もその方針に責任を取らず、リーダーがリーダーとして振る舞う習慣を持たない我々は戦争という一大事業に手を出すべきではない、と思うのです。

 では、左派の主張はどうでしょう?
 左派は憲法第9条を持って日本は戦争に巻き込まれずにすんだ。にもかかわらずアメリカは自国の国益のための戦争に日本を巻き込もうとする。だからアメリカ軍は出て行け! 戦争反対、自衛隊反対と叫ぶのですが、そもそも第一の認識が間違っていると思います。
 アメリカ軍が日本にいるのはもちろん日本をアメリカの勢力下に置きたいからだ、アジアにおけるアメリカの覇権を維持したいからだという論は理解できます。ですが、アメリカの軍事力のお陰でアジアはこれまである程度平穏にあったのだと思います。
 お前は朝鮮戦争ベトナム戦争の悲惨を知らないのか? といわれるかも知れませんが、あれはアメリカの起こした戦争だったのでしょうか? もちろんアメリカはその国益の為にその戦争に参加したのは自明です。が、朝鮮戦争は韓国の維持を目的とした、どちらかといえばソ連が起こした戦争でしょうし、ベトナム戦争はむしろフランスからの独立戦争の果てに存在した内戦だったと考えてもいいのではないかと思います。おそらくアメリカだってやりたくてやりたかった戦争ではなかったでしょう。
 中東に関してはその限りではないですけど。

 ただ、台湾に今でも中華民国旗がはためいているのはアメリカのお陰でしょうし、ソウルに韓国旗が(以下同文。この辺りを否定する左派の方っておられますかね? 台湾は中華人民共和国固有の領土である、韓国はそもそも朝鮮民主主義人民共和国であるべきだと叫ぶ事が出来る人がいたら、それはそれでたいした度胸だとは思いますけれども。

 つまり、日本が戦後、戦争に関わらないでいられたのはアメリカ側にあり、アメリカによって日本周辺がある程度管制されていたからに過ぎないのだ、と私は思います。
 もちろん、国民に理解されず、日陰者扱いされながらその職務に精勤された自衛隊の皆さんの尽力も忘れてはならないのです。

 で、右派の一部はその状況を快く思わず、自国軍をを創設し、その崇高なる権利を奪回せよと仰るのですけれども、はて? そんなことが出来る国でしょうか? と、私は思います。もちろん人心的にはそうする事は可能だとは思いますが、予算的、人員的に不可能でしょう。時折左派の人から『このままいくと徴兵制復活』という声も聞こえてきますけれど、第一に徴兵した兵をどうやって養うのか? 第二にその労働人口が抜けた穴を社会はどう補うのか? が聞きたい気がします。左派の方はおそらくそれは国がその権力で押し通すのだと仰るでしょうけれど、例えば予算措置、それを行うための原資はどこから引っ張ってくるのでしょう? 国債ですか? じゃあその利払いは? 絶対にそんな事皆様が愛する財務省は認めてくれないでしょう。この辺りを理解できなければ、大正期に行われた軍縮条約の話を見るとわかりやすいのですけれど、そんな事は国民の熱狂でもなければでき得ないことです。


 と、話が盛大にそれました。
 そんなこんなでまず我が国は極度の軍事拒絶症にあるからこそ、理性的な議論を行おうとしてもまずそれを理解する人がおらず、また、それを説明する人もそれが徒労となる事を知っており、あまりおおっぴらにそういった話をしないものと考えます。
 で、もしそれを改善しようとするならば、まずは軍事アレルギーを緩和し、軍事的知識を話の壇上においても野次られずにすむ環境を作り出すしかなく、その解法の一つが『愛国心』というものかと思います。
 が、その効果というものは大いに疑問ではあるのですけれども。

(Twitterでの話題より)おそらくそれも憲法のせい?

 えっらい寒くなってきました。
 失業中という事もあり、この所の灯油高値もありでうちは暖房器具というものを使用しておりません。で、親方が若い頃使っていたカイロを貰ってつかっているのですが、火口が古いこともあり発熱したとこから冷気に熱を奪われている感があります。
 という訳で、こん。きょくせんでございます。

 おいお前、こないだの話の続きは? って言われてしまいそうですが、というか、続けて読んでいる人がおられるという気がしないのですけれども、今回のお話。

新人事制度の導入辺りのお話。

 00年代、それまでの年功序列人事評価を取りやめてあちらこちらの会社が能力主義の人事制度を取り入れたかと思います。その辺りから社会人になった人たちはピンと来ないかとは思うのですが……って、世に出た段階でもうそういう評価体制だった訳ですから当たり前で、そうなるとまずは年功序列システムについて少し話してから入った方がいいのでしょうかね。

 基本的に日本の企業というものはその構成員にジェネラリストである事を求めます。
 例えば、卸問屋において、営業で採用された人でも倉庫の仕事を知らなきゃあならない。物流がわかってないといずれ支店長職なんかになった時困ってしまいますからね。いや実際はエリートコースを行く人は実務なんて知らなくっても総合管理職(って用語はあるのかな?)についてその支店業務を見なきゃあならなくなるとは思うんですけれどもね。で、現場と軋轢を引き起こすんですが。<<例えば営業に迷惑をかけないために品切れを起こすな(当たり前ですけど)。その為に最大限の在庫しろと言った返す刀で在庫は最小限に圧縮しろって言ってみたり。で、品切れが起きれば当然物流の無能を非難し、在庫が多ければ(略。お前ら給料分仕事しろ、とか怒鳴ったりね。>>
 昔ギリシアの偉い人は『万能の平凡人』(私はこれを何でも卒なく出来る人と解釈します)が理想としていたそうですが、日本の会社は全てが完璧に出来る人を求めるのですね。よく『職人』という言葉を耳にしますが、職人とはある分野における達人を意味するように思います。なんかトートロジーに陥ってる気がしないでもないですけど、日本の会社が求めるジェネラリストというのはつまり、全てにおいてスペシャリストである事を求めているのです。んな訳で、営業採用で入ってきた人は物流に廻されて腐ったりするんですが、まぁそれは別の話。

 で、ジェネラリストを育てるには年月がかかる。そもそもそんなジェネラリストが育つのかは疑問ですけど、万能の平凡人が育つにも年月がかかる訳です。そういう人を求めますから、日本の企業は年功序列制を取っていたのですね。
 多分この辺りには反論があるでしょうけど。
 
 それがバブル経済崩壊以降、重くなった中堅社員の人件費削減を日本企業は命題としました。で、導入されたのが新人事制度といわれる能力給制度です。
 人はがんばった分だけ給料が当たる。正当な評価を与えられ、能力がある人が重要ポストにつき采配を振る。会社は旧態依然とした日和見主義的な体制から闘う組織へと変貌する。
 少なくとも、当時はそう言われていたと思います。
 結論としては、どうなんでしょうね? 私個人はただ単に人件費を削減して、しかも定期昇給などがない世界ですから夢も希望もなくなったんじゃないか、と思います。
 もちろんきちんと運用されてりゃあいいですよ?
 でも、恣意的に運用されている場合が多いんじゃないでしょうかね?

 例えば数字。
 営業社員が10人で廻っていたエリアを効率化の名の下に6人で廻るようにする。4人は早期退職優遇制度などを使って退職に追い込まれます。で、その6人は対前年比105%の計画を与えられるとします。これ、達成できますか?
 当然翌年は売り上げが減ります。で、対前年比98%で歳を終えたとしましょうか。対計画はいくらでしょう? ざっと93%ですかね。で、評価Cを与えられて給与は減額されないまでもボーナスはカットですよね。もちろん昇給はなしです。
 その翌年、対前同で計画が立てられればいいですけど、対計画で立案されたら終わりです。延々とこの営業員は計画を下回り続けます。もちろんその頃はその会社自身が売り上げをガツンと減らしているので、営業以外の各部門にも給与減の圧力はかかります。
 
 例えば個人目標。
 個人目標を持って日々スキルアップを行うというあたりは新人事制度によくある話だと思います。それは個々人が目標を自主的に立て、自分の力でそれを成し遂げていくものです。それで成長した社員は会社の為になってくれる事でしょう。
 もちろん外資や一流企業ではそんな事当たり前だといわれる事もあるでしょう。
 そして、その目標は客観的に評価できるものでなければなりません。概念的なものでは評価のしようがないですからね。

 で。
 経理部門のAさんは回収サイトの短縮を目標にしたとします。回収サイトというのは今月もらったお金が一体いつの売り上げの支払いに当たるのか、というもので、例えば現金商売の場合はサイト0日ですね。今提供した商品が即現金になってますから。で、月掛けの場合は30日とか。一年前の分をもらってる……売り掛けがたまっている場合なんかは360日。このサイトというものが縮まれば縮まるほど金利とか色々助かりますから会社にとってはいい事なのですけれど、さて。
 
 Aさんに出来る事は何でしょう?
 売り掛け金の回収をするのは基本的に営業社員です。もし、お得意先に経理社員が行ってもっと支払え! とか言ったらたぶん取引が飛びます。
 と、なると、Aさんに出来る事は営業社員を突付く事です。
 もちろんお支払いの滞っている先をチェックしてそこを重点的にお願いしてもらうというようなアクションは起こせます。が、それも営業社員の仕事です。
 それって、Aさん個人の努力なんでしょうか?
 果たして全社でのサイトが10日短縮されたとします。で、Aさんは評価が上がります。その影では無理な回収依頼をしたが為に売り上げを減らした営業社員がいるかもしれませんね。
 いや、多分営業社員は動かないでしょうけど。


 そんなこんなで、新人事制度というのは私の経験からすると、軋轢は生むわ、給料は下がるわ、良い事がなかったように思えます。会社にとっては人件費の削減にはなったんでしょうけれども、まぁ、ねぇ。



 うん。今日もとっちらかった。というわけでこの辺で。

(twitterでの会話より)理想が高けりゃこけると言う話。 その3

 ボツボツとカウンターが廻ってます。アクセス解析はしていないので一体どこからどういう目的で読みに来てらっしゃるのかはわからないのですけど、こんな駄文をお読みいただきありがたくあります。

 さて。今日過去の2文を読み返してて、一体何が『理想が高けりゃこけるのか』と思い始めたのですが、はてさて、自分でもよくわからなくなってきていますけど、とりあえず進めてまいりましょうか?

(twitterでの会話より)理想が高けりゃこけると言う話。 その2

 さて、安定に一日すっ飛ばした訳ですけれども。
 今、一昨日のエントリを読み返していたのですが、やっぱり論旨がよくわからないな、などと思っているのですけれど、まぁ、ブラック企業がブラックになる理由はある程度書けたのかな、とは思うのです。
 つまりその骨格は……、

1)自動化・集約化が出来ない業種が
2)価格競争にさらされた結果
3)人件費を極端に削らざるを得ない状況が常態化した

 と言えるのかな、と。
 例えば外食産業。その黎明期、職人が個々の腕で提供してきた料理をセントラルキッチンなどで集中的に生産できるものは生産し、個々の店舗では最終的調理だけをマニュアルにしたがって行えば提供できるという形に整備したのが始まりだと私は考えています。で、個店で行う作業と言うものは簡素化されているので、高校生や大学生のアルバイトが望ましく……技術がいらないというのがそのシステムの売りだから……低賃金で運用できなければなりません、が、やはりそこは日本。アルバイトにも技能向上が要求され、また、アルバイトを使っていく上でどうしても回避できない状況……労働希望者がいない時間帯が発生してくるのですが、これを穴埋めするために社員等々が投入されていき、社員は休みも取れず稼働し続けなければならなくなる、と言う事態が発生します。
 また、その業種の爛熟が進めばどうしても差別化という辺りで個店における技能化が求められ、一応セントラルキッチンであれこれ供給するのだけれども、店舗側でも複雑な調理をこなさなければならなくなり、その為に社員や一部パート/アルバイトがどうしてもそこにいなければならない状況……その人がいなければ店が廻らないという状況が発生したりします。
 それ以前にそもそもセントラルキッチン制を否定するような企業も現れたり……というのは食品加工業側がセントラルキッチンのように振る舞うようになってきた為に個人店/小規模グループでも同じような事が出来たりしてきた、というのがあるようには思います。
 あと、料理が皆一定の水準に到達してしまうとあとはサービスや食材で差別化を図ろうとしてきたりもするんですね。そうなるとサービス(よくフロアっていいますけど)担当の重要性が増してきたり、特定食材を使う事で色々な話が出てきたりもしてしまう訳です。

 ここまで読んでくださった方はお気づきでしょうが、ブラック企業がブラックになる理由として私が1)集約化できないと書いたのはおかしいやないか? という話が出てきます。
 えぇ、問題として、集約化してコスト削減を図った業態がその競争の中再度分散化していった為に集約化が出来なくなってしまった、という状況が発生しているんですね。
 で、往々にしてその業態の経営陣というのはそもそも集約化される前にその業態で生きてきた人が多く、だからこそ集約化後に発生してきた問題を再分散で解決し、そこで生じるコストは努力と根性で相殺せよ、と命じなるのです。

 つらつら労働環境を歴史的に眺めていると、我が国において俗に言うサラリーマンというのはどうも戦後高度成長期が始まった頃から、イギリスにおける福祉国家の成立のように、労働者への保護を求める政党と国家としての成長を追及する政党のせめぎあいの中で成立したんじゃないか、と思うのです。ただ、それを運用する人間なり、管理職というのはその枠外。例えばよく公務員はお役所仕事で〜と言うような話がありますけれど、中央官庁などは上から下まで午前様、私の世代であればタクシー券問題なんかも聞いているかと思いますが、つまりは終電に乗れない公務員ってのも大勢いた訳です。
 と、なんか話が明後日になっちゃいましたけど、うーんと。
 つまり、我々が夢見るサラリーマンというのはそれこそ自民55年体制と呼ばれた時代、私はアレを自民党社会党の2大政党合作時代と呼ぶべきだと思っているんですが、その中のごく短い期間しか存在しなかったんじゃないか、と思うのです。しかもそれはごくごく一部の業界においてしかなかったんじゃあなかろうか、と。

 
 ここまで書いてきてふと気になったんですが、『経営者マインド』ってつまりヒラも管理職的に働け≒残業代なんか当たんなくて当たり前よね? ってことなのかな、と思ったりしています。もちろんよく言われる『給料分働け』というのはまっとうな事で、私が新卒の頃よく言われたのは『給料の3倍売り上げを上げないと会社は廻んない』という辺りは事実だと思います。ただ、まぁ、それが見えるか否か、営業なんかだと数字に追われますけど、製造や物流なんかは経費しか目に出来ないわけで、その活動を価格化できるか否か、という話は当然ある。そしてそういう意味において京セラのアメーバ経営理論ってのはすげーなぁ、と思ったりもしている訳です。


 と、とっちらかっちゃったので今日はこの辺で。

『経営者マインド』という言葉

 昨今、社員は経営者意識を持つべきだと言うお話が盛んに聞かれます。もちろんそれは営利目的に存在する企業体が同じ方向に一丸となって突き進む上では重要な事だと思うのですけれども、どうも聞いているとそういう話でもなさそうな事例がままあります。
 と言うのは、例えば経営というものがどういうものか、と言う事を考えるとそれはつまり利益を出すために行動するというものだろうと思うのですが、ならばそうする為には何をすべきか? 営業であれば受注を増やす。その為には取引先を増やしたり、取引先での自社シェアを増やしたりするしかない訳です。<<ただ、この場合営業員は無闇な価格競争に出たり、接待攻勢に出たりして、結果として営業利益がマイナスということもよくあるのですが>>では生産部門や物流管理部門では何をするか。徹底したコスト削減を行うしか道はありませんね。
 コスト削減。日曜日の朝にテレビを見てますと、そういうCMがバンバン流れます。そしてそれはあらゆる企業において大命題な訳ですね。ただ、無闇なコスト削減というのもあるんだと思います。それこそが、つまりブラック企業ブラック企業たる所以、なのです。

 現場において最大のコストは何でしょう。はい、人件費ですね。工場の海外移転というのはまさにそういう事で、正規雇用の非正規化というのもそういうものでした。ただ、それも行き着いてしまうとやはり今ここにいる人間の人件費を何とかしようと言う流れとなり、例えば8人いたのを4人にし、それで8人分の仕事を廻せ、廻せないのは工夫が足らぬ、廻らないなら残って廻せ、廻せないのは能力不足、そこに賃金払えるか! という話になってきてしまうのですけれども、どうもこの辺りを正当化するために『経営者マインド』を持てと言う会社が出てきているような気がするのですね。

 例えば、ブラック企業は外食や流通、物流などにも見られるようで、そういった所は往々にして人がどうしても必要なのですけれども、果てしない価格競争の中で人件費に手をつけざるを得なくなり、無茶苦茶になっている事例が多いように思えます。とある会社の創業者さんは昼間物流会社で働き資金をため、夜には外食産業でサービスを学び起業したそうですけれども、立身出世伝としては見ていて面白いですが、それを全社員・パートやアルバイトにも求めるとなるとどうなんだろうな、と思ったりもする訳です。何でもその創業者さんは外食産業でサービスを学ばせてもらいたいから給与はいらないとまで仰ったんだとか。熱意やその姿勢には感服せざるを得ませんが、その姿勢を従業員に求めるのはやはりどうかと思うのです。
 が、結構そういう会社というか、組織というのが多いと言うのは事実ですし、元々日本と言う国はそういう国だったのだ、と言うのも悩んでしまう所です。


 さて、ちょっと長くなってしまったので今日はここまで。
 頭が廻ったらまた明日この件の続きを書いてみたいと思います。内容的には、そうですね。日本はなぜそうなったのか、辺り。いわゆるブラックではない企業というのはそういう意味ではおそらく1960〜1990年くらいの間のほんの一時期しか存在しなかったんじゃないか、というお話です。

『ブラック企業』とは。ここでの定義

 世間で言われているブラック企業の定義はさまざまあります。それは例えば窓際に追いやられた人が毎日嫌がらせを受けている……人員整理を行いたいのだけれども、会社側が経費をかけたくないために自主退職に追い込まんと社員が一丸となって圧力をかけているような会社から、日々セクハラが横行し、体育会系のノリで廻っている会社、過重労働の果てに社員が死んでもそれは会社のせいではないと言い続ける会社というものまでそれこそいろんなケースがあるかと思います。
 ただ、一般的に問題になっているのは、社員に過重労働を科し、その上残業手当などは支給せず、休みも取れず、睡眠時間は4時間もあったら御の字と言うような所なのかなぁ、と思います。本稿ではそういう辺りを検討したいと思います。